11月10日(日)~18日(月)の日程で開催しました「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。

中野たてもの応援団さん主催で、当方も幹事に名を連ねています中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の協賛。保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展示でした。

地味な展示であまり宣伝も行き届かず、大盛況とは行きませんでしたが、それでもそれなりに多くの方にお越し頂き、有り難く存じました。会期中に『東京新聞』さんに取り上げていただいたのも大きかったようです。

個人的にも必死に宣伝しましたところ、旧知の皆さん、SNSで繋がっている方々などの御来臨を賜り、恐縮至極でした。また、新たに人脈を広げることもでき、嬉しい限りです。

関連行事として2本の講演が行われ、その模様がYouTubeに上がっています。SNSにはアップしましたが、こちらのサイトには出していなかったので、貼り付けておきます。

まず
11月10日(日)、劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」。



さらに、11月11日(月)、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。


アトリエ保存のための一石を投じたことになっていれば、と願っております。

また、来月には中野区役所新庁舎ロビーにおきまして、今回展示したもろもろのうち、解説パネルをセレクトしての展示が行われる方向です。また詳細が入りましたらご紹介致します。

【折々のことば・光太郎】

独学の人は自分免許が危険です、ひとりでいい気になってゐる事が怖いです、

昭和25年(1950)6月17日 多田政介宛書簡より 光太郎68歳

なるほど、肝に銘じます。

3件ご紹介します。

まず、過日ご紹介した浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024について、11月16日(土)の『読売新聞』さん。

【京の浄土宗・秋】照り映える紅葉心休めて

 古都の山々がようやく、彩りをまとい始めた。
 浄土宗総本山・知恩院(京都市東山区)は、紅葉の名所としても知られる。14日から夜間拝観が始まり、三門や御影堂、大鐘楼などが約800基のライトで照らされる。
 見どころのひとつが、女坂近くの友禅苑。京友禅の祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年に造園された1万2000平方メートルの庭園だ。
 入り口近くの 補陀落池(ふだらくいけ)の中央に高村光雲作の聖観音菩薩立像がたつ。周辺のイロハモミジは色づきが早く、燃えるような紅色が 水面みなも にも照り映える。あでやかさは息をのむほどだ。
 12月1日までの期間中、僧侶から話を聞いたり、念仏をとなえたりする体験などもある。深まりつつある秋に、心を休めるひとときが味わえる。
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画像の美しさが際立っていますね。

彫刻つながりでもう1件、同じく11月16日(土)の『朝日新聞』さん土曜版。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載です。

マイ走馬灯 千本日活とヌー銅たち

 「これから京都に行く人にお勧めの場所はどこですか?」
 と今まで何度も聞かれ、その都度、グッとくる仏像のおられるお寺を紹介してきたが、「お寺以外で」と言われると大変困るのだ。
 京都で生まれ育ち、18歳の夏までいたことは確かだけど、僕はみんなが喜びそうな所をほとんど知らない。それでもしつこく聞かれた時は「あくまで僕にとっての思い出深い場所ですよ」と断りを入れてから答えるのが、西陣千本と呼ばれている地帯なのだが、そこにある『千本日活』という映画館にはよくお世話になった。まるで時が止まったようなそのノスタルジックな建物は今でも健在。一見の価値ありと思うのだが、また「それ以外で何か?」と、問われてしまうのがオチだ。
 その路地にひしめく銅像は、右から“サックスを吹くヌー銅”、“ブラウスだけ羽織ったヌー銅”、“十和田湖のツイン・ヌー銅”と、ヌー石“ダビデ像”。そして左右下は映画『少林寺木人拳』の木製のカラクリ人形。そして夕焼け空には、やっぱ『ウルトラセブン』のメトロン星人がよく似合う。

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ヌー銅」、笑えます。

最後は『陸奥新報』さん、11月18日(月)の掲載分。

一流書家の筆の使い方に高校生「すごい」

 日本書道文化協会による書家の高校派遣事業が16日、弘前高校で行われた。現代の言葉を漢字仮名交じりで書く「近代詩文書」の講習が行われ、同校書道部の部員19人が書家の金子大蔵さんら講師に手本を書いてもらい、添削やアドバイスを受けた。
 同事業は日本の書道のユネスコ無形文化遺産登録に向け、若手の育成を目的として同協会が行っている。同校では初めてで、県内で2校目となった。
 金子さんは同協会会員で、日展準役員、毎日展審査会員、創玄展一科審査会員を務めている。今年7月には最年少50歳で第75回毎日書道展文部科学大臣賞を受賞。祖父は「近代詩文書の父」と言われる鷗亭さん、父は毎日芸術賞を受賞した卓義さんと、親子3代にわたって書道に携わっている。
 同日は金子さんの席上揮毫(きごう)から始まった。「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」という高村光太郎の詩の一節で、同校の求める人物像でもある言葉をしたため、部員らは一流の書家の揮毫から学びを得ようと熱心に金子さんの手元を見たり、動画を撮ったりした。
 その後2、3年生は金子さん、1年生は助講師で同校OGの今和希子さんにそれぞれ手本を書いてもらって作品制作を行い、金子さんらは部員らが書いた作品の添削や講評を行った。
 部長の小山内実優さん(2年)は「筆の使い方やかすれの出し方がすごかった。言葉の意味に合わせて字の太さや大きさを自在に変えていて、いつもとは違う表現を見ることができた」と語った。
 金子さんは「高校生がどういう言葉を選んで、どう表現したいのか、言葉と対話して一人一人の感性を想像しながら手本を書いた。普段習っている先生とは違う表現に触れることで刺激になって、表現の幅が広がるといいと思う」と期待を寄せた。
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書家の金子大蔵氏、光太郎詩の一節を大書した書を多数展示した「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」をやられたこともおありの方です。記事にあるお祖父様の故・金子鷗亭氏も光太郎詩を好んで取り上げられました。

今回、大蔵氏が書かれたのは、「少年に与ふ」(昭和12年=1937)の一節。全文はこちら

今後とも、彫刻に詩に、光雲や光太郎の作品が愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包拝受、何かしらと思ひましたら好物の食パンだつたので大いによろこびました。それも東京製の本格的な白パンなので早速晩餐に用ゐました、丁度小岩井のバタとオランダのチーズがありましたので、幾年かぶりで本当の洋食をいただきました、


昭和25年(1950)6月5日 小田島喜兵衛宛書簡より 光太郎68歳

「食」がらみの内容なので、昨日ご紹介すべきでした。

主に「食」を通じ、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの最近のご活動を。

まずは
毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当光太郎ランチの今月分。やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられ、光太郎が実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされています。
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今月の献立は「タラフライ」「牛すき煮」「里芋の胡麻味噌和え」「ほうれんそうと菊花のおひたし」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「漬物」「さつまいも甘煮りんごキャラメルリゼ添え」だそうで。

いつもながらにボリューミーですし、サツマイモやら林檎やら、当方の好物も多く、これはぜひ食べたい感じでした。

続いて、
市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでのこうたろうカフェこちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。

やつかの森さん、来週11月27日(水)に出店なさり、メニューは以下の通りです。

・ウエルカムドリンク ~ブルーベリースカッシュ~
・ローストポーク ~ブルーベリーソース~
・大根の海老あん024023
・春菊と水菜の胡麻和え
・里芋の胡桃かけ
・キクラゲの佃煮
・お新香
・みずの実ごはん
・ふわふわ天使のスープ
・林檎パイカスタード
・コーヒー

ところで、上記情報と共に、光太郎が戦後七年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)周辺の最近の様子を画像でお送り下さいましたので、転載します。ようやく紅葉が見頃だそうで。
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最後の大きい画像は光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルに鋳造して嵌め込んだ詩碑です。

しかし、ようやく紅葉が見頃といいつつ、既に初雪も観測されているそうで、これも温暖化の影響でしょうか、秋が短い感じですね。

この季節も乙なものです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、


昭和25年(1950)6月5日 斎藤充司宛書簡より 光太郎68歳

齋藤充司は大正11年(1923)、岩手生まれ。花巻の隣の黒沢尻在住で、兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。この年3月に黒沢尻で行われた光太郎の講演の筆記なども残しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。

おそらくこの書簡にある「写真」と同一の写真が、智恵子の故郷・二本松岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんに現存します。
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『朝日新聞』さんでは一面トップでした。谷川俊太郎氏の訃報。
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共同通信さん配信記事から。

詩人の谷川俊太郎さん死去 「二十億光年の孤独」

013 親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男賢作(けんさく)さん。
 父は哲学者谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。
 詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。
 他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。
 翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。

光太郎から谷川氏宛の書簡が1通、確認出来ています。
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“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、 今少しからだを痛めてゐるので猶更よむのにいいです。

昭和28年(1953)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作のため中野に借りていた中西利雄アトリエから発信されたもので、氏の第二詩集『62のソネット』受贈礼状です。

この書簡、『高村光太郎全集』には洩れていたもので、『特装版現代史読本 谷川俊太郎のコスモロジー』(平成元年=1989 思潮社)中の「資料 2 献本のお礼状より2 『六十二のソネット』」に掲載されていました。
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その情報を得てこの書籍を入手、その後、この『62のソネット』が花巻に現存という情報もつかみました。

昭和46年(1971)に島根大学の広瀬朝光教授がまとめた、光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)及び旧高村記念館所蔵の光太郎蔵書のリストに『62のソネット』が載っていました。谷川氏による「高村光太郎様 谷川俊太郎」の識語が書き込まれているとのことでした。さらに昭和27年(1952)の第一詩集『二十億光年の孤独』、同30年(1955)刊行の第三詩集『愛について』も同様に献呈署名が書かれたものがあったそうです。光太郎の遺品や蔵書類の多くは、光太郎没後に中野のアトリエから花巻に寄贈されました。その中にちゃんと残っていたのですね。

そこで、『62のソネット』以外の光太郎からの受贈礼状がお手許にないかどうか、谷川氏に問い合わせてみました。

すると、ほどなく氏から直筆のご返信。
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残念ながら他には無い、とのこと。しかし、一筆箋一枚の短いものですが、氏の直筆ということで「家宝」レベルです。

