昨日は、上野の東京藝術大学さんで、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見して参りました。
光太郎の父にして、近代彫刻界の泰斗・髙村光雲、その子・光太郎、そして鋳金分野で人間国宝となり、家督相続を放棄した光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ三男・豊周、三人の制作の舞台裏を展示するものでした。
会場は、正木記念館。
ふと、視線を感じ、振り返ると……。
閑話休題、正木記念館は、東京美術学校第5代校長・正木直彦(光太郎在学中に着任)を顕彰するためにその名を冠し、昭和10年(1935)、作品陳列館として建てられました。
その正木像。一見、木彫に見えますが、陶製です。作者は美校出身で、のち、母校で教鞭を執った沼田一雅。
いざ、2階の会場へ。残念ながら、内部は撮影禁止でした。
畳敷きの大広間二つをぶちぬきにして、周縁に展示物。反時計回りに進みました。
まずは光雲、光太郎、豊周の順に、使っていた道具類、スケッチ帖・作品下図や習作の小品などがまとめてありました。
興味深かったのは、彫刻刀などの類。光雲のものは200本程、光太郎のそれは150本くらい展示されていました。両者共に木彫を手掛けていたので、種類的に重なるものも多かったのですが、明らかに違うと感じたのは、篦(へら)。光雲は、柄の先に輪になった針金を付けた搔き篦(下の画像のタイプ)を多用していましたが、光太郎の道具の中に、それは見あたりませんでした。
光太郎の使用していたという篦は、下記のタイプ。それもけっこう大きなものでした。
光雲は、仏像等ではない、あまり作り慣れない物をモチーフにする際には、粘土や石膏で原型を作り、星取りの技法で木に写していたようですが(そのための鹿の彫刻の石膏原型が2点、星取り器も展示されていました)、やはり根本は木彫伝来の「カーヴィング」(削り取る技法、いわば「マイナス」)。それに対し光太郎は、ロダンから学んだ「モデリング」(積み重ねるやり方、言い換えれば「プラス」)が中心だったことが、篦一つとってもわかります。
先月お会いした彫刻家の吉村貴子さんもこの展示をご覧になり、同じことを感じられたとメールに書かれていました。実作者もそう感じるんだな、と思い、嬉しくなりました(笑)。
ところで、光太郎の彫刻刀の中に、一本、「千代鶴是秀作」とキャプションのついたものがありました。柄の部分まで鉄で出来ている特徴的なもので、「やはり是秀作を使っていたか」という感じでした。
彫刻刀以外には、光雲の使っていたものとして玄翁や墨壺、焼き印、光太郎使用ではチョークや鉛筆、さらに回転台なども展示されていました。豊周は鋳金家でしたので、二人とはだいぶ異なる道具でした(鏝や火箸、デバイダなど)。
それぞれに、彼らの息づかいが伝わってきそうで、感無量でした。
会場右手が道具類の展示でしたが、正面と左手は、作品が中心でした。といっても、完全な完成作はほとんどなく、石膏原型など。かえって、普段あまり観る機会のないもので、興味が尽きませんでした。
光雲の石膏原型は、フライヤーに使われている宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物(キャプションは「秋の鹿」)」(大正9年=1920)、それとは別の「鹿置物」(昭和3年=1928)、「春の鶏」、「元禄若衆」(大正14年=1925)、「三番叟」(大正11年=1922)、「郭子儀」。また習作と思われる木彫の「魚籃観音」(大正8年=1919)も展示されていました。
また、展示という訳ではないのですが、もともとある会場の欄間。こちらも光雲の手になる物だそうです。下記はネット上にあった画像を拝借しました。
こちらにはキャプションがなされておらず、光雲作と分からない人には分からないのですが……。
さらに、道具類と共に並べられていた、光雲のスケッチ帖の類も興味深く拝見しました。まず、人体解剖図的なもの。下記は平成14年(2002)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。
その他、信州善光寺さんの仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の下絵なども。
ちなみに仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像に関しては、現・髙村家当主の写真家・髙村達氏撮影の写真が、大きなタペストリーで壁面に飾られていました。
光太郎の石膏原型は、「虎の首」(明治38年=1905)と「野兎の首」(制作年不詳)。「野兎の首」の石膏には驚きました。もしオリジナルのものであれば、豊周の弟子筋の故・西大由氏がボロボロのテラコッタから苦労してとったものです。
豊周の作は、完成品の「朱銅花入」が二点。それぞれに見事な作です。うち一点は、光太郎が使っていたという彫刻用の回転台の上に置かれており、いい感じでした。
さらに、光雲が守り本尊的に大切にしていた仏像も展示されていました。江戸時代の仏師・松雲元慶の作になる聖観音像。光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。当時はいわゆる「廃仏毀釈」の時代で、本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになり、その直前に、光雲や師匠の髙村東雲が救い出したうちの一体です。
青空文庫さんに、そのエピソードがアップされています。
画像は平成7年(1995)3月の『芸術新潮』から。光雲の特集「これが日本の木彫だ! 高村光雲」が組まれていました。
当方、これの実作はおそらく初めて拝見しましたが、やはり後の光雲の作に通じると感じました。
また、東雲のさらに師匠・高橋鳳雲の兄で、これも仏師だった高橋宝山の小品「亀」と「文殊菩薩」も。こちらも初見でした。
なかなか玄人好みの展示で、あまり一般向けではないかも知れませんが、彫刻史を考える上では非常に貴重な機会です。会期が12月19日(日)までと短いのですが、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
夜「天」といふ字を書く、草野君のため。
当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。
