会期残りわずかですが……。

齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―

期 日 : 2024年8月28日(水)~9月9日(月)
会 場 : 新宿高島屋10階美術画廊 渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号
時 間 : 午前10時30分~午後7時30分 最終日のみ午後4時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

齊藤秀樹氏は、1969年東京に生まれ、1993年大阪芸術大学芸術学部美術学科彫刻コース専攻科修了。自然をテーマに掲げ、猫やトカゲ、金魚や蝶など子供の頃に触れてきた身近な生き物や植物たちを実物大の木彫にて表現し、個展・グループ展、アートフェアなど精力的に発表を続けています。 その精巧な描写、実物大にこだわり制作されていくことで、今にもそこから動き出すかのような空間を放ち、情景さえも想起させてしまうリアルな表現は、動植物の息吹やぬくもりをも感じさせると同時に、木彫だからこそ得られる「木」そのもの香りやぬくもりをも感じることができます。 今展では、大人になり忘れてしまいがちな、人々の心の中にある自然との「思い出」や「記憶」をそれぞれに喚起する最新作の一木造りの木彫達を中心に、様々な自然に生きる生物たちを一堂に展観いたします。この機会にぜひご高覧ください。

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木彫作家の齊藤氏、動物をモチーフとした作品等も手がけられ、その方面での大先達である光太郎の父・光雲作品オマージュなども作られています。

今回展示されている「矮鶏(ちゃぼ)」。氏のX(旧ツィッター)投稿から画像をお借りしました。
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同じ作品は一昨年、西武池袋本店さんで開催された「齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~」でも展示されました。

宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の光雲木彫「矮鶏」(明治22年=1889)の雄鶏の方をモデルとなさったものです。
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光雲の「矮鶏」、当初は一般人から注文を受けて制作されたものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが観覧に来た明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その経緯や制作の苦心譚など、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。


これ以外にも「鳥獣戯画」オマージュの作品、オリジナルの愛らしい柴犬や保護猫なども展示されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

三好達治さんが来訪されたのには驚きました。どういふわけで来訪されたのかいまだに分かりません。訪問記でも書かれるのでせうか。


昭和24年(1949)5月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村にひょっこり三好がやってきたのは前月のことでした。この時の模様を三好は「高村光太郎先生訪問記」(『文芸往来』第三巻第七号)に詳しく書きました。ただ、初めからそのつもりだったわけでもないようで、こう書いています。

 妙なことをいふやうだが、もともと私は格別な用件をもつて、こんな山間に高村さんをお訪ねしたわけではなかつた。久しぶりで一寸お目にかかりたかつた、さうして暫く雑談でも承ればもう私の望みは足りるといふほどの気持であつた。

三好と光太郎、戦前から面識はあったのでしょうが、それほど親しかったわけではなさそうです。それでも三好にすれば、この時期に会っておきたいと思わせる何かが光太郎にあったのでしょう。

あくまで想像ですが、やはり戦争の問題が背後にあるのではないかと思われます。三好も光太郎同様、戦時中には多くの翼賛詩を書いていました。

智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山腹で朗読会が開催されます。

安達太良山「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2024年9月16日(月・祝)
会 場 : 薬師岳パノラマパーク 福島県二本松市永田長坂国有林
時 間 : 10:00~
料 金 : 5,000円(含ロープウェイ料金、昼食代)

ほんとの空がある安達太良山で「智恵子抄」の朗読をしてみませんか? 生涯の思い出に是非ご参加ください。

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智恵子の故郷・二本松で、智恵子顕彰事業をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの主催です。

同会の発会20周年、さらに光太郎智恵子結婚110周年、光太郎の詩集『道程』刊行110周年記念だそうです。

朗読会会場は、安達太良山の奥岳登山口から出ているロープウェイで上がっていった山頂駅付近の薬師岳パノラマパーク。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来で「この上の空がほんとの空です」と刻まれた標柱が立っています。
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同会ではたびたびこの場所での朗読会を開催してきました。平成28年(2016)の際の新聞報道がこちら

朗読会自体は10:00~の予定ですが、8:15に智恵子生家/智恵子記念館の駐車場を出発、二本松駅と岳温泉を経由して奥岳登山口まで会員の方の車で。事前に申請しておいて適当なところで乗せていただくということのようです。

終了後また車に分乗して、二本松市に隣接する大玉村の森の民話茶屋さんに移動、そこで昼食兼交流会、すべて終わったところでまた適当なところまで送っていただけるそうです。

紅葉シーズンには未だ早いかと思われますが、当日は、少し前にご紹介した「あだたらイルミネーション」期間中です。今年初めてお目見えした「「あ」のオブジェ」などもご覧頂けるかと存じます。

申込先等、フライヤー画像をご参照の上ぜひご参加ください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は小学校の運動会があり、小生も競争に出ましたがビリでした。


昭和24年(1949)5月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

この年か翌年(日記が失われており、特定できません)の運動会の様子が、元山口小学校校長の浅沼政規の回想に綴られています。

 午後の競争が開始。年長組の《びん釣り競争》となりました。この競技へ先生の参加をお願いすると、快く出場して下さいました。競技が始まりました。
 ひときわ会場が賑やかになり、拡声器の音も、先生への応援も大きくなりました。
 一等、二等とゴールしてきます。先生は少し手間取ったようでしたが、釣れたびんを手に、大股で走ってゴールインしました。一同からすごい拍手です。
 そして、先生もみんなと一緒に会長席に向かい、会長から商品を受け取られました。
 「しばらくぶりで走ってみましたが、にわかに走ったものですから、遅れてしまいました。でも、みんなと走れて愉快でしたよ。」と、おっしゃいました。
 この時の先生の姿に接した部落の人たちは、自分たちと親しく交わって下さろうとするお気持ちに、感謝の念を深くしました。
(浅沼政規『山口と高村光太郎先生』平成7年=1995 高村記念会)

微笑ましいエピソードですが、単にそれだけではありません。戦前には「芸術家あるある」で「俗世間とは交わらない」、戦時中には一転して民衆を戦争に駆り立て、と、いびつな形でしか世の中と関わってこなかった光太郎、この花巻郊外旧太田村に住み始め、ようやく理想的な社会との関係性が構築できたようです。

主催者側発表には情報が無く、見に行かれた方のSNS等から「そうだったんだ」ということに気づく場合が時々あり、今回もそうでした。

福島ビエンナーレ2024"風月の芸術祭 in 白河―起" 

期 日 : 2024年8月24日(土)~9月15日(日)
会 場 : 福島県白河市
       白河市立図書館 りぶらん
        開館時間 10:00~20:00(土曜・日曜は9:30~18:00 休館日 月曜日)
       白河文化交流館コミネス
        開館時間 9:00~22:00(月曜は20:00まで 休館日 火曜日)
       しらかわ観光ステーション
        開館時間9:00~18:00 期間中無休
       マイタウン白河「風月の芸術祭」総合案内所
        展示時間10:30~18:30(施設は 9:00~21:00 期間中無休)
       旧脇本陣柳屋旅館蔵座敷
        開館時間 10:00~16:00(休館日 月曜日・祝日の際は火曜日)
       コミュニティ・カフェ EMANON
        営業時間 平日 15:00~20:00 土日 13:00~19:00(水曜・木曜定休日)
       翠楽苑
        開館時間 10:00~17:00(期間中無休)
       龍興寺
        展示時間 9:00~16:00
       だるまランド
        営業時間10:00~17:00
       南湖公園 芝生広場 湖畔 千世の堤 谷津田川(土橋~新橋)
料 金 : 基本的に無料、施設により要入場料

 本企画は、白河市の歴史、文化を基盤として、現代アートの創作、鑑賞、体験等の活動を展開するものです。
 「風月の芸術祭」というタイトルは、江戸時代の白河藩主、松平定信公の雅号「風月」に由来します。自然を愛で、文化を享受する心を伝えています。「風月」をテーマに、松平定信と関連する白河小峰城や南湖公園、白河関跡、奥州街道にある城下町の歴史・文化資源を活用し、多種多様なアート(絵画、彫刻、現代美術、書、文学、舞踊、演劇、映像作品、アニメーション等)の展覧会、上映や公演、講演会、シンポジウム、ワークショップを開催します。
 国際的なアーティスト等を招待し、地域住民との協働によって、雰囲気のあるまちづくり、地域を巡回して楽しめるエリア形成に取り組む中で、白河市を広くパブリック・リレーションズ( Public Relations; PR )します。

参加アーティスト
 吾子可苗/ 荒井経/ アヤ・カザリス/ 飯野和好/ 井波純/ 伊藤公象/ 伊藤有壱/
 今井トゥーンズ/ 大竹京/ 岡村桂三郎/ 金子富之/ カネコマスヲ/ 北村はるか/
 木下史青/ 黒沼令/ 鴻崎正武/ 小澤基弘/ 小松美羽/ 五味太郎/ 斎藤岩男/
 ダルライザー/ 柴﨑恭秀/ 白鳥建二/ 鈴木美樹/ ボンド・亜貴/ 関本創/ 鳥山玲/
 野沢二郎/ 灰原千晶/ 林剛人丸/ 萩原朔美/ 福井利佐/ 船井美佐/ 三沢厚彦/
 宗像利浩/ 森合音/ リチャード・ボンド/ 山田慎一/ ヤノベケンジ/ 艾沢詳子/
 与那覇大智/ 若木 るみ/ 王尽遥/ 渡邊晃一/

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「福島ビエンナーレ」。ビエンナーレですから2年に1度の開催。県内各地の自治体さんを持ち回りでメイン会場とし、今回は白河市が会場です。今回、というか、前々回、前回も白河市での開催でした。

かつて平成28年(2016)平成30年(2018)には智恵子の故郷・二本松市が会場となり、智恵子生家でも展示が行われました。平成28年(2016)には墨絵や版画などを手がけられている小松美羽氏、平成30年(2018)が切り絵作家の福井利佐氏が、それぞれ智恵子生家でのインスタレーションをなさいました。間に挟まれた平成29年(2017)には、福島ビエンナーレではない「重陽の芸術祭」で、清川あさみ氏の刺繍作品の展示も行われました。

さて今回、翠楽苑さんというところで小松氏の作品の展示が行われており、「智恵子抄」インスパイアの作品も、という情報をSNS上で見付けました。使用許可を頂きましたので、見に行かれた方の撮影された画像を転載させていただきます。
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なるほど、平成28年(2016)の智恵子生家での展示と確かによく似ています。智恵子と共に、安達ヶ原の鬼婆からのインスパイアもあるようです。

ちなみに平成30年(2018)に智恵子生家で智恵子抄オマージュの作品をを出された福井氏もご参加。作品は「マイタウン白河 ギャラリー」というところで展示されています。だるまをモチーフとした切り絵で、今回は光太郎智恵子と関わらないようです。

