『東京新聞』さんの記事から。
井上さん、平成27年(2015)、97歳の折に開いた個展の報道(『朝日新聞』さん神奈川版)でも、光太郎とのご縁が紹介されており、「ああ、あの井上さんか。まだお元気だったんだ」と、嬉しくなりました。
まだまだお元気で、画業に邁進されてほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
午后雑用、畑少々、 「噴霧的な夢」といふ一枚ばかりの詩を書く。「女性線」へ送るつもり。
「噴霧的な夢」は、前年に発表された連作詩「暗愚小伝」以来、久しぶりに智恵子を謳った詩です。「女性線」は、その掲載紙。
現代では「荒唐無稽」「恣意的」と退けられている「精神分析」の分野の人々が、喜びいさんで勝手な解釈を加えたがった作品でした(笑)。
103歳 絵に託す希望 横浜の画家・井上寛子さん 北区の母校に新作寄贈「未完成な自分 高めたい」
ことし百三歳を迎える現役の女性画家がいる。横浜市に住む井上寛子(ひろこ)さん。新型コロナウイルス禍の世界の「希望」を描いた新作が先月、東京都北区中里にある母校の女子聖学院に寄贈された。井上さんは「これからも人として未完成な自分を少しでも高めていきたい」と話す。
昇りゆく太陽が日食のように大きく欠け、小枝に止まる一羽の小鳥が向き合う−。作品は「朝陽はまた昇る」と題した油彩画だ。
寛子さんは自宅二階にあるアトリエの窓に立ちながら「日光浴がてら太陽を肉眼で見ていたら、ぐらっと黒くなった瞬間があったの」と制作の動機を語る。
「若い絵描きをはじめ、みんな苦しんでいるでしょ。先が見えないけど、希望は持ちたいと思ってね」
小鳥は小さな人間、緑の葉っぱは生命の源のシンボルという。この新作を世田谷区内のギャラリーで四月に開いた個展「満103歳の挑戦」に出品すると、思わぬ展開をたどる。
寛子さんは一九一八(大正七)年十二月生まれ。北区西ケ原で育ち、文京区本駒込にあった理化学研究所のマネジャーだった父の勧めで女子聖学院に入学。〇五(明治三十八)年に創立されたプロテスタント系の女子中高一貫校だ。
病院で見た西欧の中世画に絵心を抱き、高卒後は女性では珍しい画家の道へ。印象派を学び、四一年、文部省美術展に初入選。四三年、彫刻家で詩人の高村光太郎を本郷の私邸に訪ねると、「日本の藍の色を研究したら」と励まされた。
同年、彫刻家の井上信道氏と結婚。四五年五月の横浜大空襲で夫は大やけどを負い、疎開先の伊豆・湯ケ島で長女の静子さんを出産し終戦を迎えた。いまも米軍機の焼夷(しょうい)弾の痕跡が残る木造住宅で現代アート作家の静子さん夫婦と暮らす。
寛子さんは二〇一九年、母校の同窓会報「翠耀(すいよう)」に寄稿した。それが縁となり母親が同窓生だった鈴木貴子さん(54)が個展での新作に感動し、亡き母の遺志として寄贈を申し出た。
寄贈の集いは七月二十日。寛子さんは卒業から八十六年ぶりに母校を訪れ、山口博校長や翠耀会の大塚明子会長らが出迎えた。
鈴木さんは「コロナ禍で学校生活もままならない。そんな生徒の心に寄り添い、明るい未来へのメッセージを感じます」と作品を紹介。寛子さんは「再び誰もが立ち上がることのできる広々とした明るい前途があることでしょう」と掲額へのお礼を述べた。
実は、太陽の黒は高村光太郎が助言した「藍」の到達点とも言える。十七世紀のオランダの巨匠レンブラントの「無限の黒(闇)」を意識し、藍に近い多くの暗い色を重ねて、あの重厚な漆黒を創作したのだ。
再び自宅アトリエ。寛子さんに次回作を尋ねると、照れ隠しか文字にしたためた。「存在するものをかきます」。古代ギリシャの哲学者アリストテレスを口にして、百四歳を見据える。
さらにいまの心境を伺うと「倖(しあわ)せに気づきました」。戦火の時代を生き抜いたつらい日々の記憶は年を重ねて鮮明になるらしい。平和のありがたさに感謝して一日一日を生きる。
◆井上さんの1日 しっかり食べ 家事・体操も
「朝陽は〜」を制作中の2月24日の「103歳の1日」の記録によると−。
5時半、起床。朝焼けを眺めキャンバスに向かう。8時、朝食は牛乳を泡立てたカプチーノ、野菜と果物のスムージー、パン、ハム、チーズ。同40分、キャンバスへ。10時15分、仮眠。正午、昼食はダッチオーブンで焼いたサツマイモ。13時、絵を描く。14時半、横浜駅地下街の画材屋にバスで出かける。アサリのつくだ煮と煮豆を買う。15時半、帰宅。煮豆を食べる。
16時、夏ミカンのマーマレードを煮込む。18時、夕食はごはん、ブイヤベース、豪州産牛肉。肉が大好き。19時、テレビニュースを見る。20時、就寝。
毎日、娘夫婦と一緒に食事し、掃除や洗濯の家事をこなす。制作に集中するときは5時間近く描く。天野式リトミック体操を行う。
静子さんは「絵に向かわないときも常に何かやっている。耳は遠いが自立して行動しています」と話す。
井上さん、平成27年(2015)、97歳の折に開いた個展の報道(『朝日新聞』さん神奈川版)でも、光太郎とのご縁が紹介されており、「ああ、あの井上さんか。まだお元気だったんだ」と、嬉しくなりました。
まだまだお元気で、画業に邁進されてほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
午后雑用、畑少々、 「噴霧的な夢」といふ一枚ばかりの詩を書く。「女性線」へ送るつもり。
昭和23年(1948)9月21日の日記より 光太郎66歳
「噴霧的な夢」は、前年に発表された連作詩「暗愚小伝」以来、久しぶりに智恵子を謳った詩です。「女性線」は、その掲載紙。
現代では「荒唐無稽」「恣意的」と退けられている「精神分析」の分野の人々が、喜びいさんで勝手な解釈を加えたがった作品でした(笑)。
噴霧的な夢
あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
夢といふものは香料のやうに微粒的で
智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて