今日はSt.Valentine's Dayだそうで……。
昨日の『東京新聞』さんから。
残された奥様の立場から、ということで、「逆・智恵子抄」とでも云うべきかと思いますが……。
「本にするのはためらった」というくだり、光太郎の本家『智恵子抄』にも通じますね。
初版『智恵子抄』刊行を光太郎に進言した、出版社龍星閣主・澤田伊四郎の息女・城子氏の『智恵子抄の五十年』(平成3年=1991)から。
こうして一冊にまとめたものを澤田が光太郎に届けたのは、『彼女の半生』を読んで一週間とたたぬうちであった。(略)光太郎は、一瞬「ギョッとした」表情を見せ、「明らかに好意を持たぬ顔つき」だった。(略)それから「内容順序表」を見て、感心したような、たまげたような感じで「ほうっ」という表情を見せた。澤田は「いけるな」と思った。
光太郎は「預かっておきましょう」というような言葉を返した。すぐに許諾が得られるなどと思っていない澤田は、ひるまずに、このリストに洩れているような詩篇、未発表作品をいただきたいこと、制作年月日も教示してほしいことを申出て、その日は帰った。
(略)
十日に一遍ぐらい 、様子を見ることを兼ねながらの澤田の訪問は続けられた。光太郎は「こういうものは今の時局に出せない」とか「愛情を売りものにしたくない」などと、しきりに拒絶をくりかえした。日中戦争は五年目に入り、太平洋戦争突入を控えて、国家総動員法のもとで日本全土は緊迫していた。一方、戦地と銃後、引き裂かれている夫と妻たちの関係など、道徳的な乱れもあらわれていた。
この時こそ「男女の拠り所」「五臓六腑をさらけ出した愛情」の書物、「一般女性に対する男性のバイブル」、「女の一生の愛されている聖書」として、読む人をして感動にまきこまずにはおかぬ長篇詩集であると、澤田は自分がまとめた詩集の持つ意義とその不変の価値を光太郎に「百の言葉で説得した」。光太郎の心は澤田の説得にゆれながらも、いつもの拒絶に戻る日が続いた。
ある時は「あれを出そうじゃないか」と許諾の電話が入って、澤田があわてて駈けつけて行くと、「君が団子坂をのぼってくるころいやになった。智恵子が可哀そうになった。やめようじゃないか」ということだった。
この場面、平成9年(1997)刊行の『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』(杉原めぐみ氏シナリオ/村野守美氏作画)ではこのように描いています。
この後、結局は、澤田の提案を受け入れ、『智恵子抄』出版に踏み切ります。その裏側には、同書に収められた「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」 昭和15年=1940)にある、次のような考えがあったのではないでしょうか。
大正昭和の年代に人知れず斯ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞する事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
ちなみに、『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
その北川先生による解説「詩集『智恵子抄』が語るもの」の一節。
当時の日本は、中国大陸で始めた長い戦争のさなかにあって、すべてのものがその目的のために向けられていた時代でした。
自由なものの考え方はおさえられ、素直な愛の表現すら、はばかられる日びのなかで、たくさんの若者たちが大陸で戦い、そして死んでゆきました。
この年の十二月には、アメリカやイギリスを相手に、新しい戦争が始まろうとしていました。
そんな若者たちが思いがけず手にしたこの詩集は、はじめ、くらべようもない愛の詩集として受けとられました。
たしかにこれは一組の男女が生涯をかけ、さまざまな障害を越えてつらぬいた、そのいちずな愛の姿によって、戦いにあけくれた毎日に強い希望を与えたのです。
しかし、いつか若者たちは、この詩集がただの愛の詩集であることの意味をはるかにこえて、もっと深く重い意味をもつことを感じ始めていました。
私は卒業も近い旧制中学校の五年生でした。この国を守るために二十歳(はたち)になったら戦場に行くに違いないと信じこんでいた、私たち十代後半の若者は、この詩集をよみながら人間の意味について、生きること、死ぬことについて真剣に考え始めたものです。
戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句より、人と人との大きな愛のやりとりの大切さを語り、人間へのたしかな信頼をうたうこの詩集は、思想や風俗についての、ますます厳しい取りしまりにもかかわらず、戦争の時代をたえず読みつがれて、一九四四年までのわずか三年の間に、十三回も印刷されています。