光太郎からの礼状は、平成28年(2016)に静岡三島の大岡信ことば館さんで開催された「谷川俊太郎展・本当の事を云おうか・」、同30年(2018)に東京オペラシティアートギャラリーさんでの「谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro」で展示され、それぞれ拝見して参りました。

この書簡を含め、『高村光太郎全集』には氏のお名前は出て来ませんが、お父さまの徹三氏と光太郎は宮澤賢治がらみで交流があり、徹三氏の名は2回出て来ます。

さて、各種メディアにいろいろ出た氏の訃報や追悼記事等の中で、『読売新聞』さんに出たものの中に、氏のお言葉で光太郎に触れたものが引用されていました。

「僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれる」…谷川俊太郎さん92歳で死去

 戦後の日本の詩を牽引してきた谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが92歳で死去し、国内外の多くの読者の間で悲しみが広がっている。「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など、70年以上にわたって親しみやすく柔らかな作品を発表してきた。
  新潮社などによると、谷川さんは13日午後10時5分、老衰のため東京都内の病院で死去した。葬儀は近親者で済ませた。
 谷川さんは東京生まれ。1952年、20歳の時、詩集「二十億光年の孤独」を出版した。「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」などのフレーズに代表される詩は、終戦の傷痕が残る時代に、宇宙的な感覚と生きる喜びを表現した作品として高く評価された。
 大岡信、茨木のり子らと詩誌「櫂」に参加。戦争の時代を踏まえた硬質な作品が目立つ戦後詩壇の中で、みずみずしい感性を持つ新しい世代の詩人として注目された。
 作詞や翻訳など様々な分野でも活躍。アニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけ、犬のスヌーピーが登場する米国の人気漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳を続けた。「朝のリレー」の詩は国語教科書やテレビCMに採用された。
 93年「世間知ラズ」で第1回萩原朔太郎賞、2010年「トロムソコラージュ」で第1回鮎川信夫賞を受賞。世界20か国語以上に詩などが翻訳された功績がたたえられ、19年に国際交流基金賞が贈られた。
 詩人のねじめ正一さん(76)は「詩のグラウンドを広く使えた人で、谷川さんに袋小路はなかった。(戦争体験者を中心とした)『荒地』派が身構えながら硬質な言葉を繰り出したのに対して、柔らかく分かりやすい言葉で難しいことを伝えることができた人だった」としのんだ。

「詩を書くしか能がないんです」
 口にした言葉がそのまま、詩になる人だった。
 2019年11月に行われた国際交流基金賞の授賞式。車いすで記者会見の場に現れた谷川さんは、詩を70年書き続けた感想を聞かれ、「うんざりしてますけどね……。詩を書くしか能がないんです」と周囲を笑わせた。
 「僕は権威になるのが嫌。できれば道化役みたいになりたい」と穏やかに語り、「人間の成長を木の年輪にたとえると、中心に生まれた自分がいて、3歳、5歳と周りに年輪ができ、最後の年輪が今の自分。自分の中に常に幼児である自分もいる」。みずみずしい詩を生み続ける秘密を明かした。
  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である
  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う
 「二十億光年の孤独」は1950年、18歳の若さで文芸誌に発表した。一人っ子で大切に育てられた幼年時代、軽井沢の別荘で見た満天の星などを想像させる。戦争の傷痕が残る時代、清新な詩は多くの人に受け入れられた。
 でも、谷川さんはどんな自分の言葉も勝手に心から離れ、詩になってしまう 哀かな しみを抱えた人のようにも見えた。
 <何ひとつ書く事はない(略)本当の事を 云い おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない>。65年に発表した詩「鳥羽」の一節だ。詩人は言葉を超えた、本当の人の魂との触れ合いや 詩情ポエジー を求めてさまよった。家庭生活のうえでは3度の離婚を重ねた。「高村光太郎は智恵子を狂わせ、中原中也は女性トラブルを経験した。詩的な生き方を貫くと、世間とどうしてもぶつかってしまう」と言った。
 ひらがなの詩、定型詩、極端に短い詩。様々な技法を試した。本当の詩を探す旅を続け、90歳を超えておむつをつけるようになった自分もまた詩に詠んだ。
  これを身につけるのは
  九十年ぶりだから
  違和感があるかと思ったら
  かえってそこはかとない
  懐かしさが蘇ったのは意外だった (「これ」より)
 書いた詩は、発表しただけで2500編以上といわれる。「最近、宇宙は目に見えない、ビッグバンのエネルギーに満ちているように見えてきた。僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれると思う」
 その詩は、日本語の夜空に永遠に瞬き続けるはずだ。

恋多き人だった氏の側面が見て取れますね。

他にも、光太郎と交流が深かった永瀬清子の顕彰にも関わられたり、当会の祖・草野心平の葬儀に際して弔辞として追悼詩を贈られたりと、いろいろご縁を感じる方でした。

ちなみに心平の追悼詩はこちら。

   ●(巨きなピリオド)003
 
 ミスタア・クサアノ
 本格的に
              ●
 始めたミスタア・クサアノ

 「文化なんてなくたっていいじゃないか」
 とあなたは言って

 富士山は今日も
 ギギギギギギギギ。
 ギッ。
 ただあるだけである。

 けれど蛙は鳴き続けています
 白いページの田んぼで
 おかげで意味ありげな奴らの
 うるさい喚き声を聞かずにすむ

 ありがとう心平さん
 笑顔ありがとう
 声ありがとう
 あなたという骨と肉ありがとう
 僕が女だったら
 きっと一度はひとつ寝床に入っていた
 無理矢理にでも

 かたむく天に。
 鉤の月。

 るるり。
 るるり。
   りりり。

 僕もいつか
 死んだら死んだで生きてゆきます。


        一九八八年十一月二十八日

最終連は、心平詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」中の「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という一節へのオマージュです。その「いつか」がとうとう来てしまったんだなぁ、という感じです。

しかし、氏の肉体は「死んだ」としても、その精神や業績は、これからも多くの人々の中に「生きて」ゆくのだと思います。合掌。

【折々のことば・光太郎】

十二日に東京から早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏外一名来訪、その時の話に、草野心平氏は受賞後急逝されたといはれたので、大いに驚き、どう思つていいのか迷つてゐたのでした。あまりハツキリ二人の人がいふので気味わろく思ひました、おハガキが届いて誤聞確認、大安心。


昭和25年(1950)6月17日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏」は、のちに「あゝ野麦峠」で有名になります。心平急逝と、とんでもないデマをもたらしたものですね。

まぁ、光太郎の死亡説もたびたび誤報として流れていたようですが。

テレビ放映情報です。

まず、光太郎には触れられないかも知れませんが……。

歴史探偵 宮沢賢治と銀河鉄道の夜

地上波NHK総合 2024年11月20日(水) 22:00〜22:45

宮崎駿監督や米津玄師など、現代のアーティストにも多大な影響を与え続ける宮沢賢治。私たちは、代表作「銀河鉄道の夜」の世界をCGで再現、その物語の魅力を徹底調査した。見えてきたのは、当時最先端の科学知識を取り込みながら、今に通じる、深いテーマを物語に織り込む賢治の類まれな力。今回そんな賢治の作品を、声優の梶裕貴(宮沢賢治役)と鬼頭明里(妹トシ役)が朗読する。賢治の深遠なる世界に浸れる45分はいかが?

【司会】佐藤二朗,片山千恵子 【出演】文教大学教授…大島丈志
【リポーター】近田雄一    【朗読】梶裕貴,鬼頭明里

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説明欄にお名前がありませんが、画像を見ると国立天文台上席教授にして、大河ドラマ「光る君へ」で陰陽道がらみの部分の監修もされている渡部潤一氏もビデオ出演されるようです。

賢治没後、その作品を世に広めた一人が光太郎だったというあたり、ちらっとでも触れていただけるとありがたいのですが……。

もう1件、再放送ですが、こちらは光太郎に触れられます。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2024年11月22日(金) 12:29〜13:25

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、田中幸太朗、佐久間良子、星野真里、吹越満ほか

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故・内田康夫氏ご執筆の浅見光彦シリーズ中、光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986)を原作としています。ただ、物語の舞台が原作では智恵子の故郷・福島二本松や島根だったのに対し、なぜか標題の通り草津と軽井沢に変更されています。今一つその意図が見えなかったのですが、いろいろ大人の事情があったのでしょう。

ともかくも、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「蛙」がよみうりの文学賞といふものになつた由、威勢よく賞金をくれれば何でも結構です、日本のは何でも賞金がけちなので役に立ちません、その点ノーベル賞は合理的です、


昭和25年6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

この年始まった読売文学賞。その栄えある第一回の受賞が、当会の祖・草野心平の詩集「蛙」に決まり、そのお祝いの書簡から。

翌年の第二回は、光太郎がこの年出版する詩集『典型』に与えられます。光太郎、「けち」と言っていた賞金をそっくり在住していた花巻郊外太田村の山口小学校などに寄附してしまいます。ある意味、豪快ですね。

中野区で開催、そして今日閉幕の、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にスタッフとして毎日詰めておりまして、昨日は午前中の当番を終え、北鎌倉に向かいました。

光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」を拝観。

一昨年から関連行事として朗読会が催されるようになり、一昨年昨年はその日に合わせて伺っていたのですが、今年はアトリエ展の搬入・会場設営の日とかぶってしまい、その後もいろいろあって昨日になって漸くお邪魔した次第です。
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こちらに伝わる光太郎がらみの品々、そしてすぐお近くにお住まいの尾崎喜八令孫・石黒敦彦氏がお持ちの品々で、光太郎と尾崎喜八の一家との交流の様子などを展示。
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基本、カフェですので、同じ空間でお客さんが普通に珈琲を召し上がっています。
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そのかたわらにとんでもなく貴重なものが並んでいて、毎年のことながら不思議な感じです。

特に貴重なのが、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)。光太郎オリジナルではなく、ミケランジェロ作品の模刻ですが、おそらくこの一点しか鋳造されていませんし、石膏原型の現存が確認できていません。一点物です。尾崎夫妻の結婚祝いにと贈られた物。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女でした。
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当初予定では11月26日(火)まででしたが、会場の都合により明日までに変更になってしまいました。その日程変更の件もご紹介が遅れまして、申し訳なく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい音楽が流れるなかで心ゆくばかり踊る法悦を小生も想像出来るやうな気がします、


