昨日は約1ヶ月ぶりに上京しておりました。
メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。
「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。
サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。
それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。
ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。
第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。
光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。
すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。
ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。
西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。
光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。
それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。
上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。
メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。
「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。
サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。
それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。
ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。
第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。
光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。
すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。
ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。
文豪、森鷗外(1862~1922年)には、教師の経歴もあった。何をどう教え、学生の評判は-に注目した特別展「教壇に立った鷗外先生」が、森鷗外記念館(東京都文京区)で開かれている。同展監修の山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「研究者があまり手をつけていない『盲点』の分野。展示をヒントに新たな研究テーマ、そして新たな鷗外像が生まれてくるはず」と話している。
■文豪は負けず嫌い
鷗外は明治14年、19歳で東京大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、のちにトップの陸軍省医務局長に上り詰める。この間、ドイツ留学、日清・日露戦争戦地などへの赴任の間を縫って、文筆活動でも名をなした。
さらに「人脈も広がり、その後の活動にとって大事な一時代」(展示担当の岩佐春奈さん)とされるのが教師としての経験。その足跡はある程度知られているが、特別展では学生たちの日記や回想、出版物などの資料から鷗外の教師ぶりにスポットを当てている。
教師歴は15年に東亜医学校で「生理学」を教えたのが始まり。妹・喜美子の回想によると、「面白い先生の講義は人が多」く、「どうか負けないようになりたい」と講義の準備に励んでいた。教え子から親しまれていたことがうかがえる書簡も展示されている。
21年からは陸軍軍医学校で「衛生学」を教え、校長も務めた。同校の学生は、「講義は決して下手ではなかった」が、「早口であった」と評している。
■冬は暖炉を囲んで
軍医学校と並行して24年から東京美術学校(現東京芸術大美術学部)の嘱託教員で「美術解剖」、29年から「美学及美術史」、25年からは慶応義塾大学部文学科講師で「審美学」を講義し、32年まで続けた。
慶応の最初の教え子による「中村丈太郎日記」は、展覧会初出展の資料。25年9月15日付では「今日ヨリ森林太郎氏来リテ審美学ヲ講ス」「今日ノ題ハ美ノ所在ナリ」と初講義に触れている。この「美ノ所在」は鷗外が同年10月に評論誌「しがらみ草紙」で発表した内容で、先駆けて学生に講義していたことになる。日記には時間割表もあり、講義は火・木曜午前9~10時の週2時間だった。
慶応では、のちの毎日新聞社長、奥村信太郎の「初冬の薄ら寒い朝、わたくし達慶應文科三年の六人は、煖爐を前に、半円形を作って、森鷗外先生を中にさしはさみ、美学の講義を聴くのだった」などの回想を残している。
東京美術学校関係では、美術解剖の講義を筋肉図とともに筆記した学生・藤巻直治ノートなどを展示。鷗外が自らの小説作品なども例に挙げ、わかりやすく講義した様子がうかがえる学生の美学筆記ノートも。
同校で学んだ彫刻家・詩人の高村光太郎は「とても名講義でしたよ」と振り返るほか、学期末に「美学の一番の根源」を理解していない質問をした学生に「そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴り…」と鷗外が憤慨した場面も記している。
■子供に手作り教材
23年には鷗外が東京専門学校(現早稲田大)で講師になると新聞に載りながら、実現しなかった。のちに同校で黄禍論をテーマに講演は行ったが、講師就任が実現しなかった経緯は謎で、今後の研究課題にもなりそうだ。
岩佐さんは「常に軍服姿で講義。正直、親しみやすい先生ではなかったと思いますが、少人数の学校で連帯感も生まれ、文学者として憧れを持って見つめられた。鷗外も若い人に新しいことを教える責務を感じていたのでは」と話した。
同展では、鷗外がわが子にドイツ語などを教えるために手作りした教材や、文部省委員として編纂に携わった修身、唱歌の教科書なども展示されている。30日まで。
過日ご紹介した『東京新聞』さんでも、教え子として光太郎の名を出して下さいました。展示を見て気づいたのですが、他にあまりビッグネームの教え子が居なかった的な感じでしたので、そういうことなのでしょう。
『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。
ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。
『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
したなあ」の方が重要だと思われます。対談「鷗外先生の思出」では、「軍服着せれば鷗外だ事件」の顛末も語られており、またぞろ舌禍を起こしてはいかん、と、「とても名講義でしたよ」(笑)。前後の文脈から浮いています。とってつけたように。
さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。
ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。
【折々のことば・光太郎】
古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。
古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。
昭和22年(1947)11月17日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳
西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。
光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。
それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。
上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。