戦前に亡くなった智恵子、その写真は30葉くらいしか確認できていません。それもお嬢様だった少女時代のものが多く、光太郎との結婚後のものは少ない状況です。3年ほど前に、国立国会図書館さんのデジタルコレクションのリニューアルに伴い、昭和3年(1928)4月16日、日比谷の東京会館で撮られた光太郎の父・光雲の喜寿祝賀会でのショットを見つけましたが。
002
そんな中、ずっと気になっていた写真がありました。平成5年(1993)発行の『週刊女性』第37巻第14号(左下)や、昭和57年(1982)、暁教育図書さん発行の『日本発見人物シリーズ 大正の女性群像』(右下)に載っていたもの。
000 001
かなり鮮明な写真であるにもかかわらず、いつ、どこで撮られたものか把握出来ていませんでした。

その謎がようやく解けました。

きっかけは1月6日(火)の『東京新聞』さん、「政党政治への期待は、恨みに変わって… 希望を失った民衆は「新しさ」を求め、「国家や天皇」に流れた」という記事。

記事自体は慶応大学さんの松沢裕作教授(日本近代史)への取材を通し、1920年代頃の国家主義が台頭した時代を追うもので、女性参政権運動にも触れられ、その一翼を担ったのが平塚らいてうだったため、「東京・新宿の中村屋に集う婦人参政権運動を進める青鞜社の旧同人たち=1929年6月26日(日本電報通信社撮影、共同)」というキャプションで、下記の写真が載りました。ちなみに記事本文にはらいてうや智恵子の名も『青鞜』誌名も書かれていませんでしたが。
1929年6月26日(日本電報通信社撮影、共同)
右から二人目がまさしく智恵子。拡大するとこんな感じです。
003
昭和4年(1929)6月26日というと、キャプションの通り新宿中村屋で『青鞜』旧同人の同窓会的な集まりが持たれ、そのショットでした。この模様は当時の『朝日新聞』で報じられています。
005
写真も添えられていましたが、不鮮明な上に、肝腎の智恵子は野上弥生子の陰に隠れ、顔がはっきり写っていませんでした。
004
これとほぼ同時に写されたのが、『東京新聞』さんに載ったもので、上記の『週刊女性』などに載った写真はここから採られたものでした。

『朝日』記事には写っているメンバー全員の氏名が並び順に紹介されており、それを信用すると下記のようになります。
006
「小野よし子」「藤浪和子」はそれぞれ創立メンバーの保持研子、物集和子です。大正12年(1923)に殺害された伊藤野枝や、カナダ在住だった田村俊子がいないのはともかく、富本一枝(尾竹紅吉)、木内錠子、中野初子、岡本かの子、岡田八千代らの姿も見えないのは残念ですが。

しかし智恵子、凜とした目つきですね。いわゆる「目力」に圧倒されそうです。この2年後には心の病が顕在化するのですが……。

とにかく写真が少ない智恵子、この後も新たなショットが見つかることを祈念いたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)9 『リリユリ』

大正13年(1924)5月10日 古今書院 ロマン・ロラン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_083739986
PXL_20260102_083814702 PXL_20260102_083843874
目次 なし

『リリユリ(Liluli)』は光太郎が敬愛していたロマン・ロラン(1866~1944)の戯曲。大正7年(1918)に原典が刊行されました。光太郎、2年後には片山敏彦、尾崎喜八、倉田百三、高田博厚らと「ロマン・ロラン友の会」を立ち上げます。

昨年開催されたイベントの報道が最近為されていますので、ご紹介しておきます。

まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。

発見~開館30周年と収蔵棟完成を祝う祭典! 「藝大取手コレクション展2025」

 令和6年に開館30周年を迎えた東京藝術大学大学美術館と、 未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が同年竣工したことを記念し、「藝大取手コレクション展2025」が令和7年11月13日から30日まで開催されました。取手東小学校の3年生も学校行事でコレクションを鑑賞しました。鑑賞した児童からは「いろいろな作品が見られて楽しかった。作品ごとに違う雰囲気や面白さがあった」と話し、“アートのまち取手”ならではの貴重な体験をしました。
000
学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。

続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。

十和田湖の未来を語る東京フォーラム 11月30日に東京で開催 先人の思いを礎に「感動体験」が人を呼ぶ好循環へ

 山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つずつ――。明治・大正期の文人で、俳句や美文で十和田湖や奥入瀬渓流の自然美を世に紹介した大町桂月が、蔦温泉で没して100年。今や十和田八幡平国立公園は本県を代表する観光地となっています。「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」が11月30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれました。大町の人柄や功績、本県との関わりを振り返り、十和田湖と周辺地域の未来に視線を向けたフォーラムの様子を紙面で採録します。

蔦温泉で二度越冬
 フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
 また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。

湖の感動を表した像
 十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。

感動体験から保護・活用へ
 初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
 ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
 フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。

001
この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。

また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)8 『明るい時』

大正10年(1921)10月15日 芸術社 ヹルハアラン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_083544644.MP
PXL_20260102_083635658 PXL_20260102_083707172
目次
 序文
 明るい時
  一 おうさんらんたるわれらのよろこび     二 無言のままわれらの歩く
  三 この野蛮な柱頭              四 夜の空はひろがり
  五 いつでも、かほど純真にふかい     
  六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
  七 おう! 戸を叩かせて置かう        八 あどけない頃のやうに
  九 わかい、気のやさしい春は         一〇 しづかに来て                        
  一一 火のやうな恍惚の眼をして        一二 長い間私のくるしんでゐた時 
  一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
  一四 黄金と花との階段をしづしづ降りる    
  一五 私はあなたの涙に、あなたの微笑に       一六 私はあなたの二つの眼の中に
  一七 われらの眼を愛するため                   一八 われらの愛の園に、夏はつづく
  一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が   二〇 言つてごらん                        
  二一 われら自身以外の一切のものを            二二 おお! この幸福!                  
  二三 生きませう               二四 われらの口の触れ合ふやいなや
  二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い       二六 たとひもう、こよひ                  
  二七 からだを捧げるとは、魂のある以上   
  二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ  二九 炎に花咲く美しい庭は                
  三〇 もし万一にも                        
 小曲二章
  小さな聖母  サンジヤンさま
 二篇
  風をたたふ  吾家のまはり

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。

光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。

今日明日と、遡って旧臘中の報道をご紹介します。

まず、12月28日(日)付けの『朝日新聞』さん岩手版。

花巻の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿の湯 国登録有形文化財に

 多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名な岩手県花巻市の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿(しろざる)の湯が、国登録有形文化財(建造物)に登録される見通しになった。国の文化審議会が11月、文部科学相に答申した。
   藤三旅館本館は豊沢川沿いに建つ1941年建築の木造3階建て。南面東寄りに唐破風(からはふ)造りの玄関が突出し、入母屋(いりもや)屋根になっている。内部は各階の廊下の南北に客室が並んでいる。
 岩盤をくりぬいた白猿の湯は深さが1・3メートルあり、浴槽に立って入る。浴槽の周囲の床は石敷きで重厚な造り。上部は吹き抜けで開放的な雰囲気だ。
 県内の登録有形文化財(建造物)は今回を含めて111件になる。
006
花巻の有形文化財建築といえば、ここと山一つはさんだ花巻温泉さんの旧松雲閣別館、市街地の旧菊池家住宅西洋館と、それぞれ光太郎の足跡が残る建造物です。そして今回も。「多くの文豪が滞在」とあるうちの一人が光太郎です。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、確認出来ている限り、昭和23年(1948)に3回、一泊ずつ宿泊しています。

まず4月25日の日記。

朝、村長さん来訪、どこかへ一緒に遊びにゆきたしと誘はる。今日円万寺観音山の祭に行く予定の旨答へる。午后村長さんも観音山に来て夕方より鉛温泉に一泊する事約束。(略)四時頃村長さん奥さん尋ね来る、五時辞去。 奥さんと共に二ツ堰。村長さんも自転車でくる。共に鉛温泉行。七時過着、入浴、酒、夜食。

「観音山」は親しくなった僧侶にして仏教学者の多田等観が暮らしていた山、「二ツ堰」は当時鉛温泉方面に走っていた花巻電鉄の駅です。「尋ね」は「訪ね」の誤記ですね。

翌26日。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同浴場にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。 沼田の吉二さんといふ人村長さんを訪ね来り、濁酒一升もらひ皆でのむ。 吉二さん(村の肴配給掛)と同宿。朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

続いて5月11日。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。椛沢さんも喜ぶ。 夜宿の主人と帳場の老人話にくる。史跡の話などきかせる。椛沢さん詩の朗読をしてきかせる、夜十一時半に至る。自然風呂の方の温泉に入浴。一人も客無し。十二時頃ねる。 セキも多く出ずよくやすむ。 雨もふらず。心地よし。

「椛沢さん」は椛沢佳乃子。戦時中からの知り合いで、東京から訪ねてきたお茶の先生です。

翌12日。

朝七時頃までねてゐる。 入浴。 朝食後抹茶。 午后一時十七分の電車にてかへる事にきめ、中食をたのむ。談話、休憩、入浴、十二時中食丼なり。会計をすます。五百円と少し。少々やす過ぎると思ひしが帰宅後うけとりを調べると宿料一人分のみ記入しあり。余の分をとらざりしと見ゆ。宿の主人電車まで送り来る。県道が秋田大曲の方へ開ける由語る。今は客二百名位。八月には千名余になる由。

「三階三十一号室」には当方も一度泊めていただきました。ほぼ当時のままのようでした。

さらに5月18日。

午后支度して宮崎さんと一緒に出かけ、二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。宮崎さんも喜ばる。鉛の共同風呂に入浴。この湯甚だよろし。あまり混雑せず。持参の玉露を入れたりする。休憩。 夜食時濁酒半分ばかりのむ。 幾度か入浴、十時頃ねる。

「宮崎さん」は姻戚の茨城在住だった詩人・宮崎稔です。

翌朝。

午前八時〇七分の電車にて花巻西公園まで。弁当のむすびをもらふ。宿にて米を少し返却し来る。会計全部にて435円也。

確認出来ているのはこの三泊ですが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記が抜けている時期もぽつぽつあり、もう少し多いかもしれません。

生前最後の談話筆記「花巻温泉」でも、大沢温泉さん、台温泉さんなどとともに鉛温泉さんに詳しく触れています。

 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 宿もこんな山の中によく建つたと驚くような大きなもので、鉄筋コンクリート建である。


この「鉄筋コンクリート建」が、今回、有形文化財登録になるという本館と思われますが、冒頭の記事では「木造」となっています。思うに純粋な木造ではなく、コンクリートとの折衷ではないかと。

ちなみに『朝日』さんでは暮れに報じていてその時点で気づいたのですが、既に11月には地元で報道が為されていました。

IBC岩手放送さんのローカルニュース。

鉛温泉・藤三旅館と白猿の湯が国の登録有形文化財に 岩手・花巻市

 岩手県花巻市の鉛温泉にある旅館と浴室用の建物2件が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
003
 国の登録有形文化財に登録されるのは、花巻市鉛の「鉛温泉藤三旅館本館」です。この建物は1941年に建てられ突き出した玄関の屋根が曲線の美しい唐破風造(からはふづくり)となっています。
004
 もう1件は、この旅館の浴室用の建物「白猿の湯」です。建設時期は昭和の前期で、中には岩盤をくり抜いた深さ約1.3メートルの大浴槽があり、上が吹き抜けとなっています。県内にある国の登録有形文化財は、今回を含め111件となります。
005
『朝日』さんに戻りますが、「多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名」とあるうち、「滞在」には宮沢賢治が含まれます。童話「なめとこ山の熊」に「腹の痛いのにも利けば傷もなほる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかつてゐる」という記述があります。元々、藤三旅館の経営者だった藤井家は宮沢家とは親戚関係でした。熊といえば、つい先日、宿泊した際には白猿の湯ではない豊沢川沿いの露天風呂で熊とニアミスがあり肝を冷やしました。

また「執筆」は田宮虎彦。「銀心中」という短編小説はこの宿をモデルにし、ここで書かれたそうで、公式サイトでもそのあたりが紹介されています。忘れ去られつつある作家に光を当てるのも大事ですが、先述のようにいろいろ書き残している光太郎ももっと前面に押し出していただきたいのですが……。

ところで、光太郎が泊まったというと、鉛温泉さんよりやや南の大沢温泉さん。こちらの自炊部は江戸時代の建築ですし、光太郎も愛した露天風呂「大沢の湯」も歴史あるなかなかの風情で、一説には能舞台を模した造りとも言われているようです。こちらもぜひ有形文化財登録を目指してほしいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)7 『回想のゴツホ』

大正10年(1921)4月22日 叢文閣 エリザベツト・ゴツホ著 高村光太郎訳
PXL_20260102_084258638 PXL_20260102_084313331.MP PXL_20260102_084346206
目次
 小序 
 一 準備
 二 はじまり
 三 再び仏蘭西へ
 四 をはり
 附録 ゴオガンに宛てた手紙 最後に就てのゴオガンの手紙 略年譜 挿画目録

フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹であるエリザベットによる兄の回想録です。

これも本来カバー付きですが、手元のものはカバーが欠けています。カバー付きが市場に出ることはまずありませんので半分諦めているのですが、若松英輔氏のモクレン文庫さんで数年前に出ました。その稀少価値をご存じなかったのか、超廉価で。気づいた時には既に売れていました。

明日からは昨年暮れの報道等を紹介しますが、それに先だって松の内の間に正月っぽいネタを。

元日の『日本経済新聞』さん文化面から。

騎馬像は馬も上手い? 名将支える相棒、国内150体巡る  山口洋史(元JRA職員)

 伊達政宗、山内一豊、前田利家、井伊直政――。武将たちをたたえる騎馬像を見上げた時、注目されるのは主役の偉人だ。となると、下の馬は見過ごされがち。
 馬好きの多くは、生きた馬の美しさに魅了されて、彫像は見向きもしない。かくいう私も同類。仕事の前に馬に乗れると聞いて日本中央競馬会(JRA)に就職したくらいだ。
 騎馬像の馬を意識したきっかけは、2011年のイタリア旅行だ。ずっと見たかったダヴィデ像への道すがら、騎馬像に出会った。コジモ1世だ。馬は丸々と肥え、頭が小さく、軽快に動いているように見えた。でも、私が好きなのはサラブレッド。ちらっと見て、通り過ぎた。
 その後も騎馬像に出会う。フェルディナンド1世、エマニュエル2世、マルクス・アウレリウス帝。妙に印象に残った。
 帰国後しばらくして馬事講座のネタ探しをしていた時、ふと騎馬像を思い出した。案外面白いのでは。とはいえイタリアには簡単には行けない。日本の騎馬像でも巡るか。なんとなく始まったが、結局150ほどある各地の像を制覇した。
 日本の騎馬像でまず外せないのが皇居外苑(がいえん)にある楠木正成像だ。騎馬像巡りで最初に見た像だが、馬をずっと見てきた私でも驚くほど、とにかく馬が上手(うま)い。正成がイケメンなのもいい。
 1900年に完成したこの像は、別子銅山200年記念事業として当時の東京美術学校(現東京芸大)を代表する芸術家が集まって作った。高村光雲が正成の顔を作り、歴史画家の川崎千虎が史実を踏まえて甲冑(かっちゅう)の図案を作り、彫刻家の後藤貞行が実際の馬の解剖もしながら馬を担当した。原型作りに3年、完成まで10年かけた。
 馬はグーッと力を入れて進もうとするが、正成が手綱を引く。顎がぐっと後ろに引っ張られた馬は興奮しているのか、前膝を高く上げて目を見開いている。胸前、前肢の付け根、おしりの筋肉も盛り上がって、全身に力を蓄えている。
 「この体勢はありえない」。写実性を重視した後藤は、光雲に抗議したという。だが誇張やデフォルメで、前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感が伝わる。
 完成当初は馬が大きいという批判もあったらしいが、現代の目で見ると逆に馬が小さく、首も少し短く感じるかもしれない。ただ、とにかくエネルギーはすごい。
006
 正成像は、日本でほぼ最初に作られた近代的な騎馬像だ。これだけ人と時間と費用をかけて最初からこんなものを作ったら、後続はどうしても似てしまう。
そんな中、独自路線を行く像もある。
 例えばJR鹿児島本線伊集院駅前にある島津義弘像。馬は後肢をぐっと曲げて踏ん張り、頭を左に少しひねりながら前半身を高く上げている。馬の首の部分の筋肉の力強く張り詰めた膨らみ、全身の流れるような美しいライン。前歯や後歯、歯が生えていない歯槽間縁も正確に作られている。同じ騎馬像でも馬の力強さを別の形で描写した彫刻家の中村晋也の想像力に圧倒される。

