本日も新刊紹介です。
残されていた「師弟」の交流記録1931‐44。1931年より長くパリに暮らした彫刻家・高田と、彼に信頼を置いていたロラン。新発見となる、当時の二人が交わした23通に及ぶ往復書簡に見る「師弟」の記録。ナチス・ドイツ支配下のフランスに留まり、在仏新聞記者協会の役職にもあった日本人彫刻家による希有な時代の証言、さらに後年綴られた高田回想録『分水嶺』を補完するものでもある。高田のパリ時代、「ロランによる小林多喜二虐殺抗議文」を巡る論考なども収載。
高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺
2021年10月30日 髙橋純編訳 吉夏社 定価2,600円+税残されていた「師弟」の交流記録1931‐44。1931年より長くパリに暮らした彫刻家・高田と、彼に信頼を置いていたロラン。新発見となる、当時の二人が交わした23通に及ぶ往復書簡に見る「師弟」の記録。ナチス・ドイツ支配下のフランスに留まり、在仏新聞記者協会の役職にもあった日本人彫刻家による希有な時代の証言、さらに後年綴られた高田回想録『分水嶺』を補完するものでもある。高田のパリ時代、「ロランによる小林多喜二虐殺抗議文」を巡る論考なども収載。
目次
編訳者まえがき
序 発見された二十三通の手紙
序 発見された二十三通の手紙
高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡
付論 多喜二とロマン・ロラン―高田博厚が伝えた「幻の抗議文」について
付録 ロマン・ロランの日記抜粋
ロマン・ロランに届いた一通の日本語の手紙
レオンドゥーベル友の会の「趣意書」
「世界最小新聞社社長」――新聞記者高田の回想
高田博厚「ロマン・ロラン」(一九三六年執筆)
年譜
解説――高田博厚の「詩と真実」
高田博厚は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。
高田も、光太郎の影響で絵画から彫刻に転じ、光太郎の援助もあって渡仏、時代に翻弄されつつも、世界的に名声を得るに至りました。
そして、ロマン・ロラン。光太郎も早くからロランを敬愛し、大正2年(1913)には、日本で最初の『ジャン・クリストフ』の訳を発表しました。また、同11年(1922)から翌年にかけ、戯曲『リリユリ』を翻訳、同13年(1924)には単行本として上梓しています。
そして1大正15年(1926)、片山敏彦、尾崎喜八、さらに高田らと共に「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。唯一確認できている、光太郎と高田が一緒に写った写真も、「ロマン・ロラン友の会」でのものです。後列左から二人目が光太郎、前列一番右に高田。前列中央は、フランスの作家、シャルル・ヴィルドラック夫妻です。
高田は昭和6年(1931)の渡仏後、ロランと実際に会い、驚くべきことに、ロランは自らの胸像制作をまだ無名だった高田に依頼します。それまでフランスのどの彫刻家に対しても、その申し入れを断り続けていたのに、です。
そして昭和6年(1931)からロランが歿する昭和19年(1944)まで、二人の間で書簡のやりとりも為されました。その往復書簡が、パリのフランス国立図書館の「ロマン・ロラン寄贈資料庫」に保管されており、訳者・髙橋氏がそれを確認、この書籍で初公開なさったというわけです。ロランから高田宛の書簡は、おそらくロラン夫人が夫の没後、ロランの書いた物を散逸させないため、高田から譲り受けたのであろうとのことでした。
残念ながら、二人の往復書簡の中には光太郎の名は出て来ませんが(「序 発見された二十三通の手紙」では、光太郎にも言及されています)、二人の偉大な芸術家の魂の交流の様子は、興味深く拝読させていただきました。
ぜひお買い求め下さい。
高田博厚というと、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「彫刻プロムナード」が整備されている埼玉県東松山市で、毎年、高田の彫刻展が開催されています。今年の展示は10月28日(木)からでした。
こちらもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
澤田伊四郎氏来訪、食パン沢山、其他食品いろいろもらふ。今夜学校へ泊る由、尚100,000円もらふ。小屋増築についてスルガさん、院長さん等と相談して東京へかへる由。
「澤田伊四郎氏」は、出版社・龍星閣主。戦前に詩集『智恵子抄』を出版し、戦時の休業から社業を再開した昭和25年(1950)には、詩文集『智恵子抄その後』、翌26年(1951)1月には、『智恵子抄』の戦後新版を出版しました。明確な印税制を採って居らず、「100,000円」は、これらに対する「御礼」として支払われたものです。
それでも尚、光太郎の取り分が足りないということで、小屋の増築費用も龍星閣で持つことになりました。
ロマン・ロランに届いた一通の日本語の手紙
レオンドゥーベル友の会の「趣意書」
「世界最小新聞社社長」――新聞記者高田の回想
高田博厚「ロマン・ロラン」(一九三六年執筆)
年譜
解説――高田博厚の「詩と真実」
高田博厚は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。
高田も、光太郎の影響で絵画から彫刻に転じ、光太郎の援助もあって渡仏、時代に翻弄されつつも、世界的に名声を得るに至りました。
そして、ロマン・ロラン。光太郎も早くからロランを敬愛し、大正2年(1913)には、日本で最初の『ジャン・クリストフ』の訳を発表しました。また、同11年(1922)から翌年にかけ、戯曲『リリユリ』を翻訳、同13年(1924)には単行本として上梓しています。
そして1大正15年(1926)、片山敏彦、尾崎喜八、さらに高田らと共に「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。唯一確認できている、光太郎と高田が一緒に写った写真も、「ロマン・ロラン友の会」でのものです。後列左から二人目が光太郎、前列一番右に高田。前列中央は、フランスの作家、シャルル・ヴィルドラック夫妻です。
高田は昭和6年(1931)の渡仏後、ロランと実際に会い、驚くべきことに、ロランは自らの胸像制作をまだ無名だった高田に依頼します。それまでフランスのどの彫刻家に対しても、その申し入れを断り続けていたのに、です。
そして昭和6年(1931)からロランが歿する昭和19年(1944)まで、二人の間で書簡のやりとりも為されました。その往復書簡が、パリのフランス国立図書館の「ロマン・ロラン寄贈資料庫」に保管されており、訳者・髙橋氏がそれを確認、この書籍で初公開なさったというわけです。ロランから高田宛の書簡は、おそらくロラン夫人が夫の没後、ロランの書いた物を散逸させないため、高田から譲り受けたのであろうとのことでした。
残念ながら、二人の往復書簡の中には光太郎の名は出て来ませんが(「序 発見された二十三通の手紙」では、光太郎にも言及されています)、二人の偉大な芸術家の魂の交流の様子は、興味深く拝読させていただきました。
ぜひお買い求め下さい。
高田博厚というと、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「彫刻プロムナード」が整備されている埼玉県東松山市で、毎年、高田の彫刻展が開催されています。今年の展示は10月28日(木)からでした。
こちらもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
澤田伊四郎氏来訪、食パン沢山、其他食品いろいろもらふ。今夜学校へ泊る由、尚100,000円もらふ。小屋増築についてスルガさん、院長さん等と相談して東京へかへる由。
昭和26年(1951)4月2日の日記より 光太郎69歳
それでも尚、光太郎の取り分が足りないということで、小屋の増築費用も龍星閣で持つことになりました。