光太郎も目にしたであろう建造物です。
一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。
三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。
【折々のことば・光太郎】
智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。
文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。
花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。
一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。
国登録有形文化財に旧下総御料牧場貴賓館など10件を答申
国の文化審議会は先月、千葉県成田市の旧下総御料牧場(三里塚記念公園)の貴賓館と防空壕(ごう)など計10件を国登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申した。登録されれば県内の国登録有形文化財(建造物)は315件になる。
ほかには、市川市の勝家住宅主屋と稲荷社、我孫子市の榎本家住宅主屋と離れ、北土蔵、釜場、正門、稲荷社。
成田市によると、旧下総御料牧場貴賓館は、明治政府が招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」の官舎として現在の富里市に明治9(1876)年に建てた純和風住宅がもと。同21(1888)年に三里塚に移築後、大正期に貴賓館となり、各国大使の接待や皇族の宿泊に利用された。成田空港の建設に伴って牧場の移転が決定し、払い下げを受けた成田市が大正期の姿に復元修理した。
木造平屋建てで、内部には洋間のホールを配し、北面は上下窓を開けた独特の外観。
防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
我孫子市によると、榎本家住宅は、利根川の水運業(船問屋)を生業にしていた榎本家が主屋などを昭和初期に建てたとされる。榎本家は明治期から大正期にかけて町長や衆院議員を輩出しており、同市の歴史を伝える上でも重要な建築物とされる。主屋は木造2階建ての寄せ棟造りで、その周囲に立つ離れなど五つの建造物も今回の対象になった。
三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。
【折々のことば・光太郎】
智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。
昭和23年(1948)10月21日
宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳
宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳
文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。
花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。