光太郎にも軽く関わる企画展示です。あまり関わりはないのかなと思って紹介しないでいたところ、『東京新聞』さんで光太郎の名を出して記事が出てしまいまして(笑)。

まずはその記事。

「教育者」鷗外に光 千駄木の記念館で特別展 美術解剖学の資料など展示

 医学者で、西洋美術にも造詣があった文豪・森鷗外(1862~1922年)は美術解剖学などを学校で教えていたことがある。そんな、教育者としての側面に光を当てる特別展「教壇に立った鷗外先生」が鷗外の旧居跡に立つ東京都の文京区立森鷗外記念館(千駄木1)で開かれている。(押川恵理子)
 鷗外は1881(明治14)年の東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、84年から88年まで衛生制度などを調べるためドイツに留学した。記念館司書の岩佐春奈さんは「留学先で美術や文学にアンテナを張り巡らせたことが帰国後の教育活動につながった」と話す。
 91年から東京美術学校(現東京芸大美術学部)で教壇に立ち、ドイツの学者の資料を参考に美術解剖学などを教えた。軍服姿の鷗外は学校で常に目立っていたという。
 当時の様子を伝える資料約100点を展示。鷗外から美学の講義を受けた彫刻家の高村光太郎が「尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた」とつづった随筆もある。慶応大の美学講師や陸軍軍医学校の校長などを務めた経歴、修身や唱歌の国定教科書の編さんといった功績も紹介する。
  また、文京区と金沢市が友好交流都市協定を結ぶ縁から、会期中、記念館のロビーでは能登半島地震の被災地を支援する「いしかわ復興応援マルクト」を開催している。石川県の珠洲焼などを販売。
 6月30日まで。午前10時~午後6時。5月28日と6月24、25日は休館。
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展示詳細はこちら。

特別展「教壇に立った鴎外先生」

期 日 : 2024年4月13日(土)~6月30日(日)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時
休 館 : 6月24日(月)・25日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

 文豪・森鴎外(1862―1922)は留学から帰国後、教壇に立ちました。1888(明治21)年、陸軍軍医学校の教官となり衛生学を教え、1893年から同校の校長となります。その間、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)で1891年から美術解剖学を、1896年より美学と西洋美術史を講義します。1892年からは慶應義塾大学部で美学の嘱託講師も務めました。東京大学卒業の頃から文筆をはじめ、陸軍軍医としてドイツに留学し、欧州の文化に触れるなどの経験を重ねたからこそ、鴎外はこれらの科目を教えることが出来たのでしょう。講義は、1899(明治32)年に小倉への赴任により終了しますが、教員や学生との交流は続きました。
 他方、鴎外は1908(明治41)から1920(大正9)年に修身や唱歌の国定教科書編纂にもかかわっていました。また、鴎外の作品は生前から現在まで、国語や現代文の教科書に掲載されています。教科書で鴎外の小説を初めて読んだ方も多いことでしょう。
 本展では、教育にたずさわった鴎外の姿を、講義を受けた学生のノートや関連資料、教科書などをとおして展覧します。あなたと鴎外先生の接点が見つかるかもしれません。
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出品目録がサイトに出ていました。
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「光太郎」の文字が出てくるのは1ヶ所。昭和18年(1943)、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された随筆集『某月某日』が展示されています。
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なぜこれが、というと、この中に収録されている「美術学校時代」というエッセイに、東京美術学校で受けた鷗外の講義の模様が記されているためでしょう。この文章、永らく初出が不明で、『高村光太郎全集』の解題でもそう書かれていますが、雑誌『知性』の第5巻第9号(昭和17年=1942 9月1日)に掲載を確認しました。

鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっていました。

光太郎の美校入学は明治30年(1897)。鷗外の講義は「美学」を受講しています。「美術学校時代」から。

 鷗外先生といふ人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむづかしい顔をしてゐたので、鷗外先生といふと無闇に威張つて怖い顔をしてゐる先生と思つてゐた。年中軍服でサーベルを着け凡そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向ひ、今日まで教へたことについて分らない所があつたら何んでもよいから質問をするやうにといふことであつた。
 みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象といふのは何ですかと言ひ出した。さうすると鷗外先生はひどく怒つてしまひ、仮象といふことが分らないやうでは一体今迄何をしてをつたのか、それが分らないやうではこの一年間の講義は何にも分つてゐないのだらう、と先生をすつかり怒らせてしまつた。その質問をした学生はもう落第かと思つて隅の方に小さくなつてゐる。学生も何んにも言はず黙りこくつてゐる。鷗外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞ひになつたことがある。尤も仮象といふことは今から考へれば美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いてをつたのでは分らないで聴いてゐた方が悪いに違ひない。僕は鷗外先生を尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ云つてもそれを覚えてゐて決して忘れない。非常に好き嫌ひの強い人であつた。

『東京新聞』さんでこの一節の中から紹介していますので、パネル展示か何かになっているのではないでしょうか。

ちなみに地雷を踏んだ学生は、山本筍一。どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。彫刻の実技も最初はまるで駄目で、同級生たちからは小馬鹿にされていました。ところが修学旅行で奈良に行き、古仏の数々を目の当たりにしてにわかに開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、卒業直後の明治37年(1904)、若くして亡くなりました。

こういう経緯があって、光太郎は後に「軍服着せれば鷗外だ事件」を起こします。

ところで、本展示の関連行事。講演会が2本用意されていました。そのうち、大塚美保氏(聖心女子大学教授)の「教壇に立つ+教科書をつくる森鴎外」は既に終わっていますが、もう1本、布施英利氏(東京藝術大学教授・美術解剖学)による「森鴎外と美術解剖学」が、6月9日(日)に行われます。布施氏、信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさいました。応募は締め切られていますが、キャンセル等有るかも知れませんので、一応。

展示の方は6月30日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太といふよい詩人が高知に居られるといふ事は以前から注目してゐました。物故された事を知つた時に残念におもひました。詩碑が出来る由、皆さんの総意であるならば小生字を書く事はいなみません。むろん悪筆ですが。

昭和22年(1947)11月8日 川島隆宛書簡より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』(昭和7年=1932)を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

碑は翌年、現在の香南市に建立、除幕されました。

本日開幕です。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月29日(水)~6月4日(火)
会 場 : 大和百貨店富山店 5階コミュニティギャラリー 富山市総曲輪3丁目8番6号
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

今展は、大仏師松本明慶先生の仏像彫刻作品を中心とした木彫作品約40点の展観です。

《出品予定作家》
 松本明慶 高橋勇二 高村光雲 平櫛田中 他

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フライヤーに光太郎の父・光雲の「太子像」。光雲が得意としたモチーフの一つで、複数の作例が確認できています。ただ、画像だけでは、弟子の手が入った「工房作」なのか、光雲単独の作なのかは判然としません。

おそらく5月8日(水)~18日(土)、そごう大宮店さんで開催された同名の展観の巡回的な、同じ業者さんによるものだと思われます。

光雲の木彫、間近に見られる機会はそう多くありません。

ところで「光雲」「弟子」といえば、昨夜、地上波テレビ東京さん系でオンエアされた「開運!なんでも鑑定団」。番組予告欄に「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像」とあったので、てっきり光雲だと思って紹介したのですが、光雲ではなく、上野公園の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠正成像の馬を手がけ、「馬の後藤」と呼ばれた後藤貞行の作でした。「ウマすぎる像」の「ウマ」は「馬の後藤」に引っかけていたのですね。気づきませんで、「そうだったのか、やられた!」という感じでした。

依頼品はその後藤作という馬の丸彫り。
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以前に同じ番組で、レリーフが出たことがありましたが、丸彫りは初めてではないでしょうか。

作者紹介のVはいつもどおり秀逸な出来でした。光雲にも触れて下さいました。
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この「ツン」の部分は後藤の手になるものだ、と。

西郷像より前に楠公像制作の依頼があった際(いろいろあって除幕は西郷像の方が先でしたが)は、後藤は東京美術学校に勤務しておらず……しかし、馬の部分にはどうしても後藤の手を借りたい光雲は校長・岡倉天心に直談判。このエピソードは『光雲懐古談』に語られています。
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そうして美校に雇ってもらった後藤ですが、だからといって妙な忖度はせず、光雲ともやり合いました。このあたり、気骨を感じますね。
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「なるほど、そういうものか」と、後藤の方が折れましたが。

依頼品は、明治天皇に献上された南部馬「金華山号」に関わるもののようでしたが、そうだと断定できない、また、「おそらく後藤の作」としか言えないという点で金額は差っ引かれました。それでも高額の鑑定がつきました。

後藤貞行、もっともっと注目されていい彫刻家だと思います。

さて、富山大和さんの「近代木彫秀作展」。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花巻滞在中にはレコードコンサートであのバツハの「ブランデンブルグ」をきいて感動したり、「モロツコ」の映画再演を見たりしました。十数年前見たデイトリヒを久しぶりで又見て、昔の映画情趣を味ひました。今日のアメリカのスリラアなどに比べると随分テムポののろいものですがやはりいいものがあります。芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。

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昭和22年(1947)10月24日 椛沢ふみ子宛書簡より
 光太郎65歳

隠棲していた旧太田村から花巻町に出ると、賢治実弟の清六らとともに映画を観ることもしばしばでした。この際は、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演の「モロッコ」。昭和5年(1930)公開のアメリカ映画でした。

芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。」そのとおりですね。

詩人の若松英輔氏。光太郎についても関心がおありのようで、複数のご著作やZOOMによるオンライン講座等、ラジオ番組等で光太郎に触れて続けてくださっています。

常に氏の動向をチェックしているわけではないのですが、キーワード「高村光太郎」でネット検索をしていると氏がらみの情報がいろいろヒットするので、その都度こちらでご紹介しています。見落としもあるでしょうが。

生涯学習講座いろいろ。
『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。
若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。
若松英輔氏~AI。
若松英輔『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』。

すると、今月から音声配信サービス「voicy」というのを利用されて、「若松英輔の「読むと書く」ラジオ」という活動を始められていました。YouTubeのような動画配信ではなく、音声のみの配信。「へー、こんなのもあるんだ」と思いました。
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その第23回が「《対話》高村光太郎「気について」自分がどういうものを作り出しているか、自分の人生がどんなものに運ばれてきたのか」。昨日配信されたようです。早速拝聴してみました。
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「番組アシスタント」の大瀧純子さんという方とのトーク形式で、約10分。光太郎のエッセイ(というか評論というか……『高村光太郎全集』では「評論」の巻に収録されています)「気について」(昭和14年=1939)がメインに取りあげられています。

短い文章なので、全文を。

 人間の捉へがたい「気」を、言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉にのりうつつた「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調のみに求め、音調(ヴエルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。

発表されたのは昭和14年(1939)元日発行の雑誌『蛮』第3巻第1号新春号。執筆の年月日は不明ですが、おそらく前年12月あたりでしょう。すると、10月5日に智恵子を亡くした直後と言っていい時期です。

この頃から「」が光太郎の内部で一つのキーワードとなっていきます。002

右は2年後の昭和16年(1941)8月に刊行された散文集『美について』初版見返しに揮毫された短句。「詩とは気である 気の実である」。詳細は不明ですが、親しい人物に贈られたものと推定されます。

最愛の智恵子を亡くし、世の中は泥沼化した日中戦争の局面を打開しようと、さらに米英などに対して太平洋戦争を仕掛ける前夜です。

余談ですが奥付によれば『美について』は『智恵子抄』と全く同じ昭和16年(1941)8月20日刊行。実際に店頭に並んだのには多少のずれもあったでしょうが。

『智恵子抄』の詩篇で愛する者に別れを告げ、詩の中で智恵子が謳われることは無くなり(それが復活するのは戦後の昭和20年(1945)作の「松庵寺」です)、以後、ほぼ翼賛詩一辺倒となっていきます。

詩ではない散文の中にも「」。例えば昭和19年(1944)1月15日発行『海運報国』第4巻第1号に寄稿した「決戦時生活の基礎倫理」では、「まづ必勝の気を堅持する事が第一である。」「必勝の気とは確乎たる自信である。どんな謀略にもひつかからぬ卓然たる確信である。」類例は多いと思います。『道程』時代から光太郎は一種の精神主義を掲げていましたので、その延長という見方も出来ましょうが。

さて、若松氏、そうした光太郎の「」が、光太郎芸術全般にどのように表されているかといったお話。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

ところで、お願ですが、いつぞやのおテガミ中に札幌でホームスパンの洋服が出来るやうなお話でしたが、普通型背広服一着たのんでいただけないでせうか。小生東京以来のボロ服以外に一着も無く、来年位には此服も破れてしまふだらうと思ひますので出来ればお願ひ申したく存じます。


昭和22年(1947)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

結局この依頼は実現せず、昭和25年(1950)になって、親しく交流したホームスパン作家・及川全三の人脈でホームスパンの服をオーダーメイドしています。

都内から演奏会情報です。

コール淡水・東京(CTT)第11回定期演奏会

期 日 : 2024年6月2日(日)
会 場 : トッパンホール 東京都文京区水道1-3-3
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 無料

