今年刊行され、このブログでご紹介した書籍の書評で、新聞各紙に載ったもののうち、光太郎、光雲の名を出して下さったものをご紹介します。
まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。
当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の 。
『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。
続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。
同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。
さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。
以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。
最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。
それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。
故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。
この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。
氏の回想から。
高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。
岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。
まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。
[記者が選ぶ]7月25日 遺稿「デクノバウ」と「暗愚」・追悼/回想文集 北川太一著、小山弘明・監修、曽我貢誠・構成
昨年1月に死去した、高村光太郎研究の第一人者である著者の遺稿が中心の本。著者は、光太郎が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に遭遇してから、一連の詩「暗愚小伝」を生み出すに至るまでのエピソードを紹介した上で、前者について、「反語詩」として読むべきではないかという大胆な解釈を述べる。また、前者後者ともに対象は自身ではなく、人間そのものだったという見解も示す。
70年にわたり、光太郎と賢治を詳細に調べてきた著者の思いが伝わる。著者ゆかりの人々の追悼、回想文も収められている。(文治堂書店、1650円)
当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の 。
『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。
続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。
『日本回帰と文化人 昭和戦前期の理想と悲劇』長山靖生著 「危険思想」に至る必然性
自国に愛着をもつのは当たり前のことではない。改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とわざわざ書き込まれたのも、放っておいても涵養(かんよう)されるものではないからだ。この自国への愛着のもち方について、若い世代や学校教育に物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
けれども、愛着のような穏やかで自足的な肯定感情は、豊かで平和な時代にのみ訪れる僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。本書を読むと、国がまだ貧しく欧米列強の脅威と人種差別に対峙(たいじ)していた明治から昭和戦前期にかけて、自国への想(おも)いはもっと複雑に屈折した「痛み」に近い感情に支えられていたことが分かる。
封建遺制を切り捨てて西洋文化を貪欲に摂取することで近代化を実現した日本にとって、アイデンティティー不安は宿痾(しゅくあ)だった。その症状は、高等教育まで受けて輸入文物で教養を身に付けた文化人に深刻かつ多種多様な形であらわれる。日本回帰とは症候群の名称である。
日本回帰は明治からさまざまに反復されてきたが、昭和期の戦時体制に棹(さお)さす役割を果たしたことから、思想的に危険な落とし穴とみなされるようになった。しかしそれを一方的に断罪するだけでは、近代日本の宿痾は放置されたままだ。著者は文化人の日本回帰を「私たちの問題」として引き受ける。
日本浪曼(ろうまん)派の保田与重郎が体現した根源的な敗北の美学にも、新感覚派の横光利一や中河与一が時代との思想的格闘の末にたどり着いた日本主義にも、それぞれに「痛み」をともなう必然性があった。さらに北原白秋や萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らが戦争賛美の詩を量産したのも、共感力が異常に高い詩人が国民とともにあろうとした必然的な帰結なのだ。
筆者は文学表現としての日本回帰を受け入れたうえで「政治的社会的判断を曇らせない賢明さ」を持つべきだという。この賢明さは政治指導者には不可欠だろう。昭和の戦争が経済的・軍事的な合理性を逸脱した文学的な戦争だったとしても、その責任は文学にはない。現代の政治も合理性のなさを文学表現で糊塗(こと)してはいないか。これもまた「私たちの問題」だ。(筑摩選書・1870円)
同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。
さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。
博覧男爵 志川節子著 ◆世界目指した「博物館の父」 [評]和田博文(東京女子大副学長)
ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)
以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。
最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。
大波小波 明るさは滅びの姿
百年前の一九二〇年代に何があったのか。和暦では大正九年から昭和四年。一八年に第一次世界大戦が終わり一転恐慌を迎えた。二三年関東大震災、二八年には関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件、左翼への弾圧も強まる。民本主義や抒情的な大正ロマンも、昭和の幕開けと同時に暗い時代へと転換する。表面的には震災復興と近代的都市として変貌する東京、都市生活を背景とした前衛的な文化やエログロナンセンスが跋扈(ばっこ)し、文学では既成を排した前衛的なモダニズムが登場。だがその後の軍靴が確実に聞こえる時勢でもあった。
岡本勝人(かつひと)『1920年代の東京』(左右社)が先般出た。高村光太郎、横光利一、堀辰雄らの二〇年代を照射した労作だ。コミットメントとは翼賛や異論を唱えるだけではない。意識的な無頓着という関わり方もあることを同書は示唆する。
明から暗への転換は現代に酷似する。五輪開催強行で陽気な時代を装ってはいるが、長引くコロナの陰で庶民は泣く。三〇年代を経て戦禍の最中の四三年に出た太宰治『右大臣実朝』には、「明るさは滅びの姿であろうか」と有名な言葉が書かれる。コミットの形式を問わず、いま時代を感受する文学はどこにあるのか。二〇二一年八月に思う。
それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。
昭和23年(1948)8月4日の日記より 光太郎66歳
故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。
この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。
氏の回想から。
高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。
岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。