光太郎も目にしたであろう建造物です。

一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。

国登録有形文化財に旧下総御料牧場貴賓館など10件を答申

 国の文化審議会は先月、千葉県成田市の旧下総御料牧場(三里塚記念公園)の貴賓館と防空壕(ごう)など計10件を国登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申した。登録されれば県内の国登録有形文化財(建造物)は315件になる。
 ほかには、市川市の勝家住宅主屋と稲荷社、我孫子市の榎本家住宅主屋と離れ、北土蔵、釜場、正門、稲荷社。
 成田市によると、旧下総御料牧場貴賓館は、明治政府が招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」の官舎として現在の富里市に明治9(1876)年に建てた純和風住宅がもと。同21(1888)年に三里塚に移築後、大正期に貴賓館となり、各国大使の接待や皇族の宿泊に利用された。成田空港の建設に伴って牧場の移転が決定し、払い下げを受けた成田市が大正期の姿に復元修理した。
 木造平屋建てで、内部には洋間のホールを配し、北面は上下窓を開けた独特の外観。
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 防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
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 市川市によると、勝家住宅は、東京の地主だった勝家が関東大震災を機に市川に移住し、昭和11(1936)年ごろに建てたとされ、主屋は平屋建ての近代和風住宅。洋間の応接室や座敷、仏間を配し、座敷の床周りには紫檀(したん)や赤松を用い、琵琶床と付書院を備えるなど凝った意匠になっている。精緻(せいち)な造りの稲荷社も同時期に建てられたとみられる。
 我孫子市によると、榎本家住宅は、利根川の水運業(船問屋)を生業にしていた榎本家が主屋などを昭和初期に建てたとされる。榎本家は明治期から大正期にかけて町長や衆院議員を輩出しており、同市の歴史を伝える上でも重要な建築物とされる。主屋は木造2階建ての寄せ棟造りで、その周囲に立つ離れなど五つの建造物も今回の対象になった。

三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
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そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
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これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
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また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
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防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
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産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。

【折々のことば・光太郎】018

智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。


昭和23年(1948)10月21日
 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。

花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
無題
その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

地上波テレビ朝日さん系で昨日オンエアされた「徹子の部屋」。ゲストはテノール歌手の秋川雅史さんでした。サブタイトルは「〈秋川雅史〉二刀流!?彫刻で3年連続二科展に入選」。
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本業の音楽のかたわら、木彫にも本格的に取り組まれ、個展を開催されたり、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げたりされている秋川さん。スタジオには一昨年の二科展入選作「木彫龍図」をお持ちになりました。
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番組前半は彫刻に関して。令和3年(2021)に二科展に初入選された、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品についても詳しく語られました。
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ヤスリを一切使わなかったそうですし、頬のあたりなど、美術解剖学的な研究もされて臨まれたとのこと。昨年、上野の森美術館さんで実物を拝見しましたが、なるほど、みごとな作でした。

その他、それ以前から取り組まれていた仏像のお話、昨年の二科展入選作のお話などなど。
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後半はご家族や音楽関係のお話などなど。
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最後にミリオンセラー「千の風になって」を熱唱。
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この番組で歌手の方が演奏を披露されるというのは珍しいんじゃないかな、と思いました。

8月7日(水)まで、TVerさんなどで無料配信されています。また、なぜか『婦人公論』さんのサイトで放映内容について詳しく紹介されています。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

此頃よくいろんな人に写真をとられます。中には小生の手の肖像のやうなのがあります。

昭和23年(1948)10月22日 東正巳宛書簡より 光太郎66歳
昭和24年浜谷浩
てっきりこの写真のことだろう、と思ったのですが、こちらは翌年の撮影でした。作品としての彫刻制作は封印しているということで(手すさびや鍛錬のためには木を彫っていたようですが)、削っているのは木ではなく、鰹節です。

昭和23年(1948)以前の「手の肖像」といえる写真、見あたりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。

智恵子の故郷・福島二本松の安達太良山で先週土曜日に開幕した「あだたらイルミネーション」について、地元紙『福島民友』さんが報じています。

母音があ段だらけの安達太良山 「あ」のオブジェお目見え、映え写真で話題 二本松市・あだたら高原リゾート

 福島県二本松市のあだたら高原リゾートで27日に始まったあだたらイルミネーション。ロープウエー山頂駅周辺の展望広場には「安達太良山」の「あ」にフォーカスした不思議モニュメント「【あ】のオブジェ」がお目見えした。母音があ段だらけの安達太良山で、阿武隈の山並みや安達太良の空をバックに「何これ?」と思わせるインスタ映え写真が撮影できると話題になっている。
 このほか、ロープウエー山頂駅内には「ADATARA LOVE&FLOWER」がテーマの花を題材とした「ビッグフラワーイルミネーション」が初披露された。
 点灯は午後7時~同9時。9月23日まで(8月26日以降は金ー日曜日と祝日のみ)。入場料は中学生以上700円、4歳~小学生500円。ロープウエー乗車券とセット料金もある。問い合わせはあだたら高原リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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「【あ】のオブジェ」、「あだたら」の「あ」かと思っていたのですが、それも含め、「あだたらやま(ADATARAYAMA)」の母音全てが「あ(A)」だというところからの発想だそうで。

「ADATARAYAMA」を多項式のように表すと「A+DA+TA+RA+YA+MA」。これを因数分解すると、共通因数の「A」を括りだして「A(1+D+T+R+Y+M)」もしくは共通因数「A」は後ろに置いて「(1+D+T+R+Y+M)A」とした方がわかりやすいでしょうか。ちなみに多項式の展開や因数分解は中学校3年生の学習内容です。

閑話休題。「【あ】のオブジェ」、過日ご紹介したのは昼間の画像でした。
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今回のものは夜間のようですね。イルミネーションの点灯とともにライトアップされているのでしょう。たしかに「映え」ますね。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

予定通り十三日朝花巻を出かけて山に帰つて来ました。花巻は連日好晴で温かでしたが、山は夜など相当に冷えます。しかし山の空気は清澄で、花巻に比べると驚くほど爽快です。


昭和23年(1948)10月14日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻町で智恵子と父・光雲の法要を済ませ、郊外旧太田村の山小屋に帰りました。花巻町の中心街からは20㌔ほどで、「山」と云っても急峻な山間部ではありませんが、20㌔の間、だらだらだらと長い坂をずっと上っていく感じで、気がつくと標高も高くなっていて、中心街とは明らかに気候が異なります。

この時期、標高1,700㍍の安達太良山も登山口まで登ればすでに高原の清涼さが味わえるのではないでしょうか。

過日、光太郎第二の故郷・花巻と、仙台で開催された箏曲奏者の元井美智子さんと朗読の荒井真澄さんのお二人がコラボなさった公演3件の模様を、元井さんがYouTubeにアップなさいました。

まず花巻の賢治の広場さんで開催された「夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声」。





こちらに関しては、地元紙『岩手日日』さんが記事にして下さっています。

夏詩の世界観 箏と朗読で 光太郎・賢治作品題材に催し・花巻

004 ボイスパフォーマーの荒井真澄さん(仙台市)と箏曲演奏家の元井美智子さん(東京都)は18日、朗読会「夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声」を花巻市上町の賢治の広場で開いた。同市ゆかりの詩人の作品を情感豊か朗読と箏の調べで表現し、聴衆を楽しませた。
 荒井さんは、高村光太郎の「レモン哀歌」や「松庵寺」、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の序文や「星めぐりの歌」を朗々と読み上げた。元井さんは、あえて音を外すなど作品の世界観や朗読の調子に寄り添いながら即興演奏した。
 会場には約50人が詰めかけ、時には目を閉じて朗読に聴き入っていた。市内から訪れた永田豊さん(83)は「光太郎の文章は朗読に合わないと思っていたが、琴の演奏と合わさって格調高さを感じた」と語った。
 2人は光太郎関連の行事で出会い、今回のイベントを企画した。荒井さんは「想像以上に多くの人が来てくれた。自分が作品から受けとったものを、そのままお客さんに届けられたと思う」、元井さんは「花巻の人の光太郎と賢治への愛を強く感じた。これからも岩手の風景を自分の音に落とし込んでいきたい」と話していた。


続いて、荒井さんの地元・仙台市の「となりのえんがわ」さんでの「旅するお箏 となりのえんがわdeコンサート」。7月19日(金)の開催でした。


さらに7月23日(火)、同じく仙台市での「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」。



お二方のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

毎年御厄介をお願ひいたしますが、又十月の法要月がまゐりますので松庵寺に都合を問合わせましたところ十月九日が最も都合よろしき旨返事をいただきましたので、八日に花巻にまゐりたく、甚だ恐縮ながら又々お邪魔仕りたく存じ居りますが御都合お悪き時は何卒御遠慮なく御申聞かせ下されますやう願上げます。

昭和23年(1948)9月27日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎66歳

10月5日が智恵子の命日、父・光雲のそれは10月10日、そして母・わかは9月10日が命日と云うことで、ほぼ毎年、賢治の広場ハナマルカフェさんの裏手、松庵寺さんで10月に法要を営んでもらっていました。

佐藤雪江は総合花巻病院長にして賢治の主治医、そして昭和20年(1945)、光太郎が花巻郊外旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに光太郎を住まわせてくれた佐藤隆房夫人でした。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車も出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2024年8月2日(金)~8月4日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8月2日(金) 叩き出し  24:00~
      8月3日(土) 試楽    18:00頃~
      8月4日(日) 本楽    13:00~ 南市場整列  18:30~ 花車渡祭

 石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。今年は30番目の登場だそうです。
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平成28年(2016)には、全国の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に認定されました。しかし、新型コロナウイルスの影響で令和2年(2020)と翌年は中止、一昨年は規模を縮小して再開、昨年4年ぶりに元の形に戻ったとのこと。

一昨年はBSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、演奏・演舞を奉納。「羽衣」の祭車は5番目で、ちょうど放送開始の時に映りました。
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今年は地元ケーブルテレビで中継されるそうです。

昨年の様子がこちら。0:53頃から「羽衣」の祭車が映ります。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

村の人々が小生に風呂場を寄附してくれ、今大工さんが建築中です。今年の冬は助かります。

昭和23年(1948)9月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋には風呂が無く、行水で済ませていたようです。そこで村人達や宮沢家、佐藤隆房らが光太郎に風呂を寄進しました。
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現物が現存しており、平成29年(2017)に花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。

しかし、コスパが悪く、大量に薪を必要としたため、あまり使われることはありませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さんが、館報『碌山美術館報』の第44号をお送り下さいました。多謝。
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発行は3月で、おそらくネット上には既にアップされていたと思うのですが、やはり印刷物・紙媒体で頂けるのは有り難いことです。

昨年4月22日(土)に開催された、第113回碌山忌での、東京藝術大学さんの布施英利教授による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」全文が文字起こしされて掲載されています。
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さらにそれを受けて、巻頭には同館学芸員の武井敏氏による「荻原守衛のスケッチ」。

守衛の絶作にして重要文化財の「女」。跪(ひざまず)いた女性が後ろで手を組み、斜め上を見上げているポージングですが、そこに秘められた仕掛けとは?
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以前にも書きましたが、何らの不自然さも感じられず、純粋な写実に見えるものの、精密に計測して実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。

そこでこの「女」が立ち上がったらどうなる、という図も掲載されています。
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実に不思議ですね。

そして武井氏の稿でも触れられていますが、後ろで組まれている両腕は、当初、斜め上に掲げる構想があったとのこと。そのポージングであれば、乳房の位置などは解剖学的に正しいそうです。それがどうして変更されたのか、謎は尽きません。

その他、昨年11月に開催された美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」も文字起こしされて掲載されています。『安曇野』は大河ドラマ誘致運動も起こっている臼井吉見の小説で、光太郎も登場します。他の箇所でも『安曇野』に触れられています。

主要箇所にはリンクを貼ってあります。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は東京の吉川富三といふ写真家が来て弱りました。

昭和23年(1948)9月12日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

吉川富三は肖像写真を得意とした写真家。この日の様子を吉川は「快く写真ギライで有名な先生が私のカメラの前に立って下さった」と書き残していますが、やはり「快く」と言うわけではなかったようです。

この日撮影された写真(左下)は、翌年の雑誌『写真手帖』に掲載された他、日本橋三越で開催された「第三回文化人肖像写眞展」に出品、さらに昭和25年(1950)には吉川の写真集『文化人のプロフィル』にも収められました。
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また、吉川は昭和28年(1953)、帰京した光太郎を中野のアトリエに訪ねての撮影もしています(右上)。

昨日、プレスリリースが出ました。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/27(土)開幕 インパクト抜群な「あ」のフォトスポットが新登場!カラフルなインスタ映えメニューも多数!

