『毎日新聞』さん長野版。先日も触れた光太郎の親友・碌山荻原守衛とその支援者・相馬黒光について。光太郎にも触れてくださいました。

山は博物館 黒光が越えた保福寺峠 碌山との愛と苦悩の始まり

 パンや菓子の製造販売で知られる中村屋(東京都新宿区)を起こした女性、相馬黒光(こっこう)(本名・りょう、1876~1955年)は1897年3月、長野県東穂高村(現安曇野市)に嫁ぐため、東京方面から保福寺峠(1345メートル)を越えた。行く手に見えたのは壁のような北アルプス。後の苦難を暗示した。悩める黒光と言われる彫刻「女」(国指定重要文化財)を生んだ荻原碌山(ろくざん)(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)との出会いの入り口でもあった。
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 仙台生まれの黒光は、先進的な教育に取り組んでいた東京の明治女学校を卒業すると、縁談があった養蚕家・愛蔵と結婚。その村に碌山がいた。黒光が持ってきた長尾杢太郎の「亀戸風景」で油絵に目覚めた。木が立ち並ぶ川べりに牛1頭が立つ美しい絵だ。
 黒光の随筆などによると、「相馬家には湧き水があって、私が野菜洗いや洗濯に出てゆくので、碌山は心惹(ひ)かれたのか、よくきてスケッチをしていた」と振り返った。碌山は1899年5月の日記に「良子の君と対談数刻(アア、才智ある婦女子の会話は実に嬉(うれ)しき)」と親近感を表している。画家修業のため99年10月東京へ。1901年3月に渡米した。
 一方、利発な黒光は田舎暮らしを「長話にふける村の人にお茶を出したり、この沈滞、人間の自滅に至るみち」と思った。「田園生活の実世相は私を幻滅に導きました。農民が素朴と見えるのは外形にのみ眼(め)を止めるからで、生活が質素というよりみじめで、野生の姿。不倫も、草の伸びる如(ごと)く野獣の生ける如く存在し、心を暗くしました」。やがて体を壊し、夫婦で01年9月、東京に移り住んだ。本郷のパン屋「中村屋」を買い上げ、そのままの名前で開業した。
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 碌山の大きな転機は04年5月に訪れた。パリでオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」を見て、モデルをかたどるだけではない精神性に圧倒された。彫刻に転じ、07年にロダンの教えも受けた。安曇野市にある碌山美術館の学芸員、武井敏さん(48)は「碌山の作品は07年後半から劇的に変わる。モチーフの内面からにじみ出るものを感じられるようになった」と話す。
  碌山は08年3月、7年ぶりに帰国。中村屋の新宿支店近くにアトリエを構え、制作に励んだ。芸術仲間の高村光太郎は、伝習に縛られた日本の彫刻界で「(西洋の)彫刻界の大勢やロダンの意義を説き、愚蒙(ぐもう)状態に光明を放射した。現代日本の彫刻は荻原守衛からはじまった」と評価した。
 このころ黒光は「自分の悩みをじっと押さえ、悶々(もんもん)の裡(うち)にありました」。武井さんによると、夫の不倫が原因が原因で、黒光は「碌山は私に同情するようになり、性が違う者同士ですから生じた愛情に互いに苦しむようになりました。手をたずさえて走ることは訳はない。しかし家庭は事情があり、どうやらこうやら壊さないで、主人をも許してきた」と明かしている。
 武井さんは「黒光はその間、愛蔵の子供(四男と三女)を宿した。碌山は戸惑い、嫉妬したのではないか」と話す。碌山は光太郎ら友人への手紙で「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「見(み)っともない敗(まけ)をとっている。無為の人間となるかも知れぬ」「僕は惨めだ。僕は失ってしまった。―いやまだ失っていないが―」と書き送った。
 苦しみの中、09年に女性の絶望を表した「デスペア」を制作。10年3月には絶作となる「女」が完成した。黒光の子供は顔を見て「かあさんだ」と叫んだ。別のモデルがいるが、誰もが紛れもなく黒光と感じた。
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 翌月、30歳の碌山は中村屋で雑談中に血をはいた。黒光は「やがて大喀血(かっけつ)した(2日後の)同時刻が来ると、碌山は軽く噎(む)せた。また、大量の喀血があった。数分の後には呼吸が止まった」と記す。1カ月近く前、次男を亡くしたばかりで「再度の打撃は私を狂死させるばかり。信州へ行く碌山の柩(ひつぎ)にすがって狂態を演じ、(自室で)泣きつづけました」。
 アトリエには「女」が残った。「生々しい土のまま、女性の悩みを象徴しておりました。高い所に面を向けて繋縛(けいばく)から脱しようともがくような表情。肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、私自身だと直覚されるものがありました」

 「重畳として連なる山」
 1902年に東京から鉄道がつながるまで、安曇野やその南の松本に入るには、長野県の上田駅で降り、西側に連なる標高1500メートル前後の山のどこかの峠を、徒歩や馬で越えた。その一つが保福寺峠。さらに西の北アルプスの眺望が良く、社会活動家の木下尚江は1886年に松本から初めて東京に出た時を「保福寺峠に立ちて故(ふる)さとの山の偉大をはじめて見たり」と振り返った。
 近代登山初期の日本に足跡を残したイギリス人、ウォルター・ウェストンも91年に通り、「雪しまの山稜(さんりょう)や崇高な峰々が、落日に映えた空を背景に、輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルン槍ケ岳や優美な常念岳、どっしりした乗鞍岳が特徴ある横顔を示している」と描写した。峠にはウェストンの「日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。
 97年に越えた相馬黒光の感慨は逆で「人生行路難を暗示する如く、重畳として連なる高山大嶽(たいがく)ばかり。行く手を遮るように身構え、身がすくむようでした」と回顧した。山で隔絶された安曇野の暮らしは「ただ平穏無事、とり巻くのは退屈。太陽が昇る。保福寺峠が東にある。峠を越えて出ることはないのか、毎朝思う」と嘆いた。
 1964年に周辺4町村による林道が完成。67年に県道になり、現在は舗装した車道が走っている。
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いつも思うのですが、守衛と黒光、我らが光太郎智恵子とはまた違った、しかしある部分では共通する哀しい愛の物語を紡いだんだな、と感じます。

【折々のことば・光太郎】

酸か湯より車にて青森県庁ににて知事にあふ、 中食、 後浅虫温泉行、東奥館、 夕方又青森、坂井家にて晩餐招待、あいさつす。民謡をきく、 後浅虫まで、

昭和27年(1952)6月20日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見を終え、青森市へ。仕掛け人の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)と面会しました。

「浅虫温泉」については、こちら

下記は光太郎が泊まった「東奥館」の、当方手持ち古絵葉書。残念ながら建物は現存しません。
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