一昨日ご紹介しました、宮城県女川町の「いのちの石碑」。同じ女川町の光太郎文学碑の精神を受け継いだプロジェクトです。
一昨日はテレビ報道系を紹介いたしましたが、今日は新聞記事から。
まず、『朝日新聞』さん。社会面に掲載されました。
震災直後の2011年4月、旧女川第一中学校(現在の女川中)の授業で当時の1年生が話し合い、「千年に1度の災害がまた来たときに命を守る」ための活動を開始。町内21カ所の浜の津波到達地点付近に石碑を設置していった。この日の女川中で21基目。当初の計画通り完成した。
碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと刻まれた。住民から他の地点にも設置してほしいとの要望があり、今後も活動は続ける。卒業生で祖父母と母親を津波で亡くした大学生の鈴木智博さん(22)は「石碑を建てて終わりじゃない。語り継いだり、防災教育に使ったり、千年後の災害で命を守れたときに意味が生まれると思う」と話した。
続いて、『毎日新聞』さん。宮城県版での掲載でした。
震災で町は高さ14.8㍍の津波に襲われ、800人超が犠牲となった。女川第一中学校(現・女川中)の社会科教諭だった阿部一彦さん(55)は、震災直後の4月に入学した1年生の授業で、「ふるさとのために何ができるか」と問いかけた。これをきっかけに、生徒らは町内の津波到達点付近に石碑を建て、被災体験を後世に伝える活動を始めた。
目標は、町内で確認できた到達点21か所に建てること。修学旅行先の東京都内で寄付を呼びかけるなどして約1000万円を集め、2013年に1基目を建てた。活動は卒業後も続いた。
21日には除幕式が行われ、高台に移転した女川中近くの設置場所に、活動してきた卒業生や阿部さんらが集まった。大学4年生になった鈴木智博さん(22)は「目指すのは1000年後の人たちの命を守ること。震災を語り継ぎ、世界に防災の輪を広げたい」と語った。
「夢だけは 壊せなかった 大震災」――。生徒らが当時詠んだ五七五が全ての石碑に1句ずつ刻まれ、最後の21基目は、東北大大学院で地球物理学を学ぶ山田太介さん(23)の句になった。句の通り、地震発生のメカニズムを解明したいと、研究者の道に進むことを目指して努力を重ねてきた。
幼い頃から、道端できれいな小石を拾うのが好きだった。鉱物の研究者に憧れた。そんな日常を、震災が一変させた。家族は無事だったが、宝物の小石は自宅とともに津波で流された。がれきが散乱する通学路、重苦しい雰囲気の教室。この10年間、厳しい状況でも「震災に夢を変えられたくない」と思い続けてきた。
「また大災害が起きても、この句を見て少しでも前向きな気持ちになってもらいたい」と願っている。
地元紙『河北新報』さん。
一昨日はテレビ報道系を紹介いたしましたが、今日は新聞記事から。
まず、『朝日新聞』さん。社会面に掲載されました。
女川いのちの石碑 完成 「千年に1度の災害から守るため」
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で津波の教訓を後世に残す「女川いのちの石碑」が完成し、21日に披露された。震災直後の2011年4月、旧女川第一中学校(現在の女川中)の授業で当時の1年生が話し合い、「千年に1度の災害がまた来たときに命を守る」ための活動を開始。町内21カ所の浜の津波到達地点付近に石碑を設置していった。この日の女川中で21基目。当初の計画通り完成した。
碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと刻まれた。住民から他の地点にも設置してほしいとの要望があり、今後も活動は続ける。卒業生で祖父母と母親を津波で亡くした大学生の鈴木智博さん(22)は「石碑を建てて終わりじゃない。語り継いだり、防災教育に使ったり、千年後の災害で命を守れたときに意味が生まれると思う」と話した。
続いて、『毎日新聞』さん。宮城県版での掲載でした。
いのちの石碑、「夢」は続く 女川、目標の21基完成 「1000年後まで」「心に寄り添い」 中学から10年「女川に石碑21基」実現 1000年後の命守る「夢」
1000年後の命を守りたい-―。東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生の願いから始まった「女川いのちの石碑」の活動が大きな節目を迎えた。目標の21基目が完成し、21日に披露式が開かれた。この10年、力を合わせ活動を続けた女川中の卒業生らは目標達成に感謝し「これからがスタート」と誓い合った。
21基目が建てられたのは、2020年に新設された町立女川小・中学校の校舎脇で、女川湾を望む一角。石碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと教訓が刻まれた。
