『毎日新聞』さん東京版で、昨年12月から今年の1月8日(土)にかけ、3回に分けて連載された記事です。少し前には東北版にも掲載されたようです。
◇メモ
そして、青根温泉。もう5年近く経つか、という感じですが、その際のレポートがこちら。宿泊させていただきましたので、記事にある各湯にゆったりつかり、不忘閣の館内歴史ツアーも体験しました。またぜひ泊まってみたい宿の一つです。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。
宮静枝は詩人。光太郎とは戦前から交流があり、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会(この席上で、有名な「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が「発見」されました)に、光太郎ともども参加しています。下の画像、前列左から二人目が宮、四人目が光太郎、その隣が賢治実弟の清六です。
宮は平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、日記にある「ライカにて撮影いろいろ」という写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
珍しい光太郎の後ろ姿も。
ぐるっと東日本・くつろぎの宿 青根温泉 湯元不忘閣
伊達政宗がつかった石風呂でゆったり 文人も愛した名湯の宿
温泉につかれば、名将政宗の気分――。東北きっての武将といえば伊達政宗である。政宗ら仙台藩主御用達の温泉宿が宮城県にある。青根温泉の湯元不忘閣だ。幾多の歴史を刻み、文化財級の建物が林立する名宿はかつて文人にも愛された。政宗もつかった名湯の宿とは――。
◇一番の自慢は「歴史と温泉」
伊達政宗をこれほどまでに身近に感じたことがあっただろうか。「政宗も入った石組みの湯船」で温泉につかると、ゆったりとした気分とともに「政宗と裸の付き合いに……」と変な感慨が増してくる。
青根温泉は、宮城と山形にまたがる蔵王山麓(さんろく)に位置し、湯元不忘閣は歴代仙台藩主の保養所だった。1606年に滞在した政宗が「この感激と喜びを忘れないように」と「不忘」と名付けたことがその名の由来とされる。
湯守(ゆもり)と関守を務めた不忘閣当主は代々、佐藤仁右衛門(にうえもん)を襲名してきた。訪れると、現在の21代当主に代わり、妻でおかみの真由美さん(57)が対応してくれた。
おかみによると一番の自慢は「歴史と温泉」だという。
初代・佐藤掃部(そうぶ)(後に仁右衛門を名乗る)が青根温泉の発見者の一人とされる。1528年の発見当初から「手付かずの天然温泉」と言われるのは、湧き出た源泉がそのまま注がれ続けてきたからだ。
風呂は全部で六つある。
その一つ「大湯 金泉堂(きんせんどう)」が「政宗の湯」の看板を掲げる。薄暗い建物内にある細長い石風呂だ。
1546年に石工30人が組み上げた湯船はそのままで、かすかに温泉臭のする透明な湯が、「ざばざば」と絶え間なく注がれる。水面に反射した光が、屋根裏に架けられた青森ヒバの丸太に揺らめく。
また、「蔵湯浴司(よくす)」は、三の蔵のうち穀蔵の2階の床を取り払い、ヒノキ風呂を置いた。「蔵の前の石畳のたたずまいをお客さんにも楽しんでほしい」。真由美さんが発案し、仁右衛門さんの設計で2006年に完成した。
豪華旅館と思われがちだが、歴史を刻み昭和をほうふつとさせる古い木造建築の温泉旅館だ。「秘湯」と呼ばれることについて、おかみが言う。
「大好き。ひなびたイメージがいい」
◇タイミング、94段の階段…
大湯は時間制で男女入れ替えだが、蔵湯は貸し切りだ。建物から草履に履き替えて石畳を歩く。三つの蔵の間に大崎八幡宮の小さなほこらがあった。一番奥の蔵の重たい引き戸を開けると、吹き抜けの空間にヒノキ風呂が置かれ、脱衣場がある。蔵の静けさの中で湯の注がれる音だけが響く。荘厳な雰囲気だ。
ただ、蔵湯に入るのは、なかなか難儀する。旅館の受付脇に置かれた青森ヒバ製の「蔵湯 貸切札」だけが「空き」の目印だからだ。30センチほどの札を持って蔵湯へ行き、「30分以内の入浴」を終えたら札を元の場所に戻す。タイミングが合わず、一度も蔵湯に入れない客もいるらしいが、おかみの真由美さんはこう説明する。
「空きを電光掲示板で表示することもできますが、秘湯の温泉らしく、あえて木札にした」
また、受付を真ん中にして、六つの風呂が点在している。
「風呂を行ったり来たりしていれば、いつかは札に出合えます」
「御殿湯」の大と小(時間制で男女入れ替え)、共同浴場としても使われた「新湯」(同)、先々代の当主の幼名をつけた「亥之輔(いのすけ)の湯」(貸し切り風呂)――。風呂巡りが楽しい。
新湯は石組みの湯船が大湯に次いで古い。11年完成の亥之輔の湯は、茶室のような入り口をかがみながら入ると、小さな石風呂がある。半露天で、江戸時代の石垣を見ながら湯船につかれる。