富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2024年7月27日(土)~9月23日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

今年で13年目を迎える本イベントは、冬はスキー場のゲレンデとして使われる広大な斜面に広がる名物「光の天の川」中心に、花や動物などをモチーフにしたイルミネーションで輝く、あだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、「夏の大三角形」や「北斗七星」といった夏の星座のイルミネーションを楽しめるほか、「ADATARA LOVE&FLOWER」をテーマに、花をモチーフとした東北初の「ビッグフラワーイルミネーション」や大きなハートのオブジェクトなど、夜の安達太良山を美しく彩るフォトジェニックなフォトスポットが多数登場します。

また、7月27日(土)より、「あだたらやま」の「あ」にフォーカスした新たな不思議モニュメント「【あ】のオブジェ」が、ロープウェイ山頂の展望広場に登場。よく見ると母音がア段だらけの「あだたらやま」で、阿武隈の山並みや安達太良の空をバックに、「何これ?」なインスタ映え写真を撮ることができます。加えて、ひらがなの「あ」がインパクト抜群な新メニュー「【あ】のチュロス」、「【あ】のソフトクリーム」、「【あ】のかき氷ソフト」も登場いたします。

夜だけではなく昼から来ても楽しめる「あだたら高原リゾート」はフードメニューも充実しています。ピリッと辛い「冷やし担々麺」やかき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」、安達太良の夏の新定番、雪のようなふわふわ食感の冷たいスイーツ「あだたらスノーアイス」など、夏にぴったりのメニューが登場します。ぜひ、ご賞味ください。

この夏は、高村光太郎の智恵子抄で有名な「ほんとの空」、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマ、そして幻想的なイルミネーションを楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】

開催期間     2024年7月27日(土)~9月23日(月祝)
  ※8月26日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
営業時間     19:00~21:00  
  ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
料  金
 入場料 中学生以上700円、小学生以下500円
 入場料+ロープウェイ乗車料 中学生以上1,500円、小学生以下1,000円

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■【あ】のオブジェ
この夏、ロープウェイ山頂駅の旧スキーゲレンデの展望広場に「あだたらやま」の「【あ】のオブジェ」がフォトスポットとして新登場。様々なサイズの「あ」の文字が散りばめられた「【あ】の道」を抜けると、高さ約180cmのビッグモニュメント「【あ】のオブジェ」と、成長途中の生えかけの「【あ】のオブジェ」が、「【あ】の広場」に現れます。「あ」ぶくまの山々を背景に、豊かな成長を繰り返す「あ」だたらやまで、不思議な「あ」の映え写真を撮ることができます。イルミネーション期間にはライトアップされ、イルミネーションとともにお楽しみいただけます。あなたなりの「あ」の楽しみ方を見つけてみませんか?
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■【あ】の新メニューも登場!
「あ」のオブジェの登場とともに、「あ」をモチーフとした、「あ」のチュロス、「あ」のソフトクリーム、「あ」のかき氷ソフトが新発売!鮮やかな緑の木々や青い空にかざして写真を撮ると、インスタ映え間違いなしです。「あ」だたらやまで「あ」のフードをご賞味ください。
<新メニュー>
 「あ」のかき氷ソフト 600円 「あ」のソフトクリーム 500円 「あ」のチュロス 600円
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■夏のひんやりメニューを販売!
「富士急レストハウス」では、暑い夏にぴったりのメニューを販売いたします。夏のあだたらの定番スイーツとなった雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」や、イルミネーションと共にお楽しみいただける「光る氷ドリンク」、「光るかき氷」、ピリッと辛い「冷やし担々麺」、かき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」もご賞味いただけます。
<フード・ドリンクメニュー> 
 光る氷ドリンク 600円 ブルースカイ(ブルーハワイ味)
 光るかき氷 600円 ブルースカイ(サイダー味)トワイライト(いちご味)
 あだたらスノーアイス 600円 (ストロベリー ・ ピーチ ・ チョコ)
 かき氷そば 800円  冷やし担々麺 900円
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【昼から来ても楽しめる魅力がいっぱい!】 
■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

【施設概要】
 営業日  年中無休※メンテナンス休業あり
 営業時間  10:00~19:00(最終入館18:30)
 施設内容  収容可能人数80人(男女各40人)内湯(9㎡)、
      露天風呂(20㎡) ※男女別
 利用料金  大人700円/小人(4才~小学生)500円
 pH値  2.5(強酸性)
 泉質  単純酸性温泉
 適応症  神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性
     疲労回復健康増進・慢性皮膚病
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「あだたら高原リゾート」営業概要
 営業時間 8:30~16:30※日によって異なり、定休日もあります(HPをご参照ください)
 お問い合わせ 
 福島県二本松市奥岳温泉  TEL:0243-24-2141
 アクセス 
 車 東京から東北自動車二本松IC(約150分)
   国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
 鉄道 東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)
    郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)
    二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)
 岳温泉からタクシー約10分 

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

村長さんの娘さんから小包をうけとつてお礼を書いたハガキには甲州の山のクルミかと思つて申上げましたが、信州特産のクルミでは更に上等のわけであります。お心づくしが身にしみる思です。


昭和23年(1948)8月15日 石井鶴三宛書簡より 光太郎66歳

彫刻家・石井鶴三から信州産のクルミを貰った礼状から。かつて信州はクルミの名産地で、現代でも昔ほどではないものの産出が続いていると思います。上田市の当方亡父の実家にも大きな胡桃の木が一本、庭に生えていました。「かつては」というのは、戦前。戦時中になると、クルミの木材が小銃の銃床に最適だというので、乱伐が進んだためです。

1泊2日で仙台に行っておりました初日の7月22日(月)、仙台市内をぶらぶらしました。

まずは仙台駅近くの青葉区本町にある島川美術館さん。以前は蔵王山麓の遠刈田温泉にあり、その頃の名称が「エール蔵王 島川記念館」でした。それが令和元年(2019)に仙台市内に移転、「島川美術館」と改称されました。

健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹で、主に国内の近代美術作家の作品、1,000点ほどが収蔵されています。一部、海外のものも。
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光太郎の父・光雲作の木彫「聖観音像」もあるということで、お邪魔しました。「エール蔵王 島川記念館」時代から収蔵されており、平成29年(2017)にやはり蔵王の青根温泉不忘閣さんに宿泊した際、すぐ近くを通っていながらその頃はそれを存じませんで、通り過ぎていました。そこで、現在「聖観音像」も常設展示されているという情報を得、今回、お邪魔した次第です。

失礼ながら、「え、こんなところに?」という立地でした。広瀬通り、勾当台通り、定禅寺通りといった大通りから入っていく細い道沿いで、いかにも、という佇まいではないごく普通のビルでした。
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c3a12284こちらの2階から5階が展示フロアで、受付の方曰く、まず5階までエレベータで上がり、順繰りに階下に降りて行くのがしきたりだそうでした。

云われた通り5階に上がりますと、まずは現代美術がメインのフロア。続いて4階に降りたところ、入口付近に「聖観音像」が鎮座ましましていらっしゃいました。「鎮座」というか、立像ですが(笑)。

昭和3年(1928)、光雲数え77歳の作だそうで、そろそろ晩年、もはや刀技は円熟の境地に入っています。ことによると弟子の手が入り、仕上げのみ光雲という工房作かもしれませんが、そうでない可能性の方が高いかな、という見事な作でした。

若い頃、「生涯に百体の観音像を彫りたい」という目標を持った光雲ですが、昭和7年(1932)に記録された談話では「今日では二百体であるか三百体であるか一寸数え切れない程観音様を作つて居ります」と語っていて、もうこの頃には眼をつぶっていても出来てしまうんじゃないか、という感じですね(笑)。といっても「粗製濫造」という言葉は全く当てはまりません。

それでも「逃げるべきところはきちんと逃げている」というのが確認できました。

ポイントは、持物(じぶつ)の蓮華や衣など。
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赤丸を附けた部分、垂れ下がった衣や紐が身体や台座とくっついています。蓮華も正面からだと分かりませんが、横から見ると、肩に触れているのです。このくっついている部分を切り離して作るとなると、細く彫り出した部分が折れてしまう危険性が非常に高くなりますが、それをくっつけて彫ることによって、その危険度が軽減しますし、手間もかなり省けます。結局、「穴」をあけることになるわけで。

よくよく注意して見ないと気づかない点で、おそらく受けとった注文主などもそんなことは全く気にしないでしょうし、それが気にならないように自然にやっているわけですね。いい意味での「手抜き」といえるのではないでしょうか。そういう工夫をしなければ量産は不可能でしょう。

この持物等が身体にくっついている件、光雲令孫から花巻市さんに寄贈された「天鈿女命」像と、そのための原図を見ていて気づきました。
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005原図では身体から離れている榊の枝が、完成作では後頭部にくっついています。

「聖観音像」でも同じようなことをやっていたんだなというのが確認できました。

ふむふむ、と思いながら3階に降りたところ、やはり入口付近でびっくりしました。「え、あなた、なぜここに居るの?」。といっても人ではなく、右図の光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)中型試作」です。

ブロンズの像は同一の型から鋳造したものが複数存在し、この像も花巻高村光太郎記念館さんはじめ、二本松の智恵子記念館さん、信州安曇野碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、大阪の御堂筋彫刻ストリートなどにあるのですが、島川さんでも持っているというのは存じませんでした。

ちなみに隣には「乙女の像」のDNAを受け継ぐ秋田田沢湖の「たつこ像」(舟越保武作)も仲良く並んでいました。

その他、光雲・光太郎と交流のあった美術家の作がずらり。横山大観、岸田劉生、梅原龍三郎、安井曾太郎、板谷波山など。

それから、意外と珍しい田中一村や鴨居玲などの作品もあり、まさに眼福でした。

帰りがけ、A4変形版150ページ近い図録を購入。「聖観音像」も載っています。「エール蔵王 島川記念館」時代に刷られたもので、「収蔵作品選」と題されていました。この厚さでほぼオールカラーですので「2,500円くらいだろう」と予想したのですが、何とたったの1,000円。
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ついでに云うなら、入館時、拝観料1,000円を払ったところで、クリアファイルとポストカード3枚組も頂いてしまいました。何と良心的な館なのだろう、と感じ入りました。

というわけで、島川美術館さん、仙台にお出での際はぜひお立ち寄り下さい。

【折々のことば・光太郎】

記念碑の写真おうけとりしました。碑はきれいに彫れたやうに見うけます。


昭和23年(1948)9月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

「記念碑」は宮崎の父・仁十郎が檀家総代を務めていた茨城取手の長禅寺に建てられた「開闡郷土」碑。光太郎がその題字を揮毫しました。
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碑は長禅寺参道石段の右手に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。

一昨日、昨日と、1泊2日で仙台に行って参りました。レポートいたします。

メインの目的が宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催された、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人のコラボ公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴でした。
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今年の連翹忌で知り合われて意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。

まず公演前夜、セッティングの際にお邪魔しました。
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外見からはそうとは分かりにくいのですが、築100年ほどの蔵を秋田の横手から移築したという店舗で、カフェ以外にアンティークショップも兼ねています。店内至るところに置かれている品々は売り物。いい感じですね。
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こちらは売り物ではなく(笑)、元井さんの箏。
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これを車に積まれて各地を転々となさっているわけで、いや、大変だな、と思いました。箏自体が大きいものですし、しっかりした板で作られている台の重いこと重いこと。終演後に元井さんの車まで運んだのですが、筋トレになりました(笑)。

さて、翌朝。平日午前中にもかかわらず、多くのお客様。
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キャパが20弱で、あっという間に予約でいっぱいになったということで、先週、追加公演を別の会場でなさったそうです。

前半は元井さんのソロ。定番の「春の海」、オリジナル曲、そして「花は咲く」。
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休憩時間。ご自分でも音楽活動をなさっているというお客様が多く、皆さん、興味津々で箏の周りに。元井さん、質問攻めにあっていました(笑)。
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後半は、荒井さんによる「智恵子抄」系詩篇の朗読。元井さんのアドリブ演奏にのせて。
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思い起こせば荒井さんの朗読は10年以上前から何度も聴いていますが、何度聴いてもいいものです。運命の人・智恵子と出会ってから晩年の花巻郊外旧太田村までの、光太郎の生涯に思いを馳せながら拝聴しました。
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元井さんの箏は、うるさすぎず、それでいて勘どころはしっかりと押さえ、お二人の息もぴったり。光太郎詩の世界観が存分に表され、これが相乗効果というものかと感じ入りました。

最後は1曲だけ、荒井さんの歌で宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」。もちろん箏の伴奏で。これもナイスでした。

合間に当方のべしゃくりも少し。花巻の高村山荘/光太郎記念館さん、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんのパンフレットやフライヤーをお配りしましたので、ぜひ足を運んで下さい的な。それから例によって、光太郎終焉の地・中野アトリエの保存運動のための署名について。皆様、快くご協力下さいました。多謝。

荒井さん、元井さん、ともに今後もさまざまな公演を控えてらっしゃいます。光太郎智恵子系ではありませんが。
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お二方のさらなるご活躍を祈念いたします。無題

【折々のことば・光太郎】

今朝花巻新報の揮毫をいたしましたので、上出来とはゆきませんが同封いたします。

昭和23年(1948)8月25日 佐藤隆房宛書簡より
 光太郎66歳

『花巻新報』は、『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。復刊はこの年11月7日でした。

佐藤隆房は賢治の主治医でもあった総合花巻病院長でしたが、同紙の運営にも関わり、その題字の揮毫を光太郎に依頼しました。光太郎筆の題字、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。

昨日から一泊で仙台に来ております。

メインの目的が、朗読の荒井真澄さんと箏曲の元井美智子さんのコラボ「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴です。

会場が宮城野区のAntique & Cafe TiTiさん。秋田の横手から移築した蔵だそうで、実にいい感じです。
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早めに会場入りしまして、配布物の丁合いなどを終えました。もうすぐ開場。ワクワクしております。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

今日はこれから1泊2日の日程で宮城県仙台市に行って参ります。

メインの目的は明日、宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催される、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人がコラボなさる公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴。今年の連翹忌で知り合われ意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。
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下記は7月18日(木)、花巻の賢治の広場ハナマルカフェさんで開催された初日の公演の模様。当会同様、後援に入られているやつかの森LLCさんの方から画像が送られてきました。
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プログラム的には同じような感じかな、と思われます。箏の音色に乗せて、光太郎や宮沢賢治作品の朗読等。やつかの森LLCさんの方は絶賛なさっていました。

そちらが明日の午前10時半開場ということで、それに間に合わせるため今日から仙台入りします。今日は市内で美術館や古書店等をぶらぶら覗いてみようかな、というところです。

詳細は帰りましてから。

【折々のことば・光太郎】

婦人之友の写真をごらんになつた由のおたよりいただきました。親爺に似てゐるとは恐ろしい因縁だと思ひます。同雑誌にあるシユヷイツエルの写真を見ると自分などは生ぬるいと思ひました。

昭和23年(1948)8月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

婦人之友の写真」は、この年7月号の同誌に載った光太郎のエッセイ「一刻を争ふ(のち、「季節のきびしさ」と改題)」に添えられたものです。これを見た宮崎が「光雲さんに似てきましたね」的なことを書き送ったのでしょう。
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「シユヷイツエル」は、アフリカで献身的な医療奉仕活動を行っていたアルベルト・シュヴァイツァー。その近況が右上写真と共に同誌に載り、光太郎は自分ごときはまだまだだと感じたというわけですね。

『読売新聞』さんのサイト内で、5月から今月にかけて「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載が成されました。
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ご執筆は武蔵野美術大学さんの前田恭二教授。昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」で「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という題で発表をなさり、それを元に今春発行された研究誌『高村光太郎研究(45)』に論考「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」を寄稿なさいました。

「ヨミダス」は、『読売新聞』さんの紙面データベース。明治7年(1874)から現在までの掲載記事を検索できます。当方もだいぶ以前に国会図書館さんでそちらを使い、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品等を10篇以上見付けました。詩人の野口米次郎を評した長い評論、『高村光太郎全集』に第1回から第11回までは収められているものの、最終回に当たる第12回が漏れていた評論「西洋画所見」など。

その「ヨミダス」で閲覧出来る過去の誌面から、明治大正期の主に美術に関する記事をピックアップし、さまざまな角度から解説が加えられています。

全5回だったようで、ラインナップは以下の通り。すべて光太郎に(一部智恵子や光雲に)言及されています。

若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治 
光太郎が彫刻科を卒業して入学し直した東京美術学校生洋画科で同級生だった藤田嗣治がメイン。欧米留学から帰朝した光太郎が明治43年(1910)、神田淡路町に開店したほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されています。

高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像 
光太郎、そして共にロダニズムを日本に移植した碌山荻原守衛について。やはり光太郎の親友だった葉舟水野盈太郎のエッセイ等も引かれ、光太郎と守衛の深い結びつきが紹介されています。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む
「高村光太郎と荻原碌山」でも触れられた、登場人物がイニシャルで書かれている私小説、エッセイ等で、それぞれの人物を特定する試み。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会
「フュウザン会」は、光太郎、岸田劉生、斎藤与里らが興した反アカデミズム系の展覧会。第一回展が大正元年(1912)、当時の読売新聞社社屋を会場に開催されました。

最も新しい女性画家――高村智恵子の青春
『青鞜』の表紙絵や太平洋画会展への出品などで注目され始めていた智恵子が、『読売新聞』に「最も新しい女画家」として紹介され、その前後の智恵子について。これが最も驚きました。大正14年(1924)に紙面に載ったという光太郎智恵子の写真が掲載されていたためです。
1925年1月26日付朝刊より
撮影場所はおそらく駒込林町の光太郎アトリエ兼住居でしょう。なぜ驚いたかというと、この写真、これまでに刊行された光太郎智恵子関連の研究書等の類に掲載されたことが無いと思われるものだからです。

戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずで、一昨年、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載った下記の写真を見付けて驚きましたが、また一葉加わりました。
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それにしても、メジャーなメディアだった『読売新聞』に掲載されていた写真が知られていなかったというのが意外でした。また、先述の通り、「ヨミダス」はかなり前に一通り調べたのですが、見落としていました。暇を見てもう一度「ヨミダス」での調査もやらなければ、と思いました。

さて、上記リンクから「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨今蟲にくはれたのがもとで面疔のやうなものが上唇に出来、厄介です。ズルフアミン剤をのんでゐますが、高いのに驚きます。


昭和23年(1948)8月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、「とびひ」等と同じく黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。虫に刺された箇所を、土などのついた手でポリポリ搔いたために発症したと思われます。この際は結構な重症で、なかなか治りませんでした。

7月7日(日)、『読売新聞』さんの日曜版に光太郎の父・光雲の名が出ました。「旅を旅して」という、紀行文や小説、映画、詩歌などに残された「旅の記憶」を記者がたどる連載で、光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作された皇居前広場の「楠木正成像」がらみです。
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像に使われた銅は、愛媛県の別子銅山で産出されたもの。そもそも像は銅山の開坑200周年記念という意味合いもあって、住友家から寄贈されました。記事はその別子銅山の「今」がレポートされていました。

旅を旅して 森になった街…別子(べっし)銅山(愛媛県新居浜市)  まるで考古学者のように、産業遺跡を発掘したい。――――荒俣宏「黄金伝説」(1990年) 

001 森になった街――との呼び名通りだった。赤レンガの塀とか、学校跡の石組みとか、静寂の中、むせかえる山の緑のあちこちに、先人の生活の跡が見て取れた。
 江戸中期から1973年の閉山まで65万トンもの銅を産出した別子銅山は、往時の活況を伝える産業遺産が南北約20キロにわたって点在する。標高が1000メートルを超える旧別子のエリアには明治後期、鉱山労働者や家族ら、1万人以上が暮らしたのだという。
 その事跡を確かめようと、作家の荒俣宏さんが山に分け入ったのは春、4月だった。温暖な四国だ。麓で満開の桜を見、軽装で赴いたところ、雪と氷が覆う「厳冬ムード」「冷寒地獄の眺め」で「滑落して死ぬのかと覚悟したりもした」と苦行を 綴つづ っている。
 観光の拠点、マイントピア別子の 永易ながやす 舞さん(26)によると冬の間、銅山関連のツアーは休止にするらしい。今は山歩きには絶好の季節で、頂の 銅山越どうざんごえ (1294メートル)まで、2時間弱の散策を楽しんだ。
 険しい斜面の所々、わずかな平地が石垣で補強され、急階段が据えてある。案内板にかつて、そこにあった建物が写真と共に紹介してあった。
 寺、醸造所、測候所……。巨大な倉庫は明治の頃、劇場にも転用され、上方の名優が歌舞伎を上演した、との説明書きがあった。1000人超の収容規模だったとか。休息の日、山に響いたであろう、拍手や歓声を想像した。
 ゴール近く、歓喜坑は最初の坑口で、1691年にここから採掘が始まった。銅山を経営し、発展の礎とした住友グループの聖地で、新入社員や幹部社員が研修で訪れる。「感激する新人さんも多い」とガイドの石川潔さん(73)が教えてくれた。
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 銅山越の北、 東平とうなる エリアにバスで向かう途中、急斜面にへばりつく社宅跡が見えた。その数2百数十、まさに天空都市の様相である。本当に人が?と、にわかに信じがたい傾斜だ。けれど、近くの歴史資料館には急坂で遊ぶ子らの写真が確かに掲げてあった。
 永易さんは高校時代、東平エリアの元住民から聞き取りをした経験がある。「プールで良いタイムを出したとか、大切な思い出を伺いました」
 実体験を話せる人の多くが鬼籍に入った。この国の近代化を支えた名も無き人たちの記憶、記録を、いかに次世代へと受け渡していくか。思いを巡らす日々だという。
◇ 荒俣宏 (あらまた・ひろし)
 1947年、東京生まれ。約10年間のサラリーマン生活の後、翻訳や事典編集に携わる。87年、小説「帝都物語」で日本SF大賞。94年にはライフワークの「世界大博物図鑑」(全5巻、別巻2)が完結した。「近代成金たちの夢の跡」探訪記、との副題を掲げた表題作は、明治維新以降、日本の近代化に貢献した地場産業の現場を巡り、サトウキビ王や石炭王、鉄道王ら、ずぬけた頭脳、行動力で時代を先導した「飛びっきりのヒーロー」の生涯を紹介する。逸話、雑学満載、筆者の面目躍如の1冊。

