光太郎の父・光雲の木彫の特別公開が為されています。

『上越タウンジャーナル』さん記事から。

高村光雲の「木造毘沙門天像」6年ぶり一般公開 春日山城跡ものがたり館で9月15日まで

 新潟県上越市の春日山城跡本丸跡北側に建つ「毘沙門堂」の本尊で、明治期を代表する仏師で近代木彫界の巨匠、高村光雲(1852〜1934)が制作した「木造毘沙門天像」が同市大豆の「春日山城跡ものがたり館」で一般公開されている。2025年9月15日まで。8月23、24日に開催される「第100回謙信公祭」に合わせた展示で、公開は2019年以来6年ぶり2度目となる。入館無料。
 郷土の戦国武将、上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ、毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていた。出陣前に毘沙門天を安置した毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったと伝えられる。
 上杉謙信が信仰した銅造の毘沙門天像は、上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移り、米沢城本丸の御堂に安置されていたが、1849年(嘉永2年)の火災で損傷。その後、1928年(昭和3年)に高村光雲が修復した。その際、像のかけらを体内に収めた木造の分身像を制作し、1930年(同5年)に完成。当時の春日村に寄贈された。翌年、寄贈を受けた旧春日村が毘沙門堂を建立し、木造毘沙門像を安置。現在、春日地区町内会長連絡協議会が所有し、毘沙門天奉賛会が管理している。関係者によると、毘沙門堂に安置されているのはレプリカだという。
 今回公開された木造毘沙門天像は高さ41cm。左手にやりを持ち、よろいで身を固め、怒りの表情をたたえる。訪れた人たちは貴重な像の姿をガラス越しにじっくりと眺めていた。大豆町内会長で、毘沙門天奉賛会の新保稔会長(71)は、「謙信公が拝んで出陣したといわれる像の凛々しい姿をご覧いただければ」と話している。会場には木造毘沙門天像のほか、謙信公祭の歴史などを紹介するパネルも掲示している。
 午前9時から午後4時30分まで。8月23日は午後8時30分まで観覧可能。
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6年ぶりの公開だそうですが、6年前が初公開で、上越市の埋蔵文化財センターさんでの公開でした。

今回は春日山城史跡広場内の春日山城跡ものがたり館さん。8月23日(土)・24日(日)に開催される「第100回謙信公祭」に合わせての企画だそうです。

工房作を含め、光雲の木彫は日本各地で未だに崇敬の対象となっているものが多く、常時見られるものもあれば、今回のように特別展示、期間限定ご開帳といった措置になる場合もあります。今年も神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺で「秘仏三面大黒天立像」、同じ神奈川の鎌倉覚園寺さんでは「後醍醐院法躰御木像」の特別ご開帳が為されました(後者はまだ開催中です)。

このように、決して「死蔵」とならないようにしていただくのはありがたいことです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

其の美を会得する為めに、構図の主題を知る必要はない。此処では律度が君臨する。此が其の主権である。此が其の玉座である。


光太郎訳ロダン「ランスの本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ランスの本寺」はノートルダム大聖堂のことです。光太郎と同じく、心の師・ロダンもこよなくこの建築を愛しました。

ここでいう「主題」は造形作品のモチーフやモデル。「何を作ったか」は最重要の命題ではなく、その作品の美を構成する一つの要素に過ぎず、それよりも「律度」。「いかに作られているか」の方に重きを置くべしということです。

講談の公演情報です。

夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜講談前線異常なし〜(仮)

期 日 : 2025年8月16日(土)・17日(日)
会 場 : スカイルーム太陽 千代田区神田駿河台2-4-3 藤沢ビル5F
時 間 : 【一部】10:30開演 【二部】13:00開演 【三部】15:30開演
料 金 : 予約2,000円 当日2,200円
出 演 : 一龍斎貞橘
       助演 16(土) 1部いちか 2部伊織 3部貞奈
          17(日) 1部紅純 2部琴鶴 3部お楽しみ!

予約問合せkoudankai@gmail.com 熱い夏に熱い講談を! カレーもあるよ!

過日ご紹介しました「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」で、「高村智恵子の恋」が演目に入り、ぜひ拝聴に伺いたかったのですが、あいにく第34回女川光太郎祭とブッキングでした。すると、一龍斎貞奈さんのX(旧ツイッター)アカウントに以下の投稿
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これは聴かざあなるめいと、予約いたしました。8月16日(土)ということで、ラッキーでした。翌日ですとまたブッキング(テレビ番組の収録です)でしたので。

さらに貞奈さんのX(旧ツイッター)投稿から。

【高村智恵子についてのボヤキ】006
昨日は、「高村智恵子の恋」を初口演した。
相変わらず計画を守れない私は、前日まで台本が仕上がらず独演会でトリネタで語るクオリティとして全く仕上がっていなかっただろう・・・

が、私自身としては台本の構成と人物描写について「及第点かな」と、自信過剰な自己評価をしよう。

そもそも高村智恵子の人生について興味を持ったのは2002年のスパイラルホール。
野田秀樹さん脚本監督・大竹しのぶさん主演の一人芝居「売り言葉」。

高村光太郎の詩は、中学の教科書で「レモン哀歌」「あどけない話」を習ったという記憶があったくらいで良く知らなかった。
『むかしの芸術家のラブレターが文学になるんだな~』くらいの認識だったように思う。

「売り言葉」は、妻を愛しその死を嘆き悲しみ光太郎の見た美しい智恵子への愛を、その真逆から映し出したお芝居だった。

私の講談に取り入れたこの場面。
「あんたの見るあの南天の色と、私が見る南天の色が同じとは、限んねぇよない」

これは、私が14歳のころに同じく感じた事だった。

内弁慶で無口で恥ずかしがりやなのに、なぜか大胆不敵で自意識過剰。

この辺りの人物解釈も私の共感を生んだ。

智恵子と光太郎が恋人同士になる前、
「私がこれほど高村さんをお慕いしているんだから、高村さんだって少なからず私に好意を持ってくださっているはず・・・」
と思いつつも、お見合いのために故郷へ帰るという智恵子を引き留めない光太郎に、涙を流す。

私の台本のこのシーンを、昨日評価してくださる方が多くいらっしゃって、それだけでも「高村智恵子の恋」はまずまず「及第点」を取れたと自負する。

この部分に、私が表現したかったすべてが詰まっていた。それが観客に少なからず伝わったのであれば、これほどやりがいのある仕事はないよね、と思ったり、思わなかったり、ラジバンダリ。

結婚生活が始まり、幸せな暮らしも束の間、数々の苦境に立たされて、やがて心を病んでいく智恵子。
むしろ後半の人生こそ、令和の女性たちにぜひ聞いていただけたら嬉しい。

そんなわけで、後半は「智恵子の変」をいずれの場で口演したいと思います。

智恵子の異変。
光太郎の能天気さに対する純愛文学への変。
光太郎の変心。

まぁ、智恵子も私も変なんだ。
しかし、恋するって素晴らしい。
恋できるって素晴らしい。

そんな私の「智恵子の変」。こうご期待。

「期待」しております(笑)。ただ、この手の公演の場合、急遽出演者や演目が変更になったりする場合があるようですが、そうならないことを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

自然、とは天と地とである。人々は此の天と地との間で苦しみ又考へる。

光太郎訳ロダン「フランスの自然」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

古今の人々が「天と地との間で苦しみ又考へる」その生きざまを語る、という意味では、講談にも通じる一言ですね。

8月9日(土)は、光太郎が昭和6年(1931)に訪れた女川町の中心街で第34回女川光太郎祭でしたが、そちらが始まる前、町内の出島(いづしま)に愛車で踏み入れました。

出島は太平洋に浮かぶ島で、以前はフェリーで渡るしかありませんでした。しかももう一箇所、江島という島も廻るルートで、かなり時間がかかっていました。出島なら泳いで渡れない距離でもありませんが、さすがにそれは……(笑)。
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昨年12月、島民の方々の悲願であった本州との架橋が為され、車で行けるようになりました。女川光太郎祭主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長が出島にお住まいで、「いいところだよ」というお話を以前から聞いており、一度行ってみようと思いつつなかなか果たせないで居りましたが、車で行けるようになったので良い機会と思った訳です。
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本州側から見たその橋。「出島大橋」と名付けられました。
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町の中心部から20分程です。
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昭和6年(1931)、光太郎は出島には降り立たなかったようですが、女川港から次の目的地・気仙沼へ向かう船上で出島の様子を見、紀行文「三陸廻り」の第七回「気仙沼」に書き残しています。

 女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋(いづしま)の瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。此鳥の蕃殖地としては青森県の蕪嶋(かぶしま)が名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲んでゐようとは思はなかつた。彼等はいち早く魚群を見つけて其上に円陣をつくる。彼等と漁船とは相互扶助の間柄だと人がいふ。「名ばかり」といふ礁を通り過ぎて外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。

橋を渡って島に入り、まずは北側の出島港へ。遠景に出島大橋が見えています。
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昭和8年(1933)の昭和三陸地震の後に建てられたと思われる碑がありました。同じ碑は女川駅前にも残っています。
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この際は、3㍍ほどの津波が女川を襲い、死者1名(宮城県全体では308人)だったとのこと。
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港のすぐそばの高台にある永清寺さんという寺院には、東日本大震災後に「いのちの石碑」が建てられました。震災直後に当時の女川第一中学校さん(現在は統合)に入学した生徒さんたちが授業の中で発案したもので、町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印として建てられました。設置費用をどうするかということになった際、かつて光太郎文学碑が100円募金で建てられたことに倣い、生徒さんたちが募金活動を展開、約1,000万円をあっという間に集め、第1号碑は震災翌年に除幕されました。

活動の中心メンバーの一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさって下さっていました。
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永清寺さん。
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本堂向かって右手に「いのちの石碑」。こちらは平成27年(2015)、8番目に建立されたものです。
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表面には、生徒さんたちが授業の中で詠んだ俳句が刻まれています。全21基、ほぼすべて異なる句です。裏面のステンレスのプレートには、英語や中国語などで表の碑文の訳が。

愛車をUターンさせ、南下。当方、古代史、考古学、民俗学等にも興味がありまして、「出島遺跡」を見学。縄文時代から平安時代くらいまでの複合遺跡で、ストーンサークルが残っています。
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ただ、ストーンサークルと言っても、秋田大湯の環状列石のような整然とした配置にはなっていません。それでもかえって古代の人々の力強さを感じましたが。
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さらに南下して、寺間港へ。
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こちらにも「いのちの石碑」が設置されています。永清寺さんの碑に続き、9番目に建てられました。場所は厳島神社さんの鳥居脇。若干わかりにくい場所で、うろうろしてしまいましたがたどり着けました。
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近くにはやはり昭和三陸津波の碑も。
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本殿まで上り、この地の平安、道中安全を祈願。

この後、宿泊先のホテルエル・ファロさんに一旦戻り、昨日レポートいたしました第34回女川光太郎祭に参列というわけです。

以上、女川レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

――何処から始める。――始めは無い。諸君の眼にとまつた所に立ち停りなさい。

光太郎訳「ロダン手記 中世期芸術への入門―原則」より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

東日本大震災後、被災地の皆さんも、とにかく「眼にとまつた所」から復興の第一歩を踏み出したのでしょう。

8月9日(土)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参加して参りました。レポートいたします。

まず午前10時、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花。当方、センターを務めさせていただき、光太郎に、それから碑の建立やその後の女川光太郎再開催に尽力され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣氏に、そして碑文の一部を揮毫され、かつては毎年光太郎祭で講演をなさっていた当会元顧問・北川太一先生にという思いで、万感の思いを込めて献花いたしました。
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午後からの式典会場・まちなか交流館さんに移動、セッティング。
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会場内には、かつての光太郎祭パンフレットや写真など。
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無理だと思われつつも開催された、震災の年の光太郎祭の様子も。
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北川先生は御健康上の理由でこの頃には欠席なさっていましたが、翌年からまた車椅子でのご参加。その頃から考えると、女川の町の復興もかなり進んだことに感慨深い思いでした。
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今年2月、県から授与された「住みよいみやぎづくり功績賞」の賞状。
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さて、午後1時、開幕。
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まずは黙祷。
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この後、オープニングアクト的に当方の講演。今年は光太郎の彫刻について、ひとくさり語らせていただきました。カーヴィングとかモデリングとか、制作手法についてがメインでした。

その後、いよいよ本番となり、主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長のご挨拶。
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須田善明女川町長のご祝辞。
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午前中の文学碑への献花の模様を撮影した動画をプロジェクタで投影し、その後、メインアクトの町内外の皆さんによる光太郎詩文朗読。
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海外の方も。
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例年通り、ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏。

朗読して下さった皆さん。
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「献奏」ということで、宮川氏。
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初期のころから毎年いらして歌われていたオペラ歌手・本宮寛子氏は、今年、膝の手術をなさった直後ということで残念ながらご欠席。代わりに、というか、本宮氏の伴奏をなさる予定だった石巻ご在住の田代雅美さんによるピアノ演奏。
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女川光太郎の会事務局で、貝(佐々木)廣の奥様・英子さんによる締めのご挨拶。
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終了後、近くの町中華さんでの打ち上げ。
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生前の貝(佐々木)廣氏と懇意にされていた方が、氏から送られてきた絵手紙などをごっそりお持ち下さり、当方も氏とのさまざまな思い出を胸に拝見し、胸が熱くなりました。

このような気のおけない集まりです。来年以降も末永く続くことを祈念いたしておりますし、これまで以上の多くの皆さんのご参加をお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

もとより、自然は人の眼を避けない。人間は見さへすればよいのである。


光太郎訳「ロダン手記 ヹヌス――「ミロのヹヌスへ」――」より
大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ヹヌス」はヴィーナス。かの「ミロのヴィーナス」を見てのロダンの感想から。いかに自然を自然に見ることが大切か、光太郎はロダンから学びました。

昨日8月9日は、昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を出発した日です。それを記念して、立ち寄り地の一つだった宮城県女川町では、地元有志の皆さんが平成初期から「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

昨日は第34回。
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詳しくは帰りましてからレポート致します(まだ女川に居りまして)。

一応、画像を何枚か上げておきます。
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現在、女川町はわりと本格的に雨が降っています。運転に気をつけつつ、焦らずゆっくり千葉まで帰ろうと思っております。

