若干先の話ですが(このところネタ不足なもので(笑))、青森県からイベント情報です。

十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより

期 日 : 2025年1月31日(金)~2月24日(月・振休)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

八甲田山の麓、標高約400メートルに位置する十和田湖は平安の頃から信仰の対象として、脈々とその歴史を紡ぎながら観光地としてもたくさんの人々に親しまれるようになりました。その神秘的な情景は、訪れた人を感動へと導いてくれます。

深い深い雪に包まれる冬も同様。峠を越える、容易い道ではないからこそたどり着いた先の感動もひとしおです。

真っ白な衣を纏った十和田湖を舞台に冬を思い切り楽しんでもらおうと開催してきた十和田湖冬物語は今年で27回目を迎えます。

「冬、十和田湖びより」

皆さまと一緒に、そんな思いを共有するためさまざまなコンテンツを用意して会場でお待ちしております。冬の十和田湖で会いましょう!
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FIREWORKS -冬花火-
 真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく! 全日20:00〜
 メッセージ花火受付中! 大切なあの人へ。感謝の気持ちを花火に込めてみませんか?
 8800円/発〜
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FOOD MARKET-雪灯り横丁-
 ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
 平日16:00〜20:30 休日11:00〜21:00
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TRADITIONAL ARTS-冬の国境まつり-
 北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必見! 週末限定!
  青森 ねぶた囃子「ラッセラー♪」みんなで歌おう! 踊ろう!
  ・2月8日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月9日(日)16:00〜
  秋田 なまはげ太鼓 なまはげの太鼓パフォーマンスは圧巻!
  ・2月15日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月16日(日)16:00〜
  岩手 花巻鹿踊り 平安と悪霊退散を願って、高く舞い上がる鹿たち!
  ・2月23日(日)16:00〜、19:00〜 ・2月24日(月・振休)16:00〜
  協力:新渡戸友好都市交流委員会
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SNOW PARK-雪遊び-
 会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
 平日16:00〜19:30 休日11:00〜19:30
 ・すべり台(そり、チューブ) ・バナナボート
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昨年から、永らく行われてきた湖畔休屋地区での屋台村を中心としたスタイルで復活しました。そのスタイルだった時代に2度、イルミネーション系のイベントとなっていた時期に1度お邪魔しましたが、とにかく寒い!(笑)。その寒さを逆手にとって楽しんでしまおうというイベントです。

問い合わせたところ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されるとのこと。辿りつくまでがなかなか大変ですが、実に幻想的です。画像は過去のものです。
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手前の雪灯籠にあかりが灯されます。

予約が必要なようですが、JRさんのバス「おいらせ号」が八戸駅から、十和田観光電鉄さんのバスが十和田市中心街から出ます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】002

「天上の炎」の小生の印税は五分でいいです。この本は余り売れないでせう。今日ヹルハアランを読む人は少いでせうから。


昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より
 光太郎69歳

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳で大正14年(1925)にハードカバーが刊行されましたが、鎌田の白玉書房からペーパーバックで復刊されました。

今日ヹルハアランを読む人は少いでせう」の言葉通り、さらにましてや現代では忘れられかけた詩人となった感があります。

DMM.comさんから配信されているブラウザ・アプリゲーム「文豪とアルケミスト」を舞台化した公演。何作かあったうち、光太郎も登場人物として名を連ねた昨夏の「旗手達ノ協奏(デュエット)」を収録したBlu-rayとDVDが発売されます。

文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)

発行日 : 2025年1月29日(水)
発行元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890(税込み) DVD ¥9,790(税込み)

"文学作品を守る

今後の戦いの激しさを憂い小林の転生を目論む志賀だったが、その間にも有碍書は増え続け……。危機が迫る中も挫けず、現状を打開する策を練る志賀。それを武者小路実篤ただ一人がそっと遠くから見守っていた。

キャスト
 志賀直哉:谷佳樹 武者小路実篤:杉江大志 有島武郎:杉咲真広 里見弴:澤邊寧央
 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 広津和郎:新正俊 小林多喜二:泰江和明

封入特典(Blu-ray/DVD共通)
◆特典映像
・メイキング ・キャスト座談会 ・アンサンブル座談会 ・オープニング全景映像
・アフターイベント映像(全6回 ※映像は一部カットになる場合がございます)
・稽古場ミニ配信ダイジェスト
 (全3回 ※Youtubeで配信された映像とは別アングルの映像を含めたオリジナルカット版)
◆初回生産限定封入特典:オリジナルステッカー
◆永続封入特典:ブックレット
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この系列をご紹介する際にはいつも書いていますが、こういうアプローチから文豪たちに触れていくのも有りでしょう。ただし、そこで終わりにして欲しくはありませんが。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今日は上天気、棟上となりました。夕方小屋組が出来、大工さんのりとをあげ、小生餅をまき、部落の子供達が喜んでそれをひろひました。今夜は駿河さん宅で一同饗宴の様です。 小屋組はひどく丈夫です。高さも高く、四寸角の柱が三尺に一本づつ立つてゐます、思の外立派なので、小屋とは言へなくなりさうです。


昭和26年(1951)4月15日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

元々暮らしていた鉱山の飯場小屋に隣接し、新たな小屋の増築普請が始まりました。

左側の白い壁が新小屋。右が元々の小屋です。さらにその右は厠と風呂場。
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この年の秋に撮影されたショット。手前に新小屋が写っています。
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新小屋は50㍍ほど動かされ、現在は倉庫になっています。
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昨日は、今年初めての上京でした。

まずは初詣を兼ねて、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんへ。押すな押すなというほどではありませんでしたが、善男善女(当方を除く)でかなりの人出でした。
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まずは当然ですが本堂に参拝。
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大枚5円(笑)を賽銭箱に投入、合掌し、今年一年、平穏無事でありますように、的な祈願を。

なぜわざわざ足立区に、というと、本堂から見えるこちらの三匝堂(さんそうどう)拝見が主目的です。
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このところ、光太郎の父・光雲や、その師・東雲の彫刻を各地で拝見しておりまして、その流れです。こちらにも光雲によるとされる木彫の扁額が掲げられているという情報を以前から得ており、いい機会だと思って参上しました。
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一見、三重の塔のようにも見えますが、三層の楼閣で、いわゆる「栄螺(さざえ)堂」の一種です。天保5年(1834)に建てられ、明治17年(1884)に改修。光太郎が生まれた翌年ですね。

階段は外部にしつらえてあります。元は堂内にも階段があったそうですが、改修の際に取り払われたとのこと。
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栄螺堂でも、有名な会津飯盛山のそれは二重螺旋階段になっていますが、あれはかえって特殊なものです。

内部は拝観出来ません。しかし、当方が見たかったのは軒下に掲げられた扁額。
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中央に刻まれた数字の「3」のような文字は梵字ですね。

そして周囲を取り囲む龍。
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足立区さんのサイトによれば、これが光雲の手によるものだと伝わっている、とのこと。伝わっている、ということは確定ではないのでしょうが、この精緻な彫りは確かに光雲を彷彿とさせられます。ただ、明治17年(1884)の改修の際のものであるとすれば、光雲は独立はしていたものの、まだ一流の職人と認められていなかった時期ですので、疑義が生じます。光雲が斯界でブイブイ言わせるようになるのは、明治20年(1887)に皇居の造営に関わり、さらに同22年(1889)に東京美術学校に奉職してから。しかし、いきなり皇居の内部装飾に抜擢されたとも考えにくく、西新井大師さんのこうした仕事などでその技倆を認められたからなのかな、とも考えられます。

参拝後、世田谷の下北沢へ。当方、公共交通機関で上京する際には東京駅に降り立つのがほとんどで、東京駅を起点に考えると西新井と下北沢では真逆ですが、西新井に近い北千住から小田急線直通の地下鉄千代田線に乗れば意外と便はよく、そうしました。

目指すは本多劇場さん。お世話になっている渡辺えりさんの古稀記念公演が行われています。
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本多劇場さんは、令和元年(2019)にやはり渡辺さん作の「私の恋人」を拝見に伺って以来でした。

今回の古稀公演は「鯨よ!私の手に乗れ」と「りぼん」の2本立て。
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昨日は「鯨……」でした。「りぼん」の方で、光太郎詩「道程」に触れる箇所があるというお話でしたが、招待枠で「りぼん」を観に行ける日がなく、「鯨……」を拝見。「鯨……」でも光太郎に触れる部分があるかなと思っていたのですが、残念ながらそれはありませんでした。

「鯨……」は、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されながら、笑いあり涙あり、なかなかに壮大な物語でした。えりさんは古稀ですが、共演されていた木野花さんは喜寿というのには驚きましたし、共演と言えば、黒島結菜さんは小顔だな、とつくづく思いました(えりさんが顔が大きいとは言いませんが(笑))。ベテランの三田和代さん、広岡由里子さん、宇梶剛士さん、ラサール石井さんらの芸達者ぶり、若い役者さんたちも、劇中で楽器の生演奏やらダンスやらで芝居を盛り上げています。

下記は公式パンフ中の「りぼん」の部分から。
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「道程」がプロパガンダに利用された一面、確かにあるでしょう。詩集『道程』の初版は大正3年(1914)ですが、日中戦争中の昭和15年(1940)には山雅房から「改訂版」が出、同17年(1942)にはそれを対象に光太郎が第一回帝国芸術院賞を受賞しています。「改訂版」は豪華本的な「150部限定版」、普通の装丁の「書店版」、そして簡易な造本の「普及版」の三種が発行され、「普及版」は昭和18年(1943)の9刷まで確認出来ています。
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左から「150部限定版」、「書店版」、「普及版」です。

ちなみに当方手持ちの「普及版」はサイン入りです。
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小池吉昌はマイナーな詩人でした。

プロパガンダ、というと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もそういう使われ方をしました。本当に不幸な時代だったと言わざるを得ませんね。

ところで光太郎、「道程」が戦意高揚に使われることに違和感を感じる部分もあったようで、大戦末期の昭和20年(1945)になって、さらに青磁社から『道程再訂版』を出しました。こちらは戦時に関する詩を全く含まず、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えています。消極的な抵抗のようにも思えます。

その年4月10日、下町方面の空襲がひどいと言うことで、えりさんのお父さま・渡辺正治氏が勤務していた中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場から自転車で本郷区駒込林町に光太郎の安否を確認に来ました。その際に「わざわざありがとう」と、光太郎が正治氏に贈ったのがこの「再訂版」です。しかし、3日後の空襲で光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰してしまいます。
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えりさん、そういう部分でも「道程」への思い入れがあるのでしょう。

古稀記念公演、夜の部はまだ空席があるようです。それから西新井大師さん。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小屋に手入をはじめる事になり、ごたごたとしてゐます、

昭和26年(1951)4月15日 出雲正明宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、増築工事が始まりました。明確な印税制を採らなかった『智恵子抄』版元の龍星閣の肝煎りです。

都内から朗読会の情報です。

チャリティー朗読会 和・輪・話

期 日 : 2025年1月27日(月)
会 場 : 紀尾井小ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時 間 : 13時30分
料 金 : 全席自由 2,500円

会場にお越しいただいた皆様からの募金は、『令和6年能登半島地震災害義援金』として、日本赤十字社東京都支部を通して現地へお送りいたします。皆様のご賛同を心よりお待ち申し上げます。

演目
 佐藤春夫 作 『小説智恵子抄』より 中島悦代
 平岩弓枝 作 『女の休暇』 佐々木冨紀
 北村薫 作 「語り女たち」より『梅の木』 船山則子
 角田光代 作 『口紅のとき』 和田幾子
 海野弘 作 『枕売り』 森実あき子
 芥川龍之介 作 『羅生門』 田島みどり
 西澤實 版 『芝浜』 斉藤由織
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演目のうち、「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

どうして斯かるものを入手されたか、不思議に思ひます。確におぼえのあるもので、小生十三、四才の頃の作。日清戦争の直後にあたります。まことになつかしく、あの頃のいろいろの事を思ひ出しました。


昭和26年(1951)4月14日 菊岡久利宛書簡より 光太郎69歳

斯かるもの」は光太郎作の手板浮彫。明治29年(1896)、光太郎数え14歳、東京美術学校の予備校的な共立美術学館在学中の作品です。
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光太郎随筆「わたしの青銅時代」(昭和29年=1954)には次の記述があります。

 この間、菊岡久利君が鎌倉の古道具屋で見つけたといつて、板に彫つた彫刻をもつて来た。それには十四歳と記されていた。菊岡君が見つけてくれた時は、わたしはちょうど岩手の山にいた時だつたが、それを送つて来て、本当か嘘かと問い合せてきた。見ると、確に彫つた覚えがある。五十五年ぐらい前のもので、青い葡萄が刻まれていた。

菊岡が昭和28年(1953)に雑誌『芸術新潮』によせた「ぴいぷる」という文章には、次の一節。

 僕はそれを鎌倉の古道具屋で見つけたのだ。人々はまだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思ったらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、 五十五年 青いぶだうが まだあをい と詩を書いてよこしてくれたものだ。

光太郎実家の髙村家にはこの類の手板が、光雲による手本用のものから、弟子たちの成績品まで数多く残されていましたが、戦後、土蔵を整理した際、誤って流出したものと思われます。他にも紅葉と宝珠を彫った光太郎の手板も鎌倉で平櫛田中が発見し、現在は東京藝術大学に収められています。

後から書き込んだ「五十五年 青いぶだうが まだあをい」は、字余りになるものの、季語もあり、俳句と言っていいのではと思われます。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

