古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん。2021年9月号に光雲の作品が紹介されていました。
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古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆で「高村光雲 聖徳太子像」。全4ページです。
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紹介されているのは、上野の東京国立博物館さん所蔵の聖徳太子像。大正元年(1912)、鋳銅の作品です。

前年に制作された木彫の原型は、同じく上野の東京藝術大学大学美術館さんの所蔵。ここから型を取って、鋳金家の安部胤齋により61体が鋳造され、光雲の帝室技芸員任命記念として配付されたそうです。

木彫原型については、光雲の談話筆記「聖徳太子御像に就いて」(大正10年=1921、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収)に、次の一節があります。

 聖徳太子の御像の話としては、いま国華倶楽部の本尊たる太子像に就いて物語るのが一番に相応しい気がします、作家としての私にとつては。
 明治四十一二年頃に国華倶楽部でとまれ一つの本尊を建立する議案が出て、それが聖徳太子御像と定められたのでしたが、自分が彫刻家であり、また倶楽部の理事でもある関係上、総べてに出しやばるやう想はれてもと思ひまして、種々と差控へてをりましたら、また他に適当な木彫家の方を推してもおきましたが、どうしても遣らねばならぬやうな羽目になりましたので、断然製作する決心をしたのでした、丁度その時は六十一歳に相当しましたので、その御礼にもと想ひまして、太子様の御像を一つ建立する事に依つて、せめても今日まで報恩の一部だに尽すことが出来たならと思ひまして、その紀念に歓びを献ずる意りで寄附する事を約しまして、六十歳の時に懸りまして六十一歳で製作を了り自分の気持ちを献しました、それは聖霊殿の木像の形でした、

美術家の社交団体であった国華倶楽部の主催で、明治末から「聖徳太子祭」が行われていました。その際に太子像がなければ盛り上がりに欠ける、みたいな感じだったのでしょう。光雲に白羽の矢が立ち、みんなで拝むための太子像を作れ、ということになったようです。

そこで光雲、法隆寺聖霊殿所蔵の太子像を手本に、坐像を制作しました。おそらくこれが太子像をきちんと制作した最初なのではないかと思われます。この後、法隆寺や橘寺所蔵の他の太子像をモデルにしたり、新たな図案を取り入れたりしながら、光雲は複数の太子像を制作しました。昭和2年(1927)には、国華倶楽部の像とよく似た図題の「聖徳太子摂政像」を制作、法隆寺に納めています。

光雲の太子像諸作については、下記をご参照下さい。
京都大覚寺光雲作木彫。
京都・大阪レポート その1。「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展。
東北レポートその2(仙台編)。
第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻。
テレビ放映情報。

ところで、談話筆記「聖徳太子御像に就いて」。当会で会報的に刊行を続けている『光太郎資料』中の「光雲談話筆記集成」、次回発行分(10月5日予定)に載せるつもりで文字起こしをしているところでした。そこで『小さな蕾』さんにこの記事が出たので、驚いている次第です。

さて、『小さな蕾』さん9月号。実は最新号は10月号ですが、9月号もオンライン等で入手可能。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方五時過村長さん宅より子供等迎へにくる。一緒にゆく。晩餐に六七人集まる。酒肴。馬喰茸の煮つけをめづらしくくふ。小豆餅、クルミ餅。十時半辞去。サダミさんがアセチリン燈を持ちて小屋まで送つてくれる。


昭和23年(1948)9月29日の日記より 光太郎66歳

「村長さん」は高橋雅郎、光太郎が援助を惜しまなかった山口小学校近くに住まいがありました。お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です。

「アセチリン燈」。通常、「アセチレン」と表記しますが、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド) と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるもの。昔は寺社の縁日の夜店などで見かけたものです。