新聞二紙から。
まずは『朝日新聞』さんの読書欄。当ブログサイトで今月初めにご紹介した、宮内悠介氏著『かくして彼女は宴で語る』の書評が出ました。
同書の新聞広告には「まさに和製“黒後家蜘蛛の会” !! 本家と違う、耽美で複雑な雰囲気が日本!という感じがして面白い」とあり、元になった小説があったのだろうとは思っていましたが、上記の評を読んで納得しました。アメリカのアイザック・アシモフの推理小説だったのですね。当方、海外の本格ミステリー的なものはあまり読んだことがなく、存じませんでした。また、アシモフの名はSF作家として記憶していまして、推理小説も書いていたのか、という感じでした。それを言うなら著者の宮内氏も「SF作家と称されることの多い著者」だそうで、そういった部分も含めてのオマージュなのかと思いました。
以前も書きましたが、「パンの会」は、光太郎も参加した芸術運動。しかし、本書は光太郎が欧米留学から帰する3ヵ月前の明治42年(1909)4月10日で終わっています。ぜひとも続編を執筆していただき、光太郎を登場させていただきたいものです。
ところが、各話の謎解きをする「彼女」の正体が、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛だったということが最終話で明らかになり、続編が作りにくい構成。そこでいっそのこと、「彼女」を、初代「彼女」の後輩で、福島弁でボソボソと語尾の消えてしまうようなしゃべり方をし、着物の裾を長く引きずるようにして歩く丸顔の女性に交替させてしまってもいいのかな、などと思いました(笑)。ついでに言うなら、狂言廻しの役も、木下杢太郎だったのを光太郎に代えて(笑)。
もう1件。『読売新聞』さんの「読売俳壇」から。
投稿句自体ではなく、正木ゆう子氏の選評に光太郎の名。「足跡が付いて初めてそこが道だとわかる雪野。高村光太郎の詩「道程」の一節「僕の後ろに道は出来る」を思わせる」。
この冬は珍しく、温暖な千葉県でも3回ほど雪になりました。下の画像は1月7日(金)の明け方。自宅兼事務所近くの公園です。こうなったのは数年ぶりでした。
この頃、ツィッターなどで、おそらく関東南部のあまり雪が降らない地方の皆さんが、やはり「道程」の一節を引用しつつ、雪景色を投稿されていました。雪国の方々には珍しくもない風景なのでしょうが。
ところで、今日は雨が降っています。また雪になるかな、と思ったのですが、今のところその気配はありません。2月も下旬となり、このまま春になってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
午前十時仙北町生活学校卒業式にゆく。談話一席、午食、
「仙北町」は盛岡市仙北町。「生活学校」は現・盛岡スコーレ高校さんです。光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた吉田幾世らが、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。
佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。
その頃の卒業式に招かれて来た高村先生は、職員室で
「この学校はアメリカのフロンティヤの開拓当時の学校によく似ています。今そのことを思い出しました。この開拓精神で農村に入っていくんですね。生徒は讃美歌を歌っているが、宗教学校ではないけれども身が引きしまる。フロンティヤの人達が開発に大いに努力して文化を築き上げたのだが……頼もしい感じがします。」
吉田幾世さんはこのことばに深く感激しました。
(略)
式に臨んで先生は
「岩手の女性は逞しいです。岩手山のように。日本人のバックボーンです。人間は誰でも詩人であり、又画家にもなれます。そのためには物を正しくみることです。正しく深く究めることによって誰でもかけるものです。」
下記は、この日、同校に贈られた色紙です。現在も同校に大切に保管されています。
曰く「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。
まずは『朝日新聞』さんの読書欄。当ブログサイトで今月初めにご紹介した、宮内悠介氏著『かくして彼女は宴で語る』の書評が出ました。
かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖 宮内悠介氏〈著〉 「牧神(パン)の会」舞台にアシモフ倣う
アメリカの作家、アイザック・アシモフに『黒後家蜘蛛(くろごけぐも)の会』というミステリがある。名士たちが食事会の傍ら未解決事件を推理する連作だ。最後に謎を解くのは名士たちではなく後ろで話を聞いていた給仕、というのがお決まりの形式。
その『黒後家蜘蛛の会』を宮内悠介が明治末期の東京に甦(よみがえ)らせた。舞台となるのは実在した団体〈牧神(パン)の会〉。木下杢太郎や北原白秋、石井柏亭ら若き芸術家たちが結成したサロンだ。
彼らは定期的に西洋料理屋に集い、自らが体験した謎や事件を語る。誰も真相を突き止められない中、最後に店の女中が「わたしからも一言よろしゅうございますか」と真相を言い当てる――と、本家に倣った短編が6話収録されている。