面目ない話で、第1回放映が終わってから気づきましたが、記録のためにご紹介しておきます。来週以降も放映は続きますし、各種配信もありますし。

花は咲く、 修羅の如く #01 花奈と瑞希

地上波日本テレビ 2025年1月8日(水) 01:35〜02:05
BS日テレ       2025年1月8日(水) 23:30~00:00

<ストーリー>
人口600人の小さな島・十鳴島(となきじま)に住む花奈(はな)は、島の子供たちに向けて朗読会を行うほど朗読が好きだった。花奈の“読み”に人を惹きつける力を感じた瑞希(みずき)は、自身が部長を務める放送部へ誘う。「お前の本当の願いを言え、アタシが叶えてやる」「私、放送部に入りたいです」入部を決意した花奈は、たくさんの“初めて”を放送部のメンバーと共にし、大好きな朗読を深めていく…。
<キャスト>
春山花奈:藤寺美徳/薄頼瑞希:島袋美由利/夏江杏:和泉風花/冬賀萩大:千葉翔也/秋山松雪:山下誠一郎/整井良子:安野希世乃/箱山瀬太郎:坂泰斗
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原作・武田綾乃氏、むっしゅ氏作画のコミックが原作で、令和4年(2022)に単行本第1巻が集英社さんから発売されています。いきなり第1話で光太郎詩「道程」。
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アニメでは……
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それから、宮沢賢治も。
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タイトルの「修羅」は賢治の『春と修羅』から来ているのでしょう。
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原作は単行本1巻以降読んでいないのですが、その後も光太郎や賢治に触れられたシーンはあったのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけると幸いです。最近は新刊書店で立ち読みも出来ませんし、千葉のど田舎ですと漫画喫茶等もありませんし……(笑)。

何はともあれ、若い皆さんが朗読や近現代文学に親しむひとつのきっかけとなってもらえれば、と存じます。

ちなみに4月にはアニメのブルーレイが発売されるようです。またその頃、取り上げさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

五月に又リサイタルをやられるさうですが相変らず小生東京へは行かれないでせう。宮沢さんのものの事は実家へ直接申送られていいでせう。そのうち小生からも其由申上げて置きます。


昭和26年(1951)3月28日 藤間節子宛書簡より 光太郎69歳

藤間節子は舞踊家。昭和24年(1949)に「智恵子抄」を舞踊化し、帝国劇場でのリサイタルで発表しました。その後もたびたび「智恵子抄」を取り上げています。賢治作品の舞踊化にも意欲を示し、光太郎没後の昭和33年(1958)には「原体剣舞連」を発表しました。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

先月、ちょぼちょぼといろいろなところに光太郎の名が出たのですが、速報の必要のないものは紹介しきれていませんでしたので、今日明日あたりで取り上げます。

今日は地方紙『岩手日日』さん、12月15日(日)の記事。

花巻の物知り度は ご当地検定に18人挑戦 歴史や文化、先人、方言も

 花巻観光協会のご当地検定「はなまき通検定」が14日、花巻市葛の市交流会館で行われた。市民らが花巻の歴史や文化、先人、観光など知る人ぞ知る花巻の難問に挑んだ。
 はなまき通検定は、花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、観光従事者だけでなく市民が観光客をもてなせるよう、花巻の知識習得を目的に実施。8回目となった今回は市内を中心に18人が挑戦した。
 受検者は、事前配布された検定の問題作成の基本となるテキストなどで学習。宮沢賢治や高村光太郎、新渡戸稲造らゆかりの先人に関わる設問をはじめ、市内にある高速道路のインターチェンジの数、わんこそば全日本大会の制限時間、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された花巻の郷土芸能、方言「とのげる」の意味、メジャーリーガーの菊池雄星投手がプロデュースするトレーニング施設名など多岐にわたった。
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主催は花巻観光協会さん。4択問題が50問出され、1問2点の計算で80点以上が合格だそうです。事前に配付されるテキスト『はなまき通検定 往来物』は全75ページ。結構な分量ですね。
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今回で8回目ということですが、その都度改訂も入っているそうです。確かに記事には花巻東高出身の菊池雄星投手の件など、最近のネタも出題されたとあります。

我らが光太郎についても〈キラリと輝く先人達〉という章で「高村光太郎」の項を設けて下さっています。ありがたし。
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他にも大沢温泉さん、鳥谷崎神社さん、萬鉄五郎、多田等観、佐藤隆房、金田一国士などの項にも光太郎の名。よそ者でも地域に貢献すればこういう扱いになるのですね。

ちなみに令和2年(2020)に行われた第4回の際にも報道に光太郎の名があったので、このブログでご紹介していました。
「はなまき通検定」問題。

全国の自治体さん社会教育のご担当、観光協会さんなど、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

おてがみによると来月見舞に来訪との事ですが、これは取りやめにしてください。無駄な旅費をかけることになります。おめにかかるのはうれしい事ですが実際は病気にはよくありません。静かにしてゐるのが一番いいわけですから。見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です。

昭和26年(1951)3月15日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

宮崎は光太郎姻族。結核性の肋間神経痛でペンを持つのも一苦労という光太郎を見舞おうとしましたが、光太郎の方で謝絶。「見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です」。これは決して強がりではなかったように思われます。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

3件ご紹介します。

まずは光太郎に関わるかどうか、微妙なところですが……。

日曜美術館 人生で美しいとは何か 彫刻家・舟越保武と子どもたち

NHK Eテレ 2025年1月12日(日) 9:00~9:45 再放送 1月19日(日)  20:00~20:45

戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912−2002)。カトリックの信仰を主題にした精緻で存在感あふれる作品は見るものに「美しさとは何か?」を問いかける。保武の7人の子どもたちは、その多くが芸術関係の道を選んだ。長女は児童図書出版の世界で活躍。次男と三男は父と同じ彫刻家に。そして末娘は紆余曲折を経てアーティストへ。子どもたちの人生と言葉を通して、舟越保武が体現した「美しさ」を考察する。

【出演】舟越保武 舟越桂 末盛千枝子 【語り】守本奈美

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光太郎と交流があり、そのDNAを受け継いだと言える彫刻家の一人、舟越保武。同じ彫刻の道に進み、昨年亡くなった次男の桂氏、そのお姉様で、光太郎が名付け親となった編集者の末盛千枝子氏がビデオ出演。ちらっとでも光太郎に触れていただきたいところですが、どうなりますやら……。

続いて、やはり微妙なところでもう1件。明日の放映です。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #144

BSよしもと 2025年1月8日(水) 19:00~19:30 再放送 1月10日(金) 16:00〜16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は青森県十和田市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!?
新渡戸記念館、食事処とちの茶屋 ほか
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この番組、訪れる場所は東北限定でして、昨年には花巻高村光太郎記念館さん及び高村山荘、福島二本松の智恵子記念館さんと智恵子生家、さらに当会の祖・草野心平の別荘「天山文庫」(福島県川内村)が取り上げられました。

今回は十和田湖。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」近くの砂浜で撮られたカットも公開されており、そのまま「乙女の像」まで行かれたのか、行かれなかったのか、というところです。
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ぜひともお二人に「乙女の像」ポーズをとってもらいたいものですが(笑)。

最後は2時間ドラマの再放送。

<BSフジサスペンス傑作選>浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件

BSフジ 2025年1月10日(金) 12:00〜14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
榎木孝明 野際陽子 ほか
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推理作家の故・内田康夫氏が昭和61年(1986)に発表された「「首の女(ひと)」殺人事件」を原作に、ほぼ忠実に映像化した2時間ドラマです。初回放映は平成18年(2006)、光太郎彫刻の贋作を巡る殺人事件が描かれ、二本松の智恵子生家、花巻の旧高村記念館等でのロケが敢行されました。その後、繰り返し再放送が為されています。
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それぞれぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴下からいただいた即席餅といふものを今日作つてみましたら、大変おもしろく、煮小豆に入れたり、黄粉にくるんだりして賞味しました。今日は小生の誕生日でした。

昭和26年(1951)3月13日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

元日に数え69歳となった光太郎、この日で満68歳になりました。

前年の誕生日はたまたま講演旅行中で、岩手県立美術工芸学校長・森口多里の家で饗応にあずかりましたが、この年は一人寂しく誕生日を餅で祝いました。

昨日同様、昨年暮れに発行された雑誌のご紹介です。

小さな蕾 2025 2月号

発行日 : 2024年12月26日発売
版 元 : 創樹社美術出版
定 価 : 838円(税込)

【巻頭特集】●鍋島 上野コレクション
【第2特集】●高村光雲 木彫阿弥陀如来像 ◆加瀬 礼二
【展示紹介】
・仏教美学 柳宗悦が見届けたもの ◆日本民藝館企画展より
・古筆切-わかちあう名筆の美- ◆根津美術館企画展より
・仏・菩薩の誓願と供養者の願い ◆龍谷大学 龍谷ミュージアム特別展より
・千変万化-革新期の古伊万里- ◆戸栗美術館企画展より
・運慶 女人の作善と鎌倉幕府 ◆神奈川県立金沢文庫特別展より
【連載】
・明治の陶磁シリーズ73 世界が見惚れた京都のやきもの~明治の神業
 京都市京セラ美術館特別展より ◆後藤 結美子(京都市京セラ美術館)
・仏教美術の脇役たち172 流転 第二十四話 ◆松田 光
・逸品珍品を語る48 明治版タブレット 石盤と石筆 ◆北川 和夫
・骨董拾遺選10 貧数寄コレクターの呟き 2024年を振り返って思うこと
-中国・遼三彩の陶枕- ◆伊藤 マサヒコ
・江戸絵皿の絵解き13 北斎漫画を謎解く 江戸絵皿事典 ◆河村 通夫
・政治と書40 宮島詠士 清朝継承者の工と文 ◆松宮 貴之
・近世長崎の発掘陶磁6 ◆扇浦 正義
・絵のある待合室135 馬3題 ◆平園 賢一
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蕾特選サロン
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004古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号。古美術蒐集家・加瀬礼二氏という方による「高村光雲 木彫阿弥陀如来像」という記事が載っています。

紹介されている阿弥陀如来像、年銘が入っておらずいつのものか不明ですが、実にいいお姿をされています。正面から撮られた右画像以外にも別角度からのショット、光雲の銘や台座部分の拡大写真なども掲載されていました。

銘を見ると、工房作ではなく光雲が一人で手がけたものと推定されます。その銘も加瀬氏曰く「文字の確かさ、まるで毛筆で記名したように刻る」。的確な評です。光雲レベルになると、彫刻刀も筆と同様に意のままになるのでしょう。

光雲には阿弥陀如来像の作例は多くなく、当方、広島の耕三寺博物館さん所蔵のものを見たことがあるだけです。その意味でも興味深く拝読いたしました。

昨日ご紹介した芸術新聞社さんの『墨』が複数回光太郎書を取り上げて下さったのと同様、こちらの『小さな蕾』はたびたび光雲作品を紹介して下さっています。ありがたし。
 『小さな蕾』2021年9月号。
 『小さな蕾』2024年2月号。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

春になつたら山へカマを築いて食パンを一週間分づつ焼きたいと思つてゐます。

昭和26年(1951)3月1日 神保光太郎宛書簡より 光太郎69歳

結局、実現には到りませんでしたが、こんなことも考えていました。当時の岩手では光太郎の口に合うパンがなかなか入手出来なかったためでした。

またしても年またぎのご紹介となりますが……。

墨 2025年1・2月号

発行日 : 2024年12月27日発売
版 元 : 芸術新聞社
定 価 : 2,700円(税込)

特集 昭和100年記念 時代の書
 1926年に改元され、日本史上最長の元号となった昭和。2025年は昭和100年に当たります。今号は激動の時代、昭和を振り返るとともに昭和書道史を概観します。昭和の書壇で活躍した作家の名品を主要な展覧会の歴史・書道団体成立の系図など、便利な資料とともにお届けします。書を通じて、昭和という時代を回顧してみましょう。

★インタビュー 昭和の書文化と書壇を語る 談/西嶋慎一

視点 私の見た書の昭和
★「読む」から「見る」へ 書が美術へ接近した時代 談/菅原教夫
★激動と秩序の共存していた昭和は身近にいつも書があった 文/比田井和子
★周囲一メートルの昭和 文/桐山正寿
・衝突と賛否両論が多様性を育んだ 談/松原清 

鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉 選/井口尚樹 
 比田井天来 川谷尚亭 中村不折 吉田苞竹 会津八一 鈴木翠軒 高村光太郎
 比田井南谷 川村驥山 津金寉仙 上田桑鳩 大澤雅休 井上有一 尾上柴舟 西川寧
 辻本史邑 豊道春海 上條信山 松本芳翠 安東聖空 深山龍洞 赤羽雲庭 手島右卿
 木村知石 青木香流 日比野五鳳 松井如流 森田竹華 金子鷗亭 森田子龍 村上三島
 西谷卯木 殿村藍田 小坂奇石 柳田泰雲 宇野雪村 桑田笹舟 今井凌雪 青山杉雨
 河井荃廬 石井雙石 中村蘭台二世 山田正平

コラム 昭和の書家のしごと 固形墨の題字
コラム 昭和の書家のしごと 筆墨店の看板文字
資料室 近現代書の人脈
資料室 近現代書 団体の成立と変遷
資料室 墨展覧会リバイバル
第36回毎日書道展/第1回読売書法展/ 第1回サンケイ国際書展
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芸術新聞社さん発行の隔月刊書道雑誌『墨』。新春っぽい表紙です。特集が「昭和100年記念 時代の書」

その中で元同誌編集長の井口尚樹氏が選んだ「鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉」。光太郎を含む昭和を代表する書の達人たちをその作品と共に紹介しています。その数43名。大半が職業的書家ですが、それ以外が4人。すなわち中村不折、会津八一、尾上柴舟、そして光太郎。ここに光太郎を含めて下さったのは誇らしいところです。

光太郎の作品としては、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で揮毫された色紙「うつくしきもの満つ」。さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節を取り上げて下さっています。
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「うつくしきもの満つ」、光太郎が好んで揮毫した文言です。中には「満つ」を変体仮名的に片仮名で「ミつ」としたものもあります。以前にも書きましたがこの「ミつ」を「三つ」と誤読し、「三つのうち、一つ目が○○、二つ目で××、そして三つ目は……」という噴飯ものの解釈がまかり通っている部分があります。噴飯ものと笑って済ませられるうちはいいのですが、さもそれが定説だと言わんばかりにSNS等でたくさん横行してくると、義憤も感じますね。