出 演 : 永原恵三(指揮) 鈴木ゆか(pf) コール淡水・東京(合唱)
曲 目 :
    第1ステージ 男声合唱とピアノのための『土佐日記による前奏曲集』
                          作:紀貫之 作曲:次郎丸智希 
    第2ステージ 『The Best of THE BEATLES』
                          編曲:次郎丸智希
    第3ステージ 『雨にうたるるカテドラル』(委嘱作品・初演)
                          詩:高村光太郎 作曲:次郎丸智希

第11回定期演奏会を永原恵三氏の全曲指揮で開催する運びとなりました。コロナ禍を何とか凌いで5年振りです。今回も次郎丸智希氏の委嘱作品の初演をいたしますが、3ステージ全て次郎丸作品としました。是非ご来場くださいませ。
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「淡水会」さんというのは、兵庫県立神戸高等商業学校さん・兵庫県立神戸経済専門学校さん・神戸商科大学さん・兵庫県立大学(神戸商科キャンパス)さんの同窓会だそうで、「コール淡水・東京」さんは神戸商科大学グリークラブさんの都内在住OBの方々が立ち上げられた男声合唱団だとのことです。30名ほどの編成のようです。

全ステージ、次郎丸智希氏という方の作品(編曲を含む)で、最終ステージが光太郎詩に曲を付けられた「雨にうたるるカテドラル」。ありがたし。

雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、110行にもなる長大な詩ですので、これまで日本でこの詩をテキストにした合唱曲、独唱歌曲とも、当方は寡聞にして存じません(寡聞なので存じ上げないだけで作曲が為されていることがあるやもしれませんが)。

ただ、アメリカの作曲家スティーブン・ハートキ(Stephe Hartke)氏が、「Cathedral in the Thrashing Rain」という男声合唱曲を発表なさっていて、手許にCD(平成15年=2003)があります。
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歌詞は基本、英語です。しかし、数ヶ所「O mata fukitsunoru ame kaze」「O nanto iu ame kaze no shuuchuu」などと、日本語を配していまして(ところどころ間違っているのですが(笑))、日本人・光太郎へのオマージュなのかな、という感じです。
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ヒリヤード・アンサンブルという合唱団のア・カペラで、そうと知らねばラテン語によるルネサンス期の教会音楽のようにも聞こえます。

閑話休題、おそらく日本語としては初の「雨にうたるるカテドラル」、ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

上野の表慶館にあるといふ西洋画展は飛行機でもあれば一日いつてみたい気がいたします、日本の油画は、もう一度本当に苦しまねば本当にならないと存ぜられます。梅原安井にしてもあんまり早く、小さく日本化してしまひました。もつと「大きさ」が画格になくてはなりません。


昭和22年(1947)10月24日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

花巻空港が開港したのは17年後の昭和39年(1964)でした。

油絵に関してのひと言、辛辣ではありますが、ある意味その通りかも知れません。かつての留学仲間・梅原龍三郎や安井曾太郎に対しても斟酌なしですね。

テレビ放映情報です。

追記 光雲ではなく後藤貞行でした‼

開運!なんでも鑑定団【超絶彫刻&昭和<美人画巨匠>東郷青児作にド級値】

地上波テレビ東京 2024年5月28日(火) 20:54〜21:54

■エッ東郷青児!?…昭和<美人画巨匠>の超大作にド級鑑定額■上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値■人気<ロレックス>に…仰天鑑定■

番組内容
 コレクションは全てネットオークションで入手した絵画コレクターが登場!その審美眼は鑑定団で証明済みで、過去2回出演し、2回とも高額鑑定を出している。それに自信をつけ、さらに買いまくり、遂には調子に乗って114万円で、家に飾れないほど巨大な絵を購入!
 それは昭和洋画壇の重鎮の傑作だというが…3匹目のどじょうを狙うが、果して結果は!?

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香    【ゲスト】岩城滉一
【出張鑑定】出張鑑定 in 愛知県犬山市   【出張リポーター】岡田圭右
【出張アシスタント】吉川七瀬     【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

鑑定士軍団
 中島誠之助(古美術鑑定家)       北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長)
 安河内眞美(ギャラリーやすこうち店主) 山村浩一(永善堂画廊代表取締役)
 川瀬友和(株式会社ケアーズ会長)    大熊敏之(日本大学大学院非常勤講師)
 森由美(陶磁研究家)          額賀大輔(ヌカガファインアート代表取締役)
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番組説明欄や次回予告等では、イチオシは東郷青児の絵。本物かどうかまだわかりませんが。
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そして「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値」とあり、「天才彫刻家」は光太郎の父・光雲ですね。いわずもがなですが、「アノ像」の「上野」は西郷隆盛像、「皇居前」は楠正成像でしょう。

この番組、光雲の真作が出たこともしばしば。平成17年(2005)にはゲストとしてご出演なさった山口もえさんのご実家にあったレリーフ「朝日に虎」、平成31年(2019)にはやはりゲストの秋川雅史さんがお持ちの「寿老舞」、令和3年(2021)には富山県の一般の方の鑑定依頼で「聖徳太子像」。逆に真っ赤なニセモノもありましたが、たとえニセモノであっても、鑑定結果オープンの前に為される作者等の紹介のVはなかなか凝った作りです。また、「出張鑑定」が智恵子の故郷・二本松市で開催されたこともありました。

今回は番組紹介欄に「驚き値」。高額なので「驚き」なのか、何千円とかで「驚き」なのか……。前者であってほしいものですが。

地上波テレビ東京さん系は全国に系列局が少なく、この日に見られないという地域が多いのですが、ネットの見逃し配信(https://video.tv-tokyo.co.jp/kantei/)、後日、BSテレ東さんでの再放送、さらに番販によるローカル局での放映がありますのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

バツハのブランデンブルグのレコードに実に打たれました。その美は天上のものでこんな高い、しかも親しい美があるものかと今更のやうに驚きました。

昭和22年(1947)10月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

レコードは宮沢家で聴いたものと思われます。ことによると賢治の遺品だったりしたのでしょうか?

初めて聴いたわけではないので「今更のやうに」と書かれていますが、改めてその魅力にとりつかれ、すぐにずばり「「ブランデンブルグ」」という比較的長い詩を書きました。

   「ブランデンブルグ」006

 岩手の山山に秋の日がくれかかる。
 完全無欠な天上的な
 うらうらとした一八〇度の黄道に
 底の知れない時間の累積。
 純粋無雑な太陽が
 バツハのやうに展開した
 今日十月三十一日をおれは見た。

 「ブランデンブルグ」の底鳴りする
 岩手の山におれは棲む。007
 山口山は雑木山。
 雑木が一度にもみじして
 金茶白緑雌黄の黄、
 夜明けの霜から夕もや青く澱むまで、
 おれは三間四方の小屋にゐて
 伐木丁丁の音をきく。
 山の水を井戸に汲み、
 屋根に落ちる栗を焼いて
 朝は一ぱいの茶をたてる。
 三畝のはたけに草は生えても
 大根はいびきをかいて育ち、008
 葱白菜に日はけむり、
 権現南蛮(ごげなんばん)の実が赤い。
 啄木は柱をたたき
 山兎はくりやをのぞく。
 けつきよく黄大癡が南山の草蘆
 王摩詰が詩中の天地だ。
 秋の日ざしは隅まで明るく、
 あのフウグのように時間は追ひかけ
 時々うしろへ小もどりして
 又無限のくりかへしを無邪気にやる。
 バツハの無意味、009
 平均率の絶対形式。
 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

 おれは自己流謫のこの山に根を張つて
 おれの錬金術を究尽する。
 おれは半文明の都会と手を切つて
 この辺陬を太極とする。
 おれは近代精神の網の目から010
 あの天上の音に聴かう。
 おれは白髪童子となつて
 日本本州の東北隅
 北緯三九度東経一四一度の地点から
 電離層の高みづたひに
 響きあふものと響きあふ。

 バツハは面倒くさい岐道(えだみち)を持たず、
 なんでも食つて丈夫ででかく、
 今日の秋の日のやうなまんまんたる
 天然力の理法にに応へて
 あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
 バツハの蒼の立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。
 おれはこれから稗飯だ。
 
「平均率」は「平均律」の誤りですが、原文の通りとしました。

最後の画像は北上市の飛勢城趾に建てられた、この詩の一節を刻んだ詩碑。「北上平野の展望」の語があるので、選ばれたようです。

この後、光太郎自身は「幻聴」としていますが、いわゆる「脳内リフレイン」の状態になったようです。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。 「ラジオと私」(昭和28年=1953)

京都の和菓子店・一夢庵さん。主力はようかんマカロン。それぞれに『源氏物語』などの古典文学や「文豪」ということで近代文学、そして流行りの刀剣などをからめ、様々な商品を販売なさっています。

光太郎がらみもラインナップに入れて下さっていて、いつ頃商品化されたのかよくわからないのですが、最近気が付いて早速2点取り寄せしました。

まず「文豪ようかん 高村光太郎 智恵子抄 柚子味」。
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パッケージを剥くと、こんな感じ。一口サイズ的な。
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白あんベースにレモンならぬ同じ柑橘系ということで柚子ジャムが練り込まれています。

それから「文豪マカロン 高村光太郎 道程 塩キャラメル味」。
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こちらも一口サイズで、周りをキャラメルソースで固めています。どこに光太郎との関連が、という感じではありますが(笑)。まぁ。遊び心あふれる品々、ということで。

他に食品でない雑貨類もいろいろ販売されており、ようかんを切るナイフなども、絶大な人気を誇る「三日月宗近」や新選組鬼の副長・土方歳三の愛刀「和泉守兼定」だったりします(笑)。

ちなみに文豪は以下の通り。

芥川龍之介 有島武郎 泉鏡花 井伏鱒二  江戸川乱歩  尾崎紅葉 織田作之助 梶井基次郎  川端康成  河東碧梧桐 菊池寛 北原白秋 国木田独歩 久米正雄 小林多喜二  坂口安吾   佐藤春夫 志賀直哉 島崎藤村 高浜虚子 高村光太郎 太宰治  谷崎潤一郎 田山花袋 檀一雄 坪内逍遙 徳田秋聲 永井荷風 中島敦 中野重治 中原中也 夏目漱石 新美南吉 萩原朔太郎 樋口一葉 二葉亭四迷 正岡子規 宮沢賢治 武者小路実篤 室生犀星 森鷗外 山本有三   夢野久作 与謝野晶子

ようかんとマカロン、双方がある者と、片方だけの者とに分かれているようで、光太郎は双方あってありがたいところでした。

代金、送料等は以下の通り。
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クール宅急便での配送となり、その分、送料がちょっとかさみます。

ちなみに自宅兼事務所には悪い奴がいて、油断するとこうなります。過日、九州に行っていた妻の土産。
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犯猫(はんにゃん)。
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マカロンはまだ食べていないので、気をつけます(笑)。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小屋につきますと文部省から手紙が来てゐまして、帝国芸術院会員に推せんするから承諾しろといふ事でした。あのよぼよぼな敬老院は閉口なので謝絶するつもりですが御意見如何でせう。


昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

結局、断りました。また、のちに昭和28年(1953)にも芸術院会員への推薦があったのですが、こちらも受けませんでした。

3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

富山県から市民講座の案内です。

高村光太郎『智恵子抄』講座

期 日 : 2024年5月26日(日)、6月9日(日) 、7月28日(日) 、8月25日(日) 、9月22日(日) 
会 場 : 高岡市生涯学習センタースタジオ405A 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 運営費1,800円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,300円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏 

孤高の詩人・高村光太郎と智恵子の魂の軌跡ともいえる『智恵子抄』を深く読み理解し、語り合いましょう💕

5月26日(日) 随筆『智恵子の半生』朗読
6月9日(日) 『智恵子抄』より「人に」「涙」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「人類の泉」
7月28日(日) 「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」「金」「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」
8月25日(日) 「山麓の二人」「風にのる智恵子」「人生遠視」「千鳥と遊ぶ智恵子」
9月22日(日) 「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「案内」「うた六首」
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講師の茶山さん、これまでも生涯学習組織・たかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

ちなみに上記講座一覧の№13「いつも生き活き自分で出来るリンパマッサージ講座」講師も茶山氏です。

また、昨年、今年と連翹忌にご参加下さいましたし、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。さらに今年11月には「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうです。

申込締め切りが過ぎてしまっているのですが、まだ空きがあるかも知れません。ご興味おありの方、問い合わせてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

水で畑が不成績ですが、トマトとキヤベツはすばらしくよく出来ました。トマトは毎日たべてもたべきれません。ゴールデン ポンテローザ種が美しく日に輝いてゐるのはいいです。キヤベツも中々上等です。今冬は此のキヤベツで「シユークルート」式漬ものをつくる気です。今大根が育つてゐます。