007
 ところが、そもそも馬を理解せずに作られたものもある。馬の肢(あし)は人間の脚とは違う。私が見た限りでは、馬の肢が本来とは逆向きに、まるで人の腕や脚のように曲がった像が2体ほどあった。
 こんなの許せない――。当初はそう思った。でも、騎馬像を見ていくうちに考えは変わった。馬のひづめや蹄鉄(ていてつ)の正確さまで、ちゃんと捉えているのは彫刻家の北村西望ぐらい。それでも多くの像は、地域で大切にされている。精いっぱいの思いが込められている。
 愛知県吉良町(現西尾市)といえば、忠臣蔵の吉良上野介の地元だ。ここには、6体もの上野介の騎馬像があった。日本中に悪役と思われても、地元はこの殿を支えるという意気込みだろうか。
 北海道江別市の榎本公園にある榎本武揚像の馬は、いかにも騎馬像らしいダイナミックさはない。でも華奢(きゃしゃ)な体にもかかわらず目はキリッとしていて、武揚の指示をじっと待っている。旧幕府、新政府の両方で重用された偉人も、相棒の馬といつも一緒にあちこち回ったのかもしれない。
008
 船に乗りレンタカーを借りて佐渡島の山奥の公園にたどり着くと合戦開始目前、2人の騎馬兵が向き合う像があった。馬の像はやや詰めが甘いところがあるものの、全体としてダイナミックだ。
 ところがはるばる来た公園の近くにあるのは公衆トイレぐらい。30分ほど見ていたが、そばを通るのはトイレを目指す地元の人ばかり。せっかくの騎馬像、もう少しかっこつけてあげてほしいが、史実に忠実に場所を選んだ結果なのだろう。
 作り手や設置者の思い、あるいは何かしらの事情が垣間見える騎馬像は、今の時代にも新たに作られている。どうせなら愛される像を作ってほしい。願わくば、馬にもどうか気を使ってあげてほしい。

当会としての今年の年賀状図案に使った皇居外苑の「楠木正成像」を真っ先に挙げて下さいました。ありがたし。

執筆された山口氏、元JRA職員とのことで、見方が違いますね。楠公像に関しては「前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感」という評がまさに我が意を得たり、という感じでした。

楠公像の馬を担当した後藤貞行は、このために東京美術学校に雇われました。光雲が当時の校長だった岡倉天心に頼み込んでの実現でした。後藤が「この体勢はありえない」と言ったエピソードは、光雲の談話筆記『光雲懐古談』を昭和42年(1967)に中央公論美術出版さんが『木彫七十年』の題で復刊した際に附された、光雲三男にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周による「あとがき」に語られています。

 楠公の馬は左足を勢いよくあげ、踵を上へまげている。ここが問題になった。馬の専門家である後藤さんは馬の足というものはあんなにあがるものではない、それは嘘だといって反対した。けれども父が話すには、嘘でも馬が勢い込んで走ってくるところを手綱をぐっとひきしぼる、勢いが余って足があがる、その動きの激しいところをみせるためにも、また銅像全体としてみて、颯爽とした形のいいところをみせるためにも、例え嘘でもよいから片足をあげないと格好がつかない、そういうことを父はいったけれども、後藤さんは何しろ正確なことを尊ぶ本当の研究家だから、嘘になるから私は出来ないという。それで非常に困ってしまった。父は、いや芸術というものはそういうものではない、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ。本当の馬のように作ると、かえって、少しも馬の勢いが出てこない、動勢というものがあらわれてこない、それではなんにもならない。嘘が本当にみえればそれでよいのだから、その気持ちをのみこんでもらわなくてはいけないということを、銅像制作の主任としての立場から、父はめんめんとして後藤さんを口説き、やっとのことで嫌がる後藤さんに承知してもらったという。

この件は『光雲懐古談』本文には記述がありません。それを書き残して置いてくれた豊周、グッジョブですね。もちろん、こうした措置を執った光雲、その提案をのんだ後藤もですが。まぁ、こうしたデフォルメは彫刻としては初歩的な技法ですが。しかし、こうした点、山口氏曰く「作り手や設置者の思い」を知った上で見るのと、そうでないのとではまるで見方が変わってくると思われます。

午年の今年、全国に150体以上あるという騎馬像、少し注意して観てみてください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)6 『ロダンの言葉』目黒分店版

大正10年(1921)11月28日 目黒分店 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_082459602
PXL_20260102_082544067
PXL_20260102_082612424PXL_20260102_082656174.MP
目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版と装幀は異なりますが、中身の紙型は同一のようです。阿蘭陀書房は大正6年(1917)に社名をアルスと改称、そのあたりのバタバタもあってか『ロダンの言葉』の重版が十分に出来なかったようで、目黒分店版が刊行されました。

のちほどご紹介しますが、叢文閣からの正続2冊組の普及版も出されます。

松の内の間に正月っぽいネタを片付けてしまおうと思います。

『京都新聞』さん、元日の「社説」。

社説:新しい年に 京都、滋賀に希望の物語紡ごう

010
 京都の書店で、画集の上に「檸檬(れもん)」を置いて出てきたと小説に書いたのは、梶井基次郎である。
 病床にあった詩人高村光大郎の妻は、レモンを<きれいな歯ががりりと嚙んだ(略) 天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした>(智恵子抄(ちえこしょう))
 私たちの舌と多くの芸術家を刺激してきた酸っぱいレモンが、京都で作られている。5年ほど前から始まった挑戦の結実だ。
 仕掛けたのは農産物加工品の製造・販売会社「日本果汁」(京都市下京区)。健康志向で拡大する国産レモンの需要に、生産が追いつかない。取引のある農家や専門家に、京都での栽培を打診する。

未来を刺激する実り 
 舞鶴、亀岡、木津川、京田辺など府内20超の農家が手を上げた。行政や企業の支援も得て、耕作放棄地を活用。防寒対策など2年ほどの試行錯誤で木が根付く。
 実の凍結を防ぐため、黄色になる前に早摘みする工夫で、先月に終えた年間収穫は7トン前後。「京檸檬」として加工品用に出荷し、地元の宝酒造(伏見区)が酎ハイ、ロマンライフ(山科区)が洋菓子に用いるなど商品化している。
 日本果汁の河野聡社長は「新たな特産品で持続可能な地域づくりに貢献できれば。目標は10年以内に100トン。生食や京料理などでの使用にも広げたい」と話す。
 府南部では鮮烈なグリーンのレモンが、茶園やネギ畑のそばで実っていた。緑の競演だ。<がりりと嚙んだ>ら通常より酸味が柔らかい。京の名前が良く似合う。多くの人の口に届いてほしい。

つなぎ、つながる多様性
 本紙は昨年から一つの地域で、複数の地方版を読めるように紙面を改めた。京都、滋賀で多くの人やグループ、団体が「わがまち」の資源を生かしたり、新たに作り出したりして地域社会を動かすニュースを連日、報じている。
 そこから読み解けるのは「つながり」「つなぐ」ことの大切さだ。糸をたぐり京滋に希望の物語を紡ぐ-。次の主役は、あなたやあなたの周囲の人かもしれない。
 政治には、そうした営みを後押しする方策を求めたい。
 30年来続けてきた国の少子化対策は、めぼしい効果をもたらしていない。結婚や出産、子育てについて行政が環境を整えることは重要だが、いずれも個人の自由であり、それでただちに出生率が持ち直すわけではない。
 結婚をためらう非正規労働者など雇用環境の改革、「伝統的な家族観」を女性に押しつける考え方など、複合的な社会の障壁を除くことが必要である。「多様性」と「寛容」が鍵になろう。
 ここ10年、政府が旗を振った「地方創生」も残念ながら、地域社会を疲弊させた面が大きい。官邸と霞が関が中央統制を強め、自治体間で住民や税金、補助金を奪い合わせたからだ。
 国は人口や経済成長をコントロールできるという幻想の物語を振りまき、真に必要な改革から逃げてきたのではないか。政府推計で、15年後には生産年齢人口(15〜64歳)が今より1100万人も減る。不都合でも直視したい。
 その点で、地方創生について政府自身が検証報告で行き詰まりを認め、昨年6月に閣議決定した今後10年の基本構想に「人口減少を正面から受け止め、誰もが安心して生活できる適応策を講じる」と明記したのは意義深い。
 地域社会の持続的な発展には、性別や世代、国籍を問わず支え合い、参加し、ゆるやかに連帯する暮らしと働く場が欠かせない。

政治が亀裂深めるな 
 それを支えるのは、医療・介護や教育施設、交通網、農林漁業といった広義のインフラだろう。東京大や同志社大で教えた経済学の泰斗、故宇沢弘文氏は「社会的共通資本」と呼んだ。
 人口減への適応策として、国と自治体は、その維持を優先すべきだ。「縮むまち」に合わせて、身の丈を整える青写真を各自治体は描く時ではないか。
 それを国は支えつつ、自らも人口減・低成長に即した「日本のかたち」を示し、「成熟型」の社会保障や財政、経済戦略を再構築すべきである。負担のわかちあいなど厳しい面もあろうが、次世代へのツケ送りは慎まねばならない。
 心配なのは、つながり、共に生きるより、交流サイト(SNS)を介して対立や不確かな情報をあおり、自分と考えの違う人や少数者、外国人を排撃する動きだ。
 昨秋、高支持率で出発した高市早苗政権は、その波頭に乗っているかに見える。持論や右派の支持層向けの言葉が、日本を分かつ壁を築いていないか。
 分断の溝を埋めるのは、誰もを包み込む地域社会に違いない。

よくある話のマクラに光太郎智恵子が使われるパターンですが(笑)、それも大歓迎です。マクラにさえ使われなくなったらゆゆしきことです。

「京檸檬」のブランド名で、レモンの栽培が拡がっているとのこと。調べてみたところ、社説で紹介されている日本果汁さんとロマンライフさんが会員企業、宝酒造さんが協賛企業として名を連ねている「京檸檬プロジェクト協議会」という団体さんがいろいろと頑張ってらっしゃるようです。
011
耕作放棄地の活用など、意義のある取り組みですね。「京檸檬」と漢字にしているのもシャレオツなイメージです。まぁ何であっても「京××」としただけで垢抜けした感じになるような気がしますが(笑)。

意外と寒い京都ですが、「実の凍結を防ぐため、黄色になる前に早摘みする工夫」だそうで、そうすると智恵子の故郷・福島や光太郎ゆかりの岩手でも不可能ではないかもしれません。関係の方、ご一考をお願いしたいところです。

さらに社説では少子化や地方の問題、分断主義や排外主義の台頭への憂慮等も語られています。この国が「美しい国」であるために為すべきことは何なのか、年頭に当たって考えたいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)5 『自選日記』

大正10年(1921)9月17日 叢文閣 ウォルト・ホイットマン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_082950084.NIGHT PXL_20260102_083213148
PXL_20260102_083130067.NIGHT PXL_20260102_083250066
目次
 序。大英帝国島に於ける諸君へ
 幸福な時間の命令 懇望する友への返事 系統――ヷンヹルサルとホヰツトマン
 古いホヰツトマン及びヷンヹルソルの墓地 母方の屋敷地……二つの昔の家族の内部
 ポマノクと、私の子供として又若者としての其処での生活 
 私の最初の読書――ラフアイエツト 印刷所――昔のブルツクリン 成長――健康――為事
 渡しに対する熱情 ブロードヱーの光景 乗合馬車旅行と馭者 芝居も歌劇も
 八年間――性格の源泉――結果――一八六〇年 南北戦争の開始
 国民の蹶起と義勇兵の志願 驕慢の気……ブルランの戦、一八六一年七月
 昏迷は去る――別の事が始まる 戦線にて 最初のフレデリツクスパーグ戦の後
 ワシントンに帰る 負傷のまま戦場に置かれた五十時間 病院の光景と人物
 専売特許局病院 月光下のホワイト ハウス 一軍隊病舎 コンネチカツトの一患者
 二人のブルツクリンの子供 分離派軍の一勇者 チヤンセラースヸルからの負傷兵
 夜戦、一週間余以前の事 最も勇敢な兵卒は名も知られずに居る 或る代表的患者
 私の訪問準備 傷病兵運搬車の行列 重傷――青年 戦時の壮観中最も元気あるもの
 ゲツチスバーグの戦 騎兵の野営 ニユーヨークの一兵卒 手製の音楽 
 アブラハム リンカーン 炎熱期 兵卒と談話と ヰスコンシンの一士官の死 病院の概観
 静かな夜の散策 兵卒中の霊的性格者 ワシントン附近の牛の群 病院の混雑 戦線にて
 奨励金支払 流言、異動、其他 ヷージニヤ 一八六四年の夏
 アメリカに適する新らしい軍隊組織 一英雄の死 病院の光景――偶発事
 ヤンキーの一兵卒 南方に於ける合衆軍の捕虜 脱走兵 戦争地獄図の一瞥
 贈物――金銭――分つた事 ノートブツクからの数項 第二ブルランからの一患者
 軍医――援助の欠乏 到る処青 模範病院 軍隊中の子供達 一看護婦の葬式
 兵卒にとつての女性看護へ 南軍の逃避兵 瓦斯燈下の政庁 就任式
 戦時に於ける外国政府の態度 天候―天候も此の時勢と照応するか 就任式舞踏会
 政庁に於ける一光景 古典的一ヤンキー 傷病兵 大統領リンカーンの死
 シヤーマン軍の歓呼――その突然の停止 リンカーンの善き肖像無し
 南軍から放免された合衆軍の捕虜 ペンシルヷニアの一兵卒の死 凱旋軍隊 大観兵式
 西部の兵卒達 一兵卒のリンカーン観 二人の兄弟、一人は南、一人は北
 痛ましい患者がまだゐる カルフーンの真の記念像 病院閉鎖 模範的兵卒 「痙攣的」
 三個年の総〆 百万の死の同じく総〆 真の戦争は書物の中に決して無い 中間の一節
 新らしい主題に入る 長い農家の小径に入る事 泉と流とに 初夏の起床喇叭
 真夜中に渡る鳥 くまん蜂 シダー(杉)の実 夏の風物と安逸
 日没のかをり――鶉の声――ハーミツト鶫 池の畔の七月の午後 ローカストとケチヂツド
 木の教訓 秋日小景 天空――昼と夜――幸福 色彩――対照 七六年十一月八日
 烏、烏……海岸の冬の一日 海浜の空想 トマス ペーンの追憶 二時間の氷上の渡船
 春の前奏曲――嬉戯 一つの人間の奇癖 或る午後の光景 門は開かる 大地、土
 鳥、鳥、鳥 星に満ちた夜 マリン、マリン……遠方の物音 日光浴――裸体 樫の木と私
 五行詩 初霜――おぼえ……三人の若者の死 二月の日 メドーラーク……日没の光
 樫の木の下での思ひ――夢 クロヷーと刈草の匂 知らぬもの
 鳥の啼声……馬薄荷……われら三人 ヰリヤム カレン ブライヤントの死
 ハドソン河を遡る 幸福とラズベリーと 放浪家族の一標本 湾から見たマンハツタン
 人間的な英雄的なニユーヨーク 魂にとつての時間 麦わら色其他の蝶
 夜の記憶……野生の花 遅蒔の礼儀……デラヱヤ河――昼と夜と
 渡船及河の光景――昨冬の夜 チエストナツト街の最初の春の日
 ハドソン河をアルスター郡に遡る JBの家に於ける日々――芝火――春の歌
 隠者に会ふ……アルスター郡の滝 ヲルター デユモントと彼のメダル ハドソン河の光景
 市の二つの地域、或る時間 セントラル、パーク散歩と談話 美しい午後、四時から六時
 大汽船の出発……ミネソタ艦上の二時間 盛夏の日夜 博覧会の建物――新市庁――河遊び
 河の上の燕 長い西遊旅行を始める 寝台車にて ミズーリ州
 ローレンスとトピーカ、カンサス州 平原、(及び口演しなかつた演説)
 デンヷーへ――国境の出来事 キノーシヤ山嶺の一時間 手前勝手な「発見」
 新らしい感覚、新らしい歓喜 蒸気動力、電信、其他 アメリカの脊骨
 パーク……芸術的容姿 デンヷーの印象 南に向ひ――やがて又再び東に
 果たされなかつた望――アーカンサス河 静かな小さなお伴――コレオプシス
 詩に於ける平原(プレーリー)と大野原 スパニツシユ高峯――野原の夕暮
 アメリカ独特の風景 地上最も重要な流 平原の対比者――樹木の問題 ミシシピ流域文学
 訪問記者の一記事 西の女……無言の将軍 大統領ヘイズの演説 セントルイス備忘
 ミシシピー河の幾夜 われら自身の国土の上 エドガー ポーの真意義
 ベトーヴエンの七部合奏曲 荒い自然の一暗示 森の中の遊びぐらし コントラルトの声
 ナイヤガラを有利に見る カナダへの旅 狂人と一緒に居た日曜日
 エリヤス ヒツクスの追憶 偉大な土着人の増加 合衆国カナダ間の関税同盟
 セント ローレンス水路 荒凉たるサグネー河 エターニテー及びトリニテー岬
 シクチミとハハ入江 住民――美食 杉の実のやうな――名称 トマス カライルの死
 アメリカ的見地から見たカライル 旧友の一二――コルリツジの一小片
 一週間のボストン訪問 今日のボストン 四詩人に対する私の讃辞
 ミレーの絵画……最後の数項 島――そして一つの注意 私の備忘録の見本
 今一度私の生れ故郷の砂と嵐と 炎暑のニユーヨーク 「カスター将軍の最後の集軍」
 或る古馴染――追憶 老年の発見 R、W、エマーソンへの最後の訪問
 他のコンコルド所見 ボストン コンモン――更にエマーソン
 オシヤン的の夜――最も親しい友達 ほんの一艘の新らしい渡船 ロングフエローの死
 新聞を起す事 吾等も其一部である大不安息 エマーソンの墓にて 当今の事――私事
 或書を読みかけた後 最後の告白――文学の試験標準 自然と平民主義と――道徳性
 附録(英国版の為一八八七年に書かれたもの)

原典はアメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の日記で、雑誌『白樺』などに断続的に訳出掲載されたものの単行本化です。

その自然崇拝的態度などに、光太郎は共感を寄せていたようです。ただ、ホイットマン、南北戦争時には北軍を鼓舞する詩篇を書いてもいます(負傷兵の看護に当たるなどの慈善活動も行いましたが)。のちの15年戦争時に光太郎が大量の翼賛詩文を書き殴った一つの源流が、ここにも見えるような気がします。

暮れから年始にかけ、新聞各紙や地方自治体の広報誌などで光太郎智恵子、その父・光雲の名が散見されていまして、明日から少しずつご紹介して参ります。

その前に、ちょっと先の開催ですが申し込み〆切が迫っているイベントを。

近代文学講座 作家たちの異文化体験

期 日 : 2026年1月16日(金)、1月23日(金)、1月30日(金)
会 場 : 久里浜コミュニティセンター 神奈川県横須賀市久里浜6丁目14番2号
時 間 : 13時00分~15時00分
料 金 : 無料

文学好きの皆さん、近代日本文学の巨匠たちが海外で体験した異文化との出会いに興味はありませんか?

