秋田県から企画展情報です。

近美彫刻セレクション-塊の生命力-

期 日 : 2022年2月12日(土)~4月17日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 9:30〜17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本展では、当館に収蔵されている約200点の彫刻作品から、舟越保武、峯田敏郎、高田博厚、皆川嘉博など、近現代の彫刻作家の作品をセレクトして展示します。
 「塊」の芸術である彫刻は、作家の思想や生き様、コンセプトといった要素と、モチーフや素材、技術が複雑に絡み合い作品として生み出されました。
 ブロンズや石膏などの多彩な素材で表現され、作家の思いが込められた立体の生命力と美しさを、様々な角度からご鑑賞いただきます。

ギャラリートーク 3月27日(日) 午後2時開始(30分程度)
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光太郎「が」制作した彫刻は出品されませんが、光太郎「を」制作した作品が出ます。

光太郎との交流から、彫刻家となることを決意し、光太郎等の援助で渡仏、彼の地で名声を獲得するに至った高田博厚作の光太郎像(昭和34年=1959)。
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高田は昭和6年(1931)の渡仏後、第二次大戦中も欧州にとどまり、昭和32年(1937)まで帰国しませんでした。その間、光太郎と書簡のやりとりはありましたが、光太郎とは会っていません。帰国したのは光太郎が歿した翌年でした。

この像は帰国後の昭和34年(1959)に制作され、翌年、高田も途中から選考委員となり、全10回限定で開設された造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」贈呈式に合わせて発表されたものです。

高田は滞仏中に一度、光太郎像を制作しました。ところが、帰国に際し、彼の地での作はすべて破棄してしまったため、光太郎が歿してからの帰国後にもう一度作ったということになります。

したがって、高田は晩年の光太郎の顔を直接は見ていません。像になったのは、写真で見た晩年の光太郎の「印象」です。そこで、光太郎にそっくりか、といわれると、答えは「否」。しかし、この像はまぎれもなく光太郎の精神性をしっかりと表現したものとなっています。

高田滞仏中の「ある詩人へ」(昭和25年=1950)から。

 お別れしてから二十年のあいだに数えるほどしか便りをしなかった。無精からではなくて、東洋人的なもっと奥の気持が働いていたようだ。随分前にあなたが私のことを書かれて、「こうして書いていると、会って話したくなる。やっぱりパリは遠いな……」と言って居られたのを、おくれて読んだ時、私は一層安心した。このあいだ日本から来た文芸雑誌『群像』にあなたの写真が出ていた。久しぶりで、年をとられたあなたを見たのだが、その時も日頃便りをしないでいるのを、悪いことをしたという気持とは逆に感じた。全く過ぎ去り失(な)くなったと思う過去が、今一層に生きているのと同じであろう……。ただ過去が生きるようになるには、どれだけの費(ついえ)があったことか!
 私もようやく五十歳になり、これからなんとか仕事できるかと思っている時、あなたに育てられた私の若い時代が、予想もできなかったような意味を以て、よみがえってくる。十五、六も年下の私を、あなたは同輩の友情を以て迎えてくれた。十九の年齢(とし)にあなたを識って、十年私達は親友だった。私の過剰な、気を負って、「形」を為していぬ仕事に、あなたは気付いていても、私には一言も言わなかった。それから私がフランスへ来てからの年月は、あなたが私を迎えてくれたそれのもう二倍になる。そしてこの二十年で、あなたが黙って私を見ていてくれたことの意味が解ってきた。私は日本で美術家の友達はごく少なかった。ただあなとだけ、世間気を避けて、孤独を愛していたのを、いまどのように幸いに思っていることか……。
(中略)
……こんな地味な話を、山の奥に独り引籠っているあなたとしたい。元来が孤独で静かなのが芸術なのに、なぜこの頃の日本の美術家は騒がしいのであろうか? けれどもあなたに会えたら、私達の談話はそのようなことに少しも触れないであろう。「孤独の道に於てのみ、真に共通の思念に遭遇する」(アラン)のだから。これが芸術の特権なのだから……


高田の光太郎胸像には、「孤独の道に於て」「遭遇」した「真に共通の思念」が、あますところなく表現されているように感じられます。

ちなみに同じ像、少し前に書きましたが、埼玉県東松山市の東武東上線高坂駅前から伸びる、彫刻プロムナードで野外展示されています。

秋田の企画展示、他に、舟越保武柳原義達等、やはり光太郎と交流を持ち、そのDNAを受け継いだ部分もある作家の作が並びます。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今年はキツツキあまり来らず、兎の足あとも少きやう。狐のはまだ見ず、犬、猫、鼠、鳥などの足あとのみ。


昭和27年(1952)1月19日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、かえって猫がうろついていたというのが意外でした。