1ヵ月以上経っていますが、昨年12月、『朝日新聞』さんの鹿児島県版に載った記事。志學館大学の原口泉教授の寄稿です。
今年、おいの宏比古氏が神奈川県内の自宅にあった泉の遺稿を、NHKの記者と私に見せてくださった。多くの未発表の詩と日記があり、全国ニュースとなった。泉の復帰運動は、署名活動や断食祈願を世界世論に訴えたように、非暴力と不服従に貫かれていた。「奄美のガンジー」と呼ばれるゆえんである。
05年、現在の伊仙町の生まれ。24年に鹿児島県立第二師範学校を卒業し、大島郡赤木名小学校を振り出しに教職の道を歩み始めた。詩作への思いもだしがたく、28年に上京、詩文学活動へと羽ばたいた。11年後、病のため徳之島に帰郷を余儀なくされ、小学校教育に携わっていた。46年2月、奄美群島が本土から分離され、米軍施政下になった5年後、奄美大島日本復帰協議会議長となった。
大学ノートに「牛歩」と題した日記は、名瀬市長になった52年9月16日~11月上旬の約2ヶ月間ある。
「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まつすぐに行く」
泉が一時親交のあった高村光太郎の詩「牛」の書き出しである。この時期、奄美全島が国連の信託統治下に置かれるとか、沖永良部島と与論島が分離されて返還されるとか、様々な臆測が飛び交っていた。国連の信託統治になると、返還には国連加盟国の多数の承認が必要で、米ソ冷戦下にあっては事実上不可能のおそれがあった。しかし高村の詩に「牛の眼は叡智(えいち)にかがやく」とあるように泉の眼は不屈の精神で輝いていた。
泉の代表作に「島」がある。
「わたしは島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を 一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない」で始まり、「わたしはここに生きつがなくてはならない人間の灯台を探ねて」で終わる有名な詩である(『詩集』P18~20)。
自筆原稿とは表現が違っているので、刊行に当たって推敲したと思われる。最大の相違点は7行抜けていること。「かつてイギリス海峡のゲルンシーで 人類の悲哀を絞り切って書きつづられたレ・ミゼラブルを 敗戦国民ビクトル・ユーゴーが ぼろぼろの余命を託して探ねあぐんだものは何であったろうか」
復帰運動を詩によって進めた泉の詩に圧倒的に多い言葉は「民族・歴史・世界史」である。奄美が米軍施政下にある現実を世界史の悲劇ととらえていた。
遺稿には「蕃衣を着て」と題する短編小説の原稿もある。30年に日本統治時代の台湾で起こった「霧社事件」がモチーフ。なぜ泉は台湾の先住民に対する弾圧の実情を知っていたのか? 「民族詩人」「民衆詩人」にとって、芸術と生活とは切り離せないものだった。敗戦直後の詩「名瀬町風景」には、生活派の詩人の姿が見える。
『高村光太郎全集』には、泉の名は昭和27年(1952)12月14日の日記で一度だけ出てきます。
田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長
「芳郎」は「芳朗」の、「俺美大島」は「奄美大島」、「村長」は「市長」の誤りです。
昭和27年12月といえば、光太郎は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、終焉の地となった中野の貸しアトリエに入って間もない頃。今回見つかった泉の日記は、その前月までのものだそうで、この日の会見の部分は入っていないのでしょう。
また、たまたま手元にあった白鳥省吾主宰の詩誌『地上楽園』の第3巻第29号(昭和3年=1928)に、光太郎と泉、双方が寄稿していました。光太郎は詩、泉は評論。こういう例は他にもありそうです。
奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。
【折々のことば・光太郎】
くもり、夜はれる、少し寒くなる、 朝の年賀ハカキ放送をきく、 雑煮、
「朝の年賀ハカキ放送」は、おそらく前月に盛岡で録音した、光太郎自身が出演した番組でしょう。この際のテープなども未確認です。
(維新、それから 歴史新発見:29)泉芳朗、未発表の遺稿発見