震災直後に女川一中(後に女川中)に入学した生徒らは誰もが大切な人を亡くしたり、自宅を流されたりする中、社会科の授業で対策を話し合い、「これからを生きる人が同じ思いをしてほしくない」と石碑設置を発案。募金活動で1000万円以上集め、周りの大人も動かして1基目が13年11月に完成。卒業後も「女川1000年後のいのちを守る会」として、町内の各浜の津波最高到達点に建立してきた。
この日の披露式は、メンバーが「支援への感謝を伝えたい」と関係者を招待し、除幕後、中学時代から支えてきた阿部一彦・現石巻市立桃生中校長らと笑顔で記念撮影。全21基には震災直後に中学生が詠んだ句が刻まれ、21基目は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」。メンバーは21基建立という「夢」の実現を喜びながら、新たな「夢」をかみしめた。
気仙沼海上保安署で働く山下脩さん(22)は「これからがスタート。1000年後まで続け、亡くなる人を1人でも減らすことが夢」と話し、横浜市で暮らす伊藤唯さん(23)は「みんなで続けてきたから自分の夢もぶれなかった。ダンサーとして子どもたちを教えており、活動を続けて誰かの心に寄り添えるダンスが踊れたら」と語った。
石碑設置と合わせ、当時の記憶を残す教科書づくりや語り部を続けていて、新たな石碑の設置も検討する。
「共同通信」さん。全国の地方紙や『日本経済新聞』さんが、これを使いました。女川いのちの石碑、21基目建立 中学生が発案、計画達成
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で、津波の脅威を後世に伝える「女川いのちの石碑」の21基目が完成し21日、除幕式が開かれた。発生直後に町立女川中に入学した生徒らが「千年先の人々の命を守りたい」と石碑の建立を発案。この日で、町内の津波到達地点より高い場所に計21基建立する計画が達成された。
最後の1基は、昨年移転した町立女川小・中学校脇に建立。式典で、同級生ら有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」会長の阿部由季さん(23)は「石碑が震災を後世に語り継ぐ一つのきっかけになれば幸いです」と話した。
『読売新聞』さん。社会面で、かなり大きく取り上げられました。 石碑は震災を記録に残し、将来の津波被害を最小限にするため当時の生徒が提案。修学旅行先などで街頭募金を行い資金を調達し、2013年11月に1基目が完成した。卒業後も活動を続け、これまでに20基を町の防災集団移転地など高台に設置してきた。
メンバーは今後、追加の建立や、石碑にQRコードを付け、震災前後の町の様子を伝える仕組みづくりを計画している。鈴木智博さんは「まだ1%の10年しか経過していない。残り990年、次の世代に伝えながら防災の輪を広げたい」と語った。
1000年後も 命守る碑 震災直後入学 中学生ら 女川 津波到達地点21基目完成
東日本大震災で被災した宮城県女川町で、津波到達点に警鐘の石碑を建てる活動を続けてきた当時の中学生らが21日、、目標だった最後の21基目を建てた。震災の教訓が刻まれた「女川いのちの石碑」。「いつまでも忘れずに命を守ってほしい」との願いが込められている。震災で町は高さ14.8㍍の津波に襲われ、800人超が犠牲となった。女川第一中学校(現・女川中)の社会科教諭だった阿部一彦さん(55)は、震災直後の4月に入学した1年生の授業で、「ふるさとのために何ができるか」と問いかけた。これをきっかけに、生徒らは町内の津波到達点付近に石碑を建て、被災体験を後世に伝える活動を始めた。
目標は、町内で確認できた到達点21か所に建てること。修学旅行先の東京都内で寄付を呼びかけるなどして約1000万円を集め、2013年に1基目を建てた。活動は卒業後も続いた。
21日には除幕式が行われ、高台に移転した女川中近くの設置場所に、活動してきた卒業生や阿部さんらが集まった。大学4年生になった鈴木智博さん(22)は「目指すのは1000年後の人たちの命を守ること。震災を語り継ぎ、世界に防災の輪を広げたい」と語った。
「夢だけは 壊せなかった 大震災」――。生徒らが当時詠んだ五七五が全ての石碑に1句ずつ刻まれ、最後の21基目は、東北大大学院で地球物理学を学ぶ山田太介さん(23)の句になった。句の通り、地震発生のメカニズムを解明したいと、研究者の道に進むことを目指して努力を重ねてきた。
幼い頃から、道端できれいな小石を拾うのが好きだった。鉱物の研究者に憧れた。そんな日常を、震災が一変させた。家族は無事だったが、宝物の小石は自宅とともに津波で流された。がれきが散乱する通学路、重苦しい雰囲気の教室。この10年間、厳しい状況でも「震災に夢を変えられたくない」と思い続けてきた。
「また大災害が起きても、この句を見て少しでも前向きな気持ちになってもらいたい」と願っている。
地元紙『河北新報』さん。
「夢だけは 壊せなかった 大震災」 いのちの石碑、最後の21基目完成
東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えようと、宮城県女川町の女川中卒業生が建立する「女川いのちの石碑」の最後の21基目が完成し、21日に町内の現地で除幕式があった。2013年11月の1基目設置から丸8年で整備を終えた。同級生らが集い、災害から未来の命を守る決意を新たにした。
