2月5日(土)、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで、第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」を拝見する前、安中市の磯部温泉に寄り道をしていきました。寒いので温泉であたたまりたい、というのももちろんですが、光太郎が足を運んだ温泉地、ということで。
ちなみに磯部温泉は、万治4年(1661)、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに幕府から出た判決文的なものに描かれた地図に、現在も使われている温泉記号「♨」が書かれており、おそらくこの記号の最も古い使用例ということで、「温泉マーク発祥の地」として宣伝されています。
温泉街の足湯。
まず明治42年(1909)8月、親友だった水野葉舟に送った書簡から。
「大洞」は赤城山中の地名です。
ちなみに磯部温泉は、万治4年(1661)、土地の境界をめぐる訴訟があり、このときに幕府から出た判決文的なものに描かれた地図に、現在も使われている温泉記号「♨」が書かれており、おそらくこの記号の最も古い使用例ということで、「温泉マーク発祥の地」として宣伝されています。
温泉街の足湯。
また、明治の児童文学者・巖谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話(日本昔噺)を書き上げました。同様の民話は各地に昔からあるものの、巌谷が児童文学として活字にしたことにより、磯部温泉は「舌切雀伝説発祥の地」とされています。
確認できている限り、光太郎の足跡は、明治42年(1909)と大正15年(1926)に、残されています。
確認できている限り、光太郎の足跡は、明治42年(1909)と大正15年(1926)に、残されています。
まず明治42年(1909)8月、親友だった水野葉舟に送った書簡から。
実は磯部へ一寸遊びに行つたのだが、其の地形や宿が気に食はなかつた処へ、汽車の窓から赤城のあの裾野を引いた山の形を見て矢も楯もたまらず、とうとう磯部を一晩で御免蒙むつて、前橋で一泊して、二十五日の未明から郡役所の用達に荷を担がして大洞に登つたのだ。
「大洞」は赤城山中の地名です。
さらに大正15年(1926)7月、やはり水野へ送った絵葉書から。
老人や女達を送りに一寸磯部に来ました、東京と同じやうに暑いので驚きました。湯だけハまことに霊泉です。雷をふくんだ雲が妙義山の方をこめてゐます。 十六日 高村光太郎
「老人」は、おそらく父・光雲、「女達」は、智恵子、母・わか、あるいいは妹たちも含まれているかもしれません。「湯だけハ」の「ハ」は漢数字の「八」ではなくカタカナの「ハ」。光太郎、ときおり平仮名に片仮名を混ぜる癖がありました。
手がかりはこれだけで、光太郎が複数ある温泉旅館のどこに泊まったのか、不明です。そこで事前に、「老舗」と云われる宿の位置は調べておき、歩きました。
明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。
その上にある、旭館さん。こちらも明治期の創業。
磯部館さん。老舗宿の鳳来館(現存せず)から大正期にのれん分け、だそうで。
その先にある桜や作右衛門さんは明治3年(1870)創業だそうです。
おそらくこのあたりの何処かに、光太郎が泊まったと推定されます。各所、歩いて行ける距離です。ただ、どこも建物は建て替わっているようでした。
ちなみに磯部館さんの元となった鳳来館、当方手持ちの古絵葉書です。
「舌切雀のお宿 ホテル磯部ガーデン」という大きな温泉ホテルもあり、こちらも鳳来館の流れを汲んでいるとのこと。
ところで、この鳳来館の創業者・大手万平は、詩人の大手拓次(明治20年=1887~昭和9年=1934)の実祖父だそうで、拓次も鳳来館で産まれたとのこと。拓次は光太郎の朋友・北原白秋に師事し、萩原朔太郎、室生犀星とともに白秋門下の三羽烏と称されることもありました。ただ、朔太郎、犀星は二人揃って駒込林町の光太郎アトリエを訪れるなどしていましたが、拓次と光太郎の直接の交流は確認できていません。拓次にコミュ障的な部分があったらしいので……。
『高村光太郎全集』で、拓次の名はその没後に3回出て来るのみ。いずれも昭和22年(1947)に書かれ、詩人仲間などに送った書簡中で、拓次の詩集が再刊されるそうで楽しみだ、といった内容です。それでも嫌いなものは嫌いと公言する光太郎ですので、拓次の詩は認めていたことは伺えます。
光太郎が2度目に磯部を訪れた大正15年(1926)には、拓次の詩作がなされていましたが、鳳来館が拓次の生家であると光太郎が知っていたかどうか、微妙なところですね。
磯部館さんの裏手に、拓次の詩碑。
温泉街のはずれにある赤城神社を中心とした磯部公園。
こちらには、拓次をはじめ、数多くの文学碑が。先述の白秋、朔太郎、犀星以外にも、歌人の吉野秀雄も光太郎と交流がありました。
赤城神社。
大正15年(1926)、光太郎と共に父・光雲も磯部に来ていたとすれば、絶対に参拝したはずです。赤城神社は髙村家の産土神(うぶすながみ)という扱いでしたので。
拓次の詩碑。
犀星(左)と、吉野秀雄(右)。
朔太郎。
それから、温泉マークの碑、こちらにもありました。さらに拓次の祖父・万平の胸像も。
手がかりはこれだけで、光太郎が複数ある温泉旅館のどこに泊まったのか、不明です。そこで事前に、「老舗」と云われる宿の位置は調べておき、歩きました。
