2月5日(土)に亡くなった芥川賞作家・西村賢太氏と、氏が「没後弟子」を自称し、光太郎がその代表作『根津権現裏』の題字揮毫を担当した大正期の作家・藤澤清造関連。
『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。
「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。
これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。
花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。
『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。
談話室
▼▽アパートの家賃を4年余りも払わなかった。酒に酔って暴行を働き、警察の厄介になったこともある。すると周りの人も離れていく。そんな時に支えになったのは、大正末-昭和初めに活動した藤沢清造の小説だった。
▼▽西村賢太さんが作家になる前の逸話である。清造作品の登場人物は社会の底辺で鬱屈(うっくつ)した心を抱える。作者自身、42歳だった昭和7年1月、奇行の末に公園で凍死した。恵まれない少年時代も似ており、「涙がでてくる程身につまされ」た。随筆「清造忌」でそう振り返る。
▼▽清造の「没後弟子」と称し、傾倒した。彼を巡る物語を多くつづってきただけではない。月命日のたび、石川県七尾市の菩提(ぼだい)寺にある清造の墓に詣でた。29歳から始めて25年。芥川賞を得て人気作家になってからも、毎月の七尾行を続けた。清造の脇に自らの墓標も立てた。
▼▽先月中旬、書評紙に載った対談では執筆の原動力を聞かれ「清造がいるからこそ、いまも小説を書く意地を持続できています」。変わらぬ思いを語った。それから1カ月足らず、まだ54歳の西村さんが急死したのは清造没後90年の命日直後である。奇(くす)しき縁(えにし)と言うほかない。
「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。
清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌
七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。
藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。
そして同じく『中日新聞』さん、西村氏の訃報を受けて。「賢太さん 若かったのに」 訃報受け 生前墓に七尾市民 西光寺の高僧住職「真面目で紳士 残念で仕方ない」
五日に五十四歳で亡くなった芥川賞作家の西村賢太さんの訃報から一夜明けた六日、西村さんが生前建てた墓がある七尾市小島町の西光寺(さいこうじ)には、墓参りに訪れる市民の姿があった。「若かったのに」「信じられない」。早すぎる別れを惜しむ声が聞かれた。
「先週来たばかりだったんでしょ。本当に信じられない」。午前十時すぎ、同市栄町の永田房雄さん(73)は墓に積もった雪を手ではらうと、近くの和菓子店で購入した草餅を供え、静かに手を合わせた。
西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(一八八九〜一九三二年)に心酔。二〇〇二年に藤沢の墓の隣に自身の生前墓を建てた。藤沢の命日の一月二十九日を「清造忌」とし、月命日の墓参を欠かさなかった。先月も缶ビールや酒などを墓前に供えたばかりだった。
永田さんは「お酒は隣にあるから、甘いものを味わってもらえたらと思って」としみじみ。西村さんに会ったことはないが、一一年に芥川賞を受けた「苦役列車」は手に取ったことがある。「難しくて理解できなかった気がする。改めてじっくり読み返そうと思う」
住職の高僧英淳(こうそうえいじゅん)さん(69)は「西村さんは七尾の人よりもしょっちゅう寺に来てくれた。二月も二十八日に来ると話したばかり。いつもと同じ様子だったからびっくり。根は真面目で紳士。若すぎる。残念で仕方ない」と肩を落とした。寺に連絡があれば、遺骨を受け取りに行くという。
西村氏の生前墓については、亡くなってから知りました。そして毎月墓参に訪れていたということも。その心酔ぶりは半端ではありませんね。これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。
昭和27年(1952)1月29日の日記より 光太郎70歳
花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。