北川先生は、この後、入学した東京物理学校を昭和19年(1944)に繰り上げ卒業、海軍省から技術見習尉官に任官され、浜名湖海兵団を経て、四国の松山海軍航空隊宇和島分遣隊に配属。本土決戦に備えてご自分より若い予科練の少年たちと共に、山中に塹壕掘りをしつつ敗戦を迎えられました。終戦時の位階は海軍技術少尉でした。
『智恵子抄』の出版は、澤田や光太郎の思惑も超えて、当時の若者たちに多大な影響を及ぼしたことがわかります。
しかし、その一方で光太郎は、「戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句」のような詩文(それこそが光太郎詩の真髄、と、涙を流して有り難がる愚か者が現代でもいて、辟易しますが)も大量に書き殴りました。戦後になって、それを真摯に反省し、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送ったわけです。
さて、いろいろ書きましたが、泉下の光太郎も、もはや今となっては、冒頭『東京新聞』さんで紹介された根岸さんのように「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と思っているのでは、と感じました。
【折々のことば・光太郎】
宮澤清六氏内村皓一氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩手川をのむ。
寒い時には鍋パーティー(笑)。賢治実弟の清六、気鋭の写真家・内村皓一、そして光太郎。何とも面白いメンバーです。
昨日の『東京新聞』さんから。
亡き夫へのバレンタイン 書家・根岸君子さん 思いつづった詩集出版
国内外で高い評価を受ける足利市在住の書家、根岸君子さん(85)が亡夫への愛情を切々とつづった詩集「半夏生(はんげしょう)−受取人のない八十歳のラブレター−」を今月、出版した。闘病、死別、その後の五年間に感じた失意、孤独、寂寥(せきりょう)の思いを飾らない言葉で紡ぐ。三年前の展覧会で詩の一部を紹介したところ、「現代の智恵子抄のよう」と圧倒的な共感を得、多数の支援者に背中を押された。
「誰(た)が為(ため)に生きるのかこの空虚(むなし)さ」「チョコレート供えて食べてと言う我に黙せし君のヴァレンタインデー」−。収録された二百五点の詩。九百点を超える作品の中から支援する編集者とともに厳選した。
時間を追って詩が並び、微妙な心情の変化も伝わる。最後は「追憶の人とは言わせじわが胸の君は永遠なる我が恋人ぞ」で終わっている。題名の半夏生は夏場に白い花を付ける雑草。根岸さんは「静かに凜(りん)と生きる姿にひかれて」と言う。
根岸さんは公務員などを経て五十五歳の時、前衛書家の茂木良作さんに師事。同市を拠点に心象風景を毛筆で表現する「墨象」で、フランスの国際公募展「ル・サロン」「サロン・ド・トーヌ」などに数多く入選している。夫の会社員の英次さんとは一九六三年に結婚。二〇一六年に死別した。
二〇一九年六月、足利市内で開いた展覧会の際、「受取人のないラブレター」コーナーとして一部の詩を紹介したところ、二日間で約八百人が訪れる人気になった。連れ合いを亡くした高齢者や若いカップルが涙を流していたという。
「心を整理して一歩を踏み出すために言葉をつづっただけ。本にするのはためらった」という根岸さん。「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と願った。
千三百二十円(税込み)。同市の岩下書店(通二)で販売している。郵送購入希望者は渡良瀬通信=電0284(72)6867=へ。
残された奥様の立場から、ということで、「逆・智恵子抄」とでも云うべきかと思いますが……。
「本にするのはためらった」というくだり、光太郎の本家『智恵子抄』にも通じますね。
初版『智恵子抄』刊行を光太郎に進言した、出版社龍星閣主・澤田伊四郎の息女・城子氏の『智恵子抄の五十年』(平成3年=1991)から。
こうして一冊にまとめたものを澤田が光太郎に届けたのは、『彼女の半生』を読んで一週間とたたぬうちであった。(略)光太郎は、一瞬「ギョッとした」表情を見せ、「明らかに好意を持たぬ顔つき」だった。(略)それから「内容順序表」を見て、感心したような、たまげたような感じで「ほうっ」という表情を見せた。澤田は「いけるな」と思った。
光太郎は「預かっておきましょう」というような言葉を返した。すぐに許諾が得られるなどと思っていない澤田は、ひるまずに、このリストに洩れているような詩篇、未発表作品をいただきたいこと、制作年月日も教示してほしいことを申出て、その日は帰った。
(略)
十日に一遍ぐらい 、様子を見ることを兼ねながらの澤田の訪問は続けられた。光太郎は「こういうものは今の時局に出せない」とか「愛情を売りものにしたくない」などと、しきりに拒絶をくりかえした。日中戦争は五年目に入り、太平洋戦争突入を控えて、国家総動員法のもとで日本全土は緊迫していた。一方、戦地と銃後、引き裂かれている夫と妻たちの関係など、道徳的な乱れもあらわれていた。