明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。
その上にある、旭館さん。こちらも明治期の創業。
磯部館さん。老舗宿の鳳来館(現存せず)から大正期にのれん分け、だそうで。
その先にある桜や作右衛門さんは明治3年(1870)創業だそうです。
おそらくこのあたりの何処かに、光太郎が泊まったと推定されます。各所、歩いて行ける距離です。ただ、どこも建物は建て替わっているようでした。
ちなみに磯部館さんの元となった鳳来館、当方手持ちの古絵葉書です。
「舌切雀のお宿 ホテル磯部ガーデン」という大きな温泉ホテルもあり、こちらも鳳来館の流れを汲んでいるとのこと。
ところで、この鳳来館の創業者・大手万平は、詩人の大手拓次(明治20年=1887~昭和9年=1934)の実祖父だそうで、拓次も鳳来館で産まれたとのこと。拓次は光太郎の朋友・北原白秋に師事し、萩原朔太郎、室生犀星とともに白秋門下の三羽烏と称されることもありました。ただ、朔太郎、犀星は二人揃って駒込林町の光太郎アトリエを訪れるなどしていましたが、拓次と光太郎の直接の交流は確認できていません。拓次にコミュ障的な部分があったらしいので……。
『高村光太郎全集』で、拓次の名はその没後に3回出て来るのみ。いずれも昭和22年(1947)に書かれ、詩人仲間などに送った書簡中で、拓次の詩集が再刊されるそうで楽しみだ、といった内容です。それでも嫌いなものは嫌いと公言する光太郎ですので、拓次の詩は認めていたことは伺えます。
光太郎が2度目に磯部を訪れた大正15年(1926)には、拓次の詩作がなされていましたが、鳳来館が拓次の生家であると光太郎が知っていたかどうか、微妙なところですね。
磯部館さんの裏手に、拓次の詩碑。
温泉街のはずれにある赤城神社を中心とした磯部公園。
こちらには、拓次をはじめ、数多くの文学碑が。先述の白秋、朔太郎、犀星以外にも、歌人の吉野秀雄も光太郎と交流がありました。
赤城神社。
大正15年(1926)、光太郎と共に父・光雲も磯部に来ていたとすれば、絶対に参拝したはずです。赤城神社は髙村家の産土神(うぶすながみ)という扱いでしたので。
拓次の詩碑。
犀星(左)と、吉野秀雄(右)。
朔太郎。
それから、温泉マークの碑、こちらにもありました。さらに拓次の祖父・万平の胸像も。
クセのない泉質で、長湯していても疲れない感じでした。
駐車場には紅梅も。
群馬には、磯部以外にも光太郎が足を運んだ温泉地が数多く存在します。草津、法師、湯檜曾、川古、宝川、湯の小屋など。中には詩の舞台になっていたり、温泉宿の主人が光太郎回想文を残したりしているところも。ただ、磯部以外はどこも奥まったところで、当方、草津の他は未踏です。いずれ折をみて、その他の温泉地も訪ねてみようと思っております。
以上、群馬レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
夜コタツ、(ニカワを煮て大倉翁のテラコツタを修繕、)
「大倉翁のテラコツタ」は、光太郎が磯部温泉を訪れた大正15年(1926)に制作された「大倉喜八郎の首」。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した実業家・大倉喜八郎に、光雲が肖像彫刻制作を依頼され、光太郎がその原型として作ったものです。
いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。戻ってきた時に既にそうだったのか、その後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でやっちまったのか(笑)、像の左耳の部分が破損していたため、修繕したという記述です。
画像は翌年、ブリヂストン美術館さんが制作した「美術映画 高村光太郎」から。手は光太郎の手です。
群馬には、磯部以外にも光太郎が足を運んだ温泉地が数多く存在します。草津、法師、湯檜曾、川古、宝川、湯の小屋など。中には詩の舞台になっていたり、温泉宿の主人が光太郎回想文を残したりしているところも。ただ、磯部以外はどこも奥まったところで、当方、草津の他は未踏です。いずれ折をみて、その他の温泉地も訪ねてみようと思っております。
以上、群馬レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
夜コタツ、(ニカワを煮て大倉翁のテラコツタを修繕、)
昭和27年(1952)1月10日の日記より 光太郎70歳
「大倉翁のテラコツタ」は、光太郎が磯部温泉を訪れた大正15年(1926)に制作された「大倉喜八郎の首」。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した実業家・大倉喜八郎に、光雲が肖像彫刻制作を依頼され、光太郎がその原型として作ったものです。
いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。戻ってきた時に既にそうだったのか、その後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋でやっちまったのか(笑)、像の左耳の部分が破損していたため、修繕したという記述です。
画像は翌年、ブリヂストン美術館さんが制作した「美術映画 高村光太郎」から。手は光太郎の手です。