3.11当日となりました。11年前と同じような、穏やかな朝です。あの日の朝も、また穏やかな一日が過ぎていくものだと信じて疑わなかったのですが……。
東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、とりあえず最後です。
昨日までと少し違った切り口で、3月6日(日)の『朝日新聞』さん。
涙がほおをつたった。
その数週間後、生徒たちの俳句が廊下に張り出された。
「逢(あ)いたくて でも会えなくて 逢いたくて」
「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
自分は震災を簡単に語ってはいけない、と思った。
16年8月、数台のテレビカメラに囲まれ、次々と質問される。「今はどんな思いですか?」「震災当時を振り返ってどうですか?」
高校3年になった阿部さんが答えた。「将来の災害に備え、命を救えるようになってほしいです」
中学2年から同級生たちと女川町に「いのちの石碑」を21基つくる活動を始めた。つらい経験をした友人も活動に参加しているのに、頑張らないわけにはいかないから。碑には「この石碑よりも上に逃げて下さい」と刻んだ。
阿部さんは何度も取材に応じた。でも、事前に考えた内容にとどめ、自分の思いは口にしない。
笑顔で話すのは失礼だと思い、眉間に力が入る。家族も家も無事だった自分が「被災者ぶっている」。そんな思いが心に居座り、苦しかった。
高校を卒業して、教育に携わる仕事に就いた。子どもたちに震災のことを話したいと思っていたが、踏み出せないままだった。
昨年11月、最後の21基目の碑が完成した。集まった報道陣に中学の同級生たちがそれぞれの思いを語ったが、阿部さんはそこでも発言を控えた。
自分以外の7人は津波で自宅や家族を失っている。「私の話はやっぱり薄っぺらいから」
ただ、震災直後と違うこともある。活動をともにしてきた友人たちがいる。
その一人が鈴木智博さん(22)。震災で母や祖父母を亡くしている。数年前の3月11日に集まったとき、彼は「今日は法事で来るのがけっこう大変だったよ」とさりげなく言った。
「ごめんね、気がつかなかった」。集まる日を決めた阿部さんは謝った。でも同時に、ずっと家族の話題を避けていた彼が「大変」と正直に伝えてくれたことが、うれしくもあった。
震災体験は人によって違う。失っていない私は、悲しみを本当のところでは分からないし、震災を語れない。そんな気持はまだ消えない。それでも、お互いを受け入れあえる友人がいることに支えられている。
コロナ禍が終息したら、そろった石碑の前で友人たちと語り部活動を始める。
「私は自宅も家族も無事でした」。女川を訪れてくれた人に語れる日が来るのかな、と思う。
読んで切なくなりました。「あなたが負い目を感じる必要はないんだよ」と云いたくもなりました。「震災で家族を亡くした友人がいる」というだけで、辛いことです。女川町の友人を亡くしている当方としては、そう思います。
続いて、『産経新聞』さんのニュースサイト。紙面に載ったかどうか、不明ですが。
11年が経ち、この手の報道は激減するのでは、と心配していたのですが、杞憂でした。マスコミの皆さんの「この手の報道を激減させてはいけない」という気概を感じます。ありがたし。
【折々のことば・光太郎】
古間木駅下車、副知事等出迎、車にて蔦温泉まで、三本木を通る、 大町桂月墓に詣づ、 (蔦温泉泊)〈(浴)〉
生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。もっとも、この時点ではまだ青森県からの依頼を受けるか否か、決めかねていましたが。「古間木駅」は、現在の三沢駅です。
もともとこのモニュメントが、十和田湖の国立公園指定15周年、さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月ら、功労者の顕彰碑というコンセプトだったため、桂月が移り住んだ蔦温泉に立ち寄りました。
東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、とりあえず最後です。
昨日までと少し違った切り口で、3月6日(日)の『朝日新聞』さん。
