9月18日(土)に、光太郎の父・光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた「橋本堅太郎展-無分別」を拝見に伺った、小平市平櫛田中彫刻美術館さん。こちらで、こんなものを購入して参りました。
漫画『田中彫刻記』。同館学芸員で、当方もいろいろお世話になっている藤井明氏が監修なさっています。
作画は、いとうたかし氏。この方、プロの漫画家さんではなく、小平市の職員さんだそうですが、やはり同市にある武蔵野美術大さんのご出身だそうで、「なるほど」という感じでした。各自治体等の皆さん、こういう手もありますよ(笑)。
満107歳まで現役を続けた彫刻家・平櫛田中の一代記で、平成25年(2013)の刊行です。奥付に拠れば平成30年(2018)第4刷となっており、一回にどれだけ刷っているのか不明ですが、順調に版を重ねているようですね。
A4判(大判です)60ページ、定価は500円。目次は以下の通りです。
主要登場人物。
残念ながら、田中と親しかった光太郎は登場しませんが、光太郎の父・光雲は出て来ます。なぜかロン毛ですが(笑)。
ちなみに田中は、一から光雲に師事したわけではなく、漫画でも紹介されていますが、西日本方面である程度の基礎を学んでからの弟子入りでした。そのため、後述の米原雲海らと異なり、「雲」一字が入っていません。
光雲が登場するのは、「第二話~星取(ほしと)り法との出会い~」と、「第四話~日本美術(にほんびじゅつ)の指導者(しどうしゃ)~」。
その他、光太郎や光雲と縁の深い面々がいろいろ登場します。
右上のコマにもいる岡倉天心。一介の仏師に過ぎなかった光雲を東京美術学校に招き、のちに光太郎が入学した折には同校校長でした。それから、禅僧・西山禾山。光太郎は田中の手引きで、西山の臨済禅の提唱を聴いたりしています。また、田中の兄弟子だった米原雲海は、光雲と共に、信州善光寺さんの仁王像制作に当たりました。
それにしても、田中の生涯もかなりドラマチックだな、と、改めて思いました。そして、彫刻に対する態度。同じ光雲門下でも、上手く立ち回り、稼いだ彫刻家もいますが、田中は違いました。光雲や光太郎もそうでしたが、世間に広く認められるようになるまでは、真摯に制作に向き合おうとすると、どうしても経済的に困窮します。それでも妥協をしない結果陥る赤貧生活の中で、田中は3人中2人の子供を病気で失いました。妻には苦労のかけっぱなし。そのあたり、智恵子が心を病むに至った、光太郎の生活とダブります。「家族を犠牲にして、何が芸術だ」と云われれば、それまでですが……。
さて、『田中彫刻記』、同館にて販売中。ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
多田等観氏にハカキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる。
多田等観は、僧侶にしてチベット仏教学者。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に隣接する湯口村の円万寺の堂守をしていました。
この葉書、『高村光太郎全集』未収録でしたが、平成29年(2017)、花巻市博物館さんで開催された「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」展に出品されました。
漫画『田中彫刻記』。同館学芸員で、当方もいろいろお世話になっている藤井明氏が監修なさっています。
作画は、いとうたかし氏。この方、プロの漫画家さんではなく、小平市の職員さんだそうですが、やはり同市にある武蔵野美術大さんのご出身だそうで、「なるほど」という感じでした。各自治体等の皆さん、こういう手もありますよ(笑)。
満107歳まで現役を続けた彫刻家・平櫛田中の一代記で、平成25年(2013)の刊行です。奥付に拠れば平成30年(2018)第4刷となっており、一回にどれだけ刷っているのか不明ですが、順調に版を重ねているようですね。
A4判(大判です)60ページ、定価は500円。目次は以下の通りです。
主要登場人物。
残念ながら、田中と親しかった光太郎は登場しませんが、光太郎の父・光雲は出て来ます。なぜかロン毛ですが(笑)。
ちなみに田中は、一から光雲に師事したわけではなく、漫画でも紹介されていますが、西日本方面である程度の基礎を学んでからの弟子入りでした。そのため、後述の米原雲海らと異なり、「雲」一字が入っていません。
光雲が登場するのは、「第二話~星取(ほしと)り法との出会い~」と、「第四話~日本美術(にほんびじゅつ)の指導者(しどうしゃ)~」。
その他、光太郎や光雲と縁の深い面々がいろいろ登場します。
右上のコマにもいる岡倉天心。一介の仏師に過ぎなかった光雲を東京美術学校に招き、のちに光太郎が入学した折には同校校長でした。それから、禅僧・西山禾山。光太郎は田中の手引きで、西山の臨済禅の提唱を聴いたりしています。また、田中の兄弟子だった米原雲海は、光雲と共に、信州善光寺さんの仁王像制作に当たりました。
それにしても、田中の生涯もかなりドラマチックだな、と、改めて思いました。そして、彫刻に対する態度。同じ光雲門下でも、上手く立ち回り、稼いだ彫刻家もいますが、田中は違いました。光雲や光太郎もそうでしたが、世間に広く認められるようになるまでは、真摯に制作に向き合おうとすると、どうしても経済的に困窮します。それでも妥協をしない結果陥る赤貧生活の中で、田中は3人中2人の子供を病気で失いました。妻には苦労のかけっぱなし。そのあたり、智恵子が心を病むに至った、光太郎の生活とダブります。「家族を犠牲にして、何が芸術だ」と云われれば、それまでですが……。
さて、『田中彫刻記』、同館にて販売中。ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
多田等観氏にハカキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる。
昭和24年(1949)1月5日の日記より 光太郎67歳
多田等観は、僧侶にしてチベット仏教学者。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に隣接する湯口村の円万寺の堂守をしていました。
この葉書、『高村光太郎全集』未収録でしたが、平成29年(2017)、花巻市博物館さんで開催された「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」展に出品されました。