銅山近代化 先人の足跡
 明治初めまで製錬した 粗銅あらどう は人が背負って麓へ運んだ。重さは男が45キロ、女は30キロ、命の危険もある険しい山道を最盛期は数百人が往復したという。
 牛車道の整備を経て、1893年(明治26年)には標高1100メートルの地点から専用鉄道が走った、というから驚く。
 その第1号、ドイツ製蒸気機関車は、新居浜市街にある別子銅山記念館で見られる。
 館内には坑道の模型も展示してあり、総延長700キロ、高低差2300メートルという規模に2度驚く。「 螺灯らとう 」は鯨油を浸した綿を、サザエの殻に詰めたランプで、明治半ばまで坑道ではこの灯を頼りに作業していた。
 「先人の苦労のほどを想像してもらえたら」と館長の神野和彦さん(62)は話す。
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 新居浜への旅で荒俣宏さんは銅山や街の発展に尽くした2人の偉人の足跡を追った。
 広瀬 宰平さいへい (1828~1914年)は住友初代総理事で銅山の近代化策を作った。
 牛車道や鉄道のほか、製錬所の整備やダイナマイトの本格使用等々。荒俣さんが注目したのが労働者への目配りで例えば旧別子山中で跡を見た醸造所は、うまい酒やみそ、しょうゆを提供し、食生活を充実させる目的で造られた。
 人徳だろう。その名を冠した広瀬公園には市が保全した旧宅(国重要文化財・名勝)や記念館があり、小学生らが授業で功績を学ぶそうだ。
 同じく鉱山の最高責任者を務めた鷲尾 勘解治かげじ (1881~1981年)は昭和初めに早くも閉山後を見据え、幹線道路や港、臨海部の埋め立てなどの案を練り、工業都市の礎を築いた。これらの多くが今も機能する一方、海に近い大規模社宅は防災上の問題や再開発でほぼ姿を消した。
 取り壊し前、市が調査し、一部で保存・整備を進める。市別子銅山文化遺産課の 秦しん野の親ちか史し さん(63)は「各所でぎりぎり残った産業遺産に、どう歴史的、文化的な価値を見いだすか」自問を続けている。
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●ルート 羽田空港から松山空港まで約1時間30分。連絡バスでJR松山駅まで15分。松山駅から新居浜駅まで特急で約1時間10分。
●問い合わせ マイントピア別子=(電)0897・43・1801、別子銅山記念館=(電)0897・41・2200、新居浜市観光物産協会=(電)0897・32・4028、広瀬歴史記念館=(電)0897・40・6333
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[味]もちもち生地のカレーパン
 伊予路の銘菓、別子 飴あめ は明治元年以来の変わらぬ味で、根強い人気を誇る。「地元産品を使った新しい土産を」と、商品開発に余念がない別子飴本舗((電)0897・45・1080)7代目、越智秀司さん(71)が取り組んだのがカレーパンだ。別商品の製造用に導入した大型フライヤーを活用するため、元パン職人の工場長と知恵を出し合ったのがきっかけ。うどんだしを混ぜたルーや、愛媛県産のヤマノイモ「やまじ丸」を練り込んだもちもち食感の生地が特徴で、2020年の発売以来、コンテストで金賞に輝くなど人気を博している。半熟卵(378円)=写真右=や甘とろ豚(同)など、店頭で揚げたてを提供するほか、冷凍商品の通販も。今年は神奈川県横須賀市の商工会議所の協力を得て開発した「よこすか海軍カレー」(同)が加わった。
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ひとこと…読み応えある紀行
 皇居の外苑、勇壮な楠木正成像は別子銅山開坑200年を記念して、住友家が献納した――。荒俣さんは新居浜の歴史を意外なエピソードからひもとく。高村光雲が頭の造形を手掛け、内部までみっちり銅が詰まった逸品は、なぜ、皇居前への設置が許されたのか。体当たりで謎解きに挑む紀行は実に読み応えがある。

四国には光太郎や光雲らの足跡も直接は残って居らず、ほとんど行く機会もありませんで、別子銅山がこういう現状だというのは存じませんでした。てっきり現在も採掘が続いているものとばかり思い込んでいました。

ちなみに記事の後半で触れられている広瀬宰平、楠木正成像の制作と並行して、自身の像も光雲に制作を依頼しました。

明治34年(1901)には銅山に近い当時の中萩村に除幕設置されました(左下)が、戦時中の昭和19年(1944)には例によって金属供出のため失われました。しかし、東京藝術大学さんに奇跡的に木彫原型(中央下)が保存されており、それをもとに平成15年(2003)、元の場所、現在の広瀬公園に二代目の像(右下)が据えられました。
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一度見に行ってみたいのですが、なかなか果たせないでいます。

いずれ銅山記念館等と併せて、と思っております。また、荒俣宏氏の『黄金伝説』も読んでみようと思いました。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

転地のよし、猫実ならば大にいいだらうと想像します。猫実といふところは小生の祖父の釣によく行つたところです。それで名をおぼえてゐました。


昭和23年(1948)8月12日 草野心平宛書簡より 光太郎66歳

「猫実(ねこざね)」は、現在の千葉県浦安市。江戸川河口に近く、少し東に宮内庁の鴨場があったりする海っぺたです。

当会の祖・心平、このころ胸を患い、静養のため彼の地に独居。翌年には石神井に移り、家族を呼び寄せます。一年程でしたが同じ千葉県民だったと思うとさらに親近感が涌きます(笑)。

能楽師の山本順之氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

山本順之さん死去 能楽観世流シテ方001

 山本 順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽観世流シテ方、重要無形文化財保持者〈総合認定〉)8日午後10時24分、肝細胞がんのため自宅で死去、85歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男基之(もとゆき)さん。
 「姨捨」などの古典作品をはじめ、数多くの舞台に出演。75年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。

『朝日新聞』さん。

山本順之さん死去

 山本順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽師シテ方観世流)8日、肝細胞がんで死去、85歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男基之さん。
 大阪府出身。75年度の芸術選奨文部大臣新人賞を受けた。重要無形文化財保持者(総合認定)で、地謡を率いる地頭としても活躍した。

当方、令和3年(2021)、南青山の銕仙会能楽研修所さんで上演された「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。
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謡がメインの公演でしたので、山本氏、仕舞で「井筒」、あとは連吟と独吟でした。で、連吟が「智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」を元にしたものでした。下記は初演時の雑誌『サングラフ』記事です。
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その後、きちんと演じられることは多くなく、ダイジェスト版の舞囃子、それから謡だけを取り出しての連吟や独吟で取り上げられるケースがほとんどでした。
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山本氏、「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」の際には、朝日さんの記事に有る通り地謡を率いる地頭として幽玄な世界を存分に、重厚に表されていました。

また、昨年は横浜能楽堂さんで上演された企画公演「能役者 鵜澤久」の際にも、地頭として「智恵子抄」。こちらは舞囃子でした。残念ながらチケットが取れず見逃しましたが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」を舞踊にするといふ事、あなたなら智恵子を下等にしてしまふ事はないと信じますから快く承諾いたしますが、藤間節子さんがどんな表現を創造するか推察もつきません。


昭和23年(1948)7月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

先述の「新作能 智恵子抄」は光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)。この前後、新珠三千代さん主演のテレビドラマ、原節子さん主演の映画、初代水谷八重子さん主演の舞台と、「智恵子抄」の二次創作が相次ぎました。智恵子を演じられたお三方と、「新作能 智恵子抄」をプロデュースした武智鉄二による座談会の模様が、昭和32年(1957)6月1日発行の『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
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こうした二次創作の嚆矢が、舞踊家・藤間節子(のち黛節子)による舞踊「智恵子抄」公演。昭和24年(1949)に帝国劇場で初演、その後、繰り返し上演されました。
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藤間は戦時中から光太郎と交流がありました。その回想から。

 ピンクのカーネーションの大きな花束を抱いて高村先生の林町のお宅をお訪ねしたのは十七年六月十五日の午後、「これ奥様にさし上げて下さい」、とさし出した私の突飛な言葉を「これは智恵子の好きだつた花瓶です」と、黒つぽい長い花瓶にさして大きなお机の上におゝきになつた先生。私が夢中になつて申上げる「智恵子抄」のことを一つ一つ首肯いてうけて下さる。そして最後に奥様の作られた切り紙細工を見せて下さつた。
(略)
 空襲中も「智恵子抄」だけは抱いて防空壕にのがれ、疎開先に背負つてゆき、そしていつか口の朗読が踊りの表現へと形作られてゆきました。そのことを何年ぶりかで岩手の山中へお便りしたところ先生からはすぐ御返事が来ました。「貴女なら、智恵子を下等にしてしまはないから快く承諾いたします」と。
 その時の私は、その葉書をもつて広くもない家中を飛び廻ってしまいました。

智恵子の故郷・福島県二本松市にほど近い郡山市からイベントの情報です。といっても、智恵子がらみではありませんで、当会の祖・草野心平関連です。

郡山市中央図書館映画会「草野心平 ほとばしる詩魂」

期 日 : 2024年7月27日(土)
会 場 : 郡山市中央図書館3階視聴覚ホール 福島県郡山市麓山一丁目5-25
時 間 : 午前10時~/午後2時~   (※上映時間の30分前開場および整理券配布)
料 金 : 無料(先着100名)

スケールの大きな生命への賛歌、孤独をみつめる勇気、また植物や動物さらには鉱物とも共に生きようとする独特の共生感。優しさ、激しさ、軽やかさ、深さ---様々な表情をみせる心平の作品を「みる」「きく」「感じる」ためのDVD。

自筆原稿、書、絵画、写真などの豊富な資料と、心平が生まれ育った小川町の美しい自然、晩年を過ごした川内村 天山文庫等の映像で構成。

「ごびらっふの独白」「青イ花」「誕生祭」(以上、草野心平朗読)