横須賀市の久里浜コミュニティセンターでは、2026年1月16日・23日・30日の3回にわたり「近代文学講座 作家たちの異文化体験」を開催します。夏目漱石や高村光太郎、横光利一、島崎藤村といった文豪たちが異国の地で何を見つめ、どんな思いを抱いたのかを深く学べる貴重な機会です。

第1回 1月16日(金曜日)13時00分~15時00分 漱石、光太郎のロンドン
第2回 1月23日(金曜日)13時00分~15時00分 横光利一、金子光晴のパリ
第3回 1月30日(金曜日)13時00分~15時00分 島崎藤村、林芙美子のパリ

講師 奥出健氏(元大学教員)

申込方法 以下のいずれかの方法でお申し込みください:
 往復はがき 1月6日(火曜日)必着
 久里浜コミュニティセンター窓口にご来館(返信用郵便はがき持参)
 電子申請
010
3回にわたっての文学講座で、取り上げられるのは夏目漱石、高村光太郎、横光利一、金子光晴、島崎藤村、林芙美子。その市ゆかりの芸術家について詳しくというのは時折見かけますが、市としての講座でいろいろな人物を幅広く扱うこの手のものは珍しいような気がします。

光太郎についてはロンドンだそうですが、光太郎のロンドン滞在は明治40年(1907)6月から翌年6月までのまる一年でした。ロンドンの前にはニューヨークに1年4ヶ月ほど、ロンドンの後はパリに渡って1年。その間にスイス経由のイタリア旅行も1ヶ月ほど行っています。

まず腰を落ちつけたニューヨークでは日本で培われた価値観を根底から覆され、人種差別の洗礼も受けました。最後のパリでは近代芸術家として、さらに一人の人間としての開眼。間に挟まれたロンドン滞在中には、大きな転機というものが無かったように感じられますが、そのあたりどう扱われるのだろうと思っております。

イギリスにはニューヨークからホワイトスター社の客船・オーシャニック号で渡り、サザンプトンで上陸、ロンドンに向かいました。ニューヨークでも世話になった東京美術学校の先輩・白瀧幾之助が先に渡英しており、当初はその下宿に厄介になるなどまたその力を借ります。その後、パトニー地区の下宿に落ちつき、ザ・ロンドン・スクール・オブ・アートや一般人向けの技芸学校ポリテクニックに通います。その間、バーナード・リーチと知り合ったり、先にパリに渡っていた荻原守衛が訪ねて一緒に大英博物館に行ったり、逆にパリの守衛の元を訪れたりもしました。やがてチェルシー地区に転居、フランス語の勉強を急ぎ、満を持して渡仏します。留学の最終目的地はあくまでパリでした。

光太郎晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)から。

私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。

イギリスの雰囲気や国民性には好感を持っていたようですが、ただ、美術の部分ではあまり学ぶところはないと感じていたようです。やはり晩年の回想「青春の日」(昭和26年=1951)から。

イギリスの彫刻には、中世期のものを除いてはあまり興味はなかつたし、絵もどうしても好きにはなれなかつた。バーン ジヨーンズなども嫌いではないが、心から惹きつけられない。ブレークなどは、ひかれるところと嫌いなところが半分半分ぐらいずつある。リーチは現代画家の中で、オーガスタス ジヨーンを賞めたが、僕にはそれほどに思えない。イギリスという国の伝統の中に、どこか芸術を私有物的、一地方的にリミツトしたがる傾向があつて、それが絶えず新しい芸術の気運を阻んでいるのではないかという気がした。

なかなか鋭い見方ですね。

ついつい筆が止まらなくなりましたが(笑)、そんなこんなのロンドン体験、今回の講師の奥出健氏という方がどのように語っていただけるのかな、という感じです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)4 『続ロダンの言葉』

大正9年(1920)5月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_082139729
PXL_20260102_082252794
PXL_20260102_082327290PXL_20260102_082350910
目次
 アウギユスト ロダン(オクターヴ ミルボー)
 若き芸術家達に(遺稿)
 ロダン手記
  花について
  女の肖像
  芸術家の一日
   庭園の朝 古代彫刻の断片 庭園の夕 
  ゴチツクの線と構造
   ゴチツク建築家は写真家である 面と相反と 釣合の知識 石のレース細工 外陣
   くりかた
  芸術と自然
   古代芸術―ギリシヤ 古代芸術の豊かさは肉づけにある 高肉とキヤロスキユロ
    ローマ及ローマ芸術 アメリカの為に
  ゴチツクの天才
   ノートルダム サン トウスターシユ 彫刻に於ける色調について 十八世紀 断片
    五部のスレスコ 手紙
  ギユスターヴ コキヨ筆録
  ジユヂト クラデル筆録
  フレデリク ロートン外二三氏筆録
  ポール グゼル筆録
   「岡の上にて」より 「ロダンの家にて」より フイデヤスとミケランジユ 女の美
  「本寺」より(手記)
   断片 ムラン マント ネエル アミヤン ル マン ソワツソン シヤルトル

前作『ロダンの言葉』の補遺的に刊行されました。大正6年(1917)に亡くなったロダンの追悼的な意識もあったでしょう。

上野のトーハクさんで元日から始まっている企画展示です。

博物館に初もうで

期 日 : 2026年1月1日(木)~1月25日(日)
会 場 : 東京国立博物館 台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分 毎週金・土曜日および1月11日(日)は20時00分まで
休 館 : 月曜日 1月12日(月・祝)は開館
料 金 : 東博コレクション展観覧料でご覧いただけます。一般1,000円、 大学生500円

新年恒例の「博物館に初もうで」は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開催します
 東京国立博物館(館長:藤原誠)は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開館し、恒例の正月企画「博物館に初もうで」を開催します。
 干支をテーマにした特集展示や、長谷川等伯筆 国宝「松林図屛風」(1月1日(木・祝)~1月12日(月・祝) 本館2室にて展示)をはじめ、本館、東洋館の各展示室で、新年の訪れを祝して吉祥作品や名品の数々をご覧いただけます。
 また、当館アンバサダーであり、世界的に活躍する日本画家・千住 博氏より、新作《ウォーターフォール》をご寄贈いただくことになり、1月1日〜1月12日まで本館大階段上にて特別に展示します。1月1・2・3日には本館前ステージでは和太鼓、獅子舞、吟剣詩舞など、新春限定の企画も開催します。
 新たな年のスタートは、ぜひ当館でお迎えください。

常設展示を新春らしくおめでたいものや干支にちなんだ作品で揃え、「博物館に初もうで」としゃれこみましょう、というコンセプトで毎年行われている企画です。
012
サムネイル的に使われているのが、後藤貞行作の木彫「馬」(明治26年=1893)です。

光太郎の父・光雲の4歳年下だった後藤は変わった経歴を持つ彫刻家です。旧幕府の騎兵所や、維新後は陸軍省の軍馬局などに勤務した後、馬の彫刻を作りたい一心で光雲の門を叩いて木彫を学び、さらに東京美術学校に奉職、皇居前広場の楠木正成像の馬や、上野の西郷隆盛像の犬などを任されました。

というだけならこのブログでこの展示をわざわざ紹介しませんが、旧臘に発行された『東京国立博物館ニュース』の第783号(2025-2026年12・1・2月号)でこの「馬」が紹介され、「師の高村が1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作した老猿(ろうえん 重要文化財、当館蔵)と同じ木から、本作を彫り出したと述べています」との記述。実物を何度か拝見していましたが、これは存じませんでした。
011
光雲が「老猿」に使った木材は、栃木県鹿沼市の山林に自生していた栃の巨木でした。昨年は鹿沼でそのあたりに関するイベント等も行われています。そのあたり『東京国立博物館ニュース』では「高村は老猿の材木を求めて栃木県鹿沼市で直径2メートルほどの巨大なトチの木を購入し、東京都台東区の自宅まで運びました。後藤がこのトチの木の調達に尽力したこともあって、材木の一部を譲りうけたのでしょう」と記されています。

いわば「老猿」とこの「馬」、兄弟だったのですね。
013
そう思って観ると、また見え方が違ってくるような気がします。

他に群馬県大泉町出土の馬型埴輪や、長谷川等伯筆の「松林図屛風」なども出ているとのこと。それから関連行事として1月10日(土)には本物の馬がトーハクさんにやってきての「在来馬とのふれあい」イベントなども企画されています。
014
ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)3 『ロダンの言葉』(近代思潮叢書 第五編)

大正5年(1916)11月27日 阿蘭陀書房 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
PXL_20260102_081754500PXL_20260102_081818258
PXL_20260102_082012497PXL_20260102_082054174.MP
目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

光太郎初の訳書です。元々、フランスにも『ロダンの言葉』という書物は存在せず、さまざまなところで発表されたロダンの談話を光太郎が集めて一冊にまとめました。

装幀は光太郎自身。函題字は光太郎が得意とした白黒反転の「籠書き」文字で書かれています。

当方手持ちのものは大正7年(1918)10月20日改訂増補五版です。

毎年のルーティンで、昨日の元日は九十九里浜に初日の出を拝みに行っておりました。

九十九里浜と行っても南北にやたら長く、昭和9年(1934)に智恵子が半年余り療養していた旧片貝村(現・九十九里町)はその中央あたり、ここ数年行っているのは自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市で、浜の北端近くです。

大晦日に見た天気予報では、日の出を観るにはあまり良い条件ではなさそうでしたし、自宅兼事務所を出た5時半頃の段階ではやはり雲が多めでした。それでも雲の切れ間から木星などが見え、一縷の望みを抱きつつ愛車を駆って浜を目指しました。

着いた時はこんな感じ。
PXL_20251231_214131996
ここ数年で、最も条件の良くない感じでした。

ちなみに去年(左下)と一昨年(右下)は同じ場所でこんな感じでした。
c2b0dd5f-s 34439cdd-s
ここまでは行かなくとも、雲の隙間から少しでも陽光が差すのを期待して待ちました。これもルーティンですが、待つ間に流木を集めて焚き火。
PXL_20251231_214242155.MP
午前6時45分、日の出の時刻を過ぎました。
PXL_20251231_215126369 PXL_20251231_215502541
やはりだめでした。7時過ぎまでねばりましたが、「あのあたりにお日様があるんだろう」とわかる程度。
PXL_20251231_220027681
しっかり見えなかったのは令和2年(2020)以来でしたが、ま、こういう年もあるさと思いつつ、帰りました。

自宅兼事務所に着いて、庭から撮った画像。
PXL_20251231_225828243
正午前、妻と二人で自宅兼事務所から徒歩15分程の諏訪神社さんへ初詣。

一帯は公園となっており、一角には大熊氏廣原型作の伊能忠敬像が鎮座ましましています。大正8年(1919)の作です。忠敬は九十九里の生まれですが、香取の商家に婿養子に入り、隠居後に実測による日本地図の製作に当たりました。地元の偉人です。
PXL_20260101_223309721 PXL_20260101_223302632
諏訪神社さん、正面から行くと約130段の石段。しかもけっこうきつい勾配です。
PXL_20260101_025742041.MP PXL_20260101_030000473
PXL_20260101_025925555
例年、初日の出の太陽にお願いしている今年一年の平穏無事、光太郎智恵子界隈の盛況をこちらでお願いして参りました。

余談ですが本殿右の椎の巨木は、平成21年(2009)にTBSさん系で放映された大沢たかおさん主演のドラマ「JIN-仁-」で、内野聖陽さん扮する坂本龍馬が腰かけた木です。物語では長崎の設定でしたが。
PXL_20260101_025942310
今年1年、皆様方にも幸多からんことを祈念いたしております。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)2 『印象主義の思想と芸術』(近代思潮叢書 第五編)

大正4年(1915)7月26日 天弦堂書房 高村光太郎著

PXL_20260101_214818367
PXL_20260101_214901345PXL_20260101_214932996
目次
 一 概観(印象主義の名称。アングル。ドラクロワ。クールベ。印象派画家の態度、主張。)
 二 エドワール マネ(附 モリゾ。エヷゴンザレ。カサツト。)
 三 クロード モネ(附 新印象派画家)
 四 アルフレ シスレー
 五 カミーユ ピサロ
 六 オーギユスト ルノワール
 七 エドガー ドガ(附 フオラン。ラフハエリ。ロートレク。)
 八 ポール セザンヌ(附 後期印象派)
 九 附言
 年表

光太郎初の美術評論集。書き下ろしです。昨日の『道程』同様、本来はカバー付きでしたが手持ちのものはカバー欠です。

令和8年(2026)となりました。あけましておめでとうございます。
000
これまで毎年、300通ほど送っていました年賀葉書ですが、今年は大幅に削減させていただきまして、最低限の枚数といたしました。こちらからは送っておらず、しかしいただいた方には返信いたします。

やはり郵便料金の大幅値上げが大きく、こちらから送って返答していただくにも心苦しいという判断です。苦渋の決断ですが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

さて、ここ数年、元日はこのネタで攻めておりますが、光太郎智恵子、光雲のからみで、区切りのいい周年がどうなっているかのご紹介。年齢は数え年です。

140年前 明治19年(1886) 光太郎4歳 
智恵子、そして 光太郎のすぐ下の弟妹・道利としづ(静子)の双子が誕生しました。

130年前 明治29年(1896) 光太郎14歳 
下谷高等小学校を卒業し、東京美術学校の予備校的な共立美術館に入学しました。
光雲が、上記画像にあります皇居前広場の「楠木正成像」木型制作の慰労金として東京美術学校から慰労金100円を受け取りました。

120年前 明治39年(1906) 光太郎24歳
東京美術学校西洋画科を中退し、3年半にわたる欧米留学に出ました。
最初に滞在したニューヨークで、親友となる碌山荻原守衛の知遇を得ました。

110年前 大正5年(1916) 光太郎34歳
阿蘭陀書房から訳書『ロダンの言葉』を刊行しました。

100年前 大正15年/昭和元年(1926) 光太郎44歳
片山敏彦、尾崎喜八、高田博厚らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。
宮沢賢治と生涯最初で最後の出会いを果たしました。
光雲が東京美術学校を退職、同校初の名誉教授の称号を与えられました。

90年前 昭和11年(1936) 光太郎54歳
宮沢賢治詩碑第1号として花巻町に「雨ニモマケズ」後半を刻んだ碑が建立されました。碑の文字は光太郎の揮毫でした。

80年前 昭和21年(1946) 光太郎64歳
賢治実弟・宮沢清六と共に日本読書組合版『宮沢賢治文庫』編集をはじめました。
自らの半生と戦争責任を振り返る連作詩「暗愚小伝」を執筆し始めました。