小松氏、福井氏、その後の令和2年(2020)と令和4年(2022)のビエンナーレにもご参加なさっていました。もしかするとその際にも「智恵子抄」がらみの展示があったのかも知れませんが、不明です。

さて、今回、他に絵本界の大御所・五味太郎氏、光太郎と交流のあった萩原朔太郎令孫の萩原朔美氏(映像作家でもあらせられたそうで、存じませんでした)、かつての重陽の芸術祭でのメインオブジェを作られたヤノベケンジ氏などもご参加。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

何よりもあせる事はよくありません。静かに着実に進むべきです。

昭和24年(1949)4月2日 鈴木政夫宛書簡より 光太郎67歳

鈴木は愛知岡崎出身の彫刻家。主に石彫を手がけていました。花巻郊外旧太田村に蟄居していた光太郎の元に押しかけ弟子を志願、それに対する返答の一節です。

若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

テレビ放映情報です。

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

NHK BS1/NHK BS4K 2024年9月2日(月) 21:00~22:00

「みだれ髪」など情熱の歌人として知られる与謝野晶子は人気評論家だった。おりしも女性の権利拡張を目指す運動が盛んになる中、母性保護をめぐり平塚らいてうと大論争に。
 
与謝野晶子は言論弾圧が厳しい時代に、歯に衣着せぬ評論で人気を集め、あらゆるジャンルの評論を雑誌、新聞に載せた。中でも力を入れたのが「男女平等」。女性も仕事をすることで男性から経済的自立することが必要と主張。おりしも女性の権利拡張を「母親になれるのは女性だけ」という理由で推し進めようとしていた女性解放運動家の平塚らいてうと「母性は保護されるべきか」をめぐり激しく対立、大論争を繰り広げる。その結果は?

出演者
【司会】磯田道史 浅田春奈
【出演】歌人…松村由利子 ジャーナリスト…浜田敬子
【語り】松重豊

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メインは光太郎の姉貴分・与謝野晶子。智恵子の先輩にして智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した平塚らいてうとの「母性保護論争」が取り上げられます。さらに山川菊栄らも参戦し……。

NHKさんでは令和2年(2020)にオンエアされた「先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」でも同じ問題を取り上げました。その際はサブタイトルの通りらいてう視点からの制作で、今回は晶子側からの反証的な。

ダメ夫(鉄幹ファンの皆さん、すみません(笑))の元、11人もの子を筆一本で育てた晶子と、年下の「若いツバメ」と最初は入籍しない事実婚で子育てしつつ女性の権利拡大を訴えたらいてう。およそ100年前の話ですが、現代でもあまり状況は変わっていないような……。

光太郎智恵子には直接関わりませんが、夫妻とそれぞれ交流の深かった二人のバトル、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生が東京へ出かけることは今のところ一寸むつかしいやうに考へられます。東京の街を歩ける服装すら今はありません。発表会の模様をあとできくのが楽しみに思へます。


昭和24年(1949)4月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

発表会」は舞踊家だった藤間のリサイタル。藤間が戦時中から構想を温めていた「智恵子抄」舞踊化が為されました。この手の「智恵子抄」二次創作の嚆矢でした。
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東京藝術大学大学美術館での企画展です。

黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校

期 日 : 2024年9月6日(金)~10月20日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし9月16日(祝)、9月23日(振)、10月4日(振)は開館し翌日休館)
料 金 : 一般900円(800円)、高・大学生450円(350円)( )は前売り料金 

展覧会概要
 台湾出身者初の東京美術学校留学生として知られる彫刻家・黄土水(1895-1930)。東アジアの近代美術に独自の光彩を与える彫刻家として近年ますます評価を高めており、本国では2023年に代表作《甘露水》(1919)が国宝に指定されました。
 本展では、国立台湾美術館からこの《甘露水》を含む黄土水の作品10点(予定)と資料類を迎えて展示するとともに、藝大コレクションより彼が美校で学んでいた大正から昭和初期の時期を中心とした洋画や彫刻の作品48点(予定)をあわせて紹介します。
 日本の伝統的感性と近代美術との融合をめざした黄土水の師・高村光雲とその息子光太郎、《甘露水》にも通じる静かな情念をたたえた荻原守衛や北村西望の人物像、あるいは藤島武二、小絲源太郎らが手掛けた20世紀初頭の都市生活をモチーフとした絵画、台湾出身の東京美術学校卒業生の自画像作品など、バラエティに富んだ作品群を用意してお待ちしております。
 台湾随一の彫刻家・黄土水が母校に帰ってくる――その歴史的瞬間を自らの眼でお確かめください。

みどころ
1 台湾の国宝《甘露水》、日本初上陸!
 昨年国宝に指定されたばかりの黄土水の代表作《甘露水》。台湾本国では同年、国立台湾美術館にて本作を含む黄土水の大回顧展が開かれ大きな話題を集めました。早くも本年、彼の母校(東京美術学校)の後身である東京藝術大学に本作がお目見えします。彼の他の作品群とともに本作を観る絶好の機会となります。

2 黄土水の学んだ時代、日本の美術界は......?
 黄土水が東京美術学校に入学した1915年から東京で病にて夭折した1930年までの時代は日本の近代美術においても大きな激動期でした。本展ではこの時代に活躍した高村光雲、高村光太郎、平櫛田中、荻原守衛、朝倉文夫、建畠大夢といった彫刻家、あるいは藤島武二、和田英作、小絲源太郎、津田青楓、石井鶴三(彼は彫刻家でもあります)ら洋画家の作品を紹介します。台湾からやってきた青年黄土水が東京で何を学んだか。それを知ることで黄土水への理解がより深まることでしょう。

3 台湾出身の洋画家たち
 東京藝術大学大学美術館の顕著な特長として、卒業生たちの作品が遺されていることを挙げなければなりません。本展でもその利点を活かし、陳澄波や顔水龍、李梅樹といった近年評価を高めている台湾出身の近代洋画家たちの作品群約10点を紹介します。
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関連行事 シンポジウム「黄土水とその時代――日本と台湾の近代美術史をたどる」 
 期 日 : 2024年9月6日(金)
 会 場 : 東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 時 間 : 13:00~16:10
 料 金 : 無料

 黄土水という彫刻家を中心に、大正・昭和初期の日本と台湾の美術、そして東京美術学校の事歴に注目があつまるこの機会に、東京藝術大学大学美術館は、台湾の専門家と本学の教員によるシンポジウムを開催いたします。黄土水の近年の再評価がどのようになされたか、そしてそれが日・台近代美術史研究に与えたインパクトがどのようなものであったかをご紹介いただきながら、黄土水と東京美術学校の関係に注目してゆきます。

 講演1 薛燕玲(国立台湾美術館学芸員)
  「近代台湾初の彫刻家――黄土水芸術「ローカルカラー」の表現」
 講演2 岡田靖(東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学准教授)
  「古きモノからの学びとその保存修復、そして新たな彫刻表現へ」
 講演3 村上敬(東京藝術大学大学美術館准教授 *本展担当者)
  「解題『黄土水とその時代』」
 パネルディスカッション
  登壇者:薛燕玲、村上敬、岡田靖(モデレーター:熊澤弘)

というわけで、台湾出身で東京美術学校に留学していた彫刻家・黄土水(明治28年=1895~昭和5年=1930)をメインに据えた展示です。

黄が留学のため来日したのは大正3年(1914)、光太郎は既に母校を離れていましたが、父・光雲はまだ現役で後進の指導に当たっていました。そこで黄も当初はアカデミックな彫刻で官展系の入選を果たしていましたが、徐々に文学性を排した方向に進み、鳥獣魚介をモチーフとしたりしていく感じで、そこに光太郎や、さらに光太郎が心酔していたロダンの影響を指摘する説もあります。ただ、光太郎との直接の面識はなかったと思われ、『高村光太郎全集』にその名は現れません。

美校を卒(お)えた後の黄は、日台を行き来しながら活動し、昭和5年(1930)、池袋で亡くなっています。フライヤーに使われているのは代表作の一つ「甘露水」(大正10年=1921)。大理石です。

で、師・光雲や光太郎などの作品も展示されます。

プレスリリースによれば、光雲作品は木彫「聖徳太子像」。それから光太郎の親友・碌山荻原守衛のブロンズ「女」も。
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光太郎に関しては、プレスリリースに名はあるものの、出される作品名が明記されていません。そこで電話で問い合わせたのですが「出品目録が作られていなくて分かりません」とのこと。

同館所蔵の光太郎作品は以下の通りですが、おそらくブロンズの「獅子吼」、木彫の「紅葉と宝珠」、同じく「蓮根」あたりが出るのではないかと思われます。
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始まりましたら早い内に見に行きますので、またご紹介します。

皆様もぜひ足をお運びください。すぐ近くの東京国立博物館さんでは、常設展「総合文化展」で、光雲の「老猿」、光太郎の「鯰」と「魴鮄」も出ていますし、あわせてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

池の端仲町にもう“酒悦”が復活したかとなつかしく存じました。味も殆ど以前と変りなく、東京の風趣を感じます。智恵子も好きだつたのでよくあの店へ買ひにいつた事を思ひ出します。


昭和24年(1949)4月21日 堀尾勉宛書簡より光太郎67歳

酒悦」は現在も続く佃煮や漬物のメーカーです。本店は上野の不忍池のほとりだったのですね。

埼玉から公演情報です。

木村俊介Concert『鵲(かささぎ)の橋の上で』Vol.2〜日本と韓国の文学作品をモチーフに〜

期 日 : 2024年9月8日(日)
会 場 : 柏屋楽器フォーラム ホール 埼玉県さいたま市浦和区岸町7丁目1-9
時 間 : 開場 17:30 / 開演 18:00
料 金 : 【完全予約制】全席自由 5,500円 100名様限定

 豊かな表現力と卓抜なテクニックでオンリーワンの活動を展開するpakusuna氏。その氏との定例公演を日韓で重ねることで、コラボレーションの可能性をより深く追求したく、このプロジェクトを始めました。
 第2弾となる今回は、長年の念願叶って、特別ゲストに俳優の壤晴彦氏を迎えます。師と仰ぐ大先輩に真っ向勝負で挑みます。
 音楽界、演劇界の異才、鬼才が全身全霊でぶつかり合い、響き合う時、そこにどんな情景が広がるのか。美しいまでの切なさ、哀しいほどの愛おしさ。
 会場に足をはこんだ皆様だけが体感できる、心震える瞬間を、是非ご堪能ください。

出 演
 〈笛・三味線・打楽器〉木村俊介  〈伽耶琴(カヤグム)〉パク スナ  〈語り〉壤晴彦

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フライヤーに細かなプログラムの記載がありませんが、語りとしてご出演の壤晴彦氏が「智恵子抄」と他一篇を朗読なさるそうです。当然、ア・カペラではなく木村氏とパク氏の音楽とのコラボでしょう。

