光太郎の名が出た新聞記事、3件ご紹介します。
まず、『朝日新聞』さんの読者投書ページ「声」欄。8月27日(水)掲載分。21歳のお名前を見るかぎりおそらく女性の投稿です。
3年生の私は今夏、計4社のインターンシップに参加している。その予定が先にあって、合間に自分のやりたいことを選ばざるを得ない。
この現状に強い不満と憤りを覚えている。中学時代から高村光太郎が好きで、日本の近代文学やその研究手法を学ぼうと今の大学に進んだ。時間にとらわれず、自由に文学に触れながら、専門性の高い学問を学びたいのに、かなわない。
大学生活を自分の思う通りに過ごしたいという願いは、決して過ぎたわがままではないはずだ。
「売り手市場」「働き手不足」と言われながら、現状はこうなのですね。いや、「売り手市場」「働き手不足」だからこそ、企業側が必死に「囲い込み」や「青田買い」に汲々としているのかも知れません。インターンシップの仕組み事態は悪いこととは思いません。入社してから「こんなはずじゃなかった」というのを少しでも防ぐことにつながるでしょうし、いわゆるブラック企業かどうかの判断材料にもなるでしょうし。しかし、投稿にあるようなそれに追われてしまう現状は、たしかにいかがなものかという気はします。そうならないように「防波堤」の役割を務めるのが大学側の責務のように感じます。
投稿者さん、忙しい毎日に流されることなく、「高村光太郎が好きで」という気持を忘れずに頑張ってほしいものです。
続いて『岩手日報』さん。昨日の掲載でやはり教育に関わる内容です。
「カシオペア地域」というのは、県最北部の(二戸市、軽米町、九戸村、一戸町、旧浄法寺町)だそうです。
「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」。光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の太田中学校に贈った言葉です。

記者氏の母校・太田小さんでは現在でも「光太郎先生学習」として、総合的な学習の時間に地域の偉人としての光太郎についての学習活動などが為されています。記者氏の記憶に光太郎の言葉が残っていて、こうした機会に取り上げて下さるのは嬉しいことです。
ついでですのでもう1件。『日本経済新聞』さんの8月31日(日)の記事。見開き2ページの長い記事なので、部分的に。元日銀理事の清水季子氏を紹介するものです。
しみず・ときこ 東京都出身。東京大学工学部で都市工学を学び、卒業後の1987年に日銀に入行。金融市場の調節を担う部局などでキャリアを積んだ。那覇・高松・名古屋の各支店のほかロンドン駐在も経験。2020年からは女性初となる日銀理事を4年間務め、100回以上の国際会議へ世界を飛び回った。退任後は24年に豊田自動織機の取締役に就き、同年、人材開発を手がけるEmEcoを創業した。運動が趣味でゴルフや水泳を続けている。
30代の頃は着物を買うために仕事をしていたほどの着物好き。華やかな色合いより、茶色や若草色といった渋い色が好みだ。20代の時に職場の同僚から着付けを教えてもらい習得した。
割愛した部分では、日銀理事という要職を務められながらもさまざまなことにチャレンジなさっていたことが書かれていますし、ご退任後も人材開発のスタートアップ起業だそうで、実に素晴らしいと感じました。
ここで最初の『朝日新聞』さん投稿に戻りますが、投稿者の大学生の方に、「こういう女性もいらっしゃるんだよ」と伝えたいところですね。「学ぶ」意慾さえあれば、忙しさなどのおおかたの困難は乗り越えられる、ということで。そしてそのことは「自戒」ともしたいと思います。
【折々のことば・光太郎】
芸術には突飛な努力があつてはなりません。自然にさういふものは無い。
ロダンも光太郎も、「突飛な努力」を排除したいわば「王道」を進もうとしました。光太郎はピカソのような変化球的な進み方を、それはそれとして認めつつも、やがては袋小路に入るものだとしていました。
まず、『朝日新聞』さんの読者投書ページ「声」欄。8月27日(水)掲載分。21歳のお名前を見るかぎりおそらく女性の投稿です。
大学生活といえば、社会に出る前のモラトリアム(猶予期間)と言われるが、それは昔の話だ。今の大学生の多くは、1年生から就職に向けて動くことを催促され、翌年には早くもインターンシップ。2年生の終わりには企業分析をしておかないと手遅れになるとせっつかれる。大学生活の開始から、ずっと就職活動の4文字を聞き続けている。
3年生の私は今夏、計4社のインターンシップに参加している。その予定が先にあって、合間に自分のやりたいことを選ばざるを得ない。
この現状に強い不満と憤りを覚えている。中学時代から高村光太郎が好きで、日本の近代文学やその研究手法を学ぼうと今の大学に進んだ。時間にとらわれず、自由に文学に触れながら、専門性の高い学問を学びたいのに、かなわない。
大学生活を自分の思う通りに過ごしたいという願いは、決して過ぎたわがままではないはずだ。
「売り手市場」「働き手不足」と言われながら、現状はこうなのですね。いや、「売り手市場」「働き手不足」だからこそ、企業側が必死に「囲い込み」や「青田買い」に汲々としているのかも知れません。インターンシップの仕組み事態は悪いこととは思いません。入社してから「こんなはずじゃなかった」というのを少しでも防ぐことにつながるでしょうし、いわゆるブラック企業かどうかの判断材料にもなるでしょうし。しかし、投稿にあるようなそれに追われてしまう現状は、たしかにいかがなものかという気はします。そうならないように「防波堤」の役割を務めるのが大学側の責務のように感じます。
投稿者さん、忙しい毎日に流されることなく、「高村光太郎が好きで」という気持を忘れずに頑張ってほしいものです。
続いて『岩手日報』さん。昨日の掲載でやはり教育に関わる内容です。
取材で小学校に足を運ぶと、大人になっても大切にするべきことはこの頃に既に教わっていたのだと、ふと気付く。また、子どもたちから気付かされることも少なくない。
8月27日、横浜国立大教育学部付属鎌倉小(神奈川県鎌倉市)の児童が一戸町を訪れ、県指定無形民俗文化財の根反鹿踊りを体験した。保存会の大人に交じって踊っていたのは一戸南小の根反鹿踊り伝承クラブの子どもたちだ。
「自信を持って踊れるように練習してきた」。同じ小学生の前で堂々と披露する姿からは、地域の伝統をつなぐ強い意志が感じられ、こちらまで誇らしい気持ちになる。胸を張れるようになるまで取り組むのは難しいことだ。
一方で鎌倉小の子どもたちは地元にこのような郷土芸能はないといい、すぐに興味を示して素直に動きを倣っていた。物おじせずにチャレンジし、純粋な疑問を投げかける様子からは学ぶことへの真っすぐな意欲も感じられた。
子どもたちの姿を見て、自分の母校の太田小(花巻市)で教わった高村光太郎の言葉を思い出した。「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」。カシオペア地域を担当してこの秋で3年目に突入する。改めて学ぶ姿勢で地域と向き合っていきたい。
「カシオペア地域」というのは、県最北部の(二戸市、軽米町、九戸村、一戸町、旧浄法寺町)だそうです。
「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」。光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の太田中学校に贈った言葉です。