昨夜から光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に愛車を駆って来ております。
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午後10時頃到着。もう少し早く着く予定でしたが、夕食は石巻の寿司屋さんでいただくのがルーティンとなっており昨夜も立ち寄りましたところ、激混みで1時間以上待ちとなったため、到着が遅くなりました。
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今日は女川まちなか交流館さんで第34回女川光太郎祭です。

朝のうちに散歩。

宿泊させていただいているエル・ファロさん。東日本大震災後に程なく開業したトレーラーハウスのホテルです。
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女川駅。
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町役場前の震災慰霊碑。
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港まで出て、光太郎文学碑。
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この時点でまだ5時台でしたが、土曜日ということもあるのでしょう、既に親子連れの釣り客の皆さんで賑わっていました。
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光太郎祭、文学碑への献花が10時、式典(当方の講演、町内外の方々の光太郎詩文朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんらのアトラクション献奏など)が午後1時です。

詳細は明日、レポート致します。

8月6日(水)、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見後、上野に足を向けました。次なる目的地は東京文化会館さん。モダニズム建築の巨匠・前川國男の設計です。音楽ホールとしては珍しく、かつてテレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられました。もっとも同番組、ヘーベルハウスさんの単独提供となってから「『建築の巨人たち』じゃねーか」と突っこみたくなっているのですが(笑)。
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こちらの小ホールで、「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」を拝聴。
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「駅伝」の名に相応しく、15:30から20:00まで、50名超の歌い手の皆さん、10名以上のピアニストさんが演奏し継いでいくという催しでした。
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最後の「日本歌曲研究会」さんの部で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われるので、最終休憩の前、18:30頃参上いたしました。いきなり受付付近に朝岡氏がいらっしゃり、ご挨拶させていただきました。

休憩中の小ホール。
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こちらには初めて足を踏み入れましたが、小ホールといいつつ、へたな施設の大ホールより素晴らしいと思いました。ステージは確かに狭いのですが、天井の高さがそれを感じさせず、実際、後ほど演奏が始まると音響効果はえもいわれぬものでした。

来年、大規模改修が始まるそうですが、オリジナルの雰囲気はそのままにリニューアルされることを強く望みます。

「ロシア歌曲研究会」さんの後、「日本歌曲研究会」さん。
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朝岡氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。清水氏は組曲の中の一曲だけを取り出すのは難しいとおっしゃっていましたが、どうしてどうして秀逸な演奏でした。

トリをつとめられた前澤悦子氏、令和4年(2022)の「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」など、朝岡氏作曲のコンサートご常連で、この日も「智恵子抄」ではありませんでしたが、朝岡氏作曲の「日の光」(詩:金子みすゞ)を清水氏とデュエットなさったりもされました。

「日本歌曲研究会」さんの終演後。
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さらにグランドフィナーレは、おそらく今回の駅伝に参加されたほぼ全ての歌い手さん(プラスアルファもいらしたような……)による「歓喜の歌」サビの部分大合唱。伴奏はピアノ連弾でした。

すべて終演後のホワイエ。
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関係の皆さまのますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

芸術による思想の伝導は、生の伝導と同じく、熱情と愛との仕事である。

光太郎訳「ロダンの芸術」(ユージエヌ カリエール)より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

この項、元々、『高村光太郎全集』第1巻から始め、光太郎の詩文から「人生訓」的なものを紹介するというコンセプトでしたが、第12・13・20巻の日記や第14・15・21巻、さらに補遺である「光太郎遺珠」の書簡からの引用になって、当初の意義が薄れてしまっていました。

今日からは第16~18、20巻の翻訳の巻から元に戻して「人生訓」的な言葉を拾います。翻訳なので光太郎自身の言葉と言えませんが、やはり原語を日本語に変換する過程で光太郎の思想も入っていますし、多くはそれらの言葉が光太郎の血肉となっていますので。

まずは訳書『ロダンの言葉』(大正5年=1916)の序文的な文章から。ここで言う「芸術」は、彫刻などの造型芸術に限らず、文筆や音楽など、すべてのジャンルに当てはまるものと思われますね。

昨日は上京しておりました。

メインの目的は上野の東京文化会館さんでの「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」の拝聴でしたが、その前に新宿まで足を伸ばし、東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見。

洋画家・難波田龍起(明38=1905~平9=1997)は旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術の道に入った人物です。はじめ詩作を志し、大正末には光太郎に詩稿を見てもらうなどしたものの、どうもそちらはものにならなかったようで(後々まで続けますが)、後に画家として立つことになります。智恵子も通っていた太平洋画会に一時加入しました。画の分野では川島理一郎、松本竣介、詩の方面では宮崎丈二など、その交友圏は光太郎とかなりの部分で重なっていました。光太郎との交流は光太郎最晩年まで続き、中野のアトリエを足繁く訪れた他、昭和28年(1953)に光太郎が花巻郊外旧太田村に一時帰村した際には同行しています。

そこで、「難波田龍起」展、「光太郎と交流の深かった画家」という点が前面に押し出されています。ただ、光太郎自身の作品等は展示されないということで、このブログでもご紹介せずにいました。
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出品リストが以下の通り。
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会場内。撮影可でした。
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初期の頃はそれほど特徴がない感じに見えましたが、戦後になって抽象の度合いが色濃くなると、豊かな個性の発露が感じられました。
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サイケなガシャガシャしたイメージではなく、静謐さも湛えているように見えるのは、色調が抑えられているせいかと思いました。

展示の終わり近くにスナップ写真などがケース内に並んでおり、光太郎も。見たことがあるような無いような写真でした。
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キャプションには「1953年」とありますが、光太郎日記を参照してみますと、どうも昭和29年(1954)1月5日のようです。

一月五日 火
晴温 終日在宅、難波田龍起氏子供さん3人同道来訪、リンゴ進呈、

一月十四日 木
晴、くもり、 ひる頃難波田さんくる、先日子供さんのとつた写真数枚もらふ、よくとれてゐる、

展覧会詳細は以下の通り。

難波田龍起

期 日 : 2025年7月11日(金)~10月2日(木)
会 場 : 東京オペラシティアートギャラリー 新宿区西新宿3-20-2
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 月曜日 (8月11日、9月15日は開館)
      月曜祝休日の翌火曜日(8月12日、9月16日) 8月3日[日](全館休館日)
料 金 : 一般1,600円[1,400円]/大・高生1,000円[800円] 中学生以下無料

 難波田龍起(1905-1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく制作を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティアートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が東京オペラシティアートギャラリーの所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館収蔵品はもとより、国内の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品などもまじえ、難波田の画業の全貌を四半世紀ぶりに紹介し、今日的な視点から検証するものです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変突然ですが 御預り願つておりました智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います 手許で見たくなりましたので…永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

昭和31年3月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎74歳

亡くなる6日前のもので、現存が確認できている光太郎最後の書簡です。『高村光太郎全集』には脱漏していましたが、現物が花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、展示されたことも。

この時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。ただし、翌日には喀血・血痰が一旦治まり、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書き、周囲を驚かせました。

生涯最後の書簡が最愛の妻・智恵子や第二の故郷・花巻(佐藤は光太郎を花巻に招いた一人)であることに、何やら象徴的なものを感じます。

光太郎第二の故郷、岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案、さらに調理も担当なさっているこうたろうカフェ。遅ればせながら7月31日(木)の分をご紹介します。
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メニュー的にはリーフレット掲載順に「紫蘇のスカッシュ」「アトランティックサーモンステーキ」「豚肉のキクラゲ卵炒め」「夏野菜のラタトゥイユ」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「しそ巻きご飯」「季節の漬物」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」。何だか以前より品目が多いような気がしました。夏バテ予防という観点からボリューミーにされたようです。ラタトゥイユあたりは光太郎、明治期にパリで食していたのではないかと思われます。

リーフレットには光太郎が作ったドジョウ汁の紹介が書かれていますが、さすがにそれは再現されていませんでした。

やつかの森さん、今年は毎月末に「こうたろうカフェ」を展開され、毎月15日には道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」のメニュー考案をなさっています。「光太郎ランチ」はもうすぐですね。

次回の「こうたろうカフェ」は8月29日(金)。メニューも既に予告されています。「ハーブのパリパリグリルチキン」「焼き茄子の香味たれ」「オクラと卵の寒天寄せ」「じゃが芋とトマトのバター煮」「サーモンサラダ」「お漬物」「ご飯」「モロヘイヤスープ」「スフレフロマージュ」「コーヒー」だそうで。

ぜひご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

このごろいたみが少しつよいので閉口しています、


昭和31年(1956)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

確認出来ている限り、最後の自筆書簡から。宿痾の肺結核のため、もはや肺には健康な部分が残っていなかったとのことです。

保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。

協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。

会報52号 発行しました

会報52号を発行しました!

今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川

となっております。
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サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
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施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。

奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
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ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。

現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。

これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。

そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう


昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。

新刊、というか、増補改訂を伴う復刊です。

増補改訂 名作・迷作エンジン図鑑 その誕生と発展をたどる

発行日 : 2025年8月27日
著者等 : 鈴木孝
版 元 : グランプリ出版
定 価 : 3,800円+税

自動車メーカーで数々のエンジン開発に携わり国内外の博物館に出向いて調査、著者自らが描いたイラストとともにわかりやすく解説する決定版!
工学博士でエンジンの権威である著者が、ヨーロッパ、アメリカ、日本で開発された新旧の自動車用、飛行機用、舶用、戦車用、機関車用、産業用、汎用まで、広く59点のエンジンを選び、博物館や所蔵先に足を運んで徹底調査。そのエンジンの誕生と技術的背景を、著者自らが描いたイラストを用いて詳しく平易に解説する。ページが180度近く開く「PUR製本」を採用して、読みやすさにも配慮。さまざまなエンジンの誕生の経緯をこの一冊で知ることができるので、開発者をめざす方はもちろん、エンジンに興味のある方には最適の書。
※本書は品切れていたロングセラーの『名作・迷作エンジン図鑑』(2013年8月31日発行)をベースに、2017年1月25日刊行の『古今東西エンジン図鑑』の内容を盛り込み、大幅に増補してカバーデザインを一新した増補改訂版です。
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目次
 序文 過去の技術に学ぶ大切さ/飯島晃良(日本大学理工学部教授)
 はじめに
 ■草創期
  第1章 人類が火を手に入れた エンジンの原点はプロメテウス?
  第2章 水くみを命じられて作った人類初のエンジン ホイヘンスのエンジン
  第3章 まるで近代芸術の奇妙なオブジェ セイヴァリエンジン
  第4章 初の実用内燃機関の燃料はシダ植物の胞子 ニエプスのエンジン
 ■産業用
  第5章 天秤棒を用いてポンプを作動 ニューコメンエンジン
  第6章 55トンの天秤棒を付けた ワットの蒸気エンジン
  第7章 初めて商品となった内燃機関 ルノワールのエンジン
  第8章 石油に替えて石炭で回した ディーゼルエンジンとジェットエンジン
 ■自動車用
  第9章 高速2輪馬車 チャリオット
  第10章 あっちこっちから悪口の的となった キュニョーの蒸気自動車
  第11章 ボイラーマン泣かせ 蒸気バスエンジン
  第12章 創業から終焉まで空冷で押し通した フランクリン
  第13章 R・ディーゼルが作れなかったディーゼル自動車 ザフィアエンジン
  第14章 フランス陸軍が発想した 木炭自動車
  第15章 ラバウルで捕えられてジープに見染められ? ガス電L型エンジン
  第16章 ディーゼル乗用車の日本初 アカデミックエンジン
  第17章 ニューヨークバス・ラプソディーを奏でた GMエンジン
  第18章 木曽谷の奥で待っていた 帝国陸軍の軍用車エンジン
  第19章 玉座に座り損ねた DB52 100式エンジン
  第20章 ガス電(日野重工)の有終の美を飾った V形12シリンダーディーゼルエンジン
  第21章 放浪の果て親に巡り会えたが、再び放浪の旅に消えた ヒノサムライのエンジン
  第22章 偉大な技術者の躓き ケタリングと本田宗一郎
  第23章 一気に30%の燃費向上を果たした 日野EP100エンジン
  第24章 お役人のひとことが生んだ世界初 高圧コモンレール燃料噴射システム
 ■航空用
  第25章 正道を駆け上がり、奇想天外ぶりを発揮した クレマン・アデァ
  第26章 設計者と一緒にポトマック川に投げ込まれた マンリーのエンジン
  第27章 ないない尽くしの世界初アルミエンジン ライト兄弟のエンジン
  第28章 うっかりミスでモーターを発明した
 シーメンスの互い違いに回るロータリーエンジン
  第29章 日本初の国産91式戦闘機の原点となった ブリストルジュピターエンジン
  第30章 プロペラと一緒に自分自身も懸命に回った ル・ローンエンジン
  第31章 お腹が大きいミス・ビードルを追っかけた男 P&Wエンジンとライトエンジン
  第32章 高村光太郎の乙女に見守られ、湖底に眠った 「天風」とその親「神風」
  第33章 優等生の席にちゃっかり座り込んで世界記録を立てた 川崎エンジン
  第34章 的矢六兵衛エンジン!? ガス電「初風」
  第35章 MIT(マサチューセッツ工科大学)に捕虜となった ガス電「ハ143」
  第36章 シリンダーにピストンを2つ入れた ユンカース ユモ成層圏エンジン
  第37章 サン・テグジュペリに愛され、山本五十六も
誘って星に向かった アリソンエンジン
  第38章 ソ連でも生まれていた 四角顔のユンカースエンジン
  第39章 お騒がせ、ひとり玉座のブリストル スリーブバルブエンジン
  第40章 ガス灯から生まれた最後の2500馬力 「ハ51」
  第41章 ドイツから持ち帰った戦闘機Me163の写真とスケッチを元に
緊急開発された ロケット戦闘機「秋水」
  第42章 仲間が分かれ分かれになって落っこちた H−Ⅱロケット
 ■舶用
  第43章 天と地を逆にしてみたらという機転から誕生 サイドレバーエンジン
  第44章 正真正銘の名エンジン 戦艦「三笠」のエンジン
  第45章 頭とお尻に燃焼室がある変なディーゼルエンジン 氷川丸のエンジン
  第46章 自動車用ディーゼルが里子に出されて日本初の舶用ディーゼルに?
 池貝4HSD10型ディーゼルエンジン
  第47章 休みなしで働き続ける“月月火水木金金”エンジン 艦本エンジン
  第48章 帝国陸軍の潜水艦に搭載 ダイハツ ヘッセルマンエンジン
  第49章 ヒノサムライの血を引き漁場レースを制した 日野舶用エンジン
 ■戦車用
  第50章 ブリキの玩具と揶揄された 日本の戦車
  第51章 ヨーロッパと同時期に開発した 池貝戦車用小型ディーゼルエンジン
  第52章 東京学芸大学の倉庫で見つけた 戦車エンジン
  第53章 ディーゼルの宋主国ドイツを征した V2エンジン
 ■機関車用
  第54章 ツェッペリン号で名を挙げ、トラブルでも名を成した マイバッハエンジン
  第55章 跳梁跋扈のSボート対策で生まれた 三角エンジン
 ■汎用
  第56章 崑崙の高嶺の彼方に大地を削る 日野建機用エンジン
  第57章 往年の名機と最新の名機との邂逅 その1 日野最古参DSエンジン
  第58章 往年の名機と最新の名機との邂逅 その2 最先端E13Cエンジン
  第59章 取り残されたディーゼルエンジンを救う 下町の黒煙フィルタ
 エピローグにかえて
 参考文献
 謝辞