閑話休題。『墨』誌、これまでにも光太郎特集を3回組んで下さいました(昭和52年=1977 第8号、昭和60年=1985 第53号、平成12年=2000 第142号)し、般若心経特集の号(平成2年=1990 第83号)などでも光太郎書を取り上げて下さっています。当会顧問であらせられた北川太一先生、その盟友・吉本隆明氏などの玉稿も載り、それぞれ光太郎書を知る上で保存版といっていい濃密な内容です。
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古書市場で入手可、ぜひお買い求めを。それから最新号も。

【折々のことば・光太郎】

先日は雪の中をはるばるおいで下され、御難儀の事恐縮に存じました。山の事とて何のお構ひも出来ず失礼いたしました、ゼンマイ、ワラビの頃又おいであらば中々風情ある事と存じます、

昭和26年(1951)2月26日 八重樫マサ宛書簡より 光太郎69歳

八重樫は花巻温泉の旅館・松雲閣の仲居。たびたび宿泊客を太田村の光太郎山小屋に案内しました。

この年2月21日の日記には、「「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪」の記述があります。この際の八重樫の体験談及びこの書簡について、佐藤隆房編『高村光太郎 山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に詳しく記されています。「鈴木氏」は鈴木肆郎。当時、仙台鉄道局刊行の雑誌『せんてつ』の編輯に当たっていました。

このようにたびたび来訪者を案内してくれることに対し、申し訳なく思ったのでしょうか、光太郎は書を礼代わりに贈りました。これも好んで揮毫した今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたものでした。
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このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

活動を継続中の中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会会長にして、劇作家・女優の渡辺えりさん。この5日にはめでたく古稀を迎えられるそうで、それを記念した公演です。

渡辺えり古稀記念2作連続公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

東京公演
 期 日 : 2025年1月8日(水)~1月19日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2-10-15
 時 間 : 
  『鯨よ!私の手に乗れ』 
   1月8日(水) ・11日(土)~14日(火)・16日(木) 18:00~
   1月9日(木) ・13日(月)・15日(水)・17日(金) 13:00~
  『りぼん』
   1月11日(土)・12日(日)・14日(火)・16日(木)・19日(日) 13:00~
   1月15日(水)・17日(金) 18:00~
   1月18日(土) 13:00~/18:00~(連続公演)
 休 演 : 1月10日(金)
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円  土日祝 一般11,000円 学生 5,000円

山形公演(『りぼん』のみ)
 期 日 : 2025年1月22日(水)
 会 場 : 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 時 間 : 18:00~
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円

『鯨よ!私の手に乗れ』
架空の地方都市の町、山崎県山崎市にある介護施設に神林絵夢がやってくる。ここは母・生子が入所しているのだ。久しぶりに見舞いにきた神林絵夢。母・生子は認知症で、絵夢の弟・公男やその妻・美代子が世話をしているものの、二人が誰かはわからない。絵夢が60歳になるまで演劇を続けてきたのは母のおかげ。晩年ぐらいは自分のために自由に生きてほしいという思いとは裏腹に、時間や規則に縛られて暮らす母の様子を見て絵夢はショックを受け介護士たちに不満をぶちまける。介護施設には元美術教師だった藍原佐和子、看護婦のように振る舞う涼子ら入所者、ヘルパーとして働く水島貴子と生子と同世代の人々がいる。彼女たちは次々に語り出す。彼女らは40年前に解散した劇団のメンバーで、主宰が行方不明になったため上演できなかった作品をいつかやりたいと約束をしていた。生子もその劇団のメンバーだった。ところが彼らの持っている台本は、認知症の患者が認知症の老人を演じるというもの。悲しい結末を知った介護士が途中から破り捨ててしまっていた。その状況に絵夢は台本を書くと言い出す――。2017年に上演された本作品。『演劇』を通して人生を見つめる。人生の中に「演劇」がある力強さを今一度、現代に問いかける。
キャスト
 木野花 三田和代 黒島結菜 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

『りぼん』
現代の横浜。「すみれ」、「百合子」、「桜子」3人は関東大震災後に建てられ、最近取り壊された「同潤会アパート」の同じ住人であった。彼女らが住むアパートには、シベリアで抑留されていた夫を持つという「春子」、影を背負う謎の老女「馬場」ら、過去に心の傷を負った女性たちが支え合いながら暮らしていた。そしてそれぞれに「水色のりぼん」の記憶を持っていた。一方、欲情すると水色のりぼんを吐くという奇病を持つ青年「潤一」は、母の遺骨を探す旅の途中、横浜で“浜野リボン”と出会う。リボンは、赤子であった自分の胸に水色のりぼんを縫い付け、墓場に捨てた母の消息を求め、娼婦であった母を知る人物の目に留まるようにと、自らを娼婦の姿に変え、横浜を徘徊している青年と出会った。母から体に水色のりぼんを十字架のように背負わされる2人は、その謎を解くために鍵となる「同潤会アパート」へと向かう。まるで水色のりぼんが彼らを引き寄せるように……。同潤会アパートで潤ーたちと春子らアパートの住人達は初めて出会い、皆の生い立ちと記憶の謎が明らかになってゆく。住人の一人「春子」は愛娘を夫に殺されたという過去を持っていた。戦後娼婦として働かされたという春子の境遇に逆上した夫が春子と娘とを見間違え、首をりぼんで絞めてしまった。そして、実は愛娘の死体のお腹から産まれたのが潤ーであった。2003年に上演、2007年に再演された本作品。未だ混沌と尽きない悩みの最中にある現代日本で蘇る。バンドネオン・ピアノ・ギターの生演奏と共にお送りする音楽劇。
キャスト
 室井滋 シルビア・グラブ 大和田美帆 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

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昨年12月25日の『山形新聞』さんに、こちらに関連する渡辺さんのご寄稿。

渡辺えりのちょっとブレーク(235)心のもやもやも込めて

006 古希特別記念連続公演の稽古中です。
 一作品に43人が出演する超大作の連続公演で、前代未聞、前人未到の企画に挑戦することになりました。
 「鯨よ!私の手に乗れ」は、母が介護施設にお世話になるようになってからの実話を基にした作品。11月に母が亡くなったので、母親役の三田和代さんの場面になると泣けてきます。幼い頃からの思い出がよみがえり、たまらなくなりますが、それだからこそ母のためにも成功させたいと頑張っています。
 「りぼん」は山形第六中学校の生徒が東京と横浜に修学旅行に来るストーリー。そこで日本の隠された歴史を発見して驚愕(きょうがく)します。私が実際に昭和40年代に六中の修学旅行で初めて横浜の氷川丸に宿泊した思い出を基に創作しました。2作とも、母親たちが女性として苦労してきた今日までの思いを青いりぼんの思い出とともに表現します。
 2作とも山形弁が多く使われていますが、殺陣指導をお願いした山形市出身の大道寺俊典先生が「みんなもっと山形弁を勉強してほしい」とため息つくほど山形弁は難しいらしいです。大枠の演出が済んだ後に、細かい方言指導もやるつもりで張り切っています。
 歌と踊りも素晴らしい方々が多く出演しているので、新年1月22日の山形公演を楽しみにお待ちください。
 ただ、昔と違って徹夜もできなくなり、朝から晩までの稽古は途中で頭がぼうっとしてしまうこともあります。人間年を取ってみないと、この状況は想像できませんね。両親にもっともっと優しく親切にするんだったと、近頃切に思います。年寄りに親切にしてきた人はきっと、自分が年を取った時に周りに優しくしてもらうでしょうね。介護施設にいた両親が介護士の方たちに「ありがとう。ありがとう」といつも声をかけて、頭を下げていたことを思い出します。山形人はみんな昔からテレパシーで会話する人間が多いため、心で思っていても、なかなか口に出してお礼を言うのが苦手な方が多いように思います。私もそうでしたが、両親を思い出して、口に出すように心がけています。
 今回の「りぼん」は関東大震災や第2次世界大戦、シベリア抑留、接収されていた横浜のことなど日本の過去の歴史がいろいろ出てきますが、オーディションで出演する若者たちとの世代のギャップを感じています。東京オリンピックの思い出を語る場面では「アベベってなんですか?」と聞かれ、高村光太郎の詩「道程」も誰も知らないと分かり、それらを説明するだけでも時間がかかります。今回の2本立てを1カ月半で稽古するのは、至難の業だと分かったのでした。そしてそんなことを愚痴る両親も今は亡く、この心のもやもやも含めて舞台の作品に込めていきたいと思います。
 山形公演を手伝ってくれる友人たち、親戚の皆さん、そしていつも応援して下る皆さま、本当にありがとうございます。山形六中からお借りした制服とショルダーバッグも本当にありがたいです。太った人用の制服が足りず、私の分は生地を足して直しています。終了後はクリーニングに出して速やかにお返しする予定です。私の分はまたほどいてからお返しするので時間がかかると思います。
 さまざまなことがあった一年でしたね。暗いニュースもたくさんありましたが、来年が皆さまにとって良い年になりますように心から願っています。みんなで支え合って諦めずに平和な世の中をつくっていきましょうね。昨年は本当にお世話になりました。喪中なので新年のごあいさつは控えさせていただきますが、皆さま良いお年をお迎えください。
(俳優・劇作家、山形市出身)

劇中で光太郎にも触れられるそうで、さらに特に『鯨よ……』の方は、生前の光太郎をご存じで、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されているそうで。ちなみに亡くなられた11月10日には、えりさん、当方と中野でトークショーでした。

そんなこんなもありますし、御招待いただいているので、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生ここへ来てからもう満五年二ヶ月になりますが世情ますます紛糾、いつ彫刻が思ふやうに出来るか、まだ見当がつきません。出来ることを出来る時にしてゐる自然の生活を営むばかりです。


昭和26年(1951)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳


花巻郊外旧太田村での蟄居生活。新しい年が明けて一つの節目と感じてはいたようですが、まだ自らそれを切り上げる気にはなっていませんでした。

この年の秋に山小屋を訪れた詩人の宮静枝によれば、「いま私に彫刻をさせないことは日本の損失だと思います」とまで語ったとのこと。そう考えるなら帰京すれば、と思うのですが、公的に訴追されなかったとしても、自らの戦争犯罪を他が許さないうちは自らも許すことが出来ない、というわけでしょう。

宮曰く、

光太郎は余りにも明治でありすぎたと思うのである。国からの招請を心ひそかに待ち続け、自らの生命を無為に山野に燃焼し尽くした光太郎も、日本の大きい犠牲者であり、まさに悲しみの典型だったのである。(『詩集 山荘 光太郎残影』あとがき「悲しみの典型」平成4年=1992)

昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。

午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
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そこそこの人出。
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南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
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千鳥(?)の足跡。
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日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
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午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
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そして……。
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毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。

ほんとうにそういう一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。001


昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳

藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。

あけましておめでとうございます。本年もこのブログサイトをよろしくお願い申し上げます。
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画像は当会としてお送りした年賀状から。中央のヘビの絵は、大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごし婚約を果たした信州上高地より、画家の真山孝治に宛てた寄せ書きの葉書から。同じ宿に滞在してい た窪田空穂、谷喜三郎(江風)との寄せ書きで、真山も一時同宿していましたが、先に下山したようです。

令和7年(2025)、下一桁の「5」に注目して、光太郎らとのからみ。

150年前 明治8年(1875) 光太郎生誕前 光太郎の両親・光雲とわかが結婚しました。

130年前 明治28年(1895) 光太郎13歳 第四回内国勧業博覧会審査員だった光雲に連れられて、初めて京都に赴きました。

120年前 明治38年(1905) 光太郎23歳 東京美術学校彫刻科研究生だった5月、上野の竹の台五号館で開催された第一回彫塑同窓会展に塑像二点を出品しました。9月、西洋美術を勉強し直そうと、東京美術学校西洋画科に再入学。教授陣には黒田清輝、藤島武二、同級生に岡本一平、藤田嗣治らがいました。

110年前 大正4年(1915) 光太郎33歳 智恵子と結婚して2年目。『ロダンの言葉』翻訳を始めました。評論集『印象主義の思想と芸術』、与謝野晶子との共著『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』を刊行しました。

100年前 大正14年(1925) 光太郎43歳 ヴェルハーレン訳詩集『天上の炎』を刊行しました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生がご生誕。ご存命なら今年で満100歳でした。

90年前 昭和10年(1935) 光太郎53歳 智恵子が南品川 ゼームス坂病院に入院しました。また、東京美術学校校庭に、光太郎原型の前年に歿した光雲のブロンズ胸像が建てられました(現存)。

80年前 昭和20年(1945) 光太郎63歳 空襲で駒込林町のアトリエが全焼、宮沢賢治実家の誘いで岩手花巻に疎開。終戦後には花巻郊外旧太田村の山小屋に移りました。

70年前 昭和30年(1955) 光太郎73歳 歿する前年で、中野の中西利雄アトリエで病臥生活。4月から7月には赤坂山王病院に入院もしました。 

ことに岩手移住80周年は特筆すべきかと存じます。そのあたりを冠して現地でいろいろ行われることを期待します。

昨年は元日にいきなり能登半島地震がありました。今年はおだやかな一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日の元旦もまだ吹雪やまず、電車も多分不通と存ぜられ如何ともいたしかたなく閉ぢこもつて居ります。


昭和26年(1951)1月1日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

この項も元日に合わせ、昭和26年(1951)に突入します。

この年は宿痾の結核が昂進、肋間神経痛がひどく、雪が溶けても農作業はほとんど放棄してしまいました。ぼちぼち自らの生の終わりを意識するようになり、それが翌年の生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作開始に繋がっていきます。

まず、訃報から。時事通信さん配信記事。

冬木透さん死去、89歳 「ウルトラセブン」、作曲家

001 テレビの人気特撮番組「ウルトラセブン」などの音楽を手掛けた作曲家の冬木透(ふゆき・とおる、本名蒔田尚昊=まいた・しょうこう)さんが26日午後10時51分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。
 89歳だった。中国東北部(旧満州)出身。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻良子(りょうこ)さんと長女和可女(わかな)さん。
 エリザベト音楽短大、国立音楽大で作曲を学び、1956年、TBSの前身「ラジオ東京」に入社し、テレビドラマ「鞍馬天狗」で作曲家デビューした。61年に退社後は「ウルトラセブン」など円谷プロの特撮シリーズの音楽を担当。「セブン」の主題歌や、「帰ってきたウルトラマン」で「ワンダバ」という男性コーラスが印象的な防衛隊出撃時のテーマ曲など、シリーズを代表する楽曲を生み、「ウルトラ音楽の父」と呼ばれた。NHK連続テレビ小説「鳩子の海」の音楽も担当した。
 蒔田尚昊名義では多くの合唱曲や賛美歌を作り、桐朋学園大で後進の指導にも当たった。 