個々の謎解きに膝(ひざ)を打つのはもちろんだが、本書は他にもさまざまな楽しみに満ちているのが特徴だ。
まず事件の舞台が、団子坂や浅草十二階、上野で開催された勧業博覧会、ニコライ堂など、時代を色濃く映した名所であること。
次いで綺羅星(きらほし)の如(ごと)き登場人物たち。前述の面々に加え、石川啄木が参加する回もあれば森鷗外が登場することもある。彼らが生き生きと闊歩(かっぽ)する様が浮かぶ。
そしてこの時代ならではの事件の真相。それは時として彼らが挑む〈美〉の意味を問い、時として社会のありようを映し出し、さらには現代をも照射する。特に最終話がもたらす衝撃には思わず声が出た。
場所、人、時代が三位一体となり、読者を物語に誘(いざな)う。明治の東京の温度や匂いまでもが立ちのぼるようだ。アシモフに倣って各編につけられた著者の覚え書きを読めば、著者が膨大な史料を下敷きにし、史実を絶妙に物語に生かしたことがわかる。軽やかな謎解き合戦を下から支えるのは、歴史と先人たちへの、著者の敬意に他ならない。
SF作家と称されることの多い著者の、真正面からの本格ミステリである。歴史好きにもお薦めの一冊。
◇
みやうち・ゆうすけ 1979年生まれ、作家。2017年に『彼女がエスパーだったころ』で吉川英治文学新人賞。
同書の新聞広告には「まさに和製“黒後家蜘蛛の会” !! 本家と違う、耽美で複雑な雰囲気が日本!という感じがして面白い」とあり、元になった小説があったのだろうとは思っていましたが、上記の評を読んで納得しました。アメリカのアイザック・アシモフの推理小説だったのですね。当方、海外の本格ミステリー的なものはあまり読んだことがなく、存じませんでした。また、アシモフの名はSF作家として記憶していまして、推理小説も書いていたのか、という感じでした。それを言うなら著者の宮内氏も「SF作家と称されることの多い著者」だそうで、そういった部分も含めてのオマージュなのかと思いました。
以前も書きましたが、「パンの会」は、光太郎も参加した芸術運動。しかし、本書は光太郎が欧米留学から帰する3ヵ月前の明治42年(1909)4月10日で終わっています。ぜひとも続編を執筆していただき、光太郎を登場させていただきたいものです。
ところが、各話の謎解きをする「彼女」の正体が、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛だったということが最終話で明らかになり、続編が作りにくい構成。そこでいっそのこと、「彼女」を、初代「彼女」の後輩で、福島弁でボソボソと語尾の消えてしまうようなしゃべり方をし、着物の裾を長く引きずるようにして歩く丸顔の女性に交替させてしまってもいいのかな、などと思いました(笑)。ついでに言うなら、狂言廻しの役も、木下杢太郎だったのを光太郎に代えて(笑)。
もう1件。『読売新聞』さんの「読売俳壇」から。
投稿句自体ではなく、正木ゆう子氏の選評に光太郎の名。「足跡が付いて初めてそこが道だとわかる雪野。高村光太郎の詩「道程」の一節「僕の後ろに道は出来る」を思わせる」。
この冬は珍しく、温暖な千葉県でも3回ほど雪になりました。下の画像は1月7日(金)の明け方。自宅兼事務所近くの公園です。こうなったのは数年ぶりでした。
この頃、ツィッターなどで、おそらく関東南部のあまり雪が降らない地方の皆さんが、やはり「道程」の一節を引用しつつ、雪景色を投稿されていました。雪国の方々には珍しくもない風景なのでしょうが。
ところで、今日は雨が降っています。また雪になるかな、と思ったのですが、今のところその気配はありません。2月も下旬となり、このまま春になってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
午前十時仙北町生活学校卒業式にゆく。談話一席、午食、
昭和27年(1952)3月30日の日記より 光太郎70歳
「仙北町」は盛岡市仙北町。「生活学校」は現・盛岡スコーレ高校さんです。光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた吉田幾世らが、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。
佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。
その頃の卒業式に招かれて来た高村先生は、職員室で
「この学校はアメリカのフロンティヤの開拓当時の学校によく似ています。今そのことを思い出しました。この開拓精神で農村に入っていくんですね。生徒は讃美歌を歌っているが、宗教学校ではないけれども身が引きしまる。フロンティヤの人達が開発に大いに努力して文化を築き上げたのだが……頼もしい感じがします。」
吉田幾世さんはこのことばに深く感激しました。
(略)
式に臨んで先生は
「岩手の女性は逞しいです。岩手山のように。日本人のバックボーンです。人間は誰でも詩人であり、又画家にもなれます。そのためには物を正しくみることです。正しく深く究めることによって誰でもかけるものです。」
下記は、この日、同校に贈られた色紙です。現在も同校に大切に保管されています。
曰く「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。