古今東西(「今」はほとんど入っていませんが)の先人たちが開発した各種エンジンを図版入りで紹介するものです。構成は、ほぼ実用には至らなかった「草創期」、産業革命を引き起こしたワットの蒸気機関などの「産業用」、その後は搭載された乗り物ごとに「自動車用」「航空用」「舶用」「戦車用」「機関車用」、さらに「汎用」。

著者の鈴木孝氏は、日野自動車の研究開発部にいらした方で、最終的には副社長まで務められ、日本自動車殿堂(そういう機構が存在するのは存じませんでした)入りされました。本書はその鈴木氏が書かれた『名作・迷作エンジン図鑑』(平成25年=2013 グランプリ出版)、『古今東西エンジン図鑑』(平成29年=2017 同)を併せて一冊にまとめたもののようです。

「航空用」の中に「第32章 高村光太郎の乙女に見守られ、湖底に眠った 「天風」とその親「神風」」と、光太郎の名を出して下さいました。直接的には光太郎に関わる訳ではありませんが、平成22年(2010)に東京大学さん他による十和田湖の地形調査の際に水深60㍍の湖底で偶然発見され、同24年(2012)に引き上げられた旧日本陸軍の「一式双発高等練習機」に搭載されていたエンジン「天風」についてです。
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カバーにも「天風」イラストが。
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「一式双発高等練習機」は昭和16年(1941)に制式採用されたもので、開発・製造に当たったのは立川飛行機。エンジン「天風」は日立航空機製。
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昭和18年(1943)に、秋田県の能代飛行場から青森県の八戸飛行場へ向かう途中、十和田湖に着水し水没(原因は不明だそうです)した一機(搭乗員4人中、助かったのは1人だけだったとのこと)が、先述の通り平成24年(2012)に引き上げられ、大きく報道されました。

鈴木氏曰く、

 戦争が終わりそれから8年目の秋、1953年10月、あたかも水に没した少年航空兵を見守るかのごとく、高村光太郎の乙女の像が、その湖畔に紅葉を塗らす涙雨の中で除幕された。彼らの魂は癒され、長い眠りについたに違いない。(略)そして2012年9月5日、ついに陸揚げは成功したのである。水没してからちょうど69年目の同じ秋であった。1つの時代の結晶が、その魂が、せめて最後の残存機体を見てくれという叫びとなり、難渋を極めた作業者全員の執念を呼び起こし、乙女に見守られてふたたび地上に戻ったのである。叫んでくれた御霊に、ただ心からの黙祷を捧げるものである。

光太郎自身にそういう意図がどの程度あったか不明ですが、地元では「乙女の像」に平和祈念の意味合いもあると伝えられていますので、この記述もあながち牽強付会とはいえますまい。

引き上げられた機体は、一時、青森県立三沢航空科学館で展示されていたようですが、現在は製造元の立川飛行機の後身・立飛ホールディングスさんの手に戻り、同社で保管されています。
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ちなみに著者の鈴木氏、戦前のお生まれで、故郷の長野県の飛行場で、戦時中、実際に現役の一式双発高等練習機をご覧になったことがおありだそうで。

あたかも戦後80年。他の戦時中の各種エンジンについての項は特に興味深く読ませていただきました。バリバリ文系の当方には全く理解不可能の箇所もありましたが。それでも読めてしまうのは、鈴木氏の丁寧な語り口のおかげでしょう。

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生あの小屋に居りました頃は忠善さまにいろいろお世話にあり、東京に来てからも、忠善さまのあの立派なお姿を思ひうかべていました、 御本家はじめ部落中の人がどんなにか力をおとされたことでしょう。あとのさびしさをお察しいたします。

昭和31年(1956)1月7日 駿河タニ宛書簡より 光太郎74歳

駿河忠善は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎の甥。前月には東京中野のアトリエにも顔を見せていました。まだ壮年でしたが、伐木中の事故で亡くなってしまったとのこと。

その光太郎自身も3ヶ月後には不帰の客となります。やはり太田村山口地区の人々は「どんなにか力をおとされたこと」と思われます。

キーワードは「上野公園」です。

まずは雑誌の新刊。

月刊アートコレクターズ No.197 8月号

発行日 : 2025年7月25日
版 元 : 生活の友社
定 価 : 952円+税

近年酷暑が続く夏に、肝を冷やす待望の企画を実施!恐怖と一口に言ってもその内実は様々です。そこで、今回は恐怖にまつわる様々な感情を切り分けながら、それらを表現としてどのように昇華させているのか、特にそのテクニックについてインタビューや寄稿、グラビアを通して探求します。表現を扱う美術雑誌ならではの切り口で、恐怖の見方を伝授します。
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目次
 【巻頭特集】徹底解剖 恐怖の裏側
  ◇エキスパートに学ぶ、恐怖の作法
   高橋洋 「リング」「霊的ボリシェヴィキ」/押切蓮介 「サユリ」「ミスミソウ」
   外山圭一郎 「サイレントヒル」「SIREN」/
   平山夢明 「ダイナー」「『超』怖い話シリーズ」
  ◇寄稿
   春日武彦 恐怖を分解する─なぜ人は恐怖に惹かれるのか
   廣田龍平 機械論的妖怪の潜勢的恐怖─俗信の怖さについて
   布施英利 ホラーとテラー……脳の中の恐怖
   佐々木敦 現代の「空気」を映し出すホラー/アート
  ◇対談
   田中俊行╳渡辺シヴヲ いと奥深し ! オカルトコレクションの世界

  霊能力者Miyoshiに聞く ! もっと知りたい幽霊Q&A
  中村麗子が選ぶ三つの感情で味わう本当に怖い絵
 ◇グラビア
  畏れの魔力 金子富之/山本じん/阪東佳代/池田一憲/平良志季/高資婷/岡本東子
   鶴川勝一/吉田然奈/柳生忠平
  非現実に花咲く恐怖の甘美 髙木智広/椎木かなえ/石黒光/髙橋美貴/
   Sui Yumeshima /亀井三千代/篠原愛/藤浪理恵子/冥麿/貳來/羅展鵬/飴屋晶貴
   立島夕子/生熊奈央/三塩佳晴/多賀新
  自分と世界の緊張感系 内田あぐり/深海武範/佐藤温/高見基秀/村上早/池田ひかる
   内田すずめ/大河原愛/市川友章/林銘君/日野之彦/海老原 靖/佐藤T 
   井上光太郎/髙木優希
  デフォルメする恐怖 丸尾末広/駕籠真太郎/中村宏/かつまたひでゆき/夜乃雛月
   BURUMORI /添田奈那
  恐怖は屹立する 牟田陽日/船橋つとむ/ウチダリナ/武本大志/マンタム/山本雄大
   川上勉/林美登利/水村芙季子
 【連載】
  鹿島茂 リュシアン・ヴォージェルの夢 編集者一族の出会い
  水沢勉 色と形は呼び交わす 佐藤直樹 はじまりも終わりもなくつながる
  古田亮 バック・トゥ・ザ日本美術 高村光雲「西郷隆盛像」+後藤貞行「ツン」
  森孝一 思考の径路 陶芸家・五代高橋楽斎の作品にみる在り方
  田辺一宇 古今亭まくら話 見えたんだから仕方ない……ってな噺
  飯島モトハ アート&スイーツ 徳光健治個展/ANDY COFFEE チョコドーナッツ

 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

 表紙デザイン:河北秀也、栗林成光 高資婷「蜘蛛と蝶」2024年 絹本着色 6号F

東京藝術大学大学美術館さんの教授・古田亮氏の連載「バック・トゥ・ザ日本美術」で、上野公園に集中する美術館等の成り立ち、明治期に上野公園で盛んに行われた博覧会について、光太郎の父・光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」他の銅像などについて4ページ。
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現存する建造物などについては知ってるつもりで意外と知らなかったことが多く、「そうだったのか」の連続でした。

特集はこの季節らしく「徹底解剖 恐怖の裏側」。紹介されている数々のあやかしアート作品画像は夢に出てきそうです(笑)。添えられた文章には「読まなきゃよかった……」というようなおどろおどろのものも(笑)。当方、子供の頃からビビリのくせに怪談系は好きで、しかし読了後「読むんじゃなかった……」と後悔することばかりでした。この年になっても同じことの繰り返しです(笑)。その他、日本的な「恐怖」と、欧米式のそれとの相違の考察など、興味深いものでした。

続いてやはり上野公園。コンサートのご案内です。以前、ちらっとご紹介し、その後失念していました。

第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~

期 日 : 2025年8月6日(水)
会 場 : 東京文化会館 小ホール 台東区上野公園5-45
時 間 : 15:00開場 15:30開演
料 金 : 一般4,000円 学生2,000円 全席自由 再入場可
無題
出演 二期会研究会10団体
<予定時刻/出演研究会>
 ■15:30~
  オペレッタ・ミュージカル研究会《ヨハン・シュトラウス2世の喜怒哀楽》
  ・ヨハン・シュトラウス2世 「春の声」 「ウィーンの森の物語」 「芸術家の生涯」 ほか
   赤澤 舞・小林晴美・推屋 瞳・中野礼美・松本順子・森山由美子・茂木真由美
   渡辺佳子・黒田晋也 [ピアノ] 山中聡子
  ロシア東欧オペラ研究会《喜怒哀楽にそって》
  ・グリンカ『ルスランとリュドミラ』より "なんと嬉しいことだ~我が勝利は近い"
  ・ボロディン『イーゴリ公』より "もう長い年月がたった"
  ・チャイコフスキー『イオランタ』より "誰を私のマチルダに比べよう"
   渡部智也・牧野舞子・古川精一 [ピアノ] 小笠原貞宗
  イタリアオペラ研究会《イタリア・オペラの喜怒哀楽》
  ・F.チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より
    第1幕 "私は創造の神の卑しい僕" "あなたの中に母の優しさと微笑みを"
    第2幕 "苦い喜び、甘い責め苦"  第4幕 "哀れな花よ"
   折田千絵・黒田千佐代・杉本美代子・石橋佳子・伊藤潤・浜田和彦
   [ピアノ] 篠宮久徳
 =休憩(10分)=
 ■16:40~
  フランス歌曲研究会《フランス~喜怒哀楽を歌う》
  ・フォーレ「賛歌」 ・デュパルク「ため息」 ・シャブリエ「幸福の島」
  ・ドビュッシー 歌曲集『忘れられし小唄』より "そはやるせなき"
  ・ドビュッシー「家なき子のクリスマス」 ・マスネ「夏の朝」
  ・ラヴェル歌曲集『5つのギリシャ民謡』より "何と楽しい!"
   森朱美・坂本貴輝・中村優子・浅木百合子・安岐美香 [ピアノ] 松場知子・森夏野
  ドイツ歌曲研究会《アルバン・ベルク生誕140周年に寄せて》
  ・A.ベルク「7つの初期の歌」
   1)夜 2)葦の歌 3)夜鳴きうぐいす 4)冠されし夢 5)部屋の中で 6)愛の頌歌 7)夏の日々
   近藤悦子・田口久仁子・刀根敬子・杉下友季子 [ピアノ] 赤塚太郎
  合同演奏『ナブッコ』行け、我が想いよ
 =休憩(10分)=
 ■17:40~
  英語の歌研究会《Girls Chattering!!》
  ・G.メノッティ『泥棒とオールドミス』より
   "こんにちは、ミス・ピンカートン" "私の恋人は船乗りに"
  ・L.バーンスタイン『キャンディード』より "ウィー・アー・ウーマン"
  ・A.サリヴァン『ミカド』より "私達は学校帰りの3人娘"
  ・S.ソンドハイム『リトル・ナイト・ミュージック』より "田舎の週末"ほか
   佐橋美起・大田中早苗・落合知美・川口美和・川畑順子・小針絢子・高居洋子
   長濵厚子・西野伸子・野澤知佳・伯田桂子・向井優希 [ピアノ] 原島慈子
  オペラワークショップ研究会《Gioia, rabbia, tristezza e piacere! 心の綾を声にこめて》
  ・G.ヴェルディ『リゴレット』より
   "ジョヴァンナ、私後悔しているの、お父様に言わなかったことを"
  ・G.ヴェルディ『アイーダ』より
   "まぁ!お父様!~もう一度見られるのだぞ、あの芳しき森"
  ・U.ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』より "貴女のそばでは、僕の悩める魂も"
   平野真理子・福岡万由里・藤野祐子 [助演] 谷川佳幸・大井哲也 [ピアノ] 服部尚子
  イタリア歌曲研究会《ヴォルフ=フェッラーリの喜怒哀楽》
  ・E.ヴォルフ=フェッラーリ 「若者よ、なんて素敵に歩くの!」 「道行く若者よ」
   「遠く離れて」 「若者たちよ、若く美しいうちに歌いなさい」 ほか
   石原友利子・大町加津子・里村照子・鈴木葉子・高木照子・竹之内淳子・永瀬祐紀乃
   村田由紀子・鴨川太郎 [ピアノ] 山岸茂人
 =休憩(10分)=
 ■18:50~
  ロシア歌曲研究会 《喜怒哀楽にそって》
  ・ロシア民謡「ああ、夜よ」 ・シーシキン「夜は輝く」
  ・ビラーシ「秋が来ると(キーウの鳥の歌)」
  ・チャイコフスキー「ただあこがれを知る人だけが」Op.6-6
  ・チャイコフスキー「フローレンスの歌」Op.38-6
   高柳佳代・福成紀美子・清水知加子 [ピアノ] 小笠原貞宗
  日本歌曲研究会《詩人の哀しみと懊悩》
  ・松下倫士「うつくしいもの」より  "心よ" "ふるさとの山"
  ・朝岡真木子「智惠子抄」より "千鳥と遊ぶ智惠子"
  ・髙田三郎「啄木短歌集」より "やわらかに"
  ・猪本隆「悲歌」 ・猪本隆「わかれ道」 ・朝岡真木子「日の光」より "日の光" 
   斉藤京子・清水邦子・白須ヒロミ・前澤悦子 [ピアノ] 松浦朋子
 合同演奏「第九」
 終演予定20:00

