昨日に続き、東日本大震災で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連です。

『毎日新聞』さん。3月6日(日)の一面トップでした。かつて数年間、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさった鈴木智博さんに迫ります。

宮城・女川、津波到達点の石碑 1000年後の命を守る

013 波は穏やかに打ち寄せていた。東日本大震災から10年以上が過ぎた宮城県女川町。多くの漁船が行き交い、カキなどの養殖が行われている女川湾を見下ろす高台に2021年11月21日、1基の石碑が完成した。碑にはこう刻まれている。「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」。碑の周りには20代の若者たちの姿があった。
 震災の教訓として、町内の沿岸部21カ所の「浜」と呼ばれる集落の津波到達点に石碑を建てる――。こう計画したのは、震災直後に中学生になった鈴木智博さん(22)をはじめとする仲間たち。11月に完成した碑が目標とした21基目。「1000年後の命を守る」。この誓いを、ともに被災した同級生たちと次世代に受け継ごうとしている。
 小学校の卒業を間近に控えた「あの日」の朝も、いつもと同じように母の智子さん(当時38歳)に見送られた。「行ってらっしゃい」という母の声は今も耳に残っている。
 小学3年だった妹と一緒にバス停まで走った。生まれ育った尾浦地区の当時の人口は約200人。ほとんどの家が漁を営んでいた。
 教室で卒業式の準備をしていた午後2時46分。突然「ドン」と突き上げるような揺れに襲われた。机の下に隠れたが、激しく動く机を押さえることができなかった。避難した校庭の地面はひび割れ、しばらくすると雪が降り始めた。体がぬれないよう、頭上に大きなブルーシートをかぶせられ、その下で膝を抱えて寒さをこらえていた。
 「津波が来たぞ!」。約50分後、大人の叫び声が校庭に響いた。より高台にある総合体育館に向かって走った。背後から地鳴りのような音に加え、流された建物がぶつかり合うごう音が聞こえ、同級生らの悲鳴と混じり合った。
 たどり着いた体育館で、毛布を体に巻いて過ごした。友人たちには次々と家族が訪れたが、自分の家族は姿を見せなかった。体育館の中はいつしか、家族単位と見られる固まりが増えてきた。「尾浦の方は家が残っているらしい」。そんな大人たちの会話が聞こえたが、不安は消えなかった。 父の高利さん(55)が体育館に現れたのは、震災から数日後だった。異臭が漂うがれきの中を歩き、尾浦地区の寺に身を寄せた。そこで、高利さんから、智子さんと祖父母の3人が「どこにもいないんだ」と知らされた。「どこかに逃げていてほしい」心の中で何度も祈ったが現実は非情で、3人は遺体で見つかった。
 古里の被害は甚大だった。住民約1万人の8%以上が津波の犠牲となり、6511棟あった建物の約65%が地震で全壊するか、津波で流された。自宅を失った鈴木さんは親類のいる仙台市に避難。さらに奈良県の親類宅に移った。女川町に戻るのは、再び雪がちらつき始める約9カ月後のことになる。

◇中学生が建立を計画
鈴木さんが進学するはずだった町立女川中学校(当時は女川第一中学校)は4月12日に再開し、入学式を行った。校舎は女川湾を望む高台にあり、被害を免れた。生徒の半数以上は各地の避難所から臨時のスクールバスで通った。
 未曽有の災害で教師たちも混乱を極めた。1年生の学年主任になった阿部一彦さん(55)も悲惨な出来事を経験した生徒とどう向き合うか悩んでいた。入学式から2日後にあった最初の授業は鮮明に覚えている。教室の窓は全てカーテンが閉められていた。壊滅的な被害を受けた町を見ないようにするためだった。 授業の冒頭に「今の女川にできることを考えてみよう」と切り出したが、生徒の反応は薄かった。「被災した町の様子も見せずに、どうやって古里のことを考えさせられるんだ」。思い切ってカーテンを開けた。3階の窓からは、がれきが広がる町の中心部と、遺体を捜す大人たちの姿が見えた。すると生徒たちも一斉に立ち上がり、窓から変わり果てた古里を見下ろした。
 「見せてはいけなかったかもしれない」。阿部さんは再びカーテンを閉めてから後悔したが、生徒たちは机に向かい「女川にできること」を書き始めていた。「漁業を復興しよう」「観光の町だけど、今は観光どころじゃない」……。10代の子どもたちなりに考えた未来への思いが並んだ。「前を向こうとする生徒のために、私も何かやらなければいけない」。阿部さんは生徒たちと、次のいけない」。阿部さんは生徒たちと、次の津波対策を考えていこうと決めた。
 授業の一環として生徒たちは町を歩き、津波の到達点を確認していった。震災から8カ月が経過した11年11月。津波の到達点に石碑を建設して避難路を整備することなど、三つの「対策案」をまとめた。
 1カ月後、鈴木さんが避難先から女川町に戻ってきた。久しぶりに会った同級生たちが石碑の建設を計画していると知って驚き、同時に否定的な考えが頭を占めた。「そんなこと、中学生にできるわけがない」
 だが、鈴木さんたちは、時に涙して被災体験を友人らと語り合い「いのちの石碑」を建てる活動に踏み出していく。
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さらに3面に続き。