「猛烈な天」「えぼ」「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」
「蛙つりをする子供と蛙」「いいのか」「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」
「秋の夜の会話」「蛙は地べたに生きる天国である」「上小川村」「デンシンバシラのうた」
「心平」「魚だつて人間なんだ」「牡丹園」「百姓といふ言葉」「わが抒情詩」
「おたまじゃくしたち四五匹」(以上、粟津則雄朗読)

「冬眠」「生殖Ⅰ」「月の出と蛙」「おれも眠らう」「Nocturne. Moon and Frogs.」
「天気」「遠景」

 ≪2006年/日本/52分≫
《朗読・出演・監修》粟津則雄 ​《協力》いわき市立草野心平記念文学館
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010「映画会」といっても、劇場公開された作品ではないようです。平成18年(2006)、QUESTさんという会社から発売されたDVDですね。心平自身の自作詩朗読も含まれ、さらに心平と親しかった故・粟津則雄氏による朗読、それからクレジットがないのですがプロの方の朗読も含まれているのでしょう。

こういうDVDがリリースされていたというのは存じませんでした。で、ジャケット画像を見て「ありゃま!」。光太郎による心平詩集『第百階級』(昭和3年=1928)序文の一節が取り上げられています。曰く「彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。」。

この序文、心平という詩人、その詩的世界(それはまた光太郎が追い求めた世界ともある部分で一致します)をこれほどまで的確に表した文章が他にあろうか、というものです。「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」「詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。」「トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

DVDの中で光太郎と心平の交流等、粟津氏が解説なさっているのではないかと思われます。それから、心平の生まれ育ったいわき市、過日、心平を祀る第59回天山祭りが開催された川内村などの映像。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌「心」の小生の詩をよんで下さつた趣感謝しました。貴下は分かつて下さるでせうが、随分ひんしゆくされさうな内容なのでした。その後電車沿線にある山間の温泉にまゐり、混浴の大きな浴槽にひたりながら野性を帯びた老若男女の逞しい裸体を見て大いに渇を医やしました。製作の出来ないのが残念です。

昭和23年(1948)7月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

「雑誌「心」の小生の詩」は「人体飢餓」です。
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    人体飢餓

  彫刻家山に飢ゑる。
  くらふもの山に余りあれど、
  山に人体の饗宴なく
  山に女体の美味が無い。
  精神の蛋自飢餓。
  造型の餓鬼。
  また雪だ。

  渇望は胸を衝く。
  氷を噛んで暗夜の空に訴へる。
  雪女出ろ。
  この彫刻家をとつて食へ。013
  とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
  その時彫刻家は雪でつくる。
  汝のしなやかな胴体を。
  その弾力ある二つの隆起と、
  その陰影ある陥没と、
  その背面の平滑地帯と膨満部とを。

  脊椎は進化する。
  頭蓋となり骨盤となる。
  左右の突起が手足となる。
  腱があやつり肉が動かし、
  皮膚は一切を内にかくして
     又一切をこまやかに曝露する。
  造形はこの肉団を生(なま)では食はない。
  ばらばらにしてもう一度014
  高度の人体に組み立てる。
  けれども彫刻家の食慾は
  まずその生(なま)をむさぼり食ふ。
  天文学的メカニスムの大計算は
  それから起る獰猛エネルジイの力動作用(トラヴアイユ)。
  知性はこの時ただ一連の精密コムパだ。

  雪女はつひに出ない。
  雪はふぶいて小屋をゆすり、
  雪片ほしいままに頬をうつ。
  彫刻家は炉辺に孤坐して大火(おおび)を焚き、
  わづかに人体飢餓の強迫を心に堪へる。
  強迫は天地にみちる。
  晴れた空に雲の伯爵夫人は白く横はり、
  ブナの木肌は逞しい太股(ジゴ)を露呈し、016
  岩石に性別あり、
  山山はすべて巨大なトルソオである。
  火龍(サラマンドラ)を火中に見たのはベンベヌウト。
  彫刻家は燃えさかる火炎に女体を見る。

  戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。
  作業の場と造型の財と、
  一切の機構は灰となつた。
  身を以て護つた一連の鑿を今も守つて
  岩手の山に自分で自分を置いてゐる
  この彫刻家の運命が
  何の運命につながるかを人は知らない。
  この彫刻家の手から時間が逃がす
  その負数(モワン)の意味を世界は知らない。
  彫刻家はひとり静かに眼をこらして017
  今がチンクチエントでない歴史の当然を
  心すなほに認識する。
  現代の肖像をまだニツポンは持ち得ない。
  岩手の山の貧しいかぎり、
  この現実はやむを得ない。
  あの珍しく彫刻的なコマンダンの首も
  つひに無縁に終るだらう。
  同時代のすぐれたいくつかの魂も
  造型的には無に帰して消えるだらう。
  彫刻家山に人体に飢ゑて
  精神この夜も夢幻(ゆめまぼろし)にさすらひ、
  果てはかへつて雪と歴史の厚みの中の
  かういふ埋没のこころよさにむしろ酔ふ。

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花巻郊外旧太田村で暮らし始めて2年半が過ぎました。当初は若い頃から憧れていた辺境での自由な生活の実現、山の中に文化集落を作るといった無邪気な夢想もあったのですが、続々届く友人知己等の戦死の報や、中央で巻き起こった戦犯糾弾の声などから、徐々に自らの戦争責任を省察せざるを得なくなります。

光太郎は戦犯として訴追されることは免れたものの、それで「助かった」ではなく、自らに罰を与える方向に梶を切ります。すなわち「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流罪」に同じです。

といって、幾ら不便とはいえ、ただ山中に暮らしているだけでは罰を与えることには成りません。そこで、考え得る限りの最大の罰として、「私は何を措いても彫刻家である」と自負していたその彫刻を封印することにしました。

ところが、それはあまりにも過酷な罰。吹雪の夜に見る夢や、凝視する囲炉裏の火に、彫刻すべき人体が幻のように見え、しかし、それを形にすることは叶いません。混浴の温泉(ちなみに書簡に書かれているのは鉛温泉の白猿の湯です)に浸かっていても考えるのは人体彫刻……。

戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。」と、恨み言の一つも言いたくなるでしょう。しかし、それを書簡では「随分ひんしゆくされさうな内容」としています。

こうした生活が昭和27年(1952)、青森県から「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作依頼が来るまで続きます。

北海道から企画展示等の情報です。

来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!

期 日 : 2024年7月27日(土)~10月20日(日)
会 場 : 釧路文学館 釧路市北大通10丁目2番地(釧路市中央図書館6階)
時 間 : 9:30~19:30
休 館 : 毎週月曜日(祝日除く)・毎月最終金曜日
料 金 : 無料

石川啄木をはじめ、草野心平や河東碧梧桐、高浜虚子など釧路に訪れたことのある文豪のほか、里見弴に師事していた釧路ゆかりの作家・中戸川吉二、原野の詩人・更科源蔵と高村光太郎など釧路文学館が所蔵する関連史料を展示します。
なお、会期中はDMM GAMES配信のゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップし、記念グッズの販売や等身大パネルを展示します。

等身大パネル展示
◆釧路文学館:石川啄木(夜の散歩衣裳) 高村光太郎(平服) 草野心平(パーカー衣裳)
◆釧路港文館:石川啄木(平服) 釧路市大町2-1-12
◆北海道立釧路芸術館:石川啄木(作業着衣裳) 釧路市幸町4-1-5
◆釧路フィッシャーマンズワーフMOO:石川啄木(和装) 釧路市錦町2-4
◆釧路市生涯学習センター まなぼっと幣舞:石川啄木(制服)

記念グッズ販売
タイアップ企画開催を記念して、釧路文学館でポストカード、クリアファイル、缶バッヂを販売します。クリアファイルには来釧した文豪たちと釧路の風景がデザインされています。

スタンプラリー開催
会期中に釧路文学館・釧路港文館または道立釧路芸術館を巡ろう! スタンプを集めると、「オリジナルしおり」をプレゼント!

釧路市図書館合同展示開催!
会期中、釧路市内にある図書館と連動して関連展示を開催します。
◆釧路市中央図書館:各フロアの特色にあった展示をおこないます。
◆東部地区図書館:「文学と友情」
◆中部地区図書館:「文豪とその名作」
◆西部地区図書館:「文豪と食」

マンスリー朗読会
①7月27日(土)  18:00~19:00
 【会場】釧路文学館 【朗読者】ジスイズ朗読会 【作品】夏の夜咄~小泉八雲の怪談
②8月25日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【出演者】釧路演劇協議会
③9月8日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【朗読者】リーディングサービスコスモス

初心者向け短歌教室 コスプレOK!
 【日時】8月10日(土) 【会場】文学会議室 【講師】簑島智恵子(釧路歌人会会長)


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オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)とのコラボ企画です。釧路ということで、石川啄木がメインですが、啄木と交流のあった光太郎や、光太郎と親しかった道出身の更科源蔵、当会の祖・草野心平も取り上げて下さるそうで。

「文アル」関連では、先頃、光太郎も登場人物として名を連ねた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」が上演されましたし、岩手花巻では、宮沢賢治と光太郎を前面に押し出したスタンプラリーが一昨年開催され、それぞれ多くのファンの方々でにぎわいました。また、福岡の北原白秋生家・記念館さんでも一昨年「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」の際にタイアップ企画で光太郎が取り上げられましたし、このブログサイトではご紹介しませんでしたが、昨年には高知の吉井勇記念館さん開館20周年記念で香美市立図書館かみーるを会場に「『文豪とアルケミスト』にみる吉井勇と文豪たち」と題した座談会が開催され、やはり光太郎の等身大パネルが出たそうです。

遡れば平成29年(2017)には森田成一さんによる朗読CDもリリースされています。

文豪たちに親しんでもらう入口としてはこういう方向性もありだと思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

六月中は五月から引きつづいて来客殆ど連日に及び、畑仕事を大いに邪魔されました。来る人は皆遠方から、相当の好意を以て来てくれるのですから、歓迎するのですが、あとで仕事の手遅れを取かへすのに大骨折です。多い日は来客八人に及びました。


昭和23年(1948)7月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での生活。自分では謹慎や蟄居のつもりでいても、世間が放っておかないわけで、痛し痒しでした。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんによる最近の取り組みを。

まず、同市土沢地区のワンデイシェフの大食堂さんで、7月13日(土)に「こうたろうカフェ」としてご出店。こちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。
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やつかの森LLCさんでは、基本、日記等に書かれている実際に光太郎が自炊していた料理や使っていた食材などを参考に、現代風の料理に仕立てています。

メニュー的には以下の通り。

「自家製サラダチキン チリソース添え」
ボイル海老とスナップエンドウが添えられています。

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じゃがいもは新じゃがだそうで。

「夏野菜の揚げびたし」
朝採りの茄子とインゲンが使われています。

「小松菜のじゃこ炒め」
小松菜はゆずポン酢であえてじゃこと白ごまをかけて味を調えています。

「きゃらぶき」
蕗ですね。

「紫蘇巻き胡瓜と茗荷酢漬け」

「ズッキーニの冷製ポタージュ」
玉ネギ、ジャガイモの他にお粥が加えられているとのこと。

「黒米ご飯」
アントシアニンたっぷりでもっちりしているそうです。

「フルーツミルク寒天」
最近、彼の地で栽培が広まっているブルーベリーが使われています。

そして締めは「コーヒー」。

夏らしく、さっぱりとしたヘルシーな感じですね。

土曜ということもあり、事前に予約で完売だそうでしたが、初めての方もいらっしゃったとのことで、輪が広がっているんだなという感じです。

昨日は、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで調理・販売を行っている弁当「光太郎ランチ」の販売日。メニュー考案はやつかの森LLCさんです。
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こちらのお品書きは「古代米入りご飯」「バターライス」「肉じゃが」「缶詰サンマの揚げ焼き」「いんげんのごま和え」「きゅうりの酢の物」「茄子田楽」「塩麹卵焼き」「水羊羹」。

