11月29日(月)、上野の東京都美術館さんで、第43回東京書作展を拝観後、銀座の東劇ビルさんに。
こちらで行われていた、「朗読劇 智恵子抄」(銀座公演・12月4日(土)、二本松公演・12月12日(日))の稽古を拝見して参りました。
光太郎役に横内正さん、智恵子役は一色采子さん。日本女子大学校での智恵子の先輩だった(脚本では同級生)柳八重に山吹恭子さん。その夫で光太郎の留学中間だった柳敬助と、当会の祖・草野心平の二役を喜多村次郎さんがそれぞれ演じられます。
公演は様々なものを観てきましたが、稽古というものは、当方、初めて拝見しました。もう本番が近いので、だいぶ出来上がっている感じでしたが、演出家の方が、「ここはもっとこう」「この時の姿勢はこんな感じで」と、いろいろ指示を出すのを聞きつつ、「なるほど」と思いました。
それにしても、役者の皆さんのお声の良さ(特に横内さん)、立ち居振る舞いの美しさ(「朗読劇」ということで、最小限の動きだけなのですが)には、ほれぼれしました。
原作は、光太郎と交流のあった北條秀司作の脚本です。北條は光太郎の生前から執筆に着手し、昭和28年(1953)に上演にこぎ着ける希望でした。その際の智恵子役は、初代水谷八重子さん。
そこで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成した直後の同年8月、心平に連れられた水谷さんが、中野の貸しアトリエを訪問しています。
水谷さんの回顧談。
一等最初は、草野(心平)さんに連れて行っていただいて、『智恵子抄』をやりたいとお話ししたのですが、「前にもそんな話があったとき、それは詩を踊るだけだからかまわないといったけれども、どうも芝居で現実に出てくるのは……」とおっしゃりながらもいろいろと智恵子さんのお話をして下さったんです。先生が女人像を作っていらっしゃるときでした。お話を伺っているうちに、先生の思っていらっしゃる智恵子さんを現実に私たちがこわすことは大変すまないような気がして、「それじゃあきらめます」といって、引き下がったんですが、帰りの車の中で、草野さんに一ペンやろうと思ったことをほんとうにやりたいなら、何故もっとたのまないのかって叱られちゃって。それからまた一年ほど経って伺ったんです。そのときには、「あなたは顔やなんかが智恵子に似てるから智恵子をやっていただくのはかまわないが、ただ自分の出てくるのがいやだから、出来た脚本(ほん)を見てからにしよう」とおっしゃったんです。そのうち北条先生が脚色することになり、でもその時には高村先生は、もう脚本(ほん)を見ないでもいいとおっしゃっていました。
(「座談会 三人の智恵子」 昭和32年(1937)6月1日『婦人公論』第四十二巻第六号)
結局、光太郎生前にはこの公演は実現せず、初演は光太郎が歿した半年後、昭和31年(1957)11月のことでした。
北條の脚本は、それに先立って、『婦人公論』の6月号に発表されています。帰ってから、改めてそれと、後に『北條秀司戯曲選集』に収められたものとを読み返してみました。以前に読んだものでしたが、細かなところは忘れており、「あのシーン、ここに書いてある通りだったんだ」という感じでした。というのは、結構、史実とは異なる部分があったからです。まあ、それでも光太郎智恵子の鮮烈な生の軌跡は存分に表現されていますし、あくまで二次創作、ということで、それもありかな、と思います。
ただ、詩の朗読の中で、「あれっ?」と思うところがあり、台本を確認させていただくと、完全に誤植でしたので、そこは稽古中に訂正してもらいました。それ以前に、一色さんから「この漢字はどう読む?」という質問を受け、お答えしたりもしましたので、少しはお役に立ったかな、という感じです。
稽古終了後、近くのルノアールで一色さんとお茶。感想等求められましたので、述べておきました。また、差し入れに、花巻で販売されている「智恵子のレモンキャンディ」を持って行ったところ、大好評で、あと5缶欲しい、と言われ、早速手配しました。
ちなみにYouTube上に、二本松公演のプロモーション動画がアップされています。
銀座、二本松、お近くの方に、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。
光太郎本人の承諾を得ぬまま、講演会の講師として名前を出されることが、複数回ありました。この時も、新聞にそう載っている、と、村人に教えられて知ったようです。今ではとても考えられない話ですね。