紺色の制服を着ているのは、私とあと数人しかいなかった。
2011年4月。宮城県女川(おながわ)町にある女川第一中学(現女川中)の入学式。1カ月前の地震で体育館は壊れ、紅白の幕を張った図書室に約60人の新入生が集っていた。
ほとんどはパーカやセーターなどの私服姿だ。着るはずだった制服は、家ごと津波で流された。部屋からあふれた上級生は、廊下で校歌を歌った。
新入生だった阿部由季さん(23)は、自分が制服を着てきたことを悔やんだ。「なんで気づけなかったんだ。私だけ家があることを自慢してるみたい」
東日本大震災で女川町は9割の住宅が全壊などの被害に遭い、800人以上が犠牲になった。
5月の大型連休明け。窓を閉めても腐った魚のようながれきの臭いが漂う。放課後、学年主任の教諭に尋ねられた。「震災の前後で家族の人数に変化はありますか」。町役場は流され、住民に関する書類も失われた。学校が家庭の被災状況をつかむ調査だった。
「先生、すみません」
声が少し震えた。
「家族は全員無事でした。家も被害がない。みんなに申し訳ないです」涙がほおをつたった。
その数週間後、生徒たちの俳句が廊下に張り出された。
「逢(あ)いたくて でも会えなくて 逢いたくて」
「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
自分は震災を簡単に語ってはいけない、と思った。
16年8月、数台のテレビカメラに囲まれ、次々と質問される。「今はどんな思いですか?」「震災当時を振り返ってどうですか?」
高校3年になった阿部さんが答えた。「将来の災害に備え、命を救えるようになってほしいです」
中学2年から同級生たちと女川町に「いのちの石碑」を21基つくる活動を始めた。つらい経験をした友人も活動に参加しているのに、頑張らないわけにはいかないから。碑には「この石碑よりも上に逃げて下さい」と刻んだ。
阿部さんは何度も取材に応じた。でも、事前に考えた内容にとどめ、自分の思いは口にしない。
笑顔で話すのは失礼だと思い、眉間に力が入る。家族も家も無事だった自分が「被災者ぶっている」。そんな思いが心に居座り、苦しかった。
高校を卒業して、教育に携わる仕事に就いた。子どもたちに震災のことを話したいと思っていたが、踏み出せないままだった。
昨年11月、最後の21基目の碑が完成した。集まった報道陣に中学の同級生たちがそれぞれの思いを語ったが、阿部さんはそこでも発言を控えた。
自分以外の7人は津波で自宅や家族を失っている。「私の話はやっぱり薄っぺらいから」
ただ、震災直後と違うこともある。活動をともにしてきた友人たちがいる。
その一人が鈴木智博さん(22)。震災で母や祖父母を亡くしている。数年前の3月11日に集まったとき、彼は「今日は法事で来るのがけっこう大変だったよ」とさりげなく言った。
「ごめんね、気がつかなかった」。集まる日を決めた阿部さんは謝った。でも同時に、ずっと家族の話題を避けていた彼が「大変」と正直に伝えてくれたことが、うれしくもあった。
震災体験は人によって違う。失っていない私は、悲しみを本当のところでは分からないし、震災を語れない。そんな気持はまだ消えない。それでも、お互いを受け入れあえる友人がいることに支えられている。
コロナ禍が終息したら、そろった石碑の前で友人たちと語り部活動を始める。
「私は自宅も家族も無事でした」。女川を訪れてくれた人に語れる日が来るのかな、と思う。
読んで切なくなりました。「あなたが負い目を感じる必要はないんだよ」と云いたくもなりました。「震災で家族を亡くした友人がいる」というだけで、辛いことです。女川町の友人を亡くしている当方としては、そう思います。
続いて、『産経新聞』さんのニュースサイト。紙面に載ったかどうか、不明ですが。
震災11年 陛下見守られる「記憶の襷」 女川中卒業生が描く夢
「バトンズ・オブ・メモリー(記憶の襷(たすき))」。天皇陛下が昨年、国際会合で紹介された東日本大震災の津波碑が、宮城県女川町にある。千年に1度といわれた災害で死者・行方不明者が800人を超えた同町で、悲劇を繰り返さないため、震災当時の子供たちが夢見た「1000年後の命を守る」21基の石碑。昨年11月には最後の1基が完成したが、成年となった子供たちは新たな夢を描き始めている。
