東日本大震災による大津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として、津波到達地点より高い場所に「いのちの石碑」の設置を続けています。かつて「100円募金」で建てられた、女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われています。

その取り組みは多方面で注目され、高校生になった発案者の若者たちが、国連の防災会議で発表を行ったり、天皇陛下も「第5回国連水と災害に関する特別会合」で紹介されたり、「自然災害伝承碑」という新たな地図記号が制定される契機になったりしています。

その「いのちの石碑」関連で、昨日のNHKさんのローカルニュースから。

「いのちの石碑」 震災遺族が修学旅行生に語り部 女川町

 女川町で東日本大震災の記憶や教訓を記した石碑を建てる活動を続けている女川中学校の卒業生が、修学旅行で訪れた県外の中学生に語り部を行い、助け合うことの大切さを伝えました。
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 語り部を行ったのは、震災当時、小学6年生で、県内の大学に通っている鈴木智博さん(22)です。震災で母親と祖父母を亡くしています。
 鈴木さんたち女川中学校の卒業生は、1000年先まで震災の記憶を伝えようと、町内の、津波が到達した場所付近の合わせて21か所に「いのちの石碑」を建てる活動を続けています。
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 18日は、町に最大で14.8メートルの津波が来て、町民の8%以上が犠牲になったことなどを体験談を交えて語りました。
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 その後、旧女川中学校にある最初に建てた「いのちの石碑」まで案内し、「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない」などと書かれた碑文を読みました。
そして、石碑には亡くなった方への慰霊や鎮魂の思いも込められていることや、非常時に助け合うためにふだんから人と人との絆を強くすることが大事なことなどを伝えました。
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 話を聞いた女子生徒は、「石碑を見て、思いが大事に刻まれているなと感じました。自分の地域でも地震が起こったとき、近所の人と一緒に逃げられるようにしたいです」と話していました。
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 鈴木さんは、「今の中学生は震災当時の記憶があまりないと思うので、自分の話を聞いて今後、災害があった時に自分の命を守れるように行動してほしいです。きょう聞いたことを周りの人にも話してほしいと思います」と話していました。
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 今月21日には、最後の21か所目の「いのちの石碑」が披露されるということです。

修学旅行で訪れたのは、栃木県の中学生でした。『下野新聞』さんから。

大震災の教訓 現地で体感へ 那須の小中3校、東北に修学旅行

【那須】新型コロナウイルスの感染状況が落ち着いたことを受け、町内の公立5小中学校は今月、修学旅行を実施する。このうち3校の行き先は東北地方で、震災遺構見学や全町避難した小学生との交流などが予定されている。町は2年前から防災教育に力を入れてきたため、関係者は「多くのことを学んでほしい」と期待している。
 那須中央中3年生は18日、昨年からオンライン交流を重ねてきた宮城県女川町を訪れ、震災時の津波到達点の目印「いのちの石碑」を見学。石碑建立に携わり、現地で語り部活動を続ける大学生の鈴木智博(すずきともひろ)さんに話を聞く。
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修学旅行というと、関東からは京都・奈良、関東以外からは東京というのが定番のような気がしますが、コロナ禍の影響もあり、だいぶ様変わりしているようですね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手・花巻でも受け入れに力を入れているようですし、「東北」としての修学旅行ガイドでも光太郎ゆかりの地が取り上げられたりしています。

かなり前から、単なる物見遊山ではなく、体験型の取り組みなどが取り入れられてはいる(「いのちの石碑」発案者の若者たちは、中学校時代の修学旅行先でも募金への呼びかけを行っていました)ようですが、そういった部分で、光太郎智恵子ゆかりの地がもっと注目されてほしいものです。

さて、「いのちの石碑」。NHKさんの報道の最後にも触れられていましたが、明後日、当初計画で最後の一基の除幕が行われるそうです。来週には、そちらの報道もご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

五月廿六日はじめて時鳥の声をきく。この夜夜鷹なきはじめる。廿七日も八時頃よりなく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

時鳥」は「ホトトギス」。都会の人はご存じないかも知れませんが、田舎では夏の到来の象徴です。当方自宅兼事務所周辺もかなりの田舎(笑)、初夏の朝はあちこちで「テッペンカケタカ」の大合唱です。
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