昭和22年(1947)10月3日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この後、シュークルートは光太郎の得意料理の一つとなりました。

5月19日(日)、当方が智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子生誕祭」に参加しておりました同日、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山は第70回山開きでした。今年のキャッチフレーズが「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。ありがたし。

同日、NHK福島放送局さんのローカルニュース。

安達太良山で山開き

 二本松市や猪苗代町などにまたがる安達太良山で、19日、山開きが行われ多くの登山客でにぎわいました。
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 磐梯朝日国立公園内にある安達太良山は、標高およそ1700メートルで、「日本百名山」の1つに数えられ毎年、多くの登山客が県内外から訪れます。
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 19日は今シーズンの山開きで、二本松市の奥岳登山口では午前8時から安全祈願祭が行われ、地元の関係者らが玉串をささげて登山の安全を祈りました。
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 訪れた大勢の登山客は山頂を向かって登り始め列をつくって進んでいきました。
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 19日は雲の切れ間から青空も見え、山の中腹では、安達太良山の山頂と周囲に連なる山々の風景や眼下に望む町並みなどを写真におさめて楽しんでいました。
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 千葉県から訪れた70代の女性は「気持ちいです。ことしは70回目の山開きということで、楽しみして来ました」と話していました。
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 また、仙台市から訪れた50代の男性は「智恵子抄でいう“ほんとの空”が見えたなと思いました。山登りは苦しいですが、景色を見ると疲れがとれます」と話していました。
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 二本松市によりますと昨シーズンの奥岳登山口からの登山者は9万7000人余りで、今シーズンも10万人ほどを見込んでいるということです。
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翌日の地方紙『福島民友』さん。

安達太良山、70回目の山開き 「ほんとの空」と絶景満喫

013 二本松市などにまたがる日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)で19日、第70回山開きが行われた。節目の年となった今回は県内外から昨年を千人ほど上回る約5千人が訪れた。登山道や岩場を踏みしめながら山頂を目指し、眼下に広がる絶景のパノラマを満喫した。
 青空が広がる中、登山者は新緑が生い茂る雄大な景観を眺めながら歩みを進めた。山頂では安達太良連盟が70回記念のピンバッジとペナントを登頂者に配布した。二本松市から毎年訪れている根本和子さん(64)は「汗をかきながら登ってきた。頂上で食べるお弁当が楽しみ」と笑顔で話した。
 安全祈願祭は安全面などを考慮し、会場を山頂から奥岳登山口(二本松市)に移して行われた。安達太良連盟会長の三保恵一市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさん(福島市出身)らが無事故を願った。

同紙ではYouTubeさんに動画もアップして下さいました。


途中の薬師岳パノラマパークに聳える「ほんとの空」木柱が取り上げれています。多謝。
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『福島民報』さん。

本格的な登山シーズンの到来、多彩な行事で祝う 安達太良山開き 「ミズあだたら」に橋本さん(福島県三春町)

 日本百名山の一つ、安達太良山(1、700メートル)で19日に行われた山開きでは、本格的な登山シーズンの到来を多彩な行事で祝った。登山者は〝ほんとの空〟の下、美しい自然の中を歩いて山頂を目指した。
【安全祈願祭】奥岳登山口で二本松市の塩沢神社の滝本和栄宮司による神事に続き、安達太良連盟会長の三保恵一二本松市長が「安達太良山の春はツツジやシャクナゲ、様々な草花、秋は紅葉、冬は雪山と四季を通じて楽しめる。多くの人に楽しんでほしい」とあいさつした。
【山頂】県内外からの登山客でにぎわった。家族連れやグループが昼食を取ったり、眼下に広がる雄大な景色を背に記念撮影する姿が見られた。福島市出身のタレントで安達太良山観光大使のなすびさんとの写真撮影も行われ、登山客が列を作った。
【ミズあだたらコンテスト】出場した女性38人の中から「ミズあだたら」に選ばれた三春町の主婦橋本由香里さん(54)は「I LOVE 安達太良山」と書かれた特製ボードを用意して審査に臨んだ。「70回の節目に選ばれてうれしい。また参加したい」と笑顔を見せた。
【ペナント】山頂で70回記念のピンバッジとペナントを配った。バッジは直径2・5センチで、残雪の安達太良山の写真に「70th 安達太良山 山開き 標高1700M 2024.5.19」と記されている。
【あだたらマルシェ】奥岳登山口で初開催し、周辺の観光案内、軽食、アクセサリーなど11のブースが並んだ。登山客に二本松食や魅力をアピールした。
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ところで、山開きは終わってしまいましたが、こんなイベントが開催されます。

第23回オリエンテーリングあだたら高原大会・あだたら高原ロゲイニング大会

期 日 : 2024年6月2日(日) 雨天決行
会 場 : あだたら高原・岳温泉周辺(福島県二本松市)
時 間 : 7:15 ロゲイニング5時間受付
       8:00 ロゲイニング5時間スタート
       8:15 開 場
       9:15 ロゲイニング3時間スタート
       9:45~グループクラス初心者説明(※)
       10:00~オリエンテーリング個人スタート
       10:15 オリエンテーリンググループスタート
       13:30 フィニッシュ閉鎖(予定)
       14:30 閉 場
料 金 : 
 オリエンテーリング
  個人クラス 2,200円(大学生以下1,700円、当日申込は3,000円)
  グループクラス・個人初心者クラス
  小中学生 500円/名(当日申込は700円)※未就学児は無料
  高校生以上 1,000円/名(当日申込は1,200円)
  個人初心者 1,500円/名(当日申込は2,000円)
  Eカードレンタル (※個人クラス、個人初心者クラス)300円
 ロゲイニング  中学生 1,000円 高校生以上 3,000円

 今年も、オリエンテーリング(ミドルディスタンス競技と家族・グループ向けのスコアO)とロゲイニング(3時間、5時間)と多彩な内容で皆様の参加をお待ちしています。
 恒例の「温泉無料券」の配布と「宿泊助成券」が当たる抽選会も予定しています。
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キャッチコピーが「歩いて 楽しんで 「ほんとの空」を探そう」。「ほんとの空」の語を冠されてしまっては、紹介しないわけに参りません(笑)。

申込は今日まで。我こそはと思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の正当な製作物が資材の関係でまだ三四年は得られないので少々遺憾ですが、小生はあせりません。人体に対する渇望は嘔吐をもよおすほど強いのですが、今はこらへてゐます。そして健康と精力との涵養につとめてゐます。七十歳を目当にしてゐます。


昭和22年(1947)9月29日 水澤澄夫宛書簡より 光太郎65歳

この頃から、彫刻は封印、という方向に梶を切り始めたようです。

5月18日(土)、翌日の二本松市での智恵子生誕祭が午前9時開会と早めだったこともあり、郡山市に宿泊しました。そこでこの日は少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出、寄り道しながらの行程でした。

立ち寄り先は田村郡小野町の「ふるさと文化の館」さん。
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こちらの一角に、同町出身の作詞家・丘灯至夫を顕彰する丘灯至夫記念館が含まれています。
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丘灯至夫の代表作は、舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」。それ以外にも、令和2年(2020)に放映された朝ドラ「エール」で効果的に使われた共に古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさん歌唱の「智恵子抄」。
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安達太良山が謳い込まれ、二本松市ではソウルソングとして防災無線の正午のチャイムにも採用されています。5月19日(日)にもちょうど光太郎詩碑のある鞍石山で聞きました。

記念館には「智恵子抄」に関わる展示も為されていて、平成25年(2013)に一度お邪魔いたしました。

今回は、今年、丘灯至夫の伝記漫画が出版されたということで、そちらにも「智恵子抄」に関わる部分があるだろうと思い、それをゲット出来ないかと考えての訪問でした。

小野町の広報誌『広報おのまち』今月号の記事。
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伝記漫画は、B&G財団さんの助成を受けて刊行。同じシリーズで昨年、岡山県赤磐市さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子のそれが刊行されています。B&Gさん、広く全国で「ふるさとゆかりの偉人マンガ」シリーズの助成を行っています。

丘灯至夫の伝記漫画に関して、先月出た『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの伝記漫画完成 故郷の福島県小野町でお披露目 「高原列車は行く」「高校三年生」など作詞

 福島県小野町の名誉町民で作詞家の丘灯至夫さん(1917〈大正6〉年~2009〈平成21〉年)の伝記漫画が完成し、町が27日に町内でお披露目した。「高原列車は行く」「高校三年生」などの国民的ヒット曲を世に送り出した人生が描かれており、町民の郷土愛を育むために活用される。
 漫画は「小さな巨人」のタイトルでB6判100ページ。幼少期は病弱だった丘さんが新聞記者となり、詩人の西條八十さんや作曲家の古関裕而さん(福島市出身)らと出会いながら作詞家として活躍していく姿を伝える。小野町の豊かな自然も描かれている。
 町民らでつくる製作実行委員会が構成を考え、シナリオを高見沢功さん(猪苗代町)、作画を吉川むつみさん(郡山市)が担当した。3500冊を作り、全戸に配布するほか、町の図書館にも配置。小中学生の授業で教材として活用し、郷土の将来を担う人材育成に役立てる。秋には作詞コンクールを計画している。
 B&G財団(本部・東京都)の「ふるさとゆかりの偉人マンガ製作と活用事業」に採択され、費用の一部について補助を受けた。同財団のホームページで漫画を無料公開し、全国の人に見てもらう。
 27日は丘さんの記念館を併設する町ふるさと文化の館でお披露目式が行われ、村上昭正町長や丘さんの長男西山謹司さん(千葉県)らがテープカットした。西山さんは「私が知らない父の姿も描かれている。漫画になって里帰りでき、父も光栄だと思う」と謝意を述べた。漫画の完成を記念し、館内で8月25日まで丘さんの特別記念展が開かれている。
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「小野町ふるさと文化の館」内には町立図書館さんもあり、そちらに置いてありまして、拝読。予想通り「智恵子抄」に関する部分がありました。しかも、これは予想外でしたが、当会の祖・草野心平とのからみがそこにありました。それは後述します。

「よっしゃ」と思い、「これ、販売はしてますか?」ところが、答は「NO」。「では、コピー取れますか?」するとこちらも「NO」。残念ですが、いたしかたありますまい。8月頃にB&G財団さんのサイトで公開が為されるそうですので、その頃またご紹介します。

代わりに、というわけではありませんが、こんな書籍を無料で下さいました。『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』。A4判100ページ程の豪華なものです。
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平成28年(2016)の刊行でしたので、以前に足を運んだ際にはこれはありませんでした。

こちらにも「智恵子抄」関連の記述。
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二本松出身の大山忠作画伯(女優・一色采子さんのお父さま)の描いた安達太良山の絵に、丘が歌詞を書き込んだ作品、こちらは記念館に展示されています。

下半分は、「智恵子抄」リリースの翌年、昭和40年(1965)に行われた「丘灯至夫・郷土訪問リサイタル」関係。二代目コロムビア・ローズさんもいらしたとのこと。写真に写っていますね。

丘灯至夫とローズさん、前年には二本松も訪れています。「智恵子抄」がそこそこヒットしたのを受けて日本コロムビアが発行したソノシートブック「智恵子のふるさとを訪ねて」。全26頁で、ソノシートが4枚付いています。
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この中に……
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ちなみにローズさんは智恵子生家、二本松霞ヶ城の光太郎詩碑、安達太良山などもご訪問。
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ところで上半分に戻りますが、「智恵子抄」リリースに際しては、すんなり行かなかったという記述があります。「高村光太郎を顕彰する会から作品化の許可がなかなかおりず、世に出るまでに大変な苦労がありました。しかし詩人・草野心平の助言などにより、『智恵子抄』(二代目コロムビア・ローズ:歌)は昭和39年に世に送り出されたのです」。

『あの青春(ゆめ) この詩(うた) 丘灯至夫生誕100周年』後半には丘自身の回想も。平成20年(2008)、福島ペンクラブの会合の中でで行われた座談会的な催しの一節、聞き手は元NHKアナの宇田川清江さんです。

酒飲まされて作った「智恵子抄」

宇田川 先生、「智恵子抄」は二代目コロムビア・ローズですね。この曲はレコード会社から言われたというより、先生がご自分で書きたいと思われた歌、と伺いましたが…。
丘 これは二本松の歌ですから高村光太郎の詩集「智恵子抄」から頂いてこしらえたものです。実は二本松には「高村会」というのがあって、高村先生の銅像とか作品の碑とかを守っていこうという会なんです。その会から「智恵子抄を歌にするのは罷りならん」と言われたんです。高名な詩集をモチーフにした歌謡曲をぜひ出したい、という思いが強かったんです。そしたら高村会の中に先輩詩人の草野心平さんがいたんです。そこで心平さんに頼みに行ったら「まず、酒を飲め」という。この酒がただものじゃないんです。口に入れると火の出るような、燃えるような酒。「これを一杯飲んだら許してやる」ってんで飲みました。酒を飲んで作詩したのはこれが初めてです。そして「この詩ならいいだろう」と許しを受けました。二代目コロムビア・ローズさんもよくて、これが紅白歌合戦にも出ました。