風呂を堪能したら、もう一つ難儀なことが待っていた。山の斜面に造られた客室の最上階に泊まると、受付から数えて94段の階段を上り切らなければならない。風呂はすべて1階にあり、蔵湯の木札を「ちょっと見に行く」などとても無理で、息が切れてしまう。
でも、天気がいい日には仙台の街明かりが展望できる。1階には風呂の合間の休憩所「喫茶去(こ)」があって地酒の振る舞いもあり、難儀なことも報われる。
「客室を造るか、蔵湯と大湯を造るか、どちらにお金をかけるか迷いました。豪華なお風呂は家にはありませんので」
温泉旅館の誇りに懸けて蔵湯と大湯に資金をつぎ込んだ選択は正しかったようだ。
◇国登録の文化財が目白押し
離れの建物や門、1896年ごろに建造された蔵湯の建物を含む蔵三つ、会食室として使われている1907年建造の木造2階建て本館、そして、仙台藩主が泊まった建物を32年に復元した木造2階建て入り母屋造りの青根御殿――。2014年にこれらの建造物が国登録の有形文化財となった。
うち、青根御殿には、仙台藩ゆかりの書画骨董(こっとう)と江戸時代の古文書が展示されている。3000点もの古文書があり、東北大学の寄付研究部門による解読文書も一部添えられている。
おかみは毎朝、館内歴史ツアーのガイド役も務める。
政宗の父輝宗が着用したとされる鎧兜(よろいかぶと)、仙台藩主が狩りで使った弓矢、お姫様の鏡台、弁当箱、狩野探幽の掛け軸、欄間には伊達家の三引(みつびき)両紋と竹に雀(すずめ)紋……。「お殿様が置いていったものがほとんど」だという。蔵王の山麓にあって交通の便も良くないが、文人にも愛された。
与謝野鉄幹・晶子夫妻は2度訪れ、歌を詠んだ。芥川龍之介は菊池寛のすすめで1カ月間、座敷蔵に滞在したという。斎藤茂吉、高村光太郎・智恵子夫妻、吉川英治、川端康成、古賀政男が宿泊した記録も残る。
山本周五郎が歴史小説「樅(もみ)ノ木は残った」を完成させたのは青根御殿の部屋で、窓からは今もモミの木が見える。
同小説が70年にNHKの大河ドラマになった際に「樅ノ木ブーム」が起き、宿泊客からの要望で始まったのがこの館内歴史ツアーだという。
◇メモ
東北新幹線の白石蔵王駅からミヤコー路線バスで約50分、仙台駅からはミヤコー高速バスで約60分。どちらも「遠刈田温泉、アクティブリゾーツ宮城蔵王」行きで終点まで。アクティブリゾーツ宮城蔵王からは宿の車で送迎してくれる。駐車場あり。予約は湯元不忘閣のホームページから。 電話0224・87・2011。
光太郎は、昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子の療養のため、各地の温泉巡りに智恵子を連れ歩きます。初夏には草津、そして8月24日から9月上旬にかけ、東北と北関東の温泉地。裏磐梯川上温泉を皮切りに、青根温泉、再び福島に戻り土湯温泉の奥にある不動湯、最後は栃木の塩原温泉。
当方、このうち、草津にはだいぶ前に2度訪れました。裏磐梯川上温泉は近くを通ったことはありますが、ここが光太郎智恵子の泊まったところだ、という場所は未踏です。不動湯は、平成25年(2015)に焼失する前に1度、それから焼失直後、さらに日帰り温泉施設として復活してからも訪れました。塩原にも1度足を運びました。
当方、このうち、草津にはだいぶ前に2度訪れました。裏磐梯川上温泉は近くを通ったことはありますが、ここが光太郎智恵子の泊まったところだ、という場所は未踏です。不動湯は、平成25年(2015)に焼失する前に1度、それから焼失直後、さらに日帰り温泉施設として復活してからも訪れました。塩原にも1度足を運びました。
そして、青根温泉。もう5年近く経つか、という感じですが、その際のレポートがこちら。宿泊させていただきましたので、記事にある各湯にゆったりつかり、不忘閣の館内歴史ツアーも体験しました。またぜひ泊まってみたい宿の一つです。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。
昭和26年(1951)11月11日の日記より 光太郎69歳
宮静枝は詩人。光太郎とは戦前から交流があり、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会(この席上で、有名な「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が「発見」されました)に、光太郎ともども参加しています。下の画像、前列左から二人目が宮、四人目が光太郎、その隣が賢治実弟の清六です。
宮は平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、日記にある「ライカにて撮影いろいろ」という写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
珍しい光太郎の後ろ姿も。