70年前 昭和31年(1956) 光太郎74歳
4月2日、中野の中西利雄アトリエで、その生涯を閉じました。

というわけで、今年は光太郎没後70周年、智恵子生誕140周年です。いまのところあまり聞こえてこないのですが、それらを冠したイベント等が多く行われることを期待いたしております。

本年もこのブログをどうぞよろしくお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)1 詩集『道程』

大正3年(1914)10月25日 抒情詩社 高村光太郎著

PXL_20251230_224244846[1]PXL_20251230_224304417[1]
PXL_20251230_224546750[1]PXL_20251230_224639979[1]
目次
一九一〇年 失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
一九一一年 画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥
 声 風 新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏
 なまけもの 手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの
 あつき日 父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
一九一二年 青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾 
 或る夜のこころ
 おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る
 カフエにて 或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日
 戦闘
一九一三年 人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た
 冬の詩 牛 僕等
一九一四年 道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
 五月の土壌 淫心 秋の祈

光太郎第一詩集にして、記念すべき最初の単独著書でもあります。元々はカバー付きで出版されましたが、手持ちのものはカバー欠です。

200部ほどが刷られ、さらにごく少部数の特装本も作られました。また、「新詩社版」という小型本も存在したようです。時代を突き抜けたこの詩集、後に口語自由詩の確立に大きく貢献したと評されますが、リアルタイムでの売れ行きはさっぱりで、初版残本を改装した「再版」が数回出されています。おそらく手持ちのものを含め、現在残っている初版の多くは、光太郎が友人知己に贈ったものが古書市場に出たと推定されます。

下って昭和に入り、「改訂版」「再訂版」等が出されますが、収録詩篇はかなり異なります。戦後には「復元版」「文庫版」が出て、漸く内容的には同じものが出されました。それらもあとでご紹介いたします。

四畳半の書庫が三方こんな状態でして、蔵書数がいったいどのくらいあるのか把握出来ていません。
009008
おおむね種別毎にリストアップしましたが、その文書ファイルも複数、総冊数はカウントしていません。

記録のためにもこのブログで、基本、1日1冊ずつご紹介して参ります(旅先からの投稿の場合はお休みします)。10年計画です(笑)。或いは10年では終わらないかも知れません。ま、その前に当方が死んだら「歩み尽きたらその日が終りだ」(光太郎詩「山林」昭和22年=1947)です(笑)。

早いもので、大晦日となってしまいました。今年1年を振り返る最終日です。

10月2日(木)~11月16日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで智恵子忌日「レモンの日」にちなむ「高村智恵子 レモン祭」が催され、生家二階部分の特別公開、生家ライトアップなど様々なコンテンツが用意されました。
65770fd6-s 70ba0871-s
10月4日(土)~12月7日(日)
広島県福山市のふくやま美術館さんで「東京藝術大学大学美術館名品展 美の殿堂への招待」が開催され、光太郎ブロンズ「獅子吼」、光太郎の父・光雲らの合作「綵観」、光太郎実弟・豊周の鋳金作品が展示されました。

10月5日(日)
岩手県花巻市の田舎laboさんで「第2回 レモンの日イベント」が行われ、近隣の菓子店等8店がレモンを使った洋菓子などの販売を行いました。
3eae206b-s 8a57b3e1
同日、当会から会報的な冊子『光太郎資料』第64集を刊行いたしました。

10月6日(月)
地上波NHK Eテレさんで「グレーテルのかまど 高村光太郎のレモンコーヒー」の初回放映がありました。出演は瀬戸康史さん、キムラ緑子さん、そして当方でした。再放送が10月15日(水)でした。
無題 無題1
10月9日(木)
学研さんから岡部文都子氏企画編集『マンガで読む 偉人たちの恋文物語 日本編』が刊行されました。「高村光太郎 → 長沼智恵子 私があなたであなたが私だった夢を……」という項を含みます。

10月10日(金)
思文閣出版部さんから松本和也氏著『印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史』が刊行されました。全ての章で光太郎に言及されています。
無題7 951d10a5-s
10月11日(土)~11月24日(月)
さいたま市の埼玉県立歴史と民俗の博物館さんで特別展「大名と菩提所」が開催され、光雲木彫「松平伊豆守信綱坐像」が展示されました。

10月11日(土)~2026年1月4日(日)
札幌市の本郷新記念札幌彫刻美術館さんで「札幌芸術の森開園40周年記念 彫刻三昧 札幌芸術の森美術館の名品50選」展が開催され、光太郎ブロンズ「薄命児男児頭部」が出品されました。
42b0587a-s 5fb8c4d8
10月13日(月)
福島県で活動する音楽ユニット風信子さんがCD「風の旅人〜夕焼け空の色はふるさとの色〜」をリリースなさいました。「智恵子抄」オマージュの「本当の空を忘れないで  (二本松)」という楽曲を含みます。

10月18日(土)
神奈川県逗子市の逗子文化プラザホールさんで「逗子アートフェスティバル」の一環としてのコンサート「余白露光2~テルミンと箏~」が開催されました。出演はテルミン奏者の大西ようこさん、箏曲奏者の元井美智子さんで、元井さん作曲の「智恵子抄」がプログラムに入れられました。
ab42a7dc-s 45298539-s
10月19日(日)
愛知県豊橋市の穂の国とよはし芸術劇場PLATさんで「第4回 前川健生テノールコンサート~あいのうた~」公演があり、別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」が演奏されました。

同日、地上波日本テレビさんで「遠くへ行きたい ますだおかだ増田が福島へ 名湯に絶品ソースかつ丼!」の放映があり、「智恵子抄」に触れつつ安達太良山が取り上げられました。
無題2 dd7dd6f0-s
10月25日(土)~2026年1月18日(日)
群馬県高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで「第127回企画展 愛の手紙-友人・師弟篇-」が開催され、光太郎から水野葉舟宛の書簡2通が展示されました。

11月1日(土)~2026年2月15日(日)
大阪市の国立国際美術館さんで「特別展 プラカードのために」が開催され、谷澤紗和子氏による智恵子紙絵等オマージュ作品「はいけいちえこさま」シリーズの全点が展示されました。
4c6349c4-s d106205c
11月2日(日)
岡山市の岡山芸術創造劇場さんで「劇作家フェスティバル2025 げきじゃ!」の一環として平田オリザ氏脚本の演劇「日本文学盛衰史」公演がありました。光太郎も登場人物の一人でした。

11月3日(月)
与謝野晶子研究の第一人者・逸見久美氏が亡くなりました。父君の翁久允は光太郎と交流があり、御自身の御著書でも光太郎に触れて下さっていました。
2ba22237
11月8日(土)
台東区の秋葉原ハンドレッド2さんで「四季の朗読会〜秋の部〜」が開催され、光太郎エッセイ「山の秋」が取り上げられました。
fddc6649-s 755cf6e1-s
11月13日(木)~30日(日)
茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで「取手収蔵棟竣工記念・取手館開館30周年記念 藝大取手コレクション展 2025」が開催され、光太郎彫刻「獅子吼」の石膏原型が展示されました。

11月14日(金)
光太郎に触れられた御著書が複数おありだった作家の嵐山光三郎氏が亡くなりました。
6c659ed0 f54d32d9-s
11月15日(土)・16日(日)
埼玉県熊谷市の中央公民館大ホールで「劇団ダウト第15回公演 れもん」が開催されました。平田俊子氏脚本で、光太郎智恵子だけの二人芝居でした。

11月15日(土)~12月21日(日)
石川県金沢市の石川県立美術館さん他で「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」が開催され、光雲作の木彫「老猿」が展示されました。関連行事として講座「高村光雲の古仏復元事業」、「《老猿》の彫刻家が見た明治の美術界-高村光雲『幕末維新懐古談』を読む」が開催されました。
e63f4354-s f4216827-s
11月18日(火)
平凡社さんからアンソロジー『作家とお風呂』が刊行されました。光太郎詩「湯ぶねに一ぱい」が収められました。

11月20日(木)~11月24日(月)
福岡県久留米市の久留米市美術館さんで写真展「Fixtyle Portrait Fukoka 8th」が開催され、Yasuyuki Ibaraki氏が、「智恵子抄」オマージュの作品を出展なさいました。
0d7610a0 ed31c939-s
11月21日(金)
三重県津市のブックハウスひびうたさんで、「日本の詩を読もうぜ 第8回 高村光太郎」が開催されました。「読書会」と言われるイベントでした。

11月21日(金)~11月23日(日)
新宿区の演劇倶楽部『座』サロンさんで、「壤晴彦・演技/朗読短期ワークショップ 11月『「ニュアンス』ってどうやって付けるの?」が開催され、「智恵子抄」が教材として取り上げられました。
無題3 c9b24bd0-s
11月22日(土)
佐賀市文化会館で開催された「第78回全日本合唱コンクール全国大会の大学職場一般部門」で、早稲田大学コール・フリューゲルさんが、自由曲に新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏され、金賞及び日本放送協会賞を受賞されました。

11月23日(日)
仙台市の八木山市民センターさんで「読書会アパート3号室 11月読書会『智恵子抄』」が開催されました。
bbc1b0b2-s 3767b1a0-s
同日、文京区のアカデミー向丘さんで「第68回高村光太郎研究会」が開催され、「智恵子へ寄せる想い」 吹木文音(中島宏美)氏(日本詩人クラブ・栃木県現代詩人会理事)、「雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」 前田恭二氏(武蔵野美術大学教授)の2本の発表がありました。

さらに同日、石川県白山市の美川コミュニティセンターさんで「語りとチェロでつたえる~智恵子抄~」公演があり、朗読家・本田和氏による「智恵子抄」朗読が為されました。
2722eb40-s ebe5a607-s
やはり同日、TBSラジオさんで「朗読のヒロバ 第59回 高村光太郎「智恵子抄」」がオンエアされました。

11月24日(月)
栃木県鹿沼市で「《老猿》のふるさと探訪」が行われ、光雲作木彫「老猿」の材となったトチノキの子孫の見学会が催されました。11月29日(土)には児島大輔氏(東京国立博物館保存修復室長)による記念講演会も開催されました。
c3233afa 4a2d9184-s

11月28日(金)~12月23日(火)
京都府長岡京市のArt Space癒心庵さんで「日本の工芸展」が開催され、光雲木彫「鯉」が展示されました。

11月29日(土)
鹿児島市のカクイックス交流センターさんで劇団風見鶏さんによる「朗読のつどい」が開催され、光太郎詩朗読が為されました。

11月29日(土)・30日(日)
静岡市のギャラリー青い麦さんで劇団静火第17回公演『売り言葉』が開催され、野田秀樹氏脚本の登場人物は智恵子だけの演劇「売り言葉」が上演されました。
256e98a6-s 9b59cb38
同じ日程で青森市の渡辺源四郎商店しんまち本店さんにおいて「北のまほろば祭り3」の一環として演劇「智恵子と智恵子」公演がありました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にまつわる内容でした。

11月30日(日)
港区の赤坂区民センターさんで東京青森県人会さん主催の「 十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」が開催され、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関わる発表などが為されました。
9f5ceb0b-s G7Dd1a8bAAAOnak
12月5日(金)
平凡社さんからアンソロジー『パリと日本人 近代文学セレクション』が刊行されました。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が収められました。

12月7日(日)

地方紙『岩手日日』さんに東京国立近代美術館さんの主任研究員・成相肇氏による「高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻」という記事が掲載されました。
5e815cac 882462d0
12月10日(水)
文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』第21号が発行されました。当方の「連翹忌通信」が連載されています。

12月10日(水)~2026年1月12日(月)、12月18日(木)~2026年2月11日(水)
二本松市大山忠作美術館さんの改修工事に伴い、同館所蔵品の「移動美術館」がにほんまつ城報館さん、智恵子記念館さんで開催され、智恵子を描いた絵画等が展示されています。
無題5 b441940b-s
12月12日(金)
東京都小金井市の小金井宮地楽器ホールさんで早稲田大学コール・フリューゲルさんの第70回定期演奏会が開催され、新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」が演奏されました。

12月13日(土)~2026年3月31日(火)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」が開催されています。
37831f70-s 56668d60
12月16日(火)
世界文化社さんから雑誌『Begin』2026年2月号が発売されました。ミュージアムグッズ愛好家・大澤夏美氏による「博ブツ観」という連載の第32回で「岩手県花巻市で発見 高村光太郎記念館 本革しおり Bookmark」という記事が掲載されました。

12月19日(金)

墨田区のすみだトリフォニーホールさんで「男声合唱団東京リーダーターフェル1925 創立100周年記念定期演奏会2025」が開催され、清水脩氏作曲の「或る夜のこころ」「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されました。
e27c5887-s 502007d1-s
12月20日(土)
千代田区のワイム貸会議室 お茶の水さん及びZOOM使用のオンラインで「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」が開催されました。発表は森下明穂氏(与謝野晶子記念館・学芸員)の「與謝野晶子 美しい本の世界へ」、当方が「美術実作者としての高村光太郎」、そして明星研究会主宰にして歌人の松平盟子氏による「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」でした。

12月20日(土)~2026年2月8日(日)
石川県七尾市の七尾美術館さんで「冬季所蔵品展 私たち七尾美術館PR隊!」が開催され、光雲木彫「聖観音像」が展示されています。
7d741245-s 290bb4c0-s
12月21日(日)
大阪市のあいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールさんで木管四重奏団「クレモナ」さんの「モダンタンゴ・ラボラトリ第19回定期公演「ほんとうの空」」が開催され、光太郎詩「あどけない話」由来のオリジナル曲「ほんとうの空」が初演されました。

12月30日(火)
人文書院さんから小関素明氏著「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史』が刊行されました。「第二章 表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究」中に「自我と美感の転相――高村光太郎」という項を含みます。年明けに詳しくご紹介いたします。
無題6
毎月のことで、その都度のご紹介はしませんでしたが、花巻市の道の駅はなまき西南(愛称・光太郎と賢治の郷)さん内のテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に豪華弁当「光太郎ランチ」が販売され、同市のワンデイシェフの大食堂さんでは「こうたろうカフェ」としてのランチの販売が行われました。いずれも主に食を通じて光太郎顕彰に当たられている「やつかの森LLC」さんのメニュー考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。
23f6407c 580df3f9-s
というわけで、今年1年もさまざまな団体、個人の方々が、それぞれの分野で光太郎智恵子、光太郎の父・光雲や実弟・豊周を取り上げて下さいました。ありがとうございます。来年以降もよろしくお願いいたしますとともに、関係の皆様、そしてこのブログをお読み下さった方々にとって、よい新年となりますよう、衷心より祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。


津田青楓『漱石と十弟子』より 明治44年(1911)頃 智恵子26歳頃

戦後になって書かれた津田の回想に書かれた智恵子の言葉です。したがって、智恵子が語ったそのとおりではないのかもしれませんが。

明治末のまだまだ閉塞感の充溢していた時代に、こういうことを言えた智恵子、素晴らしいと思います。おそらく光太郎も似たような考えだったでしょうし、その二人が出会い、結ばれたのはもはや必然だったような気がします。

平成29年(2017)から、【折々のことば・光太郎】、【折々のことば・智恵子】として二人の「ことば」からこれは、と思う一節を取り上げてきましたが、本日で終了します。明日からはまた10年計画で他のコーナーを立ち上げます。

今年1年を振り返る7~9月編です。

7月4日(金)・5日(土)
千代田区の東京古書会館さんで「令和7年 第60回 七夕古書大入札会 一般下見展観」が催され、光太郎歌幅、斎藤茂吉宛書簡などが出品されました。
157528 7e813be4-s
7月5日(土)~8月24日(日)
岩手県花巻市立博物館さんで令和7年度テーマ展「戦後80年 戦争と花巻」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

7月5日(土)~8月31日(日)
福島県郡山市立美術館さんで「皇室を彩る美の世界―福島ゆかりの品々―」が開催され、光雲木彫「猿置物 三番叟」が展示されました。
8744cb0b-s 028a3dd4-s
7月6日(日)
東京都中野区産業振興センターさんにおいて「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が開催され、女優の一色采子さんらが朗読をして下さいました。同アトリエの保存運動の一環でした。

同日、広島県廿日市のはつかいち文化ホールさんで広島中央合唱団第58回定期演奏会が開催され、鈴木憲夫 氏作曲の 混声合唱曲「レモン哀歌」が演奏されました。
5c46b6c9-s 0c80ca65-s
さらに同日、福島県安達郡大玉村のあだたらふるさとホールで光太郎詩「あどけない話」にちなむ「「ほんとうの空」の村 黒坂黒太郎 コカリナ コンサート」が開催され、黒坂氏作曲の「本当の空の村」が演奏されました。

