新刊刊行物、2件ご紹介します。
まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。
湯をたぎらして
詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。
それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。
131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)
で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。
収まるべきところに収まって欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、
銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。
「菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。
「民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。
まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。
晩餐
暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの干(ひ)ものを五枚
沢庵を一本
生姜の赤漬
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの塩辛
湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐
ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴(やなり)震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
やがて飽満の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る
日常の瑣事にいのちあれ
生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ
われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五体を讃嘆せしめる
まづしいわれらの晩餐はこれだ
詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。
それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。
131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)
で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。
収まるべきところに収まって欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、
昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳
「菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。
「民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。