都下東久留米市関連で2件、いずれも『東京新聞』さんに載った記事から。
まずは地元コミュニティFMさんと市立図書館さんのコラボ企画だそうで。
というわけで、展示の詳細はこちら。
みなさまから寄せられた本の思い出エピソードをいくつかピックアップしてご紹介する特別番組が決定しました!企画展と併せてお楽しみください。
聴取可能な区域(小平、清瀬、東久留米他)にお住まいの方、ぜひどうぞ。
もう1件、『東京新聞』さんから。
10月10日(日)に載った(系列の『中日新聞』さんには10月20日(水)に載ったようです)「こちら特報部」というコーナーの大きな記事に、光太郎の名が。ただし、光太郎は添え物だったので、これまで紹介してきませんでしたが、やはり東久留米関連ですので、ここでついでに(というと何ですが)ご紹介します。
ただ、あまりに長いので全文は引用しません。下記画像、クリックしてご覧下さい。
ここの施設長だった、中込友美という人物が、詩人でもあり、光太郎と交流があったため、光太郎の名が記事に出ています。下記画像、前列中央が中込、施設の子供たちと撮影されたショットです。
中込は、戦前には詩誌『河』や『はなかご』などに拠った詩人でしたが、詩人としてはほとんど無名だったようです。
当方手元に、光太郎を含む多数の詩人の作品を収録したアンソロジー的な書籍が100冊ばかりあり、収録されている詩人の名はすべてデータ化しましたが、検索をかけてみると、中込の詩が載っているものは1冊のみでした。昭和13年(1938)、詩報発行所から刊行の『新日本詩鑑 第一輯』。ここに中込の詩が2篇採録されていました。
もっとも、当時のアンソロジー全てに光太郎作品が載ったわけでもないので、当方の手元にないものに中込作品がもっと載っている可能性もありますが……。
『高村光太郎全集』には、3箇所、中込の名が出て来ます。
まず、中込宛の書簡が1通。昭和9年(1934)のもの。智恵子にも触れられています。
それから、昭和19年(1944)の『日本読書新聞』に載ったアンケート「読書会に薦める」。
さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。
ただ、太平洋戦争末期の世の中全体が無茶苦茶な状況でしたので、出版の方もいい加減。どこかで誤植が生じたようで、書名やカッコの位置がめちゃめちゃです。
あとは、詩人の川崎芳太郎に送った書簡に、中込の名がちらっと。こちらは昭和3年(1928)でした。ということは、意外と長い付き合いだったというのが分かります。
中込には、思想家の江渡狄嶺に関する著作もあり、江渡は光太郎とも親しかったため、そのあたりの人脈なのかな、という気がします。
それにしても、『東京新聞』さんの記事、興味深く拝読しました。しかし、もう現地の東久留米でも、当時のことはほとんど忘れられているようで、残念です。
そういう意味では、こういう記事は大きな価値のあるものだと思います。
【折々のことば・光太郎】
ひる頃集配人今年はじめてくる。お年玉進呈(200円)
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、住み始めた当初は、郵便配達夫は、1㌔弱離れた山口分教場(のち山口小学校)までしか届けに来てくれませんでしたが、のちには光太郎の山小屋まで、直接来てくれるようになりました。しかし、それも雪深い時期は無理だったようでした。
まずは地元コミュニティFMさんと市立図書館さんのコラボ企画だそうで。
「思い出の1冊」エピソード70点に共感 地元FM局が募り、東久留米の図書館展示
東久留米市立ひばりが丘図書館とコミュニティーFM局「TOKYO854くるめラ」の共同企画展「あなたの本の思い出、教えてください」が、同館で開かれている。くるめラリスナーらの「思い出の一冊」を、寄せられたエピソードと共に展示。長年、親しまれてきた絵本や児童書、小説が並び、来館者は「私もこの本好きだったな」と自身の思い出を語り合っている。
◆利用者と双方向
図書館の展示は、館側がテーマに沿った本を選ぶことが一般的だが、佐々木吾一館長は「利用者と双方向でつながれる企画をしたかった」という。エピソード募集はくるめラの番組内の「図書館へ行こう」のコーナーなどで呼び掛け、九月上旬からの一カ月で約七十件が集まった。
絵本のエピソードは、読み聞かせをした親や、してもらった子どもからも届いた。今は社会人になった息子に「よるくま」(酒井駒子、偕成社)を毎晩、読み聞かせた応募者は「最後の一文『おやすみ』を合唱してから眠っていたのを息子は覚えているかなあ」と記した。「わたしのワンピース」(西巻茅子、こぐま社)を挙げた女性は「この絵本を読むときの母の声が優しかったので好きになりました」とつづった。
◆大人になっても読む
ミヒャエル・エンデの「モモ」やモンゴメリの「赤毛のアン」については、子どものころ出合い、大人になっても読み続けているといった声が寄せられた。高村光太郎の「智恵子抄」や沢木耕太郎の「深夜特急」なども挙がった。