7月8日(火)~9月23日(火)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界」が開催され、光太郎木彫「鯰」が出品されました。
af972d78-s 7989c028-s
7月11日(金)~10月2日(木)
新宿区の東京オペラシティアートギャラリーさんで「難波田龍起」展が開催され、光太郎の写ったスナップ写真なども展示されました。

7月12日(土)~11月30日(日)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業「昔なつかし花巻駅」」が開催され、昭和初年の花巻駅周辺を模したジオラマ(土屋直久氏、石井彰英氏制作)などが展示されました。
7bd11293 54932675-s
7月15日(火)~8月21日(木)
同じく花巻市の高村光太郎記念館さんで、4月の二本松市智恵子記念館に続き、花巻南高校家庭クラブさんによる「智恵子のエプロン復刻展示」が行われました。

7月15日(火)~10月26日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで主に戦争画を集めた「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催され、光太郎著書、寄稿掲載誌等も展示されました。
無題0 eb12142a-s
7月19日(土)
千葉県野田市の琥珀茶寮あずきさんで「森優子朗読ライブ Teatime Concert in 琥珀茶寮あずき」が開催され、「智恵子抄」詩篇が朗読されました。

7月19日(土)・20日(日)
埼玉県加須市の東武伊勢崎線加須駅北口周辺で「かぞ どんとこい! 祭り」が開催され、光雲作の「蘭陵王面」の展示が行われました。
02679a8d-s a222c867
7月19日(土)~9月15日(月)
京都市の京都国立近代美術館さんで「きもののヒミツ 友禅のうまれるところ」が開催され、光雲や石川光明、旭玉山らの合作「福禄封侯図飾棚」が出品されました。

7月22日(火)~7月25日(金)
箏曲奏者・元井美智子さんとヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんによる「智恵子抄」朗読を含むコラボ公演、ワークショップが仙台市と花巻市で4件開催されました。7月22日(火)が仙台市のAntique & Cafe TiTiさん、7月23日(水)で花巻市の高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さんで2公演、7月25日(金)には再び仙台のとなりのえんがわさんでした。
724d3ed6-s 6676469e-s
8cb693ad-s b6651178
7月25日(金)
生活の友社さんから『月刊アートコレクターズ 』No.197 8月号が発行されました。古田亮氏による「バック・トゥ・ザ日本美術 高村光雲「西郷隆盛像」+後藤貞行「ツン」」という記事を含みます。

7月27日(日)
大阪市の住友生命いずみホールさんで「大阪コレギウム・ムジクム創立50周年記念 第131回大阪定期公演《現代(いま)の音楽 ~Music of Our Time~》」が開催され、新実徳英氏作曲 「愛のうた ―光太郎・智恵子― 男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」が演奏されました。
baa66556-s da35a608
8月1日(金)
土曜美術出版さんから『詩と思想』8月号が発行されました。中島悦子氏「高村光太郎の戦後/谷川俊太郎の戦後」という稿を含みます。

8月3日(日)
福島市のキョウワグループ・テルサホールさんで「欅の会・日本歌曲コンサート-清水脩の世界-」が開催され清水脩氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から抜粋で演奏が為されました。
f9c612c0-s 75e17be7-s
8月6日(水)
台東区の東京文化会館さんで「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」が開催され、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われました。

8月8日(金)
宇都宮市のcafé Mario~休みの国~さんで朗読公演「秋元紀子ひとり語りin宇都宮」が開催され、「智恵子抄」詩篇から抜粋で取り上げられました。
2acfeb9c-s 無題5
8月9日(土)
宮城県牡鹿郡女川町の高村光太郎文学碑、まちなか交流館さんで「第34回女川光太郎祭」が開催されました。

同日、東京都中央区の日本橋社会教育会館さんで講談師一龍斎貞奈さんの「入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」が開催され、新作「高村智恵子の恋」が披露されました。同作は8月16日(土)・17日(日)に千代田区のスカイルーム太陽さんで開催された「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜講談前線異常なし〜」、12月24日(水)の「講談協会十二月定席」でも高座にかけられました。
de936532-s 2979226a
8月11日(月)
千葉県旭市ご在住で、光太郎詩「犬吠の太郎」をモチーフにした作品を制作されていた版画家の土屋金司氏が亡くなりました。

8月23日(土)~9月15日(月)
新潟県上越市の春日山城跡ものがたり館さんで「第100回謙信公祭」に合わせての企画として光雲作の木像毘沙門天像の一般公開が6年ぶりに行われました。
無題 127f5bb2-s
8月27日(水)
岩手県立花巻南高等学校文芸部さんの部誌『門』第19号が発行されました。光太郎智恵子に関し、複数の記事で触れて下さいました。

8月28日(木)
第1回ふくしま超短編脚本賞」審査結果が同賞実行委員会から発表され、最優秀賞に「智恵子抄」オマージュの「安達太良SA上り」(真田鰯さん)が選ばれました。
無題1 無題2
8月29日(金)
NHKさん東北支局で「鈴木京香の東北オトナ旅 青森県十和田市編」30分パイロット版の放映がありました。10月17日(金)には45分完全版、11月29日(土)にはEテレさんの全国放映が為されました。

8月30日(土)・31日(日)
宇都宮市のアトリエほんまるさんで「劇団 言葉借り旗揚げ公演「智恵子抄」より」が上演されました。
5b1e9b42-s 2770a29f-s
9月11日(木)~15日(月)

墨田区の両国・エアースタジオさんで演劇「チエコ」公演が行われました。

9月15日(月)
鹿児島県薩摩川内市の川内まごころ文学館さんで「あなたに届ける朗読会vol.8」が開催され、光太郎詩が取り上げられました。
e6db2b3c-s 9ae02e49-s
9月20日(土)~10月13日(月)
千葉県成田市の文化芸術センター なごみの米屋スカイタウンギャラリーさんで「第49回千葉県移動美術館 成田と千葉県立美術館にまつわる5つの物語」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。

9月25日(木)
鉄人社さんから上明戸聡氏著『改訂版 日本ボロ宿紀行』が刊行されました。光太郎に触れつつ岩手県花巻市の大沢温泉さんが紹介されました。
無題4 無題6
9月27日(土)
光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエが残念ながら解体されることとなり、最後の内覧会が行われました。部材は保存されており、移築に向けて動いているところです。

【折々のことば・智恵子】

皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやつていつて たのしくこゝろをもつてお暮し下さい 末ながくこの世の希望をすてずに 難儀ななかにも勇気をもつてお暮しなさい。それではこれで


昭和7年(932)7月12日 長沼セン宛書簡より 智恵子47歳

実母・センに宛てて、遺書のようなこの手紙を書いた2日後の夜、睡眠薬を大量に摂取して智恵子は自殺未遂を起こします。一命はとりとめましたが、この後、智恵子は完全に夢幻界の住人となってしまいます。

今年1年の主な事項を振り返る2回目、4~6月です。

4月2日(水)
日比谷公園松本楼さんに於いて、当会主催の第69回連翹忌の集いを開催いたしました。全国から70名程の皆様がお集まり下さり、ひととき、光太郎を偲びました。
無題1 無題2
同日朝、連翹忌にちなみテレビ朝日さん系の「グッド!モーニング」内の「林修のことば検定」で光太郎が取り上げられました。

また、故・北川太一先生著、石黒敦彦氏編、山室眞二氏装丁の『高村光太郎と尾崎喜八』が蒼史社さんから、高村光太郎研究会さんより『高村光太郎研究46』、当会から『光太郎資料63』がそれぞれ刊行されました。
9f2987f8
4月3日(木)~6月29日(日)
和歌山県伊都郡高野町の高野山霊宝館さんで「重要文化財指定記念特別展 大伽藍」が開催され、光太郎の父・光雲作の「仏頭」が出品されました。
93949daa-s 無題
4月4日(金)
宮崎県東諸県郡綾町のぐるーぷ連 劇工房において、「劇団ぐるーぷ連 第134回朗読LIVE がんばれどうぶつ」が開催され、光太郎詩「道程」「牛」が取り上げられました。

4月7日(月)~6月21日(土)
新潟市の敦井美術館さんで「彫刻と金工展」が開催され、光雲作の木彫「ちゃぼ」と「狆」が出品されました。
72bd3fa8-s e97d2902-s
4月12日(土)~6月29日(日)
和歌山市の和歌山県立近代美術館さんで企画展「佐藤春夫の美術愛」が開催され、光太郎油彩画「佐藤春夫像」及び佐藤旧蔵のブロンズ「大倉喜八郎の首」が出品されました。

4月19日(土)~6月22日(日)
長野県安曇野市の碌山美術館さんで「春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿」が開催されました。
7dc9a4c7-s 603ece7b-s
4月24日(木)~5月23日(金)
東京都中野区の桃園区民活動センターで「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」が開催され、光太郎終焉の地・中西利雄アトリエに関する展示が為されました。

4月24日(木)~5月25日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、朗読で荒井真澄さん、電子楽器・テルミンの大西ようこさん箏曲の元井美智子さんによる「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」、花巻南高校家庭クラブさんによる「智恵子のエプロン復刻展示」などが行われました。
a29b9cd8-s
4月25日(金)~8月19日(火)
栃木県佐野市の東石美術館さんで「芸術家の目を通した生きものたち」展が開催され、光雲木彫「牧童」が展示されました。
11877955-s f29a71bb-s
4月26日(土)~4月29日(火)
茨城県土浦市の百景社アトリエさんで「百景社アトリエ公演2025 売り言葉」の公演がありました。野田秀樹氏脚本の智恵子を主人公とした演劇でした。

4月26日(土)~2026年2月28日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで特別展「中原綾子への手紙」が開催され、2024年に中原のご遺族から寄贈された光太郎から中原宛の書簡や関連資料等の展示が行われています。
92fc4728 無題0
4月30日(水)
生前の光太郎をご存じで、十和田湖観光交流センターぷらっとさんに光太郎胸像「冷暖自知光太郎山居」が飾られている、彫刻家の田村進氏が亡くなりました。

5月1日(木)~5月11日(日)

東京都文京区のIMM THEATERさんで、光太郎も登場人物の一人だった演劇「文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)」東京公演がありました。京都公演が京都市の京都劇場さんで5月17日(土)・5月18日(日)でした。12月10日(水)には公演の模様のBlu-rayとDVDがTCエンタテインメントさんから発売されました。
99cc79fb-s 649ab344-s
5月10日(土)
福井市のハーモニーホールふくいさんで「めいおんFukui第16回演奏会」が開催され、野村朗氏作曲の「智恵子抄(連作曲)~その愛と死と~」から演奏が為されました。

5月30日(金)
千葉県佐倉市の志津公民館さんで「朗読のつどい 高村光太郎『智恵子抄』」が開催され、地元朗読サークルこおろぎの輪さんによる朗読が為されました。

6月1日(日)
三重県志摩市の磯部生涯学習センターさんで「大人のための朗読ライヴ」が開催され、地元朗読サークル花笑みさんなどによる朗読が為されました。光太郎詩は「智恵子抄」から取り上げられました。
1adfc7c3-s fcf303e9-s
6月1日(日)~2026年1月26日(月)
期間中の土・日に神奈川県鎌倉市の鎌倉覚園寺さんで特別開帳が行われ、光雲作の秘仏「後醍醐院法躰御木像」が公開されました。

6月7日(土)
台東区の旧東京音楽学校奏楽堂さんで「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」が開催され、ソプラノ歌手・黒川京子さんによる蒔田尚昊氏作曲の「智恵子抄」より2曲が演奏されました。
e0bede88-s 6513f73a
6月10日(火)
文治堂書店さんよりPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』第20号が発行されました。当方執筆の「連翹忌通信 モナ・リザその後」が掲載されました。

6月14日(土)・15日(日)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「第60回記念十和田湖湖水まつり」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されました。
無題4 6e1da1bf-s
6月15日(日)
新宿区の早稲田奉仕園スコットホールさんで「木村俊介Concert 『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~」が開催され、壤晴彦氏の語り、木村氏とパク・スナ氏の演奏による「智恵子抄」がプログラムに入れられました。秋田公演が9月3日(水)・4日(木)でした。

同日、福島県二本松市の二本松市コンサートホールさんで「藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会」が開催され、佐藤卓史氏作曲の「あどけない話」「からくり歌(初演)」、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が演奏されました。
5f15c07a-s 無題5
6月20日(金)
田畑書店さんから東海大学教授・大木志門氏編『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』が発売されました。

6月22日(日)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーさんで「民学の会第223回例会 高村光太郎と尾崎喜八~100年を越える文化の縁」が開催され、石黒敦彦氏、山室眞二氏の講演が為されました。

同日、世田谷区のカトリック松原教会さんで「第39回カトリック松原教会チャリティーコンサート~ガリラヤの風かおる丘で~ フィリピン・ミンダナオ島で活動するシスターたちのために」が開催され、ソプラノ歌手・黒川京子さんによる蒔田尚昊氏作曲の「智恵子抄」から演奏が為されました。
471aaa9f-s 4b88018d-s
6月28日(土)
千代田区の八木書店古書部さん三階催事場において講座「活字をはみだすもの(第25回)」が開催され、東海大学教授・大木志門氏が「高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」の題でお話をなさいました。

6月(日不明)
伝統技法研究会さんから機関誌『伝統技法』第52号が発行されました。十川百合子氏の「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」が掲載されました。
 ca9ae469-s
これで今年上半期は終了。明日は7~9月分を掲載します。

【折々のことば・智恵子】

きのふは二人とも悲かんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません、われわれ死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。

昭和6年(1931)7月29日 長沼セン宛書簡より 智恵子46歳

福島の長沼酒造破産後、母・センらは上京して借家住まい、智恵子ともたびたび会っていました。

翌月には光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために1ヶ月の三陸旅行に出ます。その留守中に訪ねてきたセンが、明らかに智恵子の様子がおかしいことに気づきます。心の病の顕在化でした。

毎年この時期に書いておりますが、今年1年の関係事項を3ヶ月ずつ4回に分けて振り返ろうと思います。事項は精選し、主なものにとどめます。

書籍等の発行日は、奥付の記述に従いました。従って、実際の発売日と異なる場合があります。

1月8日(水)
翰林書房さんから佐藤義雄氏・松下浩幸氏・長沼秀明氏共著の『都市空間を歩く 日本近代文学と東京』が刊行されました。「四 高村光太郎『智恵子抄』―千駄木・日暮里」という章を含みます。
無題0 559d2ad9
同日、地上波日本テレビさんとBS日テレさんで朗読を題材としたアニメ「花は咲く、 修羅の如く」の放映が始まりました。第1話「花奈と瑞希」で光太郎詩「道程」が取り上げられました。4月30日(水)には第1話を含むBlu-rayディスク上巻がキングレコードさんから発売されました。

1月10日(金)
女性史研究家の堀場清子氏が亡くなりました。著書に智恵子にも触れた「青鞜の時代」などがありました。
83e5a3c3-s 1606f8e0
1月27日(月)
千代田区の紀尾井町ホールで朗読赤十字奉仕団さん主催の「チャリティー朗読会 和・輪・話」が開催され、佐藤春夫 作『小説智恵子抄』の一節が取り上げられました。

1月29日(水)
TCエンタテインメントさんから、昨年公演が行われた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」のBlu-rayとDVDが発売されました。光太郎も登場人物の一人でした。
無題5 無題
1月31日(金)~2月24日(月)
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で「十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより」が開催され、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップが為されました。

1月31日(金)~3月4日(火)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎と尾崎喜八」展が開催されました。
835e79cd 55af6630
2月1日(土)
芸術新聞社さんから書道雑誌『墨』2025年1・2月号が発行されました。「昭和を生きた書人、書と言葉 選」という記事で色紙「うつくしきもの満つ」、さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節が紹介されました。

2月1日(土)~3月29日(土)
品川区のMAKI Gallery天王洲さんで、現代アート作家・清川あさみ氏の個展「Mythic Threads:神話の糸」が開催され、「智恵子抄」オマージュの刺繍作品「女である故に」が展示されました。
無題4 81428035
2月8日(土)・2月9日(日)
大阪府吹田市の吹田市民劇場さんで「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」公演がありました。光太郎智恵子を登場人物とする2人芝居でした。

2月9日(日)
岡山市の岡山芸術創造劇場ハレノワさんで「朗読劇・永瀬清子物語Ⅷ ラビリンスの旅人」が上演されました。岡山県出身の詩人・永瀬清子を主人公とするもので、光太郎も登場人物の一人でした。
b7bb847f-s 無題3
2月10日(月)
地上波NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」で、高杉真宙氏による「智恵子抄 深夜の雪」朗読が組み込まれました。