昨日まで、今年1年を振り返る内容でこのブログを書いておりましたが、昨夜になって訃報がネット上に。今年1年を振り返る中でも、生前の光太郎をご存じで、当方もさんざんお世話になった浅沼隆氏をはじめ、関係の方々の訃報を少なからずご紹介しましたが、またお一人、加わってしまわれかた……という感じです。

蒔田氏、昭和45年(1970)頃に「歌曲集 智恵子抄」を作曲なさいました。ラインナップは「I 樹下の二人」「II あどけない話」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」。このうち「あどけない話」は全音さんから昭和45年(1970)に刊行され、未だ入手可能な『日本歌曲集 3』に掲載されており、今年も複数の演奏会で取り上げられました。

YouTubeでは、昨年開催された「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサートでの、加耒徹氏による歌唱の動画がアップされています。


他に「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」も。

そして、「冬木透」クレジットでのウルトラ系。なんとも荘厳なイントロの「ウルトラセブンの歌」、英語の歌詞が実にかっこよかった挿入歌「ULTRA SEVEN」、いやがうえにもやる気を喚起させられる「帰ってきたウルトラマン」の「ワンダバ」(正式には「MATのテーマ」)など、当方の世代としてはどストライクでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年も大晦日。昨日までのこのブログで1年間を振り返ることを致しまして、当会として取り組んださまざまな事柄も載せました。

それ以外に、これも毎年ご紹介している活動のご報告。

まず、皆様方からいただいた郵便物に貼られていた切手。毎年の恒例ですが公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会さんにお送りしました。途上国の保健医療協力などのため役立てられます。
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同様に、ベルマーク。こちらはベルマーク教育助成財団さんに送付。「今月の寄贈者」としてご紹介いただいております。
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「高村幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

それにしても、ベルマーク、年々対象商品が減り続けていて、以前ほど送れなくなってしまい、心苦しく思っております。ベルマークが付いているから石鹸は○○石鹸、コンビニおにぎりは××マートと決めていたのですが、そのあたりがマークを付けなくなってしまいました。しかたがないのかもしれませんが、せちがらい世の中ですね……。その意味では全商品にマークを付け続けている湖池屋さんは素晴らしいと思います。

それから、講演等でいただいたギャラの中から、クラウドファンディング。二本松の大山忠作美術館さんの開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」に向けて、さらに東京都小平市の「平櫛田中応援プロジェクト~平櫛田中旧宅を後世に残すために~第2弾」へ。来年以降、光太郎の終焉の地にして第一回連翹忌会場となった中野の中西利雄アトリエ保存につき、クラウドファンディングを行うことになりそうなので、「情けは人のためならず」という下心もありますが(笑)。

というわけで、来年も変わらぬご厚誼の程、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小包の方を炉辺でひらきまして、お心のこもつた品々に感謝しました。抹茶は新年に口あけする事にいたしました。 生干も丸干も実に結構です、この甘味も湯をつぎながら子供の頃を思ひ出しました。皆様お揃で健康で新年を迎へられますやうに。


昭和25年(1950)12月29日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

お心のこもつた品々」はお歳暮的な意味合いでしょう。戦前から交流のあった美術史家・奥平英雄夫人のちゑ子から。「生干」「丸干」は「甘味」とあるので干し芋(乾燥芋)と思われます。サツマイモは光太郎の子供の頃からの好物の一つでした。

皆様方も「健康で新年を迎へられますやうに」。

今年一年を振り返る最終回です。「芸術の秋」ということで、この3ヶ月が最も事項の多い時期でした。

10月1日(火)
岩波書店さんから『図書』10月号が発行されました。中村佑子氏「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」を含みます。
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10月1日(火)~12月22日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで「ハニワと土偶の近代」展が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月3日(木)~11月17日(日)
福島県二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子 レモン祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、生家ライトアップ、坂本富江氏による「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演などが行われました。
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10月4日(金)・10月5日(土)
岩手県花巻市の田舎laboさんで、智恵子の命日、10月5日にちなむ「レモンの日イベント」が開催され、複数の地元飲食店によるレモンを使った食品が販売されました。

10月5日(土)
当会から『光太郎資料』62集を発行しました。
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10月5日(土)~11月30日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「令和6年度高村光太郎記念館企画展 高村光太郎 書の世界」が開催されました。

10月8日(火)~11月19日(火)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーさんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」が開催されました。
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10月9日(水)・10月10日(木)

10月10日(木)~10月14日(月)
新宿区の雑遊さんで「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。智恵子を主人公とした一人芝居、野田秀樹氏の脚本でした。
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10月12日(土)
台東区のレンタルギャラリーブレーメンハウスさんで朗読イベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」が開催され、当方も光太郎について語らせていただきました。

10月12日(土)~2025年1月13日(月)
文京区立森鷗外記念館さんで特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」が開催され、光太郎書簡も展示されました。
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10月13日(日)
 岩手県花巻市の土沢商店街さん、萬鉄五郎記念美術館さん前を会場に「土澤アートクラフトフェア」が開催され、やつかの森LLCさんによる「こうたろう弁当」、花巻南高校家庭クラブさんによる「レモンケーキ」が振る舞われました。

10月14日(月)
福島県二本松市の智恵子生家近くで「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が開催されました。光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
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10月17日(木)
美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。光太郎に触れる玉稿等もおありでした。

10月18日(金)~10月27日(日) 
渋谷区の黒田陶苑さんで「五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】」が開催され、光太郎色紙が展示即売されました。
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10月18日(金)~12月15日(日)
山口県宇部市のときわ湖水ホールさんで「彫刻世界 かたち・つくり・ひらく」展が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。

10月19日(土)~11月17日(日)
金沢市の石川県立歴史博物館さんで「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」が開催され、光太郎の父・光雲作の聖観音像が展示されました。
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10月23日(水)
国書刊行会さんから藤井明氏著『明治・大正・昭和 メダル全史』が刊行されました。光太郎作のメダルも紹介されました。

10月24日(木)
兵庫県西宮市の県立芸術文化センターさんで「関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?」公演があり、別宮貞雄氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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10月26日(土)
神奈川県逗子市の旧逗子高等学校武道場において「余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏」上演があり、聖和学院中学校・髙等学校美術部さんによる「智恵子抄」朗読がありました。

10月26日(土)~12月1日(日)
荒川区のふるさと文化館さんで「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展 鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」が開催され、光雲に関わる展示も為されました。
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10月27日(日)
岩手県花巻市のなはんプラザCOMZ ホールさんで「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」が開催され、生前の光太郎をご存じの元宮沢賢治子供の会会員のお二人、賢治実弟清六令孫・宮沢和樹氏と当方による公開対談が行われました。

同日、京都市の文星堂さんで「文星堂 定期演奏会 秋の音楽会」が開催され、「智恵子抄」から詩篇の朗読がありました。
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さらに同日、大阪市のATC海辺のステージさんで「第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「あどけない話」が演奏されました。
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11月3日(日)
福島県郡山市のけんしん郡山文化センターさんで「郡山市市制施行100周年記念式典音楽祭」が開催され、湯浅譲二氏作曲「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」が演奏されました。

11月4日(月)
広島市の日本キリスト教団 広島流川教会さんで演奏会「広島中央合唱団 Autmun Concert~Can't wait for Christmas~」が開催され、鈴木憲夫氏作曲の「混声合唱曲 レモン哀歌」が演奏されました。
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11月5日(火)
江東区の豊洲シビックセンターホールさんで「サウンド・ランドスケープ Vol.4~現代音楽の今~」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」より「僕等」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」が演奏されました。

11月8日(金) ・11月22日(金)・ 12月13日(金)
 NHKカルチャーさんのオンライン講座「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編」が行われ、光太郎詩「あどけない話」が教材として使用されました。講師は朗読家・神戸女学院大学非常勤講師、川邊暁美氏でした。
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11月10日(日)~11月18日(月)
中野区のなかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が開催され、保存運動が展開されている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエを中心とした展示が行われました。関連行事として11月10日(日)、渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。

11月13日(水)
戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎氏が亡くなりました。「二十億光年の孤独」他初期の詩集を光太郎に贈り、礼状を受け取られていました。
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同日、BSよしもとさんで「又吉・せきしろのなにもしない散歩 #137」が放映され、福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館が取り上げられました。再放送が11月15日(金)でした。

11月17日(日)
千葉市の千葉大学さんキャンパスで、光雲が原型を制作し、戦時中の金属供出で失われていた長尾精一胸像が再建されました。
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11月18日(月)~12月13日(金)
仙台市の東北大学附属図書館さんで「東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示 チベット仏教の精華」が開催され、光雲作の木彫釈迦如来座像が出品されました。

11月20日
青土社さんから中野敏男氏著『継続する植民地主義の思想史』が刊行されました。第三章が「近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」でした。
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11月21日(木)~11月24日(日)
杉並区の荻窪小劇場さんで「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」が上演されました。茶山千恵子さんによる一人芝居、一柳みるさん、西山水木さん、小飯塚貴世江さんによる宮崎春子「紙絵のおもいで」朗読でした。

11月23日(土)
文京区の文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」が開催されました。発表は熊谷健一氏「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」、大島裕子氏「智恵子について、今思うこと」でした。
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11月23日(土)~2025年1月19日(日)
栃木県那須塩原市の那須野が原博物館さんで「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」が開催され、光雲作の「松方正義像」が出品されました。

12月1日(日)
白水社さんから雑誌『ふらんす』2024年12月号が発行されました。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」を取り上げた仏文学者の鹿島茂氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が載っています。
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12月7日(土)
『岩手日報』さんに掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。昨年11月の花巻高村光太郎記念館さん企画展「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展での当方の講座、今年6月のイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」での智恵子のエプロン復刻などについてご紹介して下さいました。
 
12月7日(土)・12月8日(日)
金沢市の金沢美術工芸大学さんで「カナビフォトフェス」が開催され、光雲令曾孫・髙村達氏撮影による光雲、光太郎彫刻の大判写真が展示されました。
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12月7日(土)~2025年1月26日(金)
花巻市の高村光太郎記念館さん他で、同一テーマによる「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」展が開催されました。高村光太郎記念館さんでは「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」と題した展示でした。
 
12月10日(火)
文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の第十九号が発行されました。中野区の中西利雄アトリエ保存に関する記事、当方の連載「連翹忌通信」などが掲載されました。
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同日、中央公論新社さんから辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』が発行されました。光太郎詩碑を取り上げた「よみがえった「一億の号泣」碑」、光雲原型作のモニュメントに触れた「東の靖国、西の護国塔」という章を含みます。
 
さらに同日、中央公論新社さんから『中央公論』2025年1月号が発行されました。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」が取り上げられています。
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12月12日(木)
報道されたのが先週末でして、項目を設けてご紹介しませんでしたが、京都の清水三年坂美術館さん館長の村田理如氏が亡くなりました。いわゆる「超絶技巧」系の明治工芸の蒐集に力を入れられ、現在、山梨県立美術館さんを巡回中の「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展など、多くの展覧会にご協力、ご自身でも関連行事としての講演会講師なども務められました。

12月14日(土)~2025年2月11日(火)
広島県呉市の呉市立美術館さんで「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
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12月15日(日)
福島県二本松市で「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいが開催され、『記念文集』、坂本富江氏著絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』が発行されました。

12月20日(金)~12月22日(日)
世田谷区のAPOCシアターさんで、「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花の家」が上演されました。光太郎智恵子をモチーフとした人物が登場する演劇でした。
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最後は年間通しての話になりますが、毎月15日、花巻市の道の駅はなまき西南さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が販売されました。また、同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に8回「こうたろうカフェ」。共に主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の日記などを元にメニューを考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。

いろいろあった1年間でした。ご関係の皆様のさらなるご活躍とご健勝を祈念いたします。同時に、来年も今年を上回る勢いでいろいろあることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

晶子会発起人中へ加はる事は承諾いたします、 歌碑の方の御相談については御返事を保留して、もつと考へます、多分小生には無理でせう、やはり建設の場に居ないとやりにくいと思ひます、


昭和25年(1950)12月29日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

与謝野晶子の一番弟子を自負していた中原綾子。顕彰のための会を起ち上げ、晶子の弟分だった光太郎にも協力を要請しました。

今年一年の回顧、7~9月編です。

7月3日(水)
渋谷プロダクション/スタンス・カンパニーさんからブルーレイ「火だるま槐多よ」が発行されました。光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」の映像ソフト化でした。劇中で光太郎詩「村山槐多」が使われました。
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7月6日(土)
名古屋市の宗次ホールさんで「藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄」公演がありました。佐藤卓史氏作曲「あどけない話」(世界初演)、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。

7月13日(土)~8月31日(土)
花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「山口山(やまぐちやま)のなつやすみ」が開催され、木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェが展示されました。
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7月13日(土)~9月1日(日)
兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館さんで企画展示「三木露風と交流のあった人々」が開催され、光太郎から三木露風宛の絵葉書(『全集』等未収録)が展示されました。

7月13日(土)~9月23日(月)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-」が開催され、光太郎木彫「鯰」が展示されました。
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7月18日(木)~7月23日(火)
箏曲奏者元井美智子氏と、朗読家・荒井真澄氏のコラボによる「智恵子抄」朗読を含むコンサートツアーが岩手・宮城で開催されました。7/13、花巻市の賢治の広場 ハナマルカフェさんで「夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声」、7/19、仙台市のとなりのえんがわさんで「旅するお箏 となりのえんがわdeコンサート」、7/23、同じくAntique & Cafe TiTiさんで「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」でした。