1953年12月25日、奄美群島が日本に復帰した。20万余の島民の悲願が達成された日である。復帰運動を主導したのは当時の名瀬市(現奄美市)の泉芳朗市長。詩人でもあった泉は、復帰の悲願を詩につづり続けていた。その多くは『泉芳朗詩集』(59年)に収められている。今年、おいの宏比古氏が神奈川県内の自宅にあった泉の遺稿を、NHKの記者と私に見せてくださった。多くの未発表の詩と日記があり、全国ニュースとなった。泉の復帰運動は、署名活動や断食祈願を世界世論に訴えたように、非暴力と不服従に貫かれていた。「奄美のガンジー」と呼ばれるゆえんである。
05年、現在の伊仙町の生まれ。24年に鹿児島県立第二師範学校を卒業し、大島郡赤木名小学校を振り出しに教職の道を歩み始めた。詩作への思いもだしがたく、28年に上京、詩文学活動へと羽ばたいた。11年後、病のため徳之島に帰郷を余儀なくされ、小学校教育に携わっていた。46年2月、奄美群島が本土から分離され、米軍施政下になった5年後、奄美大島日本復帰協議会議長となった。
大学ノートに「牛歩」と題した日記は、名瀬市長になった52年9月16日~11月上旬の約2ヶ月間ある。
「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まつすぐに行く」
泉が一時親交のあった高村光太郎の詩「牛」の書き出しである。この時期、奄美全島が国連の信託統治下に置かれるとか、沖永良部島と与論島が分離されて返還されるとか、様々な臆測が飛び交っていた。国連の信託統治になると、返還には国連加盟国の多数の承認が必要で、米ソ冷戦下にあっては事実上不可能のおそれがあった。しかし高村の詩に「牛の眼は叡智(えいち)にかがやく」とあるように泉の眼は不屈の精神で輝いていた。
泉の代表作に「島」がある。
「わたしは島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を 一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない」で始まり、「わたしはここに生きつがなくてはならない人間の灯台を探ねて」で終わる有名な詩である(『詩集』P18~20)。
自筆原稿とは表現が違っているので、刊行に当たって推敲したと思われる。最大の相違点は7行抜けていること。「かつてイギリス海峡のゲルンシーで 人類の悲哀を絞り切って書きつづられたレ・ミゼラブルを 敗戦国民ビクトル・ユーゴーが ぼろぼろの余命を託して探ねあぐんだものは何であったろうか」
復帰運動を詩によって進めた泉の詩に圧倒的に多い言葉は「民族・歴史・世界史」である。奄美が米軍施政下にある現実を世界史の悲劇ととらえていた。
遺稿には「蕃衣を着て」と題する短編小説の原稿もある。30年に日本統治時代の台湾で起こった「霧社事件」がモチーフ。なぜ泉は台湾の先住民に対する弾圧の実情を知っていたのか? 「民族詩人」「民衆詩人」にとって、芸術と生活とは切り離せないものだった。敗戦直後の詩「名瀬町風景」には、生活派の詩人の姿が見える。
『高村光太郎全集』には、泉の名は昭和27年(1952)12月14日の日記で一度だけ出てきます。
田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長
「芳郎」は「芳朗」の、「俺美大島」は「奄美大島」、「村長」は「市長」の誤りです。
昭和27年12月といえば、光太郎は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、終焉の地となった中野の貸しアトリエに入って間もない頃。今回見つかった泉の日記は、その前月までのものだそうで、この日の会見の部分は入っていないのでしょう。
また、たまたま手元にあった白鳥省吾主宰の詩誌『地上楽園』の第3巻第29号(昭和3年=1928)に、光太郎と泉、双方が寄稿していました。光太郎は詩、泉は評論。こういう例は他にもありそうです。
奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。
【折々のことば・光太郎】
くもり、夜はれる、少し寒くなる、 朝の年賀ハカキ放送をきく、 雑煮、
昭和27年(1952)1月3日の日記より 光太郎70歳
「朝の年賀ハカキ放送」は、おそらく前月に盛岡で録音した、光太郎自身が出演した番組でしょう。この際のテープなども未確認です。