「石碑は、過去の災害を知るうえで役立つだけではなく、未来の人々の命を守るため、災害の記憶と教訓を未来へと繋いでいく『記憶の襷』でもあるのです」。昨年6月、各国首脳ら約500人が参加してオンラインで開催された「国連水と災害に関する特別会合」。陛下は1枚のスライドを示しながら、英語でこう、語りかけられた。
スライドに映されたのは、震災直後の平成23年4月に女川第一中(現・女川中)に入学した生徒ら。社会科の授業で津波対策案を立て、町内にある21の全ての浜に避難の目印となる石碑を建てようと、募金活動を実施。半年間で1千万円を集め、25年11月に1基目を建立した。現在も卒業生ら十数人が石碑建立や教科書作り、体験の伝承などの活動を続けている。
陛下はライフワークとして過去の災害の記録や石碑を研究しており、女川の石碑についても熱心に資料を集められていたという。ご研究を支える広木謙三・政策研究大学院大教授(62)は「『記憶の襷』というお言葉のとおり、過去に学び未来に生かすということは、陛下が大切にされてきたメッセージ。特に、若い世代の人たちがそうした活動に継続的に取り組んでいることに、関心を持たれたのではないか」と話す。
「21基目が、できたんですね」。広木教授は昨年11月、陛下からこう、言葉をかけられたという。
「自分たちの活動が、陛下のところにまで届いていたんだなあって。でも、まだ、これからなんです」
10年以上活動を続けてきた女川第一中の卒業生の一人、伊藤唯(ゆい)さん(23)=横浜市=は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。最近、その「準備」として始めたことがある。
《3月11日…教室で卒業式の準備をしていた時に地震が起きて、机の下に潜った…真っ黒な津波を見て言葉を失う…みんなで歌を歌って気持ちを紛らわした》
《4月12日…私服での入学式…「愛するふるさとが、大震災で大変なことになった。社会科として何ができるか。小学校で学んだことを生かして考えてみよう」…最初の授業の先生の言葉》
スマートフォンのメモアプリに、びっしりと書き込んだ震災以降の記録。「自分の体験を、きちんと伝えられるように」と2月から書き始めた。でも、「一気には書けない」。
毎年3月が近づくと、体調を崩す。当時の光景がフラッシュバックする。眠れない。昨年10月、東京などで最大震度5強を観測した地震でも大きな衝撃を受けた。それでも、「自分の言葉で伝えていけたら、伝わり方も変わるんじゃないか」とメモに向かう。震災と向き合う「怖さ」が「なくなってしまうことのほうが怖い」。活動を通じて、そう思うようになった。
最後の石碑が完成した昨年、集まった同級生らは、「ここがスタートライン」と口をそろえた。活動について話し合う年末恒例の「合宿」にも、多くのメンバーが参加。「石碑を世界文化遺産に」「新しい教科書を作りたい」…。新たな夢、やるべきことが「山のように」出てきた。
「石碑を設置して終わりじゃない。千年先に、あの石碑を使って一人でも多くの命を救えていたら、その瞬間に、自分たちの夢が本当にかなう」。1基目の石碑が建ったあの日のように、皆で描いた夢は必ず実現できると、信じている。
11年が経ち、この手の報道は激減するのでは、と心配していたのですが、杞憂でした。マスコミの皆さんの「この手の報道を激減させてはいけない」という気概を感じます。ありがたし。
【折々のことば・光太郎】
古間木駅下車、副知事等出迎、車にて蔦温泉まで、三本木を通る、 大町桂月墓に詣づ、 (蔦温泉泊)〈(浴)〉
昭和27年(1952)6月16日の日記より 光太郎70歳
生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。もっとも、この時点ではまだ青森県からの依頼を受けるか否か、決めかねていましたが。「古間木駅」は、現在の三沢駅です。
もともとこのモニュメントが、十和田湖の国立公園指定15周年、さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月ら、功労者の顕彰碑というコンセプトだったため、桂月が移り住んだ蔦温泉に立ち寄りました。