1ヵ月前ですが、先月11日の『日本経済新聞』さんの文化面。花巻そば友の会元副幹事長・泉沢善雄氏の署名記事です。
「はい、ジャンジャン!」おかわり自由 わんこそばの謎 独特の掛け声で知られる岩手名物の歴史、四半世紀かけて調査
「はい、ジャンジャン、はい、ドンドン!」。こうした給仕の掛け声とともに、一口大のそばを何杯もおかわりする岩手名物わんこそば。石川啄木や宮沢賢治の作品・日記にも、わんこそばらしきものを食べる記載がある。なぜこうした食べ方が生まれたのか。長く花巻のそば屋に勤めた私は、この謎を追い続けて四半世紀以上になる。
意外に思われる方も多いだろうが、掛け声の中で食べる現在のスタイルが定着したのはそう古いことではない。1980年代前半、東北新幹線の暫定開業に合わせ、テレビ局が盛岡のそば店「東家」に取材に来た。静かにそばを給仕していると、ディレクターが掛け声を要望。女将さんがアドリブでやった「はい、ジャンジャン」がその後、定番となったのである。なお、全く同じではつまらないと、アレンジした掛け声を使う店も多くある。
私は花巻の老舗「やぶ屋」に定年まで勤め、57年開始の「わんこそば全日本大会」にも裏方として長く関わった。若い頃から、大会の準備や打ち上げでご一緒した先輩方の話を書き留め続けた。今では亡くなった方も多く、貴重な記録になったと思う。
90年代以降は図書館で古い文献を調べたり、花巻や盛岡の老舗を何件も訪ねて話を聞かせてもらったりと調査を続けた。花巻と盛岡にはそれぞれにわんこそば起源説がありライバル関係にあるともいえるが、純粋に謎を追っていることを伝えると皆さん快く話を聞かせてくれた。
私が調べたところでは、わんこそばをメニューとして最初に出したのは花巻の「大畠家」。江戸時代から代々御用そばを任され、殿様や城代などにそばを提供した。明治になり、町民から「お殿様が召し上がったそばを食べてみたい」との希望があり、これに応えて提供したのがわんこそばの始まりとみられる。
対して、盛岡で最初にわんこそばを出したのは「わんこや」(既に廃業)。戦後間もなく、何か名物をと考え、花巻に珍しい食べ方があると聞いて大畠家を視察している。大畠家の女将さんによると、作り方や給仕の方法を教えてあげたという。その後、盛岡のそば組合で「加盟店みんなで売ろう」という動きがあり、容器をそろえて売り出した。1杯いくら、ではなく食べ放題方式も盛岡で導入されたようだ。
国分謙吉・岩手県知事(在任1947~55年)の時代に、県の要請で東京の物産展にわんこそばを出すようになり、岩手名物として全国に認知が広がった。こうした経緯を踏まえ、わんこそばの発祥は花巻、発展させたのが盛岡、と私は結論づけている。わんこそばの起源が、親戚が集まった席でおなかいっぱいになるまでそばをごちそうする「そば振る舞い」にあったのも間違いない。
嘉司屋さんは、花巻市中心街・東町(マルカンビル裏手)にある、創業明治37年(1904)の老舗のそば屋さん。大正15年(1926)には、少し離れた末広町に支店も開店したそうです。昭和20年(1945)の花巻空襲で、本店が焼失、しばらくは支店のみで営業を続けていたとのこと。平成8年(1996)に元々本店があった現在地に戻ったそうですが、そうすると、記事にある「高村光太郎も訪れた」は、支店時代のことということになります。
このブログで毎日、最下部に書いています【折々のことば・光太郎】のために、岩手時代の光太郎日記を読み返しているのですが、残念ながら嘉司屋さんの名が見つかっていません。読み飛ばしてしまったか、読み返していない部分に記述があるのかも知れません。また、日記も脱落している部分が多いので(昭和24年=1949と25年=1950のほとんど、その他にもところどころ)、たまたまその間に嘉司屋さんに行ったとも考えられます。嘉司屋さんについて「ここに書いてあるよ」という情報がありましたら、御教示下さい。
来週末にまた花巻に行って参りますので、その際は嘉司屋さんに寄ってみようと思っております。もしかすると何か光太郎関連のものが残っているかも知れません。ちなみに光太郎が、わんこそばに挑戦したという記述は、日記以外の文献等も含めて見当たりません(笑)。
当方、学生時代に初めて花巻を訪れた際に、やはり老舗のやぶ屋さん(こちらは光太郎日記に頻出します)で、わんこそばにチャレンジしました。結果は61杯でリタイア。胃のキャパとしては、もう少しいけたような気がしますが、同じ味が延々続くのが耐えられなかったという感じでした。薬味やおかず的なものも饗されるのですが、それを早々に消費してしまったのが痛かったと思います(笑)。現在はどうだか存じませんが、当時のやぶ屋さんでは、わんこそば10杯が、通常のそば1杯ぶんだということでしたので、それでも6杯ぶんは食べたことになります。ちなみに仲間内で一番食べた男は、111杯でした(笑)。