7月27日(土)~10月20日(日)
北海道釧路市の釧路文学館さんで、企画展「来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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7月31日(水) 
岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、光太郎から歌人中原綾子宛ての手紙・原稿等64点が、中原ご遺族から寄贈された件が発表されました。

8月9日(金)
宮城県牡鹿郡女川町の高村光太郎文学碑、まちなか交流館さんで第33回女川光太郎祭が開催されました。県内外の方々の光太郎詩文朗読、当方の記念講演などが行われました。
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8月10日(土)~9月23日(月)
北海道伊達市のだて歴史文化ミュージアムさんで「佐々木寒湖の書」展が開催され、光太郎詩に題を採った書も複数展示されました。

8月24日(土)
福島県二本松市の市民交流センターさんで「親子で楽しめるワークショップ Satoyamaのはなしとものづくり」 の第2回「智恵子の紙絵 紙絵のラブレター」が開催されました。
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8月24日(土)・8月25日(日)
岐阜県美濃加茂市立東図書館さん及び岐阜市のクララザールじゅうろく音楽堂さんで「リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「歌曲集 智恵子抄」が演奏されました。

8月24日(土)~9月15日(日)
福島県白河市の白河市立図書館さん他を会場に「福島ビエンナーレ2024"風月の芸術祭 in 白河―起" 」が開催され、墨絵や版画などを手がけられている小松美羽氏による智恵子オマージュの作品も展示されました。
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8月28日(水)
筑摩書房さんから早川茉莉氏編のアンソロジー『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』が刊行されました。光太郎エッセイ「ビールの味」を含みます。

8月28日(水)~9月9日(月)
渋谷区の新宿高島屋10階美術画廊さんで「齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―」が開催され、光太郎の父・光雲オマージュの木彫作品も展示されました。
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8月29日(木)
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』が発行されました。「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。

同日、大阪市の本願寺津村別院(北御堂)さんで「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「あどけない話」が演奏されました。
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9月6日(金)~10月20日(日)
台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展が開催され、光雲・光太郎作品も展示されました。

9月7日(土)~9月23日(月)
渋谷区のエンパシーギャラリーさんで「瀬戸優個展 Time Traveler」が開催され、光雲オマージュのテラコッタ作品も展示されました。
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9月9日(月)~9月15日(日)
京都市のぎゃらりい思文閣さんで「令和6年9月 思文閣大入札会 下見会」が開催され、中原綾子に贈られた光太郎色紙二点が展示されました。

9月12日(木)
音楽家の田中信昭氏が亡くなりました。平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールで開催された「オペラ智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成アンサンブルの指揮をなさって下さいました。

9月13日(金)
仙台市のアクテデュースさんで、ピアニスト・齋藤卓子氏による「サロンコンサート《 いざなう月の琴》 vol.32 ~古典調律で楽しむ, 小さなお部屋コンサート『 ひとり シューマンと智恵子抄 』クララ・シューマンの生誕日に寄せて~」が開催されました。
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9月13日(金)
オンラインで全国の公民館をつなげ、各地のご当地体操に大人数で取り組む「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」が開催されました。福島県二本松市の「ほんとの空体操」も取り上げられました。

9月14日(土)
TokyoFMさん他で「yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ」がオンエアされ、サブタイトルが「己の後悔と向き合う -【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-」でした。語りは長塚圭史さん、脚本は北阪昌人氏でした。
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9月15日(日)
神奈川県逗子市のテルミンミュージアムさんで「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」が開催されました。テルミン奏者の大西ようこさん、箏曲奏者の元井美智子さんのコラボで、元井さんオリジナルの「智恵子抄」が演奏されました。
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同日、花巻市の『広報はなまき』の連載「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」で、今年寄贈された光太郎から歌人の中原綾子宛史料のうち、直筆草稿が紹介されました。

9月15日(日)~10月8日(火)
千葉県多古町のコミュニティプラザさんで「多古町合併70周年記念 第48回千葉県移動美術館~田んぼの美~」が開催され、千葉県立美術館さん所蔵の光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
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9月20日(金)~9月30日(月)
神戸市のGallery301さんで「山下和也個展 星尘詩(ほしくずのうた)」が開催され、光太郎オマージュのアート作品が展示されました。

9月22日(日)
盛岡市の岩手県産業会館さんで「同人誌展示即売会 岩漫63」が開催され、花巻高村光太郎記念館さんも参加なさいました。
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9月27日(金)
講談社さんから神永曉氏監修『日本のことばずかん いきもの』が刊行されました。光太郎詩「春駒」が取り上げられました。

明日はこの項最終回で、10~12月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

この一ヶ月ばかり小生ひどくいそがしい思をしました。こんな山の中にゐて用事や原稿に追ひかけられるのは滑稽です。

昭和25年(1950)12月23日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

この年は詩集『典型』や詩文集『智恵子抄その後』などの出版が相次ぎ、実際に忙しかったようです。数え68歳、当時としては「ご隠居」と呼ばれてもおかしくない年齢。まぁ、年齢に負けない精力的な活動ということでしたが。

今年一年を振り返る2回目です。

4月2日(火)
千代田区の日比谷松本楼さんで、光太郎忌日・第68回連翹忌の集いを開催いたしました。
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同日、刊行物として高村光太郎研究会さんから『高村光太郎研究(45)』、文治堂書店さんから勝畑耕一氏著『中野・中西家と光太郎』、当会から『光太郎資料』第61集が発行されました。
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4月3日(水)
花巻市太田地区ご在住で、生前の光太郎をご存じ、語り部として様々なご活動をなさっていた浅沼隆氏が亡くなりました。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さっていました。
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4月5日(金)
豊島区のヤマノミュージックサロン池袋さんで、山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会が開催されました。光太郎の父・光雲の「光雲懐古談」に材を採った鈴々舎馬桜師匠の創作落語「名人傳」が演目に入りました。
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4月5日(金)~4月14日(日)
渋谷区のデザイン&ギャラリー装丁夜話さんで「ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日」が開催されました。水彩画家ASAKO氏の「智恵子抄」オマージュの作品などが展示されました。
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4月9日(火)
荒川区の日暮里サニーホール コンサートサロンで朗読と音楽をコラボしたコンサート「My Favorite Music 春の風に寄せて」が開催されました。桜さゆり氏による朗読「高村光雲:佐竹の原へ大仏をこしらえたはなしより抜粋」がプログラムに入っていました。
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4月10日(水)
みすず書房さんから土田昇氏著『瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家』が刊行されました。伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀を中心に、光雲、光太郎にも随所で触れて下さいました。

4月13日(土)~6月30日(日)
文京区立森鷗外記念館さんで 特別展「教壇に立った鴎外先生」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月16日(火)
宮沢賢治実弟・清六の息女にして、光太郎が様々な支援を行った児童劇団「花巻賢治子供の会」メンバーだった宮沢潤子氏が亡くなりました。

4月19日(金)
光太郎がらみの玉稿が複数おありだった、福島県いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

4月20日(土)
夜学舎さんから雑誌『B面の歌を聞け』第4号が発行されました。「アートを通じて社会をほぐす 谷澤紗和子さんのアートと「ことば」」と題し、智恵子紙絵オマージュ作品等を手がけられている現代アート作家・谷澤紗和子氏が取り上げられました。
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4月23日(火)
講談社さんから野村進氏著『丹波哲郎 見事な生涯』が刊行されました。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」にスポットを当てた「病身の妻 志麻子にかけた催眠術 「智恵子抄」から「貞子抄」へ」という章を含みます。

4月25日(木)
婦人之友社さんから森まゆみ氏著『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』が刊行されました。夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともあり、光太郎に触れられています。
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4月25日(木)~5月26日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/高村智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階特別公開、「紙絵」実物展示、「上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験」、「智恵子を偲ぶ鎮魂のつどい」など様々なコンテンツが行われました。
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4月27日(土)~7月7日(日)
花巻高村光太郎記念館さんで「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催されました。

4月27日(土)~6月30日(日)
仙台市の仙台文学館さんで「開館25周年記念特別展 詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
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4月29日(月)
渡邉茂男氏著『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』が東京図書出版さんから刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

同日、中央区の第一生命ホールさんで「大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演」が開催されました。西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」が演奏されました。
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5月5日(日)
亜紀書房さんから若松英輔氏著『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』が刊行されました。「書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」という項を含みます。

5月11日(土)
大和書房さんから阿川佐和子氏他著『おいしいアンソロジー 喫茶店  少しだけ、私だけの時間』が刊行されました。光太郎の随筆「珈琲店より」を含みます。
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5月15日(水)
武蔵野美術大学さんの前田恭二教授による『読売新聞』さんの連載「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」に「若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治」が掲載され、神田淡路町にあったほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されました。以後の同連載、5月29日(水)「高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像」、6月12日(水)「東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む」、6月26日(水)「東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会」、7月10日(水)「最も新しい女性画家――高村智恵子の青春」で光太郎智恵子に触れられました。

5月19日(日)
愛知県西尾市の古民家カフェすず助さんで「語り部リサイタルvol.5 みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」公演がありました。「智恵子抄」から朗読が為されました。
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5月26日(日)
富山県高岡市の生涯学習センターさんで「令和6年度市民大学たかおか学遊塾 高村光太郎『智恵子抄』講座」が始まりました。講師は同市ご在住の茶山千恵子氏でした。

6月1日(土)
NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」で、中西利雄アトリエ保存運動、東北各地で光太郎智恵子顕彰等に取り組まれる方々が紹介されました。
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6月2日(日)
文京区のトッパンホ-ルさんでコール淡水・東京(CTT)さんの第11回定期演奏会が開催されました。次郎丸智希氏が光太郎詩『雨にうたるるカテドラル』に曲を付けた作品が委嘱作品として初演されました。

6月6日(木)~6月16日(日)
品川区のシアターHさんで、オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」に材を採った演劇「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」東京公演が行われました。京都公演は6月21日(金)~6月23日(日)、京都市の京都劇場さんでした。
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6月9日(日)
岩手県花巻市のなはんプラザさんでシンポジウム「五感で楽しむ光太郎ライフ」が開催されました。発表は「光太郎にかかわる総合学習の状況について」(花巻市立太田小学校長 藤田聖子氏)、「文芸誌作品・詩朗読及び感想」「智恵子のエプロン紹介」(花巻南高等学校文芸部・家庭クラブ生徒・担当教師)、「光太郎の愛した山口山の自然」(岩手県環境アドバイザー 望月達也氏)、「おいしいランチ 光太郎を食べよう TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当」(やつかの森LLCさん)。当方がコメンテーターを務めさせていただきました。

6月10日(月)
文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』第十八号が発行されました。中西利雄アトリエ保存に関しての記事、当方の連載「連翹忌通信」などが載りました。
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6月15日(土)
東京都府中市の中央文化センターにおいて「葵の会第二十三回公演 青鞜の女たち」が開催されました。令和3年(2021)に上演されたものの再演で、光太郎智恵子も登場しました。

6月19日(水)~6月23日(日)
中野区のテアトルBONBONさんで演劇「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」公演がありました。
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6月29日(土)
杉並区の名曲喫茶ヴィオロンさんで「ノスタルジックな世界」公演がありました。藤澤由二氏のピアノ演奏に乗せて、MIHOE氏が歌われたり朗読されたりという構成でした。

6月30日(日)
三重県四日市市の市立図書館さんで「第3回文色草子朗読ライブ 詩人、四人。 高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平」が開催されました。
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明日は7~9月です。

【折々のことば・光太郎】

いただいたレコードもまだ本当にはきけないでゐます、一度持つて花巻にいつた時は停電にぶつかつて駄目、とあるパン屋さんの店さきにあつたポータブルをかりてききましたが、まるで音が狂つてしまつてこれも駄目でした、山には蓄音機まるでなくいつかゆつくりいい電蓄できかうと思つてゐます、

昭和25年(1950)12月1日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「レコード」は、舞踊家の藤間がリサイタルで取り上げた「智恵子抄」の伴奏を吹き込んだレコードです。小村三千三作曲で、「浜辺」「ひたむき」「切紙細工」の三曲でした。藤間が山形に講演に行った光太郎にわざわざ届けてくれました。くわしくはこちら

毎年恒例、今年一年を振り返ります。

と、その前に、昨年のこの項で漏れていた件から。

2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
世田谷区の世田谷文学館さんで「コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」の衣裳デザイン原画が展示されました。
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2023年11月15日(水)
沢本ひろみ氏著の歌集『燃える花』が文芸社さんから刊行されました。「智恵子抄」オマージュの短歌群を含みます。

2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
長野市の北野美術館さんで所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」が開催されました。光太郎の父・光雲作の木彫仁王像一対が出品されました。
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2023年11月30日(木)
青土社さんから小田原のどか氏著『モニュメント原論 思想的課題としての彫刻』が刊行されました。「3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」などの項で光太郎に触れられています。

2023年12月5日(火)
大塚信一氏著の評伝『津田青楓 近代日本を生き抜いた画家』が作品社さんから刊行されました。随所で光太郎に言及されています。
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2023年12月27日(水)
俳人・小津夜景氏著のエッセイ集『ロゴスと巻貝』がアノニマ・スタジオさんから刊行されました。「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。

これより純粋に今年です。

1月1日(月)
清流出版さん発行の『月刊清流』2024年2月号に、安芸正宏氏による「『智恵子抄』と智恵子」という記事が載りました。
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1月4日(木)~3月3日(日)
千代田区の皇居三の丸尚蔵館さんで「開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美」が開催されました。光雲作木彫「猿置物」が出品されました。

1月5日(金)~3月9日(土)
新潟市の敦井美術館さんで「新春特別展 新春工芸名品展」が開催され、光雲作の木彫「ちゃぼ」が展示されました。
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1月12日(金)
『東京新聞』さんに「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作」という記事が載りました。

1月20日(土)~2月18日(日)
岩手県花巻市の花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、高村光太郎記念館さんの3館が連携し、統一テーマによる同一時期の企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」が開催されました。高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」でした。
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1月22日(月)
彩図社さんから同社文芸部さん編『大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集』が刊行され、「高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる」という項が含まれました。
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2月3日(土)~3月24日(日)
札幌市の北海道立文学館さんで、特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」が開催され、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の通常版と「異本」と、二種類が出展されました。

