光太郎にも軽く関わる企画展示です。あまり関わりはないのかなと思って紹介しないでいたところ、『東京新聞』さんで光太郎の名を出して記事が出てしまいまして(笑)。
まずはその記事。
まずはその記事。
「教育者」鷗外に光 千駄木の記念館で特別展 美術解剖学の資料など展示
医学者で、西洋美術にも造詣があった文豪・森鷗外(1862~1922年)は美術解剖学などを学校で教えていたことがある。そんな、教育者としての側面に光を当てる特別展「教壇に立った鷗外先生」が鷗外の旧居跡に立つ東京都の文京区立森鷗外記念館(千駄木1)で開かれている。(押川恵理子)
鷗外は1881(明治14)年の東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、84年から88年まで衛生制度などを調べるためドイツに留学した。記念館司書の岩佐春奈さんは「留学先で美術や文学にアンテナを張り巡らせたことが帰国後の教育活動につながった」と話す。
91年から東京美術学校(現東京芸大美術学部)で教壇に立ち、ドイツの学者の資料を参考に美術解剖学などを教えた。軍服姿の鷗外は学校で常に目立っていたという。
当時の様子を伝える資料約100点を展示。鷗外から美学の講義を受けた彫刻家の高村光太郎が「尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた」とつづった随筆もある。慶応大の美学講師や陸軍軍医学校の校長などを務めた経歴、修身や唱歌の国定教科書の編さんといった功績も紹介する。
また、文京区と金沢市が友好交流都市協定を結ぶ縁から、会期中、記念館のロビーでは能登半島地震の被災地を支援する「いしかわ復興応援マルクト」を開催している。石川県の珠洲焼などを販売。
6月30日まで。午前10時~午後6時。5月28日と6月24、25日は休館。
展示詳細はこちら。
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特別展「教壇に立った鴎外先生」
期 日 : 2024年4月13日(土)~6月30日(日)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時
休 館 : 6月24日(月)・25日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料
文豪・森鴎外(1862―1922)は留学から帰国後、教壇に立ちました。1888(明治21)年、陸軍軍医学校の教官となり衛生学を教え、1893年から同校の校長となります。その間、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)で1891年から美術解剖学を、1896年より美学と西洋美術史を講義します。1892年からは慶應義塾大学部で美学の嘱託講師も務めました。東京大学卒業の頃から文筆をはじめ、陸軍軍医としてドイツに留学し、欧州の文化に触れるなどの経験を重ねたからこそ、鴎外はこれらの科目を教えることが出来たのでしょう。講義は、1899(明治32)年に小倉への赴任により終了しますが、教員や学生との交流は続きました。
他方、鴎外は1908(明治41)から1920(大正9)年に修身や唱歌の国定教科書編纂にもかかわっていました。また、鴎外の作品は生前から現在まで、国語や現代文の教科書に掲載されています。教科書で鴎外の小説を初めて読んだ方も多いことでしょう。
本展では、教育にたずさわった鴎外の姿を、講義を受けた学生のノートや関連資料、教科書などをとおして展覧します。あなたと鴎外先生の接点が見つかるかもしれません。
出品目録がサイトに出ていました。
『東京新聞』さんでこの一節の中から紹介していますので、パネル展示か何かになっているのではないでしょうか。
ちなみに地雷を踏んだ学生は、山本筍一。どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。彫刻の実技も最初はまるで駄目で、同級生たちからは小馬鹿にされていました。ところが修学旅行で奈良に行き、古仏の数々を目の当たりにしてにわかに開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、卒業直後の明治37年(1904)、若くして亡くなりました。
こういう経緯があって、光太郎は後に「軍服着せれば鷗外だ事件」を起こします。
ところで、本展示の関連行事。講演会が2本用意されていました。そのうち、大塚美保氏(聖心女子大学教授)の「教壇に立つ+教科書をつくる森鴎外」は既に終わっていますが、もう1本、布施英利氏(東京藝術大学教授・美術解剖学)による「森鴎外と美術解剖学」が、6月9日(日)に行われます。布施氏、信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさいました。応募は締め切られていますが、キャンセル等有るかも知れませんので、一応。
展示の方は6月30日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
岡本弥太といふよい詩人が高知に居られるといふ事は以前から注目してゐました。物故された事を知つた時に残念におもひました。詩碑が出来る由、皆さんの総意であるならば小生字を書く事はいなみません。むろん悪筆ですが。
岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』(昭和7年=1932)を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。
碑は翌年、現在の香南市に建立、除幕されました。