こちらで行われていた、「朗読劇 智恵子抄」(銀座公演・12月4日(土)、二本松公演・12月12日(日))の稽古を拝見して参りました。
光太郎役に横内正さん、智恵子役は一色采子さん。日本女子大学校での智恵子の先輩だった(脚本では同級生)柳八重に山吹恭子さん。その夫で光太郎の留学中間だった柳敬助と、当会の祖・草野心平の二役を喜多村次郎さんがそれぞれ演じられます。
公演は様々なものを観てきましたが、稽古というものは、当方、初めて拝見しました。もう本番が近いので、だいぶ出来上がっている感じでしたが、演出家の方が、「ここはもっとこう」「この時の姿勢はこんな感じで」と、いろいろ指示を出すのを聞きつつ、「なるほど」と思いました。
それにしても、役者の皆さんのお声の良さ(特に横内さん)、立ち居振る舞いの美しさ(「朗読劇」ということで、最小限の動きだけなのですが)には、ほれぼれしました。
原作は、光太郎と交流のあった北條秀司作の脚本です。北條は光太郎の生前から執筆に着手し、昭和28年(1953)に上演にこぎ着ける希望でした。その際の智恵子役は、初代水谷八重子さん。
そこで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成した直後の同年8月、心平に連れられた水谷さんが、中野の貸しアトリエを訪問しています。
水谷さんの回顧談。
一等最初は、草野(心平)さんに連れて行っていただいて、『智恵子抄』をやりたいとお話ししたのですが、「前にもそんな話があったとき、それは詩を踊るだけだからかまわないといったけれども、どうも芝居で現実に出てくるのは……」とおっしゃりながらもいろいろと智恵子さんのお話をして下さったんです。先生が女人像を作っていらっしゃるときでした。お話を伺っているうちに、先生の思っていらっしゃる智恵子さんを現実に私たちがこわすことは大変すまないような気がして、「それじゃあきらめます」といって、引き下がったんですが、帰りの車の中で、草野さんに一ペンやろうと思ったことをほんとうにやりたいなら、何故もっとたのまないのかって叱られちゃって。それからまた一年ほど経って伺ったんです。そのときには、「あなたは顔やなんかが智恵子に似てるから智恵子をやっていただくのはかまわないが、ただ自分の出てくるのがいやだから、出来た脚本(ほん)を見てからにしよう」とおっしゃったんです。そのうち北条先生が脚色することになり、でもその時には高村先生は、もう脚本(ほん)を見ないでもいいとおっしゃっていました。
(「座談会 三人の智恵子」 昭和32年(1937)6月1日『婦人公論』第四十二巻第六号)
結局、光太郎生前にはこの公演は実現せず、初演は光太郎が歿した半年後、昭和31年(1957)11月のことでした。
北條の脚本は、それに先立って、『婦人公論』の6月号に発表されています。帰ってから、改めてそれと、後に『北條秀司戯曲選集』に収められたものとを読み返してみました。以前に読んだものでしたが、細かなところは忘れており、「あのシーン、ここに書いてある通りだったんだ」という感じでした。というのは、結構、史実とは異なる部分があったからです。まあ、それでも光太郎智恵子の鮮烈な生の軌跡は存分に表現されていますし、あくまで二次創作、ということで、それもありかな、と思います。
ただ、詩の朗読の中で、「あれっ?」と思うところがあり、台本を確認させていただくと、完全に誤植でしたので、そこは稽古中に訂正してもらいました。それ以前に、一色さんから「この漢字はどう読む?」という質問を受け、お答えしたりもしましたので、少しはお役に立ったかな、という感じです。
稽古終了後、近くのルノアールで一色さんとお茶。感想等求められましたので、述べておきました。また、差し入れに、花巻で販売されている「智恵子のレモンキャンディ」を持って行ったところ、大好評で、あと5缶欲しい、と言われ、早速手配しました。
ちなみにYouTube上に、二本松公演のプロモーション動画がアップされています。
銀座、二本松、お近くの方に、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。
昭和26年(1951)7月7日の日記より 光太郎69歳
光太郎本人の承諾を得ぬまま、講演会の講師として名前を出されることが、複数回ありました。この時も、新聞にそう載っている、と、村人に教えられて知ったようです。今ではとても考えられない話ですね。