胃腸に自身のある方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
十時頃校長さん平賀さん迎にくる、学校にゆく、CIEの映画につづきて余の談話一時間。聴衆は湯口、太田のP・T・A・の会員達其他、
「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱の山口小学校。「CIE」は、GHQの部局の一つ、「民間情報教育局 (Civil Information and Education Section)」です。「Education Section」ということで、教育・宗教・芸術などの文化戦略を担当し、メディアの検閲や教育基本法制定に関与したそうです。映画の制作なども行っていたのですね。
国分謙吉・岩手県知事(在任1947~55年)の時代に、県の要請で東京の物産展にわんこそばを出すようになり、岩手名物として全国に認知が広がった。こうした経緯を踏まえ、わんこそばの発祥は花巻、発展させたのが盛岡、と私は結論づけている。わんこそばの起源が、親戚が集まった席でおなかいっぱいになるまでそばをごちそうする「そば振る舞い」にあったのも間違いない。
調査結果をまとめた本を2001年に出版。出版にあたっては、宮沢賢治や高村光太郎も訪れた花巻の老舗「嘉司屋」の4代目社長、佐々木喜太郎氏が強く応援してくれた。自分たちのしてきたことを後世に伝えたいという思いもあったろう。今夏には、新たな調査結果を加えた増補改訂版を出したところだ。
わんこそばと似た食文化は全国のそば名産地にみられる。新潟県三条市の「サイメン」、長野県松本市の「とうじそば」、島根・出雲の「カケソバ」などなど。本で紹介する際、各地の詳しい方に手紙や電話でお話は聞いたが、コロナ禍もあり実際に訪れることはできていない。いつかは食べに行きたいものだ。
花巻出身の力士も参加した1960年、第4回のわんこそば大会(岩手県花巻市の嘉司屋)
嘉司屋さんは、花巻市中心街・東町(マルカンビル裏手)にある、創業明治37年(1904)の老舗のそば屋さん。大正15年(1926)には、少し離れた末広町に支店も開店したそうです。昭和20年(1945)の花巻空襲で、本店が焼失、しばらくは支店のみで営業を続けていたとのこと。平成8年(1996)に元々本店があった現在地に戻ったそうですが、そうすると、記事にある「高村光太郎も訪れた」は、支店時代のことということになります。
このブログで毎日、最下部に書いています【折々のことば・光太郎】のために、岩手時代の光太郎日記を読み返しているのですが、残念ながら嘉司屋さんの名が見つかっていません。読み飛ばしてしまったか、読み返していない部分に記述があるのかも知れません。また、日記も脱落している部分が多いので(昭和24年=1949と25年=1950のほとんど、その他にもところどころ)、たまたまその間に嘉司屋さんに行ったとも考えられます。嘉司屋さんについて「ここに書いてあるよ」という情報がありましたら、御教示下さい。
来週末にまた花巻に行って参りますので、その際は嘉司屋さんに寄ってみようと思っております。もしかすると何か光太郎関連のものが残っているかも知れません。ちなみに光太郎が、わんこそばに挑戦したという記述は、日記以外の文献等も含めて見当たりません(笑)。
当方、学生時代に初めて花巻を訪れた際に、やはり老舗のやぶ屋さん(こちらは光太郎日記に頻出します)で、わんこそばにチャレンジしました。結果は61杯でリタイア。胃のキャパとしては、もう少しいけたような気がしますが、同じ味が延々続くのが耐えられなかったという感じでした。薬味やおかず的なものも饗されるのですが、それを早々に消費してしまったのが痛かったと思います(笑)。現在はどうだか存じませんが、当時のやぶ屋さんでは、わんこそば10杯が、通常のそば1杯ぶんだということでしたので、それでも6杯ぶんは食べたことになります。ちなみに仲間内で一番食べた男は、111杯でした(笑)。
胃腸に自身のある方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
十時頃校長さん平賀さん迎にくる、学校にゆく、CIEの映画につづきて余の談話一時間。聴衆は湯口、太田のP・T・A・の会員達其他、
昭和26年(1951)8月2日の日記より 光太郎69歳
「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から1㌔㍍弱の山口小学校。「CIE」は、GHQの部局の一つ、「民間情報教育局 (Civil Information and Education Section)」です。「Education Section」ということで、教育・宗教・芸術などの文化戦略を担当し、メディアの検閲や教育基本法制定に関与したそうです。映画の制作なども行っていたのですね。