2月17日(土)
中野区の新井区民活動センターさんで「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の最初の会合が持たれました。
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2月21日(水)
BSよしもとさんで、「又吉・せきしろのなにもしない散歩 #99」の放映がありました。花巻市の高村光太郎記念館/高村山荘が取り上げられました。
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2月21日(水)~2月25日(日)
台東区の東京都美術館さんで「出張!江戸東京博物館」が開催され、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」を描いた錦絵が展示されました。

2月23日(金)
岩手県花巻市の喫茶店ココ・タベルバ・ラパンさんで「VALENTINE CONCERT 朗読と音楽で楽しむお茶時間 高村光太郎『智恵子抄』より」が開催されました。
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2月29日(木)
栃木県を中心とした同人詩誌『馴鹿』第80号記念号が刊行されました。「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。

3月1日(金)~3月10日(日)
渋谷区のデザイン&ギャラリー装丁夜話さんで「星センセイと一郎くんと珈琲」という個展が開かれました。山口一郎氏による「レモン哀歌」オマージュの作品が出展され、さらにそれを元にしたポストカードブックが発行・販売されました。
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3月5日(火)
あるきみ屋さんから黄瀛詩集『瑞枝』復刻版が刊行されました。元版は昭和9年(1934)。光太郎による序文が掲載されています。

3月7日(木)
稲賀繁美氏著・末木文美士氏/中島隆博氏責任編集『日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術』が東京大学出版会さんから刊行されました。「高村光雲『高村光雲懐古譚』」「高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」」という項を含みます。
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3月15日(金)~3月17日(日)
千代田区の東京交通会館展示会場に於いて「ABAJ 国際 2024稀覯本フェア」が開催され、萩原朔太郎追悼の光太郎草稿が展示されました。

3月17日(日)
台東区の秋葉原コンシールシアターさんで朗読劇「天野まり単独公演 ソレを、私は恋と呼ぶ。/智恵子抄」が開催されました。 
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3月20日(水)
中央区の王子ホールさんを会場に「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」が開催されました。作曲家の朝岡氏が光太郎詩「冬が来た」に曲を付けた独唱歌曲が初演されました。

3月20日(水)~4月6日(土)
中央区のギャラリーせいほうさんで「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催され、光雲木彫「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)が出品されました。
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3月23日(土)
台東区の一般社団法人落語協会さんで「彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=」が開催されました。『光雲懐古談』に題を採った鈴々舎馬桜師匠による「名人傳」が初演されました。

3月25日(月)
福島県郡山市のNHKカルチャー郡山教室さんで「澤正宏先生の春の講座 与謝野晶子と高村光太郎」が開催されました。
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同日、生活の友社さんから『月刊 アートコレクターズ』№181 2024年4月号が発行されました。元神奈川県理知近代美術館長・水沢勉氏の連載「色と形は呼び交わす」の第13回「盛田亜耶 被膜の虚実」で、智恵子紙絵が紹介されました。

まだ安心は出来ませんが、コロナ禍も今や昔、さまざまなイベントもあり、胸をなで下ろした年明けからの3ヶ月でした。しかし抜けも多いかと思われます。「こんなこともあったよ」という情報がありましたらご教示下さい。

明日は4~6月をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

新潮社から文庫詩集が届きまして早速貴下の文章をよみました、まことに深く小生のものをよんで下さつてゐて、よみながらいろいろの事に自分でも気づきました、雑然としてゐた自己批判が整理されたやうに思ひました、大変おもひやりのある御意見には心があたためられ、今後の進み方に勇気が持てるやうに感じました、

昭和25年(1950)11月30日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎68歳

文庫詩集」は現在も版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に載っていた伊藤の解説は書き改められました。

最近の地方紙さん2紙の一面コラムで光太郎に言及されたものを2件。偶然でしょうが、どちらも「光太郎」以外に「登山」もキーワードでした。まぁ、「光太郎」はそれぞれ枕ですが(笑)。

まず12月22日(日)、『信濃毎日新聞』さん。

斜面 安達太良山の教訓002

「東京に空が無い」と話す妻、智恵子の言葉をうたった高村光太郎の詩に、阿多多羅山(あたたらやま)という山が出てくる。その上に毎日出ている青い空こそが「ほんとの空」だと。福島県の中部にある標高約1700メートルの活火山安達太良山(あだたらやま)のことだ◆直近の噴火は1900年。火口付近の硫黄採掘所で働いていた60人以上が犠牲になった。最初の小噴火で親方の言うことを聞かずに逃げた少年1人が無事だったが、まだ大丈夫とみた親方の指示で他の人はとどまり、すぐ後の噴火で爆風に巻き込まれた◆木曽町で先月開かれた御嶽山噴火10年のシンポジウムで磐梯山噴火記念館の佐藤公(ひろし)館長が説明していた。1888年に起きた同じ福島の磐梯山噴火と違い安達太良山の犠牲者はほぼ地元以外の人たち。地域で慰霊の機会は少なく、災害の事実はいつしか忘れられていったという◆時を経て1997年、安達太良山で再び犠牲者が出る。登山グループの女性4人が火山ガスに襲われ、次々に中毒死した。気象台は当時、火山活動の活発化に注意を呼びかけていた。もし約100年前の教訓が浸透していたら別の展開もあっただろうか◆深田久弥は著書の「日本百名山」で1900年の噴火を振り返り、火口の印象を「悲惨な歴史は知らずげに、こっそり秘められた仙境といった感じ」と書いた。「あれから10年、40年…」。そんな災害関連報道を今年もよく目にした。節目は来年も訪れる。諦めず粘り強く、伝え続けたい。

自然災害の多い国です。今年も特に能登の皆さんは元日の大地震に、その後の豪雨にと、大変な年でした。火山噴火に伴う甚大な被害はなかったように思いますが、安心は出来ませんね。地震にしても雨にしても噴火にしても、被害が出ない程度の規模で少しずつエネルギーを分散して発生するということであればいいのでしょうが、こればかりは……というところです。

続いて『千葉日報』さん、一昨日の掲載分。

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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。大正、昭和に活躍した彫刻家で詩人の高村光太郎の代表作「道程」の一節。将来を切り開こうとする強い意志が感じられ、若き日に愛唱した方も多かろう▼気概はいつまでも大切にしたいものの、夏山登山では整備された登山道を歩くことが原則。貴重な植生を守り、道迷いや滑落による遭難防止につながる▼その登山道の維持には人の手が欠かせない。多くは山小屋や山岳団体の関係者が手弁当で担い、地元の自治体が維持費を工面しているケースもあるようだ▼「秩父三山」の一座、両神山(標高1723㍍)は日本百名山にも数えられ、鋸(のこぎり)歯のような山容が特徴。山頂近くの尾根にツツジの一種のアカヤシオが群生しており、春は山肌が桃色に染まる▼年間約3万人が訪れる人気山域の故に登山道は劣化し、台風による倒木や崩落箇所も増加。地元の小鹿野町は対策費を捻出すべくクラウドファンディング(CF)を開始。何度か歩いた経験がある身として、些少(さしょう)ながら寄付をさせていただいた▼県内で唯一「岳」の名を冠した伊予ヶ岳も南房総市が登山環境整備を掲げCFに挑戦。当初の目標額200万円を早々に達成、市は目標額を500万円に引き上げた。郷土の誇る低名山が安全に登山を楽しめる場所であってほしい。支援の広がりを願ってやまない。

千葉県民ですが、「伊予ヶ岳」は存じませんでした。「県内で唯一「岳」の名を冠した」だそうで。そもそも千葉県は県全体が東京スカイツリーより低い県(笑)。「岳」があるとは思ってもいませんでした。

伊予ヶ岳、埼玉の両神山、そういえば『信毎』さんで取り上げられた安達太良山でも登山道整備のためのCFが行われていました。自然災害の多い国ですが、それを補って余りある人々の支援の輪で、この国をよりよくしていけるような来年となることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう、「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか、

昭和25年(1950)11月20日 藤島宇内宛書簡より 光太郎68歳

李香蘭こと故・山口淑子さん。光太郎は写真で見たそのお顔に、彫刻的興味を惹かれていたようです。山小屋を訪ねた藤島にもそういう話をし、藤島が当時務めていた新潮社の雑誌にそうした内容をエッセイで書いてくれ、と頼んだようです。しかし結局、彫刻もエッセイも実現しませんでした。

まずは状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民友』さん記事から。

高村智恵子の古里にふさわしいまちづくりを 福島県二本松市の「夢くらぶ」 発会20年を祝うつどい

 「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいは15日、福島県二本松市油井の智恵子の湯で開かれた。同市出身の洋画家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家高村光太郎の愛と芸術に生涯をささげた姿を語り継ぎ、智恵子の古里にふさわしいまちづくりを進めていくことを誓い合った。
 約30人が出席した。熊谷健一代表が「二人の生き方が今の私たちに感動を与える。日本や世界中の人に訪ねてもらえる地域づくりをしよう」とあいさつ。市内の小中学校などに贈る絵本「夢を描くひと―高村智恵子―」を三保恵一市長に手渡した。作者の坂本富江さんが思いを語った。
 三保市長、本多勝実市議会議長、加藤和信あだち観光協会長が祝辞を述べた。乾杯して歓談した。トランペッターのNobyさんが演奏を披露した。出席者がスピーチし、エピソードなどを語った。
 夢くらぶは2005(平成17)年1月に発足。「智恵子純愛通り」記念碑建立や高村智恵子生誕祭、智恵子講座、朗読会、「智恵子抄」総選挙など多彩な事業を催している。発会20年と光太郎・智恵子の結婚110年、光太郎の詩集「道程」出版110年の記念文集を発行した。
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というわけで、智恵子の故郷・福島二本松でさまざまな智恵子顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが20周年だそうで、おめでとうございます。

記事にある『記念文集』、絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は下記画像。それぞれA4判横長です。
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『記念文集』目次はこちら。
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拙稿も載せていただいております。

絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は、10月14日(月)、智恵子生家とその周辺で行われた「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」において、著者で太平洋美術会さんご所属の坂本富江さんが行った紙芝居を元に書かれています。当方、校閲いたしまして、「監修」ということでクレジットされています。奥付画像を載せておきます。
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記事に有る通り市内の学校さんに贈られたということで、智恵子の母校・油井小学校さんのサイトに報告が。

智恵子の絵本 贈呈式

高村智恵子さんの顕彰をしている「智恵子のまち夢くらぶ」より、市内の小中学校に絵本を寄贈いただきました。絵本は「夢を描くひと-高村智恵子-」というタイトルで、智恵子さんの生涯や生き方をわかりやすく紹介している絵本です。先日、絵本を作った作家の坂本富江さんが油井小に来校し、絵本に対する思いなどをうかがいました。そして、6年生が直接坂本さんから市内の学校を代表して絵本を受け取りました。6年生は感謝の言葉と「智恵子抄」の朗読をして、坂本さんと夢くらぶの皆様に感謝の気持ちを伝えました。
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関係の皆様の今後とものご活躍、さらに若い方々への継承といったあたりを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

毎年方々から請はれるままに新年の詩をこれまでうんざりするほど書いて来ましたが、もう一切書かない事にきめましたから此事御了承願ひます、


昭和25年(1950)11月18日 三宅正太郎宛書簡より 光太郎68歳

三宅は『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』3社で組んだブロック紙三社連合に勤務していました。その各紙で翌年元日に掲載する詩を書いてくれと言う依頼に対しての返答です。

ただ、結局、ぶつぶつ言いながらも、三宅からの重ねての依頼に根負けし、次の詩を送りました。

    船沈まず005

 酔はないのは船長とわたくしだけだつた。
 キヤビンの羽目につるしたステツキが
 振子のやうに四十五度かしいだ。
 ボートはさらはれ、
 手すりはもがれた。
 船は真横からくる吹雪を避けて
 コースを棄ててただよつた。
 とんでもない方角に
 船首は向いて波におされた。
 一人も客の出て来ない食堂で7f456cef
 その時わたくしは雑煮を祝つた。
 枠のはまつた食卓で
 ころがる箸をやつと取つた。
 それでも船は沈まなかつた。
 囲炉裏の上で餅を焼いてるこの小屋が、
 日本島の土台ぐるみ、
 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、
 あの船の沈まなかつた経験を
 わたくしはもう一度はつきり思ひ出す。

遠く明治39年(1906)、横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号でアメリカ大陸を目指した際の体験を元にしています。「雑煮を祝つた」は、2月3日に出航し、航海中に旧正月を迎えたためでしょうか。この季節の太平洋は大荒れで、船は大きく北のアリューシャン方面までを迂回し、3月7日にバンクーバーに到着しました。「四十五度かしいだ」などは実話だったとのことですし、その後、流木が窓を突き破って船内に入ってきたこともあったそうです。

ひるがえって昭和26年(1951)の新年は「今にも四十五度に傾きさうな新年」。令和7年(2025)の新年もそんな感じですね(笑)。

2ヶ月経ってしまいましたが、新刊です。著者はお世話になっている藤井明氏。小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員です。