佐々木館長は「たくさんの人が共鳴できる、すてきなエピソードが集まった」と話す。展示中の本も借りられる。貸し出し中は本の題とエピソードのみ掲示される。十一月九日まで。
くるめラでは今月二十八日午前十一時十五分から、特番を放送して数通のエピソードを紹介する。
金曜休館。問い合わせは同館=電042(463)3996=へ。
『智恵子抄』をご推薦下さった方、ありがとうございます!というわけで、展示の詳細はこちら。
TOKYO854 くるめラ・ひばりが丘図書館共同企画 『あなたの本の思い出、教えてください』
期 日 : 2021年10月9日(土)~11月9日(火)
会 場 : 東久留米市立ひばりが丘図書館
東京都東久留米市ひばりが丘団地185 南部地域センター2階
時 間 : 午前9時~午後7時
時 間 : 午前9時~午後7時
休 館 : 毎週金曜日
料 金 : 無料
ラジオ番組の方は、こんな感じです。読書から得られる様々な思いは、決して色褪せることはありません。
お子さんがまだ小さい頃に、膝の上で読み聞かせた絵本たち。多感な青春時代に巡り会い、心を揺さぶられた本。心が少し疲れてしまった時に、そっと励ましの言葉をくれた本。
そんな思い出がいっぱい詰まった一冊を、エピソードと共に教えてもらえませんか。
特番 あなたの本の思い出、教えてください
TOKYO854 くるめラ 2021年10月28日(木) 午前11時15分~11時54分みなさまから寄せられた本の思い出エピソードをいくつかピックアップしてご紹介する特別番組が決定しました!企画展と併せてお楽しみください。
聴取可能な区域(小平、清瀬、東久留米他)にお住まいの方、ぜひどうぞ。
もう1件、『東京新聞』さんから。
10月10日(日)に載った(系列の『中日新聞』さんには10月20日(水)に載ったようです)「こちら特報部」というコーナーの大きな記事に、光太郎の名が。ただし、光太郎は添え物だったので、これまで紹介してきませんでしたが、やはり東久留米関連ですので、ここでついでに(というと何ですが)ご紹介します。
ただ、あまりに長いので全文は引用しません。下記画像、クリックしてご覧下さい。
ここの施設長だった、中込友美という人物が、詩人でもあり、光太郎と交流があったため、光太郎の名が記事に出ています。下記画像、前列中央が中込、施設の子供たちと撮影されたショットです。
中込は、戦前には詩誌『河』や『はなかご』などに拠った詩人でしたが、詩人としてはほとんど無名だったようです。
当方手元に、光太郎を含む多数の詩人の作品を収録したアンソロジー的な書籍が100冊ばかりあり、収録されている詩人の名はすべてデータ化しましたが、検索をかけてみると、中込の詩が載っているものは1冊のみでした。昭和13年(1938)、詩報発行所から刊行の『新日本詩鑑 第一輯』。ここに中込の詩が2篇採録されていました。
もっとも、当時のアンソロジー全てに光太郎作品が載ったわけでもないので、当方の手元にないものに中込作品がもっと載っている可能性もありますが……。
『高村光太郎全集』には、3箇所、中込の名が出て来ます。
まず、中込宛の書簡が1通。昭和9年(1934)のもの。智恵子にも触れられています。
それから、昭和19年(1944)の『日本読書新聞』に載ったアンケート「読書会に薦める」。
さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。
ただ、太平洋戦争末期の世の中全体が無茶苦茶な状況でしたので、出版の方もいい加減。どこかで誤植が生じたようで、書名やカッコの位置がめちゃめちゃです。
誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)
あとは、詩人の川崎芳太郎に送った書簡に、中込の名がちらっと。こちらは昭和3年(1928)でした。ということは、意外と長い付き合いだったというのが分かります。
中込には、思想家の江渡狄嶺に関する著作もあり、江渡は光太郎とも親しかったため、そのあたりの人脈なのかな、という気がします。
それにしても、『東京新聞』さんの記事、興味深く拝読しました。しかし、もう現地の東久留米でも、当時のことはほとんど忘れられているようで、残念です。
そういう意味では、こういう記事は大きな価値のあるものだと思います。
【折々のことば・光太郎】
ひる頃集配人今年はじめてくる。お年玉進呈(200円)
昭和26年(1951)3月8日の日記より 光太郎69歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、住み始めた当初は、郵便配達夫は、1㌔弱離れた山口分教場(のち山口小学校)までしか届けに来てくれませんでしたが、のちには光太郎の山小屋まで、直接来てくれるようになりました。しかし、それも雪深い時期は無理だったようでした。