「酒」はたぶんウオッカだと思うのですが、むちゃくちゃですね、心平(笑)。「1日に摂取していた平均アルコール量は、一般の約3倍」だそうでしたから、これ以外にも、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で秋田に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったとか、中原中也・心平がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じたとか、酒にまつわるエピソードには事欠きませんが。

二本松の高村会というのは誤りで、おそらく東京の高村光太郎記念会のことでしょう。理事長は光太郎実弟の豊周、事務局長は当会顧問であらせられた北川太一先生、心平もメンバーでした。このころ記念会では、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていました。

ところで丘作詞の「智恵子抄」。つい先週『サンケイスポーツ』さんに載った記事に記述がありました。

美貴じゅん子が新曲発売イベント 来年6月にデビュー30周年パーティー開催

000 演歌歌手、美貴じゅん子(50)が15日、東京・六本木クラップスで新曲「海峡流れ星」の発売イベントを開催した。
 タイトルにちなみ流れ星がデザインされた着物姿で登場し、同曲や「放浪(さすらい)かもめ」など全15曲を熱唱。初めてリクエストコーナーを行い、千葉紘子(79)の「折鶴」や二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を披露して会場を沸かせた。
 2021年に17年ぶりのシングル「土下座」で復帰したことにふれ、「新曲が出せない時期が長くあったので、新曲を出せることには人一倍強い思いがあります」と力を込め、「新曲を出せない時期にお世話になり励ましてくれた方々に少しでも恩返しができるよう頑張ります」と誓った。
 デビュー30周年パーティーを来年6月22日に東京・紀尾井町のホテルニューオータニで開催予定であることも発表し、「女手一つで育ててくれた84歳の母に報告します」と喜んだ。

他紙でも同一イベントは紹介されていましたが、「智恵子抄」に触れられていたのはサンスポさんだけだったようです。

美貴じゅん子さん、先月NHK BSさんでオンエアがあった「新・BS日本のうた」でも「智恵子抄」を歌われました。持ち歌の一つとして下さっているという感じなのでしょうか。ありがたいところです。
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同じく持ち歌にして下さっていた森昌子さんは引退なさり、「智恵子抄」CDもリリースされた「三代目コロムビア・ローズ野村未奈」さんは「コロムビア・ローズ」を返上なさり、本名である「野村美菜」さんに改名され、「智恵子抄」は歌われていないようですし。

先述の通り、二本松市では防災無線の正午のチャイムは「智恵子抄」ですが、それ以外の部分でも、さまざまな人間ドラマの詰まった「智恵子抄」、歌い継がれていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

そしていはゆる「詩」からの脱走はますます意識的に烈しくなるでせう。いはゆる「詩」をますますふみにじるでせう。それが別個の詩を生むか生まないか、それはずつと後の人が知るでせう。


昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

昨日も同じ書簡の中の別の部分を取りあげましたが、この年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をした美術評論家・水澤への返信の一節です。

元々、そういう意識が強かったのですが、翌年には詩「おれの詩」で「おれの詩は西欧ポエジイに属さない。/二つの円周は互に切線を描くが、/つひに完くは重らない。」と書き、やや後の昭和25年(1950)には「藤村――有明――白秋――朔太郎――現代詩人、といふ系列とは別個の道を私は歩いてゐます。」(「詩について語らず――編集子への手紙――」昭和25年=1950)とも書いています。

無論、15年戦争中、愚にもつかない翼賛詩を連発してしまったことへの悔恨、そこからどう立て直していけばいいのだろうという意識も込められた発言です。

一昨日、昨日と、一泊二日で福島県に行っておりました。

メインの目的は、智恵子の故郷・二本松市で昨日開催されたイベント。地元で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」でした。
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昨年もほぼ同一のイベントが行われたのですが、市内、特に智恵子生誕の地の旧安達町エリアを中心に、智恵子ゆかりの場所を見て回るというイベントです。ちなみに今日・5月20日が智恵子の誕生日です。

智恵子生家近くで開会式。
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6月1日(土)オンエア、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで10分程の放映が行われるそうで、そのロケも入りました。

ちなみに4月2日(火)、当会主催の連翹忌の後、ご案内をお送りしたもののご欠席だった方々などに当日の配布資料等を後日発送したのですが、その中に今回のイベントの案内も同封しましたところ、静岡で文芸同人誌『岩漿』を主宰なさり、光太郎智恵子にも触れた文章を書かれている小山修一氏御夫妻もいらして下さいました。ありがたし。

智恵子生家。
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午前中はよい天気で、「ほんとの空」という感じでした。
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二本松市さんとしては、先月末から「智恵子生誕祭」期間。5月26日(日)までです。土日には紙絵制作のワークショップや通常非公開の生家2階部分の特別公開が行われています。
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一階の座敷を横目に土間を通り抜け、二階へ。階段を上ってすぐ、かつての智恵子の部屋です。
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奥は弟妹の部屋的な。
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生家裏手の智恵子記念館。紙絵の実物展示が5月12日(日)までだったのが少し残念でしたが。
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左の窓に映っているのは、昨秋の「高村智恵子レモン祭」期間中に開催されたワークショップ「みんなで作るシンメトリー展」で来場者の方々が作られた作品だそうです。

その後、夢くらぶさん会員の方々の車輌に分乗、ゆかりの地を巡りました。智恵子母校の油井小学校さん、JR東北本線安達駅前の智恵子像「今 ここから」(故・橋本堅太郎氏遺作)、満福寺さんの智恵子実家・長沼家墓所、生家裏手の鞍石山の詩碑など。
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最後は二本松市街、霞ヶ城。
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敷地内に昭和35年(1960)に建てられた光太郎詩碑。
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遠景には、安達太良山。
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銅板のプレートは三面あり、正面と背後は光太郎自筆を写しています。
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碑陰記的なプレートは、当会の祖・草野心平筆。
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ついでにご紹介しますが、この碑の近くには戊辰戦争で名を馳せた二本松少年隊を顕彰する碑も。
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レリーフ原型は橋本堅太郎氏父君の橋本高昇です。高昇、堅太郎氏父子共々、光太郎の父・光雲の流れをくみます。高昇は二本松出身、堅太郎氏は東京出身でしたが、のちに二本松市名誉市民に認定されました。 

さて、光太郎詩碑前で、参加者による光太郎詩朗読。
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泉下の光太郎智恵子も眼を細めているような気がしました。

この後、この場で昼食のお弁当をいただき、解散。

地味な活動ですが、アップデートしつつ継続していっていただきたいものです。

智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんでは、この後もいろいろとイベント等企画されています。
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また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下の絶対否定のお言葉をよんでなるほどと思ひましたが、小生はやはり貴下に憫れまれながら死ぬまで詩を書くでせう。詩は、小生内部からの自己爆破に備へる為の安全弁の作用をするので已むを得ません

昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

水沢は美術評論家。光太郎がこの年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をしたようで、それに対する返答の一部です。

安全弁」云々は、遠く明治期の留学帰朝後からの光太郎の持論でした。

愛車を駆って一泊二日で福島県に来ております。

昨日は途中の田村郡小野町に立ち寄り、宿泊は郡山市郊外でした。

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昨夕、宿の近くから見た安達太良山です。

今日はこれから北上し、智恵子の故郷・二本松で開催される「高村智恵子生誕祭」に参加させていただきます。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

花巻で光太郎顕彰にあたられている民間の方々の活動をご紹介します。

まず「光太郎を知る会」さん。文字通りの会で、かつて花巻及び郊外旧太田村に足かけ8年を過ごした光太郎の生活ぶりなどを、当時の光太郎日記などの読み合わせをする読書会的な感じで繙いていく活動などをなさっています。今年2月に当方が花巻にお邪魔した際、わざわざお集まり下さいまして、懇談させていただきました。

かつて花巻では毎年5月15日、光太郎が昭和20年(1945)に花巻の宮沢賢治実家に疎開のため東京を発った日を記念して、「高村祭」が開催されていました。最初は「高村記念祭」という名称でしたが、いつの頃からか「高村祭」となりました。
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第一回は、光太郎が歿して2年後の昭和33年(1958)。宮沢家、そして賢治の主治医だった佐藤隆房、それから旧太田村民の皆さんたちなどの醵金で、光太郎が暮らした山小屋の套屋(カバーの建物)と初の本格的な光太郎詩碑が作られ、そのお披露目という意味合いもあったようです。光太郎実弟の豊周をはじめ、当会の祖・草野心平や伊藤信吉、会田綱雄ら、錚々たるメンバーも来花。おそらく当会顧問であらせられた北川太一先生も列席なさったのではないでしょうか。

その頃撮られたと推定される16㍉フィルムから。
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もう少し後、昭和40年頃の絵葉書から。
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高村祭はこの詩碑の前で連綿と続けられていたのですが、コロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。

そこで、「光太郎を知る会」さん、その代わりにということで5月15日(水)に詩碑前にお集まり下さり、皆さんで詩碑に献花、さらに光太郎詩の朗読をなさったそうです。ちなみに詩碑の地下には、分骨的に光太郎の遺髯が埋められています。
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かつての高村祭では、こうした朗読は市内の学校の生徒さんが行って下さっていましたし、児童の皆さんは器楽合奏や歌唱など、さらに途絶する直前には花巻農高さんによる鹿踊りの披露もありました。器楽合奏は高村祭が始まった頃には、実際に光太郎から寄贈された楽器を使用してのものでした。

そうした若い世代の光太郎顕彰行事参加の機会が無くなってしまったことに危機感を抱き、地元の太田振興会さんで、昨日このブログでご紹介した 「五感で楽しむ光太郎ライフ」を企画なさったという流れです。

さて、もう一つの顕彰団体、やつかの森LLCさんの取り組み。

まず、GW中の5月4日(土)、5日(日)に開催された、「土澤アートクラフトフェア2024春」へのご参加。こちらは光太郎と交流のあった画家・萬鉄五郎の出生地である花巻市東和町を会場に「絵画、陶芸、木工、アクセサリー、イラスト、写真、革製品、ガラスなど色々な手作りの品物が並ぶアート市。展示会場は、空き家・空き地はもちろん、営業中の店舗や、実際に生活している家屋まで、さまざまな場所が利用され、商店街や美術館前が彩られます。」だそうで。

光太郎が自作したメニューの現代風再現や、光太郎が使った食材の活用など、「食」を中心とした光太郎顕彰活動がメインのやつかの森LLCさんですので、お弁当の販売で参戦なさったとのことです。
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初日は110食、45分で完売だったそうです。すごいですね。

それから、5月15日(水)、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案にやつかの森LLCさんが入られています。
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何事も継続していくことは困難も伴うと存じますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

ちなみに「土沢アートクラフトフェア」の件、光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、NHKさん東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で取りあげられるそうです。詳細が入りましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

もう秋でススキ、ハギ、ヲミナヘシがさかん。栗もキノコももう直です。

昭和22年(1947)9月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

山小屋周辺で採れる栗やキノコは貴重な食材でした。

若干先の話ですが、申込締め切りがありまして……。

五感で楽しむ光太郎ライフ

期 日 : 2024年6月9日(日)
会 場 : なはんプラザ COMZホール
       岩手県花巻市大通一丁目2番21号 東北本線/釜石線花巻駅前
時 間 : 10:30~14:00
料 金 : 1,500円(昼食代金込み)

申 込 : kotarocafe@gmail.com (下記フライヤー画像にQRコード有り)
〆 切 : 5月27日(月) 先着100名

趣 旨 :
 ここ数年「高村祭」の中止が続いていること等から、一般市民はもちろん、毎年高村祭に参加していた小中高生達の高村光太郎に関する認知度・親密度の低下が懸念される。
 宮沢賢治を世に出した人であると言う事を含め、光太郎の偉業について、各種企画展のみならず、次世代を担う子供達との対談やふれあいの場を設けることから光太郎顕彰の維持向上を継続的に図っていく必要がある。

内 容 :
 10:30~12:00 アーティストのまなざしにふれて 
  ① 「光太郎にかかわる総合学習」の状況について 花巻市立太田小学校長 藤田聖子氏
  ②  花巻南高校の取り組み紹介
      「文芸誌作品・詩朗読及び感想」「智恵子のエプロン紹介」  
      文芸部・家庭クラブ生徒数人及び担当教師
  ③ 「光太郎の愛した山口山の自然」 岩手県環境アドバイザー 望月達也氏
  アドバイザー 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明

 12:15~12:50 おいしいランチ 光太郎を食べよう
  TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当
  ドリンク&デザート やつかの森LLC
 
 12:50~13:15 参加者交流

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前半は、花巻市内の学校さんの光太郎に関する取り組みの紹介および、岩手県環境アドバイザー・望月達也氏による光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山口山の環境説明。

