光太郎の盟友・碌山荻原守衛の故郷である信州安曇野の碌山美術館さんがらみで2件。
まず、3月1日(火)『朝日新聞』さんの夕刊。何かとお世話になっている、同館学芸員の武井敏氏の寄稿です。
まず、3月1日(火)『朝日新聞』さんの夕刊。何かとお世話になっている、同館学芸員の武井敏氏の寄稿です。
長野県・安曇野の農家に生まれた荻原守衛(碌山、1879~1910)は画家を目指し上京、さらに渡米して絵画を学びますが、パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」に接し、彫刻に転じました。1958年に県内の小中学生らを含め広く寄付を集めて開館した当館は、現存する彫刻全15点を見られる唯一の場所です。
重要文化財に指定された代表作「女」は、30歳で急死した荻原の絶作でもあります。ひざまずいて体をひねり、手を後ろで組んだ特徴あるポーズ。静かなたたずまいの中に上へ向かう方向性、らせん状に回転する動きを感じます。
この像は同郷の先輩で中村屋創業者の相馬愛蔵の妻・黒光(1875~1955)と似ているといわれます。荻原は進取の気性に富んだ黒光にひそかに思いを寄せていました。成功者の一面もある黒光ですが前半生は自身や親族の度重なる病気などを経験、結婚後は夫の不貞にも苦しみました。
こうした苦しみと折り合いをつけながらも前へ前へと生きていく黒光をモデルにしたということもできるし、自身の精神の自画像とも、人間の普遍的なあり方を表しているともいえる。どれも正解のような懐の深さが傑作といわれるゆえんでしょう。
「坑夫」は、パリで彫刻を学び始めた荻原が憧れのロダンのアトリエを訪問し、直接話をする機会に恵まれた頃に作られました。ロダンから吸収した、粘土を伸ばして付けていく方法が見てとれます。
荻原はロダンが人間の内面や思いを形として表現した点に感銘を受けたようです。その作品を見ながら研鑽を積み、たどり着いた一つの一里塚といえます。
《碌山美術館》 長野県安曇野市穂高5095の1(問い合わせ先0263・82・2094)。(前)9時~(後)5時10分(入館は30分前まで)。700円。(祝)を除く(月)、(祝)翌日休み。5~10月は無休。
紹介されている2点の作品は、ともに光太郎がその保存に大きな役割を果たしました。「坑夫」はロンドン滞在時の光太郎がパリにいた守衛のもとを訪れた折、「これはいい作品なので、石膏にして日本に持ち帰るように」と勧めました。「女」も、守衛が歿した際に光太郎が保存することを強く進言したそうです。
ところで、毎年、4月2日が光太郎忌日・連翹忌。そして守衛忌日の碌山忌は、もう一つ2を加えて4月22日。コロナ禍前は、日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いに武井氏など同館の方にいらしていただき、20日後の碌山忌には当方が同館にお邪魔するというルーティーンでした。一昨年、昨年に続き、今年も連翹忌の集いは中止とさせていただくことにいたしましたが、碌山忌の方はどうなるのでしょうか。こちらも一昨年、昨年と、懇親会的な部分は中止となっていました。もう少ししたら問い合わせてみようと思っております。
ついでというと何ですが、もうお一方いらっしゃる同館学芸員の浜田卓二氏関連で、『中日新聞』さんから。
やはり当方、浜田氏にもいろいろお世話になっております。一度、偶然にも新宿の中村屋サロン美術館さんでばったりお会いして、びっくりしたこともありました(笑)。
コロナ禍の中、皆さん、それぞれの場所で頑張っていらっしゃるんだな、と思いましたが、ソーシャルディスタンスだ、マスク着用だと、そんなことを気にせずに、皆さんと集まれる日が早く来ることを、切に望みます。
【折々のことば・光太郎】
朝九時頃奥平英雄氏来訪、午后五時頃まで談話、羊かん、ヰスキー、鮭かんをもらふ、半切の表装したものを持参、見せらる、セミのうた。
奥平英雄は美術史家。戦前から光太郎と交流があり、この当時は上野の国立博物館に勤務していました。この後、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から帰京したのち、足繁く中野の貸しアトリエを訪れるようになります。その流れで、光太郎生前最後の選詩集・岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集を任されました。