この時こそ「男女の拠り所」「五臓六腑をさらけ出した愛情」の書物、「一般女性に対する男性のバイブル」、「女の一生の愛されている聖書」として、読む人をして感動にまきこまずにはおかぬ長篇詩集であると、澤田は自分がまとめた詩集の持つ意義とその不変の価値を光太郎に「百の言葉で説得した」。光太郎の心は澤田の説得にゆれながらも、いつもの拒絶に戻る日が続いた。
ある時は「あれを出そうじゃないか」と許諾の電話が入って、澤田があわてて駈けつけて行くと、「君が団子坂をのぼってくるころいやになった。智恵子が可哀そうになった。やめようじゃないか」ということだった。
この場面、平成9年(1997)刊行の『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』(杉原めぐみ氏シナリオ/村野守美氏作画)ではこのように描いています。
この後、結局は、澤田の提案を受け入れ、『智恵子抄』出版に踏み切ります。その裏側には、同書に収められた「智恵子の半生」(原題「彼女の半生」 昭和15年=1940)にある、次のような考えがあったのではないでしょうか。
大正昭和の年代に人知れず斯ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞する事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
ちなみに、『小学館版学習まんが人物館 高村光太郎・智恵子』、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
その北川先生による解説「詩集『智恵子抄』が語るもの」の一節。
当時の日本は、中国大陸で始めた長い戦争のさなかにあって、すべてのものがその目的のために向けられていた時代でした。
自由なものの考え方はおさえられ、素直な愛の表現すら、はばかられる日びのなかで、たくさんの若者たちが大陸で戦い、そして死んでゆきました。
この年の十二月には、アメリカやイギリスを相手に、新しい戦争が始まろうとしていました。
そんな若者たちが思いがけず手にしたこの詩集は、はじめ、くらべようもない愛の詩集として受けとられました。
たしかにこれは一組の男女が生涯をかけ、さまざまな障害を越えてつらぬいた、そのいちずな愛の姿によって、戦いにあけくれた毎日に強い希望を与えたのです。
しかし、いつか若者たちは、この詩集がただの愛の詩集であることの意味をはるかにこえて、もっと深く重い意味をもつことを感じ始めていました。
私は卒業も近い旧制中学校の五年生でした。この国を守るために二十歳(はたち)になったら戦場に行くに違いないと信じこんでいた、私たち十代後半の若者は、この詩集をよみながら人間の意味について、生きること、死ぬことについて真剣に考え始めたものです。
戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句より、人と人との大きな愛のやりとりの大切さを語り、人間へのたしかな信頼をうたうこの詩集は、思想や風俗についての、ますます厳しい取りしまりにもかかわらず、戦争の時代をたえず読みつがれて、一九四四年までのわずか三年の間に、十三回も印刷されています。
北川先生は、この後、入学した東京物理学校を昭和19年(1944)に繰り上げ卒業、海軍省から技術見習尉官に任官され、浜名湖海兵団を経て、四国の松山海軍航空隊宇和島分遣隊に配属。本土決戦に備えてご自分より若い予科練の少年たちと共に、山中に塹壕掘りをしつつ敗戦を迎えられました。終戦時の位階は海軍技術少尉でした。
『智恵子抄』の出版は、澤田や光太郎の思惑も超えて、当時の若者たちに多大な影響を及ぼしたことがわかります。
しかし、その一方で光太郎は、「戦争の正しさを大声で押しつける、中身のない宣伝文句」のような詩文(それこそが光太郎詩の真髄、と、涙を流して有り難がる愚か者が現代でもいて、辟易しますが)も大量に書き殴りました。戦後になって、それを真摯に反省し、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送ったわけです。
さて、いろいろ書きましたが、泉下の光太郎も、もはや今となっては、冒頭『東京新聞』さんで紹介された根岸さんのように「大切な人との時間はかけがえのないもの。本が改めて考えるきっかけになればうれしい」と思っているのでは、と感じました。
【折々のことば・光太郎】
宮澤清六氏内村皓一氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩手川をのむ。
昭和27年(1952)3月2日の日記より 光太郎70歳
寒い時には鍋パーティー(笑)。賢治実弟の清六、気鋭の写真家・内村皓一、そして光太郎。何とも面白いメンバーです。