本日も新刊紹介です。
覗き見る想像力ーー西洋美術の視覚的イメージに触発された日本近代文学の巨匠たちの作品から、〈見ること〉の諸相を、分析する。夏目漱石、高村光太郎、村山槐多、森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、江戸川乱歩、夢野久作、川端康成、横光利一などの作品から、文学を美学から照射する試み。
上の方に『新よし原細見』(明治42年=1909)の画像を載せておきましたが、若太夫は本名・真野しま、名古屋の出身でした。「細見」でサバ読みがなされていなければ、光太郎と出会った明治43年(1910)当時、23歳だったことになります。
木村荘太の名が出て来ますが、木村荘太(艸太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。昭和25年(1950)には、自伝的小説『魔の宴』を刊行し、光太郎、若太夫との三角関係にも触れています。
結局、若太夫は光太郎より木村を選びますが、木村とてはなから本気の付き合いではありませんでした。若太夫は吉原大火(明治44年=1911、映画「吉原炎上」で描かれました)の後、年季が明けて郷里に帰り、以後、消息不明。当方、写真がないかと探してはいるのですが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。
『孤独な窃視者の夢想』では触れられていませんが、光太郎にはもう一遍、モナ・リザ=若太夫をモチーフにした詩があります。やはり明治44年(1911)に書かれた「地上のモナ・リザ」。
のちに智恵子と出会った後、縁談が持ち上がっていると語った(らしい)智恵子に向けて「チシアンの画いた絵が/鶴巻町へ買物に出るのです」(「人に」)と書いたのを彷彿させられます。ちなみにこの一節、大正元年(1912)雑誌初出時(題名も「N――女史に」でした)では「チシアンの画いた画が/鶴巻町へ買喰ひに出るのです」でした。
ところで、若太夫。光太郎は「モナ・リザ」以外にも、古典の名作になぞらえていました。昭和25年(1950)に書かれたアンケート回答「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」。
ゴヤのマハ
この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をもすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。
ゴヤの「マハ」にはいろいろなバージョンがあり、具体的にどれを指しているのか不明ですが……。「モナ・リザ」にも「マハ」にも似ていたという若太夫。先ほども書きましたが、ぜひ写真を見てみたいものです。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。
【折々のことば・光太郎】
水沢より女性二人来る、成人の日の礼といふ、樋口氏より抹茶十匁、羊かん一折、成人の有志より日本酒一升(天瓢)もらふ、写真などとり、辞去。
「成人の日」については、この10月6日(水)、10月9日(土)のこのコーナーをご参照下さい。
「天瓢」は、岩手銘醸さんで現在も造り続けられている地酒です。光太郎、市販の日本酒を貰うと、ほぼほぼ必ずといっていいくらい、その銘柄を記録しています。なぜなのでしょうか?
孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり
2021年9月30日 谷川渥著 月曜社 定価2,600円+税覗き見る想像力ーー西洋美術の視覚的イメージに触発された日本近代文学の巨匠たちの作品から、〈見ること〉の諸相を、分析する。夏目漱石、高村光太郎、村山槐多、森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、江戸川乱歩、夢野久作、川端康成、横光利一などの作品から、文学を美学から照射する試み。
目次
まえがき
【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学(1:夏目漱石、2:高村光太郎、3:村山槐多)/森鴎外の『花子』
【Ⅱ】日本近代文学とデカダンス/「表現」をめぐる断章
【Ⅲ】孤独な窃視者の夢想――江戸川乱歩と萩原朔太郎/夢野久作のエロ・グロ・ナンセンス/谷崎潤一郎――女の図像学/映画『狂った一頁』と新感覚派――覚書
あとがき
「【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」の中で、光太郎の項が設けられています。この章全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチという存在が日本近代文学にどのような影を落としているかという一点に焦点を絞って外観を試み」るもので、他に夏目漱石、村山槐多が取り上げられています。
光太郎の項では、大正3年(1914)刊行の第一詩集『道程』冒頭に置かれた詩「失はれたるモナ・リザ」(明治44年=1911)に着目されています。
「モナ・リザ」は、欧米留学からの帰朝後、まだ智恵子と出会う前に、光太郎が通っていた吉原の遊郭・河内楼の娼妓、若太夫です。
『孤独な窃視者の夢想』では、「この「モナ・リザ」は、吉原河内楼の娼妓「若太夫」のことだと一般に指摘されている。」とあります。「一般に指摘」ではなく、光太郎自身がそう書いているのですが……。
若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
「【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」の中で、光太郎の項が設けられています。この章全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチという存在が日本近代文学にどのような影を落としているかという一点に焦点を絞って外観を試み」るもので、他に夏目漱石、村山槐多が取り上げられています。
光太郎の項では、大正3年(1914)刊行の第一詩集『道程』冒頭に置かれた詩「失はれたるモナ・リザ」(明治44年=1911)に着目されています。
