富山県から企画展示情報ですが、まず、地方紙『北日本新聞』さんの記事から。
高峰の別邸と接点か 高岡出身の彫刻家 本保義太郎 市美術館、情報提供呼び掛け
高岡市美術館は、開催中の国立美術館巡回展「高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」で紹介している市出身の彫刻家、本保(ほんぼ)義太郎(ぎたろう)(1875~1907年)について、同郷の化学者、高峰譲吉(1854~1922年)ゆかりの建物「松楓殿(しょうふうでん)」と接点があった可能性があるとして、裏付ける資料を探している。高峰の別邸として知られる同建物は、元々は米セントルイス万国博覧会で日本のメインパビリオンとして建設され、本保が万博を視察しているためだ。同館は市民らに情報提供を呼び掛けている。(牧野陽子)
1904年開催のセントルイス万博で日本のパビリオンだった建物は高峰が譲り受けてニューヨークに移設し、松楓殿として日米親善の社交場に活用した。昨年、建物の一部が高岡商工ビルに再現され、常設展示されている。
本保は高岡市源平町の仏師の家に生まれた。東京美術学校(現東京芸術大)に進み、卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。フランスに留学し、ロダンが彫塑のトップを務めた展覧会で入選した。
本保は32歳で病死。市美術館の村上隆館長は「偉大な芸術家へと歩み始めた矢先に亡くなり残念」と話す。早世で市民に存在があまり知られておらず、巡回展を企画した国立西洋美術館関係者は「高岡の宝が知られていないのはもったいない」と言う。
同展では本保が手掛けたブロンズ像「若菜売」や裸婦立像、デッサンをはじめ、肖像写真や所有していた美術雑誌など資料を含め約20点を展示。本人が入手したセントルイス万博の図録も並ぶ。本保は万博に出品し、県などの委嘱で現地を視察しており、松楓殿や高峰と直接つながりがあった可能性がある。
村上館長は「松楓殿、本保さんの存在は高岡にとっても大きな財産。きちんとした資料で調べていきたい」と話している。
本保義太郎。東京美術学校彫刻科で、光太郎の一級上でした。明治37年(1904)3月31日の光太郎日記に「やがて本保君来られ会談三十分許にして帰らる」という記述があります。『高村光太郎全集』では、本保の名は唯一、ここだけですが。
記事に「卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。」とありますが、当方が資料を持っているところでは、明治34年(1901)に美術学校校友会倶楽部で開催された「彫塑会第二回展覧会」。図録がこちら。
光太郎と本保の作品が連番になっています。本保の作はこちら。
改めて引っ張り出して見て、「あれっ」と思いました。上記記事の画像に写っている「若菜売」は上半身のみですが、こちらは全身像です。別の作なのか、鋳造する際に上半身だけとしたのか、何とも不明ですが。
前年の第一回展にも光太郎、本保、ともに作品を出しているようです。
本保と光太郎、他にも縁があります。
光太郎は、明治39年(1906)から欧米留学に出、初め、1年余りニューヨークに滞在しました。その間、現地の彫刻家、ガッツオン・ボーグラムの助手を短期間務めました。それに先立つ明治37年(1904)、本保も渡米し、ボーグラムの助手となっていました。ただ、翌年に本保はパリに渡り、明治40年(1907)には彼の地で客死しており、同41年(1908)に渡仏した光太郎とは、直接会えなかったようです。本保がボーグラムを光太郎に紹介した、というわけでもなさそうです。
パリでの本保は、ロダンに認められ、サロン出品も果たしたそうですが、その半年後、32歳の若さで結核のため没したとのこと。やはり光太郎より先にパリに渡っていた荻原守衛が、その最期を看取ったそうです。
その本保の作がまとまって出品されているということで。
【折々のことば・光太郎】
原稿終り、清書、丁度10枚になる、「婦人之友」宛のもの。
湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉さんでの一コマです。「原稿」はエッセイ「山の春」。温泉旅館で執筆、「文豪あるある」ですね。当方もやってみたいものですが(笑)。
本保義太郎。東京美術学校彫刻科で、光太郎の一級上でした。明治37年(1904)3月31日の光太郎日記に「やがて本保君来られ会談三十分許にして帰らる」という記述があります。『高村光太郎全集』では、本保の名は唯一、ここだけですが。
記事に「卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。」とありますが、当方が資料を持っているところでは、明治34年(1901)に美術学校校友会倶楽部で開催された「彫塑会第二回展覧会」。図録がこちら。
光太郎と本保の作品が連番になっています。本保の作はこちら。
改めて引っ張り出して見て、「あれっ」と思いました。上記記事の画像に写っている「若菜売」は上半身のみですが、こちらは全身像です。別の作なのか、鋳造する際に上半身だけとしたのか、何とも不明ですが。
前年の第一回展にも光太郎、本保、ともに作品を出しているようです。
本保と光太郎、他にも縁があります。
光太郎は、明治39年(1906)から欧米留学に出、初め、1年余りニューヨークに滞在しました。その間、現地の彫刻家、ガッツオン・ボーグラムの助手を短期間務めました。それに先立つ明治37年(1904)、本保も渡米し、ボーグラムの助手となっていました。ただ、翌年に本保はパリに渡り、明治40年(1907)には彼の地で客死しており、同41年(1908)に渡仏した光太郎とは、直接会えなかったようです。本保がボーグラムを光太郎に紹介した、というわけでもなさそうです。
パリでの本保は、ロダンに認められ、サロン出品も果たしたそうですが、その半年後、32歳の若さで結核のため没したとのこと。やはり光太郎より先にパリに渡っていた荻原守衛が、その最期を看取ったそうです。
その本保の作がまとまって出品されているということで。
令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき
期 日 : 2021年9月14日(火)~10月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1-30
時 間 : 9:30〜17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,200円(団体・シニア 900円) 高校・大学生 600円(団体 480円)
小・中生 300円 親子券 1,400円(大人 1名、小・中生迄 2名のセット券)
小・中生 300円 親子券 1,400円(大人 1名、小・中生迄 2名のセット券)
2021年(令和3年)9月10日(金)から10月31日(日)の間、令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術 -〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき が開催されます。臨時休館に伴い、会期は10月31日(日)まで、延長されました。
国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に開館以来、松方コレクションをはじめとする良質な西洋美術の作品及び資料を収集・展示し、調査研究・保存修復・教育普及等の活動を行っています。
本展では、国立西洋美術館のコレクション形成史に触れつつ、西洋のルネサンスから20世紀初頭までの優品を紹介するとともに、異なる地域の背景をもちながら1951年(昭和26年)に創立された高岡市美術館のコレクションと並べて展示し、これらを双方向的に照らし合わせる新たな試みによって、歴史あるそれぞれのコレクションの意義、地域と美術の関係性をあらためて問い直します。
日本が西洋への扉を開いた明治時代、高岡は二人の先駆者を輩出しました。1900年パリ万国博覧会の事務局長を務めた林 忠正と、留学先で彫刻家・ロダンにめぐりあった本保義太郎。彼らを手掛かりに、近代以降の日本に流入した西洋美術の源流を探ります。
ぜひ足をお運び下さい。【折々のことば・光太郎】
原稿終り、清書、丁度10枚になる、「婦人之友」宛のもの。
昭和26年(1951)1月29日の日記より 光太郎69歳
湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉さんでの一コマです。「原稿」はエッセイ「山の春」。温泉旅館で執筆、「文豪あるある」ですね。当方もやってみたいものですが(笑)。