*演奏中の出入りは出来ません。休憩中にお願いします。
*時間は目安です。早めのご来場をお願いします。
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「駅伝コンサート」と銘打たれています。何が「駅伝」かというと、別に歌い手の皆さんが走りながら歌うわけではなく(笑)、15:30から20:00までの長丁場を歌い継ぐ、というわけで。今回で第18回ですから、恒例の伝統行事なのでしょう。存じませんでした。

最終走者(笑)、「日本歌曲研究会」さんの中で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われる予定です。

招待券を頂いており、このステージのみ聴きに行く予定です。さすがに最初から最後までとなると、おなかいっぱいになるでしょう(笑)。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

年末年始のお小遣いの足しにもと思つて少々送ります、小生はやはりねたりおきたりしてゐます、


昭和30年(1955)12月22日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取ってくれた、その姪の春子宛書簡から。幼児二人を抱えて未亡人となった春子には、気づかいを忘れませんでした。

こうして昭和30年(1955)が暮れて行きます。

長野県の松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん、先週の記事から。

荻原碌山のブロンズ像「坑夫」 生徒が初の洗浄作業

 安曇野市穂高東中学校の生徒と隣接の碌山美術館の職員が23日、同校に設置されている、穂高出身の彫刻家、荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の代表作「坑夫」のブロンズ像を磨く作業をした。偉人の功績に思いをはせながら、長年風雨にさらされ付着した汚れを取り除いた。
 前身の穂高中学校が昭和29(1954)年に開校した際、旧南安曇教育会のはからいと遺族の理解で正面玄関の前庭に設けられて以降、親しまれてきた同校のシンボルだ。美術部員4人が、洗浄剤とブラシで汚れを落とし、蜜ろうワックスを塗布して布で磨き上げると、酸性雨による雨だれ模様が一掃され、輝きを取り戻した。
 「坑夫」は碌山が巨匠ロダンに師事し、パリの美術学校で学んでいた1907年の制作。イタリア人男性がモデルの力強い作風で、日本近代彫刻の礎を築いた傑作と称される。2年生の小林要太さんは「作業に関わり、碌山は地元の宝だとあらためて感じた」と話した。3年生の山田朱里部長は、総合的な学習の時間で碌山を学んだり、清掃の時間に同館の掃除を行ったりしてきた同館との交流を振り返り「素晴らしい芸術が日常にある恵まれた環境」と感謝した。
 碌山の十三回忌に合わせ遺族が前身校に寄贈した「小児の首」をシンボルとする穂高南小や、同館が開校記念として「坑夫」を贈った穂高西中から、メンテナンスの相談が寄せられていたことを受け、碌山ゆかりの作品を屋外に設置する穂高西小や穂高北小へも同館職員が出向き、作業を済ませた。
 いずれも初めての取り組みで、碌山美術館の武井敏学芸員は「先人や関係者たちの思いが宿るもの。芸術的価値を伝える作品性が保たれれば」と話している。
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記事では光太郎に触れられていませんが、守衛の「坑夫」(明治40年=1907)はパリ留学中の習作で、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリの守衛の元を訪れ、これを見せられて感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯もあって、昭和29年(1954)に当時の穂高中学校さんにこの像が設置された際、題字を光太郎が揮毫しました。上の画像に題字のパネルも写っています。
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酸性雨による金属劣化の問題はかなり前から指摘されています。主に工業地帯をかかえる大都市圏での話ですが、自然豊かな安曇野あたりでも無関係ではないのですね。

同館のX(旧ツイッター)投稿に、メンテナンスのビフォー(左)/アフター(右)それぞれの画像が出ています。
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全体に緑青に覆われていたような感じでしたが、ブロンズ本来の色合いに戻ったように見えますね。ワックスのおかげでしょうか、かなり光沢も出ているような。生徒さんたち、グッジョブです。

当方、SNSで神戸の「彫刻みがき隊あのね会」の方々と繋がっています。主に野外彫刻のメンテをボランティアで行われている方々で、「どこどこの彫刻をきれいにしました」的な投稿を見るたび、頭の下がる思いでいます。


自治体などの中には、こうした野外彫刻や石碑など、建てて建てっぱなし、あとは知ったこっちゃない、というスタンスが見られるところが珍しくありませんが、一方でこうした皆さんもいらっしゃるというのは素晴らしいことだと思います。そして今回の穂高東中さんの取り組みも。

また、一昨年には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、除幕70周年を記念して、地元の皆さんを中心に、雨の中で大規模な清掃が行われました。

こうした活動がもっともっと広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

又拓本をお預かりいたし忝く存じます、

昭和30年(1955)11月28日 硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

硲真次郎は詩や美術評論なども書いていた人物。光太郎とは戦前からの付き合いでした。「拓本」が何の拓本なのか、同時期の日記等を見ても詳細は書かれていません。もしかすると、上記の光太郎が揮毫した「坑夫」題字プレートの拓本か、とも思ったのですが、硲と安曇野との関係が確認できません。
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これよりも、晩年の光太郎が好んだ中国の書家の碑から採った拓本と考えた方がつじつまが合うような気もします。

講談の公演情報です。

一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜

期 日 : 2025年8月9日(土)
会 場 : 日本橋社会教育会館 東京都中央区日本橋人形町1丁目1番17号
時 間 : 開場17:20 開演:17:45
料 金 : 2,500円

演 目 : 「高村智恵子の恋」他一席
出 演 : 一龍斎貞奈 ゲスト 神田あおい

私が師匠貞心の元へ入門して10年…記念の講談会を開いていただきます。絶賛チケット発売中! ぜひよろしくお願いいたします✨ 「昭和講談ガールズ(あおい&貞奈)」結成記念 トークタイムでは懐かしのあの歌を二人が歌います!

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講談で智恵子。前例があります。神田紫さんという方が「智恵子・光太郎」という演目を持ちネタの一つになさっていて、平成20年(2008)には智恵子の故郷・二本松でも高座がありました。聴きに行けませんでしたが。
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講談と言えば、「炎の歌人 与謝野晶子」という演目をテレビで2回拝見したことがあります。最初は神田京子さんという方。確か、晶子の弟分・光太郎にもちらりと触れて下さったような記憶が残っています。2度目は神田陽子さんという方。お二人とも歯切れの良いテンポで晶子と鉄幹、そこに山川登美子が絡むドラマを語られていました。
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また、講談ではなく創作落語で桂幸丸師匠の「幸丸流 智恵子抄」、光太郎の父・光雲を主人公とした鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」を拝聴したことも。

今回の「高村智恵子の恋」も、ぜひ聴きたかったのですが、あいにく同じ日に女川光太郎祭ですので不可能。残念です。

御都合つく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】
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先日は宮崎丈二兄に托された“花霞”のちらしなど珍らしく拝見、

昭和30年(1955)11月28日
硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

清酒「花霞」。福島二本松の智恵子の実家・長沼酒造の銘酒で、大正12年(1923)の関東大震災直後、東京ではとにかく物が不足していたことから、光太郎が取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も光太郎自身が木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。その懐かしい自作の引札を硲が届けてくれたというわけです。
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古雅 清醇 ゐなかざけ 花霞
大酒はもとより大毒。のまずにすむなら酒はのまぬが一番。もしのむなら安くてわるい酒は禁物。高くてもよい酒が結構なれど安くてよい酒なら尚ほ結構な道理でございます。
岩代の田舎酒この花霞(ハナガスミ)はどんなに信用されてもよいほど醇良で価もまづ安い方。風味は人のすきずきながら古雅で精妙で灘とは又違つて趣がふかいといふ評判でございます。
高くてわるい酒に悩まされてゐる方にはこのお酒をおすすめいたします。

  銘酒 花霞分譲会
仮取次所 本郷区駒込林町二十五 高村氏アトリエ方

昭和6年(1931)、光太郎は三陸沿岸各地を約1ヶ月旅し、宮城県牡鹿郡女川町にも逗留しました。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年も開催されます。

地元紙『石巻かほく』さんに予告記事が出ています。

高村光太郎の足跡しのぶ 講演や朗読、献奏も 女川・来月9日

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第34回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が8月9日午後1時から、女川町まちなか交流館で開かれる。入場無料。
 戦前に女川を訪れ、詩や紀行文を記した光太郎の足跡に触れる。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演するほか、町内外の12人が自ら選んだ光太郎の作品を朗読する。ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さんによる献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年夏、女川や石巻市、気仙沼市など三陸沿岸を巡り、多くの詩文を残した。女川湾に面した海岸広場には文学碑が建立されている。
 光太郎祭は地元の有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催してきた。事務局のメンバーは「光太郎が残した文化や祭りの存在を次の世代の人たちにつなげていきたい」と話す。
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詳しい案内文書等が来ていないのですが、例年通りという連絡があり、おおむね以下のような感じのはずです。ただ、式典等の部が昨年までは14:00からでしたが、『石巻かほく』さんには13:00からと予告されていますので、そうなのでしょう。

女川光太郎祭

期 日 : 2025年8月9日(土)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 13:00~
料 金 : 無料

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
13:00~ 式典等
 黙祷
 記念講演 「高村光太郎の彫刻(その1)」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏 
ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さん
18:00頃~
 懇親会

午前中に行われる、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花は関係者で。見たい、という方はご覧下さって結構ですが。碑の建立を機に、翌年から光太郎祭が開催されるようになりました。碑は平成23年(2011)の東日本大震災で倒壊しましたが、令和2年(2020)に再建されています。

碑の建立や光太郎祭の運営に奔走された貝(佐々木)廣氏は震災で津波に呑まれて亡くなり、碑文の一部を揮毫されたり、永らく光太郎祭で記念公演を毎年されたりなさっていた、元当会顧問の北川太一先生も鬼籍に入られました。光太郎をはじめ、それらの皆さんへの思いこめての献花です。

午後の部、メインは町内外の方々(今年は12名だそうで)による光太郎詩文の朗読ですが、前座として当方の講演。最初は北川先生との対談形式で行い、その後10年ほど、光太郎と女川との繋がり、連作詩「暗愚小伝」に基づいて光太郎の生涯を紹介し、それも終わって、昨年は智恵子の生涯について語らせていただいています。今年以降、どうしようかと考えましたが、いつも話の枕として「光太郎は色々な分野に足跡を残した総合的な芸術家だった」ということを語っていることに思い至り、それならその「色々な分野」を一個ずつ取り上げていけばまた10年くらい何とかなるかと考えています。そこで今年と来年は「彫刻」。一般の方にもわかりやすいようにかみ砕いて、光太郎彫刻の成り立ちを語ります。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、それが一つの楽しみです。

今年は土曜日の開催ですし、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生昨年と今年とは療養のため多く臥床、来年はそろそろ又仕事にかかりたいと思つて居ります、

昭和30年(1955)11月28日 野見山朱鳥宛書簡より 光太郎73歳

余命約4ヶ月、もはや病状は彫刻制作にかかることを許さないほど悪化していたのですが、気持としてはやる気に溢れていたようです。あるいは日記等にも書かれているように、彫刻より「書」をイメージしていたのかもしれません。

「智恵子抄」系の公演情報を2件。

まずは福島から独唱歌曲の演奏会です。

欅の会・日本歌曲コンサートー清水脩の世界ー

期 日 : 2025年8月3日(日)
会 場 : キョウワグループ・テルサホール 福島市上町4番25号
時 間 : 開場 13:00 開演 14:00
料 金 : 1,000円(全席自由)

詩人の高村光太郎と福島県出身の妻、智恵子が題材の曲を演奏します。

プログラム
 第1部「わたしたちとドイツ歌曲」(美しき水車小屋の娘:シューベルト)
  Dos Wondern(さすらい) Wohin?(どこへ?) Am Feirrobend(仕事のあとで)
  Der Neugierige(知りたがる者) Uegengruss(朝の散歩)
  Des Müllers Blumen(水車屋の花) Tränenregen(涙の雨)
  Der Müller und der Bach(水車屋と小川) Des Baches Wiegenlied(小川の子守歌)
  山田耕筰・清瀬保二・間宮芳生・猪本隆・原久貴作品とともに
 第2部「清水脩作品集」
  「奥の細道」より(松尾芭蕉句)
   行く春や 風流の初やおくの 世の人の見附ぬ花や 早苗とる手もとや昔
   笈も太刀も五月にかざれ 旅に病んで
  「智恵子抄」より(高村光太郎詩)
   あどけない話 美の監禁に手渡す者 千鳥と遊ぶ智恵子 風にのる智恵子
   値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅


出演 ソプラノ 相田美保 佐藤彰子 みのり 佐藤裕子 藁谷志帆
   アルト  佐藤奈緒美 中村すみれ 細田睦子
   テノール 荒井一成  バリトン 竹沢嘉明
   ピアノ  熊田桂子 窪田綾奈 小林悟 吉田圭祐

