昨日は信州松本平の『市民タイムス』さんの一面コラムをご紹介しましたが、仙台に本社を置く『河北新報』さんでも一面コラムで光太郎に触れて下さっていました。

河北春秋(2/1):高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている…

高村光太郎がビールの喉ごしをつづっている。「一杯ぐっとのむとそれが食道を通るころ、丁度(ちょうど)ヨットの白い帆を見た時のような、いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」▼思わずぐっとやりたくなる一節。随筆『ビールの味』から。「ロンドンの食卓でスタウトを強いられてからビールを飲みおぼえた」とあるから110年ほど前の留学時のようだ▼英政府中枢にもビール好きは多いのだろうか。新型コロナ対策のロックダウン(都市封鎖)中に首相官邸で飲み会が繰り返された疑惑。ロンドン警視庁が捜査に乗り出し注目を集めている。一部出席を認め謝罪したジョンソン首相。屋内集会禁止の時期に誕生会が開かれていたことも判明し、逆風が強まるばかり▼日本でも4年前に似たようなことが。西日本豪雨が迫る夜、議員宿舎であった「赤坂自民亭」なる会合。当時の首相や閣僚らが地酒を楽しんだ。共通するのは政治の「たるみ」か▼ビールのうまさを記した光太郎。「ふだんは別に飲みたくもない。(中略)いつに限らず昼間は絶対に飲まない」とも書いている。昼食時のアルコール習慣もあるという英官邸にこの戒めを送ろう。ただ、小欄は冒頭の描写が忘れられない。今夜も麦の芳香を味わうとしよう。(2022.2・1)
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引用されている随筆「ビールの味」は、昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表されたもの。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻に収められているほか、昨年、平凡社さんから刊行されたアンソロジー『作家と酒』などにも採られています。

また、令和元年(2019)には、文京区立森鷗外記念館さんで開催されたコレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」でも、このエッセイが取り上げられました。

それにしても、ロックダウン下で宴に興じていたという英国首相、わが国でも緊急事態宣言可発令中に政治資金パーティーが堂々と開かれていたという報道もありましたし、何やってんだ……という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

鉄砲うち二人窓前を通り山の方にて時々音がする、


昭和27年(1952)1月2日の日記より 光太郎70歳

「鉄砲うち」はハンターですね。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近、猟を副業にしていた地元民もいたようですし、時に東京などからもハンターがやってくることがありました。

社団法人東京都猟友会理事だった宮本甲治氏(おそらく故人)のエッセイ集『猟銃と歩いた旅』(昭和52年=1977 欅出版)に、光太郎の山小屋近くへ都内から友人らと三人で猟に出かけ、光太郎と知らずに遭遇していろいろ話を聞いたエピソードが語られています。
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 渓流を渡り、小高い山の麓に出た。
 前方は見渡す限り、茫々たる一面の荒野が広がっている。そこに、ポツンと一軒の家がある。農家にしては粗末で小さく、掘立小屋といったほうが適当なくらいのチッポケな家であった。小屋の北側の方には、萱束で囲って寒風を防いであった。
 その家の中から老眼鏡をかけ六十を過ぎたぐらいの爺さんが、のこのこと私の方に向って来た。これを見て、私はハッとした。清流の脇で撃った銃弾が、小屋へも流れたかと思ったからだ。
「どうです、獲れましたか」
と、老人は聞いた。特大のゴム長靴を履いて、古びたカーキ色の国民服を着た大男で、白い無精髭をはやし、写真でみた乃木将軍のような風体をした人であった。
 この老人の手を見て驚いた。それは、ありふれた先細の貧弱な手ではなく、永い間重労働で荒れた手とも違う。ちょっと類のないガッチリした、握力の強そうな厚味のある巨手であった。老人は、
「どこから鉄砲撃ちに来たか」
と聞いた。友人が東京の谷中だというと、
「ほう東京。わたしも東京生まれで、東京の人に会うのは、懐かしいなあ」
といった。そして私達をしげしげと見ながら、
「谷中はどの辺ですか」
と重ねて友人に尋ねた。谷中の天王寺近くで、彫刻家の朝倉文夫氏宅の附近だと、松村氏が応えると、
「朝倉君は、懇意な友人ですよ」
といった。この人も彫刻師だという。


その後、宮本氏一行は小屋に案内されて茶を饗され、老人と談話。

 一見したところ、この人は独り暮らしらしい。御家族はと尋ねると、
「妻は死んでしまい、一人残って……」
と大きな掌を顔にあてて悲しげにボソボソと小声で言った。こんな山の中での独り暮らしでは、さぞかし、心細いでしょうと慰めると、
「いやあ僕は、東北地方の純朴さが、とても好きだから、人が思うほど淋しくはない」


しばらくの談話の後、山小屋を辞した一行……

 彫刻師の職業では、辺鄙なこんな山中の家では、不便で職が成りたつまい。一体あの老人は何者だろうと私達は噂話をし合ったが、もとより、老人の素姓は誰も知らなかった。
 ただ老人の人並みはずれた、巨大な手だけが、強く印象に残っていた。


そして……

 それから数年経った。一九五二(昭和二十七)年十月のある日、都下の新聞は紙面に大きく、ゴム長靴を履いた、チャンチャンコ姿の老人の写真を掲載した。
 こんど国立公園の十和田湖畔に建立される、裸婦像制作のため高村光太郎氏が、詩想と芸魂をやしなっていた岩手の山中から、十年振りに帰京したことを一斉に報じた。
 私達がお茶の接待をうけた、山小屋の主人は、この高村光太郎であったのだ。


後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。