学校さんは、まず光太郎の山小屋近くにあった旧山口小学校の後身の太田小学校さん。「後身」というか、元々山口小学校は光太郎が移住した時点では太田小学校の山口分教場で、光太郎が暮らしていた間に山口小学校に昇格、しかし光太郎没後にまた太田小学校に統合されて廃校となった経緯があります。そちらの「総合的な学習」の時間での学年ごとの取り組みを、校長先生がご紹介下さるそうです。

もう1校、花巻南高校さん。こちらは宮沢賢治の妹にして「あめゆじゆとてちてけんじや」のトシの母校にして、日本女子大学校を卒業後、トシも教壇に立った花巻高等女学校の後身です。文芸部さんが光太郎と宮沢家や花巻とのつながりについて調べた結果などを、家庭クラブさんは昨年このブログでご紹介した「智恵子のエプロン」(大正時代の雑誌『婦人之友』で紹介されました)を実際に作って下さったそうで、その紹介。

順番的には学校さん2校が先で、トリが望月氏です。望月氏のパワーポイントのスライドショーを添付ファイルで送っていただき拝見しましたが、改めて旧太田村山口山、貴重な自然が残っている里山だな、という感じでした。

後半はランチタイム。メインディッシュはガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店で、やはり光太郎がらみのメニューとなるのではないでしょうか。

ドリンクとデザートは、花巻で「食」を軸に光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんのご提供。

その後、閉会行事的に少し時間を取って、13:15終了だそうです。

当会も共催として名を連ねさせていただいており、当方も参上、コメンテーター的なことをやらせてていただく予定です。

皆様方もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻の水害にも驚きましたが賢治忌への参集者の多いのにもおどろきました。あの夜の鹿踊は見事でした。


昭和22年(1947)9月25日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

「水害」はカスリーン台風によるものです。

賢治忌」は9月21日。光太郎は旧太田村在住中、この日に合わせてほぼ毎年花巻町に出て、賢治忌で講演を行ったりしていました。「参集者の多いのにもおどろきました」とありますが、戦後2年が経過し、こうしたイベントへの他地域からの参加も以前より容易になったのでしょうし、清六と光太郎の編集になる『組合版宮沢賢治文庫』の刊行も始まって、賢治ファンの増殖につながったのでしょう。

この年の講演については、筑摩書房版『高村光太郎全集』に漏れていましたが、10年ほど前、『新岩手日報』に筆記が掲載されていたのを発見しました。一字一句、光太郎が語ったとおりではないとは思われますが、概要は捉えられます。若干読みづらいのですが、原文のまま。

 ◇…ここに来て二年になる、岩手はいい、風土に接し実際に経験をつむと東京にいたとき考えていたのと賢治さんの相ぼうが大部違つて来た、理解が深まつたようだ、芸術そのものは独立しているものだがその人の時代を越え、土地を越え、国をも越えて世界中に広まる性質をもつものである、必ずしもその人を知らなくともいい、ぼくらはボードレールもフランスのパリも知らなくても詩はわかるように賢治さんを知らぬ東京でも詩はわかる、判るほど詩は強い
 ◇…本質的には―大綱のところは世界のどこへ行つてもわかるけれども智のうがこまかい言葉の中にある、肉体的にも奥のあるような人間的親しみが言葉の陰にかくされている、真正面から詩をよむのではわからない、文字ばかと机の上でコネていては本当の詩は生れない、妙な言いかたかも知れないが文学的詩人というものは多いが人間的詩人というものは実に少ない、賢治さんは世界に通ずる本当の詩人だと思う
 ◇…賢治さんはそのほか生活の中でせられたことが全部詩となり行動そのままが詩で、ラヂウムが放射されるように体から放射された一つ一つが詩ということがこちらへ来てこまかく聞いたり、みたりしてはつきりわかつた、賢治さんの根底は宗教つまり法華経の実に熱烈な実行家で、その念願にもえて行動がともないそれが生れつきの詩人的素質と結びついているが、宗教詩人のようなくさみもなく、大きく自然から受けるものを素直に自分の体を通じてうたつている、自然にうたつたことが自ら法華経の教えにピツタリ合つて自然にうたつているようにみえる、これはえらく精進されたのですが――ともかくご自分で行者として精進されたばかりでなく一般の人を無上道に誘おうとして自分の体を投げ出して働いた、こうした中から人工で出来ないものを実現してくれた、これは非常に貴い
 ◇…賢治さんがいたということは将来の日本の詩人へ暗示を与える、また岩手は社会主義的詩人石川啄木をうみ対照的なのも面白いし時代を前後して出たのも輝かしいことだ、こゝに来てダンダン感ずることは岩手の国のよさ岩手県人の性格、人間の厚みなどこの性格は今後の日本の大きな背骨になるのだと考える

また紹介すべき事項が山積しつつあり、2件まとめてご紹介します。

まず、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」について、地方紙『岩手日日』さん。

山菜味わい推敲重ね 光太郎直筆原稿「七月一日」初公開  高村記念館・花巻

000  東京から疎開し花巻の山口集落で過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が山の暮らしの様子を記した散文の直筆原稿が、花巻市太田の高村光太郎記念館で初公開されている。村人として生活を送っていたことがうかがえる内容で、光太郎の原稿では珍しい推敲(すいこう)の跡もそのまま残っている。
 光太郎は、1945年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開し、8月に山口集落(現同市太田)で暮らし始めた。散文は翌年に執筆され、50年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載された。題名は「七月一日」。200字詰め原稿用紙4枚にブルーインクで書かれている。
 散文には地域で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓に上がる様子が山菜の描写と共に詳細につづられている。東北に来て初めて知った山菜「ミヅ」について山奥の谷川の水場にしげり、おひたしや塩漬け、汁の実にして食べると、「ワラビのようなぬめりがあって歯切れが良く、味に癖がなくてさっぱりしている」「ミヅのぬめりとニシンの脂とがよく調和する」などと記し、村人と同じ食生活を送っていたことが読み取れると同時に、東京では絶対に口にすることのないものへの感動が伝わる。
 テーマ展は7月7日まで。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

記事にあるエッセイ的な「七月一日」、全文はこちら。
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『智恵子抄その後』が刊行されたのは昭和25年(1950)11月20日。太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に『智恵子抄』を上梓した澤田伊四郎の龍星閣が、ある意味、二匹目のドジョウを狙って出版しました。「詩集」と冠されていますが、詩は同年1月に雑誌『新女苑』に発表した「智恵子抄その後」の総題を持つ6篇の連作詩、同じ『新女苑』や他の雑誌に発表されたものが5篇。その他は散文で、散文の方が圧倒的に分量が多いものです。

この「七月一日」は、それまでに他の雑誌や新聞等に発表された形跡が無く、初出と推測されます。というか、光太郎本人による「あとがき」に、「澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を校正してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。」とあり、「山小屋日記に類する文章」として、澤田が光太郎から借りた日記の一部なのではないかと推定されます。

目次の「七月一日」下部には「昭和二一・七・一」の文字。実際、この年の5月16日から7月16日までの日記が失われています。同様にやはり『智恵子抄その後』には昭和25年(1950)に書かれた「九月三十日」というエッセイも掲載されており、こちらも他の新聞雑誌等に掲載が見あたらず、そして当該日前後の日記が失われています。「物色」のひと言から澤田による借りパクと断定は出来ませんが……。

閑話休題、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件は、『毎日新聞』さんの千葉版から。

君津出身 不運の画家、柳敬助に光 渡辺茂男さんが評伝出版 /千葉

  明治・大正期に渋沢栄一や北原白秋の肖像画を描くなどして活躍した君津市出身の洋画家、柳敬助(1881~1923年)の評伝が出版された。執筆したのは同市の文化財審議会委員を務める渡辺茂男さん(73)。柳が42歳で没した年に関東大震災が発生、多くの作品が失われた。歴史に埋もれた画家の人生を丹念に掘り起こした。
 本のタイトルは「不運の画家―柳敬助の評伝」(東京図書出版)。「西洋画黎明(れいめい)期に生きた一人の画家の生涯」のサブタイトルが付けられている。
  柳は現在の君津市小糸地区で医師の子として生まれた。通っていた籾山尋常小の佐藤善治郎校長に才能を見いだされ、絵描きになることを勧められたと伝わる。後年、柳が描いた佐藤校長の肖像画が小糸小に残されている。
 東京美術学校(東京芸大の前身)で西洋画を学んだ後、米欧に留学。帰国後は渋沢や北原、思想家の三宅雪嶺、政治家の野田卯太郎ら各界で活躍する人物を描き、肖像画家としての地位を確立した。
 だが、1923年5月に42歳の若さで病死。その年の9月1日から日本橋三越で遺作展が開かれる予定だったが、関東大震災が起き、代表作を含む約40点を焼失してしまった。残された作品の多くは現在、柳が終生の友とした彫刻家の荻原守衛(もりえ)を記念した碌山(ろくざん)美術館(長野県安曇野市)に所蔵されている。
 君津市出身の渡辺さんは昨年、柳の没後100年を迎えたのを機に執筆を始めた。「郷土が生んだ洋画家が、どんな絵を描き、どんな人生を送ったのか、記さないといけない」と使命を感じたという。数点の手紙を除き、柳の日記や手記などは見つかっていない。関わった周辺の人物の書籍などから、その歩みを探った。昨年には柳の作品などをまとめたパネル展示も小糸公民館で開いた。
 柳は詩人で画家の高村光太郎らと親交を深め、多くの芸術家が集った「中村屋」(現在の新宿中村屋)の支援を受けて創作活動に打ち込んだ。「多くの作品が焼失し、その絵を見ることはできない。現在の私たちには不運なことではあるが、柳本人の人生は幸せだっただろうと思う」と話す。
 <小糸川の水一滴は七つの海につうじる>。同市の君津高校上総キャンパスに建つ石碑に刻まれている言葉だ。小糸川流域で生まれた人々が「七つの海」、すなわち世界で活躍することを願った言葉とされる。渡辺さんは「柳の人生は、この言葉を正に体現していたと思う。小糸から羽ばたいた青年の人生を広く知ってほしい」と願う。
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君津市出身の画家、柳敬助の評伝「不運の画家」を出版した渡辺茂男さん。
手前は小糸公民館での展示で使用したパネルの原本=君津市

過日ご紹介した『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』についてです。

柳の名は光太郎顕彰に携わる身としてはマストなのですが、やはり一般にはあまり知られていない名前なんだな、と感じさせる書きぶりでした。まぁ、当方も渡邉氏のご講演拝聴するまで、柳の生涯をそれほど詳しく知っていたわけでもありませんが。

ところで「詩人で画家の高村光太郎」とありますが、「詩人で彫刻家の高村光太郎」としていただきたかったところです(さらに云うなら、光太郎自身の優先順位としては「彫刻家で詩人の高村光太郎」でしたが)。おそらく書いた記者さん、光太郎についてもあまりご存じないようで……。

何はともあれ、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。Amazonさん等でも入手可能です。

さらに、記事にある安曇野の碌山美術館さんに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

稚拙の美は無意識にして始めて価値あり、世上に往々あるやうな意識的な稚拙のものは甚だ厭味になります。又いい気になつた稚拙のものは棄てる外なし。無技巧といふ事は本来芸術には存在せず。一見無技巧と見えるものには別個の技巧があるものと思ひます。


昭和22年(1947)9月17日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の芸術論の一端が、端的に表されています。光太郎はいわゆる「ヘタうま」的なものに価値を認めていませんでした。

「始めて」は原文のまま。「初めて」とすべきですが、「始」と「初」の使い分け、光太郎は意外といい加減でした。

『読売新聞』さん青森版、先週末に出た記事です。

十和田湖 輝く新緑

 十和田湖畔に広がる木々に若葉が生え始め、訪れる人の目を楽しませている。遊覧船やボート、カヌーなどに乗ると、新緑と湖水の青とのコントラストが一望でき、湖畔とはひと味違った風景が楽しめる。
 十和田八幡平国立公園の中にある十和田湖は、周辺にブナなどの林が広がる。透明度が約12メートルの湖水は、光の反射で深い青色からエメラルドグリーンまで様々な表情を見せる。
 10日は白波が立つ荒れた天候だったが、高村光太郎の最後の作品として知られる「乙女の像」の近くにボートツアーがさしかかると、雲の切れ間から日光が差し込み、ブロンズ像と新緑、湖水のブルーが輝いていた。
 十和田奥入瀬観光機構は、「10、11月の晩秋まで多くの観光客に楽しんでほしい」としている。
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画像からも湖畔の新緑の美しさが伝わってきますね。

ただ、記事中の「最後の作品」というのは誤りで、「最後の大作」というべきです。何度も書いておりますが「最後の作品」は、完成したものとしては、昭和28年(1953)10月21日に行われた「乙女の像」の除幕式の際に関係者に配付された記念メダルです。小品ですが黙殺されていいものではありません。また、体調不良で未完のまま終わりましたが、その後取り組んだ「倉田雲平胸像」も含めれば、そちらも「最後の作品」ということになります。
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004ネット上や印刷物だと関係団体さんなどの紹介であっても「乙女の像」を「光太郎最後の作品」としている記述が目立ち、辟易しておりますが、一度こうとなってしまうとたとえ事実と異なっていてもそれが定着してしまうという例ですね。