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故・清水脩氏の全12曲から成る歌曲集「智恵子抄」から7曲、ピックアップされています。このうち「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」は光太郎生前の昭和30年(1955)の作曲。ソプラノ歌手・小島幸(大3=1914~平19=2007)の独唱会の依嘱作品でした。「風にのる智恵子」「荒涼たる帰宅」は同年、東京交響楽団の依頼により作曲され、同団定期公演でソプラノ歌手・古澤淑子(大5=1916~平13=2001)歌唱、同団伴奏により初演が為されています。「値ひがたき智恵子」は昭和34年(1959)、ソプラノ歌手・内田るり子(大9=1920~平4=1992)の「渡欧記念第五回連続日本歌曲独唱会」への委嘱作品として、「美の監禁に手渡す者」は昭和46年(1971)、テノール歌手・中村健(昭7=1932~)に献呈という形で作曲され、「中村健独唱会」で初演されました。ピアノ伴奏は三浦洋一(昭8=1933~平21=2009)でした。

光太郎があとからあとから「智恵子抄」収録詩篇を作り続けたように、清水氏も4期に分けて作曲しつづけ、完成までに16年かかっています。よほど「智恵子抄」詩篇に思い入れがあったのでしょう。舞楽の楽人であった父の影響もあり、邦楽にも関心を寄せていた氏は、昭和34年(1959)には箏曲、室内楽と朗読のコラボレーションによる「詩のための音楽 智恵子抄より」も作曲しましたし、合唱曲でも「智恵子抄巻末のうた六首」など多くの作品で「智恵子抄」をテキストに使っています。

もう1件、栃木県から朗読の公演。

秋元紀子ひとり語りin宇都宮

期 日 : 2025年8月8日(金)
会 場 : café Mario~休みの国~ 宇都宮市昭和2丁目9-20
時 間 : 開場 9:45 開演 10:00
料 金 : 3,500円+ランチセット1,580円

プログラム
 Opening act 高村光太郎作『智恵子抄』 朗読:篠崎令子
(キビタノ朗読会)
 太宰治作『恥』  安房直子作『青い花』

名古屋、秩父と好評だった太宰治「恥」と安房直子「青い花」を宇都宮でも語らせていただきます。「恥」は、ある一文がとても気に入っています。その箇所に来ると私の表情が変わると思います。「青い花」は、自分への戒めと思って読んでいます。カフェマリオの手加減しないジンジャーエールと共にお待ちしています!お問い合わせは、下記までよろしくお願い致します。
 グッドフェイス宇都宮 goodface_utsunomiya2019@yahoo.co.jp
 080-2018-3485(小林)
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メインは秋元紀子さんという方の朗読ですが、オープニングアクトとして篠崎令子さんという方による「智恵子抄」朗読がプログラムに入っています。秋元さんが講師を務められている朗読教室の方のようです。

「智恵子抄」系(無論、他の光太郎作品も)、このように音楽や朗読やで、あるいは演劇や映像作品など他のジャンルでも愛され続けて欲しいものです(長くなるので後日改めてご紹介しますが、講談の公演も近々あります)。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おハガキありがと。写真はまたいつかとつてください。このあいだは暗すぎたのだろうと思います。こんどは日のあたつているところでとればいいでしよう。私の病気がもつとなおつたころ。


昭和30年(1955)11月11日 神保明彦宛書簡より 光太郎73歳

交流のあった詩人・神保光太郎の子息に宛てた書簡です。子供に送る手紙は新仮名遣い(促音や拗音を一回り小さいサイズにすることは除く)というのが光太郎のポリシーでした。

この「写真」、どこかで見た記憶があるのですが、今、パッと出てきません。すみません。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻(大正12年=1923)が施された祭車が出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2025年8月2日(土)~8月3日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8月2日(土) 試楽 (午前0時叩き出し)  8月3日(日) 本楽

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した最大40台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。
 立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。
 2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産代表一覧に記載されました。
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光雲の木彫が施されているのは、「羽衣」という祭車。「組」としては「第一組」、今年は春日神社さんへの渡りが12番目だそうです。
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上の2枚は公式サイトから。

宮大工(株)飛鳥工務店さんのサイトにアップされている写真をお借りします。
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すべて一木造りでしょう。人間業とは思えません。機械でも無理でしょうが。3Dプリンタなら、とも思いましたが木材には対応していないでしょうし、そもそも3Dプリンタも元になる造型がなければどうしようもないわけで。これはこれで文化財に指定されてもおかしくない、というかされるべきものだと考えます。

もう一台、「太一丸」という祭車にも光雲工房作の木彫があしらわれているのですが、こちらの祭車は残念ながらもうしばらく出ていません。担い手不足などが原因とすれば淋しい限りです。それを言えば、全体の数も昨年は40台だったのが今年は39台のようで、それもそうなのでしょうか。石取祭と同時にユネスコ無形文化遺産に登録された、当会事務所兼自宅のある千葉県香取市の「佐原の大祭」でも同様のケースがありました。残る「羽衣」の祭車が出なくなるという事態はあってほしくないものです。

というわけで、ぜひ足をお運びの上、光雲の超絶技巧をご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

当日饗宴の半ばに中座でもするといけないと思ふので、失礼ながら五日には不参にして、自宅から祝福を送ります。何だか心が花やぐ思ひです。


昭和30年(1955)11月3日 髙村豊周宛書簡より 光太郎73歳

「饗宴」は、光太郎実弟の豊周息女(つまり光太郎令姪)の美津枝さん(ご健在です)と、岩波映画社の故・高村武次氏の結婚披露宴です。闘病中でなければぜひとも出席したかったでしょう。

智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山でのイベントです。プレスリリースから。

「あだたら高原リゾート」にて 光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/26(土)開幕! 日本百名山の一つ「安達太良山」を楽しめる

 今年で14年目を迎える「あだたらイルミネーション」は、あだたら高原リゾートの夏の風物詩として、毎年多くのお客様にご好評を博しております。冬はスキー場として親しまれている広大な斜面を舞台に、約65万球のイルミネーションが点灯し、幻想的な空間が広がります。
 花をモチーフとした「ビッグフラワーイルミネーション」や「ひまわり畑」が登場し、山の夜景とともに華やかな雰囲気をお楽しみいただけます。また、夜空に浮かぶ「光の天の川」や、「夏の大三角形」、「北斗七星」といった代表的な夏の星座が、光の粒となって地上を美しく彩ります。さらに、カラフルな可愛らしい動物モチーフのイルミネーションも見逃せません。
 加えて、今年は「あだたらやま」の「あ」に着目したユニークなモニュメント「【あ】のオブジェ」や「【あ】の道」の新たなイルミネーションが登場します。「あだたらやま」という名前は、よく見ると母音がすべてア段で構成されているという特徴を持っており、その一風変わったネーミングにフォーカスした仕掛けとなっています。阿武隈の山並みや安達太良の星空を背景に、思わず「何これ?」と驚き、誰かにシェアしたくなるようなインスタ映えする写真を撮影いただけます。
 昼間は爽やかな自然をたっぷりと満喫し、夜は一転して、幻想的な光の世界に包まれる――そんな心に残る特別な光のイベントとして、皆さまに忘れられない思い出をご提供いたします。この夏は、ファミリーやカップル、ご友人同士など、あだたら高原リゾートでロマンティックな夜をお楽しみ頂ける「あだたらイルミネーション」にご注目ください。
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「あだたらイルミネーション」概要
・開催期間 2025年7月26日(土)~9月21日(日)
 ※8月26日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間 19:00~21:00 
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
  入場料 中学生以上700円、小学生以下500円
  入場料+ロープウェイ乗車 中学生以上1,500円、小学生以下1,000円

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イルミネーションとともにお楽しみいただける、新メニュー「光るかき氷」や「光る氷ドリンク」が登場いたします。どちらもワンハンドで持てるので、イルミネーションとの撮影も可能です。
・限定メニュー
  光るかき氷 サイダー味、イチゴ味 600円
  光るドリンク ブルースカイ    600円

【あ】のオブジェ
 ロープウェイ山頂駅の旧スキーゲレンデ展望広場のフォトスポット「あだたらやま」の「【あ】のオブジェ」がイルミスポットに進化して新登場。様々なサイズの「あ」の文字が散りばめら「【あ】の道」もカラフルな光でライトアップされ、昼と夜とで違った魅力 をお楽しみ頂けます。「あ」ぶくまの山々を背景に、豊かな成長を繰り返す「あ」だたらやまで、不思議な「あ」の映え写真を撮ってみてはいかがですか。
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■【あ】のメニューも登場!
 「あ」のオブジェとともに、「あ」をモチーフとした、「あ」のチュロス、「あ」のソフトクリーム、「あ」のかき氷ソフトを発売します。鮮やかな緑の木々や青い空にかざして写真を撮ると、インスタ映え間違いなしです。「あ」だたらやまで「あ」のフードをご賞味ください。
<メニュー>
 ・「あ」のチュロス 600円 ・「あ」のソフトクリーム 500円 ・「あ」のかき氷ソフト 600円
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「あだたら高原リゾート」施設概要

■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■食堂・売店「富士急レストハウス」では夏メニューを販売開始
 暑い夏にぴったりのひんやりメニューを販売いたします。雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」や、夏の暑い日であだたらスノーアイスもさっぱりと味わえる「梅と蒸し鶏のおろしうどん」、かき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」など夏限定メニューをご賞味いただけます。
<メニュー>
 ・あだたらスノーアイス  600円 ・梅と蒸し鶏のおろしうどん950円 
 ・かき氷そば       800円 ・冷やし担々麺      950円
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂です。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
【施設概要】
 ・営 業 日 年中無休 ※メンテナンス休業あり
 ・営業時間 10:00~19:00(最終入館18:30)
 ・施設内容 内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡)※男女別
 ・利用料金 大人800円/小人(4才~小学生)500円
 ・泉質 単純酸性温泉
 ・適応症 神経痛 筋肉痛 関節痛 運動麻痺 慢性消化器病 冷え性 疲労回復
      健康増進 慢性皮膚病
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「あだたら高原リゾート」営業概要
 ・営業時間 8:30~16:30 ※日によって異なり、定休日もあります(HPをご参照下さい)
 ・お問い合わせ 福島県二本松市奥岳温泉  TEL:0243-24-2141
 ・アクセス 
  車/
東京から東北自動車二本松IC(約150分) 国道459号岳温泉経由県道386号(約20分)
  鉄道/東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)、郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)、
     二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)、岳温泉からタクシー約10分

現地は標高も高く、湿気も少ないので爽やかな感じです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

放送を聞かれた由、自分できいても声が不健康をあらはしてゐるやうにきこえました、

昭和30年(1955)10月29日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎73歳

「放送」は10月18日にNHKラジオでオンエアされた、当会の祖・草野心平との対談「芸術よもやま話」。平成8年(1996)にNHKソフトウェアさんから発売されたCD「昭和の巨星 肉声の記録~文学者編~ 室生犀星/高村光太郎」に収録されています。
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17分余りの対談で、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも触れています。この頃はほとんど臥床していることが多かったものの、書簡にあるほど不健康そうではなく、むしろ矍鑠とした感があるのですが……。

花巻レポート最終回です。

7月23日(水)、旧太田村の高村光太郎記念館さんでコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の準備を始める前、先日始まった特別展を拝見。

まずは玄関を入ってすぐ、「智恵子のエプロン復刻展示」。
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花巻南高校家庭クラブさんの力作です。エプロン自体は一昨年から昨年にかけて制作され、模造紙の説明資料は今年4月から5月、二本松の智恵子記念館さんで展示された際のものが転用されています。その際に当方が作ったパネル2枚も差し上げたので、一緒に並んでいます。

思えばこの高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際にこのエプロンについても触れ、「どなたか作って下さいませんかね」と呟いたのがきっかけでした。呟いてみるもんですね(笑)。

エプロンについては以下をご参照下さい。
智恵子のエプロン。
世田谷文学館「コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」レポート
東北レポート その1 岩手花巻なはんプラザ 「五感で楽しむ光太郎ライフ」。
「五感で楽しむ光太郎ライフ」報道。
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』。
みちのく随想 私たちのリレー。
高村智恵子生誕祭 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた/「智恵子のエプロン」復刻展示。
二本松レポート その2 光太郎智恵子聖地巡礼。

近々、『読売新聞』さんの岩手版で紹介されるはずです。一昨日、電話で取材を受けました。

続いて奥の展示室にて「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」を拝見。
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メインのジオラマは平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏の合作。前回は石井氏に大変な御苦労をおかけし、ご自身でも「もうこりごりだ」的なこともおっしゃっていたので、その後当方は依頼を遠慮していたのですが、今回は当方を飛び越えて直接石井氏に依頼が行きました。「一人では無理」ということで、土屋氏を巻き込んで、というか、今回、土屋氏が主導で制作されたそうで、石井氏の名はクレジットされていませんでした。
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前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)。さらに前回は花卷市内の光太郎と関わりのあるところをだいたいの位置関係で押し込んだ感じでしたが、今回は花巻駅周辺のみを、ほぼ正確な配置で。
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上の画像で、中央上の方が東北本線花巻駅。左の中段が花巻電鉄の駅、下段が軽便鉄道の駅。花巻電鉄、軽便鉄道ともに、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモチーフの一つと言われています。
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精巧な出来栄えに目を見張りました。

周囲の壁には軽便鉄道関連で味のある古写真など。
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「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたジオラマも、通常の第2展示室に。
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その向かい側では、特別展「中原綾子への手紙」も開催中。
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というわけで、現在の記念館さんは非常に盛りだくさんです。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘。
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その奥の「雪白く積めり」碑。
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この後、コンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」となりました。

そちらを2公演、つつがなく終え、出演者のお二人、箏の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんともども大沢温泉山水閣さんに宿泊。
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翌朝、以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった(健在の頃は当方も定宿でした)「ギャラリー茅」で、「トトロとジブリとカンヤダと」展を三人で堪能。先月も拝見しましたが、その際は自炊部さんに宿泊で、同展は別料金だったのが、今回のように山水閣さんに泊まれば無料です。それは存じませんでした。
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フロントに戻り、チェックアウト。フロントにはジブリプロデューサーで「カンヤダ」展仕掛け人でもある鈴木敏夫氏の筆になる「雨ニモマケズ」屏風。
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続いて、大沢温泉さん近くの「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使った施設で、館内は昔の商店街をイメージし、所狭しと昭和の品々が並んでいます。
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実際に小学校だった頃に、児童さんが作った卒業記念のオブジェ。郷土ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)がモチーフです。
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その後、元井さんのリクエストで、花巻東高校さんの大谷翔平選手・菊池雄星選手のモニュメントへ。こちらは当方初めてでした。
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最近は市内周遊のレトロジャンボタクシー「どんぐりとやまねこ号」のコースにも入るなど、すっかり新たな観光地化していて、この日も賑わっていました。
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最後は市の中心部に戻り、賢治御用達、さらに光太郎もよく足を運んだやぶ屋さんで昼食。ここでお二人と別れ、帰途に就きました。お二人はさらに宮沢賢治童話村に行かれたそうですが。