光太郎自身、この言葉が気に入ったようで、後に盛岡少年刑務所さんには前半部分の「心はいつでも新しく」のみを贈りました。

ついでですのでもう1件。『日本経済新聞』さんの8月31日(日)の記事。見開き2ページの長い記事なので、部分的に。元日銀理事の清水季子氏を紹介するものです。
しみず・ときこ 東京都出身。東京大学工学部で都市工学を学び、卒業後の1987年に日銀に入行。金融市場の調節を担う部局などでキャリアを積んだ。那覇・高松・名古屋の各支店のほかロンドン駐在も経験。2020年からは女性初となる日銀理事を4年間務め、100回以上の国際会議へ世界を飛び回った。退任後は24年に豊田自動織機の取締役に就き、同年、人材開発を手がけるEmEcoを創業した。運動が趣味でゴルフや水泳を続けている。30代の頃は着物を買うために仕事をしていたほどの着物好き。華やかな色合いより、茶色や若草色といった渋い色が好みだ。20代の時に職場の同僚から着付けを教えてもらい習得した。
「姉御肌できっぷがいい深川芸者の粋に憧れる」と笑い、「着物を着ると本来の自分に戻れる。穏やかに過ごせる」という。「フォーマルは着物」と決め、海外駐在中は晩さん会に呼ばれると必ず着物に袖を通した。すごく喜ばれたそうだ。
今も月に1度は着物で人形浄瑠璃文楽や能、歌舞伎を鑑賞する(上の写真)。一番好きなのが文楽で、人形遣いで人間国宝だった吉田玉男(初代)の生前最後の舞台も観劇した。高松支店長時代には能の謡も習った。
書道で感性を研ぎ澄ます
日銀の理事に就任した際、当時の麻生太郎財務相から達筆な書状をもらった。それをきっかけに「自分も書状で返せるようになりたい」と、それまで一度も習ったことのなかった書道を2021年から始めた。海外出張の合間に教室に熱心に通い、2年で師範となった。
雅号は「清水景風」。最近書いた作品は高村光太郎の詩「救世観音を刻む人」から(下の写真)。今回は「ひらがなが交じった作品に挑戦したかった」という。余白のバランスを意識しながら長さ2メートルほどの半紙に30分ほどで書き上げた。表題が大きく、力強い筆致で描かれているのが印象的だ。
探究心が強く、ものごとを突き詰めようとする性格も書道に向いていると感じる。「瞬間芸のような感じ。この年齢でここまで集中することはない。感性を磨き続けることも大事だ」と魅力を語る。指導者からも「書いている最中の集中力が尋常じゃない」と評された。海外で暮らす友達に自分の作品をプレゼントするといった粋な計らいも楽しみの一つになっている。
30年来、日本のテレビドラマのファンで年間に100本は視聴する。「泣いたり笑ったり怒ったり。心が動くことが楽しい。女性エンジニアが主人公のドラマ制作に取り組もうと思い、今、脚本の勉強をしている」。その好奇心は尽きることがない。
清水氏、昨年の第46回東京書作展で入選なさっていました。ただ、入選作は光太郎詩を書かれたものではありませんでしたが。
ここで最初の『朝日新聞』さん投稿に戻りますが、投稿者の大学生の方に、「こういう女性もいらっしゃるんだよ」と伝えたいところですね。「学ぶ」意慾さえあれば、忙しさなどのおおかたの困難は乗り越えられる、ということで。そしてそのことは「自戒」ともしたいと思います。
【折々のことば・光太郎】
芸術には突飛な努力があつてはなりません。自然にさういふものは無い。
光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃
ロダンも光太郎も、「突飛な努力」を排除したいわば「王道」を進もうとしました。光太郎はピカソのような変化球的な進み方を、それはそれとして認めつつも、やがては袋小路に入るものだとしていました。












































































































































































































































