いのちの石碑は震災直後の11年4月に入学した生徒が計画した。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促す言葉を碑に刻み、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建ててきた。
21基目は昨年夏に開校した女川小中学校の校舎脇に設置。碑文は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」を選んだ。
全ての碑には災害への備えとして「非常時に助け合うため普段からの絆を強くする」「高台にまちを作り、避難路を整備する」「震災の記録を後世に残す」との文字が刻まれている。
除幕式には同級生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーや保護者ら約30人が出席した。阿部由季会長(23)が「私たちのようにつらく悲しい経験をすることがないよう活動してきた。震災を後世に語るきっかけになってほしい」と語った。
守る会はメンバーが中学2年だった13年2月、建立費に充てる募金を開始。約半年間で約1000万円を集めた。現在は社会人や大学生になった約10人が中心となり、各石碑の前で語り部活動を続ける。
メンバーの鈴木智博さん(22)は「残りの990年、人々が自分の命を守れるように防災の輪を広げていきたい」と力を込めた。
同じく『石巻日日新聞』さん。いのちの石碑 計画達成 女川・最後の21基目建立 ゴールでなく〝スタート〟 1千年後へメッセージ
東日本大震災の教訓を生かし、1千年後の命を守ろうと女川町立女川中学校の卒業生が設置を進めてきた「女川いのちの石碑」の最後となる21基目が21日、お披露目された。出席した卒業生8人は、プロジェクト完結を喜びながらも「これからがスタート」とさらなる伝承活動に誓いを新たにした。
平成25年11月の第1基設置から丸8年。21基目は、女川の海を見晴らす女川小中学校東側の遊歩道に建立された。
関係者約30人が見守る中、卒業生で構成する「1000年後のいのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「支え協力してくれた皆がいて活動が続いた」と多くの支援に感謝。「この石碑が震災を語り継ぐきっかけになれば」と思いを語った。
震災当時の中学1年生が「自分たちに何ができるか」考えを絞って取り組んできた。重ねた会合は200回以上。呼び掛けた募金は半年ほどで1千万円を超え、地元石材店からは石碑の無償提供を受けた。
山下脩さん(23)は「ゴール地点とも思うが、建てることが目的ではなく、今回がスタート。これから伝えていく活動をしたい」、鈴木美亜さん(22)は「一つの自信になり、誇りを持てた。大好きな女川が笑顔あふれる町になればいい」と生き生きとした表情をあふれさせた。
須田善明町長は「皆さんの思いと行動力には頭が下がる。このつながりを大切にこれからも歩みをすすめてほしい」と激励した。
石碑には①普段から絆を強く②高台にまちを作り、避難路を整備③震災の記録を後世に残す―などの言葉が刻まれている。すべて津波到達点より高い地点に設置され、避難の目印の役割もある。
そして後世の人たちへのメッセージも。「今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」
1基目と同じ山田太介さん(23)の句「夢だけは 壊せなかった 大震災」も刻まれた。
一昨日も書きましたが、活動に取り組んできた若者たちの多くが、「これがゴールではない」という前向きな姿勢でいることに感動しました。しかし、こうした方面にのみ縛られることなく、それぞれの道で夢を叶えることも期待します。
【折々のことば・光太郎】
新しき村の連中三人来訪、小屋の前に腰かけて談話。甲州のブドウ酒2本もらふ。一緒にのむ。
「新しき村」は、『白樺』以来の朋友・武者小路実篤が、大正7年(1918)、宮崎県に開いたコミュニティーです。昭和14年(1939)には埼玉県に「東の村」も作られ、さらに昭和23年(1948)には財団法人化も為されました。
実篤のこうした活動の先例も、光太郎が山小屋生活に入った一つの契機と言えるかも知れません。
【折々のことば・光太郎】
新しき村の連中三人来訪、小屋の前に腰かけて談話。甲州のブドウ酒2本もらふ。一緒にのむ。
昭和26年(1951)6月3日の日記より 光太郎69歳
「新しき村」は、『白樺』以来の朋友・武者小路実篤が、大正7年(1918)、宮崎県に開いたコミュニティーです。昭和14年(1939)には埼玉県に「東の村」も作られ、さらに昭和23年(1948)には財団法人化も為されました。
実篤のこうした活動の先例も、光太郎が山小屋生活に入った一つの契機と言えるかも知れません。