長野県から企画展情報です。
期 日 : 2022年4月2日(土)~6月26日(日)
会 場 : 長野県立美術館 長野市箱清水1-4-4(善光寺東隣)
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 水曜日
料 金 : 一般・大学生500円、高校生以下無料
善光寺御開帳に合わせ、高村光雲から始まった、東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会を開催します。
大正7年(1918)、信濃善光寺さんの仁王門が再建されました。明治24年(1891)の大火で焼失したものです。翌大正8年(1919)には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の手になる仁王像、さらに三面大黒天像、三宝荒神像が納められました。
開眼100周年ということで、平成31年(2019)から、東京藝術大学さんによる、像の本格調査が始まりました。その結果、それまで明らかにされていなかった事実がいろいろと判明していますし、文化財指定、仁王門の改修などもありました。
善光寺仁王像 初の本格調査。 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
信州善光寺仁王像関連。 第14回善光寺サミット。 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
「善光寺仁王門の改修工事」他。 信州善光寺仁王門工事見学会。
善光寺仁王門、国登録有形文化財に。
それらの成果を踏まえての企画展のようです。
会場の長野県立美術館さんは、善光寺さんのすぐ隣。併せて仁王門自体もご覧下さい。当方も時間を見つけて行ってきたいと思っております。
【折々のことば・光太郎】
九時頃豊周、細君、珊子さん三人来訪、山水閣の番頭さんがついてくる。昨夜山水閣に一泊、今朝車で山口校まで来りし由、
「豊周」は、光雲三男にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光太郎の実弟です。後に鋳金分野の人間国宝となりました。
その豊周の回想。
僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
この直前にはこんな記述も。
山の生活について、直接知っていることはあまりないが、あのプラスの面とマイナスの面はやはり考えなければいけない。洋行以外長く東京を離れたことのない兄が、七年間もあそこに住んだこと自体は、極めて特殊な体験である。水がいいとか、野菜が新しいとかは、田舎にゆけばみんなそうで、当たり前のことだけれど、なんといっても山の中にいるのだから、ものの考えが純粋になる。東京のように朝に晩に酔っぱらいが訪問することもないし、来るのは花巻、盛岡あたりの文学青年や、農家の人たちばかりだから、その点やっぱり良かったと思う。健康についてはマイナス。勿論彫刻が出来なかったことは特別大きなマイナスだが、その代り、兄の書はここで一進歩を遂げた。
丁度あの時十和田の像の話がもち上って、それで東京に帰れるようになったのは、僕には自然の摂理が、うまく兄を導いたような感じがするのだ。もしあの話が起らずに、もうすこしあそこにとどまっていたら、必ず動けなくなっていただろう。
東京にいた頃、「朝に晩に」「訪問」した「酔っぱらい」は、当会の祖・草野心平などでしょう(笑)。それはともかく、なかなか鋭い見方ですね。
善光寺御開帳に合わせ、高村光雲から始まった、東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会を開催します。
大正7年(1918)、信濃善光寺さんの仁王門が再建されました。明治24年(1891)の大火で焼失したものです。翌大正8年(1919)には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の手になる仁王像、さらに三面大黒天像、三宝荒神像が納められました。
開眼100周年ということで、平成31年(2019)から、東京藝術大学さんによる、像の本格調査が始まりました。その結果、それまで明らかにされていなかった事実がいろいろと判明していますし、文化財指定、仁王門の改修などもありました。
善光寺仁王像 初の本格調査。 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
信州善光寺仁王像関連。 第14回善光寺サミット。 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
「善光寺仁王門の改修工事」他。 信州善光寺仁王門工事見学会。
善光寺仁王門、国登録有形文化財に。
それらの成果を踏まえての企画展のようです。
会場の長野県立美術館さんは、善光寺さんのすぐ隣。併せて仁王門自体もご覧下さい。当方も時間を見つけて行ってきたいと思っております。
【折々のことば・光太郎】
九時頃豊周、細君、珊子さん三人来訪、山水閣の番頭さんがついてくる。昨夜山水閣に一泊、今朝車で山口校まで来りし由、
昭和27年(1952)7月31日の日記より 光太郎70歳
「豊周」は、光雲三男にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光太郎の実弟です。後に鋳金分野の人間国宝となりました。
その豊周の回想。
僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
この直前にはこんな記述も。
山の生活について、直接知っていることはあまりないが、あのプラスの面とマイナスの面はやはり考えなければいけない。洋行以外長く東京を離れたことのない兄が、七年間もあそこに住んだこと自体は、極めて特殊な体験である。水がいいとか、野菜が新しいとかは、田舎にゆけばみんなそうで、当たり前のことだけれど、なんといっても山の中にいるのだから、ものの考えが純粋になる。東京のように朝に晩に酔っぱらいが訪問することもないし、来るのは花巻、盛岡あたりの文学青年や、農家の人たちばかりだから、その点やっぱり良かったと思う。健康についてはマイナス。勿論彫刻が出来なかったことは特別大きなマイナスだが、その代り、兄の書はここで一進歩を遂げた。
丁度あの時十和田の像の話がもち上って、それで東京に帰れるようになったのは、僕には自然の摂理が、うまく兄を導いたような感じがするのだ。もしあの話が起らずに、もうすこしあそこにとどまっていたら、必ず動けなくなっていただろう。
東京にいた頃、「朝に晩に」「訪問」した「酔っぱらい」は、当会の祖・草野心平などでしょう(笑)。それはともかく、なかなか鋭い見方ですね。