壤氏、かなり以前から「智恵子抄」朗読に取り組まれています。このブログでも平成24年(2012)リリースの朗読CDをご紹介しました。
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久しぶりに聴いてみましたが、やはりいい感じです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今朝は早速一三五番クワルテツトをきく事が出来て感謝しました。おかげで山にゐていい音楽がきけ、長い間の音楽飢餓から脱する事ができます。


昭和24年(1949)4月15日 宮沢清六宛書簡より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも村人達が電線を引いてやり、さらに賢治実弟の清六を通してラジオを購入しました。

一三五番クワルテツト」はおそらくベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 作品135」でしょう。

8月19日(月)の『毎日新聞』さんから。

「写真の鬼」の新たな顔発掘 土門拳記念館、展示の幅広げる 山形・酒田、若いファンを開拓

 昭和を代表する写真家で「写真の鬼」と呼ばれた土門拳(1909~90年)の記念館が、出身地の山形県酒田市にある。全作品を所蔵する聖地だが、ファンの高齢化が主な要因で来場者が減少。同館は新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新に乗り出した。
 土門は戦前、報道写真家として歩み始め、脳出血で倒れた60年ごろから寺社や仏像の撮影に注力した。リアリズムに徹した作品で国内外に知られ、詩人の高村光太郎からは「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評された。写真集「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」などが有名だ。
 酒田市の名誉市民第1号になった74年、同市に全作品を寄贈すると表明。記念館は日本初の写真専門美術館として83年に開館し、ピークの90年度には約8万2千人が訪れた。だが以降はほぼ右肩下がりで、2023年度は約2万2千人だった。
 そこで取りかかったのが「土門の新たな面に光を当てる」試みだ。これまで代表作中心に展示してきた中、今年4~7月に、演出的手法で有名な写真家・植田正治との2人展を開催。対照的に語られる2人に共通点も少なくないことを紹介した。
 2人展では、土門の作品約30点を初展示。13万5千点に及ぶ所蔵作はほとんどが写真集や雑誌に掲載されたことがないため、今後も展示の幅を広げていく。
 昨年6月には5代目館長に、同市出身の写真家・佐藤時啓さん(66)が就いた。今までは土門の弟子や親族などが務めてきたが、土門と会ったことがない初めての館長になった。業績顕彰のコンセプトは維持しつつ刷新も目指すため、来年4月から館の呼称を「土門拳写真美術館」に変える。「新たな解釈を発掘し、常に生きた展示をしたい」と強調した。
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山形県酒田市の土門拳記念館さんがらみ。写真家の土門拳、その人となりが紹介される際、今回の記事のように光太郎の評が引用されることがままあります。平成27年(2015)令和元年(2019)の『山形新聞』さんなど。

全文はこちら。

 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。

昭和18年(1943)3月1日の雑誌『写真文化』第26巻第3号に載った「土門拳とそのレンズ」。戦後の昭和28年(1953)に刊行された土門の写真集『風貌』の内容見本に転載され、『高村光太郎全集』では初出をそちらとしていましたが、数年前に『写真文化』への掲載を確認しました。

『風貌』には木彫「鯉」を彫る光太郎の姿が収められました。
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他に土門を評した文章として、昭和27年(1952)4月1日の『岩手日報』に載った「藝術についての断想」の一節。

 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。

土門の写真は評価していた光太郎ですが、自分が撮られるのは実に嫌がっていまして……(笑)。「いつか」というのは昭和26年(1951)5月21日。日記に記述がありました。

ひる頃土門拳来訪、助手二人同道、今夜横手市の平源にゆき、明日秋田市にゆく由。写真撮影。三時頃辞去。元気なり。

宇垣一成は戦前の外務大臣。昭和13年(1938)、宇垣を撮った写真がアメリカの『ライフ』に掲載され、土門の名を高からしめました。その宇垣の写真、宇垣の評伝の表紙に使われたりもしています。
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なるほど、光太郎の「あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない」「宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえる」という発言も頷けます。自分がこんな写真を撮られるのは勘弁、ということでしょう。

土門は仏像の撮影でもその手腕を発揮しました。昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
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こちらに載る予定だった光太郎の「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛しています。

 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。

ただ、大人の事情で撮影許可が下りず、この文章は未掲載となってしまいました。

他に土門は、「鯉」とともに現存が確認できていない光太郎の彫刻「黄瀛の首」を撮影しました。そちらは当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の表紙を飾るなどしています。
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さて、土門拳記念館さん。記事に有る通り、苦戦中だそうで。地の利も余りよくありませんし、コロナ禍なども逆風となったのではないでしょうか。この手の文化施設共通の悩みのような気もします。
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新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新」だそとのことで、それが吉と出るか凶と出るか、ですね。時代の変遷に対応するのは大事ですが、さりとて迎合となるのは避けていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は小学校の卒業式で、可愛らしい生徒さん達のよろこぶさまを愉快に思ひました。小生も一席お祝をのべました。部落の青年団の団旗の図案をして上げたのが出来てきて青年達がその旗を持つて見せにきました。独創的なもので中々おもしろく出来ました。

昭和24年(1949)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

この旗は現存します。
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今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区のアトリエの保存のための組織です。

このたび、会としてのホームページが立ち上がりました。
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会の世話役であらせられる日本詩人クラブ理事の曽我貢誠氏が手配して下さり、そのあたりにお詳しいという同クラブご所属の詩人・遠藤ヒツジ氏に作成していただきました。多謝。

中野のアトリエ、もともとは恐らく光太郎とも面識のあった水彩画家・中西利雄が、建築家の山口文象に設計を依頼して自分用に建てたものでした。しかし、その完成とほぼ時を同じくして中西は急逝。昭和23年(1948)のことです。
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せっかく建てたアトリエを活用しないのはもったいないと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することになり、彫刻家のイサム・ノグチが最初の借り手となりました。その後、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を青森県から依頼された光太郎が、花巻郊外旧太田村の山小屋では制作が不可能なため、このアトリエを借りることとなりました。

そこで、「乙女の像」石膏原型はここで作られたわけです。ホームページのトップ画像は中西アトリエで制作中の光太郎。また、ホームページ内「ギャラリー」の項には、助手の小坂圭二と写った写真など他の画像も掲載されています。

光太郎、像の除幕後、一時的に旧太田村に2週間程帰村したり、宿痾の肺結核のため昭和30年(1955)には赤坂山王病院に2ヶ月程入院したりしましたが、それ以外はこのアトリエで起居しました。当初の目論見では、寒い冬場はこのアトリエで過ごし、春になったら岩手へと、二重生活を考えていたようなのですが、健康状態がそれを許しませんでした。もはや帰村は叶わないと悟った入院時には、住民票もこのアトリエに移してしまいました。

そして亡くなったのが昭和31年(1956)4月2日。最晩年の約3年半、このアトリエで過ごしたことになります。その間、中西夫人や子息の利一郎氏らが何くれとなく光太郎の世話をして下さり、子や孫の居なかった光太郎にとって、中西家の人々は家族同然だったようです。

光太郎没後もアトリエはしばらく借り続けられ(おそらく実弟の豊周が費用を負担したのでしょう)、当会の祖・草野心平や、当会顧問だった北川太一先生らによる最初の『高村光太郎全集』編集室として使われました。そして昭和32年(1957)4月2日、第一回連翹忌の会場ともなりました。

昨年、利一郎氏が亡くなり、このアトリエが存続の危機です。お父さまが光太郎と交流があり、ご自身も利一郎氏と親しかった渡辺えりさんに代表を務めていただき、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を結成しました。003

今後、保存に向けてのさまざまな活動を行っていきますが、皆様方にも御支援を賜りたく存じます。ホームページ内には署名の項があり、既に紙媒体で署名していただいた方はブッキングしてしまいますので結構ですが、SNS等で拡散していただきたく存じます。不鮮明ですが、QRコードも載せておきます。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

音楽だけは山ではきけず、時々ひどくききたくなります。


昭和24年(1949)3月23日 西岡文子宛書簡より 光太郎67歳

この年、電線は村人に引いてもらったので、やがてラジオを入手、音楽も聴けるようになりますが、まだ先の話です。

まずは地方紙『室蘭民報』さん記事から。

近代詩文書、見事な筆遣い 故佐々木寒湖氏の書展

 だて歴史文化ミュージアムの企画展「佐々木寒湖の書展」が伊達市梅本町の同ミュージアムで行われている。市に寄贈があった近代詩文書15点の見事な筆遣いが来館者の目を引いている。9月23日まで。
 故佐々木寒湖(本名・清)氏は増毛町出身。1945年から56年まで伊達高校(現在の伊達開来高校)で教壇に立ち、市の書道文化の礎づくりに尽力した。
 今回の企画展は同氏の生誕110年に合わせて実施。初日には同ミュージアムの蝦名未来学芸員が来館者に作品の鑑賞ポイントを伝えるイベントを行った。力強い筆痕が特徴の「梅雨くらく」では「余白が少なく『怒涛(どとう)』という文字を中心に置くことで迫力を感じる」と説明した。このほか、詩人三好達治や木下杢太郎の詩を引用した作品もある。
 蝦名学芸員は「かな文字と漢字が交ざり、読みやすいのが近代詩文書。書道文化に触れて」と来館を呼びかけている。観覧無料。
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記事本文に光太郎の名がありませんが、画像の一番右の作品が光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を書いたものです。
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展覧会詳細は以下の通り。

「佐々木寒湖の書」展

期 日 : 2024年8月10日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : だて歴史文化ミュージアム 北海道伊達市梅本町57番地1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

旧伊達高校(現伊達開来高校)で教鞭をとっていた故佐々木寒湖氏の作品を展示します。書道作品の観覧ポイントについても解説します。

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故・佐々木寒湖氏という方、記憶にある名だなと思って調べたところ、このブログで平成30年(2018)に伊達市内の別の施設で行われた同様の展覧会を紹介していました。

近代詩文の書で光太郎の詩の一節等が取り上げられる機会は少なくないのですが、書家の皆さん、書道団体の方々、お知らせいただければ出来る限り紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。


昭和24年(1949)3月18日 徳江儀正宛書簡より 光太郎67歳

青根温泉は蔵王山腹の温泉地。昭和8年(1933)、心の病の昂進した智恵子の湯治のため、東北や北関東の温泉巡りをした際にここにも滞在しました。「大佐藤」は現在の湯元不忘閣さん。
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徳江は宮城在住だった人物で、光太郎に素晴らしい温泉があるので湯治に来ませんか、的な誘いをかけたのだと思われます。ただ、結局、青根再訪は実現しませんでした。