「こうたろうカフェ」のメニューとかぶっていないところがすごいと思いました。なかなか2本立てでというのも大変かと存じますが、今後とも続けて行かれていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もおかげで健康、毎日畑仕事にいそしんで居ますが、僅かばかり、力を入れると、比較にならぬほど豊かな酬いをかへしてくれる自然の恵みに感謝せずにゐられません。自然界の生命力は実に不思議です。


昭和23年(1948)7月11日 富谷武宛書簡より 光太郎66歳

青年時代から「自然」を讃美してきた光太郎にとって、農業はある意味天職に近いものがあったのかも知れません。

竹橋の東京国立近代美術館さん。有島武郎旧蔵の光太郎ブロンズ代表作「手」を収蔵なさり、常設展示で「所蔵作品展 MOMATコレクション」に出品なさることもしばしばです。現在も出ています(8月25日(日)まで)。
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光太郎生前に鋳造されたことが確認出来ている3点のうちの1点で、木の台座部分も光太郎の手になる木彫です。接着されていないブロンズ部分を取り外すと、芯ともいうべき部分に旧蔵者の有島、有島没後に受け継いだ秋田雨雀、そして戦時中に秋田から託された雑司ヶ谷本納寺の兜木正享の名が記されています。詳しくはこちら。動画で紹介されています。

戦後、光太郎の意向もあって、同館に寄贈されました。

さて、同館では、動画以外にも「水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアー」を制作され、このほどオンラインで公開されました。

高村光太郎《手》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。
高村光太郎《手》(1918年頃)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。
ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。
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*高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。
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光太郎自身、彫刻はぐるっと360度の方向から見るのが大事だと書き残しています。彫刻自体は動かないけれど、自分が動けば彫刻も動く、というわけで。

線の波動の面白味といふのは、空間を劃(かぎ)つた彫刻の輪廓の波動をいふのである。所謂曲線美といふのも此の辺を名づけたのであらう。一つの彫刻の前に立つて見ると、其の後ろの空間の中へはつきりと其の彫刻の「輪廓の影(シルエエツト)」が浮き上つて来る。大小緩急の入り乱れた弧線が端から端へと連続して人間の形や動物の形を成してゐる。そこで一歩横へ寄る。百眼鏡(ひやくめがね)を一転した様に、今までの輪廓の影の弧線は忽ち大活動を始めて変化する。其の変化の途中、大きな弧線が小さくなり、小さなのが大きくなり、縮んだのが伸び、迫つたのが開いてゆく所は、実に不思議な生理的快感を人間の神経に与へるものである。此の輪廓の変転は到底測る可からざる感を人に与へる。かうして、其の彫刻を一周してゐるうちに再び元の位置にかへる。ぴたりと以前の輪廓に復した時には、全く旧知に邂逅した刹那の感があるものである。(「彫刻の面白味」明治43年=1910)

こうした感覚を味わいつつ、ぜひ「《手》のオブジェクトVRコンテンツ」をご覧下さい。

なお同館では、光太郎の親友だった碌山荻原守衛遺作の「女」についても同様のコンテンツを公開するやに聞いております。

こうした動きがさらに広がってほしいものですし、どうせなら水平方向360度だけでなく、斜め上から真上からと、この場合、何度と表現したいいのか解りませんが、全方向から見られるようにもしていただけると、なお有り難いところです。

【折々のことば・光太郎】

先日窓の外の鼠の巣の子どもをのみに蛇が来て鼠を退治してくれました。


昭和23年(1948)6月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での一コマ。何気に書かれていますが、自然界の生存競争の厳しさが感じられます。その連鎖の中に光太郎も身を置いていたわけで……。

昨日は福島県川内村に赴き、当会の祖・草野心平を祀る第59回天山祭りに列席して参りました。

その模様の前に、一昨日。酒をこよなく愛した心平大明神に奉納するための一升瓶を買いに、自宅兼事務所から車で7~8分ほどの造り酒屋さんへ。
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かの勝海舟も逗留したことがあるという馬場本店酒造さん。創業は天保年間、奥に見える煉瓦造りの煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。
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テレビの旅番組やドラマ/映画のロケなどにもよく使われています。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」代表をお願いした渡辺えりさん主演の2時間ドラマ「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」(平成22年=2010)では、警視庁職員(刑事ではありません)のえりさんが、こちらに従業員として潜入捜査(笑)。
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ただしPXL_20240712_012829217、造り酒屋ではなく醤油蔵という設定でしたが。

一升瓶の箱詰めや包装をしていただいている間に、カウンターにあった芸能人の皆さんなどのサイン色紙をチェック。えりさんのものもありました。

千葉県香取市佐原地区、馬場酒造さんをはじめ、創業百何年という商家も多く、江戸時代から昭和戦前の建物が現役で活用されており、関東地方で初の伝統的建物群保存地区に認定されました。

ちなみに明日、7月15日(月)から7月19日(金)まで全5回、地上波テレビ朝日さん系の「じゅん散歩」で高田純次さんがレポートなさいます。ぜひご覧の上、足をお運び下さい。


さて、昨日の川内村。早速、持参した酒を奉納。
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このあとも数本の一升瓶が捧げられ、泉下の心平はウハウハだったことでしょう(笑)。

会場は村民の皆さんが心平のために別荘として建ててあげた天山文庫。光太郎実弟の豊周も建設委員として名を連ねました。
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昨年は雨のため村営体育館での開催でしたが、今年は天候の心配もなく、本来の会場での開催となりました。木漏れ日が実に爽やかでした。
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早めに着いたので、ひさしぶりに天山文庫内を見学。まずは一階の座敷。何気に心平本人や棟方志功、川端康成らの書などが掲げられています。
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心平寄贈の蔵書を収めた書庫。
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心平が題字を揮毫した書籍や、光太郎関連の心平編著も。
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二階の座敷。おそらく寝室として使われていたのでしょう。
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窓の下には「十三夜の池」。

午前10時、祭りの開幕。
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あいさつ、祝辞、献花と続き、川内村の小中学生の皆さん、かつて心平が主宰していた『歴程』同人の方々による詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われました。
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「川内甚句」では、参列者の皆さんを巻き込んで、十三夜の池の周りを踊りながらぐるぐる。顔がわかってしまうような画像はアップしないで下さい的なお願いがありましたので、遠景を。

こうした和気あいあいの雰囲気にも、泉下の心平が眼を細めているような気がしました。

終了後、遠藤村長をはじめとする村の方々、天山祭り等で顔なじみになった県外の心平ファンの皆さん、そして『歴程』同人さんたちに、中西利雄・高村光太郎アトリエ保存のための署名をお願いし、30人分ほどいただけました。ありがたし。

この天山祭り、末永く続くことを心より祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの帰つてゆくのが名残惜しいやうでした。又その節はお心をこめた御馳走のかずかずを頂戴してありがたうございました。前の晩おそくまでかかつて作られたといふおいしい今川焼きも幾年ぶりかで味はふ事とて無類でした。まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたいと思ひます。現世では数へるほどしか数の少い幸福です。かういふ幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう。大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふのでせう。


昭和23年(1948)6月8日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎66歳

光太郎の隠棲していた旧太田村で、照井夫妻が主宰していた児童演劇「宮沢賢治子供の会」の出張公演が為されたことに対する礼状の一節です。

まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたい」「大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふ」。昨日の天山祭りに列席し、当方も似たような感想を持ちました。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展、今日開幕です。

山口山(やまぐちやま)のなつやすみ

期 日 : 2024年7月13日(土)~8月31日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェを展示します。

高村光太郎のやじろべえ
高村光太郎の山の暮らしをモチーフとした木工からくり作品
宮沢賢治の作品をモチーフとしたやじろべえ
宮沢賢治の作品をモチーフとしたオブジェ
その他オリジナルのオブジェなど

木工房さとうの作品は、ほっこりした雰囲気があり、見る人の心を和ませてくれます。また、木工からくり作品の細かな仕掛けや動きは、思わず見入ってしまうような魅力があります。この夏休み、木工房さとうの作り出す和やかな世界をお楽しみください。
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奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品展。高村光太郎記念館さんでは昨年開催された「山口山の木工展」に続き、2回目となります。昨年のレビューはこちら

ちなみにさとう氏の作品、同館ロビーにも常設展示されています。
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ここは光太郎が暮らした旧太田村。この近辺で採れた木材等を使われているそうです。木材ならではの温かみと、佐藤氏の卓越した技倆による工夫を凝らしたからくり、しかし機械的でない手作り感。ほっこりします。

今回の展示では、さらにパワーアップなさっているのでは、と思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

あれから急に春もたけなはとなり、今山桜の盛りにて美しく、地表も薄みどりを呈し、ゼムマイ、ワラビが出て来ました。


昭和23年(1948)4月30日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

山口山にもようやく遅い春が巡ってきました。

明日開幕です。いわゆるコレクション展で、光太郎木彫1点が出ます。

なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 8/19に一部展示替え
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(
祝休日の場合は直後の平日
料 金 : 一般 1,000円 (800円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

 歴史を感じる建物やおしゃれな人々、そして芸術。心惹かれるものが多くあるフランス。
 この展覧会は、メナード美術館のコレクションからセザンヌやマティス、ブラックといったフランスの美術作品、さらに藤田嗣治や佐伯祐三らフランスに学んだ日本出身の作家たちの作品を、絵画を中心に約80点ご紹介するものです。
 時代を力強く生きる女性たちとその装い、街や農村・避暑地の風景、また20世紀に起こったフォーヴィスムとキュビスムという美術革命などをテーマに、フランスという国とそこで展開された芸術をお楽しみいただきます。
 作家たちが、フランスのどこに惹かれ、いかに表現したのか。額縁を絵画の中と私たち鑑賞者をつなぐものとして、作品からフランスへと思いをめぐらせてみてください。

展示構成《Le paradigme de la transparence. 23. T. T. -1》
 Introduction アントロドゥクシオン この展覧会のはじまりに
  ブールデル/マイヨール/アーチペンコ/高田博厚
 Les Femmes レ ファム 憧れのフランス女性
  クールベ/マネ/ドガ/ロダン/ルノワール/マティス/ピカソ/シャガール/フジタ他
 Les Paysages レ ペイザージュ フランス各地の風景
  モネ/ルソー/ガレ/スーラ/ヴラマンク/ドラン/ユトリロ/佐伯祐三/荻須高徳他
 La Libération ラ リベラシオン フォーヴとキューブ:ふたつの解放
  セザンヌ/ゴーギャン/ゴッホ/マティス/ヴァン・ドンゲン/ピカソ/ブラック他
 L’Étranger エトランジェ 異国の地で出会った美術
  藤島武二/岡田三郎助/高村光太郎/安井曾太郎/梅原龍三郎/長谷川潔/舟越桂他
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光太郎彫刻は、木彫の「鯰」が出ます。
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元々は新潟の素封家・松木喜之七に贈られたもの。直接フランスとは関わりませんが、ロダン流のモドレ(肉づけ)をカーヴィングの木彫に取り入れたという点では、フランス式とも言えるでしょう。