昭和25年(1950)6月2日(日) 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、前年、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを開催、この年、再演が為されるということで、その報せに対する返信です。

9月末に刊行されたもの。どちらかというと小学生向けとして編まれた書籍なのでしょうが、豆知識満載で唸らされました。

日本のことばずかん いきもの

発行日 : 2024年9月27日
著者等 : 神永曉監修
版 元 : 講談社
定 価 : 2,500円+税

和歌や文学作品に登場する「いきもの」にまつわる美しい日本語に名画や浮世絵、美しい写真などが添えられた、子どものことばの力を育てるシリーズの6作目を刊行します。監修は国語辞典のレジェンド、37年間、辞書編集一筋の神永曉氏。

6作目のテーマは「いきもの」、つまり動物や鳥、虫にまつわる言葉。日本人がいきものを慈しみながら育んできた言葉の世界をその言葉のイメージをさらに広げる、絵画や写真など美しいビジュアルと合わせてご紹介することばのずかん。

言葉を獲得することは、表現する力を大きく広げることにもつながります。「そら」「いろ」「かず」「はな」「あじ」につづくシリーズ6作目。

目次
 この本の使い方
 きせつといきもの〈春〉 春駒001
 きせつといきもの〈夏〉 ほたるがり
 春のいきものをよんだ歌や俳句
 夏のいきものをよんだ俳句
 物語とねこ ねこかわいがり
 物語にえがかれたねこ
 いきものオノマトペ びょうびょう
 いきものの昔のオノマトペ
 なんの虫かな? 虫がつく漢字
 いきものの数え方 匹
 いきものを数えることば
 きせつといきもの〈秋〉 わたり鳥
 きせつといきもの〈冬〉 冬ごもり
 秋のいきものをよんだ歌や俳句
 冬のいきものをよんだ歌や俳句
 いきものの形やもよう くま手
 いきものの形やもように注目!
 想ぞうのいきもの しし
 想ぞうから生まれたいきもの
 いろいろないきものの話
  ねがいがこめられた十二支のいきもの
 鳥の別名 春告鳥
 身近な鳥のもうひとつの名前
 いきもののことわざ 井の中のかわず
 いきもののことわざ・慣用句

この本では、「いきもの」にかかわることばと、それにかんする写真や絵画を一〇〇いじょう、しょうかいしています」だそうで、オールカラー約50ページで、ぜいたくに美術作品や古典文学等の画像、四季折々の写真などを使いながら、さらに文学作品の一節等もふんだんに引用。そして古き良き美しき日本語の数々がしっかりと解説されています。

いきなり最初の方に、「きせつといきもの〈春〉 春駒」。光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節が大きく使われています。11月13日(水)付けで版元の講談社さんサイトに出た花森リド氏のブックレビューでその件にふれられ、知った次第です。
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009「春駒」、一般的な国語辞典レベルでは見出し語として載っていませんが、さすがに『広辞苑』には項目が立てられていました。

詩「春駒」は①の意味でこの語を使っていますが、④のニュアンスも込められているかも知れません。親友だった水野葉舟が移り住んだ成田の三里塚御料牧場を訪れ、「春駒」の姿を見て書かれた詩であると同時に、新生活を始めた葉舟や自分の姿をそこに投影もしているかな、と。

それにしても『広辞苑』レベルの語をズドンと持ってくるあたり、小学生向けといいつつ、妥協しない姿勢が見て取れて好感が持てます。

他にも、各ページ、「へー」「なるほど」の連続でした。よくある早速明日、誰かに教えたくなるトリビア的豆知識のような。また、こういう美しい日本語を過去のものとして滅ぼしてはいかんな、とも思いました。

そして、先述の通り、ぜいたくに美術作品の画像が使われていますので、見ていて心安らぎます。

表紙からして伊藤若冲。本文中には小林清親、円山応挙、竹内栖鳳、狩野永徳、歌川芳虎、歌川広重、「鳥獣戯画」、そして東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治など。
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いいですね、藤田の猫。

それ以外の箇所も、現在、空前の猫ブームだそうで、猫が目立ちます。
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ちなみにこれで6巻目となった「いきものずかん」シリーズとしての内容見本というか、フライヤーというかも挟まっていました。
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他の巻でも光太郎が扱われていたりするのでしょうか? 大きめの書店で調べてみます。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のこの小屋の光線では三、四寸以上の大きさの彫刻を作ることは無理だと思ひます、それでもこの夏には蟬を一匹作るつもりでゐます、出来れば赤蛙も作りたいです、小鳥がいいのですがこれは中々つかまりません、東京ではいつも小鳥屋で求めましたが、ほんとは山の鳥の方がいいわけです、今はカツコオ、ホトトギスが来て鳴きます、カツコオには近寄れますが、ホトトギスには中々近寄れません、どちらも姿のいい鳥です、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

詩でもそうでしたが、光太郎、彫刻でもさまざまな「いきもの」をモチーフにしていました。「自然」の造型美ということに打たれていたのでしょう。

春と秋、年2回恒例のイベントの「秋」編です。一昨日には始まっていました。

浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024

期 間 : 2024年11月14日(木)~12月1日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『縁に導かれて』
 開始時間:18:00~/18:45~/19:30~/20:15~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)

月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:水・土・日・祝日
 開始時間:18:00~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。
 料金は拝観受付にて現金でお支払いください。

フォトコンテスト
 応募締切:12月4日 (期間中は何度でも投稿が可能です)
 12月中旬に入賞者を知恩院ホームページ、各SNSにて発表!

ライトアップ同時開催企画展示
 『夢中 伝承の川』 11月22日(金) ~ 11月24日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  林 侑子(陶芸家)、REKAO(千代紙)
  京焼・清水焼、友禅和紙 ともに長く受け継がれてきた京都の伝統工芸、
  やきものと和紙が作り出す今の工芸の"二祖対面"。
  孔雀や川をモチーフに表現した作品を展示します。
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を朱印所にて販売します。

 『吉田瑞希×中川彩河 二人展』 11月29日(金) ~ 12月1日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  吉田瑞希(陶芸家)
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、
   屋根に佇む魔除けの神様を中心に展示します。
  中川彩河(書道家)
   例年好評の『新年をことほぐ干支色紙』など日常に楽しめる書作品を中心に展示。
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当会としては、光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校として請け負ったブロンズ露座の「聖観音像」のライトアップが推しです。一昨年には、たまたまこの時期にお友達と京都旅行に行った妻に写真を撮ってきて貰いました。

その他、関連行事等も充実。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家はどうしても光線に神経を左右せられがちです、ロダンの彫刻なども光線によつて見違へるやうに変ります。ロダンがバルザツク像は月光の下で見てくれなどとぜいたくな事をいつてゐるのもそのせゐでせう、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

人工的な光ではありますが、紅葉をバックに浮かび上がる観音像、幻想的なヴィジュアルでしょう。

保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、折り返しを過ぎまして、今日を含めてあと4日となりました。

初日(11月10日(日))には関連行事としまして、
劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー

その翌日、11月11日(月)には、
建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
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内田氏は主にアトリエ設計者である建築家・山口文象に関して。

伊郷氏は施主だった水彩画家・中西利雄と、完成したアトリエについて。
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山口と中西利雄に関しては、当方もあまり詳しくありませんので、実に参考になりました。

下記は展示されているパネルをプリントアウトしたもの。
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展示と言えば、アトリエに関しては詳細な図面等も展示してあります。
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模型も。
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渡辺えりさんとお父さまの光太郎や中西アトリエに関するコーナーも新設しました。
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昨日の『東京新聞』さん。

「存続危機のアトリエ知って」 中野で企画展 18日まで 高村光太郎も晩年滞在

 中野区内に点在するアトリエ建築を紹介する企画展「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が、中野ZERO西館2階の美術ギャラリー(中野2)で開かれている。18日まで。
 中野には、戦前から若い芸術家らが豊かな風景を求めて移り住み、制作活動の場として多くのアトリエが建てられた。企画展は、アトリエの記録を残そうと、区内で歴史的建造物の保存や調査活動をする市民団体「中野たてもの応援団」が集めた資料など50点を展示する。2019年に続き2回目。
 区内に残る十数ヶ所のアトリエをパネル形式で紹介。中でも大正から昭和に活躍した洋画家で「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西利雄(1900〜48年)のアトリエ(中野3)については、写真や図面、模型なども展示して詳しく解説している。
 中西のアトリエは、一方向に傾斜する片流れ屋根の木造一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に大きな窓があるのが特徴だ。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が晩年の3年半滞在し、代表作「乙女の像」の塑像を制作した。光太郎をしのぶことができる建築は都内では中西アトリエが唯一とされ、貴重な建築という。光太郎の手紙やデッサンなども並ぶ。
 同団事務局の十川(そがわ)百合子さんは「中西アトリエをはじめ多くのアトリエが所有者が亡くなるなどして存続の危機にある。今も街の中に残るアトリエをギャラリーなどとして活用できたら」と話している。
 入場無料。午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)。会場では中西アトリエ保存を求める署名も受け付けている。

無題2無題
昨日、といえば、中野区長さんもいらっしゃいました。
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11月18日(月)まで。通常、18:00までですが、最終日は撤収作業のため公開は16:00で打ち切ります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

イサム ノグチ氏来朝の由で愉快ですがやはり小生は東京へ行けさうもありません。同氏のオブジエは立派だと思ひます。


昭和25年(1950)5月29日 笹村草家人宛書簡より 光太郎68歳

彫刻家イサム・ノグチは、明治37年(1904)、詩人にして英文学者の野口米次郎と、アメリカ人作家レオニー・ギルモアとの間に、アメリカロサンゼルスで生まれました。父は光太郎とも交流があり、後年、ノグチ自身も光太郎の知遇を得ることとなりました。

3歳の時に来日し、幼少期を日本で過ごし、造型作家となることを夢見るようになって、14歳で再渡米、周囲の勧めもあり彫刻の道へと進みます。かつて光太郎が留学中にその助手を務めた彫刻家ガットソン・ボーグラムに弟子入りするも、そりが合わず訣別して独立。パリに留学してコンスタンティン・ブランクーシに師事。その後はニューヨークに拠点を置きつつ、日本を訪れて陶芸を学ぶなどしました。太平洋戦争開戦後は日系人ということで収容所生活も経験。スパイや二重スパイの嫌疑をかけられ、多大な苦労をしたとのこと。