2月11日(火)
学研さんから佐藤晃子氏著『意味がわかるとおもしろい! 世界のスゴイ彫刻』が刊行されました。「この左手まねできる? 手 作った人 高村光太郎」「サルに何かあった? 老猿 作った人 高村光雲」という章を含みます。
無題2 2d6ff836
2月15日(土)
文化資源社さんから『よみうり抄』全五巻の刊行が開始されました。明治期からの『読売新聞』に載った消息紹介記事「よみうり抄」を翻刻したもので、光太郎智恵子も随所に名が挙がっています。

同日、練馬区の個人宅において、シャンソン系歌手・モンデンモモさんの「SAWAMURA BAR.VOL23」が開催され、モモさん作曲の光太郎詩に曲を付けた歌曲が多数演奏されました。同様のコンサートは「BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄」として、4月4日(金)に狐弾亭さん(東京都立川市)、5月19日(月)で東京都府中市の府中の森芸術劇場分館さん、6月28日(土)には島根県松江市のギャラリーCさん、9月20日(土)の東京都府中市蔵カフェさんでも開催されました。
1c95d059-s d4b1c99b-s
2月16日(日)
神奈川県中郡二宮町の生涯学習センターラディアンさんで「第45回二宮演奏家協会コンサート 日本の名曲 世界の名曲」が開催され、歌曲「レモン哀歌」が演奏されました。
27868be2-s 無題6
2月18日(火)
地上波NHK Eテレさんで「NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)」の初回放映がありました。

3月1日(土)~5月30日(金)
福島県相馬市立図書館さん、歴史資料収蔵館で「連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」が開催され、光太郎智恵子、光雲に関わる展示が為されました。
c45806df-s 無題7
3月5日(水)

毎日新聞出版さんから、『井上涼の美術でござる 二の巻』が刊行されました。『毎日小学生新聞』さんに平成28年(2016)から連載されている井上涼氏による漫画の単行本化で、「高村光太郎の巻」を含みます。

3月6日(木)
横浜市のイギリス館ホールで、「吉川久子 フルートコンサート~日本の風景~」が開催され、光太郎詩「冬が来た」の朗読が組み入れられました。
2918862d-s 無題8
3月7日(金)
宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人の佐久間晟氏が亡くなりました。昭和26年(1951)、奥様との新婚旅行で花巻郊外旧太田村の光太郎の寓居を訪ねられた方でした。

3月8日(土)
福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」が開催されました。澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)による対談形式で、光太郎にも触れられました。
c4c00ff6 無題10
3月10日(月)
講談社さんから西川清史氏著『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』が刊行されました。「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」という項を含みます。

3月14日(金)~3月16日(日)
兵庫県姫路市の劇団プロデュース・Fアトリエで、野田秀樹氏脚本の智恵子を主人公とした演劇「劇団プロデュース・F 第76回アトリエ公演 売り言葉」の公演がありました。
51efe916-s aff461ae-s
3月16日(日)
岡山市オリエント美術館さんで「岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会-智恵子抄-」が開催されました。光太郎詩朗読、詩人の斉藤恵子氏による講演が為されました。

3月17日(月)
宮城県女川町の女川光太郎の会さんが、宮城県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞されました。
5b145a7e 無題9
3月19日(水)
岩波書店さんから岩波新書の一冊として新関公子氏著『東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて』が刊行されました。光雲、光太郎に触れられています。

3月20日(木)~5月18日(日)
横浜市の神奈川近代文学館さんで特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
4f93bbca-s 4747bf71-s
3月21日(金)
千葉県浦安市のJ:COM浦安音楽ホールさんで「千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部 第17回定期演奏会」が開催され、西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が演奏されました。

3月28日(金)~6月1日(日)
神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで「秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳」が行われました。「第二弾」は9月28日(日)~12月8日(月)に行われました。
a1dde4ed-s bce86be2-s
3月30日(日)
東京都中央区の王子ホールさんで、「朝岡真木子歌曲コンサート 第8回」が開催され、朝岡氏作曲の「冬が来た」が演奏されました。

同日、小学館さんから『小学館版 新学習まんが人物館 平塚らいてう』が刊行されました。監修・差波亜紀子氏、作画・上川敦子氏、シナリオ・江橋よしのり氏でした。智恵子が登場します。
無題11
明日は4~6月分をご紹介します。

【折々のことば・智恵子】

よしんば親や夫が百万長者でも、女自身に特別な財産でも別にしてない限り女は無能力者なのですよ。からだ一つなのですよ。
昭和5年(1930)1月20日 長沼セン宛書簡より 智恵子45歳

当時の女性が置かれていた社会的地位、そして実家の長沼酒造が前年に破産、それに対し何もできなかった自分を念頭に置いた発言ですが、いまだに上流階級気分の抜けきらない実母を叱咤する内容です。この後には「出来ないものは出来ないのだから、それをきつぱりと断る事の出来ないやうな、なまくらではだめです」という文言も記されています。恐らく保証人としての金銭問題に関わります。実母・センの迷走ぶりからは、出来ないくせに出来るふりをしてやりたがり、さんざん引っかき回してあとは知らんぷりというどこぞの国の首相が想起されます。

こうした破産した実家の後始末に関わる心労も、心の病の大きな引き金の一つになったようです。

昨日の『南日本新聞』(本社・鹿児島市)さんに光太郎の父・光雲の名がちらっと出ました。

写真ないのに西郷像はどう作った? 彫刻家・安藤照が残したミステリー、元鹿児島市立美術館長が制作過程を著書で解き明かす

 元鹿児島市立美術館長の大山直幸さん(71)が「西郷隆盛像 安藤照の制作経過」を自費出版した。「安藤の著作や新聞記事などを基に調べた。今後の研究に使ってほしい」と話している。同書から、西郷像完成までの経緯を振り返ってみた。
 西郷隆盛銅像は1937(昭和12)年、鹿児島市城山町に建立された。高さ(身長)5.25メートル。制作したのは同市出身の彫刻家・安藤照(1892~1945年)だった。
000
西郷隆盛の銅像=鹿児島市城山町

 建立計画はその10年前の27年、南洲神社50年祭の記念事業として始まった。翌年、安藤が制作を依頼された。当時36歳。大山さんは「若手彫刻家として実績や活躍ぶりから当然の成り行き」だったと記す。
 安藤は、写真のない西郷の顔を探し、西郷を知る人に聞き取りを行い、孫や血縁者の胸像も制作した。「血縁者の容貌の中に共通するものを捉えることにより、そこから翁の姿を思い描いてみようとしたのだろう」と推測する。
 制作に関する全ては安藤に一任されていた。安藤は「鹿児島に建てること高さ二丈(約6メートル)内外にすることの外、経費も年限も何も制限されてはいないのです」と話している(「鹿児島新聞」30年7月3日付)。
 西郷像の服装は銅像建設奉賛会評議員会が「羽織袴(はかま)の礼装」を希望していたが、安藤の意向も踏まえて「陸軍大将の服」になった。
 そのきっかけとなったのは、安藤が鹿児島から取り寄せた西郷の服。明治初めに千葉県習志野で行われた陸軍特別大演習で着用したものだった。
 「誠に幸いと云う可き(いうべき)は、この習志野に於(おい)て雨の為(ため)シミのはいった服装が、他の遺品と共に今日尚(な)お西郷家に保存せられてある事である。これが今度の銅像製作の第一の足場となったのである」(安藤「大西郷と銅像」)。
 西郷像のモデルの一人に同市出身の洋画家・藤島武二がいた。銅像制作の相談役に就いており、「体格が良かった藤島が陸軍大将の服を着ることになったのだろう」と想像する。
 同書には、安藤と藤島が同席している写真が掲載されている。場所は安藤のアトリエで35年撮影とみられる。大山さんが県立図書館で見つけた。「藤島が相談役として安藤を実際に援助していたことを示すもの」で「藤島の兄二人が翁とともに西南戦争に参加して亡くなっており、藤島自身も銅像制作について特別な思いがあったに違いない」と記している。
 建立場所は当初、上竜尾町の浄光明寺としていた。同寺には東京・上野にある西郷銅像の原型となった高村光雲作の木像があった。この像は空襲で焼失している。
 だが34年、市庁舎移転に伴い跡地が候補地となった。翌年、隣接する旅館の土地まで買収し、建設地として決定した。
 完成した西郷像は築山の上に置かれた。安藤は「人工の及ばざる自然の大いさを感ずる造園的築山風の台座が出来た」と記す(安藤「大西郷と銅像」)。
 除幕式は37年5月23日に行われた。安藤は「南洲翁を語る会」で「除幕式場では、銅像を仰ぎ見ることは出来なかった」と話し、翌日に行われた銅像建立奉告祭に出て「帰りにやっと見上ぐることが出来た」と語ったそうだ。
 大山さんは同書の最後にこの部分を引用し「この時、安藤は南洲翁に何と語りかけ、翁はそれに何と応えたのだろう」と締めくくっている。
 同書はA4判、54ページ、2200円(税込み)。大山さん=099(224)2714。
 大山さんは27日午後2時から、同市の西郷南洲顕彰館で「西郷隆盛銅像の制作の経過について」と題して話す。一般400円(鹿児島市内在住者300円)。敬老、友愛パス持参者、賛助会員は無料。同館=099(247)1100。
001
作業着姿の安藤照(左から2人目)と藤島武二(右から2人目)
が写る「西郷隆盛銅像作製関係写真資料」(鹿児島県立図書館蔵)

現在も鹿児島市に立つ西郷隆盛銅像に関して。原型作者は安藤照。記事では触れられていませんが、戦時中に金属供出で失われた初代「ハチ公」の作者です。現在、渋谷駅前に立つ二代目「ハチ公」は安藤の子息でやはり彫刻家の安藤士(たけし)が復刻したものです。

西郷像竣工は昭和12年(1937)。生前のきちんとした写真が1枚も残っていないとされる西郷ですので、制作には苦労があったとのこと。

この点、先行する上野の西郷隆盛像と共通します。こちらは明治31年(1898)の除幕で、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が主任となって作られたものです。この折には明治10年(1877)に戦死した西郷の記憶は多くの人が持っていたので、光雲は榎本武揚や西南戦争時の西郷の部下ら、直接西郷を知る人々の意見を参考にしたとも伝わっています。ちなみに光太郎はまだ美校入学前で、制作には参加しませんでした。

記事では上野の西郷像の原型の木型について触れられています。上野の銅像の竣工後、原型は鹿児島に運ばれ、浄光明寺さんという寺院に納められました。下は当方手持ちの古絵葉書です。右下の写真など、何だか仁王像のようですね。
005
残念ながらこの原型は戦時中の空襲で焼失してしまいました。

はじめ、鹿児島の西郷像も浄光明寺に立てられる計画だったとのこと。それは存じませんでした。

さて、安藤が制作にかかった昭和3年(1928)の時点では、西郷の死から50年以上経っていましたから、なかなか西郷の顔立ちについての証言を集めるのは大変だったでしょう。

ちなみに昨夜、BSフジさんで放映された「TimeTrip 幕末の肖像-古写真に秘められた謎-」というスペシャル番組を拝見しました。ちょうど西郷の写真やキヨッソーネ筆の肖像画について触れられましたし、光雲の名は出ませんでしたが上野の西郷像も画像として再三使われました。
003
004
他に当方が尊敬してやまない土方歳三や、坂本龍馬、龍馬の妻・お龍の写真についても。

それから、記事では安藤が西郷の軍服を取り寄せ、体格がよかった藤島武二がそれを着てモデルになったというエピソードも紹介されています。西郷の身長は推定180㌢ほど。藤島もそれに近かったのでしょうか。おそらくこの軍服と同じものも、光雲が上野の西郷造成作の際に参考にしています。

昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に載った光雲の談話から。

西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。

「ズボンはわたしの胸まで来る」、笑えますね(笑)。それはさておき、安藤が鹿児島の西郷像制作にかかっていた頃はまだ光雲は存命でしたので、藤島同様、何らかのアドバイスをした可能性はあるな、と思いました。もしかすると軍服の存在も光雲から教えられたのかも知れません。

それから意外だったのは、藤島の兄二人が西南戦争で西郷と共に戦死、という件。これも全く存じませんでした。

初代ハチ公像などとは異なり、鹿児島の西郷像も上野の西郷像と共に戦時の金属供出は免れたわけで、その点は良かったと思われます。今後とも鹿児島の人々に愛されて欲しいものですし、今回、記事になった元鹿児島市立美術館長の大山直幸氏がなさったように、その制作背景などの研究等がさらに進むことを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

大空をみて一ぱいにいきをすいませうよ。

昭和3年(1928)10月 長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

昭和3年(1928)といえば、光太郎が詩「あどけない話」で「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳った、まさしくその年です。

10年前に智恵子の父・今朝吉が歿して弟の啓助があとを継いでから、徐々に傾き始めた実家の長沼酒造はこの年にはもはやどうにもならない状態に陥り、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。

そんな中で出した、母を励ます手紙の一節です。しかし、翌年には完全に破産、母と弟は僅かに残った山林などの所有権を巡り裁判沙汰。一家は離散することとなります。

智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰活動に当たられている「二本松市 智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんから今年1年の活動報告的な「文集 2025」が届きました。
001 002
B4判縦長で50枚程のコピーを綴じたもの。手作り感に溢れています。

表紙は智恵子が所属した太平洋画会の後身・太平洋美術会さんに所属され、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』や絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』などを書かれた坂本富江さん。こちらの会員でもあらせられるということで。

目次を載せておきます。それから裏表紙。
006 005
まず会として行った事業の紹介。けっこう皆さんであちこち出かけられたそうで、そのスナップが裏表紙に載っています。

詩人の吹木文音氏(ご本名・中島宏美さん)もこの会の会員だそうで、先月、都内で行われた「第68回高村光太郎研究会」でのご発表に関しても。

それから花巻南高校文芸部さんの部誌『門』今年8月発行の第19号からのコピー。当会が仲介しまして、4月から5月にかけて二本松の智恵子記念館さんで、「高村智恵子生誕祭」のコンテンツの一つとして同校家庭クラブさんの制作になる「智恵子のエプロン」復刻展示が行われ、文芸部さんと家庭クラブさんの顧問の先生方、生徒さんが観にいらした関係です。近隣の智恵子ゆかりの地を夢くらぶの方にご案内していただきました。

その他、5月に行われた「智恵子純愛通り記念碑建立祭」では、地元の小中高生の皆さんに光太郎詩の朗読を依頼、その際に一言ずつスピーチもしてもらったそうで、その原稿。さらに会員の方々が自由に書かれた文章など。

こうした地域に根ざした草の根の活動も大切なことと存じます。しかり顕彰する人々が居なければ、対象の人物はどんどん歴史の波に呑み込まれて忘れ去られてしまいますので。

来年以降もさらなる活動のご発展を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

いづれは私達は皆ゆくべき処へおそかれ早かれゆくのですから、人間相手でなし神にむかつて、精一ぱいのよい生き方をして、人間にはどのやうにもあれ決して不平はもつまいと私は決心してやつてゐます。


昭和3年(1928)8月21日 長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

智恵子も実母のセンも、クリスチャンだったというわけではありません。したがってここでいう「神」とは漠然としたイメージと思われます。

もうこの頃には実家の長沼酒造は恐慌のあおりで大きく傾き、翌年には破産してしまいます。

新刊、といっても2ヶ月半経ってしまいましたが……。

印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史

発行日 : 2025年10月10日(金)
著者等 : 松本和也
版 元 : 思文閣出版
定 価 : 7,000円+税

モネやルノワールなど、日本人がこよなく愛する印象派は、どのようにして日本の美術界に受け容れられてきたのか?