同館では同じく木彫の「栄螺」もお持ちですが、今回は出ません。

光太郎木彫が出る度に書いていますが、木彫は出品が少なく、貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰から徒歩で観音山といふ山上の観音さまの縁日、お神楽見物にまゐり、多田等観さんに招かれて御馳走になり、更に夕方からは村長さん夫妻の案内にて鉛温泉に一泊。久しぶりに温泉に入浴して愉快でした。温泉の主人も挨拶に来ました。


昭和23年(1948)4月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

多田等観は僧侶にしてチベット仏教学者。戦時中、チベット将来の品々を花巻に疎開させた縁もあり、円万寺観音堂の堂守を務め、隣村に住む光太郎と意気投合してお互いに行き来していました。

鉛温泉は、現在も続く藤三旅館さん。深さ約1.3㍍の白猿の湯が名物です。

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

一昨日の『福島民報』さん一面コラムです。

あぶくま抄 北帰行

残念なニュースが報じられて久しい。本県から首都圏などに出て行く若者が、入ってくる数を上回っている。いわゆる「転出超過」。女性は顕著で、全国上位のままだ。古里はそんなに魅力に乏しいのか▼首都圏在住の県内出身者(18~34歳)を対象に県が初めて実施した調査で、「福島県に戻る可能性がある」との回答が25%を占めた。4人に1人は多いか、少ないか。両論あろうが、都会へのあこがれと現実との落差に気付き、リセットを考える県人は確かにいるのだろう。高層ビルの乾いた林で思い探すは、懐かしい「ほんとの空」か▼若い世代よ、大いに語れ―。福島市は13日、初の「福島っ子ベース」を市内で開く。高校生から30歳未満が集う。進学、就職、結婚、子育てなどをテーマに、思いの丈を発する。寄せられた声は「市こども計画」に生かされる▼給食や医療費の無償化から、おむつの提供まで、自治体は懸命に「子育てファースト」施策を進める。最後のひと押しは、膝詰めで語り合える仲間がいるかどうかかもしれない。SNSファーストのお付き合いに疲れたならば、訛[なま]り懐かし古里へ。ほんとの空は翼を広げ、都会からの北帰行を誘っている。

コロナ禍の頃は東京一極集中が見直され、リモートワークであれば地方でも、と、地方へのUターンやIターンが話題となりましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょうか、またしても「転出超過」、光太郎が(智恵子が)謳った「ほんとの空」のある福島も例外ではないようで……。
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 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

詩の執筆は昭和3年(1928)5月11日、翌月、尾崎喜八らと一緒に出していた雑誌『東方』に発表されました。この年、智恵子は43歳(数え年です。以下同じ)。故郷の空に思いを馳せる、というと、やはりある程度の年齢になってからが多いのでしょうか。

明治40年(1910)に日本女子大学校を卒業した後、実家の反対を押し切って福島には帰らず、油絵画家として成功することを夢見ていた20代の頃は、「ほんとの空」を懐かしむ余裕もなく、がむしゃらに突っ走っていたのかも知れません。

大正3年(1914)、29歳で光太郎と結婚し(結婚披露は行ったものの入籍しない事実婚でした)、画家として行き詰まりを感じるようになると、「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。」(光太郎「智恵子の半生」昭和15年=1940)。

しかし、恐慌のあおりや、父の死後、あとを継いだ弟の不行跡で実家の造り酒屋・長沼酒店はどんどん傾き、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。光太郎がこうした事情を知らなかったとは考えにくく、その苦悩を「あどけない話」で暗示しているのでしょう。ちなみに翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、家族は離散、智恵子は帰るべき故郷と「ほんとの空」を失います。

それが決定打となって、心の病がどんどん昂進していったのでしょう。誰の目にも智恵子の異状が明らかになったのは光太郎の三陸旅行中の昭和6年(1931)、智恵子46歳の時からと言われますが、夫妻と親しかった深尾須磨子の回想などによれば、それ以前のかなり早い段階から、智恵子には異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたそうです。

現代の人々にも、「ほんとの空」が失われないうちに、それぞれの「ほんとの空」のある場所へと「帰行」するのも一つの選択肢だよ、と言いたいところですね。

ちなみに最近、自宅兼事務所近くでこんな看板を見付けました。
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月極駐車場の看板ですが(笑)。
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以前に同様の画像が旧ツイッターにたびたび投稿されていて、「智恵子さん、東京にも空がありますよ」みたいなツイート。それを見て、自分でもこの手の看板を見付けたいものだと思い、主に都内に出た時に注意していたのですが、自分のテリトリーで見付けてしまいました(笑)。

自分もUターン組でして、都内や東京近郊に住んでいた頃には、あまり「空」を意識していませんでしたが、田舎に引っ込み、ある程度年齢を重ね、さらに智恵子の「ほんとの空」への思いなどにも触れると、都会には無いきれいな空が拝める幸せを感じるようになりました。
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戦後になって、花巻郊外旧太田村に隠棲した光太郎も、同じようなことを感じていたような気がします。

ところで、今日は『福島民報』さんから引用させていただきましたが、やはり最近、ある全国紙の読書欄でも「福島」「智恵子抄」といった紹介が為されました。しかし、それを書いているのが、とにかく批判ありきの薄っぺらなセンセイですので、黙殺させていただきます。記事が載ったのに気づいてないの? と言われるのも癪なので弁明しますが、そのセンセイ、事実確認もろくすっぽせずにあっちにもこっちにも噛みついてばかりのどうしようもない方ですので(かえって辛口だからともてはやされているようです)、紹介する価値を見いだせません。内容的にも「内容が無いよう」でした(笑)。過去にはこのブログでも、そういう方だと知らなかった頃の新聞寄稿を一度だけ紹介してしまいましたが(笑)。

批判をするな、というのではありません。しかし批判のための批判としか読めないものは控えるべきではないでしょうか。

【折々のことば・光太郎】

まだ当分は山に引き籠つてゐて上京はせぬつもりで居ります。今日の不合理な旅をするのもイヤですし、東京の空気を考へると泥水の中へ行くやうな気がして気がすすみません。


昭和23年(1948)4月18日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

都民の皆さん、気を悪くなさらないで下さいね(笑)。

光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」タイトルは光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)で使われている句です。公式パンフには詩の全文が掲載されていました。
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今月、Blu-rayディスクの販売が始まり、早速購入しました。

火だるま槐多よ

2024年7月3日 
発売・販売元 : 渋谷プロダクション/スタンス・カンパニー
販売代理 : オデッサ・エンタテインメント
定 価 : 4,800円+税
<Blu-ray仕様> カラー/本編102分+特典映像/アメリカンビスタ/音声:日本語/DTS-HDマスターオーディオ5.1ch/25GB


★監督・佐藤寿保&脚本・夢野史郎のゴールデンコンビ最新作!
天才“村山槐多”に取り憑かれた若者たちを描くエンタテインメント作品!
本作は、22歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。


CAST 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 佐野史郎
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昨年暮れに劇場公開を観てから、約半年ぶりに拝見。
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随所に槐多の絵や詩が効果的に使われています。
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ラストには光太郎詩「村山槐多」も一部引用。
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背景は雑司ヶ谷霊園にある槐多の墓です。

ちなみに本編ではない特典映像中のメイキング部分には、クランクイン前に佐藤監督らが墓参をした様子なども。

というわけで、Blu-rayディスク、ぜひお買い求め下さい。また、U-NEXTさんでの配信も始まっていますので、どうぞ。

ただし「アヴァンギャルド・エンタテインメント」と謳われている通り、R指定はないものの、それに近い内容です。ご試聴には十分注意なさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

学校の校規等今日拝受、興味ふかき事に存じ、学校のよき進展を心から望んで居ります。小生美の世界に於いても岩手の人々に期待する事大です。

昭和23年(1948)4月15日 佐々木一郎宛て書簡より 光太郎66歳

「学校」はこの年開校となった岩手県立美術工芸学校。光太郎は名誉教授に就任して欲しいという要請は断りましたが、何度も足を運んで講演をしたり、作品展を観たりといった援助は惜しみませんでした。

朗読などでヴォイスパフォーマーと自称なさっている荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人がコラボなさる公演が、東北地方で3件開催されます。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。

① 夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声

期 日 : 2024年7月18日(木)
会 場 : 賢治の広場 ハナマルカフェ 岩手県花巻市上町3-4 岩田ビル 1F
時 間 : 14:00~
料 金 : 無料 (要1ドリンク以上の注文)

プログラム
 高村光太郎「智恵子抄」より
  人類の泉、もしも智恵子が、メトロポオル など
 宮沢賢治作品より
  注文の多い料理店・序、星めぐりの歌 など
 箏曲ソロ演奏
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翌日には、荒井さんの本拠地・仙台で。

② 旅するお箏 となりのえんがわdeコンサート

期 日 : 2024年7月19日(金)
会 場 : となりのえんがわ 宮城県仙台市宮城野区銀杏町4-29 宮城野納豆製造所敷地内
時 間 : 13:00~ 12:30~(当初予定から変更だそうです)
料 金 : 1,000円

プログラム
 高村光太郎「智恵子抄」より
 箏曲演奏
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そして翌週、再び仙台で。

③ 夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄

期 日 : 2024年7月23日(火)
会 場 : Antique & Cafe TiTi 宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中5-8
時 間 : 11:00~
料 金 : 1,500円

プログラム
 お箏の調べ 春の海、夜空へ など
 高村光太郎「智恵子抄」より レモン哀歌、人類の泉 など

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以前から賢治作品や「智恵子抄」系の朗読を繰り返しなさっていて、当会主催の連翹忌ご常連の荒井真澄さん。昨年、横浜で開催された「元井美智子自作自演コンサート2023」で、「智恵子抄」から「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」を、箏の調べに乗せて朗読なさった元井美智子さん。

元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、コラボ公演開催の運びとなりました。

③→①→②の順で開催が決まったそうです。はじめ、③のみの予定だったのが、リハーサルも兼ねて花巻でもやりたい、ということになり、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんのお骨折りで賢治の広場さんを借りられることとなって①が、さらに③があっという間に予約満席だそうで、追加公演として②が、それぞれ実現することに。

ところで元井さん、やはり連翹忌ご常連のテルミン奏者・大西ようこさんにも目をつけられ(ここの助動詞「られ」は「尊敬」ではなく「受身」の用法です(笑))、9月には大西さんの運営されている逗子のテルミンミュージアムさんで、箏曲とテルミンのコラボコンサートもなさるとのこと。ちなみにテルミンミュージアムさんと大西さん、7月6日(土)にテレビ東京さん系でオンエアがあった「モヤモヤさまぁ~ず2 【逗子・葉山】石原裕次郎さん生誕90年記念 一心同体!ろくなもんじゃない90分弱SP」にご出演。笑わせていただきました。
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さらには大西さん、今月初めには、荒井さんもご参加なさった千葉市川アトリエカフェ赤毛のアンさんでの「赤毛のアンの輪読会」でもテルミン演奏と、ご自身も朗読をなさったそうです。
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以前にも書きましたが、連翹忌、光太郎を偲ぶというのがメインの開催趣旨ですが、こうして人々の輪を広げていくことも目的の一つと言えるかな、と思っております。