戦後、昭和25年(1950)に再来日し、同36年(1961)まで日本に滞在。その間、李香蘭こと山口淑子と結婚、一時、中西アトリエを借りて彫刻制作を行いました。彫刻以外にもアメリカ時代からインテリアデザインに興味を持ち、日本で丹下健三、谷口吉郎らの建築家と親しく交わって、庭園設計なども行った他、採用されなかったものの広島の原爆慰霊碑の設計にも取り組みます。また、中西アトリエを出て鎌倉に移り、北大路魯山人に陶芸を学んだりもしています。

その後に光太郎が中西アトリエを借りたわけです。

うまいこと考えるもんだな、と感心しました。

【米津玄師と文学】フェア『LOST CORNER』

期 日 : 2024年10月9日(水)~11月17日(日)
会 場 : 紀伊國屋書店横浜店 横浜市西区高島2-18-1そごう横浜店7F
時 間 : 10:00〜20:00
料 金 : 無料

『LOST CORNER』でまた素晴らしい音楽世界を披露してくれた米津さん。米津作品の大きな魅力の一つである豊かな言葉の世界をより深く理解するためのフェアを始めました!店長+横浜地区の米津ファンスタッフによる熱いPOPとともに展開しています!
入口入って右奥の棚にて。
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フェア書目
新編宮沢賢治詩集 新潮文庫 (改版) 宮沢賢治、天沢退二郎/新潮社
新編 銀河鉄道の夜 新潮文庫 宮沢賢治/新潮社
山椒魚 新潮文庫 井伏鱒二/新潮社
厄除け詩集 講談社文芸文庫 井伏鱒二/講談社
茨木のり子詩集 岩波文庫 茨木のり子、谷川俊太郎/岩波書店
詩のこころを読む 岩波ジュニア新書 茨木のり子/岩波書店
一握の砂/悲しき玩具 ― 石川啄木歌集 新潮文庫 (改版) 
 石川啄木、金田一京助/新潮社
中原中也詩集 新潮文庫 中原中也、吉田熈生/新潮社
二十億光年の孤独―Two Billion Light‐Years of Solitude 集英社文庫 
 谷川俊太郎、ウィリアム・I.エリオット/集英社
山頭火句集 ちくま文庫 種田山頭火、村上護/筑摩書房
三四郎 新潮文庫 夏目漱石/新潮社
パリの砂漠、東京の蜃気楼 集英社文庫 金原ひとみ/集英社
君のクイズ 小川哲/朝日新聞出版
みどりいせき 大田ステファニー歓人/集英社
アンソロジー 死神 角川ソフィア文庫 東雅夫/KADOKAWA
わたしを離さないで ハヤカワepi文庫 カズオ・イシグロ、土屋政雄/早川書房
日々の泡 新潮文庫 ボリス・ヴィアン、曽根元吉/新潮社
うたかたの日々 光文社古典新訳文庫 ボリス・ヴィアン、野崎歓/光文社
ブレーメンの音楽師―グリム童話〈3〉 新潮文庫
 ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム/新潮社
不思議の国のアリス 新潮文庫 ルイス・キャロル、矢川澄子/新潮社
マザー・グース 〈1〉 講談社文庫 谷川俊太郎、和田誠(イラストレーター)/講談社
デューン 砂の惑星〈上〉〈中〉〈下〉 ハヤカワ文庫SF
 フランク・ハーバート、酒井昭伸/早川書房
海からの贈物 新潮文庫 (改版)
 アン・モロー・リンドバーグ、吉田健一(英文学)/新潮社
風の谷のナウシカ(7巻セット)
 ― トルメキア戦役バージョン アニメージュコミックスワイド版
海獣の子供 〈1〉~〈5〉 IKKI COMIX 五十嵐大介/小学館
うろんな客 エドワード・ゴーリー、柴田元幸/河出書房新社
エドワード・ゴーリーの世界 濱中利信、柴田元幸/河出書房新社
外科室・天守物語 新潮文庫 泉鏡花/新潮社
永遠も半ばを過ぎて 文春文庫 中島らも/文藝春秋
我が愛する詩人の伝記 講談社文芸文庫 室生犀星/講談社
文学部唯野教授 岩波現代文庫 筒井康隆/岩波書店
死について考える 知恵の森文庫 遠藤周作/光文社
歌うクジラ〈上〉〈下〉 講談社文庫 村上龍/講談社
人間の土地 新潮文庫 (改版) サン・テグジュペリ、堀口大学/新潮社
人間の大地 光文社古典新訳文庫 サン・テグジュペリ、渋谷豊/光文社
智恵子抄 新潮文庫 (改版) 高村光太郎/新潮社
ヴァルター・ベンヤミン―闇を歩く批評 岩波新書 柿木伸之/岩波書店
クレーの天使 パウル・クレー、谷川俊太郎/講談社
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ご存じ米津玄師さんが、楽曲のモチーフになさったり、インスパイアの元となったりした作品を含むであろう書籍をまとめて販売するというコンセプト。単体でボンと置いておいてもそれほど売れ筋とは言えないものも、こうすることによって相乗効果と言いましょうか、付加価値と言いましょうか、そういうものが生まれて売れて行く、と。

平成30年(2018)のヒット曲「lemon」がらみで光太郎の『智恵子抄』新潮文庫版も入れていただいています。当初はラインナップに外れていたのですが、先月末に新たに組み込まれました。
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CDリリース前に、音楽チャート・Billboard(ビルボード)の日本公式サイト「Billboard JAPAN」さんに載ったインタビュー

--米津さんは文学もお好きだと思うんですけど、私はタイトルを見たときに梶井基次郎の『檸檬』が頭をよぎりました。
米津玄師:確かに「レモン」って文学的なニュアンスがあるとは思ってて。他にも高村光太郎の『智恵子抄』(「レモン哀歌」)とか。そういうものからレモンが無意識的に自分の頭の中にはあって、そこから出てきたっていう面はあるかもしれないです。

行かれた方のSNS投稿等を見ると、各書籍につけられたポップが素晴らしいとの声多数。

「紙の書籍は売れない」「街の書店が危機」……さんざん聴かされていますが、努力次第でいくらでもこうした工夫が出来るはずですね。

ご紹介が遅れてしまいまして、会期あと僅かですが、ぜひ足をお運びの上、『智恵子抄』、お買い求めください。

【折々のことば・光太郎】

此の間澤田伊四郎さんが突然来訪、懇請されたので「智恵子抄その後」六篇と戦後の雑文とを一冊にまとめて出版することを承諾しました、


昭和25年(1950)5月29日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

52de0e93澤田伊四郎の龍星閣(オリジナル『智恵子抄』版元、前年に戦時の休業から復興)から『智恵子抄その後』が刊行されたのは11月。この年1月の雑誌『新女苑』に載った連作詩「智恵子抄その後」6篇を根幹に、それ以前の智恵子に関する詩「もしも智恵子が」「噴霧的な夢」(新潮文庫版『智恵子抄』にすべて収録)、智恵子に関わる散文をいくつか、あとは智恵子とは無関係な散文、詩で構成されています。函などには「詩集」と印刷されていますが、「詩文集」とすべきものです。

澤田にあてた、同書に関わる光太郎書簡等が澤田の故郷である秋田県小坂町に寄贈されています。

年に一度の研究発表会です。といっても、堅苦しいものでは全くありません。少人数で和気あいあいと、アットホームにやっています。

第67回高村光太郎研究会

期 日 : 2024年11月23日(土・祝)
会 場 : 文京シビックセンター 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円

発 表 : 「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」 熊谷健一氏
      「智恵子について、今思うこと」 大島裕子氏

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昨年の様子はこちら

今年は智恵子の故郷・福島二本松で活動されている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏のご発表。智恵子に少しウェイトが傾くかな、という感じです。

案内文書には「懇親会を取りやめます」とありますが、有志で勝手に行います(笑)。

会に入会なさらずとも、聴講のみ可。聴いてみて、これなら活動に加われそうだという方は入会なさって下さい。決して怪しい団体ではありません(笑)。ホワイト案件です――とか書くと却って疑われますね(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山ではまつたく今新緑の美しさ無類です、その上ツツジも満開、スミレ、イカリ草など色とりどりの花が地上に満ちて実に豪華な装ひです、 四十雀、うぐひす、クロツブミ、山鳩の声にめざめ、蛙の声にねむります。


昭和25年(1950)5月9日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

5月、岩手の山あいでも好季節を迎えました。これがもう少し暑くなると光太郎はほとんど活動停止になってしまうのですが(笑)。

テレビ放映情報です。

 又吉・せきしろのなにもしない散歩 #137

BSよしもと 2024年11月13日(水) 19:00~19:30
再放送 2024年11月15日(金) 16:00〜16:30


ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は福島県二本松市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? 観世寺、智恵子記念館 ほか。
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同番組、今年2月の第99回で、花巻の光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館をご訪問。
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記念館さんで「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作を詠んだ又吉氏の句。

 試作品さえも本物になる

他の彫刻から、せきしろ氏。
 
 彫刻見て語彙がない自分

山小屋内に入り、戦争責任への猛烈な反省の姿をしのんだせきしろ氏の句。

 自責自省が閉じこめられた小屋を見る

なるほど。

今度は智恵子生家と裏手の智恵子記念館ということで、予告が出て「よっしゃ‼」でした。

地味な番組ですが(当方の云うべきことでもありませんけれど(笑))、けたたましいバラエティー番組などに辟易されている方々、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ほんとに珍らしい珈琲やらいろいろのもの目うつりするやうです、このネツスルの珈琲を明朝いれるのがたのしみです。


昭和25年(1950)5月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

中原から届けられたさまざまな食料品等に対する礼状の一節。

今年の夏に、綾子令孫からこの書簡を含む光太郎から綾子宛の書簡、原稿類がごっそり寄贈されました。それをご寄贈なさった令孫、山小屋の中に残っていたネッスルのコーヒー粉の缶、おそらくこれがこの書簡にあるものだろうという説明を受け、感銘されたそうです。