一昨日、兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館企画展「三木露風と交流のあった人々」を拝見して参りましたが、その前後の様子を。

同館周辺が重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い街並みが広がっています。
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その中に三木露風の生家もありました。
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無料で内部が公開されていました。ありがたし。

造りとしては武家屋敷風。そこで邸内には甲冑やら槍やらも何気に飾られていました。
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露風肖像写真。
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露風肉筆。
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ちょっと前に話題となった、露風と宮沢賢治のつながりに関わる新聞記事。
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別棟の離れ。
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ただし、両親が離婚したため、露風がここで過ごしたのは幼少期のみだそうで。

その後に移ったという場所も意外と近くでした。
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しかし、建物は建て替わっているようで「跡」。それでも門などは昔の面影を残しているのではないかと思われました。

その他、露風がらみでは、露風も訪れたであろうという店舗。なんとこれで現役の新刊書店です。
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内部。
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その他にも、江戸から昭和戦前と思われる建造物がたくさんあり、古建築好きの当方としてはテンションアゲアゲでした。

霞城館さん近くの武家屋敷資料館さん。こちらも入場無料。
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天井が低い造作です。賊が襲ってきても刀が振りかぶれないようにしてあるわけで、防衛第一に考えられた造りです。

欄間の彫刻。素朴なものですが、かえって温かみを感じます。
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下は移転する前、山城だった頃の龍野城。

移転された龍野城。
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江戸初期には山麓に移されて平山城に。野面積みの石垣がいい感じでした。

上の画像の欄間は城下を流れる揖保川だそうで。

この地がかの高級そうめん「揖保乃糸」の発祥の地、商標名は揖保川から採ったとのことで、赤面ものですが、当方、存じませんでした。
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その他、街並みの風景。
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「なまこ壁」や「うだつ」。
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「うだつ」に煉瓦が使われているのは初めて見ました。

こんな感じで純和風でもないところがたまりません。お約束の洋館や擬洋館もあり、飽きが来ません。
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自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区も同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、当地は商都ですのでまた雰囲気が異なり、興味深く拝見しました。

こんな街です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生誕生日のお祝とて抹茶チヨコレートにんべんの鰹節やら珍らしいタバコ等いただいたので大によろこびました。今朝は早速お茶をたてました。池田園のお茶中々よく感謝しました。それからクールといふのをのんでみましたが、珍らしい涼しい味でうまいと思ひました。

昭和24年(1949)3月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、誕生日を迎え、満66歳となりました(上記「光太郎67歳」は数え年です)。

その祝いを兼ねて贈られた品々、鰹節のにんべんさんやお茶の池田園さんは健在ですね。「クール」は「KOOL」、こちらも健在のアメリカのメンソール煙草です。そこで「涼しい味」。日本で正式に販売が始まったのは昭和35年(1960)頃ですが、進駐軍の関係で入手できたのでしょうか。

昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数遺された文化勲章受章の日本画家、故・大山忠作画伯。女優の一色采子さんのお父さまでもいらっしゃいます。
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JR東北本線二本松駅前に大山忠作美術館があり、そちらで今秋、同館開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が開催されます。

これまで門外不出だった画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて他で展示されるということで、注目を集めています。光輪閣さんでも時折公開が行われるのですが、それもいつもというわけでもなく、滅多に見られません。

ちなみに光輪閣さん、今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となり、藤井聡太七冠と豊島将之九段が激突しました。その際の報道の画像、背景に問題の襖絵が映っています。
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その襖絵展に向けてのクラウドファンディングが進行中です。

大山忠作美術館開館15周年記念特別企画展|襖絵展開催に向けて

【かかる費用の総額】 1,400万円
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 

【クラウドファンディングの使い道】
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 などかかる経費の一部に使わせていただきます。

【目標金額】 1,000,000円
 目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができます(All-or-Nothing方式)。支援募集は9月12日(木)午後11:00までです。

【リターン】
 大山忠作襖絵展を応援コース
  感謝のメール
   3,000円 5,000円 10,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
 大山忠作襖絵展を行って応援コース
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚
   5,000円 10,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、
  大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
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昨日の段階で目標金額100万円に対し、支援総額65万5千円。あと34万5千円不足です。上に赤字で書きましたが、目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができるというシステムだそうで、このままでは成立しません。

当会としても支援を行いましたが、皆様にも是非宜しくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「女性線」の詩は少々変なもので、フロイド学者の材料になりさうなものですが、事実見た夢の通りに書きました。


昭和24年(1949)3月6日 西田大三宛書簡より 光太郎67歳

「「女性線」の詩」は、「噴霧的な夢」。
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   噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)
  のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。

まさにフロイト学派が泣いて喜びそうな夢判断が為されそうですね(笑)。

画像は昭和3年(1928)、箱根の大湧谷です。

昨日、岐阜で今週末に開催され、蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』も演奏されるコンサート「リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子」についてご紹介しましたが、同じく蒔田氏の歌曲集『智恵子抄』がプログラムに入ったコンサートが大阪でも。

北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜

期 日 : 2024年8月29日(木)
会 場 : 本願寺津村別院(北御堂) 大阪市北区本町4-1-3
時 間 : 12:25~12:45
料 金 : 無料

どなたでもご参加いただけます。お寺で少し休んでみませんか?皆様のお越しを心よりお待ち申しあげます。

出 演 : 永山玲奈(sop) 生田英奈(pf)
プログラム
 恩徳讃 親鸞聖人
 R.シュトラウス/作品10 《最後の葉》より 1.「献呈」 2.「何も」 8.「万霊節」
 蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 小林秀雄/日記帳
 C.グノー/歌劇《ファウスト》より「まぁ!なんと美しい姿(宝石の歌)」
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蒔田氏の「智恵子抄」、昭和45年(1970)頃の作曲で、あまり演奏される機会が無かったと思われますが、このところ取り上げて下さる方が増えてきている感じです。当方の把握している限りでは市販されたCD等には収められたことがありませんが、YouTubeに複数の方の演奏が上がっていて、そのあたりの影響もあるのかも知れません。

今回のコンサートは会場となっている本願寺津村別院さんの主催で、月イチくらいのペースで開催されているようです。すぐお隣の相愛大学音楽学部さんとのコラボで、そちらで学ばれている方や、ご出身の方などがご出演されていると思われます。毎回、短時間の公演で、入場無料(例外があるかも知れませんが)。若手の演奏者の皆さんに発表の機会が与えられ、さらに無料で開催されるということで地域貢献にもなり、うまいこと考えるもんだと感心しました。

ところで会場の本願寺津村別院さんの別名が「北御堂」。北があれば南もあって「南御堂」はすぐ近くの真宗大谷派難波別院さん。この二つのお堂があるので「御堂筋」。

「御堂筋」といえば、「御堂筋彫刻ストリート」。最愛の妻・智恵子の顔を持つ光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も「みちのく」の名で並んでいます。
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コンサートをお聴きの上、併せてご覧いただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

この部落をホームスパンの生産地にしたいとかねて考へてゐましたが、緬羊(メリノー種など)も相当に農家で飼つてゐるので、去年から講習をはじめ土沢町から先生に来てもらひ、農家の娘さんでもう平織のマフラー位は織れるやうになつた人もあります。


昭和24年(1949)2月28日 更科源蔵宛書簡より 光太郎67歳

ホームスパンは羊毛を使った毛織物。「先生」は及川全三とその弟子・福田ハレ。戦前、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパンの毛布が、奇跡的に二度の戦火をくぐり抜けて光太郎の手許に残り、そうした関係もあってホームスパンには並々ならぬ関心を寄せていました。

残念ながら光太郎の暮らしていた旧太田村ではホームスパン制作は根付きませんでしたが、岩手県としては現在でも特産品の一つです。

岐阜から演奏会情報です。

リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子

美濃加茂市公演
 期 日 : 2024年8月24日(土)
 会 場 : 美濃加茂市立東図書館2階視聴覚ホール 岐阜県美濃加茂市本郷町9-2-22
 時 間 : 13:30開場 14:00開演 16:00終演予定
 料 金 : 全席自由1,800円

岐阜市公演
 期 日 : 2024年8月25日(日)
 会 場 : クララザールじゅうろく音楽堂 岐阜市本郷町1丁目28番地
 時 間 : 13:30開場 14:00開演 16:00終演予定
 料 金 : 全席自由2,000円

 出 演 : 大梅慶子(sop) 内多瑞子(pf)

一人の歌手とピアニストがデュエットをするように詩の世界を音楽と言葉で紡ぎます。今回は「人生の伴侶」への想いが綴られた心温まる詩を中心に選びました。言葉が音楽によって息づき、私たちの人生と結びつく瞬間。詩の物語をご一緒に体験し、その世界を愉しむ時間を過ごしませんか。

【プログラム】
 R. シューマン: 歌曲集『ミルテの花』作品25より「献呈」「くるみの木」ほか
 R. シューマン:連作歌曲『女の愛と生涯』作品42
 蒔田尚昊:歌曲集『智恵子抄』(詩:高村光太郎)
 越谷達之助: 初恋
 小林秀雄:落葉松         ほか 
  (プログラムは変更になる場合があります)
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蒔田尚昊氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」がプログラムに入っています。「より」の語が附けられていないので、全5曲を演奏されるのでしょう。ちなみにラインナップは「I 樹下の二人」「II あどけない話」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」です。

抜粋で取り上げられることは少なくないのですが、全曲完奏は最近ですと当方の記憶にありません。こちらの情報網にかかっていないだけで、どこかで演奏されているのかも知れませんが。

同氏、以前にも書きましたが、「冬木透」の名義でウルトラシリーズの音楽を担当もされていました。昨年には都内で「「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサート」と銘打ち、クラシック系とウルトラ系双方を取り上げる公演もありました。第一部が「蒔田尚昊」名義のクラシック系で、第二部は「冬木透」クレジットのウルトラ系。

YouTube上にその際の加耒徹氏による「あどけない話」がアップされています。


お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

電燈が近く来さうで部落の人達が電柱用の材木を運んだり、穴を掘つたりしてくれました。部落の人の好意はありがたいと思ひます。電燈が来れば仕事が多いにはかどるでせう。

昭和24年(1949)2月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らし、ここまで3年余り電気無しのランプ生活でしたが、見るに見かねた村人たちが電線を引っ張って上げることになりました。

今日、8月20日は昭和16年(1941)に『智恵子抄』初版の発行された日です。というわけで(というわけでもないのですが(笑))智恵子に絡むイベント2件、ご紹介します。