 明治後期に流れこんだ印象派は、日本の洋画界に新たな波をもたらした。なかでも「日本のモネ」と称された洋画家・山脇信徳は、その絵画表現によって注目を集め、印象派の是非をめぐる論争の渦中に立った。第三回文展で褒賞となった《停車場の朝》や、その数年後に描かれた《夕日》などの山脇作品は、画壇・文壇を横断した二度の大論争を巻き起こす。それは、印象派以降の西洋美術が日本に受容される際に生じる反発や葛藤の、いわば象徴的事例であった。
 本書では、山脇信徳とその絵画表現を結節点として、齋藤輿里、高村光太郎、岸田劉生、そして白樺派など、時代のキーパーソンの言論を丹念に読み解きながら、西洋美術の新潮流が日本にもたらした文化的衝突、そしてそれがしだいに「日本化」され超克されていくさまを明らかにしていく。

★★★編集からのひとこと★★★
 今でこそ多くの日本人に愛される印象派。その独特の重ね塗りは「筆触分割」という技法によるものらしいのですが、それが「醜い」とさえ評されていた時代がありました。何が美しく、何が美しくないのか。あるいは何が芸術とそれ以外とを隔て得るのか。それは現代のアートシーンにも通底する問いであり、その意味で時代は絶えず繰り返されているのかもしれません。
 本書では、明治晩年の日本で、絵画の新技法が反発を招きながらも、次第に受け入れられていった過程を跡付けていきます。その議論を通して、時代を越えて鑑賞者・批評者に突き付けられる問いにも迫る1冊です。
001
目次
 はじめに 日本の印象派
 Ⅰ
  第一章 山脇信徳へのアプローチ――洋画史・〝日本のモネ〟・言説史
  第二章 西洋美術の新傾向をめぐる言説史――印象派、ポスト印象派を中心に
  第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎
 Ⅱ
  第四章 「生の芸術」論争・再考――「DAS LEBEN」/「地方色」からみた山脇信徳《停
   車場の朝》
  第五章 山脇信徳作品展覧会をめぐる「絵画の約束」論争・再考――「自己」か「公衆」
   か
  第六章 山脇信徳「断片」の歴史的意義──フォーヴィスム/エキスプレッショニズムへ
 Ⅲ
  第七章 「自然」と「生活」をめぐる岸田劉生の芸術論――白樺派言説を補助線として
  第八章 ヒュウザン会(フュウザン会)展覧会の同時代評価──印象派以降の展開
  第九章 「心的印象」を象徴的に描くこと──萬鐵五郎の「新しい原始時代」
 結論 印象派の超克
 初出一覧
 あとがき

著者・編者略歴
1974年生。立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、神奈川大学国際日本学部教授。日本近現代文学・演劇・美術。著書に、『昭和一〇年代の文学場を考える 新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会、2015)、『文学と戦争 言説分析から考える昭和一〇年代の文学場』(ひつじ書房、2021)、『戦時下の〈文化〉を考える──昭和一〇年代〈文化〉の言説分析』(思文閣出版、2023)ほか。論文に、「萱野二十一「道成寺」同時代受容分析」(『国語国文』2024. 9)、「見えにくい世界/新しい景色──宮永愛子のオペレーション」(『人文研究』2024. 9)ほか。

特に絵画に注目し、西洋美術の新潮流がどのように日本に受容されていったのか、それも明治末から大正初めに重きを置いて、印象派やポスト印象派の影響が中心に論じられています。

完全な書き下ろしではなく、『大衆文化』『人文学研究所報』などに掲載された論文をベースにされた章もありますが、「大幅な加筆修正を施してある」そうで、多少、繰り返しになる部分はあるものの、ほぼきちんと一本の流れになっています。300ページ超の労作です。

また、人名索引がきちんとつけられているのがありがたいところですね。
003
論じられているのは、ちょうど光太郎が明治39年(1906)から同42年(1909)の3年半に亘る欧米留学から帰朝し、実際に肌で触れてきた新しい芸術を日本に根づかせようと、画廊・琅玕洞やヒユウザン会(のちフユウザン会)などの活動に取り組んでいた時期です。そこで光太郎の名はほぼ初めから終わりまで出ずっぱり。章の題名としては「第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎」のみですが、他の全ての章にその名が刻まれています。

最も注目されているのが、山脇信徳。現在では一般には忘れられかけている存在ですが、明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された「停車場の朝」が物議を醸しました。
001
光太郎と親しかった石井柏亭は「こんな色彩は日本の風景には存在しない」。光太郎は「作者がそういう色に見えるならそれは作者の自由だ」。いわゆる「地方色論争」です。そこから有名な光太郎の評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)が生み出されました。

残念ながら「停車場の朝」そのものはモノクロ画像が伝わっているだけですが、同時期の山脇の作品を見れば、ほぼどんな感じだったかは想像がつきます。ちなみに本書のカバーにあしらわれているのは山脇の「夕日」と題する作品。明治43年(1910)のものです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

人間は根本が間違つてさへゐなければお互に其精神の根を信じて、あとの細々した事はすべてゆるしあひ、いたはりあつてゆく外ありません。


昭和3年(1928)4月4日長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

とかく排外主義に陥りがちで不寛容な現代人にこそ贈りたい一節です。

 DMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」。光太郎を含む実在の文豪たちをモデルとしたキャラクターが多数登場し、平成28年(2016)の配信開始以来、根強い人気を保っているようです。

いわゆる「2.5次元」ということで演劇にもなり、既に8作品が作られ、来春には9作目「掬ウ者ノ響歌(コンチェルト)」の公演も予定されています。

5月に都内と京都で上演された8作目「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayとDVDが、今月、発売されました。キャストに松井勇歩さん演じる光太郎が含まれています。

文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)

発行日 : 2025年12月10日(水)
著者等 : 舞台「文豪とアルケミスト」8製作委員会
版 元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890 DVD ¥9,790

2025年5月に東京・IMM THEATER/京都・京都劇場にて上演された、舞台「文豪とアルケミスト」第8弾公演「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」が、Blu-ray&DVDとなって2025年12月10日にリリース!

2枚組のBlu-ray&DVDには本編映像のほかに「メイキング」「キャスト座談会」「アンサンブル座談会」「オープニング全景映像」「アフターイベント映像(全5回)」と、貴重な特典映像の数々を、別ディスクに大ボリュームで収録。さらに、初回生産分限定で「オリジナルステッカー」「ブックレット」の特典も封入となっている。

あらすじ
太宰治らと共に帝國図書館を救い絶筆した北原白秋。転生を選ばず、再び復活を遂げようとする悪しきアルケミストを葬る術を見出すため、負の感情が充満する生と死の狭間に留まっている。一方、石川啄木、高村光太郎そして小泉八雲は、北原白秋を転生させるべく目論み、また久米正雄と直木三十五は、深い親交のある文豪を探し求めていた。そんな折、アルケミスト・ファウストと出会った文豪たちは、「かつて文学で世界を救おうとした青年」について聞かされる。終わらない侵蝕を食い止めるため己の文学を信じ、文豪たちは戦いへと赴く。

キャスト
北原白秋:佐藤永典 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 久米正雄:安里勇哉
直木三十五:北村健人 小泉八雲:林光哲 ファウスト:原貴和 青年:松村龍之介
000
もう1点、書籍です。

「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた

発行日 : 2025年11月28日(金)
著者等 : 梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編
版 元 : ひつじ書房
定 価 : 2,700円+税

2016年に配信開始され、これまで各界に影響を与えてきた人気ゲーム「文豪とアルケミスト」とそのメディアミックス作品を日本文学・文化研究者がそれぞれの専門分野から本格的に検証した論文集。全14本の論文からなり、ゲーム、アニメ、舞台、ノベライズ、朗読、さらにファンの受容、文学館や研究・教育現場との関わりなど多彩な側面からの論考を収録。執筆者:梅沢亜由美、大木志門、掛野剛史、山岸郁子、赤井紀美、今井瞳良、大島丈志、小澤純、影山亮、金子亜由美、構大樹、上牧瀬香、島村輝、芳賀祥子

編者紹介
梅澤亜由美(うめざわ あゆみ)大正大学文学部教授
大木志門(おおき しもん)東海大学文学部教授
掛野剛史(かけの たけし)武蔵野大学教授
山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学経済学部教授
001
【目次】
 はじめに なぜ「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみたのか 大木志門
 第1部 キャラクター・関係性・二・五次元文化
 「尾崎一門」の息子(ライバル)たち――「文豪とアルケミスト」における「泉鏡花」と「徳田
  秋声」の「関係性」 金子亜由美
 「文豪」を媒介とした「文豪とアルケミスト」の私小説的受容――志賀直哉を例として 梅澤
  亜由美
 キャラクターを通して文学に相渉るとは何の謂ぞ――「二・五次元文化」の中の「文豪とア
  ルケミスト」 大木志門
 第2部 文アニ・ノベライズ・読書行為
 「物語なき世界」にたむろする――テレビアニメ「文豪とアルケミスト」の理と視聴者 今井
  瞳良
 芥川龍之介と太宰治を結び直す――アニメ版・ノベライズ版『文豪とアルケミスト~審判ノ
  歯車~』の世界観 小澤純
 「文豪」を育てるということ――「おやすみ、カムパネルラ」からのアプローチ 大島丈志
 ノベライズ『君に勧む杯』の文豪たち――現実と空想の間に生きる井伏鱒二・横光利一・佐
  藤春夫 掛野剛史
 第3部 アダプテーション・文劇・朗読
 多喜二転生――あるプロレタリア文学者をめぐるアダプテーション 島村輝
 演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界 赤井紀美
 「文豪とアルケミスト」における「朗読」の可能性――横光利一「春は馬車に乗って」を聴く
  という経験 芳賀祥子
 第4部 文学館・学校・公共性
 「文豪とアルケミスト」と文学館・記念館とのタイアップにみる〈関係性〉 影山亮
 〈「文アル」×文学館〉の行方 上牧瀬香
 新美南吉記念館特別展「南吉と読書」と「文豪とアルケミスト」 山岸郁子
 「文豪とアルケミスト」で近代文学の授業を押し拡げる――文学教育を「文豪コンテンツ」で
  支えるために 構大樹

いわゆるタイアップ企画ではなく、独自に編まれたものです。

内容の分析は元より、この手のコンテンツの受容がどのように為され、各方面にどういった影響が及んでいるか、先行する類似企画との比較、今後の展望などなど、多岐に亘る論考の集成です。リアルタイムでの文化史考察という意味でも特異な内容ながら優れたものといえるでしょう。

大御所のエラいセンセイ方は、「こんなものを真面目に論ずるのは大衆への迎合」とお考えなのでしょうか、はなから完全無視、またはそもそもその存在すら眼中にないと思われますが、本書で述べられている通り、現実に各地の文学館等で入場者数に影響を与えたり、取り上げられた文豪の著書や関連書籍の売り上げを左右したり、演劇や朗読など様々な分野に派生したりという現象が起きていますので、無関心でいていいものではありません。

光太郎に関しては、上記「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」にも触れられた赤井紀美氏の「演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界」、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画等の関係で上牧瀬香氏による「〈「文アル」×文学館〉の行方」の項などでちょろっと触れられている程度ですが、非常に興味深く拝読いたしました(まだ読了していませんが(笑))。提灯記事的な稿の羅列でなく、批判すべき点はきちんと批判するというスタンスにも感心しました。

編者のお一人、大木志門氏は田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』を編まれ、神田の古書肆・八木書店さんでの講座「活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」も担当されました。余談ですが、このブログに誘導するためにX(旧ツィッター)に投稿し続けている当会ポストを毎日リポストして下さっています。ありがたし。

というわけで、「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayかDVD、『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』、それぞれご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

だんだん身内のものがあの世へ旅だつてしまふのは淋しいものですね しかしわれわれもやがてみなそこへゆくのですから さう思つてこの世に居るうちはこの世の事に出来るだけつくしませうね それが人間のつとめでせう


大正14年(1925)10月10日 長沼セン宛書簡より 智恵子40歳

大正7年(1918)には智恵子の父・今朝吉、翌年に末の妹(六女)・チヨ、同10年(1921)には祖母のノシ、同11年(1922)だと三女のミツ、そしてこの年9月光太郎の母・わかが相次いで歿しています。さらに言うなら、2年後にはやはり智恵子妹で四女のヨシも。特に若い妹たちの相次ぐ死は、自らも健康不安を抱えていた智恵子に暗い影を落としたことでしょう。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で2件。

まず、先月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で登壇なさった山本隆一氏が、同フォーラムの様子を報じた地元紙2紙を送って下さいました。そのうち『東奥日報』さんで、同フォーラムの記事の下に以下の記事が載っていました。

東北新幹線・新青森-八戸開業15周年 3駅で記念カード配付

 東北新幹線・新青森-八戸間が4日に開業15周年を迎えるのを記念し、JR東日本は1日から、新青森、七戸十和田、八戸の3駅で「駅カード」を枚数限定で配布する。当日有効の乗車券類か入場券(定期券を除く)を、各駅の新幹線の有人改札で提示すると、1人1枚もらえる。駅カードで3駅を取り上げるのは今回が初めて。
 駅カードは鉄道車両と地域の特色を組み合わせたデザインとなっており、JR東など鉄道会社がキャンペーン企画の一環として制作することが多い。新青森駅のカードはE5系新幹線「はやぶさ」と青森ねぶた、七戸十和田駅はE2系新幹線「はやて」と十和田湖、八戸駅は観光列車「TOHOKU EMOTION」と八戸えんぶりをそれぞれ描いている。
 本県では弘前駅や五所川原駅、深浦駅などが題材となったことがある。
 4日は新青森駅と七戸十和田駅で開業15周年セレモニーなどの記念企画を行う予定。
000
七戸十和田駅の駅カードに「乙女の像」があしらわれています。記事本文に「乙女の像」の語が入っていなかったので、掲載紙が送られてくるまで気づきませんでした。

新青森駅、八戸駅のものはこちら。
001 002
「こりゃ欲しいな」と思いまして、ネットオークションのサイトを見てみると、早速売りに出ていました。しかし3枚で8,000円。まぁ、好きな人はその価格でも買うのでしょうが、何だかなぁ……です。

もう1件。やはり地元紙の『秋田魁新報』さんで12月20日(土)に掲載された記事です。

遠い風近い風[畑澤聖悟]神秘の十和田は田沢と共に

 今年で3年目となる「北のまほろば祭り」は、私が主宰する渡辺源四郎商店の定例イベントである。本拠地である青森市の渡辺源四郎商店しんまち本店で、秋から冬にかけて、月終わりの週末にリーディングや一人芝居など、語り芸を中心に短編2、3本を上演する。今回は11月~来年1月に実施。毎回、期間中に計8~12作品が集まることから、「北の小さな演劇祭」を名乗っている。
 先月の公演タイトルは「千古水澄む十和田湖いだき」。ズバリ、十和田湖がテーマである。ゲストに秋田の「けやはす演劇部」を招いた。おととし1月にあきた芸術劇場ミルハスで上演された県民参加型ミュージカル「欅(けやき)の記憶・蓮(はす)のトキメキ」の出演者有志を中心に結成した劇団で、昨年に引き続きの登板である。
 演目は「神秘の十和田は田沢と共に」。秋田を憂う謎の集団「秋田賢人会議」が秘密会議を行う。県境にまたがる十和田湖を青森県が独り占めしようとしている。そうはさせじ。「十和田湖が名実ともに秋田のものであることを強く意識させるためには、物語を利用せばいい!」とリーダーが号令する。
 十和田湖、田沢湖、八郎湖を巡る「三湖伝説」を、都合のいい「秋田史観」で改変しようと試みるのだ。台本を持った演者8人によるリーディング公演であるが、歴史うんちくあり、アクションあり、ギャグあり。盛りだくさんの28分。客席は沸きに沸いた。劇団代表である伊藤展洋氏の記念すべき初の作・演出作品。堂々のデビューである。
 迎え撃つ「小なべの会」は、渡辺源四郎商店の若手によるユニット。これまで劇団内ワークショップ、台本評論、作詞作曲、演出練習などの活動を経て、今回が初公演となった。演目は「智恵子と智恵子」(沼畑枝里作・演出)。十和田湖畔に立つ裸像、通称乙女の像が主人公。制作途中の像が、作者の高村光太郎が寝ている間に動き出し、歌ったり漫才をしたりする。コント風の展開だが、亡き妻、智恵子への高村の愛情が徐々に浮かび上がってくる。ゲストに負けぬ大受けであった。
 終演後はロビーで出演者、スタッフ、観客が入り乱れての座談会「まほろばトーク」。そして乾杯。そのまま打ち上げになだれ込んだ。大量に持ち込まれた秋田の美酒とお土産がありがたい。
 私が「欅の記憶・蓮のトキメキ」の演出を担当させてもらってから間もなく3年。あの日、演劇の世界に足を踏み入れた彼らは、自作を引っ提げて遠征するまでになり、アウェーの観客を大いに喜ばせた。そして、初めて私の手を離れて芝居を打ったウチの若手たち。みんな楽しそうに芝居談義をしている。これはすごいことである。報われた気がした。空きビルを大工仕事で劇場に改装したのも、身銭を切って劇団を19年続けてきたのも、何もかもこのためだったのではないか。
 けやはすの面々とは「またね」と言って別れた。また、いい芝居やりましょう。そして、楽しく飲みましょう。芝居は終われば何も残らないが、縁は続くのである。
 (劇作家・演出家、五城目町出身、青森市住)

このイベントについても事前に把握できていませんでした。公式サイトにやはり「乙女の像」の語が無く、さらに演目題名も「智恵子と智恵子」ということで、「高村」の語を書いていただければ見逃さなかったのですが、「智恵子」だけでは検索網でカバーしきれません。
003 004
ちなみに「千古水すむ十和田湖いだき」という「青森市民の歌(愛市の歌)」の歌い出しの一節を総題にした3本仕立ての演劇公演で「神秘の十和田は田沢と共に」「十和田湖のこわい話」そして「智恵子と智恵子」だったそうです。智恵子の顔を持つ「乙女の像」の制作意図が、光太郎曰く「人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです」ということで、「智恵子と智恵子」だったのでしょう。

「乙女の像」が主人公というと、10年ちょっと前に十和田湖国立公園協会さんでから刊行された能町みね子氏の『十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?』が思い出されました。

これからも「乙女の像」、地元で、さらに全国区で愛されてほしいものです。

【折々のことば・智恵子】

この世に生れて来た甲斐に、どれだけの事が成功するか、各自に与へられた力の最善を尽して一生の使命を果すので、誰れにとつても生やさしい面白いおかしい事ではなく、いつも目的を最高の処に置いて立派な、悔いのない、あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯を築く覚悟がなければなりません。


大正11年(1922)12月1日 長沼啓助・禎子宛書簡より 智恵子37歳

大正7年(1918)に歿した父・今朝吉の跡を継いで長沼酒造を任された弟・啓助と、その妻となった禎子との若い二人に宛てた書簡から。

智恵子自身、昭和13年(1938)に南品川ゼームス坂病院でその生涯を閉じる際、「あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯」だったのでしょうか……。

光太郎の父・光雲の作品が出ています。

冬季所蔵品展 私たち七尾美術館PR隊!