明治・大正・昭和 メダル全史

発行日 : 2024年10月25日
著 者 : 藤井明
版 元 : 国書刊行会
定 価 : 12,000円+税

はじめての日本メダル大図鑑!
手のひらに載せれば心地よい金属の重みと質感を湛える、美しき世界――
明治初めに誕生し、大正に一大ブームを迎えるメダル。
オリンピック、高校野球、箱根駅伝、内国博覧会、皇室のご即位・ご成婚、従軍記章、創立記念、あるいはグリコのおまけ……
多種多様のメダルが製造され、なかには畑正吉、日名子実三、朝倉文夫、あるいは岡本太郎など美術家が関わりユニークで芸術性の高いものもある。
賞牌、勲章、記章、コインの類義語としてこれまであいまいにされてきた存在を、約280点のメダルと豊富な資料により、日本の近代化とともに歩んだ歴史と美術的価値を与えて詳らかにする、初のメダル集成。
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目次
 [プロローグ]メダルとは何か
 ようこそメダルの世界へ/メダルの名称
 i章 メダル事始
  1. 日本メダル前史
  2. メダルのはじまり
  3. 徽章業の誕生と発展
  §コラム1 西洋のメダル
 ii章 活用されゆくメダル
  1. 博覧会のメダル——文明開化のかがやき
  2. 皇室の祝賀
  3. 学校のメダル——「皆さん勉強なさい メダルを上げます」
  4 .会社・店舗のメダル
  5. 啓発のメダル
  §コラム2 初期デザインと様式
 iii章 メダルブームの到来
  1. 航空のメダル——大空に賭けた夢のかけら
  2. スポーツのメダル——ああ栄冠は君に輝く
  3. 活気づく徽章業
  4 .コレクターの出現
  5. 子どもたちの憧れ
  6. メダル事件簿
  §コラム3 オリンピックのメダル
 iv章 彫刻家とメダル
  1. メダルと彫刻
  2. 岩村透と畑正吉
  3. 日名子実三と構造社
  4. その他の作家たち
  5. 肖像メダル
  §コラム4 ノーベル賞のメダル
 v章 戦争とメダル
  1. 戦時下のメダル
  2.「桃太郎さがし」とメダル
  3. 戦時下の徽章業
  4. 今日のメダル
  §コラム5 メダルコレクターの素顔
 [エピローグ]ふたたびメダルとは何か
 注/主要参考文献/掲載図版一覧

表紙画像と目次、さらには紹介文でおおよそお判りかと存じますが、とにかく「メダル」です。250ページ超、ほぼオールカラーで、これでもかこれでもか、と、各種のメダルの図版が次々に。それぞれに解説も。紹介文に依ればその数約280点。さらに表裏双方の画像が掲載されていたり、メダルそのもの以外の関連する画像も豊富に収録されたりしています。

しかし、そもそも「メダル」っていったい何だ? ということになります。そのあたり、「プロローグ」で述べられていますが、「勲章」や「賞牌」といった、似たものとの線引きが曖昧ですね。さらに「貨幣」も絡んできたり……。そこで、勝手な想像ですが、約280点の紹介を通し、いわば帰納法的に「こういうものだ」とするという意図もあるのかな、と思いました。

さて、我らが光太郎の制作したメダルも4点、紹介されています。
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掲載順に並べましたが、左上が岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章「種蒔く人」(昭和8年=1933頃)。右上は「園田孝吉像」(大正4年=1915)。左下に「嘉納治五郎像」(昭和9年=1934))、右下で「大町桂月像」(昭和28年=1953)。

「種蒔く人」は、岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章。ただし不採用となりました。岩波が嫌っていた軍国主義っぽいと言う理由でした。しかし、「ボツになった」という事実も忘れられつつあるようで、現在の岩波書店さんでは社章は光太郎に作って貰った的な受け止め方でいます。そのあたり、くわしくはこちら

「園田孝吉像」。園田は十五銀行の頭取。同時に大きな胸像も制作されました。光太郎がアメリカ留学中に知り合った同行行員の熊井運祐、佐藤五百巌の斡旋で作られました。胸像の方は、信州安曇野の碌山美術館さんで展示されることがあります。

「嘉納治五郎像」は、「メダル」と言っていいのかどうか、当方としては疑問が残ります。縦長の長辺が20センチ超で、一般的な「メダル」よりかなり大きいので。ちなみに存命人物の肖像をやや苦手としていた、光太郎の父・光雲の代作です。画像はおそらく髙村家に遺された原型を元に、新たにブロンズで鋳造したもの。当方、制作当時のものを入手しましたが、ブロンズではなく石膏着色と思われます。ブロンズと比べ、恐ろしく軽いので。抜きが甘く、あまりいい出来ではありません。
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同様の光雲の代作として、「徳富蘇峰胸像」(昭和7年=1932)があります。こちらも入手しまして、先月、中野区のなかのZEROさんで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品いたしました。
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こちらはきちんとブロンズで、重量があります。頒布は翌昭和8年(1933)、その際の趣意書もついていました。光太郎が代作したものなのに、光雲が如何に素晴らしいかといった記述に溢れ、こうしたインチキがまかり通っていたのですね(現代でも似たようなケースがありそうですが)。サイズ的には「嘉納治五郎像」とほぼ同じ。これも「メダル」と言っていいのかどうか……と感じます。

閑話休題。最後は「大町桂月像」。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもので、光太郎生涯最後の完成作です。上の画像は原型。鋳造されたメダルは十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんに展示されています。
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『明治・大正・昭和 メダル全史』。他に、名のある彫刻家、工芸家、画家等が原型を制作したメダルも多数。畑正吉、日名子実三、齋藤素巌、陽咸二、藤井浩祐、朝倉文夫、荻原守衛、戸張孤雁、藤井達吉、岡田三郎助、北村西望、小杉未醒(放菴)、香取正彦、武石弘三郎などなど。

しかし、それらより圧倒的に多いのは、名も無き職人さん達の作。かえってそちらの作品群の方が、当時の世相や世の中の需要などを如実に反映しているようにも見えました。

なかなか高価なものですが、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

三十日から三日まで山形へゆき、酒の御馳走になつてきました、蔵王山麓が美しくみえました、 ここではもう冬です、


昭和25年(1950)11月8日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

山形では県総合美術展覧会の批評、講演会を二回行いました。このうち、山形市教育会館で開催された方を、渡辺えりさんの御両親が聴かれたそうです。

一昨日、中途半端なところで終わってしまった花巻レポートの続きです。

豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさったお店ですが、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』12月15日号に紹介されています。
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展示されていました地元の方の賢治オマージュの作品、画像がアップロードし切れていませんでしたので、追加です。
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店内には他にも常設的に賢治関連の展示も。
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それ以外にも、写真を取り忘れましたが、ジャズを中心に、クラシックや懐かしのJ-POP、果ては演歌にいたるアナログレコードがずらり。

そこそこ面積もあり、キャパ数十のちょっとしたコンサートなど音楽や朗読イベント等も可能なようです。光太郎関連でもやらせてくれそうです。
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今後のますますのご繁昌を祈念いたします。

さて、市街地を後に、旧太田村方面へレンタカーを走らせました。目指すは光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋・高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん。一見平坦な道に見えて徐々に標高が上がっていき、少しずつ積雪も。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。驚くほどの積雪ではありません。というか、逆にこの時期としては雪が少なくて、驚くほどです。以前はスタッフの方が小型の除雪車でメートル単位の雪を排除していました。
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こちらでは、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマ「イーハトーブの先人たち」による同一時期開催の企画展「ぐるっと花巻再発見」の一環として「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」が開催中。
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スペース中央に、どん!と蓄音機。
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パネルは、クラシック音楽に関わる光太郎詩や尾崎喜八、宮沢清六ら周辺人物の回想等。
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SPレコードが4枚。うち2枚は当方がお貸しした、太平洋戦争前の光太郎作詞のものです(楽譜も)。
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自宅兼事務所にはアナログレコードの音声データをPCに取り込めるレコードプレーヤー(SPの78回転にも対応しています)がありますので、こちらで作成したデータも一緒に提供しましたところ、QRコードで聴くことが出来るようにしてありました。
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この2枚以外にもSPレコードを数枚お貸ししたのですが、スペースや予算の関係でしょうか、そちらは展示されていませんでした。以前に使っていた展示ケースが不具合、その後新たに補充されていないそうで、それさえあればずらっと並べられるのに改善されていません。マストの備品なので何とかして下さいと前々から言っているのですが、何だかなぁ、という感じです。

他に、光太郎も聴いたであろう戦後くらいのクラシックの盤。こちらは地元の方のご提供。
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会場内ではこちらから採ったと思われる音楽をエンドレスで流しています。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘へ。市街地でも熊の出没情報が相次いでいますので、十分注意しつつ。この積雪の少なさで、まだ冬眠していないようです。
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ルーティンで、光太郎遺影にご挨拶。

その後、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄り、リンゴを一箱購入して自宅に発送。少し前にやつかの森LLCさんからいただいた一箱も食べきっていないのですが、あったらあったで困りませんので。

そして定宿の、光太郎や賢治も愛した大沢温泉さん。
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渓流側の部屋にしていただき、ラッキーでした。

当方、ここのところ毎年冬の初めには手指に内出血系のしもやけが出来て、痛くて堪らないのですが、大沢温泉さんに浸かると不思議と治ります。以前もそうでした。恐るべし、温泉パワー(笑)。

そして翌朝。この日は世田谷の千歳船橋で演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」拝見のため、8時台のはやぶさ号で帰りました。

また来月も花巻行きの予定です。カフェ羅須さん、高村光太郎記念館さん、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

三日に胆沢郡水沢町といふ町の水沢公民館で智恵子の切抜絵の展覧会をやつたやうです。そこには智恵子の旧知の人が居ます。山形市、盛岡市、花巻町でもやりました。


昭和25年(1950)11月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

水沢町は現在の奥州市。こちらの公民館で1日限定で智恵子の紙絵の展示が行われました。作品は花巻の佐藤隆房宅に疎開させておいたものからチョイスし、「智恵子の旧知の人」日本画家の夏目利政が骨折って実現しました。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。水沢方面に疎開して、戦後もしばらくいたようです。

パンフレットには夏目による在りし日の智恵子を思い出して描かれた絵も載せられました。
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昨日のこのブログでは、一昨日、昨日と滞在しておりました光太郎第二の故郷・岩手花巻のレポートを途中まで致しておりましたが、一旦中断し、その後向かいました世田谷での観劇レポートを。そちらの公演が今日までですので、これを見て行ってみようという方が一人でもいらっしゃれば、と思いまして。

燦燦たる午餐さんの第二回公演「凌霄花の家」。ハコは小田急線千歳船橋駅近くのAPOCシアターさん。キャパ20名ちょいくらいの小劇場でした。しかし天井は高く狭苦しい感じではなく、奈落(?)に降りる階段なども劇中で効果的に活用されていました。
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こちらは終演後。左端に階段。
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登場人物は三人(劇中劇的に、他の人物の役どころを演じる役回りも設定されていましたが)。それぞれ熱の籠もった演技でした。

まず令和の現代を生きる若い女性・遙佳(中嶋真由佳さん)。彼女がさまざまな鬱屈を抱え、鬱蒼とした森の中を歩いている中で、凌霄花(ノウゼンカズラ)に包まれたあばら屋を見つけ、屋内に。そこで見つけた古い絵や日記、手紙などに見入っていると、一人の男(石倉来輝さん)が現れ、「この家のゆかりの者」的な自己紹介。そしてかつてこの家であったことを語り出す、という流れです。この手法、能の定石ですね。実はその語っている人物の正体は……という所まで含めて。

男の語る昔語りは、この家(実はアトリエ)で100年ほど前にあった画家夫婦、孝治(石倉さん)と夕子(畑中咲菜さん)の話。この画家夫婦というのが、光太郎智恵子をモチーフとしています。ただ、孝治は彫刻家ではなく画家。彫刻家とするより画家の方が描きやすそうですし、一般の理解も得られるかなとは思いました。評論や翻訳なども書いているという設定は、光太郎そのままです。しかし、詩を書いているという設定にはなっていませんでした。後述しますが、史実の光太郎が書いていた詩も含め、孝治の絵がその役割を担っている感じの描き方でした。

光太郎の「緑色の太陽」を彷彿とさせる評論を読んだ、自身も絵を描いている夕子が孝治のアトリエを訪れ、意気投合、双方の両親の反対を押し切って、結婚。この辺りも光太郎智恵子の史実に近い設定です。また、あまり強調されませんでしたが、孝治の父は、光太郎の父・光雲同様、斯界の権威ということになっていました。

当初は売れない画家だった孝治は、特に夕子をモデルに描いた絵が徐々に世の中に認められていき、夕子も細々と雑誌の挿絵や絵葉書を描いて……という二人の生活。史実だと光太郎は智恵子をモデルとした彫刻も複数作り、発表もしましたが、その数は多くありませんでした。
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しかし、のちに『智恵子抄』に収められる詩群に智恵子を謳い、それによって智恵子のイメージが世に広まった部分はありました。そう考えると、劇中での孝治の智恵子を描いて好評を博した絵は、『智恵子抄』の詩群と置き換えられるように思いました。

細々と夕子に舞い込む仕事の依頼は、「絵にも描かれた孝治の妻」という形容詞がついてのものだったり、孝治の絵と違う服装でいると世間から違和感を感じられたり、と、このあたりはさもありなん、でした。ただし史実では、智恵子は主に母校の日本女子大学校の関係で挿絵や絵葉書などの依頼を受けていましたが、結婚後はそれもほぼ無くなっています。結婚後、智恵子が対外的に行っていたのは雑誌への文章等の寄稿。これも「新進芸術家・光太郎の妻」ということで依頼されていたのかも知れない、と、これは当方、そこまでは深く考えていませんでしたので、目から鱗でした。

『智恵子抄』オマージュは劇中に色々ちりばめられていて、例えば詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)関連のエピソード。

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。318486bb-s
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

この詩に関しては、光太郎の散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に、次のように語られています。

彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

このあたり、劇中ではかなり効果的に使われていました。孝治は夕子をモデルにした絵を「彼女の内面の美を引き出すんだ」と意気込み、実際、ある程度成功したり、古着屋のエピソードは「質屋」と置き換えられていましたが、夕子が対応して自分の着物を「もう着ない柄だから」と言って換金したり、と。「スエタアとヅボン」も。

しかし、そうやって「描かれた自分」と「実際の自分」とのギャップ、孝治や世間による自らの「聖女化」(それとて悪意は無いわけですし)、自身の絵は「孝治の妻が描いた絵」としてしか見られないことなどに耐えられなくなった夕子は壊れ始め……というあたりで終わります。それ以降を語るにはしのびない、あとは想像に任せる、という感じでしょうか。