宮城・女川、津波到達点の石碑 10年かけて21基完成 次世代に活動語り継ぐ

011 巨大津波が襲った宮城県女川町で育った鈴木智博さん(22)には三つの古里の姿が目に浮かぶ。一つ目は、もう正確には思い出すことができない震災前の町。二つ目は、鮮明に脳裏に焼き付いている津波が押し流した町。そして復興計画が進み、生まれ変わった今の町――。
 鈴木さんは2011年12月、避難先の奈良県から女川町に戻ってきた。更地が広がっているだけだった。
 中学校での友人たちは自然に受け入れてくれた。「プリントが配られる度に、お前の机の中に入れるの大変だったんだぞ」。自分の存在を忘れずにいてくれた同級生の言葉がうれしかった。仮設住宅での暮らしだったが、同級生は誰もが同じような境遇。「避難先では、被災していない地域とのギャップを感じていました。でも、女川に帰ってきて、普通の中学生に戻れたような気がしました」
 それでも同級生が取り組んでいた津波対策を考える授業には積極的に関わる気になれなかった。母と祖父母の3人を奪った津波のことを思い出したくはなかったし「対策を作っても無駄だ」とも感じていたからだ。震災をテーマにした作文には自分の体験や家族については何も書かなかった。

◇被災経験作文に
転機は2年生の12年7月、仙台市などで開かれた「世界防災閣僚会議」に参加したことだ。開会式では、親族を亡くした同級生が代表して演台に立ち、家族を失う悲しさや防災の大切さを訴えた。 会議から約10日後の放課後。鈴木さんは、学年主任だった阿部一彦さん(55)の前で切り出した。「先生、俺も書いてみます」。どうして嫌がっていた作文を書こうと決めたのか、はっきりとは思い出せない。経験を人に伝えたいと思う一方で、被災の記憶が曖昧になっていくことにモヤモヤした気持ちを抱えていた。「文章にしたらすっきりするかな」。そう考えたのかもしれない。
 作文は全校集会で披露することになり、一晩で書き上げた。震災があった日の朝のこと、県外へ避難したこと、家族への思い……。気持ちが整理されたわけではなかったが「自分の中で一つの区切りにはなったかも」。全校集会の後、生徒たちは津波対策案の実現に向けて実行委員会を作ることを決めた。同級生の中で唯一親を亡くしながら、被災と向き合おうとした鈴木さんを友人が委員長に推薦した。鈴木さんは「お飾りみたいなものだろうと思っていたんですよ」と、重責を引き受けた当時を振り返り、笑みを浮かべる。
 中学生が始めた小さな活動は、徐々に町を巻き込んで本格化していった。女川町は沿岸部に漁業を営む「浜」と呼ばれる集落が点在し、いずれも津波の被害を受けた。避難を促す石碑は、津波が襲った21カ所の浜の全てに建てるべきだ。そう考えた鈴木さんたちは、12年11月に町長や町議会にも石碑建立を提案した。 ただ、鈴木さんは口にしなかったが「大人は自分たちに授業として津波対策を考えさせたいだけだ。結局、石碑なんて建たないんだろう」と冷めていた。建設資金が1000万円と聞いた時は気が遠くなった。
 それでも費用を募金で集めることを決め、13年2月、町内の仮設商店街や旅館、水産会社に頼んで募金箱を置かせてもらった。3年生の時に修学旅行で訪ねた東京では、企業や大学を訪ね、協力を呼び掛けた。
 後ろ向きな気持ちが少しずつ変わっていった。津波対策を訴えると、子どもの話だと聞き流さずに真剣に耳を傾けてくれる大人たちがいた。全国から寄付も相次ぎ、わずか半年で1000万円が集まった。「本当に石碑を建てられるかもしれない」。計画は現実味を帯びてきた。
 石碑に刻む言葉は「自分たちと同じ思いをする人が二度と出ないように」と生徒が知恵を出し合って考えた。石碑の形は町内にある鎌倉時代の供養塔を参考に、上部の右側が高くなるデザインにした。津波で命を奪われた大切な人たちへの追悼の思いも込めたいと、鈴木さんが提案した。
 最初の石碑は同年11月23日、女川中学校の敷地内に完成した。鈴木さんが「無理だ」と否定してから約2年。「自分たちの活動が形になった」。達成感がこみ上げた。ただ、町の復興は始まったばかりで、高台造成が終わらずに石碑が建てられない集落も多かった。「成人式までに全ての石碑を建てよう」。それがみんなの次の目標になった。
 生徒たちは、津波で壊れた建物を震災遺構として後世に残すことも町に提案した。実は、鈴木さんは「津波を思い出すから見たくない。残したところで本当に震災のことが伝わるのか」と反対していた。だが戦争の悲惨さを広島から世界に発信する原爆ドームを思い、意見をのみ込んだ。生徒たちは13年10月に須田善明町長と面会。町は程なく、津波で横倒しになった旧女川交番を保存する方針を決めた。須田町長は「子どもたちの思いを確認した上での決断だった」と明かす。