そんなこんなで充実の2泊3日でした。皆さまもこの夏、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

リンゴ感謝、今年は東北も不作ときいてゐましたが、二六園ではやはりいつものやうに立派なのが出来たと見えて見事です。中西夫人にもお分けしてよろこばれました。


昭和30年(1955)10月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎73歳

「二六園」は、光太郎を花巻に招いた一人、花巻病院の佐藤隆房院長が自宅敷地内に作ったリンゴ園です。

7月23日(水)に開催いたしましたコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」についてレポートいたします。

ご出演は、「声」が仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、「箏」で都内からお越しの箏曲奏者・元井美智子さん。お二人での公演、さらにテルミン奏者の大西ようこさんを加えてのトリオでの公演をこれまでもなさっています。

「東北ツアー」と銘打って、7月22日(火)と7月25日(金)には荒井さんのテリトリーの仙台で2公演。間に挟まる7月23日(水)は光太郎第二の故郷・花巻で。当初、花巻では小さめのホールなどを借りて、とお考えだったそうですが適当な会場が取れず、そんなこんなの中で「高村光太郎連翹忌運営委員会の主催ということにすれば、高村光太郎記念館で開催可能」という話になって、こちらにお鉢が回ってきました(笑)。

こちらも独自に「市街地のカフェ羅須さんも借りられますよ」と情報を流しておいたところ、「じゃあ2公演やってしまいましょう」とパワフルなお二人(特に元井さん)が(笑)。

さて、まずは旧太田村の高村光太郎記念館さん。
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リハーサル風景。
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右上画像、像の背後のスピーカーと変に重なり、「乙女の像中型試作」がスマホで写メ(死語ですね(笑))を撮っているように写ってしまいました(笑)。

13:00から本番。
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平日の昼間にもかかわらず、そこそこのお客様がお集まり下さり、感謝に堪えませんでした。
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およそ1時間のプログラムを終え、速攻で撤収。2公演目のカフェ羅須さんへ。
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急いでセッティングし、リハ。
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ちなみにギャラリーも兼ねる羅須さんでは、現在、岩手の花々を撮った地元の方の写真展が開催中です。
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今朝の『岩手日日』さん。しれっと一般人のような顔をして写っているのは当方で、前日にご挨拶に伺った際にたまたま取材が入り、映り込んだ次第です(笑)。
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閑話休題、16:00から2公演目の本番。ここが宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治ゆかりの場所ということで、賢治作品も盛り込みました。光太郎も疎開でお世話になっていた宮沢家も指呼の距離ですし。
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こちらの方が少し長いプログラムで、17:00過ぎに終演。

2公演ともいい感じにまとめられました。開催にご協力下さった地元の皆さん、平日にもかかわらずお越しいただいたお客様方に、厚く御礼申し上げます。

この後、3人で花巻南温泉峡・大沢温泉山水閣さんに宿泊いたしました。

こんな感じで、当会を主催とすれば高村光太郎記念館さん(二本松の智恵子生家も)での公演が可能です。通常は「やらせてくれ」と言ってもそういう使用方法はできません。また、羅須さんなど当方のお世話になっているところには仲介も致します。場合によっては宿の手配も。全国の演者の皆さん、ご検討下さい。ただし、高村光太郎記念館さん(二本松の智恵子生家も)では公演料は取れません。光太郎智恵子の聖地中の聖地でできる、という点だけがメリットです。また、流石に当方の全然存じ上げない方は紹介できないかな、という感じでもありますのでよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

もう稲刈はすんだでせうか、小屋のあたりの栗が今ごろはさかんに落ちる頃と思ひます、子供達がよろこんでとりにいつてるでせう。何かにつけて山がなつかしく感じられます。


昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

浅沼ら、旧太田村の人々への書簡は概して村を懐かしむ内容が主でした。

昨日まで2泊3日で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

7月22日(火)、東北新幹線新花巻駅前で借りたレンタカーでまず向かったのは、同駅からそう遠くない花巻市博物館さん。
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こちらでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」が開催中で、光太郎に関わる展示もあるだろうと思い、お邪魔しました。

受付で入館料を払うと、まず展示室に入る前の最初のショーウィンドウ的なコーナーに、いきなり38式歩兵銃や99式短小銃、軍刀など。のっけから粛然とした気持にさせられました。
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展示室に入ると、満州事変(昭和6年=1931)の頃から戦後までのリアル資料がずらり。
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花巻とその周辺地域に関わる品々が多く、時期はずれていましたが宮沢賢治が勤務していた花巻農学校の卒業生に関わるものなども。
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いわゆる「青い目の人形」。よくぞ残っていたものです。
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墜落した特攻機の残骸。
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戦死した搭乗員などの多くは、光太郎の書いた翼賛詩に心ふるわせながら戦地に赴いて行き、露と消えていきました。

そうした兵士への弔辞の一部。
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戦争末期には光太郎の詩もこんな感じになっていました。戦後になってその罪深さを感じて当然だったでしょう。他のほとんどの文学者は同じような作品を書いても「あれは軍の命令で仕方なく書いたのだ」と開き直ったり、自らの年譜の中でこの手の作品は無かったことにしたりしましたが。

その光太郎がらみ。

まずは昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲関連で、詩「非常の時」の一節を刻んだ碑の拓本が出ていました。
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碑そのものは、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内にあります。そもそもはこの詩を贈られた花巻病院長にして戦後は財団法人高村記念会を立ち上げた佐藤隆房医師の顕彰碑です。翌日撮ってきました。
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正面の題字は当会の祖・草野心平の揮毫。両サイドに「非常の時」の一節が光太郎自筆拡大で。元になった書は高村光太郎記念館さんで展示されています。空襲時の極限下で自らの危険を顧みず負傷者の救護にあたった佐藤ら医師や看護師、看護学校生を讃える内容のため、コロナ禍の最中に同じように頑張った現代の医療従事者へのエールともなる、と、少し注目もされました。

詩は終戦直後の9月に行われた病院の表彰式で光太郎自身が朗読しました。その際に表彰された女性への表彰状。
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こんなものも残っていたんだ、と、うるっときました。

その花巻空襲関連の展示。
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投下された(最新鋭のロケット弾も使われたということで、その場合は「発射された」)爆弾の破片も。「うわぁ」という感じでした。
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空襲時、光太郎は豊沢町の宮沢賢治実家に疎開していましたが、そこにも火の手が廻り、必死に消火にあたろうとしたものの、結局はどうにもできませんでした。その際に光太郎が被っていた鉄兜と手にしていた鳶口が現存しています。高村光太郎記念館さんの倉庫に眠っているのでしょう。眠らせておくのならいい機会なのでこちらに貸せばいいものを……と思うのですが、苦言を呈させていただければ、このあたりの連携がまるでなっていないというのが現状です。

直接光太郎に関わる展示がもう1件。戦後の昭和27年(1952)になってからの話ですが、藤根村(現・北上市)の元小学校教師・高橋峯次郎関連です。
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やはり拓本で、高橋が光太郎から贈られた書を写した石碑のもの。
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この碑も北上市内に現存します。小学校教師だった高橋が、戦死した教え子たちなどの供養のため建てた観音堂の境内です。光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京する直前に、高橋が光太郎に観音像の制作を依頼したのですが、無理、ということで代わりに贈られた書で、他にも複数の揮毫例がある観音讃仰の詩が刻まれています。

他に、光太郎と交流のあった岩手で育った画家・松本竣介の絵。
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やはり光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の写真。「そういえば内村は大陸にいたんだっけ」でした。
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そして、花巻周辺に残る戦争遺跡などについても。
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最後は花巻らしく賢治の言葉を引用して終わっていました。
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陳腐な表現ですみませんが、実に考えさせられる展示でした。

時間もあるし、ということで、実際に戦争遺跡を見て回りました。以前から気になっていたのですが、場所がわかりにくく、事前に調べておかないとたどりつけそうにない感じで、今回初めて足を運びました。

まず若葉町の「防空監視哨聴音壕」。
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敵機の襲来をいちはやく察知するための施設です。いちはやくと言っても、既に実用化されていたレーダーなどを配備していたわけでもなく、目の良い兵士が目視で、耳の良い兵士が音を聴いて……。「そんなんで勝てる戦争じゃなかっただろう」というのは現代人だから言えることでしょうか。

続いて市役所さん近くの「花川橋」。
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昭和9年(1934)の架橋です。欄干の一部が大きく欠損しています。
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花巻空襲の際、近くに落ちた爆弾の破片による被害とのこと。
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生々しいという言葉がぴったりです。戦争被害を後世に伝えるためにあえて傷痕を残してあるのでしょう。

よく言われることですが、戦後80年の現在が「新たな戦前」とならないよう、一人一人がよく考えないと……と思いました。過日の参議院議員選挙の結果等を見ると、その点が心配でなりません。まぁ、「躍進」といわれる某政党も、ドサクサに紛れて当選した極右の作家もどきなども、そう遠くないうちに馬脚を現すでしょうが。

その後、翌日開催のコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」でお世話になりますということで会場の一つのカフェ羅須さん、在来線の花巻駅前に新しくできた古書店「港」さんにお邪魔しました。
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さらに港さんの並びの林風舎さんで宮沢和樹氏としばしとりとめのない話を(笑)。
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この日の宿泊は駅前のグランシェールさん。全国的に子供たちの夏休みに入っているからでしょう、定宿の大沢温泉さんは、一人では予約不可でした(翌日は3人で泊まりましたが)。

夕食はすぐ近くの伊藤屋さん。かつて光太郎が市街で最も多く食事を摂った店です。
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この日のキーワードが「戦争」だったので、改めて駅ロータリーの「やすらぎの像」も拝見。
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平成7年(1995)に設置され、花巻空襲で亡くなった方々への慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

翌日は高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さん。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

映画が学校で公開された由、随分多くカツトされてゐますが、記念にはなるでせう、

昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

「映画」は前年、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」。昭和28年(1953)に光太郎が一時帰村した際にも撮影班が同行し、旧太田村の山小屋や、浅沼が校長を務めていた山口小学校などでもロケが行われました。








記憶が正しければ今年3度目の花巻。今回は一昨日から2泊3日の行程で、今日が最終日です。現在、光太郎がよく泊まった大沢温泉山水閣さんでこれを書いております。
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普段は自炊部さんですが、都内からいらした箏曲奏者の元井美智子さん、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんとご一緒させていただいており、ちと自炊部さんでは⋯⋯というわけで。

部屋は1階の渓流側。驚いたことに光太郎関連を含むいろいろと貴重な品々が展示されているコーナのすぐ近くです。
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というか、自分の部屋の外壁には、光太郎令甥の故・髙村規氏の書額が掲げられています。
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かつて光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で毎年五月に行われていました「高村祭」にご出席なさった際に揮毫されたものと思われます。

今回は、昨日開催された(名目上、当方が主催者扱いですので「開催した」というべきですか)、先述のお二人による朗読と箏曲のコラボのコンサート花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏が二公演、そちらがメインでした。

一公演目が高村光太郎記念館さん。
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二公演目は市街地のカフェ羅須さん。
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それぞれつつがなく終え、三人で山水閣さんにお世話になっているわけです。

さらに花巻市博物館さんで「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」、高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」を拝見。今日もですが、他にもいろいろ回ります。
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今回は「詳しくは帰りましてから」の扱いにさせて頂きます(笑)。

昨日からまたまた花巻に来ております。ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと箏曲奏者の元井美智子さんとのお二人がコラボなさる公演「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の名目上の主催者でして、そのためです。同時に現在、花巻高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」が始まりましたし、特別展「中原綾子への手紙」も開催中、さらに花巻市博物館さんでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」(こちらは昨日拝観しました)。
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それぞれ帰りましてから詳しくレポートいたしますが、山積している紹介すべき事項を少しでも片付けないといけませんので、花巻関連のネタを(先月も同じようなことがありましたが(笑))。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

1週間程経ってしまいましたが、今月分。
250715光太郎ランチ
250715ミレット
250715メニュー
献立は「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」「揚げ鯖の甘酢だれ掛け」「なすの田楽」「茹でとうもろこし」「卵焼き」「胡麻ふかし」「しば漬けとおかかの俵握り」「きゅうりの漬物」「二色羊羹」。

個人的には「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」をぜひいただきたいところです。「胡麻ふかし」は二枚目画像で言うと上の段の中央に鎮座する焦げ茶色のもの。餅米を使った岩手の郷土料理っぽいのですが、見た目の違うものが全国にあるようです。香ばしそうです。

やつかの森さんのもう一つの大きな活動として、花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」。やはり光太郎が自分で作った献立、使った食材などを参考にされて、実際に調理もやつかの森さんが担当されています。今年はおおむね月末に設定されているようで、次回が7月30日(水)。

予告されているメニューが「・アトランティックサーモンのステーキ」「豚肉とキクラゲの卵炒め」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「夏野菜のラタトゥイユ」「季節の漬け物」「ご飯」「麦わら色の冷たいスープ」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」だそうです。

梅雨も明け、猛暑の日々、夏バテ対策にはやはりきちんと食事を摂ることも大事ですね。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

始まってしまっています。

きもののヒミツ 友禅のうまれるところ

期 日 : 2025年7月19日(土)~9月15日(月)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町26-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日 ただし7月21日(月・祝) 8月11日(月・祝) 9月15日(月・祝)は開館
      7月22日(火)、8月12日(火)
料 金 : 一般:2,000円(1,800円) 大学生:1,300円(1,100円)
      高校生:600円(400円) ※( )内は20名以上の団体料金

