大晦日の地方紙『デーリー東北』さんの記事から。

「乙女の像」制作中の写真、七戸に 助手務めた彫刻家・小坂の親戚、宮沢さん方 

001 十和田湖のシンボルで、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に手掛けた「乙女の像」は、野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二が助手を務めて仕上げた高村の最高傑作と言われる作品だ。制作中の写真は、これまでごく一部の関係者しか持っていないとみられていた。だが、今年に入り、小坂と家族ぐるみの付き合いしをしてきた七戸町の宮沢弘子さん(72)方から1枚が見つかった。関係者は十和田市や野辺地町以外での発見に驚いている。
 乙女の像は1953年、十和田八幡平国立公園の指定15周年を記念して作られた。高村が自分の命が残り少ないと予期しながら手掛けた最後の作品で、東京で小坂と共に制作した。
 今回、見つかった写真は、像に針金を巻き付けた場面で、これから本格的な作業に入ることをうかがわせる一枚。高村と小坂が像を挟むように並んで写っている。
 乙女の像の調査などに携わった、十和田奥入瀬観光機構の山本隆一事務局長は、撮影時期は「完成前の53年3月ごろのものではないか」とみる。高村の日記にあった記述とも一致するという。
 山本事務局長もこの写真自体は資料として残っているとしつつ、「七戸で見つかったことは思わぬ発見」と驚く。
 宮沢さんによると、写真は親戚関係に当たる小坂が過去に送ってきた物という。これまで他の作品などと共に長年、保管してきた中、「実は制作途中の写真が残っていること自体が貴重なのでは」と気付き“発掘”したという。
 宮沢さんは今月、七戸町に写真のコピーを寄贈。東北新幹線駅の七戸十和田駅が十和田湖の玄関口の一つであることから、駅への展示を提案した。
 写真について宮沢さんは「(圭二)おじちゃんが七戸にもゆかりがあることが分かるきっかけになる」と強調。「七戸との縁は知られていない。十和田湖への観光客や地元の人に、少しでも知ってもらえたらうれしい」と話している。


今回見つかったという写真と同じものは、当会顧問であらせられた故・北川太一先生もお持ちで、既に昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』や、平成27年(2015)、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが出され、当方も3分の1ほど執筆させていただいた『十和田湖乙女の像のものがたり』などに掲載されています。

ただ、北川先生旧蔵のものがキャビネ版程度の大きさでしたし、助手を務めた小坂本人の遺品であるということ、一般にはあまり知られていない写真という意味でも、貴重なものといえるでしょう。

左下が問題の写真。右下は少し前に撮られたと見られるもので、やはり北川先生がご提供下さって『十和田湖乙女の像のものがたり』に掲載されている写真です。どちらもおそらく詩人の藤島宇内の撮影と思われます。藤島は当会の祖・草野心平の弟子筋で、像の制作に当たってあれこれ世話を焼いてくれました。
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両方とも十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」さんに、タペストリーにプリントされて展示されてもいます。
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タペストリーは、「乙女の像」完成後に小坂がもらい受け、さらに小坂の弟子筋の彫刻家、北村洋文氏の手に渡った「乙女の像」制作時に使われた回転台(左上写真にも写っています)が、「ぷらっと」さんに寄贈された平成30年(2018)に、新たに作られました。

記事にある山本氏によると、小坂は七戸町の宮沢家(宮沢賢治とは無縁だそうです)から小学校に通っていたとのことでした。

その山本氏から頂いた、一昨日、令和4年元日の「乙女の像」画像。
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「最低気温-16℃、最高気温-6℃」だそうで、いやぁ、「寒い」などというものではないでしょうね(笑)。

今月中旬には現地に行く予定でおりますが、心して行って参りたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

(智恵子命日)レモンを供へる。
 
昭和26年(1951)10月5日の日記より 光太郎69歳

昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の命日。回忌の数え方でいうと、十三回忌は前年でした。ただ前年の日記は失われており、残念です。

「供へる」と言っても、おそらく手元に智恵子の遺影は無かったはず(昭和20年=1945の空襲で焼けてしまったため)。

そして「乙女の像」。光太郎自身、オフィシャルな場ではそう明言しませんでしたが、その顔は明らかに智恵子の顔、と言われています。

上記、藤島宇内の回想文「逝ける詩人高村光太郎」(昭和31年=1956 6月、『新女苑』第234号)より。

 製作にかかる時、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか、」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。


泣けるエピソードですね。