「光太郎」の文字が出てくるのは1ヶ所。昭和18年(1943)、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された随筆集『某月某日』が展示されています。
なぜこれが、というと、この中に収録されている「美術学校時代」というエッセイに、東京美術学校で受けた鷗外の講義の模様が記されているためでしょう。この文章、永らく初出が不明で、『高村光太郎全集』の解題でもそう書かれていますが、雑誌『知性』の第5巻第9号(昭和17年=1942 9月1日)に掲載を確認しました。
鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっていました。
光太郎の美校入学は明治30年(1897)。鷗外の講義は「美学」を受講しています。「美術学校時代」から。
鷗外先生といふ人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむづかしい顔をしてゐたので、鷗外先生といふと無闇に威張つて怖い顔をしてゐる先生と思つてゐた。年中軍服でサーベルを着け凡そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向ひ、今日まで教へたことについて分らない所があつたら何んでもよいから質問をするやうにといふことであつた。
なぜこれが、というと、この中に収録されている「美術学校時代」というエッセイに、東京美術学校で受けた鷗外の講義の模様が記されているためでしょう。この文章、永らく初出が不明で、『高村光太郎全集』の解題でもそう書かれていますが、雑誌『知性』の第5巻第9号(昭和17年=1942 9月1日)に掲載を確認しました。
鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっていました。
光太郎の美校入学は明治30年(1897)。鷗外の講義は「美学」を受講しています。「美術学校時代」から。
鷗外先生といふ人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむづかしい顔をしてゐたので、鷗外先生といふと無闇に威張つて怖い顔をしてゐる先生と思つてゐた。年中軍服でサーベルを着け凡そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向ひ、今日まで教へたことについて分らない所があつたら何んでもよいから質問をするやうにといふことであつた。
みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象といふのは何ですかと言ひ出した。さうすると鷗外先生はひどく怒つてしまひ、仮象といふことが分らないやうでは一体今迄何をしてをつたのか、それが分らないやうではこの一年間の講義は何にも分つてゐないのだらう、と先生をすつかり怒らせてしまつた。その質問をした学生はもう落第かと思つて隅の方に小さくなつてゐる。学生も何んにも言はず黙りこくつてゐる。鷗外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞ひになつたことがある。尤も仮象といふことは今から考へれば美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いてをつたのでは分らないで聴いてゐた方が悪いに違ひない。僕は鷗外先生を尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ云つてもそれを覚えてゐて決して忘れない。非常に好き嫌ひの強い人であつた。
『東京新聞』さんでこの一節の中から紹介していますので、パネル展示か何かになっているのではないでしょうか。
ちなみに地雷を踏んだ学生は、山本筍一。どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。彫刻の実技も最初はまるで駄目で、同級生たちからは小馬鹿にされていました。ところが修学旅行で奈良に行き、古仏の数々を目の当たりにしてにわかに開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、卒業直後の明治37年(1904)、若くして亡くなりました。
こういう経緯があって、光太郎は後に「軍服着せれば鷗外だ事件」を起こします。
ところで、本展示の関連行事。講演会が2本用意されていました。そのうち、大塚美保氏(聖心女子大学教授)の「教壇に立つ+教科書をつくる森鴎外」は既に終わっていますが、もう1本、布施英利氏(東京藝術大学教授・美術解剖学)による「森鴎外と美術解剖学」が、6月9日(日)に行われます。布施氏、信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさいました。応募は締め切られていますが、キャンセル等有るかも知れませんので、一応。
展示の方は6月30日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
岡本弥太といふよい詩人が高知に居られるといふ事は以前から注目してゐました。物故された事を知つた時に残念におもひました。詩碑が出来る由、皆さんの総意であるならば小生字を書く事はいなみません。むろん悪筆ですが。
昭和22年(1947)11月8日 川島隆宛書簡より 光太郎65歳
岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』(昭和7年=1932)を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。
碑は翌年、現在の香南市に建立、除幕されました。