モナ・リザは歩み去れり
かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の将軍の夫人が偸見(ぬすみみ)の如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
しづやかに、つつましやかに
モナ・リザは歩み去れり
モナ・リザは歩み去れり
深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
はれやかに解かれたれ
ながく画堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の涙をたたへて
画布(トワアル)にむかひたる
迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
ああ、画家こそははかなけれ
モナ・リザは歩み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に権謀の力つよき
昼みれば淡緑に
夜みれば真紅(しんく)なる
かのアレキサンドルの青玉(せいぎよく)の如き
モナ・リザは歩み去れり
我が魂を脅し
我が生の燃焼に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは涙をながさず
ただ東洋の真珠の如き
うるみある淡碧(うすあを)の歯をみせて微笑せり
額ぶちを離れたる
モナ・リザは歩み去れり
モナ・リザは歩み去れり
かつてその不可思議に心をののき
逃亡を企てし我なれど
ああ、あやしきかな
歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
消えなば、いかに悲しからむ
ああ、記念すべき霜月しもつきの末の日よ
モナ・リザは歩み去れり
「モナ・リザ」は、欧米留学からの帰朝後、まだ智恵子と出会う前に、光太郎が通っていた吉原の遊郭・河内楼の娼妓、若太夫です。
『孤独な窃視者の夢想』では、「この「モナ・リザ」は、吉原河内楼の娼妓「若太夫」のことだと一般に指摘されている。」とあります。「一般に指摘」ではなく、光太郎自身がそう書いているのですが……。
「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
上の方に『新よし原細見』(明治42年=1909)の画像を載せておきましたが、若太夫は本名・真野しま、名古屋の出身でした。「細見」でサバ読みがなされていなければ、光太郎と出会った明治43年(1910)当時、23歳だったことになります。
木村荘太の名が出て来ますが、木村荘太(艸太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。昭和25年(1950)には、自伝的小説『魔の宴』を刊行し、光太郎、若太夫との三角関係にも触れています。
結局、若太夫は光太郎より木村を選びますが、木村とてはなから本気の付き合いではありませんでした。若太夫は吉原大火(明治44年=1911、映画「吉原炎上」で描かれました)の後、年季が明けて郷里に帰り、以後、消息不明。当方、写真がないかと探してはいるのですが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。
『孤独な窃視者の夢想』では触れられていませんが、光太郎にはもう一遍、モナ・リザ=若太夫をモチーフにした詩があります。やはり明治44年(1911)に書かれた「地上のモナ・リザ」。
地上のモナ・リザ
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
世の人々のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮ふかき古への画聖もかくは描きたりき
現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ
われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
仮象に入りて美しく輝き
咫尺に現じて痛ましく貴し
選択の運命はすでにすでに世を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永しへに地を歩むことなかれ
のちに智恵子と出会った後、縁談が持ち上がっていると語った(らしい)智恵子に向けて「チシアンの画いた絵が/鶴巻町へ買物に出るのです」(「人に」)と書いたのを彷彿させられます。ちなみにこの一節、大正元年(1912)雑誌初出時(題名も「N――女史に」でした)では「チシアンの画いた画が/鶴巻町へ買喰ひに出るのです」でした。
ところで、若太夫。光太郎は「モナ・リザ」以外にも、古典の名作になぞらえていました。昭和25年(1950)に書かれたアンケート回答「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」。
ゴヤのマハ
この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をもすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。
ゴヤの「マハ」にはいろいろなバージョンがあり、具体的にどれを指しているのか不明ですが……。「モナ・リザ」にも「マハ」にも似ていたという若太夫。先ほども書きましたが、ぜひ写真を見てみたいものです。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。
【折々のことば・光太郎】
水沢より女性二人来る、成人の日の礼といふ、樋口氏より抹茶十匁、羊かん一折、成人の有志より日本酒一升(天瓢)もらふ、写真などとり、辞去。
昭和26年(1951)4月1日の日記より 光太郎69歳
「成人の日」については、この10月6日(水)、10月9日(土)のこのコーナーをご参照下さい。
「天瓢」は、岩手銘醸さんで現在も造り続けられている地酒です。光太郎、市販の日本酒を貰うと、ほぼほぼ必ずといっていいくらい、その銘柄を記録しています。なぜなのでしょうか?