というわけで、光太郎智恵子をモチーフとしながらも、一般的な話に落とし込み、よりリアリティが増しているように感じました。

会場では製本された台本(月森葵氏著)の販売も行われていまして、一部購入してきました。100ページ近くで1,000円也。お買い得です。公演は今日の昼の部まで。台本は主宰の「燦燦たる午餐」さんに申し込めば入手可能かも知れません。
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スタッフ・キャストなど関係の方々の今後のさらなるご活躍、さらに出来れば再演を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

検印紙は捺印しかけてありますが明三十日は小生山形市へ行かねばならなくなり、三日に帰つてきますから、帰つたらすぐ全部捺印して速達で送ります、

昭和25年(1950)10月29日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「検印紙」は澤田の龍星閣から翌月刊行された詩文集『智恵子抄その後』のためのもの。この年1月に発表した同題の連作詩を根幹とします。

その「あとがき」の最後にはこうあります。

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。「智恵子抄その後」の奥底に何があるか、書いてから一年ばかりにしかならないので、まだ自分にもよく分からない。おそらくこれを読む人々が卻てそれを鋭く見ぬいてくれることであらう。

智恵子が歿して既に12年、この年は13回忌でした。それだけ経っても智恵子の姿はありありと光太郎の中に残っていたわけで……。

昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

テレビ放映情報を2件。

まずは10月に亡くなった美術史家・高階秀爾氏の追悼番組です。

日曜美術館 名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ

地上波NHK Eテレ 2024年12月22日(日) 午前9:00〜午前9:45

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

【出演】美術史家…高階秀爾,辻惟雄 大原美術館館長…三浦篤 アーティスト…布施琳太郎
【語り】守本奈実

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光太郎がらみの話にはならないような気もしますが、一応ご紹介しておきます。

もう1件、こちらは光太郎に触れられます。初回放映が今年8月27日(火)だった回の再放送、および系列のBSテレ東さんでは初放映です。

開運!なんでも鑑定団 中島健人の秘蔵宝&金色江戸小判全11種

地上波テレビ東京 2024年12月22日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2024年12月26日(木) 19:54~20:54

■エッ…魯山人!?伝説<美食陶芸家>作に<中島健人>も仰天
■アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額
■輝く金色秘宝…<江戸小判>全11種一挙鑑定で超絶値■

最強アイドル・中島健人が鑑定団に登場!“親族一同期待している”お宝とは?驚きの鑑定結果に思わず絶叫!?「自慢のお宝で鑑定団に出たい!」毎晩神棚に祈り続けた祖父の願いを叶えるべく、孫娘が立ち上がった!お宝は美食家にして陶芸家の北大路魯山人の焼物。今田、ケンティーも絶句する衝撃の鑑定結果とは…?

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】中島健人
【出張鑑定】第15回 強気のお宝鑑定大会 リポーター 岡田圭右 コメンテーター 北斗晶
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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スタジオでの鑑定依頼2件中の一つ、「アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額」の項で、1920年代、1940年代のコカ・コーラの販売機が出品。
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コカ・コーラといえば光太郎(笑)。(大正元年=1912)、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

そこで、番組内で光太郎に触れて下さいました。
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さらに当時の広告。
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本放送視聴後、国会図書館さんのデジタルデータで調べてみましたところ、こんな広告も。
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シロップを薄めて飲む形もあったようです。

で、依頼品。本国アメリカで使われていたもののようで、番組説明欄の「ド級鑑定額」の後は羊頭狗肉ではありませんでした。やはりコーラ関連、好きな方は好きなんでしょうね。
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ちなみにそちらとは別に、番組冒頭近くでゲストの山崎健人さん。MCの今田耕司さんと誕生日が一緒ということでお二人で盛り上がっていました。
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「ありゃま!」でした。3月13日、光太郎の誕生日でもあります(笑)。吉永小百合さんが一緒だというのは存じていましたが、このお二人もそうだったのか、という感じでした。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】
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昨日おてがみいただき、今日「典型」五冊おうけとりしました、いろいろ御面倒をかけたおかげでともかく出来ましてありがたく存じました、厚く御礼申上げます、お世話になつた社中の諸賢にも小生の謝意をおつたへ下さい、


昭和25年(1950)10月28日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』が上梓されました。

以前にも書きましたが、奥付では刊行日が10月25日。遠く大正3年(1914)に出した第一詩集『道程』も10月25日。偶然なのか、狙ったのか、何とも不明ですが。

新刊です。

継続する植民地主義の思想史

発行日 : 2024年11月20日
著者等 : 中野敏男
版 元 : 青土社
定 価 : 3,600円+税

過去の歴史を引き受け、未来の歴史をつくりだすために
「戦後八〇年」を迎える現在、いまもなお植民地主義は継続している――。近代から戦前―戦後を結ぶ独自の思想史を描き、暴力の歴史を掘り起こす。日本と東アジアの現在地を問う著者の集大成。
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目次
 序章 継続する植民地主義を問題とする視角
  はじめに――植民地主義の継続という問題
  一 暴力の世紀――「冷戦」という語りが隠したもの
  二 「戦後」に継続する植民地主義――日本の暴力の世紀
  三 植民地主義の様態変化とそれを通した継続――思想史への問い
 第一部 植民地主義の総力戦体制と合理性/主体性―合理主義と主体形成の隘路
  第一章 植民地主義の変容と合理主義の行方―合理主義に拠る参与と抵抗の罠
   はじめに――システム合理性への志向と植民地主義の変容
   一 産業の合理化と植民地経済の計画――「満州国」という経験
   二 総力戦体制の合理的編成と革新官僚
   三 参与する合理的な社会科学
  第二章 植民地帝国の総力戦体制と主体性希求の隘路―三木清の弁証法と主体
   はじめに――植民地主義の総力戦体制と「転向」という思想問題
   一 方向転換と知識人の主体性
   二 有機体説批判と主体の弁証法
   三 ヒューマニズムから時務の論理へ
   四 帝国の主体というファンタジー
 第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続
  第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程
   はじめに――近代詩人=高村光太郎の「暗愚」
   一 「自然」による救済の原構成――第一の危機と「智恵子」の聖化
   二 神話を要求するモダニティ――第二の危機と「日本」の聖化
   三 「暗愚」という悔恨とモダニズムの救済――第三の危機と「生命」の聖化
   小括

  第四章 戦後文化運動・サークル詩運動に継続する戦時経験―近藤東のモダニズム
   はじめに――継続する詩運動のリーダー近藤東の記憶
   一 戦後詩の場を開示する戦中詩
   二 「勤労詩」という愛国の形
   三 「戦後」への詩歌曲翼賛
   四 排除/隠蔽されていくもの
   小括
 第三部 「戦後言論」の生成と植民地主義の継続―岐路を精査する
  第五章 戦後言説空間の生成と封印される植民地支配の記憶
   はじめに――「国全体の価値の一八〇度転換」?
   一 敗戦国への「反省」、総力戦体制の遺産
   二 ポツダム宣言の条件と天皇制民主主義という思想
   三 「八月革命」という神話――構成された断絶
   四 加害の記憶の封印、民族の被害意識の再覚醒
   五 「自由なる主体」と「ドレイ」――主体と反主体
  第六章 戦後経済政策思想の合理主義と複合化する植民地主義
   はじめに――有沢広巳の戦後の始動
   一 「植民地帝国の敗戦後」という経済問題
   二 戦後経済政策の始動と自立経済への課題
   三 「もはや戦後ではない」という危機感とその解決――賠償特需
   四 「開発独裁」と連携する植民地主義
   五 技術革新の生産力と国際分業の植民地主義
   六 原子力という袋小路――植民地主義に依存する経済成長主義の帰結   
 第四部 戦後革命の挫折/「アジア」への視座の罠
  第七章 自閉していく戦後革命路線と植民地主義の忘却
   はじめに――日本共産党の「戦後」を総括すること
   一 金斗鎔の国際主義と日本共産党の責務
   二 戦後革命路線の生成と帝国主義・植民地主義との対決回避
   三 五五年の分かれ
   四 正当化された「被害」の立場/忘却される植民地主義
  第八章 「方法としてのアジア」の陥穽/主体を割るという対抗
   はじめに――「アジア」への関心へ
   一 「戦後」をいかに引きうけるか
   二 アジア主義という陥穽
   三 主体を割るという対抗
 第五部 植民地主義を超克する道への模索
  第九章 植民地主義を超克する民衆の出逢いを求めて
   はじめに――「反復帰」という思想経験に学ぶ
   一 「反復帰」という対決の形
   二 共生の可能性を求めて――「集団自決」の経験から
   三 植民地主義の記憶の分断に抗して――「重層する戦場と占領と復興」への視野
   四 民衆における異集団との接触の経験
   五 沖縄の移動と出会いの経験に別の可能性を見る
  結章
   一 合理性と主体性という罠
   二 植民地主義の様態変化と資本主義・社会主義の行方
   三 植民地主義の「継続」を問う意味。「小さな民」の視点
 あとがき
 文献目録
 索引


「文献目録」「索引」まで含めると500ページほどの労作です。

過日ご紹介した辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)にしてもそうですが、来年で第二次大戦終結80年、ついでにいうなら昭和100年ということもあり、あの時代への考察が今後とも流行りとなるような気がします。

ただし、「あの時代」と区切ってしまうのではなく、戦後、そして現在へと継続して通底する何かが存在するわけで、本書ではそのうちタイトルにもある「植民地主義」にスポットをあてています。

一部の書き下ろし部分を除き、大半は90年代末から一昨年までのものの集成。したがって、現在も泥沼化しているウクライナ問題への言及はほぼありませんが、逆に忘れ去られかけている(しかし解決したとは言い難い)諸問題への言及も多く、いろいろ考えさせられます。

「第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続」中の「第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」30ページ超がまるっと光太郎がらみ。元は平成8年(1996)に柏書房さんから刊行された『ナショナリティの脱構築』という書籍に収められたものだそうですが、存じませんでした。

青年期に「根付の国」(明治44年=1911)などでさんざんに日本をこきおろしていた光太郎が、十五年戦争時には一転して翼賛に走ったことに対し、そこに到るまでをつぶさに辿りつつ、ある種の必然性を見出しています。ちち・光雲や妻・智恵子との生活史、そして精神史の変遷を抜きに語れない、そしてそれは「豹変」ではなかった、的な。この読み方には好感を覚えました。ある人間の、「それまで」をあまり考えず、「その時」だけに着目したところで、正しく考察出来るわけがありませんから。

そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を、連作詩「暗愚小伝」を元に読み解き、さらに最晩年、開拓や原子力へ期待を寄せる詩文を書いていたことに触れ、それとて形を変えた「翼賛」だったと、かなり手厳しい評。曰く「「悔恨」の陥穽に落ちて総括されずに残った、戦中と戦後との連続の一例」。なるほど、そういわれても仕方がありません。しかし、「悔恨」すらしなかった多くの文学者、美術家たちと比較し、光太郎はとにもかくにも「悔恨」を形にした数少ない例であることは声を大にして言いたいところですが。

というわけで、ぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

このやうな記念碑が温泉に出来て、今日はその除幕式でした。秋晴れのいい天気で一ぱいやつてきました。


昭和25年(1950)10月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
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「記念碑」はグループ企業としての花巻温泉社長だった故・金田一国士の業績を称える碑で、碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下は除幕式の集合写真です。
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雑誌『中央公論』さんの最新号である2025年1月号
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テレビの歴史番組等でもよく尊顔を拝見する東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が取り上げられています。巻頭のグラビアページで作品のカラー写真と解説のさわり、後の方のページで解説の続き。
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主に昭和4年(1929)に刊行された光雲談話筆記『光雲懐古談』を参照されたようで、制作背景等を簡潔にご紹介下さいました。

『光雲懐古談』の当該部分は下記の通り。「青空文庫」さんで公開されています。

鶏の製作を引き受けたはなし 矮鶏のモデルを探したはなし 矮鶏の製作に取り掛かったこと 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ 聖上行幸当日のはなし 叡覧後の矮鶏のはなし

作品は宮内庁三の丸尚蔵館さんに収蔵されています。同館、リニューアルオープンして約1年。当方、まだその後足を運んでおりません。以前の手狭だった頃はぶらっと行ってすぐ入れたのですが、再開後は基本的に予約制となり、ネット上でのその予約が以外と面倒くさいシステムです。昨今問題のオーバーツーリズムの回避などのためには致し方ないのかも知れませんが、何だかなぁ、という感じです。もう少し改善してほしいような……。

さて、このブログで紹介すべき事項、意外と溜まっておりまして、光雲がらみということでもう1件。

『日本経済新聞』さんの関連会社・日経アートさんの販売サイトが検索に引っかかりまして、来年の干支・巳にちなむ縁起物です。

銀製品 髙村光雲 吉祥 巳006

彫刻家・髙村光雲原型作の純銀レリーフです。写実に優れ、「野猪」や「老猿」など動物の作品が有名ですが、彫刻家としては仏師から作歴を重ねています。本作は頭に巳(へび)を乗せた姿で表される十二神将の因陀羅(いんだら)をモチーフとしており、精悍な顔つきや逆立つ髪の表現から仏師としての高い技術を感じることができます。

額(軸)寸法:30.0×30.0cm
レリーフ寸:径9.5cm
素材 純銀(レリーフ)・アルミ(額)
価格:165,000円(消費税10%込)
タトウ箱付

これまで気づきませんでしたが、日経アートさんでは昨年(卯年)、今年(辰年)のレリーフも扱われていました。
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制作元は富山県高岡市の竹中銅器さん。高岡と言えば鋳造の街ですね。竹中さんのサイトでも巳年バージョン、直販が為されていました。
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で、やはり以前から、十二支分全てを扱われていたようで、存じませんでした。それぞれ見事ですね。
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来年の巳年バージョン、特に年男・年女の皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は父の十七回忌、智恵子の十三回忌にあたるので十日に此処の昌歓寺といふ大きな寺で法要を営む事にし、昨日寺へ行つてたのんで来ました。


昭和25年(1950)10月1日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎68歳

例年、花巻町中心街の松庵寺さんで行っていた法要、この年に限り、旧太田村の昌歓寺さんで営みました。宗派が違うということでしたが、あまり気にしなかったようです。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

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