過日ご紹介した、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、昨日開幕しました。
今朝の地方紙『岩手日日』さんから。
光雲は近代木彫に大きな業績を残した彫刻家。幕末の江戸に生まれ、1863年から11年間、仏師・髙村東雲の下で修業し、髙村姓を継いだ。87年には当時造営中だった皇居・化粧の間の装飾彫刻を担当、89年から東京美術学校に勤務し翌年には教授に就任、帝室技芸員にも推挙され、シカゴ万博に出品した「老猿」は国重要文化財に指定されている。
企画展では、令和に入り新たに寄贈された光雲作の「鈿女命」「准胝(じゅんてい)観音」や光太郎に関係する品など12点を公開している。
「鈿女命」は2021年9月の初公開に続き「もう一度見たい」という来館者のリクエストに応えた展示。日本神話で天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、半裸で舞って神々を笑わせて大神を誘い出したとされる巫女(みこ)が題材で、穏やかな顔立ちや、流麗で繊細な髪型や衣紋の表現が目を引く。
「准胝観音」は、東京都文京区の金龍山大圓寺に寄進された7体ある観音像のうちの一つの胎内に収められた小仏像を、銅製の鋳造仏として模造したもの。観音像は戦火で焼失したが、小仏像の模造は建立の際に寄進者や檀家らに配られたと見られ、精巧に鋳出された像容が分かる。
このほか、光雲に木彫の手ほどきを受けた髙村晴雲(1893~1969年)が手掛けた聖観音像、光雲が制作で中心的な役割を果たした皇居前広場の「楠木正成像」や上野公園の「西郷隆盛像」に題材を取った錦絵なども会場を彩る。
光雲の孫弟子に当たる佐藤瑞圭師作の清水寺(同市太田)に安置された十一面観音像(写真パネル)、光太郎が気に入って使っていた「彧彧」という文字を板書したコート掛けと看板、翻訳家として英文学者長沼重隆に宛てた光太郎の直筆はがきなどもある。
同館の佐々木正晴館長は「光雲の鈿女命を中心に光雲から弟子の作品を展示している。受け継がれてきたさまざまな形を解説しているのでぜひご覧いただきたい」と話している。
開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
当初予定されていた、関連行事としての当方の講座は、やはりコロナ禍のためリモートでの開催ということになりました。その収録もあり、当方、来週末に行って参ります。
皆様も、コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
駐在巡査が岩谷堂町の依田養七氏といふ老人を案内してくる、家族のため持参の色紙に明治天皇のうたを一枚揮毫す、
「岩谷堂町」は現在の奥州市。奥州市になる前は江刺市で、「依田養七」は昭和9年(1934)~13年(1938)、同20年(1945)~21年(1946)、さらに同29年(1954)から最後の岩谷堂町長を三度にわたって務め、そのまま江刺市になって、初代市長となりました。
余談になりますが、インターネットとは本当に便利なものですね。このように光太郎日記等に名が出て来る人物で、その素姓を知らなかった場合でも、調べればわかることが往々にしてあります。依田養七もそうでした。
今朝の地方紙『岩手日日』さんから。
花巻市太田の高村光太郎記念館で23日、2021年度企画展「光雲の鈿女命(うずめのみこと)―受け継がれた『形』―」が始まった。光太郎の父で彫刻家髙村光雲(1852~1934)の木彫像「鈿女命」をはじめ、門下の作品などを紹介し、その系譜と表現にスポットを当てている。5月15日まで。
光雲は近代木彫に大きな業績を残した彫刻家。幕末の江戸に生まれ、1863年から11年間、仏師・髙村東雲の下で修業し、髙村姓を継いだ。87年には当時造営中だった皇居・化粧の間の装飾彫刻を担当、89年から東京美術学校に勤務し翌年には教授に就任、帝室技芸員にも推挙され、シカゴ万博に出品した「老猿」は国重要文化財に指定されている。
企画展では、令和に入り新たに寄贈された光雲作の「鈿女命」「准胝(じゅんてい)観音」や光太郎に関係する品など12点を公開している。
「鈿女命」は2021年9月の初公開に続き「もう一度見たい」という来館者のリクエストに応えた展示。日本神話で天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、半裸で舞って神々を笑わせて大神を誘い出したとされる巫女(みこ)が題材で、穏やかな顔立ちや、流麗で繊細な髪型や衣紋の表現が目を引く。
「准胝観音」は、東京都文京区の金龍山大圓寺に寄進された7体ある観音像のうちの一つの胎内に収められた小仏像を、銅製の鋳造仏として模造したもの。観音像は戦火で焼失したが、小仏像の模造は建立の際に寄進者や檀家らに配られたと見られ、精巧に鋳出された像容が分かる。
このほか、光雲に木彫の手ほどきを受けた髙村晴雲(1893~1969年)が手掛けた聖観音像、光雲が制作で中心的な役割を果たした皇居前広場の「楠木正成像」や上野公園の「西郷隆盛像」に題材を取った錦絵なども会場を彩る。
光雲の孫弟子に当たる佐藤瑞圭師作の清水寺(同市太田)に安置された十一面観音像(写真パネル)、光太郎が気に入って使っていた「彧彧」という文字を板書したコート掛けと看板、翻訳家として英文学者長沼重隆に宛てた光太郎の直筆はがきなどもある。
同館の佐々木正晴館長は「光雲の鈿女命を中心に光雲から弟子の作品を展示している。受け継がれてきたさまざまな形を解説しているのでぜひご覧いただきたい」と話している。
開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
当初予定されていた、関連行事としての当方の講座は、やはりコロナ禍のためリモートでの開催ということになりました。その収録もあり、当方、来週末に行って参ります。
皆様も、コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
駐在巡査が岩谷堂町の依田養七氏といふ老人を案内してくる、家族のため持参の色紙に明治天皇のうたを一枚揮毫す、
昭和27年(1952)4月22日の日記より 光太郎70歳
「岩谷堂町」は現在の奥州市。奥州市になる前は江刺市で、「依田養七」は昭和9年(1934)~13年(1938)、同20年(1945)~21年(1946)、さらに同29年(1954)から最後の岩谷堂町長を三度にわたって務め、そのまま江刺市になって、初代市長となりました。
余談になりますが、インターネットとは本当に便利なものですね。このように光太郎日記等に名が出て来る人物で、その素姓を知らなかった場合でも、調べればわかることが往々にしてあります。依田養七もそうでした。