昨日開幕した、保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱの関連行事として企画した、渡辺えりさんと当方によるトークショー的な講演会、「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。つつがなく終わりました。
10日講演会
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高村光太郎とは何者だ? というような話から、実際に生前の光太郎と交流がおありだった戦時中や戦後の御両親のお話、お父さまが連翹忌や花巻の高村祭にご参加下さったお話、ご自身も小さい頃から光太郎詩を子守唄代わりに聞かされて育ったお話、舞台やテレビで光太郎を取り上げたお話、そして中西利雄アトリエを受け継がれた子息・利一郎氏とのご交流、さらにはその中西利雄アトリエを保存していこうじゃないかというようなお話などなど。

当方はPCでスライドショーの操作をしながらだったので座らせていただきましたが、えりさんはスクリーンの前にずっと立ちっぱなしで熱く語られた約2時間でした。

聴かれた方にはおおむね好評だったようで、胸をなで下ろしております。

ところで、ここで書くべきかどうか……とも思ったのですが、書きます。

えりさん、お母さまがご危篤ということで、故郷の山形に帰ってらしたのですが昨日はこのイベントのために上京。そしてイベント終了後の20時38分、そのお母さまが亡くなったそうです。
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そのお母さまのお話もしていただきました。戦後の昭和25年(1950)11月、若かりしお母さまは蓄膿症の手術を受け、山形の病院に入院されていたそうです。すると、御結婚前だったお父さまが病院の窓から現れ「高村光太郎先生の講演会が山形でこれから開かれるから、聴きに行こう」と、お母さまを病院から半分無理矢理連れ出したとのこと。その講演自体は音響が良くなく、あまり聴き取れなかったそうですが、お母さまもお父さまの影響で、光太郎ファンとなられ、のちに還暦の祝の引き出物には光太郎の詩集『智恵子抄』を皆さんに配られたなどというお話も。

お母さまの最期に立ち会わせて上げられなかったという意味で、えりさんには誠に申し訳ないのですが、それでも、こうして御両親のお話をなさったその日に亡くなられたお母さま、先に逝かれたお父さまともども、きっとえりさんに「よくやった」とおっしゃって下さっているのでは、と思います。

以下は昨日のスライドショーからの画像。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

尚、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての講演会第二弾、建築家の内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が、本日18:30~で、アトリエ展会場のなかのZEROさんにて行われます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生明日花巻に出で、明後日役場の二階で美術講話をいたす事になつて居ります、地方に居りますとかやうの事も已むを得ぬ場合が時々ございます、


昭和25年(1950)5月12日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、自分は戦争責任を恥じての蟄居中なので、あまり人前に出るのは気が進まないという感じでしたが、その人品骨柄を慕う人々から「ぜひご講演を」という依頼は引きも切りませんでした。

光太郎が講演を行った当時の花巻町役場の建物、移築されて現存しています。
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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

都内から演劇公演の情報です。

劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄

期 日 : 2024年11月21日(木)~11月24日(日)
会 場 : 荻窪小劇場 東京都杉並区荻窪3-47-18 第五野村ビル1F
時 間 : 開場 13:30 開演 14:00
料 金 : 前売 一般4,000円 中高生2,000円  当日 一般4,500円 中高生2,000円

彫刻家であり詩人でもある、高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語『智恵子抄』を一人芝居でお届けします。

皆さまへ、高村光太郎「智恵子抄」との出逢いは、20代後半でした。 あの頃は人生が180度変わる出来事に襲われ、それ以来私は、人を信じる事が出来なくなりました。 トンネルの中を歩いているような数年を過ごしたある時、祖父の書斎で「智恵子抄」を見つけました。 何気なくパラパラと捲り、随筆「智恵子の半生」を読むうちに涙がとめどなく流れ嗚咽していました。 ようやく心の糧になるものに巡り会えた! そんな気持ちでした。それから毎日、智恵子抄を読むうちに、 光太郎 智恵子の生き様に涙し、また励まされ、胸をときめかせました。 稀有な愛の世界を一人でも多くの人に伝えたい。それが私の願いになっていきました。 地元富山では、10年前から一人芝居として「智恵子抄」を公演し好評を得て再演を重ねました。 もっと沢山の方に知って頂きたくて、東京公演を決定しました。

皆様のお越しを心よりお待ちしています♡

出 演 : 茶山千恵子
朗 読 : 一柳みる(劇団昴) 西山水木(下北澤姉妹社) 
      小飯塚貴世江(キヨエコーポレーション)

本編の前にゲストの朗読があります(15分) 宮崎春子 「紙絵のおもいで」
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富山県高岡市ご在住の茶山千恵子氏。地元で光太郎智恵子に関する市民講座講師を務められたり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたりと、精力的に活動されています。

今回の「一人芝居智恵子抄」は、令和元年(2019)に富山で上演されたものの再演のようです。

本編の前に、日替わりでゲストの方が朗読をなさるそうです。題目は宮崎春子「紙絵のおもいで」(昭和34年=1959)。春子は智恵子の姪にあたり、智恵子が昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院後、当時の一等看護婦の資格を持っていたことから、病院で一緒に生活する付き添いをしていました。そしてほとんど唯一、智恵子の紙絵制作の現場を目撃した人物です。
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春子は戦争が終わった昭和20年(1945)12月、光太郎の仲立ちで、光太郎と親交のあった茨城の詩人・宮崎稔と結婚しました。光太郎はそれ以前の同年始めに智恵子紙絵の約3分の1を宮崎家に疎開させており、上記は戦後になってそれを見る春子を写したショットです。

招待券を頂いてしまいまして、お邪魔します。ただ、日程調整がうまくゆかず最終日になっていまいますが。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の病状記を書いておいて下さる事は興味もあるし一般の参考にもなると思いひます、春子さんとお二人で協力されたら面白いとおもひます、 病状と一緒に切抜絵制作の実際をもみたまま書かれるやうにとおもひます、 今盛岡で切抜絵の展覧会をやつて居ます。末日頃小生も一寸見にゆくつもりでゐます。

昭和25年(1950)4月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

春子の夫・稔に宛てた書簡から。主に春子への聞き書きのような形で稔が智恵子の病状記録を残そうとしていたようですが、この時点ではそれは実現しませんでした。

盛岡での紙絵展は4月19日~30日、川徳画廊で開催されていました。宮崎家とは別に花巻の佐藤隆房宅に疎開させた紙絵の中からセレクトしてのものでした。

テレビ放映情報です。

日曜美術館「まなざしのヒント 埴輪」

地上波NHK Eテレ 2024年11月10日(日) 9:00~9:45  
         再放送 11月17日(日) 20:00~20:45 
  
美術の楽しみ方を展覧会場で実践的に学ぶ「まなざしのヒント」。今回のテーマは「埴輪」。現在東京国立博物館で開催中の展覧会には、「挂甲の武人」や「踊る人々」など誰もが一度は見たことのある名品が勢ぞろい。美術の視点で見る埴輪の魅力とは?学芸員の解説を聞きながら井浦新さん、片桐仁さんと一緒にじっくりと鑑賞します。さらに東京国立近代美術館で開催中の展覧会から、埴輪と日本人の深いつながりも紹介します。

出演者
【司会】坂本美雨 守本奈実  【出演】井浦新 片桐仁
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上野の東京国立博物館さんで開催中の「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」がメインのようですが、竹橋の東京国立近代美術館さんでの企画展「ハニワと土偶の近代」も取り上げられるようです。

トーハクさんの展示は国宝の「挂甲の武人」埴輪をはじめ、100体超の埴輪そのものがずらっと並んでいますが、MOMATさんの方は近現代に於ける社会史・美術史上での埴輪の受容のあり方をさぐるもの。コンセプトが異なります。

レポーター的に井浦新さんと片桐仁さん。井浦さんはかつて同番組の司会者でもあらせられ、当方も制作にご協力した平成25年(2013)の「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録の際にお目にかかりました。もう10年以上経つかという感じですが。

片桐さんも多摩美術大学さんのご出身で、アートには多摩美術大学さんのご出身で、アートに関して一家言お持ちです。令和3年(2021)に地上波TBSさん系で放映された「マツコの知らない世界」では、大阪御堂筋の光太郎作品「みちのく」(十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作)をご紹介下さいました。
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ついでですので「ハニワと土偶の近代」展に関し、『日本経済新聞』さんの記事。