まずは智恵子の故郷・福島二本松での紙絵制作ワークショップ。

親子で楽しめるワークショップ「Satoyamaのはなしとものづくり」 第2回 智恵子の紙絵「紙絵のラブレター」

期 日 : 2024年8月24日(土)
会 場 : 二本松市市民交流センター2F 創作スタジオ 福島県二本松市本町二丁目3-1
時 間 : 9:30-11:00
料 金 : 子ども一人500円

 ⼆本松出⾝の⾼村智恵⼦さんは、詩⼈で彫刻家の夫・⾼村光太郎の『智恵⼦抄』の詩を通して、全国に広く知られている存在です。⽂献や資料を拝⾒すると、光太郎さんと智恵⼦さんの 2 ⼈は芸術家として互いに切磋琢磨し、刺激し合い、そして⽀え合っていた深い愛情が伺えます。
 ⼆本松の和紙や、千代紙、もみ和紙、包装紙、折り紙の模様や⾊を切って貼って、ラブレターをつくってみましょう。⾔葉を綴らないラブレターです。
 ⼤好きな感情をさまざまな紙の素材や⾊にのせて、切って貼って、制作します。親⼦や友達同⼠で参加して、お互いに制作して交換するのも素敵ですね。

【講 師】 よしもとみか(移動絵本図書館 みず文庫)
【対 象】 県北地方在住の小学生
      (福島市、伊達市、二本松市、本宮市、桑折町、国見町、川俣町、大玉村)
【参加人数】各回親子10組 ※先着順
【お問い合わせ】Hi there合同会社 TEL:090-4368-5410(平日9:00-17:00)
                 MAIL:contact@hithere.studio
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ただし、すでに定員に達してしまったそうで……。それでもキャンセル等が有るかも知れませんし、「こういうイベントもあるんだよ」ということで。

もう1件、千葉から展示の情報です。概要をわかりやすくするために、『毎日新聞』さん千葉版記事から。

時代を映す表紙絵 明治初期~昭和30年代 「夢みる女性誌展」 市川市文学ミュージアム

001 明治初期から昭和30年代までに発刊された女性向け雑誌を集めた企画展「夢みる女性誌展」が市川市文学ミュージアム(同市鬼高1)で開かれている。竹久夢二や中原淳一などが描いたレトロでかれんな表紙絵を通じて、当時の女性たちの生き方を紹介している。9月16日まで。入場無料。
 同展は、群馬県立土屋文明記念文学館の協力を得て、明治、大正、昭和、そして同市ゆかりの脚本家、水木洋子に関する展示の四つのコーナーがあり、女性雑誌91点や付録17点などを出展している。
 明治のコーナーでは、1884年に日本初の女性雑誌とされる「女学新誌」第1号(復刻)や、平塚らいてうが編集長を務めた文芸誌「青鞜」第1巻第1号(同)などが展示されている。
  同ミュージアムによると、明治の女性誌は、良妻賢母となるための知識を与える教育や啓発を目的とした「女学」雑誌が中心という。大正になると、大正デモクラシーの影響で、読者の投稿欄が登場するとともに、商業化が進み、華やかな表紙や付録なども登場する。
 昭和に入ると、第二次世界大戦中の戦争一色に染まった誌面もあるものの、女性誌の役割は学びから娯楽に変わり、戦後は新しい時代を迎えた華やかな雑誌が主流となった。
 担当学芸員の西村悠々大さんは「女性誌は時代によって役割を変えていった。表紙を通じて、それを感じてほしい」と話す。


展示詳細は以下の通り。

夢みる女性誌展

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月16日(月・祝)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

 明治から昭和30年代までの時代を取り上げ、その間に発刊された女性向け雑誌を展示します。『女子文壇』や『青踏』から『主婦之友』『婦人倶楽部』『少女界』『それいゆ』などの雑誌と、それを彩った竹久夢二や中原淳一などが描いたレトロで可憐な表紙絵を中心に、当時の女性の生き方を紹介します。
 また、昭和20年から30年代にかけて活躍した脚本家・水木洋子のラジオドラマにもなった『あなたと共に』の初出雑誌やこだわりの洋服や帽子も展示します。展示物を通じて、当時の女性たちの時代とその変遷を感じていただければ幸いです。
 ※会期中一部展示替えを行います。
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智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)も展示されています。ただし複製ですが。それでも複製だけにきれいなのでしょう。
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『毎日』さん記事に有る通り、群馬県立土屋文明記念文学館さんの協力です。同館では平成22年(2010)に同名の企画展示を行い、かなり入場者を集めたようで、そのノウハウを生かすということでしょう。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

法隆寺の火事にはまつたく驚きかなしみました。大切なものを大切に扱はない結果でせうが、これも人心荒廃の一現象です。


昭和24年(1949)2月16日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

「法隆寺の火事」は前月末。漏電によるものだったそうで、国宝に指定されていた白鳳時代の金堂壁画の大部分が焼失してしまいました。













 


会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

まず、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんテナントのミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分。メニュー考案には花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが協力なさっています。
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今月のメニューは「鰹の南蛮漬け」「牛肉のアヒージョ」「茄子の揚げ浸し」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「ジャガイモ入りカレー炒飯」「ミニトマトゼリー」「瓜の漬物」だそうで。

けっこうこってり系だったようですが、夏バテ予防にはいい感じだったみたいです。卵焼きはいつも塩麹入りなのですが、今月は新しい試みで青海苔入り。それも美味しそうですね。

基本、光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考に、現代風にアレンジされたものですが、同様のコンセプトでワンデイシェフの大食堂さんというお店でランチを提供する「こうたろうカフェ」、今月はお休みで次回が9月4日(水)だそうです。先月分はこんな感じ

今朝の段階ではHP上に来月のメニューが出ていませんが、また凝ったメニューになるのでしょう。

お近くの方(遠くの方も(笑))ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小豆をよろこんでいただいて感謝しました。今年もかなりとりましたが今度はもつと多く作るつもりです。ウヅラ豆の大増産もやらうと思ひます。


昭和24年(1949)1月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での畑作も軌道に乗り、作った作物を他に送れるほどになっていたわけで、「光太郎ランチ」でも使われていた小豆をお裾分けしています。

「今年」とありますが、年が改まっていますので正確には「昨年」、まぁ、「今期」という意味なのでしょう。

過日ご紹介した、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等が花巻市に寄贈された件につき、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「空襲」「肺炎」「仕事」…高村光太郎がつづった手紙64点寄贈 送り先の孫が岩手・花巻市に

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が詩人中原綾子(1898~1969年)に宛てたはがきや手紙計64点が7月、光太郎ゆかりの岩手県花巻市に寄贈された。綾子の孫が米カリフォルニア州の自宅で保管していたもので、光太郎の肉筆がまとまった形で残された非常に貴重な資料。市は高村光太郎記念館(花巻市)での展示を検討している。

戦時中の空気感や光太郎の息遣いを伝える
 綾子は詩人与謝野晶子に師事し、光太郎も寄稿した文芸誌「明星」で活躍。光太郎が統合失調症を患った妻智恵子の看病に疲弊した際は、手紙を送り合って励ました。
 はがきや手紙の執筆時期は1929~51年。ペンによる洒脱(しゃだつ)な筆跡が書家の顔ものぞかせる。疎開先だった宮沢賢治の実家から送った45年のはがきは、東京大空襲による自宅焼失や肺炎の回復、仕事への意欲を伝えている。
 49年の手紙には、綾子が主宰した雑誌「スバル」への寄稿「みちのく便り」を記載。岩手県奥州市水沢で眺める星空の美しさを「頭に覆いかぶさるよう」と情感豊かに表現し、書き損じや修正の跡も見られる。
 資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されているが、現物は公開されていなかった。市は専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議する。
 記念館の梅原奈美館長は「保存状態が良く、インクの筆跡も鮮やか。活字にはない戦時中の空気感や光太郎の息遣いが感じられる」と評価する。
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また、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』8月15日(木)号にも寄贈資料の内、一点が紹介されています。
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花巻市の担当者氏からデータを送っていただきまして、概観したところ、『河北新報』さん記事中の「資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されている」というわけでもなく、『高村光太郎全集』未収録の書簡も7通含まれていました。うち1通は中原が主宰していた雑誌『スバル』に載ったアンケート「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」に対する回答で、アンケートとしては『全集』に記載されていますが、他の6通はまったく活字化されていないものでした。

『全集』未収のものは高村光太郎研究会さんから来春発行予定の会誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

『全集』既出のものも、以前にも書きました通り、昭和10年(1935)前後の、心を病んだ智恵子の病状が詳細に書かれたものなど、後の光太郎智恵子研究に大きく影響を及ぼしたものもありますし、中原の歌集や詩集、中原主宰の雑誌『いづかし』『スバル』等に載った詩文の原稿も含まれ、「書」として見ても優品です。

「専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議」とありますが、早くても来年になると存じます。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

絖と一緒にいろいろ御恵贈の文房具まことにありがたく頂戴いたしました。在中のボールペンも珍らしく、早速此の通り使用してみました。大変滑らかなものだと思ひました。先日のおてがみで絖にはモナリザを書く事にいたしました。

昭和24年(1949)1月5日 野末亀治宛書簡より 光太郎67歳

「絖」は「ぬめ」と読み、書画を書くための絹布です。「モナリザ」は遠く明治末に書かれた詩「失はれたるモナ・リザ」。さすがにこれはボールペンで書きませんでしたが。

どうもこの書簡が書かれた際が、光太郎生涯初のボールペン使用だったようです。

昨日は久々に上京しておりました。まずは上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示・総合文化展の拝観(その後、国会図書館さんに廻って調べもの)。
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盆中でどんなもんだろうと思っていたのですが、そこそこの人出という程度、押すな押すなの盛況というわけではありませんでした。

真っ先に第18室へ。
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最も見たかった作品が、光太郎の木彫「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。コロナ禍中の令和3年(2021)にもひっそりと出されていたそうなのですが、その際には気づきませんで……。

同じく木彫の「鯰」(大正14年=1925)と並べて展示されています。
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あまり混んでいなかったので、さまざまな角度から見て撮影出来ました。ラッキーでした。
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魴鮄の大きな特徴である巨大な鰭(ひれ)は体側に畳まれた状態。これを広げて表現すると、光太郎の技倆なら不可能ではないのでしょうが、どうも玩具のようになってしまうような気がします。
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cfc02c35鱗(うろこ)なども省略しています。光太郎、同じことを後に「鯉」の木彫でやろうとしました。鱗を彫ると俗っぽくなる、と。しかし鱗がないとどうにも鯉感が出せず、その処理が難しい、というわけで、結局、「鯉」は完成しませんでした。ただ、土門拳による製作中のスナップが残っています。

この「鯉」、注文したのは新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七でした。光太郎は「鯉」を完成出来なかったおわびにと、代わりに「鯰」を納品。この「鯰」は、現在、愛知県小牧市のメナード美術館さんで展示中です。