閑話休題、「新緑」ということで、これも再三取りあげていますが、「新緑」を謳歌する光太郎詩を。

     新緑の頃
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて005
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

昭和15年(1940)、雑誌『婦人之友』に掲載されました。既に日中戦争が泥沼化、国家総動員法がしかれていた時期で、「日本という国は何と素晴らしい国なのだ!」というプロパガンダ的な要素が見え隠れします。

そういう点を抜きにすれば、いい詩ですね。

さて、「新緑」の十和田湖、ぜひ足をお運び下さい。先月末からは遊覧船の運航も再開していますし。

【折々のことば・光太郎】

他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。


昭和22年(1947)9月15日 菊池正宛書簡より 光太郎65歳

自著に序文を書いてくれ、という依頼に対しての断りの一節です。詳しくはこちら

朗読公演の情報です。

まず、愛知県から。存じ上げない方々の公演ですが、ネットの情報検索で引っかかりました。

語り部リサイタルvol.5 「みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 古民家カフェすず助 愛知県西尾市会生町18
時 間 : 開場 13:00 開演 13:30
料 金 : 1,500円
主 催 : 語り部ふみの会

徒然なるままに……現代の清少納言を気取って、語り部・三浦有美がお届けする「みーみーの世界」。どうぞお楽しみ下さい。

出 演 : 三浦有美(語り部)  田中ふみ枝(語り部・BGM演奏)

プログラム 
 【みーみーの本棚】
   智恵子抄より 高村光太郎  やまなし 宮沢賢治  蜘蛛の糸 芥川龍之介
 【みーみーのお客様】
   ゲストタイム・おしゃべりと語り
 【みーみーの日常】
   私のつぶやき 作・三浦有美

003
「智恵子抄」を取りあげて下さるそうで、ありがとうございます。

残念ながらこの日は智恵子の故郷・福島二本松にて開催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」に参加予定ですので欠礼いたしますが、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、まだ先の話でネット上に詳細が出ていないようですが、こちらは当方お世話になっている方々の公演でして、早めに告知いたします。
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箏曲演奏家の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんのコラボです。元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、荒井さんの地元・仙台で開催の運びとなりました。かつて同様の件で、荒井さんとテルミン奏者の大西ようこさんとのコラボも仙台で開催されたことがありました。

連翹忌は光太郎を偲ぶ集いというのがメインですが、このように様々な方々のネットワーク作りに貢献するというのも一つの目的でして、こういうイベントが為されると、主催者として喜びに堪えません。

こちらに関しましてはまた近くなりましてネット上に情報が出ましたら詳細をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」は部数少いと見えて小生の家へも二部しか来ずお送りも出来ません。わざわざ探してよむほどのものでない事と存じます。

昭和22年(1947)9月(推定) 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

「展望」は、幼少期からの自らの来し方、さらに戦争責任などを綴った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」が載った7月号です。

「これを書き上げないうちは他の詩は書けない」という気持で臨み(実際には書きましたが)、1年以上かけて完成させた「暗愚小伝」ですが、いざ活字になってみると自分の意を尽くしたものとも言い難く、「わざわざ探してよむほどのものでない」。

書いている時が花、物書きあるあるです。はしくれの当方もそう思います。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

『朝日新聞』さんで、弁護士にして詩人、文芸評論家でもあらせられる中村稔氏が大きく取り上げられました。

寂しさと、生へのいとおしさと 中村稔さん最新詩集、「月の雫」 97歳 人生の喜び 貴い未来に 詩人で弁護士 言葉は明瞭で不可解

002 詩人・中村稔さんの最新詩集「月の雫」(青土社)に収録される1編1編の詩は短い。けれど、人生の喜びや人情の機微が詰まっている。中村さんにとって、初めての試みだった。
 「僕がいつも書く詩は寂しいんですよ。どうしたって寂しい。でも一生に一度くらい、誰にでもわかりやすく、おもしろく、楽しく読めるものを書いてみたいと思ったんです」。ドウダンツツジの枯れ枝の間に落ちる、月の光に慰められる老人。お年玉をもらった翌日、駄菓子屋で全て使い切ってしまった少年。互いに思い合いながらもプロポーズできずにいる男女。ミサイルにおびえ、差し込む月の光に気づかないロシアとウクライナの兵士。収録される20編の詩それぞれで登場人物が、生きることの尊さ、恋愛のはかなさと喜び、戦争の不条理さと向き合う。
 「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
 〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
 「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
 1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
 詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見
つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになるこ001とはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」

記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。

その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
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そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。

もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。

ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。

今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。

【折々のことば・光太郎】

「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。


昭和22年(1947)9月8日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。

 いつのことだか忘れたが、
 私と話すつもりで来た啄木も、
 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
 すつかりあきらめて帰つていつた。
 日露戦争の勝敗よりも
 ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた

バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。

本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
000
昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
無題
これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)

関西でこぢんまりと刊行されている雑誌です。

『B面の歌を聞け』4号

2024年4月20日 夜学舎 定価990円(税込み)

特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」

夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
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目次
 はじめに 太田明日香
 インタビュー
  創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
 るるるるんメンバー(かとうひろみ、UNI、3月クララ)
  アートとことば アートを通じて社会をほぐす 
谷澤紗和子さんのアートと「ことば」 谷澤紗和子
 特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
  権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
  子どもとことば 「あらない」の神秘 鼈宮谷千尋
  文化とことば 幼い密輸 むらたえりか
  ことばのDIY B面の言語学習 石井晋平(イム書房)
  声、体ということば 俺は言葉に毒されていたか 服部健太郎(ほんの入り口)
 シリーズ 地方で本を作るとは?
  持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
 編集後記・次号予告


智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
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単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。

また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。

光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。

似たようなことは繰り返し述べました。

青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)

自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)

しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)

そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。

何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】d8ac5c36

今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。

昭和22年(1947)9月8日
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。

髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

新刊です。

自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと

2024年5月5日 若松英輔 著 西淑 画 亜紀書房 定価1,600円+税

生きること、
働くこと、
愛すること。
自分を支える言葉を探す27の言葉の旅。

〈日経新聞で話題の連載「言葉のちから」待望の書籍化〉

古今東西の名著の中には、生きるための知恵、働くうえでのヒントが詰まっている。
NHK「100分de名著」でお馴染みの批評家による、自分の本当のおもいを見つけるための言葉。
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目次
 この本の用い方――はじめに  
 1 言葉の重みを感じとる……神谷美恵子『生きがいについて』
 2 事実と真実を感じわける……遠藤周作『イエスの生涯』『深い河』
 3 沈黙の世界、沈黙のちから……武者小路実篤「沈黙の世界」
 4 世界と向き合うための三つのおきて……柳宗悦「茶道を想う」とノヴァーリス「花粉」
 5 叡知を宿した人々……ユングとメーテルリンク
 6 語られざるおもい……司馬遼太郎と太宰治
 7 美とは己に出会う扉である……岡本太郎のピカソ論
 8 書くとは時に止まれと呼びかけることである……夏目漱石と鷲巣繁男
 9 心だけでなく、情[こころ]を生きる……ピカート『沈黙の世界』
 10 人生のモチーフ……小林秀雄『近代絵画』
 11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三
 12 人生はその人の前にだけ開かれた一すじの道である……アラン『幸福論』
 13 経験とは自己に出会い直すことである……ヴェーユ『重力と恩寵』
 14 ほんとうの私であるための根本原理……志村ふくみ『一色一生』
 15 思考の力から思索のちからへ……ショーペンハウアーの読書論
 16 観るとは観えつつあることである……今西錦司の自然観
 17 本質を問う生き方……辰巳芳子さんとの対話と『二宮翁夜話』
 18 ことばは発せられた場所に届く……河合隼雄と貝塚茂樹
 19 賢者のあやまり……湯川秀樹『天才の世界』
 20 三つの「しるし」を感じとる……吉田兼好『徒然草』
 21 力の世界から、ちからの世界へ……吉本隆明『詩とはなにか』
 22 書くことによって人は己れに出会う……ヴァレリーの『文学論』
 23 念いを深める……ティク・ナット・ハン『沈黙』
 24 運命に出会うために考えを「白く」する……高田博厚とロマン・ロラン
 25 着手するという最大の困難……カール・ヒルティ『幸福論』
 26 語り得ないこと……リルケ『若き詩人への手紙』
 27 沈黙の意味……師・井上洋治と良寛
 あとがき
 ブックリスト

詩人の若松英輔氏が『日本経済新聞』さんに連載されていた「言葉のちから」の書籍化です。「11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」は、昨年6月10日の掲載でした。そちらで拝読したので、書籍としての購入はしなくてもいいかと思っていたのですが、目次を見ると高田博厚、ロマン・ロラン、吉本隆明、武者小路実篤、柳宗悦ら、光太郎と関わる人物の名が並んでいて、結局買ってしまいました(笑)。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。


昭和22年(1947)8月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎65歳
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の畑で作っていた農作物を列挙しています。これらを一度に栽培していたわけではなく、時期をずらしながら、あくまで自給のためそれぞれを少量ずつ育てていました。ただ、中にはものにならなかった作物も含まれ、虚偽とは云いませんが、少し「盛って」驚かせてやろうという意図が垣間見えます。

高村美津枝さんは光太郎令姪。ご健在です。










明治19年(1886)5月20日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生を受けた智恵子を偲ぶイベントです。

第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館とその周辺 福島県二本松市油井漆原町35
時 間 : 9:00~14:00
料 金 : 2,000円(お弁当付き)
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~


高村智恵子ゆかりの地を説明付きで巡ります。霞ヶ城公園の「智恵子抄」詩碑前で参加者の詩朗読。
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昨年も参加させていただきました。要項に記載がありませんが、主催の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の方の車輌に分散しての移動です。行程はほぼ同一ですが、それぞれの場所で智恵子や光太郎の息吹が感じられますので、なかなかよい試みかと。

特に智恵子生家は現在、通常非公開の二階部分(智恵子居室や光太郎も泊まった部屋)の公開が為されています。智恵子の実家・長沼家は裕福な造り酒屋だったですので、しつらえのあちこちに工夫が垣間見えして、古建築好きの方にもおすすめです。
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ちなみに智恵子の父・今朝吉は、家業の造り酒屋以外にも、同じ福島の白河にあった白河醸造の監査役も務めていました。まぁ、名誉職のようなものかも知れませんが。
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その父・今朝吉が大正6年(1917)に歿し、弟・啓助があとを継ぐと家業はどんどん傾き、昭和に入ると恐慌のあおりで破産してしまいましたが。

昨年と異なるのは最後の「参加者による詩の朗読」の場所。昨年は生家/記念館裏手の鞍石山にある「樹下の二人」詩碑前でしたが、今年は二本松城(霞ヶ城)内の智恵子抄詩碑前で行うそうです。

昨日書いた安達太良山間の山開きが同日で、どちらに参加しようか迷ったのですが、こちらを選びました。

話せば長いことながら、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、とりまとめ役の曽我貢誠氏がNHKさんに連絡をとったところ、仙台放送局のディレクター女史が4月2日(火)の連翹忌にご参加下さり、アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で10分程の放映が行われることになりました。そのロケも入ると云うことで、こちらに参上しようと決めた次第です。

他に光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に料理を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取材も為されたとのこと。

この件はまたのちほど詳しくご紹介いたします。

さて、第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

待望のクマゼミ到着、感謝に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧出来なかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。


昭和22年(1947)8月6日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

東は三重県在住。光太郎の求めに応じ、東日本では珍しいクマゼミ標本を送りました。

さらに東からは彫刻用の椿の木材、ヤギという珊瑚の一種なども送られ、光太郎はこれらで蟬を彫ったようです。ただし、作品として発表することはせず、技倆を鈍らせないための鍛錬などのためという側面が強かったようです。

実際に蟬の彫刻の目撃談が複数あり、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りました。ただし現存が確認できていません。

この頃の短歌で「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」という歌もあり、揮毫した色紙等も複数残されています。
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智恵子のソウルマウンテン、福島は二本松の安達太良山で山開きです。

第70回記念 安達太良山山開き 絵になる、詩になる、ほんとの空。

期 日 : 2024年5月19日(日)

奥岳登山口(あだたら高原スキー場)でのイベント
 ①安全祈願祭【午前8時~】
  1年間の安達太良山登山の無事を参加者で祈願します。
  (荒天時はランデブー内で実施します)
 ②あだたらマルシェ【午前9時~(予定)】
山頂でのイベント
 ➀ペナント配布【午前9時30分~】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ②70回記念ピンバッジ配布【午前9時30分~】
  先着500個を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ➂ミズあだたらコンテスト【午前11時~】

