「吉原レポート」と言っても、風俗店の突撃取材ルポではありませんのでよろしく。
過日書いた花巻レポートと前後しますが、12月12日(日)、上野の東京藝術大学さんで「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見した後、方角的に近いので、台東区の千束地区、いわゆる吉原をぶらぶら散歩しました。
欧米留学から帰朝した明治42年(1909)末か、翌年の初めくらいから、光太郎が通い詰めた「河内楼」という妓楼があった場所です。
光太郎が通っていた「河内楼」のあったあたり、これまで一度も行ったことがないので、この機会に、と思い、行ってみました。10月に、NHKさんの「歴史探偵」で吉原遊郭が取り上げられたのを拝見し、「ほおお」という感じでしたし、谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』を読んだこともきっかけとなりました。
頼りにしたのは、明治27年(1894)の古地図。光太郎が通っていた頃と、ほぼ同じ配置のはずですので。
上野から地下鉄日比谷線で2駅の、三ノ輪駅で下車、歩きました。
標柱が立っており、いよいよ吉原ゾーン。河内楼のあった「京町通」で、上記地図で言うと左下の方です。
ほどなく、吉原で一、二を争う規模だった、角海老楼のあった場所。
そういう場所である、ということで、吉原遊郭全体の説明板が立っていました。
角海老楼は、明治期に当時としては珍しかった時計塔が据えられていた大店でした。
その前を通り過ぎ、河内楼があったはずのあたり。
何だかサイケデリックな(死語ですね(笑))ビルが建っていました。光太郎がここいらに立って、懐からスケッチブックを出し、若太夫を描いたのか、と思うと、感慨深いものがありました。
こちらが明治末の河内楼。角海老楼ほどではありませんでしたが、それなりの格式の店だったようです。
若太夫は、本名・真野しま。名古屋の出身でした。光太郎はその風貌をモナ・リザに例えています。
光太郎が若太夫に入れあげているのを知った阿部次郎や木村荘太(光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄)などが、あえて若太夫を指名し、通うようになります。
そのため、木村と光太郎は決闘寸前まで行ったとのこと。
しかし、当の若太夫は、やはり誰にも本気だったわけではなかったようで、年季が明けると郷里に帰っていきました。
若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(同)
そして、明治44年(1911)、吉原大火。河内楼も角海老楼も灰燼に帰しました。このあたり、木村の小説『魔の宴』に詳述されています。
さて、河内楼址を後に、ぶらぶら散歩。
メインストリートの仲之町通りを歩き、吉原神社さんへ。
かつて若太夫ら遊女たちもお参りしたのかな、などと考えながら、参拝。
仲之町通りを逆に歩くと、かつてのメインゲート・大門のあったあたり。
今も通りには柳の並木があり、風情が感じられます。
右上は、かつて吉原全体をぐるりと取り囲んでいた、「お歯黒どぶ」だった道。今も周囲より一段低くなっています。
大門のちょっと先には、吉原土手のあった辺り。
吉原ゾーンに入る前、町名が「竜泉」でしたので、一葉が暮らしていたのはこの辺だったはず、とは思っていましたが、こんなふうに道端に碑が立っているとは存じませんでした。
光太郎と一葉、直接の交流はありませんでしたが、光太郎は、明治25年(1892)、肺炎のため数え16歳で早世した長姉・咲(さく)の面差しが、一葉そっくりだったとくり返し書いています。
面差し、といえば、やはり気になるのが、光太郎をしてモナ・リザを彷彿とさせられたという、若太夫。どこかに写真が残っていないか、常に気になっています。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
晴時々小雨、涼、 雨のあと、紙屑四俵を畑でやく、
灰は肥料になるとはいえ、「紙屑四俵」……(笑)。
過日書いた花巻レポートと前後しますが、12月12日(日)、上野の東京藝術大学さんで「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見した後、方角的に近いので、台東区の千束地区、いわゆる吉原をぶらぶら散歩しました。
欧米留学から帰朝した明治42年(1909)末か、翌年の初めくらいから、光太郎が通い詰めた「河内楼」という妓楼があった場所です。
「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、といふことになつた。
いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
光太郎が通っていた「河内楼」のあったあたり、これまで一度も行ったことがないので、この機会に、と思い、行ってみました。10月に、NHKさんの「歴史探偵」で吉原遊郭が取り上げられたのを拝見し、「ほおお」という感じでしたし、谷川渥氏著『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』を読んだこともきっかけとなりました。
頼りにしたのは、明治27年(1894)の古地図。光太郎が通っていた頃と、ほぼ同じ配置のはずですので。
上野から地下鉄日比谷線で2駅の、三ノ輪駅で下車、歩きました。
標柱が立っており、いよいよ吉原ゾーン。河内楼のあった「京町通」で、上記地図で言うと左下の方です。
ほどなく、吉原で一、二を争う規模だった、角海老楼のあった場所。
そういう場所である、ということで、吉原遊郭全体の説明板が立っていました。
角海老楼は、明治期に当時としては珍しかった時計塔が据えられていた大店でした。
その前を通り過ぎ、河内楼があったはずのあたり。
何だかサイケデリックな(死語ですね(笑))ビルが建っていました。光太郎がここいらに立って、懐からスケッチブックを出し、若太夫を描いたのか、と思うと、感慨深いものがありました。
こちらが明治末の河内楼。角海老楼ほどではありませんでしたが、それなりの格式の店だったようです。
若太夫は、本名・真野しま。名古屋の出身でした。光太郎はその風貌をモナ・リザに例えています。
光太郎が若太夫に入れあげているのを知った阿部次郎や木村荘太(光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄)などが、あえて若太夫を指名し、通うようになります。
ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(同)
そのため、木村と光太郎は決闘寸前まで行ったとのこと。
しかし、当の若太夫は、やはり誰にも本気だったわけではなかったようで、年季が明けると郷里に帰っていきました。
若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(同)
そして、明治44年(1911)、吉原大火。河内楼も角海老楼も灰燼に帰しました。このあたり、木村の小説『魔の宴』に詳述されています。
さて、河内楼址を後に、ぶらぶら散歩。
メインストリートの仲之町通りを歩き、吉原神社さんへ。
かつて若太夫ら遊女たちもお参りしたのかな、などと考えながら、参拝。
仲之町通りを逆に歩くと、かつてのメインゲート・大門のあったあたり。
今も通りには柳の並木があり、風情が感じられます。
右上は、かつて吉原全体をぐるりと取り囲んでいた、「お歯黒どぶ」だった道。今も周囲より一段低くなっています。
大門のちょっと先には、吉原土手のあった辺り。
吉原ゾーンに入る前、町名が「竜泉」でしたので、一葉が暮らしていたのはこの辺だったはず、とは思っていましたが、こんなふうに道端に碑が立っているとは存じませんでした。
光太郎と一葉、直接の交流はありませんでしたが、光太郎は、明治25年(1892)、肺炎のため数え16歳で早世した長姉・咲(さく)の面差しが、一葉そっくりだったとくり返し書いています。
面差し、といえば、やはり気になるのが、光太郎をしてモナ・リザを彷彿とさせられたという、若太夫。どこかに写真が残っていないか、常に気になっています。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
晴時々小雨、涼、 雨のあと、紙屑四俵を畑でやく、
昭和26年(1951)9月10日の日記より 光太郎69歳
灰は肥料になるとはいえ、「紙屑四俵」……(笑)。