ちなみに松木、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、48歳にもなっていたのに「根こそぎ動員」ということで召集され、その年10月に南方で戦死しています。戦後、短歌も趣味だった松木の遺稿歌集『九官鳥』が上梓され、光太郎も追悼文を寄せました。

「魴鮄」と並べて「鯰」。松木に贈られたのとは別物です。さらにいうなら竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんにもまた別の「鯰」が収蔵されています。今回のものが「鯰1」、MOMATさんは「鯰2」、メナードさんで「鯰3」です。
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「魴鮄」がほぼ真っ直ぐな姿態であるのに対し、「鯰」はゆるやかにカーブを描き、そこが実にいいところですね。このカーブの部分を前後両方向からではなく、一方向からのみ彫っているそうで、それは実に難しいとのこと。この「鯰」を見た光太郎の父・光雲は、まずその点に驚いたそうです。プロは着眼点が違いますね。
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また、近代彫刻史の専門家・髙橋幸次氏は、このカーブによって体側にできる空間に面白味がある、とおっしゃっていました。余白の美、的な。そう考えると、晩年に光太郎が取り憑かれた「書」にも通じるような気がします。無理くりかも知れませんが。

光太郎作品はもう1点、ブロンズの「老人の首」も出ています。
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光太郎生前の鋳造で、もしかすると大正15年(1926)に開催された「聖徳太子奉賛展」に出品されたそのものかもしれません。

そして光雲の「老猿」。
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昨年3月、MOMATさんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」以来の拝観。

像高90㌢程なのですが、何度見てもその迫力に圧倒され、巨大な像に見えてしまいます。不思議なものですね。猿の視線が天空へと放散されているせいかもしれません。トーハクさんでは台座を高く設定しているというのもあるのでしょうが。

今回の展示は10月27日(日)までの予定。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスにはケーキを作りましたが香料がないので不十分でした。


昭和23年(1948)12月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中の山小屋で一人クリスマスケーキを焼く66歳……。ケーキと云っても生クリームなどありません。どんなものだったのか……。

安達太良山を舞台とし、「智恵子抄」をモチーフの一つとして下さった章を含む、湊かなえ氏の小説『残照の頂 続・山女日記』の文庫版が出ました。

残照の頂 続・山女日記 

2024年8月8日 湊かなえ著 小林百合子解説 幻冬舎(幻冬舎文庫) 定価670円+税

亡き夫への後悔を抱く女性と、人生の選択に迷う会社員。失踪した仲間と、共に登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。……日々の思いを嚙み締めながら、一歩一歩山を登る女たち。山頂から見える景色は、苦くつらかった過去を肯定し、これから行くべき道を教えてくれる。


目次
 後立山連峰
  亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
 北アルプス表銀座
  失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
 立山・剱岳
  娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
 武奈ヶ岳・安達太良山
  コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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新聞各紙に大きく広告も出ていました。サイン会の情報も載っています。
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元版は令和3年(2021)秋の刊行。ほぼ同時にNHK BSさんでドラマ化されました。工藤夕貴さん、小林綾子さんらのご出演。
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電子版も出ています。

ハードカバー版、お持ちでない方はぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は変つた冬で此の山の中でもまだ根雪にならず、降つてもとけてしまひ、概して天気がよく、寒さも零下八度ぐらゐになる程度で例年のやうな零下二十度にはまだなりません。冬晴れの澄みきつた天空の美しさは言語の外です。毎朝大霜で霜柱の大きく長いのははじめて見ました。一面に花が咲いたやうできれいです。


昭和23年(1948)12月30日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

この年の冬は暖冬だったようですが、それにしても……ですね。

8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
 同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
 光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
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続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。

高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
 「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
 講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
 小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
 光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
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光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。

ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。

ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。


昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳

三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。

その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。

001上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示「総合文化展」。数ヶ月ごとに展示品を入れ替え、「近代の美術」の展示室(第18室)で光太郎や父・光雲の作が出されることもけっこうあります(常に、というわけではありませんが)。光太郎ですとブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)、光雲なら「老猿」(国指定重要文化財 明治26年=1893)が多く展示されます。

現在の展示は8月6日(火)から。10月27日(日)までの予定です。「老人の首」と光雲の「老猿」がやはり出ています。

「老人の首」は、光太郎のアトリエ兼住居に花を売りに来ていた老人がモデル。零落した江戸時代の旗本のなれの果てだそうで。光太郎生前の鋳造で、昭和20年(1945)5月、花巻に疎開する直前に思想家・江渡狄嶺の妻・ミキに託したものです。
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それから光太郎木彫が2点出ています。

まず「鯰」。複数の作例があるうち「鯰1」とナンバリングをされているもの。大正14年(1925)の作です。
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ぬめぬめ感がたまりません(笑)。

この「鯰」はトーハクさんでも時々展示され、それから他館の光太郎展的な展示に貸し出されることもありますが、今回もう1点、そうでない作品が出ています。実はコロナ禍中の令和3年(2021)にも出ていたそうですが、その際は気づきませんでした。

「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。
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他館での光太郎展等だと、昭和41年(1966)、西武百貨店7階SSSホールで開催された「詩情に生きる〈美と愛〉 高村光太郎と智恵子展」に出されたのが最後ではないかと思われます。したがって、当方も現物を見たことがありません。出品目録によれば「個人蔵」。おそらく寄託されているのだと思われます。

現存が確認出来ている光太郎彫刻は、70種類あるかどうか。ブロンズは同一の型から抜いたものが複数存在するものが多く(代表作「手」など)、のべにすれば倍増しますが、木彫は1点ものですし。

さらに70種類程のうち、ブロンズでもそうですが、特に木彫で「大人の事情」により、ほとんど観ることが不可能になってしまっている作品もかなりの数存在します。中にはそうこうしているうちに火災で焼失してしまったらしい、と云われているものも。

「魴鮄」もそれに近いのかな、と思っていたのですが、健在が確認出来、さらに展示が為されているということで、喜ばしい限りです。

明後日あたり、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のりは御母上の思召のよし、何ともありがたく存じました。朝食に焼いていただくと子供の頃の事をおもひ出しますし、又「智恵子抄」の中の「晩餐」といふ詩の中の「鋼鉄をのべたやうな奴」といふ句をも思ひ出し何ともいへずなつかしい気がします。


昭和23年(1948)12月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中での暮らしだと、海苔はなかなか手に入りにくかったようです。

「晩餐」(大正3年=1914)は下記の通り。

   晩餐1008

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)から
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて1005
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

8月10日(土)、前日に第33回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町をあとに、帰途に就きました。その途中、女川町に隣接する石巻市に寄り道。石巻市博物館さんで開催中の第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」拝観のためです。

佐藤忠良は新制作派の彫刻家で、同じく舟越保武らとともに、光太郎のDNAを最も色濃く受け継いだ一人。昭和35年(1960)には第3回高村光太郎賞を受賞しています。仙台市の宮城県美術館さんに作品がまとまって収蔵されていますが、同館が改修工事に伴い休館中とあって、出開帳。
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これは観ておこうと思い、寄り道した次第です。

会場は石巻市博物館さん。けっこう郊外にあり、「マルホンまきあーとテラス」という新しい施設内で、データが古い愛車のカーナビには入っていませんでした。周辺の道路も少し前とはかなり様相が異なっているようで、ナビ頼みだとえらい遠回りを強いられました。
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ありがたいことに写真撮影可。その代わり、「SNSで発信して下さい」だそうで(笑)。
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「略歴」のボードには第3回高村光太郎賞受賞も書かれていました。ありがたし。

会場内はこんな感じ。
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フライヤーにも使われている代表作の一つ、「帽子」。
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こちらも代表作の一つ、「群馬の人」。
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光太郎や荻原守衛、高田博厚などを見慣れている当方、やはりこうした具象彫刻は安心して見られます。ただ、具象なら何でもいいというわけでもなく、ただの立体写真じゃん、というものはパスしたいところ。その違いは何なんだ、と云われてもうまく言葉で表現出来ませんが、やはり纏っているオーラとでも云いましょうか、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。佐藤の作品からもそれがびんびん伝わってきます。

お嬢さんの佐藤オリエさんをモデルとした作品。
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オリエさんは昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。忠良はその際のオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という作品も残しています。それがあるかと期待していたのですが、残念ながら展示されていませんでした。
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以前に仙台の宮城県美術館さん自体で「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を拝見した際にもこれは出ていませんで、もしかすると収蔵されていないのかもしれません。

その他、彫刻以外での佐藤の大きな仕事の絵本関連の展示も充実していました。
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驚いたことに、佐藤以外に、石巻出身の高橋英吉の作品も2点。高橋は東京美術学校で木彫を学んだ彫刻家で、光太郎の後輩、さらに関野聖雲に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たります。

木彫の「少女像」(昭和11年=1936)。薄く彩色が施されています。
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ブロンズの「男の首」(昭和14年=1939)。
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今年4月に信州上田の戦没画学生慰霊美術館 無言館さんに伺った際にも思いがけず高橋の作品が展示されていて驚きましたが、今回も驚きました。
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パネル最後にある通り、高橋は若くして戦没。数え32歳の昭和17年(1942)、太平洋戦争激戦地の一つ、ガダルカナル島でのことでした。そこで無言館さんに作品や遺品が展示されているわけです。

ちなみに無言館さんといえば、今週土曜日、地上波テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で無言館さんがメインで取り上げられます。系列のBSテレ東さんでは来週でしょう。

新美の巨人たち Artで願う平和の旅② 戦没画学生慰霊美術館「無言館」×内田有紀

地上波テレビ東京 2024年8月17日(土) 22:00~22:30

【沈黙の絵の真実とは】戦没画学生慰霊美術館「無言館」
長野県上田市。戦没画学生たちが遺した見果てぬ夢の数々。内田有紀 さんと訪れます。
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おそらく番組内では高橋より下の世代、もろに学徒動員等で在学中に召集されて戦死した画学生たちが大きく取り上げられると思われますが、ぜひご覧下さい。

それから、石巻市博物館の展示についての詳細情報。

第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」

期 日 : 2024年8月3日(土)~9月29日(日)
会 場 : 石巻市博物館企画展示室 宮城県石巻市開成1-8 マルホンまきあーとテラス内
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌日
料 金 : 無料

