まず先月の話ですが、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎の書が取り上げられました。
同年8月15日、終戦の玉音放送を聞いた光太郎は『一億の号泣』という詩を発表。同年9月5日に花巻病院(現・総合花巻病院)職員および付属看護婦学校生徒の花巻空襲救護活動に対する表彰式では、『非常の時』を祝辞に代えて次のように朗読しました。
非常の時 人安きをすてて人を救ふは難いかな
困難な医療への尽力を讃える内容は、現在の新型コロナウイルス感染症に取り組む医療関係者へも時代を超えて送られたメッセージであるともいえるでしょう。
問い合わせ 高村光太郎記念館 ☎28-3012
花巻高村光太郎記念館さん所蔵で、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」の書を紹介して下さっています。
コロナ禍の方は、ここへ来て感染爆発の様相を呈してきました。そこに立ち向かう「神にあらざる」医療従事者の皆さんの奮闘ぶりには、まさに頭が下がります。
もう少しの辛抱だ、と、願いたいものです。
もう1件。
北海道で開催されていた書展「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」。『毎日新聞』さんの全国版文化面、書道コーナーで8月12日に、他の書道展と共に紹介されました。
「正直な涎を持った……」(高村光太郎)▽「悪口ひとつも……」(中島みゆき)▽「悪口ってやつはな……」(倉本聰)など、さまざまな出典や書体、文字数の作品から広大な書の世界に挑む書人の決意が伝わる。
光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節を書かれた書がサムネイルに。
今年は丑年と云うことで、この詩も多方面で注目されました。
「良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信」。
牛はのろのろと歩く 『中日新聞』・『神戸新聞』。
さまざまな場面で「牛」。
「冬の言葉」/「冬」/「牛」。
長大な詩ですが、「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く」、「牛は力一ぱいに地面を頼って行く/自分を載せている自然の力を信じきって行く/ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く」といった内容です。
コロナ対応も、牛のように、たとえのろくとも一歩一歩確実に、進んで行ってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
夜中秋名月。月さえ渡る。夜半に一度曇りて村雨がふる。
中秋(仲秋)の名月は、旧暦8月15日。旧暦と新暦は年によって1ヵ月から1ヵ月半くらいズレが生じますが、この年はこの日だったのですね。ちなみに今年は9月21日(火)だそうです。
さらにちなみに、最愛の妻・智恵子が亡くなった昭和13年(1938)は、智恵子の葬儀が行われた10月8日だったとのことで、その日の様子を謳った詩「荒涼たる帰宅」は、「私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。/外は名月といふ月夜らしい。」と結ばれます。
常設展示資料『非常の時』の書 医療への尽力を讃(たた)えた詩
彫刻家で詩人の高村光太郎。昭和20(1945)年の東京大空襲により、生前から親交のあった宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開しましたが、同年8月10日の花巻空襲で再び焼き出されます。同年8月15日、終戦の玉音放送を聞いた光太郎は『一億の号泣』という詩を発表。同年9月5日に花巻病院(現・総合花巻病院)職員および付属看護婦学校生徒の花巻空襲救護活動に対する表彰式では、『非常の時』を祝辞に代えて次のように朗読しました。
非常の時 人安きをすてて人を救ふは難いかな
非常の時 人危きを冒して人を護るは貴いかな
非常の時 身の安きと危きと両つながら忘じて
この時従容として血と肉と骨とを運び
この時自若として病める者を護るは
神にあらざるわれらが隣人
場を守つて動ぜざる職員の諸士なり
神にあらずして神に近きは
職責人をしておのれを忘れしむるなり
われこれをきいて襟を正し
人間時に清く
弱きもの亦時に限りなく
強きを思ひ
強きを思ひ
うちにかくれたるものの高きを
凝然としてただ仰ぎ見るなり困難な医療への尽力を讃える内容は、現在の新型コロナウイルス感染症に取り組む医療関係者へも時代を超えて送られたメッセージであるともいえるでしょう。
問い合わせ 高村光太郎記念館 ☎28-3012
花巻高村光太郎記念館さん所蔵で、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」の書を紹介して下さっています。
昨年、地方紙『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、あちら方面では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。
コロナ禍の方は、ここへ来て感染爆発の様相を呈してきました。そこに立ち向かう「神にあらざる」医療従事者の皆さんの奮闘ぶりには、まさに頭が下がります。
もう少しの辛抱だ、と、願いたいものです。
もう1件。
北海道で開催されていた書展「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」。『毎日新聞』さんの全国版文化面、書道コーナーで8月12日に、他の書道展と共に紹介されました。
書の世界
「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。―ここから」(15日まで、北海道深川市アートホール東洲館)は、創作へのやみがたい衝動が放射する構成。土井さんは81年、同浦臼町生まれ。辻井さんに師事。私立北海高校勤務。毎日書道展会員。「正直な涎を持った……」(高村光太郎)▽「悪口ひとつも……」(中島みゆき)▽「悪口ってやつはな……」(倉本聰)など、さまざまな出典や書体、文字数の作品から広大な書の世界に挑む書人の決意が伝わる。
光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節を書かれた書がサムネイルに。
今年は丑年と云うことで、この詩も多方面で注目されました。
「良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信」。
牛はのろのろと歩く 『中日新聞』・『神戸新聞』。
さまざまな場面で「牛」。
「冬の言葉」/「冬」/「牛」。
長大な詩ですが、「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く」、「牛は力一ぱいに地面を頼って行く/自分を載せている自然の力を信じきって行く/ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く」といった内容です。
コロナ対応も、牛のように、たとえのろくとも一歩一歩確実に、進んで行ってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
夜中秋名月。月さえ渡る。夜半に一度曇りて村雨がふる。
昭和23年(1948)9月17日の日記より 光太郎66歳
中秋(仲秋)の名月は、旧暦8月15日。旧暦と新暦は年によって1ヵ月から1ヵ月半くらいズレが生じますが、この年はこの日だったのですね。ちなみに今年は9月21日(火)だそうです。
さらにちなみに、最愛の妻・智恵子が亡くなった昭和13年(1938)は、智恵子の葬儀が行われた10月8日だったとのことで、その日の様子を謳った詩「荒涼たる帰宅」は、「私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。/外は名月といふ月夜らしい。」と結ばれます。