「セミのうた」は、おそらく「奥平英雄コレクション」の一つとして、駒場の日本近代文学館さんに収められている書と思われます。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。
昭和24年(1949)に揮毫されたもので、この年の日記はほとんど喪われており、書かれた経緯は不明です。
とひたつときわかてをかきてゆきし蝉のはねのちからのわすられなくに
「とひたつ」は「飛び立つ」、「わかて」は「我が手」。短歌自体は大正13年(1924)の作です。
紹介されている2点の作品は、ともに光太郎がその保存に大きな役割を果たしました。「坑夫」はロンドン滞在時の光太郎がパリにいた守衛のもとを訪れた折、「これはいい作品なので、石膏にして日本に持ち帰るように」と勧めました。「女」も、守衛が歿した際に光太郎が保存することを強く進言したそうです。
ところで、毎年、4月2日が光太郎忌日・連翹忌。そして守衛忌日の碌山忌は、もう一つ2を加えて4月22日。コロナ禍前は、日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いに武井氏など同館の方にいらしていただき、20日後の碌山忌には当方が同館にお邪魔するというルーティーンでした。一昨年、昨年に続き、今年も連翹忌の集いは中止とさせていただくことにいたしましたが、碌山忌の方はどうなるのでしょうか。こちらも一昨年、昨年と、懇親会的な部分は中止となっていました。もう少ししたら問い合わせてみようと思っております。
ついでというと何ですが、もうお一方いらっしゃる同館学芸員の浜田卓二氏関連で、『中日新聞』さんから。
安曇野市の碌山美術館の学芸員で彫刻家の浜田卓二さん(37)の作品展「土とのかたち―○△□」が二日、市穂高交流学習センターみらいで始まった。二十日まで。
浜田さんは京都府出身で金沢美術工芸大(金沢市)の大学院修了。穏やかな雰囲気や芸術文化にひかれ、二十代前半で安曇野に移住した。市内に自宅兼アトリエを構え、土を焼いて制作する「陶彫刻」の作品を手掛けている。
会場には直方体や球体など、色や形、大きさがさまざまな百点を展示。制作時に生じる作品表面のひび割れやふくらみをそのまま生かした。浜田さんは「土と対話しながら作りたいと思っている。こんな作家もいるんだ、と思って気軽に訪れて」と話していた。
作品展は安曇野市教委が二〇一九年度から主催する芸術企画「交わるアート」の一環。入場無料。月曜休館。
やはり当方、浜田氏にもいろいろお世話になっております。一度、偶然にも新宿の中村屋サロン美術館さんでばったりお会いして、びっくりしたこともありました(笑)。
コロナ禍の中、皆さん、それぞれの場所で頑張っていらっしゃるんだな、と思いましたが、ソーシャルディスタンスだ、マスク着用だと、そんなことを気にせずに、皆さんと集まれる日が早く来ることを、切に望みます。
【折々のことば・光太郎】
朝九時頃奥平英雄氏来訪、午后五時頃まで談話、羊かん、ヰスキー、鮭かんをもらふ、半切の表装したものを持参、見せらる、セミのうた。
昭和27年(1952)6月6日の日記より 光太郎70歳
奥平英雄は美術史家。戦前から光太郎と交流があり、この当時は上野の国立博物館に勤務していました。この後、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から帰京したのち、足繁く中野の貸しアトリエを訪れるようになります。その流れで、光太郎生前最後の選詩集・岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集を任されました。
「セミのうた」は、おそらく「奥平英雄コレクション」の一つとして、駒場の日本近代文学館さんに収められている書と思われます。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。
昭和24年(1949)に揮毫されたもので、この年の日記はほとんど喪われており、書かれた経緯は不明です。
とひたつときわかてをかきてゆきし蝉のはねのちからのわすられなくに
「とひたつ」は「飛び立つ」、「わかて」は「我が手」。短歌自体は大正13年(1924)の作です。