宮城県を代表する彫刻家 佐藤忠良の名作が石巻に集合します
 佐藤忠良(1912年生、2011年没)は、宮城県黒川郡落合村舞野(現・大和町)出身の彫刻家です。はじめは画家を志望していましたが、オーギュスト・ロダンなどのフランス近代彫刻に触れたことで、彫刻家としての道を歩み始めます。
 その後は太平洋戦争の出征とシベリア抑留を経て彫刻制作を再開、一貫して具象彫刻の制作を続けました。
 愚直な制作態度から生まれる慎ましく清らかな作風が評価され、69歳の時には、国立ロダン美術館から依頼を受けた個展が開催されています。
 この展覧会では、佐藤忠良記念館を有する宮城県美術館のコレクションから、代表作《群馬の人》や《帽子・夏》、石巻(旧・桃生郡鹿又村)出身の母をモデルにした《母の顔》等の29点のブロンズ彫刻を展示します。
 加えて、佐藤忠良が挿絵を手掛けた『おおきなかぶ』等の絵本や紙芝居も35点展示し、画家としての活躍にも注目します。
 展示室内には『おおきなかぶ』のフォトスポットやキッズコーナーを設けており、ご家族で楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 加えて、宮城県美術館の教育普及部による参加体験プログラムも開催することで、様々な世代の方々が佐藤忠良作品に親しむ機会を提供します。
 なお、この展覧会は、宮城県美術館の長期休館にともなうアウトリーチ事業です。
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関連企画 講演会「宮城ゆかりの彫刻家  佐藤忠良と高橋英吉 」
 日時 8月24日 土曜日 13時30分から15時まで (13時開場)
 場所 マルホンまきあーとテラス 小ホール
 講師 宮城県美術館 学芸員 土生和彦
 予約不要・参加無料

講演をなさる土生和彦氏、以前、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんにお勤めのころ、同館も巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお世話になりました。無沙汰を重ねていますが、ご活躍の由、嬉しく存じます。

それから、詳細情報が出ていませんが、佐藤忠良展入口前ではこんな展示も。
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高橋由一や速見御舟、そして光太郎の留学仲間の一人、安井曾太郎らの絵画です。ただし高精細複製。
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なるほど。

ついでですので、地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』さんから、佐藤忠良展報道。

彫刻に宿る愛、佐藤忠良の世界 石巻市博物館で県美収蔵品展示 来月29日まで

 石巻市開成の市博物館(マルホンまきあーとテラス内)で、第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」が開かれている。9月29日まで。市博物館と県美術館主催で、宮城出身の彫刻家・佐藤忠良さん(1912~2011年)の記念館を所有する県美術館のコレクションから展示している。
 三つの章から成り、第1章は代表作「群馬の人」や「母の顔」などのブロンズ彫刻14点を紹介する「佐藤忠良の世界」。第2章は友人の子どもや孫をモデルにしたブロンズ彫刻15点を展示する「子どもたちへのまなざし」。第3章「絵本の仕事」では佐藤さんが挿絵を描いた絵本「おおきなかぶ」や紙芝居など35点も公開している。「おおきなかぶ」のフォトスポットやキッズコーナーもある。
 福島県南相馬市から訪れた公務員堀耕平さん(65)は「作者の名前は知っていたが詳しくはなかったので、作風の経過を見ることができて良かった。子どもの彫刻や絵本からは子どもたちへの愛を感じた」と話した。
 黒川郡落合村舞野(現大和町)出身の佐藤さんは画家を志したが、フランス近代彫刻に影響を受けて彫刻家の道へ転向。太平洋戦争やシベリア抑留を経験した後も一貫して制作に取り組んだ。
 17日は県美術館教育普及部の参加体験プログラムが開かれる。自由に絵描きや木工作ができるオープンアトリエは午前10時から午後3時半まで。小学生以下と家族対象のシルエットクイズと紙製スタンド作りは午前10時から同11時半まで。16歳以上対象の彫刻作品やテーマに関するポーズ作りは午後2時から午後3時半までで全身を使ったアート体験ができる。
 このほか24日に講演会「宮城ゆかりの彫刻家 佐藤忠良と高橋英吉」、9月7日には実際に展示作品を見ながら質疑応答などができるギャラリートークがある。いずれも講師は県美術館学芸員の土生和彦氏で、予約不要。参加無料。
 連絡先は市博物館0225(98)4831。
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というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

博物館で小生の彫刻を見られた由、皆ひどい旧作なので気がひけます。あの少女裸像は智恵子像ではなく智恵子像ではありません。あのモデルはヨコハマのチャブ屋の少女でした。随分昔の作です。智恵子の裸体をモデルにしたトルソは焼けてしまひました。智恵子の首も焼失。却つてよかつたかも知れません。

昭和23年(1948)12月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「少女裸像」はこちら。大正6年(1917)の作です。
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それから「智恵子の首」。複数の作例の写真が残っています。
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「智恵子の裸体をモデルにしたトルソ」は残念ながら画像も確認出来ていません。

どうも光太郎、作品を作り上げるととたんに興味を無くしてしまう傾向にあったようで、旧作を自画自賛するということはほとんどありませんでした。自分に厳しい、といえばそうなのでしょうが。

一昨日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で第33回女川光太郎祭が開催されまして、その模様を昨日ご紹介しましたが、その前後や途中に女川の街中をぶらぶら歩きましたレポートを。

光太郎祭の前夜、8月8日(木)、女川に到着。毎年泊めていただいている女川駅裏にあるトレーラーハウス式のホテルエル・ファロさんに今年も宿泊。
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ユニットバスが付いているのですが、駅舎内に天然温泉ゆぽっぽさんがあり、毎年こちらに入らせていただいております。
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長距離運転の疲れを癒やし、ホテルに戻ってぐっすり就寝。

千葉の自宅兼事務所ですと、毎朝、午前5時にこいつが起こしに来ます。「朝ごはんよこせ!」と(笑)。
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そのため旅先でも絶対に午前5時に目が覚めてしまうようになってしまいました(笑)。

そこでぶらぶら街歩き。

まずは港の光太郎文学碑に。ちょうど日の出でした。
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昭和6年(1931)8月、光太郎がこの地を訪れたことを記念して、平成3年(1991)に建てられたもので、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧されました。

ただ、元々4基あったうちの2基は津波で流され行方不明。建立に奔走した女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も還らぬ人に……。

町役場に建立された東日本大震災の慰霊碑。貝(佐々木)氏の名も。
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それぞれの碑に手を合わせて参りました。

震災直後、当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが、震災の教訓を後世に残す活動の一環として、津波到達地点より高い場所に目印となるように石碑を建てることを発案。費用はかつて光太郎文学碑がそうしたことに倣い、全額募金で賄うことにしました。「いのちの石碑」です。
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そうして10年あまりかけて、町内の海岸21箇所に碑が建てられました。

震災から2年後の平成25年(2013)、中心メンバーの生徒さんたちが通っていた旧女川中学校に建てられた第1号碑。久しぶりに拝見に伺いました。
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女川光太郎祭会場のまちなみ交流館さん内に展示されているパネルから、その除幕の様子。ここに映っている生徒さんの中には、かつて女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読を複数回やって下さった方も。
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そして震災から10年後の令和3年(2021)、移転して小中一貫校となった女川小中学校さんに最後の第21号碑が竣工。
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女川の中心街を見守るように立っています。
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現在、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発令されています。ちょうど今年、碑を建てた中心メンバーのお二人が、南海トラフ地震での被害が予想される高知県の中学校さんで、ご自身の体験などをご講演なさいました。何ともタイムリーなタイミングでした。
「いのちの石碑」関連 in 高知。
「いのちの石碑」関連 in 高知 その2。

大きな被害が出ない程度に地震のエネルギーが分散し、終息することを望みます。

一旦ホテルに帰り、朝食を摂ったりのあと、午前10時に再び文学碑へ。献花です。
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もちろん光太郎に、それからかつて碑の建立に奔走された貝(佐々木)氏に、そして碑文の一部を揮毫された亡き北川太一先生に、万感の思いを込めさせていただきました。

それまで気がつかなかったのですが、碑の近くにはスケートボードパーク的な施設も出来ていまして、子供たちが練習中。
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ちょうどパリ五輪開催中ですが、ここからオリンピアンが巣立つようなことがあれば素晴らしいですね。

これも碑の近く、津波で横倒しになった鉄筋コンクリート造りの旧女川交番。震災遺構として保存されています。
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こうした建物被害などは防げないのかも知れませんが、人的被害は防げるはず。女川の様々な教訓を各地で生かして欲しいものだと思いました。

昼食は光太郎祭会場のまちなみ交流館さん向かいのお店で、海鮮釜飯(1,380円)。美味でした。一帯の商店街・シーパルピア女川さんは既存の施設があとからそのまま道の駅となった珍しいケースです。
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最後に光太郎祭のあと、懇親会が始まる前の夕刻の海。
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こんな女川町です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今年はサンマがたくさん出廻ったので先月あたりはサンマを例年よりも多くたべました。今はカジキマグロが時々出廻って入手出来、去年よりも栄養はいい方です。学校のそばの開拓事務所で魚類を時々取次いで売るので便利になりました。

昭和23年(1948)12月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区には、おそらく一軒も商店がありませんでした。村の中心部まで行けば多少はあったようですが、それも数㌔先。開拓事務所(これとて山小屋から1㌔近く離れていましたが)で魚の移動販売が始まったのはありがたかったでしょう。たぶん三陸の魚がメインだったと思われます。

昨日、宮城県女川町において光太郎を偲ぶ第33回女川光太郎祭が執り行われました。

まずは午前10時、女川港の光太郎文学碑に献花。当方、おそれながらセンターを務めさせていただきました。
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午後、近くのまちなか交流館さんを会場に、式典等。
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まずは黙祷。

続けて当方の記念講演。
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今年は光太郎ではなく智恵子をメインに語らせていただきました。

関係の方々のごあいさつ、祝辞等。女川光太郎の会・須田勘太郎会長、女川町長・須田善明氏、そして髙村家当主・髙村達氏。
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午前中の献花の様子をプロジェクタで投影。
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町内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読。
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今年で33回と言うことで、コロナ禍での中断もありましたが、それでもこうして朗読して下さった方はのべ300人を超えるだろうとのこと。まさに継続は力なりですね。

アトラクション的に音楽演奏。朗読の際にバックも務められたギタリスト・宮川菊佳氏のソロ。
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オペラ歌手・本宮寛子氏の歌唱。
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最後に運営の世話役・佐々木英子さんのごあいさつ。
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終了後、近くの中華料理店・金華楼さんにて懇親会(これがメインという説も(笑))。
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つつがなく終わり、安心しております。

また、来年以降も末永く続くことを願ってやみません。

本日開催される女川光太郎祭のため、昨夜から宮城県女川町に来ております。
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昭和6年(1931)の今日、新聞「時事新報」の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は東京を発ちました。おそらく芝浦港から三陸汽船の船で、塩竈港へ。その後、約一ヶ月かけ、宮城と岩手の太平洋沿岸を主に船で廻りました。

平成のはじめ、それを記念して女川町の貝(佐々木)廣氏が中心となって、当時の女川海浜公園に光太郎文学碑が建立され、その後、毎年8月9日に女川光太郎祭が開催されるようになりました。
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平成23年(2011)、東日本大震災の津波で町中心部は壊滅、この碑は倒壊し、貝(佐々木)氏も帰らぬ人となってしまいました。
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光太郎祭の運営はその後、奥さまの英子さんが引き継ぎ、コロナ禍での中断を経て、昨年から旧に復して開催されています。

町内外の方々による光太郎詩文の朗読、アトラクションの音楽演奏、おまけで当方の記念講演など。

つつがなく終わることを祈念いたしております。

テレビ放映情報です。光太郎に触れられるかどうか微妙なところですが……。

偉人の年収 How much? 童話作家 宮沢賢治

地上波NHK Eテレ 2024年8月12日(月) 19:30~20:00
再放送 2024年8月15日(木) 15:05~15:35

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる! 今回は童話作家 宮沢賢治の登場です!