「ハニワと土偶の近代」展 時代の願望を映す古代ブーム

 博物館や教科書で、誰もが見たことがあるだろう。日本の考古遺物のハニワと土偶。実はその造形美に光があてられるのは近代になってからのことだ。戦前・戦後の「古代ブーム」は何を映し出すのか。丹念に検証する展覧会が東京国立近代美術館で開催中だ。
 「ハニワと土偶の近代」展の企画者の1人、花井久穂・主任研究員は2019年に「土を掘り起こす」のテーマでコレクション展示を手掛けた。
 1950〜60年代の日本美術にハニワや土偶など考古遺物のモチーフが数多いことに着目。各地の発掘調査や戦後の復興の過程で数多く出土し、イサム・ノグチや岡本太郎らが再評価した背景を紹介した。戦後にフォーカスした前回展を、戦前、そして現代へと射程を広げたのが本展だ。
 一般の市民には長く忘れられていたハニワや土偶が、日本文化の象徴的存在となる。明治の近代化はそのきっかけの一つだった。
 天皇制の「万世一系」を重要視する明治政府が古墳の調査・発掘を推し進め、日清・日露戦争後の好況下、土地の開発も進み出土が相次ぐ。海外進出をもくろむ日本のイメージアップにも一役買った。10年にロンドンで開催された日英博覧会に関する資料が出品されている。考古遺物を紹介する日本のパビリオンの写真、そして博覧会を記念して発行されたグラフ誌。表紙には笑みを浮かべる巫女(みこ)のハニワと富士山が描かれている。
 12年に明治天皇が崩御すると、古墳にならった伏見桃山陵の築造が京都で始まる。千数百年途絶えていたハニワ作りも復活。彫刻家の吉田白嶺(はくれい)が陵に納める新作ハニワを手掛けた。京都の画家、都路(つじ)華香(かこう)も造営の進捗を伝える日々のニュースに触れていたろう。屛風画「埴輪」は古代の情景を題材にしつつ、現在進行形で起きていたブームの高揚感を伝える。
 戦前・戦中に、ハニワは仏教伝来以前の「純粋」な日本文化の造形ととらえられたという。「われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸(しつぼく)であり、直接自然から汲み取った美への満足であり、いかにも清らかである」(日本文学報国会の詩部会長を務めた高村光太郎)
 小学生向けの日本建国童話集、皇紀2600年を祝う記念塔の装飾、ハワイの真珠湾攻撃を描いた報国はがきの切手――。社会の隅々にそのイメージが浸透していたことがわかる。蕗谷(ふきや)虹児(こうじ)の「天兵神助」は、戦意高揚の目的で開催された航空美術展の出品作だ。古代の武具を身につけた武人が力尽きた航空兵をひざに抱く。古墳時代に墳墓を守る存在として作られたハニワが、「神国」日本の守護神としてよみがえった一例である。
 シンプルで素朴なハニワや土偶の美は、戦前から戦後を通して芸術家たちを魅了した。斎藤清、猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、石元泰博らモダニズムを代表する版画家、画家、彫刻家、写真家の作品が多数、出品されており見どころの一つだ。
 50年代から60年代に制作されたものが多いのには、様々な理由がありそうだ。55年に東京国立博物館で開かれた「メキシコ美術展」は、自国の古代文明や歴史に着想した当時のメキシコの現代美術を紹介。その力強い表現は、古事記を題材にした芥川(間所)紗織ら多くの芸術家を鼓舞した。
 ピカソやマティスがアフリカ美術などを参照したことで、原始の美への注目も高まっていたろう。ハニワの「たくまざる表現」に「世界性」を見いだし、「近代の最高の美」ではないかと猪熊弦一郎は称賛した。
 最終章はサブカルチャーへの広がりにも着目する。66年、武神が登場する映画「大魔神」シリーズ公開。80年代にはNHKの幼児番組「おーい!はに丸」で武人や馬のハニワのキャラクターが人気を博す。SF・オカルトの流行にも押され、「ゆるかわ」なマスコットキャラクターを好む国民に広く受け入れられた。
 対外的な日本のイメージの発信、民族意識や愛国精神の強化、モダニズムとの融合。ハニワや土偶のリバイバルには、それぞれの時代の理想や願望が託された。では幾たび目かの「古代ブーム」ともいわれる今、素朴な造形は何を映し出すのだろう。鋭い問いかけをはらむ意欲的な企画展だ。12月22日まで。
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番組内で、15年戦争時に光太郎が書いた「その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。」といったあたりが紹介されるかどうかというところですが、ぜひご覧下さい。

ところでテレビ番組ついでに、繰り返し放映されているものですが、以下もありますのでよろしく。

10min.ボックス現代文 道程(高村光太郎)

地上波NHK Eテレ 2024年11月13日(水) 06:00〜06:10

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を10分間でコンパクトに解説します。朗読は、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さんです。20年近く前に制作されましたが、最新の映像技術により、高画質のハイビジョン映像でお楽しみいただけます。今回は、高村光太郎の詩人としての代表作「道程」。詩の完成までの経緯を紹介するとともに、様々な人に、この詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらいます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年11月8日(金)  17:56〜19:00

「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行 「翼をください」紙ふうせん 「夜空」五木ひろし
「さざんかの宿」大川栄策 「ここに幸あり」大津美子 「逢いたくて逢いたくて」園まり
「演歌みち」松原のぶえ 「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子
「リンゴの花が咲いていた」佐々木新一 
「津軽恋女」新沼謙治
「北上夜曲」松平直樹 多摩幸子 「荒城の月」ボニージャックス
「智恵子抄」二代目コロムビアローズ 「相馬盆唄」大塚文雄 「大利根月夜」三山ひろし
「潮来育ち」古都清乃 「ミッキーマウス・マーチ」音羽ゆりかご会 「さんぽ」井上あずみ
「INORI〜祈り〜」クミコ 「また逢いませう」畠山みどり
「夜明けのメロディー」ペギー葉山 
「下町の太陽」倍賞千恵子
「あの街に生まれて」西田敏行 「北国の春」出演者全員

【折々のことば・光太郎】

中央公論社か創元社から小生の戦後詩集を単行本として出版する気になりました。

昭和25年(1950)4月18日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの詩を集めた選集的なものを除くと光太郎生前最後の詩集となった『典型』を指します。
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昭和22年(1947)に雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」を含み、戦時中の愚昧だった自己に対する反省、皇国史観からの脱却、世界的視野の獲得といった再生の姿が見て取れます。

以前にも書いた気がするのですが、この『典型』、奥付の発行日が10月25日となっています。遡って大正3年(1914)の第一詩集『道程』も奥付の発行日が10月25日。狙ったのか、偶然なのか、判然としませんが。

『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
無題
郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
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【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

2件ご紹介します。

まず、『北海道新聞』さん、10月31日(木)の一面コラム。

<卓上四季>女川原発の再稼働

詩人・彫刻家の高村光太郎は東北の三陸地方を旅行している。1936年のことだ。石巻を起点に、金華山、牡鹿(おしか)半島、女川(おながわ)を船でめぐった。切り立った断崖が続き、白い波がきらめく。リアス海岸がつくる風景は<鮮やかであり、またその故にとめどなく寂しい>▼この旅から90年近くたつ。陸路であれば、つづら折りの険しい道を抜けて、光太郎の描写さながらの景色を目にする。いや、彼の目に触れなかった巨大施設が牡鹿半島にある。東北電力の女川原発だ▼13年前の東日本大震災で絶体絶命の危機に追い込まれた。高さ13メートルの津波に襲われ、外部電源5回線のうち4回線を失う。2号機は浸水で非常用ディーゼル発電機2基が止まる。まかり間違えば、福島第1原発と同じ過酷事故が起きていた▼2号機が被災原発として初めて再稼働した。6千億円に迫る巨費を投じ、高さ29メートルの防潮堤を新設するなど安全対策を講じた。だが巨大地震と大津波に何度も見舞われてきた土地だ。心配は消えない▼なにより避難の問題が手付かずのままだ。半島は避難路が乏しい。自然災害と原発事故が同時発生したらどうするのか▼原発の30キロ圏内に暮らす人は18万8千人弱。陸路と海路がいずれも閉ざされ、どこにも逃げ道がなくなる―。想像したくないが、能登半島地震の惨状が教えていないか。
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まず断っておくと、「1936年」は誤りで、正しくは「1931年」です。1931年は昭和6年で、この「6」を混入させてしまったのではないでしょうか。

それはともかく、紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた宮城県女川町の女川原発。反対派の声も大きなものがあったのですが、とうとう再稼働してしまいました。そうかと思ったら、あっという間にトラブルで停止。「やめろ」という天の声ではないですかね。

ところで、先の衆議院選挙。原発はほとんど争点にもなりませんでしたが、現政権の裏金問題・旧統一教会問題だけでなく、原発回帰を強硬に押し進める点に対しても「No」を突きつけるつもりで投票した方も少なからず存在するのでは、と思います。少なくとも当方はそうです。

その衆議院選挙がらみで、11月3日(日)の『山口新聞』さん一面コラム。

四季風 冬の向き合い方

日増しに風が冷たく感じるようになってきた。冬の到来を告げる立冬も近く、やがて紅葉が終わると木枯らしの吹く時季を迎える▼「きっぱりと冬が来た」で始まる詩がある。彫刻家で詩人、高村光太郎の「冬が来た」で、教科書にも載っていたこともあり、ご存じの方もいるだろう▼前後を省略するが「人にいやがれる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ僕に来い、僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」とある▼木枯らしが吹きイチョウも落葉し、誰もが嫌うような厳しい冬。それを自ら受け止め力に変えて成長していく精神が描かれていると解釈するが、どうも先の衆院選が浮かんでくる ▼「おごり」という党内論理に終始し国民の支持離れを招き、冬のような厳しい審判を受け過半数割れした与党。これから、その冬とどう向き合うかにある▼特別国会の首相指名選挙で、石破茂首相が再選出されたとしても厳しい国会運営は避けられない。石破首相は「選挙で示された民意を厳粛、謙虚に受け止め、丁寧にこれからの政権運営にあたっていく」とする、今後を見極めたい。詩の最後は「刃物のや(よ)うな冬が来た」とある。15年前の下野を忘れないためにも。
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ただ、まだ今後の政局がどうなっていくか、不透明ですね。注意して見ていきたいところです。

【折々のことば・光太郎】003

東京はもう春のやうですがこちらはまだ雪が残つてゐて山ハンノキの花がぶらさがつてゐる程度です。それでも例年より春が早く来さうです。


昭和25年(1950)3月29日 髙村規宛書簡より
 光太郎68歳

令甥の故・髙村規氏宛のイラスト入り葉書から。

「きつぱりと冬が来た」と、冬を礼讃した光太郎も、さすがにマイナス20℃にもなる岩手の冬はこたえたようで、春が待ち遠しい心境にもなったのでしょう。

こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
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さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

昨日は愛車を駆って埼玉県東松山市に行っておりました。市役所さん向かいの総合会館さんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2024」を拝観して参りました。高田博厚は光太郎と知遇を得たことから彫刻の道を志し、光太郎もその才能を高く買っていた彫刻家です。
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入口には過去のポスター一覧。
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昨年一昨年は市民文化センターさんでの開催でしたが、今年は第1回の平成30年(2018)からコロナ禍で中断となる前年の令和2年(2020)までの会場に戻りました。
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メインである高田の彫刻群(鎌倉にあった高田のアトリエ閉鎖に伴い、東松山市に寄贈されたもの)以外に、過去2年間は地元の高校生などによる展示品も多く出品され、スペースが多く取れる市民文化センターさんでの開催でしたが、今年はそれがなかったため、元の会場に戻ったようです。あるいは逆に元の会場に戻すために他の出品物を用意しなかったのかも知れませんが。

そんなわけで、今年はこぢんまりとした展示でした。

高田の彫刻群。
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すべてではありませんが、彫刻と、モデルの人物を描いたデッサンが組み合わされており、面白いと思いました。左下はコクトー、右下がロマン・ロラン。
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哲学者・アラン(左下)、マハトマ・ガンジー(右下)。
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鎌倉のアトリエの再現。
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パネルで高田と同市の関わりの紹介。光太郎にも触れられています。
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キーマンは同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏。氏は高田との深い交流から、東武東上線高坂駅前の彫刻プロムナード整備などにも尽力されました。