さて、それぞれの公演、ご都合の付くところで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岩手の山で見る星の大きさは東京で見る星の二倍ぐらゐに思はれます。金星や、木星の光のつよさにびつくりします。


昭和23年(1948)4月12日 髙村規宛書簡より 光太郎66歳

実際、現代でもそれに近いのでしょうし、夜はほとんど真っ暗だった花巻郊外旧太田村、まさにそうだったのでしょう。また、賢治が「銀河鉄道の夜」などを着想したのも、花巻の美しい夜空あってこそだったはずですね。

昨日、福島県小野町さんで今年3月に刊行された『マンガふるさとの偉人 今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』についてご紹介しました。

「マンガふるさとの偉人」シリーズはB&G財団さんの助成により進められていて、7月1日(月)、他の自治体さん等で今年刊行された分、全40作品のネット上での無料公開が始まったのですが、昨年までに刊行された作品についても、今年4月から無料公開が為されていました。トータル百数十作品ほどになっているようです。
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そこで、昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんが刊行なさった、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』も無料公開されています。数ヶ所に光太郎が登場します。
また、同じく岡山県の井原市さんでは、同市出身の彫刻家にして光太郎の父・光雲門下の平櫛田中。題して「107歳の生涯を木彫に捧げた彫刻家 平櫛田中」。
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田中の終焉の地、東京都小平市さんでは、B&G財団さんの助成による「マンガふるさとの偉人」シリーズではなく、独自に『田中彫刻記』という同様の漫画を刊行なさいました。ご執筆は市職員の方だそうで。それが評判ということで、田中の出身地・井原市さんでも……ということでしょうか。

その他、光太郎とも親しかった北原白秋(熊本県南関町)、光雲を東京美術学校に招聘した岡倉天心(茨城県北茨城市)などもありますが、残念ながら光太郎や光雲は登場していないようでした。

B&G財団さんのサイトを見ると、このシリーズ、教育現場等での活用もかなり為されているようです。
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学校さんだけでなく、社会教育的な分野でも。
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全国の自治体さん、ご参考までに。

しかし「では、わが街でも××××のマンガを」となった場合、いろいろ難しい点もあるかと存じます。第一に人選。郷土の偉人としてその街で既に確たる地位が出来上がっている人物について、改めて取り上げても仕方がないでしょう。例えば花巻で宮沢賢治を、などというのは今更感がぬぐえません。実際、花巻市さんでは北海道大学総長などを務めた佐藤昌介が選ばれています。

それから、基本的に一人の人物が対象ですので(例外的に兄弟や夫妻で、という作品もありますが)、「何で××××が選ばれて、○○○○は採用されないんだ」というような、「あちら立てればこちらが立たず」というようなトラブルも無いとは言い切れません。

また、出身地と拠点にした場所や終焉の地が異なるという人物も多いので、どの自治体がその人物を取り上げるか(基本的に一人一作品でしょうから)といった部分も難しいでしょう。北原白秋など、てっきり福岡県柳川市さんだろうと思っていたら、さにあらず。出身地の熊本県南関町さんでした。平櫛田中の場合は前述の通り、後半生の拠点にし、終焉の地ともなった東京都小平市さんで既に独自で漫画を作成していたので、B&Gさんの助成による方は出身地の岡山県井原市で、と、すんなり行ったようですが。

そうしたもろもろがクリア出来るのであれば、実に効果的な取り組みだと思います。繰り返しますが、全国の自治体さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

此頃の酒はあぶなくて、「明星」の歌人として知られてゐた平野万里といふ人は先般急死しましたが、此頃になつて死んだのはヤミ酒のメチール中毒だといふ事の報告をうけ驚きました。メチールなどで死んだと思ふと気の毒でもありながら又一方何だかイヤシイやうな気がして尊敬出来なくなつて困ります。

昭和23年(1948)4月2日 宮崎春子宛書簡より 光太郎66歳

ヤミ酒のメチール」はいわゆる「バクダン」。メチルアルコールを使った粗悪な密造酒です。人間、死に様も大事ですね。

B&G財団さんが助成を行い、全国で刊行され続けている「マンガふるさとの偉人」シリーズ。昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』を刊行なさいました。

数ヶ所で光太郎が登場していました。
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今年、同じシリーズで、福島県小野町さんが、『今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』を刊行。丘灯至夫は作詞家。舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」、古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる「智恵子抄」がリリースされ、それなりにヒットしました。

智恵子の故郷・二本松にもほど近い小野町さんでの刊行なので、「智恵子抄」がらみのエピソードも紹介されているだろう、あわよくば現物をゲット出来ないものかと、今年5月、二本松に行った際に、小野町のふるさと文化の館内に併設された丘灯至夫記念館さんに立ち寄りました。予想通り「智恵子抄」が世に出る経緯が描かれていたものの、残念ながら販売はなされていませんで、コピーも不可ということでしたが、8月頃にはネット上で無料公開されるという情報を得ました。

しかし8月にではなく、前倒しで7月1日(月)から無料公開が開始されました。
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「智恵子抄」に関してはこんな感じ。最初からすんなりとはいかなかったそうです。
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当会の祖・草野心平が登場。当時、心平は高村光太郎記念会のメンバーでしたので、丘は心平を通して作品化の許可を取ろうとしたわけです。すると心平、「先ずこの酒を飲め」(笑)。無茶苦茶ですね。

過日も書きましたが、この頃、高村光太郎記念会としては、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていましたので、むべなるかなですが。

それから、「高校三年生」や「智恵子抄」のヒットを受けての小野町凱旋公演。

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その他、丘の一生、興味深く拝読しました。当初、詩人を目指していた頃の西条八十や、のちに作詞家となってからの古関裕而や舟木一夫さんらとの出会い、数々のヒット曲制作の裏側など。

メインタイトルが「小さな巨人」となっていますが、大正6年(1917)、未熟児として生まれ、生涯病弱で、身体も小さかった(身長150㌢チほど、体重約33㌔、足のサイズは22㌢~23㌢)ことが由来です。そのため、日中戦争の始まった頃には一度は兵役免除になりましたが、太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)には応召されました。そして虚弱な丘を何くれとなくかばってくれたりした戦友は戦死……。そうした経験が「長崎の鐘」などにも繋がっていくと思われます。

それからサブタイトルは「今も愛される名作を生んだ作詩家」。「作詞家」ではなく「作詩家」です。そこにはじめ西条八十に師事した丘のこだわりがあったのでしょう。

ちなみに来週、BSテレ東さんで「智恵子抄」が流れます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年7月10日(水) 17:56〜19:00 放送時間 64分

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

 「大江戸出世小唄」合田道人/「東京音頭」香西かおり/「東京ラプソディ」大川栄策
「九段の母」塩まさる/「東京ブルース」淡谷のり子/「夢淡き東京」ボニージャックス
「東京の屋根の下」貴津章/「東京ブギウギ」森サカエ/「君の名は」青山和子
「東京ティティナ」生田恵子/「東京だより」三船浩/
「東京のバスガール」初代コロムビアローズ/「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ/「東京五輪音頭」福田こうへい/「あゝ上野駅」松原健之
「新宿そだち」津山洋子、高樹一郎

<司会>合田道人
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過去映像によるものですね。「智恵子抄」、どういう歌だかよくご存じないという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

雪の下から葱が出てきて立ち上がりました。タンカルのおかげで農家であきらめてゐるハウレン草がもう食べられるほど育つてゐます。


昭和23年(1948)4月2日 宮沢清六宛書簡より 光太郎66歳

「タンカル」は、かつて宮沢賢治が推奨していた肥料・炭酸カルシウムですね。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第59回天山祭り

期 日 : 2024年7月13日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~11時35分
料 金 : 500円

「天山祭り」は、名誉村民となった詩人・草野心平が自身の3000冊もの蔵書を寄贈したことで、村の人たちによって贈られた「天山文庫」の落成を記念して始まりました。心平自身、この祭りが好きで、食べて飲んで、語り合い、住民や親交のあった人たちとの交流を時を忘れるほど楽しんだそうです。 現在もゆかりのあった人々が、心平の詩の朗読や、三匹獅子舞などの郷土芸能などを楽しみながら、心平を偲ぶ祭りとして毎年7月第2土曜に開催されています。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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心平は隣接するいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

村ではその後も訪れ続ける心平のために、昭和41年(1966)、別荘を建てて下さいました。それが天山祭り会場ともなっている天山文庫です。設立準備委員には、光太郎実弟で心平と昵懇の間柄だった豊周も名を連ねました。

その落成記念を兼ねて始まったのが天山祭り。以後、心平は出来る限り参加を続け、村人達と楽しいひとときを過ごしました。
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そして心平没後は、心平を祀る意味合いも付与して続き、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。

昨年の第58回は、光太郎生誕140周年ということもあり、当方に講演の依頼があって、べしゃくって参りました。主に最近見付けた心平と光太郎のエピソードの紹介でした。心平には『わが光太郎』(昭和44年=1969)という著書があり、光太郎と過ごした日々が色々と語られていますが、それも「余すところ無く」というわけではなく、調べれば調べるほど同書には割愛されている「こんなこともあったのか」の連続でして。

今年はいち聴衆として参加します。みなさまもぜひどうぞ。

ところで心平ついでにもう1件。いわき市の草野心平記念文学館さんから、先月末まで開催されていた企画展示「草野心平の旅 所々方々」の図録が送られてきました。多謝。心平がその生涯に、どんなところにどういう目的で旅をしたのか、という視点からの企画展で、留学や戦争の関係で長期滞在した中国をはじめとする海外、そして北は北海道から南は沖縄までの国内ほぼ全域(なぜか四国へは行く機会がなかったようですが)。

「あまり光太郎とは関わらない展示だろう」と思って、足を運びませんでしたが、十和田湖だけは光太郎とのからみが少し紹介されていました。
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昭和28年(1953)に除幕された光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係で、心平はその建設在京委員の一人でしたし、昭和27年(1952)の光太郎の十和田湖下見旅行や翌年の除幕式に同行しています。そして中野の貸しアトリエで像の制作に当たっていた光太郎を物心両面から支援もしました。

下記は図録には載っていませんが、除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。
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図録はオールカラーですが、全8ページの簡易的なもの。ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

庭でもうぐいすが啼いてゐるとの事ですが、こちらの山の中ではまだ雪が消えず、少しづつ降つてゐます。鳥はセキレイ、キツツキ、ヤマバトなどが今はないてゐます。

昭和23年(1948) 高村珊子宛書簡より 光太郎66歳

故・珊子さんは昨日ご紹介した書簡の高村美津枝さんと姉妹。同じ日に姉妹それぞれに別々に葉書を出しました。文面で姉妹からの来翰に対する返信とわかりますが、それぞれに別々に返信するあたり、愛を感じますね(笑)。

ちなみに当方自宅兼事務所は千葉の田舎で、このブログを書いているたった今も、裏山ではウグイス、ホトトギス、その他名も知らぬ鳥の声(夜はフクロウ系)。さらに4、5日前から蟬も鳴き始めています。

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