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『やまなし』などの作品を生みだした岩手県出身の童話作家 宮沢賢治。小学生の時に先生が読んでくれた童話に感動し、童話の世界へ引き込まれます。25歳で上京して本格的に童話を書き始めますが、重病の妹を看病するため帰郷。その後、農学校の教師となり、自ら畑を耕して地域の農業発展に尽くします。あの不朽の名作『雨ニモマケズ』はどのように生まれたのか?当時の年収とともに探ります。

【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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今年1月には光太郎と交流の深かった与謝野晶子が取り上げられました。番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」だそうで、やはり経済という部分は大事だなと思わされました。

再現Vの部分では、今野浩喜さんが毎回その偉人役でご登場、スタジオMCの谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれまくっています(笑)。与謝野晶子の回では今野さんの晶子役、無理くり感満載でしたが、賢治はどうなるでしょうか。賢治と今野さん、ぱっと見よく似ているような気もするのですが(笑)。
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その「発見」の現場(昭和9年=1934の追悼会会場)に光太郎も居合わせ、のちに石碑に刻む揮毫を光太郎が行った「雨ニモマケズ」も大きく取り上げられます。
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花巻に建てられた光太郎揮毫の詩碑程度は映していただきたいものですが、どうなりますやら。

ともかくも、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

かかる時政治家などの不しだらな行動が報道されて憤りを感じます。まつたく一新してしまはなければ落ちつかない気がします。


昭和23年(1948)12月10日 西岡文子宛書簡より 光太郎66歳

政治家などの不しだらな行動」、GHQの目が光っていた当時は現代ほどではなかったと思うのですが……。それとも裏金作りだの脱税だのキックバックだの秘書給与不正受給だの公文書改竄だのカルト団体との癒着だの憲法違反だの猥雑パーティーだのコピペの式典挨拶だのパワハラだのは当時からまかり通っていたのでしょうか?

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

先月末の『日本経済新聞』さんから、千葉県君津市文化財審議委員・渡邉茂雄氏の玉稿。光太郎にも随所で触れられている氏の御著書『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に関して。

失われた肖像画を求めて 渋沢栄一ら描くも早世、作品は焼失 悲運の画家の功績語り継ぐ 渡辺茂男

 新1万円札に描かれた渋沢栄一と出くわした方も多いだろう。一方で失われてしまい、もう見られない渋沢の肖像画がある。描いたのは千葉県君津市出身の画家、柳敬助(1881~1923年)。熊谷守一や彫刻家・詩人の高村光太郎らと切磋琢磨(せっさたくま)し肖像画の第一人者となったが、42歳で早世。4カ月後の追悼展が関東大震災に遭い、代表作の多くが焼失した。
 23年9月1日は、友人らが日本橋三越で開く追悼展初日だった。柳の作品は約40点。渋沢の肖像などに加え、東京美術学校(現東京芸術大)時代に同居した熊谷の剣道着姿の絵もあった。高村や、同じく同居人だった画家の和田三造、辻永らも作品を寄せた。地震直後に作品は無事で、柳の妻・八重は墓碑銘のみ持ち帰った。ところが夜には火の手が回ってしまう。
 多くの作品が焼失したからこそ、画業を語り継がなければ――。柳と同じ君津生まれで小学校の後輩でもある私は、県立高校の社会科教諭をしながら市史編さんに携わり柳を知った。十数年前に退職した頃から本格的に資料を集めたり、絵が見つかったと聞けば調査に出向いたりし始めた。
 柳の生涯を彩ったのは、そうそうたる人々との交友だ。03年、指導者の黒田清輝の反対を押し切り美校を中退、渡米した。ニューヨークで師事したのは、パリで印象派を学んだロバート・ヘンライだ。「美術作品の価値はひとえに、目の前のものを見る画家の能力にかかっている」。残された柳の作品を見ると、ヘンライの教えを終生大事にしていたと感じる。
 現地で友となったのが彫刻家の荻原守衛(碌山(ろくざん))と高村だ。パリ、ロンドンを経て09年に帰国した柳は碌山の助けで東京・新宿のパン店、中村屋(現新宿中村屋)裏にアトリエを開くことになる。碌山は創業者の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と同郷で、店近くにアトリエを構え親密な交際を続けていた。
 だが柳のアトリエ完成とほぼ時を同じくして碌山は死去する。完成を祝おうと柳が君津から持ってきた桜が供花となったという。碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)と中村屋サロン美術館(東京・新宿)に柳の絵がまとまって残るのは、この友情のためだ。
 高村は生涯の友だった。11年、柳は橋本八重と結婚し、その後アトリエも雑司が谷に移す。肖像画家としての充実期が訪れていた。面白くないのが高村だ。精神不安定も重なり「友の妻」という詩で「君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の為に顫(ふる)へわななく」と、所帯じみた柳を激しい言葉で批判した。
 しかし高村に「智恵子抄」で有名な妻となる長沼智恵子を紹介したのも柳だった。日本女子大学校(現日本女子大)で八重の後輩だった人だ。同校とのつながりは深かったようで、渋沢を描いたのも彼が3代目校長を務めたためだと思われる。
 高村は柳の作品に辛辣な批評を寄せるなど、新たな芸術を目指す同志への愛が強烈だった。かたや柳にはにじみ出すような優しさがあり、同じ田舎の者として共感する。熊谷がスランプに陥った際、柳は交友のある作家・志賀直哉が持つ赤城山の別荘に誘い、共に出掛けた。ここで熊谷が描いた作品「赤城の雪」は、彼の画風変化のきっかけだったとも評される。
 この4月、私は柳の評伝「不運の画家」(東京図書出版)を自費出版した。柳にはキリスト教思想家の新井奥邃(おうすい)や宗教家の西田天香(てんこう)らとの縁もあり、詳述している。不運だったが才能と人に恵まれ、幸せな生涯だっただろうと思う。 (わたなべ・しげお=元高校教諭)
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関東大震災で代表作の多くが焼失し、渋沢の肖像画もそこに含まれていました。焼失した作品でも写真が残っているものは『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に画像が掲載されていましたが、渋沢像は写真も残っていないようです。残念ですね。

氏の地元・千葉県君津市さんの『広報きみつ』7月号に、以下の記事も載りました。
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柳敬助、もっともっと知られていていい画家と思います。記事にある安曇野の碌山美術館さん等にに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生もいつか此の山中のどこかで一人で死んで発見されるでせう。部屋の中か野外か、その時次第です。死ねばあとはどうでもいいです。草木の肥料となるのが一番いいでせう。


昭和23年(1948)12月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎66歳

この予想は当たらず、7年余りのち、都内で亡くなることになります。

死ねばあとはどうでもいい」。本人はそれでいいのかも知れませんが、周りとしてはそうもいかないわけで……。逆に自分の生きた証しを必死で残そうとする(生前に自分の銅像を作らせるとか)よりは潔いのかも知れませんが……。

当方としては、光太郎本人に「死ねばあとはどうでもいい」と言われても、その鮮烈な生の軌跡の全体像を出来うる限り明らかにしていく作業は止められません(笑)。

作曲家の湯浅譲二氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

作曲家、湯浅譲二さん死去 文化功労者

001 日本の現代音楽の発展に貢献した作曲家で文化功労者の湯浅譲二(ゆあさ・じょうじ)さんが7月21日午前8時43分、肺炎のため自宅で死去した。94歳。福島県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男龍平(りゅうへい)さん。
 戦後に多様な前衛芸術を展開した「実験工房」で武満徹さんらと活動。国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲した。
 テレビや映画の音楽も数多く担当。NHK大河ドラマ「徳川慶喜」や九重佑三子さん主演のドラマ「コメットさん」の音楽のほか、童謡「はしれちょうとっきゅう」も広く知られている。
 1999年に恩賜賞・日本芸術院賞、2014年に文化功労者。

『朝日新聞』さん。

作曲家の湯浅譲二さん死去、94歳 戦後日本の音楽界リード

002 オーケストラ音楽から電子音楽まで幅広い作風で国際的に活躍し、戦後日本の音楽界を先導した作曲家の湯浅譲二(ゆあさ・じょうじ)さんが7月21日、肺炎で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男龍平さん。
 福島県郡山市出身。独学で作曲を始めた。慶応大医学部在学中に音楽評論家の秋山邦晴や作曲家の武満徹と出会い、同大中退後、51年に詩人の瀧口修造が命名した芸術家集団「実験工房」に参加。作曲に専念した。
 音楽を「音響エネルギーの運動」としてとらえ、スケールの大きい作品を多く手がけた。代表作に「クロノプラスティク」「内触覚的宇宙」シリーズなど。NHK大河ドラマ「元禄太平記」、NHKの「おかあさんといっしょ」、テレビドラマの「コメットさん」「木枯し紋次郎」、伊丹十三監督の映画「お葬式」の音楽も手がけた。
 後進の指導にも力を注ぎ、米カリフォルニア大サンディエゴ校で教授を務め、国内外の音楽祭の監修や作曲賞の審査も数多く担った。自作を編曲した「哀歌(エレジィ)」で今年、5回目の尾高賞を受賞。96年度サントリー音楽賞、2014年文化功労者。

湯浅氏、智恵子の故郷・二本松市に近い郡山市のお生まれで、そうした縁から平成28年(2016)には独唱歌曲「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の2人』による」を作曲なさり、同市で初演が為されました。

つい4日前、同市のホームページに「あれが阿多多羅山……」もラインナップに入った「市制施行100周年を記念音楽祭」(11月3日(日))の告知が出たばかりで、驚いております。

また、平成25年(2013)には「二本松市民の歌」もご作曲。こちらも「智恵子抄」インスパイアの歌詞が盛り込まれています。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

【折々のことば・光太郎】

学校では小生寄附の幻灯機披露の幻灯会を先日催しました。

昭和23年(1948)11月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの太田小学校山口分教場。「幻灯機」は今で云うプロジェクタですね。

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