光太郎胸像を含む、その彫刻プロムナードの解説タペストリーも展示。
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光太郎、高田、そして田口氏の関連年譜。
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おおもとは当方が作成したものです(笑)。
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カラーコピーの簡易図録(無料)をゲット。
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ところで昨日は、というか一昨日から今日までの3日間で、同市に於いて日本最大級のウォーキングイベントである日本スリーデーマーチが開催されています。昨日は中日(なかび)でした。そのため市内を歩いている参加者の皆さんが多く、市役所さんの駐車場が閉鎖、駐車に少し苦労しました。
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このスリーデーマーチを同市に誘致したのも田口氏。その裏にはやはり光太郎。右上画像は平成19年(2007)のものです。

ちなみに、そんなこんなのお話を、毎年、同市の生涯学習施設「きらめき市民大学」さんの講座で話させていただいております。今年も9月の末にべしゃくって参りました。この講座と高田博厚展とで、年に2回は同市にお邪魔しています。

スリーデーマーチの混雑と交通規制を避け、往路と違う道で帰ろうとしたら、期せずして市立図書館さんの前に出ました。「ついでだから見ていくか」と、地下駐車場へ。

何を、というと、こちらです。
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田口氏がいわゆる「終活」の一環として、平成28年(2016)に同市へ寄贈した光太郎関連の品々を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」です。氏の没後、平成30年(2018)にオープン、こけら落とし記念の講演もさせていただきました。
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光太郎からの書簡類(複製)。
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贈られた書(複製)。
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田口氏が集められた光太郎関連のスクラップや、氏が行ったご講演の原稿等。
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このあたりは固定の展示ですが、光太郎著書類は定期的に入れ替えているようです。
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左上は光太郎訳のロマン・ロランの戯曲『リリユリ』(大正13年=1924)。右上はやはりロマン・ロランで片山敏彦訳の『愛と死の戯れ』(同)。光太郎の題字揮毫・装幀です。
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ロダン系で、左から光太郎訳の『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、同じく『続ロダンの言葉』(同9年=1920)、光太郎著の評伝『ロダン』(昭和2年=1927)。

ミニ展示ですが、なかなか見応えがあります。

「彫刻家 高田博厚展2024」は今月14日(木)まで。併せてこちらの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、彫刻プロムナードと、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十九日には賢治詩碑の除幕式ある由にて招待をうけましたので、是非参列いたしたいと存じますが、久しぶりにて先生はじめ皆様にもおめにかかりたく、十八日午後参邸一泊をお願ひ申上げます。

昭和25年(1950)3月15日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎68歳

「賢治詩碑」は、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校跡地(現・ぎんどろ公園)に建てられた「早春」詩碑(左下)。
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やはりこの年、花巻温泉に建てられた光太郎詩「金田一国士頌」を刻んだ碑(右上)と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。

ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編

発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円

喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!

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目次
 序
 プロローグ 気分爽快 森高千里
 1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
  いつかきっと 田村セツコ
  缶と瓶 細馬宏通
  ビールのある風景 山本精一
  西陽の水面とビール 高山なおみ
  イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
  ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
  脳内反芻ビール 小山田 徹
  サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
 2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
  ビールの泡 田中小実昌
  泡だらけ伝授 阿川佐和子
  ビールは泡あってこそ 東海林さだお
  原則の人 伊丹十三
  ビールは小瓶で 長田 弘
  モクモクモク 嵐山光三郎
  ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
 3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
  虚無の歌 萩原朔太郎
  モーツァルトmozart  村上春樹
  軽い酔 牧野信一  
  飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
  とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
  ビールと女 獅子文六
  白に白に白 大道珠貴
  鍋貼 小川 糸
  ふきのとう 姫野カオルコ
  ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
  七月 ビール炊き御飯 金子信雄
  富士日記(抄) 武田百合子
  モンスターと夜景 雪舟えま
  人生がバラ色に見えるとき 石井好子
  飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
  ビール 大橋 歩
  炎天のビール 山口 瞳
  コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
 4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
  あほらしい唄 茨木のり子
  灰色の菫 田村隆一
  2019年5月3日 小沢健二
  この世で一番おいしいビール 氷室冴子
  道草 吉田健一
  鹿児島カンビール旅 椎名 誠
  温泉津旅行記 川本三郎
  京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
  鴎外先生とビール 平松洋子
  ビールの話 岩城宏之
  パブ 加藤秀俊
  ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
  ネパールのビール 吉田直哉
  デンマークのビール 北大路魯山人
  欧洲旅行(抄) 横光利一
  ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
  父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
 5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
  渓流 中原中也
  未練 内田百閒
  植木鉢 土岐雄三
  明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
  第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
  初めての飲み会 瀧波ユカリ
  ビールの歌 火野葦平
  父の七回忌に 幸田 文
  われこそはビール飲み 野坂昭如
  はじめてのビール 沢野ひとし
  ワインとビールがいっぱい  渡辺祥子
  ビールの味 高村光太郎
 編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
 底本一覧

ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。

表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。

心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。

そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。013

 バア学校のシンボルは。
 時代おくれの大時計。
 二十一世紀を告げる鐘。
 さらばで御座る。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

 バア学校の常連は。
 世にも稀なる美男美女。
 落第つづけの優等生。
 しからばそうれ。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。

ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。

さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。

特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、


昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳

光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。

平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。

 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。

智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
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大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
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3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
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自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
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画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
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襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

NHKカルチャーさんのオンライン講座です。

心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編

期 日 : 2024年11月8日(金) 11月22日(金) 12月13日(金)
時 間 : 10:30~12:00
料 金 : 9,900円

講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

ご自宅で安心!マスクを外してのびのび楽しみましょう♪

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。
伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために
 (練習作品)『あどけない話』(高村光太郎)『こだまでしょうか』(金子みすゞ)
 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ
 (練習作品)『やまなし 五月』(宮沢賢治)
 ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる  
 (練習作品)『やまなし 十二月』(宮沢賢治)
 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現
 
持ち物
●PC、タブレット(LANケーブルもしくはwi-fiに接続し、通信環境の良い所から参加してください)
●マイク付きイヤホンを使う等、音声のやり取りができる状態でご受講ください。
●事前にビデオ会議ツールZoomアプリをインストールしてください。文化センターホームページ【オンライン講座受講前の準備】参照。

備考
●Zoomミーティングの招待メールは2-3日前にお送りします。必ず事前に登録のうえ、音声テストもお済ませください。
●各回の資料は招待メールに記載のURLからダウンロード願います。可能な方はプリントアウトして当日お手元にご用意ください。
●ミーティング形式で行いますので、参加者のお顔が映ります。
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講師の川邊暁美氏、今年1月にも光太郎の散文「智恵子の紙絵」(昭和14年=1939)も題材に含んだ講座をなさってくださいましたし、どうしたわけかご紹介するのを失念していました(すみません)が、先月も「智恵子抄」から作品を採っての講座講師を務められました。

常々書いていますが、光太郎文筆作品、詩にしても散文にしても、意外と朗読向きです。字面を目で追っただけではそうも感じられないのですが、実際に声に出してみると、または他の方の朗読を聴いてみると、内在律といいましょうか、自然律といいましょうか、心地よい独特のリズム感にあふれています。ひそかに韻なども多用されており、光太郎がフランス語の習得のために触れたヴェルレーヌやらの詩の影響が見て取れるような気がします。

ご興味おありの方で、Zoom使用環境が整われていれば、ぜひどうぞ。

講座ついでに、講座というより講演、さらにいえば公開対談というかトークショーというかですが、今月10日開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての、渡辺えりさんと当方による「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO 無料)。

3日程前の段階で、申し込みがまだ定員に達していないとのこと。
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Facebookでは「イベント」を作成してもう一度呼びかけてみましたが、こちらでも改めて宣伝させていただきます。お忙しい折とは存じますが、絶対に面白い内容となるはずですので、ぜひどうぞ。

お申し込みはこちら

【折々のことば・光太郎】

父や母の事なら書きいいのですがどうも自分の細君の事となると気がさしてくだくだと書けなかつたのでした。 そのくせ詩には時々出てくるのですが、変なものです。

昭和25年(1950)3月7日 小田切進宛書簡より 光太郎68歳

光太郎にしては珍しく、執筆の約束をしていながらぶっちぎってしまった(笑)件に関わります。

小田切が勤務していた改造社で発行していた『女性改造』のこの年四月号には、智恵子紙絵の原色版グラビア5点が4ページにわたり掲載され、「想い出 高村光太郎 解説 真壁仁(本文参照)」のキャプションが添えられています。

しかし本文には光太郎の「想い出」という文章はなく、真壁による「高村智恵子遺作切抜絵について」のみが4ページにわたり掲載され、その欄外に「口絵に『想い出・高村光太郎』となっていますが、 筆者の余儀ないご都合により本号に掲載できませんでした、右 おことわりいたします(編集部)」の注記があります。おそらくその注記を書いたのが小田切だったのでしょう。「余儀ないご都合」と言いつつ、後回しにしていたら忘れてしまっただけなのですが(笑)。

もし忘れていなければ、この時点で改めて書かれたはずの智恵子に関する「想い出」。読んでみたかった気がします。

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

美術評論家の高階秀爾さん死去 西洋美術史研究の第一人者

 日本の西洋美術史研究の第一人者で、理知的で明快な美術評論で知られた東京大名誉教授の高階秀爾(たかしな・しゅうじ)さんが17日、心不全のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は家族で行った。お別れの会を開く予定。
 1953年東京大卒。フランスに留学し、西洋近代美術史を専攻。帰国後、国立西洋美術館勤務などを経て、79年東京大教授に就いた。退職後、国立西洋美術館や岡山県の大原美術館の館長、日本芸術院長などを歴任した。
 豊かな教養と優れた感性で、ルネサンスから近現代までの西洋美術を研究。ロングセラーとなった「名画を見る眼」や「近代絵画史」など入門書の執筆に加え、留学時代から晩年まで、新聞や雑誌の寄稿を通じて同時代の美術を精力的に批評し、美術の魅力を多くの人に伝えた。明治の洋画家高橋由一の再評価など、近代日本美術の研究でも業績を残した。
 著書に「ルネッサンスの光と闇」「ピカソ 剽窃の論理」「日本近代美術史論」など多数。2001年に設置された文化審議会の初代会長や、京都造形芸術大大学院長も務めた。
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高階氏、昭和47年(1972)発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」中の「共同討議 高村光太郎の世界」に、昨日もご紹介した高田博厚、当会顧問であらせられた故・北川太一先生、その盟友・吉本隆明と共にご臨席。30ページ超にわたる対談を展開されました。これで全員が鬼籍に入られてしまいましたが、今にして思うと凄い顔ぶれでした。
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今読んでも「なるほど」の連続です。