◇見守った保護者
 これらの活動は、当初から賛同者ばかりだったわけではない。「悲しい思い出を直視させていいのか」「(親が)止めなければだめじゃないか」。そうした声が渦巻く中、活動を見守る「支える会」の代表になった保護者の一人、山下由希子さん(53)は「子どもたちを信じましょう」と周囲の説得を続けた。山下さんは津波で友人を亡くし、自宅を流された。生活を立て直すことに精いっぱいだった時、未来を語る息子たちの姿に励まされた。石碑を建てられる場所も探し、地権者らと交渉した。子どもたちにはばれない ように、こっそりと。
 鈴木さんたちが14年に中学を卒業すると活動は休日が中心となった。集まれる機会が減っても活動を続けたのは、そこが同じ境遇の仲間たちがいつも同じように出迎えてくれる「居場所」だったからだ。
 その年の5月、鈴木さんの古里、尾浦地区に石碑が完成した。この頃から、鈴木さんは各地で中学生らに向けた講演を頼まれることが増えた。震災を知らない子どもたちは真剣なまなざしで被災体験に聴き入ってくれた。大学生になると、石碑や震災遺構を案内する町の語り部ガイドも引き受けるように。19年には町の追悼式で遺族代表としてマイクの前に立った。人見知りな性格を自覚している。「昔の自分からしたら信じられない。でも石碑を建てる活動があったから、震災と向き合うことができた」
 21基目の石碑は、21年11月21日に完成した。場所は、新しく建てられた女川小・中学校の前。除幕式が開かれた高台からは復興した女川の町と、太陽の光を反射する女川湾がよく見えた。
 その3日前、鈴木さんは自分たちが学んだ旧校舎の敷地内に建てた1基目の石碑の前で、修学旅行で訪れた中学生約100人に体験を語っていた。今だからこそ必ず口にする言葉がある。「中学生や高校生までは誰かに守ってもらう立場だったと思います。でも、皆さんが大人になったら、自分が誰かを守らなければいけない立場になる。その時に、震災のことを思い出してほしい。今ここで聞いた話を伝えてほしい」
 中学生の頃は被災体験を隠すものだと思っていた。「どんなに頑張っても、石碑が建っても、震災を『良かったこと』にすることはできない。震災のマイナスは大きすぎる」と考えていたからだ。でも活動を支えてくれた多くの出会いを経て「この経験を少しでもプラスの方向に変えていきたい」と思えるようになった。
 この春、社会人になる。震災前の女川の姿は薄れてきたが、1000年後の命を守る。「次の目標は私たちが活動した意味を下の世代に語り継いでいくこと。残りはまだ990年もあるんです」

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11年が経とうとし、記憶の風化が懸念されていますが、その中でこれだけ長い記事を、一面トップ、さらに三面と2ページにわたり掲載して下さった『毎日新聞』さんの英断に、敬意を表します。

明日は同じく「いのちの石碑」関連、違った切り口での報道を。

【折々のことば・光太郎】

花巻カジ町シバタにてレインコオトを求む、やぶにて中食ビール、 花巻温泉に行き、マドロスパイプ、モモヤマ等、 鎌田女史にあふ、一緒に花巻駅七時の電車で(志戸平温泉泊)


昭和27年(1952)6月15日の日記より 光太郎70歳

翌日、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖方面に向かいます。「やぶ」は宮沢賢治もよく通った「やぶ屋」さん。「モモヤマ」は「桃山」、現在も販売されている刻み煙草の銘柄です。花巻温泉や大沢温泉に泊まることが多かった光太郎ですが、この日は大沢温泉の近く、志戸平温泉に宿泊しました。翌日からの長旅に向けて、英気を養おうとしたのでしょう。

十和田湖で撮られた写真には、この日購入したレインコートと思われるものを着た光太郎が写っています。
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