福島県出身のタレントなすびさん(安達太良山観光大使)が今年の70回記念山開きに参加!! ぜひ一緒に登山を楽しみましょう!!(記念撮影可能)
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二本松市さん発行の『広報にほんまつ』今月号にも情報が。
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同誌では、市長さんのコーナーでも山開きをメインに。「智恵子抄」にも触れて下さいました。ありがたし。
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今年のキャッチフレーズも「絵になる、詩になる、ほんとの空。」ということで、「智恵子抄」にからめて下さっています。多謝。

当方、コロナ禍前の令和元年(2019)に参加しました。翌年からはコロナ禍のため、大幅に規模を縮小しての開催が続き、昨年、4年ぶりに旧に復しました。

今年、久しぶりに参加しようかと考え、それにも使えるようにとワークマンさんで気合いの入った靴も買ったのですが(笑)、同じ日に二本松で智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催のイベントがあり、天秤にかけた結果、そちらに参加することに致しました。

そちらについては明日、ご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

今夏東京の酷暑のひどかつた事は聞いていましたが、おてがみをよんで夏に弱い小生などたまらない気がしました。東京都の設計には気候調節の顧慮が必要のやうです。例へばラングーンの森林都市といふやうな。


昭和22年(1947)8月28日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

「ラングーン」は現・ヤンゴン。旧ビルマ(現・ミャンマー)の首都で、森の多い都市でした。

光太郎は安藤の骨折りで英文雑誌『リーダーズダイジェスト』を購読しており、そのあたりから情報を得ていたようです。

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

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高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

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こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
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「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
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P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

先月30日の『朝日新聞』さん新潟版から。

(ぷらっと甲信越)山梨・市川三郷「四尾連湖」 豊かな自然の中、命の洗濯 /新潟県

004 「四本の尾を連ねた竜がすむ」のがその名の由来という、山上にたたずむ神秘の湖。かつて、湖畔の丸太小屋で自炊生活をしながら詩を作り続けた男がいた。
 山梨県旧一宮村(現・笛吹市)に生まれた野沢一(1904~45)は「森の生活 ウォールデン」を著して自然の一部として生きることを説いた米国の思想家ヘンリー・ソロー(1847~62)に感化され、卒業直前だった法政大学を中退。1929(昭和4)年に四尾連湖(しびれこ)畔に移り住み、約5年暮らした。作品は007詩集「木葉童子(こっぱどうじ)詩経」にまとめられ、詩人・高村光太郎が序文を寄せている。湖畔の森の中で詩作し、自然との合一を志向する作風から「森の詩人」と呼ばれている。
 湖畔から、エメラルドグリーンの湖水のきらめきを左手の樹間に見ながら登山道を15分ほど歩くと、野沢の文学碑に着く。
 「とこしえに しびれ湖と たたえられてあれよ」。碑に刻まれた詩を詠じた頃と、湖の姿はそんなに変わってはいないだろう。
 東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)は、10年以上前から年に1度は、湖畔の山荘「水明荘」に投宿するのを楽しみにしている。
 「火薬の臭いが漂っていた時代にあって、現代を先取りしたかのような詩を思い、野沢も過ごした自然の中で命の洗濯をする」と話す。
 水明荘は、曽祖父から4代目となる北島水絵子さん(51)と、慎介さん(47)の夫婦が営む。
005 水明荘が湖の対岸で運営するキャンプ場へテントなどの荷物を運ぶには、手押しの一輪車などを使って湖を約10分かけて半周するか、人力のボートで横断するしかない。だが「その不便さを含め、『豊かに何もない場所』を提供しています。それを大事にしていきたい」と水絵子さんは話す。
 このキャンプ場に年に8~10回は訪れるという、東京の50代の自営業男性は、たった1人での「ソロキャンプ」を楽しむ。火をたいて作った食事を食べたり、色鉛筆で風景をスケッチしたり、後はボーッと過ごす。「静かなんだけど、無音じゃない。鳥の鳴き声や魚のはねる水音など、豊かな自然の発する音が、ストレートに感じられるのがいい」
 時間が止まっているかのような湖畔だが、新しい時代の波紋も伝わってきた。
006 数年前、キャンプをテーマにした人気アニメ『ゆるキャン△』で、四尾連湖がモデルになった。
 それ以来、アニメのモデル地を訪れる「聖地巡礼」として、キャンプ場を利用したり、水明荘の湖に臨むテラスで「ホットチャイ」を飲んだりするアニメファンが、外国人もまじえて増えているという。
〈アクセス〉中央道甲府南インターチェンジから車で約40分、JR身延線市川大門駅からタクシーで約30分。標高850メートルにある周囲1.2キロの山上湖。周辺は1959年に県立自然後援に指定された。水明荘(055・272・1030)が湖畔で宿泊施設とキャンプ場を運営している。


一時、光太郎と僅かな関わりのあった詩人・野沢一に関して、山梨県市川三郷町の四尾連湖が取り上げられました。

ちなみに記事に登場する「東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)」は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の言い出しっぺなので「ありゃま」という感じでした。

ただ、記事中で野沢の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)に「詩人・高村光太郎が序文を寄せている」とあるのは誤りです。平成17年(2005)に文治堂書店さんから覆刻された『木葉童子詩経』で光太郎の「木葉童子の手紙」が序文的に巻頭に配されています(昭和51年=1976にも文治堂さんから覆刻が出ましたが、そちらは確認していません)が、これは昭和15年(1940)の雑誌『歴程』(草野心平主宰)に載った半連載的な「某月某日」の一篇で、序文というわけではありません。

『木葉童子詩経』に野沢は光太郎に触れた詩も収録しました。
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   長すぎるこの世に生きて

 確かに何処かにはずつと高いものがゐる
 霧の中に射して来る夕陽の様なものがある
 然しそれは私には解らない
 解らないが居る様な気はする
 案外の人が黙つて持つてゐるかも知れない
 寺田寅彦氏、芥川氏、直哉氏、漱石氏、節氏、子規氏、
  百穂氏、かう言ふ人は芸術的なものをもつて私にせまる
 そして高村光太郎と言ふ人は
 小さい様に冷たく匂ふ

 けれどもこう言ふ人を離れて
 私はしばし しびれの山にこもつてみる
 其処には何があつたか
 色は匂へど散りぬるを――
 (以下略)


野沢は『木葉童子詩経』を送り、光太郎は礼状を認(したた)めました。

その他、光太郎と野沢の関わりは、野沢が昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送ったこと。その件を「某月某日」に書いています。光太郎も何度か返信はしました。確認できているのは先の1通を含めて2通のみで、いずれも山梨県立文学観さんに所蔵されています。
002
二人に直接の面識はおそらく無かったのではないかと思われます。しかし、『木葉童子詩経』に記された四尾連湖での生活ぶりは、光太郎の心に深く刻まれたように思われます。それが戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしをするという決断に影響を与えたような。もっとも、光太郎周辺には、辺境で活動していた人物は野沢以外にも水野葉舟、更科源蔵ら、複数居ましたが。

四尾連湖、当方は平成29年(2017)に足を運びました。その際のレポートがこちら。その頃はまだアニメ「ゆるキャン△」は放映されて居らず(原作の漫画は既に出ていましたが)、「聖地巡礼」的な人も見かけませんでした。現在はインバウンドの人々も訪れているのですね。

山梨県に於ける「ゆるキャン△」の経済効果はかなりのものだそうですし、過日訪れた中野区の三岸アトリエ/アトリエMさんも、吉高由里子さん、横浜流星さん主演の映画「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)のロケで使われたため「聖地巡礼」で訪れる方もいらっしゃるとのこと。

それらが一過性のもので終わらないように、と願う次第です。

【折々のことば・光太郎】

北海道旅行の件、ゆきたいのは今でも山々なのですが、一番大きな故障は身体的な不安です。 少しつめて仕事したり、畑が過ぎると血をはく習慣が出来たやうで、此処其上汽車に長くのると肺炎を起す懸念が濃厚です。


昭和22年(1947)8月12日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

更科は戦前には弟子屈で開墾に取り組みながら文学活動を行っていました。この頃は札幌在住で、花巻郊外旧太田村の光太郎の元も訪れ、逆に光太郎に北海道へ来ませんか的な誘いをしばしばかけていました。

新刊です。

丹波哲郎 見事な生涯

2024年4月23日 野村進著 講談社 定価2,200円+税

 「人間、死ぬとなぁ、魂がぐぅーっと浮き上がっていくんだよ。それで、どんどんどんどん上昇していく。ところが、天井でぶつかって、一度反転するんだ。すると、ベッドの上には自分の骸(むくろ)がある」
 「やがて、かなたに小さな光が見えてくる。その光に向かって、どんどんどんどん走っていく。どんどんどんどん走っていく。でも、息切れしないんだ。なぜか? ……死んでるから」

 大俳優・丹波哲郎は「霊界の宣伝マン」を自称し、映画撮影の合間には、西田敏行ら共演者をつかまえて「あの世」について語りつづけた。中年期以降、霊界研究に入れ込み、ついに『大霊界』という映画を制作するほど「死後の世界」に没頭した。
 「死ぬってのはなぁ、隣町に引っ越していくようなことなんだ。死ぬことをいつも考えていないと、人間、ちゃんとした仕事はできないぞ。おまえも、いつでも死ぬ覚悟、死ぬ準備をしといたほうが、自分も楽だろう」――

 丹波は1922年(大正11年)、都内の資産家の家に生まれ、中央大学に進んだ。同世代の多くが戦地に送られ、生死の極限に立たされているとき、奇跡的に前線への出征を逃れ、内地で終戦を迎える。
その理由は、激しい吃音だった。
 終戦後、俳優を志した丹波は、舞台俳優を経て映画デビューし、さらに鬼才・深作欣二らと組んでテレビドラマに進出して大成功を収めた。
 高度成長期の東京をジェームス・ボンドが縦横に駆け抜ける1967年の映画『007は二度死ぬ』で日本の秘密組織トップ「タイガー・タナカ」を演じ、「日本を代表する国際俳優」と目されるようになる。
 テレビドラマ「キイハンター」、「Gメン’75」で土曜午後9時の「顔」となり、抜群の存在感で「太陽にほえろ!」の石原裕次郎のライバルと目された。
 『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『人間革命』など大作映画にも主役級として次々出演し、出演者リストの最後に名前が登場する「留めのスター」と言われた。
 その丹波が、なぜそれほど霊界と死後の世界に夢中になったのか。
 数々の名作ノンフィクションを発表してきた筆者が、5年以上に及ぶ取材をかけてその秘密に挑む。
丹波哲郎が抱えた、誰にも言えない「闇」とはなんだったのか。
 若かりし頃に書かれた熱烈な手紙の数々。
 そして、終生背負った「原罪」――。
 「死は待ち遠しい」と言いつづけ、「霊界」「あの世」の素晴らしさを説きつづけた大俳優の到達した境地を解き明かすことで、生きること、そして人生を閉じることについて洞察する、最上の評伝文学。
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目次
 プロローグ 
  魂は生きつづける 二人の名優  子どもの心」を持った人
 第一章 坊や猿
  ツツジ御殿の一族 盗み食いの代償
 第二章 第三の男
  天の配慮 貞と貞子 満たされぬ魂 オレも役者なんだよ
 第三章 救いの神
  テレビの時代 ルーズベルトの病 動かぬ足 徹マンの理由
 第四章 007
  捕虜と軍刀 タイガー・タナカ 国辱映画 三船敏郎の忠告 国際スター誕生
 第五章 智恵子抄
  病身の妻 志麻子にかけた催眠術 「智恵子抄」から「貞子抄」へ
 第六章 ボスとファミリー
  伝説のテレビドラマ 陽子にはナイショだぞ 声を鍛えろ “勝ち逃げ”の深作
  最高の褒め言葉 
「TBSの天皇」と呼ばれた男 天性のリーダー
 第七章 人間革命
  映画界の三大ホラ吹き 来るものは拒まず 日本で一番いい役者は
  人間、死んだらどうなるか 
オレは演技に開眼した 降霊会の超常現象
  「人間革命」から学んだこと
 第八章 留めのスター
  運命の出会い 森田健作の確信 「自分のセリフに感動しちゃって」
  芝居は顔じゃないんだよ 
『八甲田山』のふんどし男
 第九章 宿命の少女
  尻に刻まれた「怨」の字 密教の秘儀 一億二千万円をつぎ込み
  今生のカルマ たらちねの母
 第十章 死は「永遠の生」である
  母の死でわかったこと 守護霊様のお導き 芸能界のパパとママ スターの中のスター
 第十一章 大霊界
  明るく、素直に、あたたかく 素晴らしき永遠の世界 天国の入り口を見つけた
  左の胸にしこりが 二十九歳の新人プロデューサー 谷底から霊界へ
  さんまのまんまに登場
 第十二章 不倫と純愛
  E子さんと隠し子 十六歳の出会い クルマひとつで家を出るから 情熱の手紙
  狂気が全てを解決する もうひとりの息子
 第十三章 死んだら驚いた
  童女天使 ポーに捧げる舞台 大槻教授と宜保愛子 オレが来たから、もう大丈夫
  見えないものが見える オーラの泉
 第十四章 天国の駅
  正月のハワイ旅行 五十年目の別れ 散骨の海 死は待ち遠しい 冥土の土産に
  最後の芝居
 あの世を見てきた 穏やかな旅立ち
 エピローグ
  草刈正雄から堺雅人へ 食わず嫌いをしない人 「いずれわかるよ」 ジキルとハイド
 あとがき
 主要参考文献・資料