当方、一度、氏のご講演を拝聴しました。平成26年(2014)の新宿中村屋サロン美術館さん開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」。ここでも光太郎に触れて下さり、時にユーモラスに、非常にわかりやすく語られていました。もう10年経つか、という感じですが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間御恵贈の見事な干柿をいただきました。此前にもハムをいただき、重ね重ねで恐縮です。干し柿の縄おもしろく、智恵子だつたら早速切抜絵にする事だらうなどと考へました。

昭和25年(1950)2月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎68歳

ちょっと面白い形のものを見ると、すぐに創作意欲が湧いてくる、亡き智恵子もそうだったろうと、これももうおそらく造型作家の「業」のようなものですね。

毎年恒例のイベントです。衆議院選挙の関係で、当初予定から開催期間が変更となっています。

彫刻家 高田博厚展2024

期 日 : 2024年10月29日(火)~11月14日(木)
会 場 : 東松山市総合会館 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東松山市では、高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は彫刻作品に加え、デッサンの一部を展示します。ぜひこの機会に彫刻家、高田博厚の世界をご堪能ください。
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関連行事 高田の音楽ノート

 戦前から戦後まで長くフランスで暮らした彫刻家高田博厚は音楽にも造詣が深いことで知られています。高田博厚の彫刻作品とともに、地域のゆかりの音楽家による弦楽四重奏による音楽を楽しむコンサートを実施します。

開催日時:11月9日(土曜日) 午後3時から午後4時15分まで
出演:榎本郁(ヴァイオリン)、松本聖菜(ヴァイオリン)、角田峻史(ヴィオラ)、
   石井沙和子(チェロ)
場所:総合会館4階 多目的ホール
定員:100名(申込順)
申込期間:10月4日(金曜日)から10月25日(金曜日)まで
申込方法:電話(21-1431)または以下の電子申請フォームにてお申し込みください。

高田博厚は、光太郎との交流から彫刻家を志した人物です。まだ海の物とも山の物とも判らない学生時代に高田の才能にいち早く気づき、戦前のフランス留学等の際援助を惜しまなかった光太郎の眼力には恐れ入ります。

お返しに、といっては何ですが、戦後、光太郎が歿してから帰国した高田は、10回限定で行われた「高村光太郎賞」の審査など、亡き光太郎の顕彰活動に様々な形で関わりました。

同市の元教育長、故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と面識があり、南方から復員した戦後、花巻郊外旧太田村の光太郎を2度訪れ、その後も手紙のやりとり等を続けました。

高田と田口氏、光太郎を偲ぶ連翹忌の集いで知り合って意気投合。同市に於ける高田の個展の開催、さらに東武東上線高坂駅前から伸びる通りに高田の彫刻作品をずらっと配した高坂彫刻プロムナードの整備なども行われました。

そうした縁があって、高田の遺族から同市に高田の作品がごそっと寄贈され、それを一般公開するのが「彫刻家 高田博厚展」。平成30年(2018)からコロナ禍の年を除いて開催され続けています。

昨年一昨年は市民文化センターさんで開催。地元の高校生などによる光太郎、田口氏関連の展示も充実していました。今年はコロナ禍前の会場だった総合会館さんに戻っての開催。光太郎、田口氏にどの程度触れられるか、というところですが、一応拝見に伺います。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生盛岡の少年刑務所で七百人の少年達に話をしました。


昭和25年(1950)2月8日 野末亀治宛書簡より 光太郎68歳

昨日のこの項でも触れましたが、1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪し、盛岡では様々な会場で7回講演を行いました。そのうちの1ヶ所、盛岡少年刑務所さんではそれを記念して現在でも年に一度「高村光太郎祭」を開催して下さっています。当方も一度招かれ、受刑者さん達を前に講演をさせていただきました。

上記東松山市の高田博厚とのそれもそうですが、こうした奇縁というのは大切にしていきたいものですね。

一昨日、光太郎終焉の地・中野の「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合に出席するために上京しておりました。来月10日(日)開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」(無料)の最終確認など。あまり宣伝が為されていないようで、初日に開催予定の関連行事としての渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(無料)など、まだ予約定員に達していないとのこと。ぜひお申し込み下さい。

それはそうと、そちらの会合に行く前に、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんに立ち寄りました。こちらでは企画展「ハニワと土偶の近代」が開催中。
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光太郎がらみの展示もあるという情報を得まして、参じました。

MOMATさん、攻めてるな、という感想でした。何が、というと、ある意味およそ美術館らしからぬ展示構成だったためです。しかし、非常に興味深く拝見しました。

「ハニワと土偶」と謳いつつ、埴輪や土偶そのものにスポットを当てるのではなく、近代美術史・社会史の中で埴輪や土偶がどのように受容されていったのか、その変遷史といった趣でした。そこで美術作品そのものよりも、史料類の展示が多く、その意味で「ある意味およそ美術館らしからぬ」と感じた次第です。

特に興味深かったのが、満州事変から太平洋戦争終戦に到る15年戦争時。
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「武人埴輪」=「大王を警護する武人を象(かたど)ったもの」。そこで、近代の「皇軍兵士」へと類推が働き、さまざまな美術作品や工芸品、書籍類の表紙その他に埴輪や古墳時代の武人の姿などが「国威発揚」「戦意高揚」といった使命を担わされ、多用されるようになっていったとのこと。
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下は光太郎とも交流のあった中村直人(なおんど)の「草薙剣」(昭和16年=1941)。
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こうした流れの中で、光太郎も埴輪について言及していました。昭和17年(1942)7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)中の「埴輪の美」という項です。
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 埴輪といふのは上代古墳の周辺に輪のやうに並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であつて、今日はかなり多数に遺品が発掘されてゐる。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであつて、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違つて、われわれの祖先が作つた埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取つた美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらはれであつて、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きてゐる。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与へ世界に加へ得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示してゐる。美の健康性がここに在る。

掲載誌の『婦人公論』が展示されていました。
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また、遡って昭和11年(1936)には、野間清六の著書『埴輪美』の序文も光太郎が書いています。

 日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起り得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。
 古代も今も同じ清浄の美を見よ。今後の世界の美の源泉の一つとして埴輪の持つ意味は深い。これを未来に生かし得る者は当面世界文化の廃頽爛熟を匡正し得るであらう。造型芸術の基本たるものが此此処にある。


そういうわけで、ここのパートのキャプションには光太郎が大きく紹介されていました。
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黒歴史ですね。引用のため入力していて痛ましい気持になりました。

ただし、光太郎、このように文筆では戦争推進に多大な役割を果たしましたが、造型の部分では戦意高揚のための作品(いわゆる「爆弾三勇士の像」のような)を作りませんでした。そこに光太郎の良心の残滓が認められますが、それでも「ペンは剣よりも強し」。「言葉」として印刷され、刊行され、全国や植民地にまであまねく届けられた光太郎の言葉を読んで奮い立ち、死地に赴いた数多くの前途有為な若者達がいたことは忘れてはいけません。「綸言汗の如し」です。

さて、戦後。
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墨塗りの教科書まで展示されていました。

埴輪を皇軍兵士に重ね合わせるという事態は無くなりましたが、光太郎が提唱した「清浄な美」としての埴輪の美しさは、形を変えて生かされ続けます。

やはり光太郎と交流のあった佐藤忠良や猪熊弦一郎の作品。
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光太郎の前に中西利雄アトリエを借りていたイサム・ノグチも。
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古墳時代の埴輪そのものの展示もありました。
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再び光太郎。盟友の武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」というのは存じませんでした。たしかに武者の作品には古代に通じるプリミティブな部分が感じられますね。
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戦後、考古学の飛躍的進展により、また、皇国史観からの解放といった追い風もあって、縄文時代の研究が進みます。そんな中で埴輪より古い土偶にもスポットが当たるようになりました。

ただ、今回、土偶に関する展示は少なかった印象でした。右下は光太郎の同級生だった岡本一平の子息・岡本太郎。
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現代になっても、埴輪は日本人の心を掴み続け……というわけで、サブカルチャーにも着目。映画「大魔神」や、水木しげる氏、石ノ森章太郎氏、諸星大二郎氏らのコミックまで。このあたりも「攻めてる」感が半端ないと思いました。
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出口付近にはNHKさんの「おーい!はに丸」も。お約束と言えばお約束ですが(笑)。
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企画展示拝観後、常設展示的な「MOMATコレクション」展へ。光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)がよく出ているのですが、現在はお休み中でした。

「おっ!」と思ったのが、中西利雄。光太郎の終の棲家となったアトリエを建てた人物ですが、アトリエ竣工直前に急逝し、没後、遺族が貸しアトリエとして運用、イサム・ノグチや光太郎が借りたわけです。
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光太郎実弟にして人間国宝だった豊周の鋳金作品も3点出ていまして、久しぶりに豊周作品を目にしました。ただし、撮影禁止でしたのでキャプションのみ画像を載せます。

さて、「ハニワと土偶の近代」、12月22日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

出かける日は風速十五―二十米突といふ吹雪を冒しての行進だつたのですが、二人迎へに来て荷を持つてくれたので助かりました。帰る日も若い人三人で小屋まで送つてきてくれました、盛岡から二ツ堰までは刑務所の自働車が運んでくれました、西山村では一理余の雪原を馬橇にのりました、


昭和25年(1950)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪しました。盛岡では県立美術工芸学校婦人之友生活学校少年刑務所などで7回講演。西山村では、深沢省三・紅子夫妻の子息にして戦時中に詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏宅に滞在、好物の牛乳を一升も飲んだそうです(笑)。

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