光太郎、これ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。
光太郎の父にして、近代彫刻界の泰斗・髙村光雲、その子・光太郎、そして鋳金分野で人間国宝となり、家督相続を放棄した光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ三男・豊周、三人の制作の舞台裏を展示するものでした。
会場は、正木記念館。
ふと、視線を感じ、振り返ると……。
閑話休題、正木記念館は、東京美術学校第5代校長・正木直彦(光太郎在学中に着任)を顕彰するためにその名を冠し、昭和10年(1935)、作品陳列館として建てられました。
いざ、2階の会場へ。残念ながら、内部は撮影禁止でした。
畳敷きの大広間二つをぶちぬきにして、周縁に展示物。反時計回りに進みました。
まずは光雲、光太郎、豊周の順に、使っていた道具類、スケッチ帖・作品下図や習作の小品などがまとめてありました。
興味深かったのは、彫刻刀などの類。光雲のものは200本程、光太郎のそれは150本くらい展示されていました。両者共に木彫を手掛けていたので、種類的に重なるものも多かったのですが、明らかに違うと感じたのは、篦(へら)。光雲は、柄の先に輪になった針金を付けた搔き篦(下の画像のタイプ)を多用していましたが、光太郎の道具の中に、それは見あたりませんでした。
光太郎の使用していたという篦は、下記のタイプ。それもけっこう大きなものでした。
光雲は、仏像等ではない、あまり作り慣れない物をモチーフにする際には、粘土や石膏で原型を作り、星取りの技法で木に写していたようですが(そのための鹿の彫刻の石膏原型が2点、星取り器も展示されていました)、やはり根本は木彫伝来の「カーヴィング」(削り取る技法、いわば「マイナス」)。それに対し光太郎は、ロダンから学んだ「モデリング」(積み重ねるやり方、言い換えれば「プラス」)が中心だったことが、篦一つとってもわかります。
先月お会いした彫刻家の吉村貴子さんもこの展示をご覧になり、同じことを感じられたとメールに書かれていました。実作者もそう感じるんだな、と思い、嬉しくなりました(笑)。
ところで、光太郎の彫刻刀の中に、一本、「千代鶴是秀作」とキャプションのついたものがありました。柄の部分まで鉄で出来ている特徴的なもので、「やはり是秀作を使っていたか」という感じでした。
彫刻刀以外には、光雲の使っていたものとして玄翁や墨壺、焼き印、光太郎使用ではチョークや鉛筆、さらに回転台なども展示されていました。豊周は鋳金家でしたので、二人とはだいぶ異なる道具でした(鏝や火箸、デバイダなど)。
それぞれに、彼らの息づかいが伝わってきそうで、感無量でした。
会場右手が道具類の展示でしたが、正面と左手は、作品が中心でした。といっても、完全な完成作はほとんどなく、石膏原型など。かえって、普段あまり観る機会のないもので、興味が尽きませんでした。
光雲の石膏原型は、フライヤーに使われている宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物(キャプションは「秋の鹿」)」(大正9年=1920)、それとは別の「鹿置物」(昭和3年=1928)、「春の鶏」、「元禄若衆」(大正14年=1925)、「三番叟」(大正11年=1922)、「郭子儀」。また習作と思われる木彫の「魚籃観音」(大正8年=1919)も展示されていました。
また、展示という訳ではないのですが、もともとある会場の欄間。こちらも光雲の手になる物だそうです。下記はネット上にあった画像を拝借しました。
こちらにはキャプションがなされておらず、光雲作と分からない人には分からないのですが……。
さらに、道具類と共に並べられていた、光雲のスケッチ帖の類も興味深く拝見しました。まず、人体解剖図的なもの。下記は平成14年(2002)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。
その他、信州善光寺さんの仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の下絵なども。
ちなみに仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像に関しては、現・髙村家当主の写真家・髙村達氏撮影の写真が、大きなタペストリーで壁面に飾られていました。
光太郎の石膏原型は、「虎の首」(明治38年=1905)と「野兎の首」(制作年不詳)。「野兎の首」の石膏には驚きました。もしオリジナルのものであれば、豊周の弟子筋の故・西大由氏がボロボロのテラコッタから苦労してとったものです。
豊周の作は、完成品の「朱銅花入」が二点。それぞれに見事な作です。うち一点は、光太郎が使っていたという彫刻用の回転台の上に置かれており、いい感じでした。
さらに、光雲が守り本尊的に大切にしていた仏像も展示されていました。江戸時代の仏師・松雲元慶の作になる聖観音像。光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。当時はいわゆる「廃仏毀釈」の時代で、本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになり、その直前に、光雲や師匠の髙村東雲が救い出したうちの一体です。
青空文庫さんに、そのエピソードがアップされています。
画像は平成7年(1995)3月の『芸術新潮』から。光雲の特集「これが日本の木彫だ! 高村光雲」が組まれていました。
当方、これの実作はおそらく初めて拝見しましたが、やはり後の光雲の作に通じると感じました。
また、東雲のさらに師匠・高橋鳳雲の兄で、これも仏師だった高橋宝山の小品「亀」と「文殊菩薩」も。こちらも初見でした。
なかなか玄人好みの展示で、あまり一般向けではないかも知れませんが、彫刻史を考える上では非常に貴重な機会です。会期が12月19日(日)までと短いのですが、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
夜「天」といふ字を書く、草野君のため。
昭和26年(1951)8月10日の日記より
光太郎69歳
光太郎69歳
光太郎、これ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。