俳優の故・丹波哲郎さんの評伝です。元々は同じ講談社さんの『週刊現代』に連載されていた「巨弾ノンフィクション 丹波哲郎は二度死ぬ 大スターはなぜ晩年に「大霊界」へ傾斜したのか」ですが、それを全面改稿。最終的に450ページ超の大著となっています。

第五章がまるまる昭和42年(1967)封切り、丹波さんが光太郎を演じた松竹映画「智恵子抄」がらみ。他の章でも「智恵子抄」に言及されている箇所が散見されます。それだけ「智恵子抄」が丹波さんにとって大きな意味をもつ作品だったというわけで。

しかし、周囲はそうは考えなかったようです。本文より。

 ところが、『智恵子抄』以降、俳優・丹波哲郎のあらんかぎりの能力を引き出そうとする監督やプロデューサーは、ついにひとりも現れなかった。
 丹波は長年、『智恵子抄』のような人間の本質を追求していく作品への出演を待ち望んでいたのに、来る役も来る役も、同工異曲の代わりばえしないものばかり。次第に俳優としての将来に自分の力のみではどうにもならない限界を感じ、新しい道を切り開いていく決意を固めたのだろう。


「新しい道」が、のちの「霊界」への傾倒です。この部分、丹波さんと「Gメン’75」で共演された原田大二郎さんのおっしゃった内容ですが、野村氏も激しく同意なさっているようです。

それから『週刊現代』さんでの連載時にも触れられていましたが、奥様の貞子夫人の存在が『智恵子抄』を鬼気迫るものたらしめたという考察が、さらに突っ込んでなされています。貞子夫人、結婚後ほどなくして難病のポリオに罹患、自力での歩行もほぼ不可能な状態だったそうです。後年、丹波さんがその奥様に贈られた自費出版の冊子は『智恵子抄』ならぬ『貞子抄』だったそうで。

ところが丹波さん、奥様一筋だったかというとそうではなく、他に「愛人」が二人。そのうち一人との間には「隠し子」まで。しかし、世間一般に言う「愛人」「隠し子」というニュアンスではなく、貞子夫人にも世間にも包み隠していませんでした。現代では「芸能人の不倫」というと、それだけで芸能界から抹殺されかねない風潮ですが、いい悪いは別として、それが通っていた時代だったんだなぁと思いました。

「いい悪いは別として、それが通っていた時代」ということになりますと、丹波さんの破天荒ぶりすべてに当てはまるような気がします。撮影時の遅刻、セリフを覚えてこない、他の俳優さんへのあからさまな対抗意識などなど。しかし、それらも時と場合で、確信犯的に、言い換えれば「丹波哲郎はかくあるべき」という虚像を演じるために、わざと遅刻したりしていらしたそうです。セリフを覚えないというのも作品によってで、意に沿わない役を続けさせられる場合などに、制作陣への皮肉として「どうせいつも同じようなものなんだから」的な感じだったそうで、カメラに写らないように共演者の胸にカンペを貼ったりして凌がれていたとのこと。そういうのも時と場合による確信犯で、五社英雄監督などは「丹波がセリフを覚えてこないなど、ありえない」と断言なさったそうです。

現代ではこういう豪快な俳優さん、存在し得ないのでしょう。

野村氏の筆は、そんな丹波さんに対し、全体的にはリスペクトに貫かれつつも過剰に心酔するでもなく、さりとてゴシップ的に悪行の数々を暴くでもなく、冷静に進められています。そして丹波さんを取り巻いた芸能界や社会全体へのある種の提言に満ちています。

また、故人を含め、数多くの人々の丹波さん評や、それぞれとのエピソードも読み応えがありました。三船敏郎さん、仲代達也さん、西田敏行さん、森田健作さん、宮内洋さん、里見浩太朗さん、原田大二郎さん、若林豪さん、谷隼人さん、岡本富士太さん、浜美枝さん、鶴田浩二さん、若山富三郎さん、明石家さんまさん、ビートたけしさん、ショーン・コネリーさん、伊丹十三さん、丹波義隆さん……。

ちなみにカバーを外した状態がこちら。この装幀もすばらしいと思いました。
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ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

一週間に亘る大豪雨で諸川氾濫、小生の畑も水びたしとなり相応に影響があります。今日は雨やみましたが晴れません。


昭和22年(1947)8月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。自然の脅威には逆らえませんでした。

状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。

盛岡市先人記念館で池田龍甫展 没後50年に合わせ、作品や遺品を展示

 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
 池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
 同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
 展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
 展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
 晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
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同展詳細はこちら。

没後五十年 池田龍甫展

期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日 
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
      団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)

令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。

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『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
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校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。

その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
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盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
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発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。

ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら
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旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。

池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。

昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳

佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。

先週末に開幕しましたが、昨日になって市のHPに情報が出ました。

令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」

期 日 : 2024年4月27日(土)~7月7日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、昭和二十年の空襲で東京のアトリエを失い、同年五月に賢治の実家を頼って花巻に疎開しました。東京からの疎開後に滞在した先々で目にした岩手の初夏の光景に感動した光太郎は、花や山菜などをスケッチして残しました。
また、山口集落(現 花巻市太田)での自然に囲まれた暮らしの中で接した植物もスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想がうまれました。
 結局詩集は未刊に終わったものの、光太郎が山の暮らしの中で詠んだ詩や散文、スケッチは文芸誌や雑誌、詩集『智恵子抄 その後』に掲載され、世に知られることとなりました。
 今回のテーマ展『山のスケッチ』では、光太郎が花巻で過ごした七年間で描いたスケッチを中心に紹介し、自然を題材にした散文の原稿などの資料を展示します。

展示資料
 散文『七月一日』直筆原稿(初公開資料)4枚
 素描集『山のスケッチ』より鉛筆画および精密複製10点
 他、山のスケッチに登場する草花写真パネル

展示の見どころ
 散文『七月一日』直筆原稿は今回が初公開の資料です。本作は昭和21年に執筆され、昭和25年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載されました。文中では当地で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓にあがる様子が山菜の描写と共に詳細に記されています。東京在住時代に刊行された最初の「智恵子抄」は有名ですが、花巻在住当時に刊行された「智恵子抄 その後」の存在は広く知られてはいません。現在刊行されている「智恵子抄」の原型となった詩集で詠まれた花巻の自然を、今回の展示を通じて知っていただければ幸いです。
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展示風景の画像を市役所さんから送っていただいています。
展示風景 (1) 展示風景 (2)
展示風景 (3) 展示風景 (4)
7月1日原稿写真1 7月1日原稿写真2
風薫る5月となり、同館や隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)周辺にも山野草が色とりどりの花を付けたり、新緑が萌え立ったりしていると思われます。ぜひ足をお運びの上、展示と共に自然美もご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

海草でヤギといふ彫刻材ある由、小生始めて聞く事でまるで此迄知らず、むろん彫つた経験がありません。根付材になりのかと想像しますが、使つてみたいと存じますので、あまり面倒でなかつたら小さいのでいいですから御送り下さいませんか。苟も彫刻に関する事は何でもやつてみたいと存じます。


昭和22年(1947)7月13日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

「ヤギ」は「海草」というより珊瑚の一種です。東は三重県在住。あちらの方の海で産出していたのでしょうか。

花巻郊外旧太田村の山小屋在住中、作品としての彫刻は一点も発表しなかった光太郎ですが、技倆を鈍らせないための鍛錬などのために彫刻刀をふるっていました。現存が確認できていませんが、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りましたし、「蟬」を彫っていたという目撃談も複数存在します。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、昨日も上京しておりました。

行き先は「三岸アトリエ/アトリエM」さん。画家の三岸好太郎(明36=1903~昭9=1934)・節子(明38=1905~平11=1999)夫妻のアトリエで、不定期に開催される一般公開の日に当たっていました。先日、中西アトリエ保存意見交換会の第3回会合がやはり中野区で行われ、その席上で話題に上り、光太郎と三岸夫妻の直接の交流は確認できていませんが、同じ中野区ということもあり、足を運んだ次第です。
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現地は鷺宮の住宅街で、カーナビは新青梅街道から信号のない交差点を右に入って数十㍍と指示。「えっ、こんなとこ入ってくの?」というような狭い路地でした。駐車スペースはなく、アトリエ前を通り過ぎて突き当たりを左折、数百㍍行ったところに三井のリパークを見つけて愛車を置き、歩きました。立地条件的には中西アトリエと似たような感じです。
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建物は昭和9年(1934)竣工、設計は山脇巌。山脇はドイツのバウハウスで学んだ建築家です。現在の外観は戦時中の空襲による被害の修理で手が入っていますので、一見するとバウハウス感があまりないのですが、古写真を見ると竣工当時はコッテコテのバウハウス風ですね。昭和9年(1934)当時、かなり目をひいたのではないでしょうか。
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早速、内部へ。三岸夫妻の令孫に当たられる山本愛子様が対応して下さいました。
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入口を入ると、まず応接スペースとして使われていたエントランス。
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節子の写真も。
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左手の小部屋を通り抜けると、広々としたアトリエです。
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まず驚いたのが、窓が南面していること。通常、アトリエは北から採光するものです。南からの陽光は時刻によってかなり変わってしまうので。なぜこうなっているのか、山本様もよくわからないとのことでした。
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節子と好太郎、波乱に充ちた二人の生涯にしばし思いを馳せました。節子の方はつい先月、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられましたし。

エントランスとの間の小部屋、螺旋階段を上がった二階部分の座敷、廊下、中庭等も拝見。
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アトリエ内の古写真。上でご紹介した外観同様、無料でいただけるポストカードです。
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気になるこのアトリエの活用法について、山本様に伺いました。この手の建築、単に保存するだけでなく、どう活用するかが肝心です。

すると、「三岸アトリエ/アトリエM」というのがこちらの正式名称で、レンタルス多ジオ的な活用が為されているとのこと。
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ここで撮影が行われた写真が載っているというファッション誌を拝見。なるほど、いい感じでした。現代の写真スタジオでは醸し出しようのない、有機的な空気感というか何というか、そういうものが感じられる写真が掲載されていました。その点、南面の窓から差し込む光がいい方向に作用しているようです。

それから、さらに驚いたのが、映画の撮影でも使われたというお話。吉高由里子さん、横浜流星さん主演の「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)でした。
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2月にやはり吉高さん主演の映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見したばかりでしたので、なおさら驚きました。

いわゆる「聖地巡礼」でこちらを訪れる方もいらっしゃるそうで、それも驚きでした。

それ以外にもギャラリーや講演会の会場、さらに予約制ながらカフェとしても活用されているとのこと。維持管理していくランニングコストという部分を考えると、ご苦労が覗えました。国の登録有形文化財指定は受けているものの、それによる経済的なメリットはないとのことでしたし。

光太郎の使った中西アトリエ、保存が為されたとしても、どのように活用していくべきなのか、ほんとに大きな課題だな、と感じました。

火のない所に煙は立てるわけにもいかないので、かつては中西アトリエの保存にからめた記述は避けてきましたが、当方、各地の「○○生家」や古建築を使った「××記念館」などを数十個所廻りましたその裏側には、それらがどのような経過でそこに存在しているのか、維持管理運営などをいかにして行っているのか、その母体は、原資は、などといった点からの興味もありました。いずれ中西アトリエでもそうした動きが起こるかも、という推測の元に、でした。

現実にアトリエ保存運動が起きて一枚噛ませていただくことになり、そうした点への興味・関心がますますつのっております。

今後は特に光太郎智恵子・光雲らとの縁故はあまり考えず、そうしたスポットを折に触れて見て回ろうと思っております。「ぜひここは見ておいた方がいいよ」という場所がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

それから「三岸アトリエ/アトリエM」の公開、5月5日(日)と5月11日(土)にも開催されるそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日開墾にゐる復員者の青年から配給の蚊帳を譲つてもらひました。青年は二帳持つてゐるので不用との事でした。六尺-八尺の一人用白蚊帳で中々よろしく、代金二百六十円。今日としてはやすいと思ひます。


昭和22年(1947)7月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、山裾ですので湿気が多く、ボウフラもかなりわいていたのでは、と思われます。

それにしても、今さらながらにこの小屋が光太郎没後に村人達や花巻病院長・佐藤隆房(初代花巻高村記念会理事長)、宮沢家などの尽力によって保存されるにいたり、現代まで残されていることに感慨深い思いです。

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