 きものは衣服として、人々の身体を彩ってきました。そして表面を意匠で装飾されるきものは、一定の幅の反物を直線縫いで仕立てるため非常に強い平面性をもつ一方で、施された多彩な意匠は、衣服として身にまとうことで立体性が生まれます。この平面と立体を行き来するところに、デザインされたものをはじめから立体裁断で制作していく洋服とは大きく異なるおもしろさがあります。
 小袖と呼ばれたきものは桃山時代から江戸時代にかけて形式が整い、それを装飾するものとしてさまざまな意匠・模様構成が展開しました。幕末になるとパターン構成の形式化が進みますが、明治時代以降の京都においては日本画家の構想力や空間構成を活かした新たな染織図案が生み出され、斬新なデザインが次々と出現しました。こうしたきものの制作現場では、当時も現在も、平面に描いた下絵から染色図案になる過程で、着用して立体となることを想定した応用や調整の手が加えられてきました。ここに「きもののヒミツ」がひそんでいるのです。
 本展は近世から近代のきものの優品や、近世の流行を支えた雛形本などの資料、さらに円山応挙から始まる京都画壇の展開と染織図案との関わり、図案を染織作品へと応用する過程、染織図案の流行が他の工芸品とも共有するものであったことも紹介。これまでにない視点から「きもののヒミツ」に 迫ります。

展示構成
 第1章 平面と立体のあいだで きものと雛形本
 第2章 京都画壇の日本画と下図、染色図案
 第3章 図案から染織品へ 描かれた図案と染められた図案
  3-Ⅰ 図案から友禅へ
  3-Ⅱ 流行模様と友禅、工芸
 第4章 平面と立体のあいだで 京都の友禅の人間国宝

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基本的にきものそのものの展示が中心です。ただ、それだけでなく図案や関連するアイテムなどの紹介も。そこで出品目録に依れば、「3-Ⅱ 流行模様と友禅、工芸」中に光太郎の父・光雲も腕を揮った「福禄封侯図飾棚」(明治16年=1883 旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作)が展示されています。
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こちらは令和3年(2021)に同館で開催された「モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―」展でも出品されました。なかなかに手の込んだ作ですね。

よくある音声ガイドは、女優の常盤貴子さん。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神経痛はまだ治りません、 一切中西夫人の手を煩はしてゐますが、今月から食事担当の家政婦さんを一人たのみました、


昭和30年(1955)9月30日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

もはや「神経痛」と言っているレベルではなく、肺はボロボロなのですが、心配をかけまいという心遣いでしょう。

「家政婦さん」は中野家政婦会から派遣された堀川スイ子。最初に雇ったのは別の人でしたが、すぐに交代、堀川には亡くなるまで面倒を見て貰いました。

光太郎が没した直後に発行された『文芸 臨時増刊 高村光太郎読本』に、堀川による「高村先生の思ひ出」という飾らない文章が掲載され、昭和34年(1959)に刊行された草野心平編『高村光太郎と智恵子』という80余名の回想録にも転載されました。

毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
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短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
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ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
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揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
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斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
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「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。

昨日は同じ千葉県内の野田市に行っておりました。過日ご紹介した「森優子朗読ライブ Teatime Concert in 琥珀茶寮あずき」拝聴のためです。

会場の琥珀茶寮あずきさん。
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市の中心部を少し外れた住宅街の一角で、こちらも元々は普通の住宅だったようなたたずまいでした。光太郎の父・光雲の木彫も展示されている茂木本家美術館さん、光雲の師・東雲の彫刻が納められている琴平神社さんや報恩寺さんなども近いと云えば近いあたりです。

こちらではミニコンサートやアート制作のワークショップなど、様々なイベントも行われており、昨日はその一環としての朗読会でした。ご出演は森優子さんという方。ちょっと離れた松戸市にお住まいのようです。元々あずきさんにお客様としていらしていたそうですが、あずきさんのオーナーの方が、昨年松戸で開催された森さんの朗読会を聴かれ、「それならうちでも」とお願いなさって実現したとのこと。

さて、昨日の朗読会。まずは光太郎の「智恵子抄」から。読まれた詩は順に「人に(遊びぢやない)」(大正2年=1913)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「梅酒」(昭和15年=1940)。

詩の朗読というと、ゆったりとかみしめるように読まれる方が多い中、森さんは少し早口めのきびきびした読み方で、なるほど、こういうのもありだな、と思いました。さらにいつも思うのですが、光太郎の詩はわざとらしくない踏韻や内在律が素晴らしく、聴いていて心地よいものでした。

後半は、光太郎と軽く交流のあった芥川龍之介の「杜子春」。もちろん知らない話ではありませんでしたが、細かな部分は忘れており、「ああ、そういえばそうだった」「このあとどうなるんだっけ?」「あれ、ここはこうだったんだ」という感じで、ある意味新鮮でした。さらにアンコール的に、これも光太郎とつながりのあった中原中也の「吹く風を心の友と」。これでおおむね一時間ちょっとでした。

10月にはまたタッグを組まれ、福島の会津でやはり「智恵子抄」を含む公演をなさるそうです。これまたありがたいお話です。

それも含め、今後のますますのご活躍を祈念いたします。

以上、野田市レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

先日はおてがみでいろいろ御様子をうかがひ、よろこびました、又剣舞の人形もいただきました、これは運送の途中ボール箱がおしつぶされて人形の足などが破損しましたが、修繕して飾りました、

昭和30年(1955)8月11日 高橋正亮宛書簡より 光太郎73歳

「剣舞」は「けんばい」と読み、岩手を代表する郷土芸能です。宮沢賢治が詩にしたことで江刺の「原体剣舞」が有名ですが、光太郎第二の故郷・花巻でも多くの地区に独自の剣舞が伝わっています。

大阪から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム創立50周年記念 第131回大阪定期公演《現代(いま)の音楽 ~Music of Our Time~》

期 日 : 2025年7月27日(日)
会 場 : 住友生命いずみホール 大阪市中央区城見1丁目4-70
時 間 : 午後3:00開演(午後2:30開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,000 A席 ¥4,000 B席 ¥2,500
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)

うたが生まれる ことばが生きづく
詩人がすくい取った言葉が音に刻まれ、新しいうたが生まれるとき、言葉は新たな生命を得て輝きます。凛として美しい原民喜の詩による寺嶋陸也氏の委嘱新作を始めとする、三人の作曲家のうたを、大阪コレギウム・ムジクムの確かなアンサンブルでお楽しみください。

【曲目】
 寺嶋陸也 《星の疼(うづき)》混声合唱のための【委嘱・世界初演】〔詩:原民喜〕
 新実徳英 「愛のうた ―光太郎・智恵子―」(2021年)男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために〔詩:高村光太郎〕
 千原英喜 女声合唱とピアノのための「良寛相聞」(2009年)〔詞:良寛・貞心尼〕

【出演者】
 指 揮 當間修一 ピアノ 木下亜子
 フルート 伏田依子(シンフォニア・コレギウムOSAKA)
 クラリネット 鈴木祐子(シンフォニア・コレギウムOSAKA)
 弦楽合奏 シンフォニア・コレギウムOSAKA
 合 唱 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団 大阪コレギウム・ムジクム合唱団

インターネットライブ配信(PIA LIVE STREAM)あり
 ※2025年8月10日(日)までアーカイブ視聴つき
 視聴期間:7月27日(日)14:30 ~ 8月10日(日)23:59
 発売期間:5月03日(土)10:00 ~ 8月10日(日)21:00
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新実徳英氏作曲の 「愛のうた ―光太郎・智恵子―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」がプログラムに入っています。

初演は令和4年(2022)1月、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会で、委嘱作品でした。ほぼ同時に楽譜が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

同年6月には初演時のライブ録画を収めたDVDもリリース。さらに9月には第4曲「レモン哀歌」、第5曲「元素智恵子」がNHK FMさんの番組「ビバ! 合唱」で流されました。
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初演以来、寡聞にして演奏されたという情報を得ていませんでした。おそらく本来フルート、クラリネット、弦楽オーケストラでの伴奏(最近はあまりこうした場合に「伴奏」と云わなくなりましたが)が必要なためでしょう。ただ、楽譜は練習用を兼ねるという意味合いもあってか、ピアノ2台での連弾譜として書かれています。そのまま使えば本番もオケ伴でなくピアノで出来てしまいます。まぁ、それでも2台で連弾となるとそれはそれで大変でしょうが。

総演奏時間は約35分。構成は「Ⅰ.山麓の二人」「Ⅱ.千鳥と遊ぶ智恵子」「Ⅲ.値(あ)ひがたき智恵子」「間奏曲-哀しみの淵へ-」「Ⅳ.レモン哀歌」「Ⅴ.元素智恵子」。この手の組曲としては、智恵子が心の病を顕在化させてからの詩篇のみを扱うというのも異色ですね。

ちなみに今回も出演される大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団さんは、昨年の東京公演で西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を演奏して下さいました(平成24年=2012にも)。

今後とも、光太郎詩に曲を付けた作品を取り上げ続けていただきたいものです。もちろん他の合唱団さんでも、ですが。

【折々のことば・光太郎】

小生かねて(六月一日)花巻市を転出、東京都中野区に転入いたしましたにつき、今年昭和卅年度の国税は中野税務署に納付いたすべく、八月一日既にその手続きをとりました。即ち今年度以後花巻税務署へは納付いたしませぬ故右御了承願上げます

昭和30年(1955)8月1日 花巻税務署宛書簡より 光太郎73歳

『高村光太郎全集』にもれていた書簡で、平成26年(2014)、山形市の最上義光歴史館さんで開催された「第6回 市民の宝モノ2014」展で展示され、拝見して参りました。

この書簡の発見により、赤坂山王病院に入院中だったこの年6月1日に、それまで頑なに手に残しておいた住民票を都内に移したことが明らかにできました。いずれは花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るか、それが無理でも中野のアトリエとの二拠点生活、と考えていたため住民票をそのままにしておいたのですが、もはやそれも不可能な病状と、自分でも覚悟したようです。

また、前年、花巻町などとの合併により太田村が消滅し、花巻市となったことも大きいような気がします。太田村時代には光太郎が村一番の高額納税者でしたが、もはや太田村は存在しない、となると、多額の税金を納めるのも何だかなぁという感じだったのでしょう。

一昨日の『毎日新聞』さんの連載「旅する・みつける」から。枕の部分で光太郎。

旅する・みつける 千葉・成田 三里塚 御料牧場の往時しのぶ 貴重な資料、防空壕公開も 空港近くに記念館

 「三里塚の春は大きいよ。」。詩人の高村光太郎は1924年、訪れた三里塚(千葉県成田市)の情景を詩「春駒」で描いた。成田空港ができる前、三里塚には宮内庁の「下総御料牧場」が置かれ、「桜と馬の牧場」として親しまれていた。多くは空港用地となったが、跡地の一部に三里塚記念公園(同市三里塚御料)が整備され、「三里塚御料牧場記念館」で牧場の往時をしのぶことができる。
 成田空港のA滑走路と並行する県道沿いに、記念公園の入り口がある。赤レンガの門を入ると、マロニエの並木道の奥に記念館が見える。
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三里塚記念公園のマロニエ並木の奥に建つ三里塚御料牧場記念館

 建物は19(大正8)年に建設された牧場の事務所を再現した。公園内には皇族の宿舎などに使われた「貴賓館」が保存され、桜広場などとともに名残をとどめている。 

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貴賓館の外見は木造かやぶきの和風だが、内部は和洋折衷様式になっている

  かつて牧場では、皇室が使う馬が育成され、牛乳、各種の肉などが生産された。66年に成田空港建設が閣議決定されたことに伴い、栃木県高根沢町へ移転している。
 牧場の歴史は古い。明治維新後の1875年、内務卿(きょう)の大久保利通の発案で、綿羊の国内育成を進めることになり、下総牧羊場と取香種畜場が創設される。日本獣医学の発祥の地になるなど畜産振興に重要な役割を果たした。明治天皇の意向もあって85年に宮内省(当時)の直轄牧場となる。外交官らを招いてジンギスカンをふるまうなど、外交の場にも活用された。
 牧場の面積は1969年の閉場時で東京ドーム90個分を超える約440ヘクタールあったという。それだけ広大な国有地があったことが、三里塚が国際空港の建設地に選ばれた理由の一つにもなった。公園は開港後の81年に成田市が整備した。
 記念館には、皇族の随伴員が乗った馬車「供奉(ぐぶ)車」(09年製作)や牧場長の大礼服などを展示。牧場から宮内庁に牛乳瓶を運ぶ際に使われた輸送箱などの資料とともに、三里塚と牧場の歩みも紹介されている。
 また、空港に関連し、71年に昭和天皇が欧州訪問した際に搭乗した航空機「お召し機」で使われた調度品も展示されている。西陣織のシートが敷かれた座席やテーブル、ベッドなど実際に使われた品々だ。
 公園内には戦中に皇太子(現上皇)のために地下に建設されたコンクリート製の防空壕(ごう)も残され、2011年から一般公開されている。 記念館ガイドの山口美佐子さんは「空港建設前の御料牧場の存在は今ではあまり知られなくなっている。三里塚に残された貴重な歴史に触れてほしい」と話す。
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左: 1941年に皇太子(現上皇)のために建設された防空壕の主室。コンクリート壁の上には約3・5メートルの盛り土がされている
右: 交差する梁と柱で十字架を表現した三里塚教会

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この後、画像だけは載せておきましたが、吉村順三設計の「三里塚教会」について書かれているものの、長くなるので割愛します。

光太郎は、親友だった水野葉舟が関東大震災後に御料牧場近くに移り住んだため、何度か足を運びました。御料牧場と光太郎、詩「春駒」(大正13年=1924)については、以下をご参照下さい。

 成田三里塚記念公園。
 「春駒」。
 企画展「下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~」。
 「お別れの会」二件。
 水野清氏お別れの会/佐藤進氏訃報。
 三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展。
 佐倉市立志津図書館 SHIZUギャラリー 芝山千代田駅からマイクロツーリズム ~成田市三里塚記念公園~御料牧場記念館と皇室(東宮)避難用防空壕。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」レポート。
 佐方晴登写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」。
 成田三里塚レポート。
 旧下総御料牧場貴賓館、国登録有形文化財に。
 『日本のことばずかん いきもの』。

下の画像は、今年に入ってから入手した古絵葉書です。戦前のものですね。サイドカーに乗っているのは軍人でしょう。
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「三里塚駅前」とありますが、成田駅からこの附近を通る軽便鉄道がかつて存在しました。敷設は明治44年(1911)。おそらく光太郎も成田駅からこの路線を使ったのでしょう。しかし昭和19年(1944)にはレールを金属供出するため廃線となってしまいました。

つい先日、地元の方から電話がありました。秋には近くの公民館的な施設で「春駒」などに関するミニ展示をなさるとのこと。お話の中で、御料牧場の歴史が市民に忘れられているというお嘆きも。ごもっとも、と思いました。

というわけで、三里塚御料牧場記念館とその周辺、ぜひ足をお運びください。隣町ですので、何ならご案内いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山口もなかなかあついでしようが、そのかわり、ことしはすべて豊年でしよう。お米や畠の作物が山のようにとれるでしよう。それを考へるとうれしくなります。来月はお盆になりますからみなさんもごちそうをたくさんたべるでしよう。

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山口小学校五六年生皆さま宛書簡より 光太郎73歳

山口小学校は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。光太郎もよく足を運び、先生方や児童さんたちと交流していました。

遠く東京の病床にあって、何かにつけ思い起こすのは太田村の自然豊かな風景でした。

以前から行われていたものですが、存じませんでした。

かぞ どんとこい! 祭り

期 日 : 2025年7月19日(土)・20日(日)
会 場 : 東武伊勢崎線加須駅北口周辺の市街地 埼玉県加須市中央1丁目
時 間 : 17時から22時[雨天決行]

毎年7月中旬の土、日曜日に加須駅周辺の市街地を中心として開催されます。初日は、各町内による神輿の練り歩き(神輿渡御)が行われ、2日目には各町内の山車の引き廻しが行われます。中でも夜8時30分から始まる「ヒッカセ」は、各町内の太鼓連による太鼓の叩き合いで、見ごたえがあります。 また、3年に一度の「本町の山車と蘭陵王面」のお披露目(次回令和2027年)があります。

19日(土曜日)17時から22時 神輿渡御 日中は子ども神輿、夕方からは大人神輿、夜間(20時頃から)は連合の大人神輿が町内を練り歩きます。
20日(日曜日)17時から22時 山車曳き廻し 山車の曳き廻しが行われ、特に20時30分からの、各町内の山車が集合し太鼓の叩き合い(ヒッカセ)が見ものです。
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3年に1回披露されるという「蘭陵王面」が、光太郎の父・光雲の師匠、髙村東雲の作です。「本町」という地区の山車が蘭陵王の人形を戴くもので、文久2年(1862)の作。その人形に装着される面です。おそらく面も同時に作られたものでしょう。文久2年といえば、光雲が東雲に弟子入りする前年にあたります。

終わってから気づいたのですが、実は先月、千代田区の神田明神さんで「江戸祭礼文化講座 江戸天下祭と加須の蘭陵王山車」という催しがあり、その際に加須の蘭陵王人形と面が展示されていました。
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「しくった、観に行くべきだった」と思ったものの、後の祭りでした。ところが今回、本当の祭りで披露されるとのこと。山車の曳き廻しは7月20日(日)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう二年間ばかり山口部落へゆきませんから、学校へもごぶさたしています。私にあつてもわからない生徒さんも多くなつたでしよう。私も丈夫になつたら又山口をたずねて生徒さんにもあい、ぶらくのみささんにもあいたいと思つています。

昭和30年(1955)7月23日
山口小学校五六年生皆さま宛書簡より 光太郎73歳

山口小学校は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。太田村在住時にはよく足を運び、先生方や児童さんたちと交流していました。

児童宛ということで、新仮名遣いで書かれています(拗音や促音を一回り小さくするのは除く)。細かな気づかいが素晴らしいと思います。

決して忘れていたわけではないのですが、紹介すべき事項の山積に伴い後回しにして来た結果、発行から一ヶ月以上経ってしまいしました。年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の最新号です。
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いつもぼやいていますが(笑)、同人にしてくれと頼んだ覚えが一切ないのに、当方の「連翹忌通信」が連載されています。

今年はNHKさんの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、吉原が物語の一つの舞台として扱われていまして、便乗しました。題して「モナ・リザその後」。「モナ・リザ」は、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻頭を飾った詩「失はれたるモナ・リザ」の「モナ・リザ」です。

   モナ・リザは歩み去れり

 かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
 「よき人になれかし」と
 とほく、はかなく、かなしげに
 また、凱旋の将軍の夫人が偸(ぬす)視(みみ)の如き
 冷かにしてあたたかなる
 銀の如き顫音を加へて
 しづやかに、つつましやかに
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
 はれやかに解かれたれ
 ながく画堂の壁に閉ぢられたる
 額ぶちこそは除かれたれ
 敬虔の涙をたたへて
 画布(トワアル)にむかひたる
 迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
 ああ、画家こそははかなけれ
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 心弱く、痛ましけれど
 手に権謀の力つよき
 昼みれば淡緑に
 夜みれば真紅(しんく)なる
 かのアレキサンドルの青(せい)玉(ぎよく)の如き
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 我が魂を脅し
 我が生の燃焼に油をそそぎし
 モナ・リザの唇はなほ微笑せり
 ねたましきかな
 モナ・リザは涙をながさず
 ただ東洋の真珠の如き
 うるみある淡(うす)碧(あを)の歯をみせて微笑せり
 額ぶちを離れたる
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 かつてその不可思議に心をののき
 逃亡を企てし我なれど
 ああ、あやしきかな
 歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
 幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
 消えなば、いかに悲しからむ
 ああ、記念すべき霜月の末の日よ
 モナ・リザは歩み去れり

その正体は吉原河内楼の娼妓・若太夫。その日本人離れした目鼻立ちに、光太郎はひそかに「モナ・リザ」の面影を見、名付けました。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
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明治42年(1909)の『新よし原細見』には「若太夫 愛知県名古屋 真野しま 廿二」とあり、若太夫の本名は真野しま、名古屋の出身で、サバを読んでいなければ光太郎と知り合った明治43年(1910)には23歳でした。ただし、後述の木村荘太の『魔の宴』では「25歳」となっていました。

翌年には年季が明けるということで、光太郎と夫婦約束まで交わしたそうです。しかし、この恋はあえなく破れます。光太郎が若太夫に入れあげていることをかぎつけた、光太郎より六つ年下の作家・木村荘太が若太夫の元に通うようになりました。木村は後に武者小路実篤の「新しき村」にも参加しますが、この頃はやはり「パンの会」に顔を出し、雑誌『新思潮』に作品を発表していたもののさほど注目されていたわけでもなく、また、帝室技芸員の御曹司たる光太郎への嫉妬(木村は牛鍋屋チェーンの妾腹に生まれています)などもあったのでしょう。さらに若太夫は、気難しい光太郎よりも遊び慣れていた木村を採りました。そして書かれたのが、「失はれたるモナ・リザ」でした。

しかし木村は、年季が明け「若太夫」から「しま」に戻っても妻にするでもなく、しまは故郷の名古屋に帰っていきました。木村にしてみれば単なる鞘当てに過ぎなかったようです。その後すぐ、吉原では五社英雄監督の東映映画「吉原炎上」のモデルとなった大火が起こり、様子を見に上京して来たしまと会いましたが、それもそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950 朝日新聞社)に語られています。

光太郎は、再上京したしまについても詩にしています。その際に会ったのかどうかは不明なのですが。

   地上のモナ・リザ

 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
 石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
 世の人人のみにくさよ
 モナ・リザは山青く水白き
 かの夢のごときロムバルヂアの背景に
 やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
 ただ半身をのみあらはせかし
 思慮ふかき古への各画聖もかくは描きたりき
 現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

 われはモナ・リザを恐る
 地上に放たれ
 ちまたに語り
 汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
 モナ・リザの不可思議は
 仮象に入りて美しく輝き
 咫尺に現じて痛ましく貴し
 選択の運命はすでにすでに余を棄てたり
 余は今もただ頭をたれて
 モナ・リザの美しき力を夢む
 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

光太郎にとっても、もう終わった恋だから、今さら現れるな、モナ・リザよ、ということでしょう。

その後のしまについては、杳として消息が知れませんでした。ところがそれがある程度つかめました。国立国会図書館さんのデジタルデータの活用によってです。同データには、何と職業別電話帳(現在の「タウンページ」)まで掲載されていて、しまの故郷・愛知県のそれの中で2件、しまの名を見つけました。

まず大正11年(1922)。
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こちらは「席貸業」となっています。「席貸業」は「遊興又は慰安の用に供するため」のものということで、おそらく遊郭でしょう。住所は「伝馬」で、この地名は現在も名古屋市熱田区に残っています。明治43年(1910)にここにあった公認の遊郭街が他の地区に移転したと記録にありましたが、非公認のいわゆる「青線」のような形で残った店もあったと思われます。

大正11年(1922)は、しまの吉原河内楼での年季が明けて12年後。しまは30代半ばから後半だった計算になります。いきなりそうした店の女主人となれるはずもなく、結局、名古屋に戻ってもその道に入り、それを終えて女主人に収まったのではないでしょうか。

それからさらに13年後の昭和10年(1935)にも。ただ、「席貸業」ではなく「料理店」の項でした。この頃にはまっとうな料理屋になっていたのかも知れません。
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ちなみに少し後に「太田ひさ」の名。これは確認出来ている限り日本人で唯一ロダンのモデルを務め、その件で光太郎のインタヴューも受けた元女優「花子」の本名です。ひさも引退後は料理店関係の仕事をしていましたが、ただ、住所が一致しません。同姓同名の別人でしょうか。

突き止められた「若太夫」こと、しまの消息はここまでですが、光太郎同様に戦後まで生き延び、不幸ではない晩年を送ったと思いたいところです。そして彫刻家・詩人として名を成した、かつての恋人・光太郎を遠くから見守っていたとも。

そんなこんなを『とんぼ』の今号に書きました。奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

お医者さんや皆さんの相談で今日退院することになり、夕方出かけるでせう。

昭和30年(1955)7月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、4月から赤坂山王病院に入院していましたが、結局は手の施しようがなく、再び中野のアトリエでの療養生活に入ります。

昨年もこの時期でしたが、箏曲奏者の元井美智子さんとヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのお二人がコラボなさる公演が、東北地方で4回開催されます。それぞれに「智恵子抄」が組み込まれています。

時系列順に、まず荒井さんのホームタウン・仙台で。

光太郎、賢治、箏と声 夏の朝

期 日 : 2025年7月22日(火)
会 場 : Antique & Cafe TiTi 宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中5-8
時 間 : 開場 10:30 開演 11:00
料 金 : 4,000円(ケーキセット付)

プログラム
 お箏の調べ(みだれ、操、耳なじみのある曲)
 高村光太郎「智恵子抄」より ~レモン哀歌、人類の泉など~
 宮沢賢治「よだかの星」など
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翌日には、光太郎第二の故郷・花巻で昼と夕方の2公演。

花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏 第一公演

期 日 : 2025年7月23日(水)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 無料
      (高村光太郎記念館入館料として大人350円 高校生・学生250円 小中学生150円)
主 催 : 高村光太郎連翹忌運営委員会

プログラム
 「智恵子抄」「智恵子抄その後」より 箏:産まれ出づる、さくらさくらなど

花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏 第二公演

期 日 : 2025年7月23日(水)
会 場 : カフェ羅須 岩手県花巻市豊沢町2-18
時 間 : 16:00~17:00
料 金 : 2,000円 1ドリンク付
主 催 : 高村光太郎連翹忌運営委員会

プログラム
 「智恵子抄」 よだかの星 星めぐりの歌など 箏:産まれ出づる、夜空へなど
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この花巻での2公演は、当会の「主催」ということになっています。当初は仙台でのそれを含めて全て「後援」のみの予定でしたが、花巻市さんとの交渉の結果、当会「主催」であれば、高村光太郎記念館さんでの公演を許可するということで、そうなると「嫌です」とは言えません(笑)。司会もやることになりました。

高村光太郎記念館さんでの公演のみ、『広報はなまき』で取り上げて下さっています。
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そしてまた仙台に戻り……

旅するお箏と智恵子抄

期 日 : 2025年7月25日(金)
会 場 : となりのえんがわ 宮城県仙台市宮城野区銀杏町4-29 宮城野納豆製造所敷地内
時 間 : 第1部 10:00~12:00 第2部 14:00~15:30
料 金 : 第1部・第2部通し 5,000円 第1部のみ 4,000円 第2部のみ 3,000円
定 員 : 第1部 8名様 第2部 20名様

プログラム
 第1部 ワークショップ 智恵子抄を朗読する~お箏の調べとともに
  智恵子抄の7篇の詩の中から1つ選択して、お箏の生演奏と共に朗読して頂きます。
  午後開催の第2部の中で、希望される方には発表して頂きます。
  朗読候補作品 樹下の二人/あどけない話/風にのる智恵子/レモン哀歌
         亡き人に/梅酒/荒涼たる帰宅
 第2部 コンサート 箏の調べと智恵子抄
  午前開催のワークショップ参加の方の発表の後、智恵子抄の世界をお箏の調べととも
  に……

  演目 みだれ、操、智恵子抄より
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一般の方々対象に朗読講座の講師もなさっている荒井さんですので、こちらはワークショップ形式だそうです。プロの箏曲演奏に乗せて朗読が出来る、ということで「気分いい!」ということになるのではないでしょうか。

なかなかパワフルなお二人で、先述の通り、昨年も仙台と花巻で3公演。当方は仙台の最終公演を拝聴に伺いました。花巻公演は地元紙でも紹介されています。

今年に入ってからも、4月末にはテルミン奏者の大西ようこさんを加えた三人娘(笑)で、二本松の智恵子生家座敷を舞台に、高村智恵子生誕祭関連行事として「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」。こちらも地元紙で報じられました

今回、それぞれ平日の開催ということで、どれだけお客様を集められるか少々心配なところもあります。ぜひぜひ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山は今うつくしい事でせう。カツコーももう鳴く頃でせう。小生はお医者さんのすすめに従ひ、今月は入院、療養のため只今静かに病院生活をして居ります。

昭和30年(1955)5月10日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎73歳

入院先の赤坂山王病院から送った、かつて暮らしていた花巻郊外旧太田村の長老格・駿河への書簡より。病床にあって思い起こすのは、太田村の豊かな自然だったようです。

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