期 日 : 2025年12月20日(土)~2026年2月8日(日)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日  (1/12は開館)、1/13
      12/29(月)から1/3(土)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
      ( )は20名以上の団体料金

 令和6年能登半島地震により1年9カ月にわたって臨時休館を余儀なくされた当館。臨時休館中には文化財レスキューや市内学校への出前講座などを行っていました。
 そんな中、臨時休館が続く当館の状況を知った七尾市立小丸山小学校の5年生(当時)が、再開館に向けて自分たちにできることはないかと考え、昨年の総合学習の一環として「震災に負けずに立ち上がろう。七尾美術館PR隊」という活動を行ってくれました。
 その活動内で、子どもたちに当館所蔵品の中からお気に入りの作品ベスト3を挙げてもらい、それを元に学芸員が展示品を選抜・展示計画を作成しました。
 そして、子どもたちには自分たちなりの視点で作品の見どころを伝える「作品解説」を書いてもらいました。
 子どもたちの「作品解説」とあわせてお楽しみください。

同時開催 まなざしの先
 「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、私たちの「目」は時に言葉以上に相手に感情を訴えかける力があります。
 それは喜びであったり、悲しみであったり、あるいは怒りであったりと様々ですが、相手の顔を見た時に、思いがけない感情に気づき、ドキッとした経験は誰しもあるのではないでしょうか。
 本テーマではこの「まなざし」に着目。現代絵画を中心に、写真や工芸などの当館所蔵品のうち、まなざしや視線、あるいは表情が印象的な作品を展示します。
 それぞれの作品の「まなざしの先」に何があるのか、皆さまも思いを馳せてみてください。
003
005
004案内文にある通り、昨年1月の能登半島地震により同館は臨時休館となり、地震発生の際に開催中だった企画展示「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」は途中で打ち切られました。

2年近くの休館中、被害の少なかった石川県立歴史博物館さんでの出開帳「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」などを行ってきましたが、今秋から再開とのことで、喜ばしく存じます。

「彫刻って面白い!」「七尾美術館 in れきはく」にも出品された、光雲作の聖観音像(昭和6年=1931)が今回も展示されます。七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」の一つです。他に多く作られた聖観音像と少し趣が異なり、工房作かな、という感じもします。

地元の小学校さんの協力も入った展示だそうで、タイトルに「七尾美術館PR隊」。すばらしい取り組みですね。

訪れるだけでも復興支援の一環となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・智恵子】

人間はお互に助け合はねばならないでせう 人を教へるとか 又は与へる力があるなぞと誰しも思ふものはないことゝ思ふけれど 元来信仰の問題は知識ではなく(知も一部ではあるが)随て教へるなどゝいふ事とは遠いことのやうに私は思ひます

大正10年(1921) 斎藤辰之介宛書簡より 智恵子36歳

斎藤は智恵子と同郷の彫刻家。光雲の孫弟子にあたります。のち、二本松霞ヶ城に建てられた光太郎詩碑の建立に尽力しました。

斎藤の母が智恵子の妹・ミツの肺結核による東京病院(のちの慈恵医大病院)入院に付き添っており、末期の患者にどんな話をしたらよいのか、といった質問に対する返答の一節です。

ミツは翌年死去。その遺児・春子はのちに当時の一等看護婦の資格を取得、智恵子晩年のゼームス坂病院での付き添いを務めることとなります。

昨日は上京、「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」に出演しておりました。
001
会場は御茶ノ水のワイム貸会議室さんでしたが、zoomによるオンラインでの同時配信も行われました。
PXL_20251220_050024305
カメラで司会者・発表者の顔を写す部分、パワーポイントのスライドショーとも連動させての部分もある配信だということで、時代は進んでいるんだなぁ、という感じでした。このあたりの新技術や風潮が広まったのだけは、コロナ禍による良かったことだと思います。

当方を含む3人の発表。

まずは大阪堺の与謝野晶子記念館学芸員・森下明穂氏。「与謝野晶子 美しい本の世界へ」と題してのご発表でした。
PXL_20251220_050503161.MP
主に装幀に関わるお話で、どんな人物がどういう感じで晶子著書の装幀を行ったか、といったお話を、画像をふんだんに使われてのご発表でした。

なるほど、発表題にある通り美しいものが多く、各装幀者や晶子のこだわりといったものが垣間見えました。また、時期による流行のような点も。
PXL_20251220_051416709
主な装幀者は、藤島武二、中澤弘光、有島生馬、石井柏亭、津田青楓、正宗得三郎、山本鼎など。光太郎の人脈ともほぼ重なる人々です。

それから、光太郎というより、実弟の豊周と昵懇の間柄だった広川松五郎。ここで広川が出てくるか、と、驚きました。
PXL_20251220_051623858
挿画についてもお話があり、すると、光太郎にも触れられました。光太郎は晶子の夫・寛の著書では装幀を手がけましたが、晶子の著作では装幀は行っていません。しかし、光太郎の挿画は使われています。
PXL_20251220_052008918
右下が大正9年(1920)の『晶子短歌全集 第三巻』に載った光太郎の挿画。ちなみにあと2点は第一巻、第二巻の藤島武二、中澤弘光によるものです。

この光太郎の挿画については当方の発表の中でも触れましたので、現物も持参し、会場に展示させていただきました。他の光太郎装幀本・挿画の載った書籍、ついでに彫刻も。
PXL_20251220_064042972
続いて当方の発表。
無題
今回のシンポジウムの総題が「『明星』と美術」ということでしたので、新詩社メンバー中、美術実作者として活躍した光太郎についてしゃべれ、ということで担ぎ出されました。

第一期『明星』(明治33年=1900~同41年=1908)、その後継誌ともいうべき第一期『スバル』(明治42年=1909~大正2年=1913)、その少し後くらいまでにスポットを当て、光太郎を取り巻く当時の文学界・美術界などについて、光太郎との関わりからべしゃくらせていただきました。

そのために今回作成したのが、下記の人物相関図。
無題2
はなはだ不完全なもので、しかも線が錯綜して見づらいものですが、とりあえずこのくらいかな、という感じです。本当はあと30人ほどは入れたいところですし、線の結びつきも、両端にいるこの人物とこの人物がこういう関係があったというのを、もうこれ以上線が引けないということで随分と割愛しています。たとえば右上の方にいる荻原守衛と右下の方に配した斎藤与里が留学仲間だったとか、これも右上の方にある『少女世界』に晶子も寄稿していたとか、同様に下の方には光太郎が度々寄稿した『文章世界』だの『詩歌』だの『早稲田文学』だのも配したものの、名を出した人物でこれらに寄稿している人物がいるはずで、その線は書いてありません。

これが大正後半や昭和に入ると違った様相を呈します。また、与謝野夫妻なり、啄木なり白秋なり守衛なりを中心に据えればまた異なる感じの相関図が出来上がるでしょう。それぞれがご専門の方々がそれらを造り、つなぎ合わせて畳一枚分くらいの大曼荼羅のようなような相関図が出来れば面白いな、などという話もさせていただきました(笑)。

これを作ったことで、自分でも今までわかっていなかったことがおぼろげながら見えてきた感じがしました。すなわち、なぜ光太郎が様々な分野に手を出していたのか、です。美術方面では彫刻、絵画、装幀、書、建築、美術評論など、文学方面では詩、短歌、俳句、随筆、翻訳、戯曲など。もちろんそれぞれに才能があったからですが、それ以外に光太郎自身、好奇心というか、新しいことに挑戦しようという積極性というか、そういうものがあって、いろいろやったわけです。ここまではこれまでもそう思っていたのですが、今回、相関図を作ったことで、光太郎のそうしたマルチな才能が周囲から重宝されていたと思いあたりました。

光太郎と同世代の人物たちにしてみれば、一世代前の巨匠たち(黒田清輝、藤島武二、与謝野寛、森鷗外など)に頼みにくいことも光太郎になら頼めるし、光太郎としても留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする日本彫刻界とは距離を置いたので生活の途に困り、仕事の注文が入ればありがたいと、まぁ、ウィンウィンの関係だったと言えるのではないでしょうか。

しかし光太郎も唯々諾々と各注文に応じていたわけでもなく、けっこう毒をしのばせたりもし、一筋縄ではいかなかったとも感じました。

休憩後、最後のご発表は主催の明星研究会をとりまとめてらっしゃる歌人・松平盟子氏。
PXL_20251220_064623333
時系列に沿って『明星』発刊の前後からの新詩社と美術家たちの関わりなどについてのお話。題して「憧憬と戦略 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」。

第一期『明星』が単なる短歌雑誌ではなく、後の『白樺』同様、美術にも軸足を置いていたという件、そこには与謝野寛の西洋美術への「憧憬」があり、また、翻訳文学の紹介や、晶子を含む女性を積極的に登用し、それまでにない誌面が作られていったという流れでした。そこが主宰の寛の「戦略」ですね。光太郎も留学先から翻訳を寄稿しています。

特に関わりが深かったのが、黒田清輝や藤島武二(共に光太郎の美校時代の恩師でもあります)らの白馬会、さらに一條成美や長原孝太郎(止水)、そして美術家ではありませんが、美校の教壇にも立った(やはり光太郎の恩師に当たります)森鷗外。そして鷗外と親しかった原田直次郎などにも触れられました。

そういう『明星』のコンセプトを反映させた晶子短歌の実際の表現といった点にも言及されました。
002
第一期『明星』がそうした雑誌であったからこそ、美校在学中の光太郎がぜひ書かせてくれ、と、新詩社に加入したんだろうなと、実感が湧きました。単なる短歌の雑誌に留まるものであったなら、光太郎がそれほど関心を示したとも思えません。
無題3
さて、zoomによるオンラインでの同時配信が行われましたが、アーカイブ配信(有料)もするそうです。詳しくはこちらにある連絡先まで。

同シンポジウム、来年には第20回記念とのこと。今後の関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました。また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます


大正4年(1915)1月3日 柳八重宛書簡より 智恵子30歳

前年12月22日、上野精養軒で行った光太郎との結婚披露宴参列への礼状から。「お揃」は、八重の夫・柳敬助も出席したことを指します。

八重は智恵子の日本女子大学校での先輩、敬助は光太郎の留学仲間。明治44年(1911)、柳夫妻が光太郎智恵子を引き合わせました。元々は智恵子の方から、先輩芸術家の話を聴く一環として留学帰りの光太郎を紹介して欲しいと持ちかけたのですが、柳夫妻としても、帰朝後に荒れた生活を送っていた光太郎を案じ、「芸術の話ができる女友達でも出来れば」と、応じたと思われます。

雑誌新刊です。

『Begin』2026年2月号

発行日 : 2025年12月16日
版 元 : 世界文化社
定 価 : 745円+税

●大特集:2025年の人気モノランキング!  2026年の大モノ先駆けスクープ!「Begin Best 100」
●第2特集:「本当に使える」北欧デザインの雄 イノベーターの“革新”を学ぶ
●第3特集:いつもの年末年始を10倍回復させる!「リカバリーギフトCATALOG」

001 000
主に男性向けのシャレオツなグッズを紹介する雑誌です。

「ミュージアムグッズ愛好家」なる肩書きの大澤夏美氏という方による「博ブツ観」という連載が為されており(今号は第32回だそうで)、「岩手県花巻市で発見 高村光太郎記念館 本革しおり Bookmark」のサブタイトルで、そのままずばり、高村光太郎記念館で販売されているしおりをご紹介下さいました。ありがたし。
004
002 003
問題の(別に問題もありませんが(笑))しおり、モチーフは本文で詳しく語られていますが、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接するトレの壁に自らが彫りつけた明かり採りの窓です。
006
007
トイレの内部から見ると「光」の文字が反転して見えるわけで。現在ではトイレも套屋で覆われていますが、裏側から右上画像のように外光が差し込むさまが見られるようになっています。
009
この反転バージョンを、同館ではロゴや、今回のしおりなどさまざまなグッズに使用しているというわけです。ところでしおり、イタリアの牛革製だそうで、それは存じませんでした。

ただ、現在の物販はというと、二重三重四重五重にいろいろ面倒くさい問題がありまして、非常に品数が少ない状態です。もっとうまくやれよ、と言いたいのですが……。

閑話休題、大澤氏曰く

 一枚のしおりをきっかけに、光太郎と智恵子、そして山荘に射し込む「光」という小さな物語へと誘われたのかもしれません。まだしばらく続く寒い季節の読書時間に、そんな“自分だけの光”を運んでくれるしおりを忍ばせてみるのも、悪くないのかも。

なるほど。

さて、『Begin』2月号、Amazonさんなどでも扱っています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・智恵子】

こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから 今からいそいでかゝなければならないのですから

大正2年(1913)8月12日 長沼セン宛書簡より 智恵子28歳

結婚前の二人でしめしあわせ、光太郎が先行滞在していた信州上高地に智恵子も追って行くのですが、そのための旅費を実家の母親に無心する手紙の一節です。もっとも、そうした事情は一切語らず、いわばだまし討ちですね。結果的には金銭を送ってもらい、上高地で光太郎と合流、二人は婚約を果たします。

アンソロジーものの新刊です。

パリと日本人 近代文学セレクション

発行日 : 2025年12月
著者等 : 高村光太郎、林芙美子ほか 著 和田博文 編
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,200円+税

日本人は憧れの都をどう描いたか――第一次世界大戦期から1960年代にかけてのパリにまつわるエッセイ、小説、詩のアンソロジー。

第一次世界大戦期にあたる1910年代から、五月革命が勃発する1960年代後半まで、多くの日本人が花の都パリを訪れた。彼らの目に、激動の時代のパリはどう映ったのか。最先端の美術に触れ、新たな画風を模索した蕗谷虹児、職を辞して、異国の街で思索を紡いだ森有正……。小説家や画家、哲学者など、多彩な人々によるパリを描いた31編のエッセイ・小説・詩を一冊に編む。
G7Dd1a8bAAAOnak
目次
 第1章 憧憬の都市と、第一次世界大戦の空襲・長距離砲 第一次世界大戦以前のパリと日
 本人
  巴里の旅窓より  与謝野晶子
  雨にうたるるカテドラル  高村光太郎
  ルノワル先生  梅原龍三郎
  戦争の空気に包まれたる巴里(抄)  島崎藤村
  リュウ・ドュ・テアトルの頃  長谷川昇
  爆弾下の巴里──千九百十八年三月──  吉江喬松
  巴里の此頃  森田恒友
 第2章 ツーリズムの時代、リベリテ・エガリテという幻想 一九二〇年代~三〇年代前半
 のパリと日本人
  パリー  岡本一平
  牢屋の歌  大杉栄
  日本贔屓  獅子文六
  巴里の懺悔  芹沢光治良
  秋の一日  九鬼周造
  レヴュウ『パリゼット』  白井鐵造
  私の巴里四年  蕗谷虹児
  佐伯君の死とその前後  伊藤廉
  夜のモンマルトル  酒井潔
  異国食餌抄  岡本かの子
  『滞欧画信』より  竹久夢二
  泥手・泥足  金子光晴
  巴里の片言  林芙美子
 第3章 ファシズムの跫音、占領下のパリ ファシズムの時代のパリと日本人
  革命祭  野上弥生子
  ルーヴルの立退き  大森啓助
  巴里の雨  久生十蘭
  街頭スケッチ  関口俊吾
 第4章 哲学思想・ソルボンヌ・五月革命 一九四五年の敗戦~一九六〇年代末のパリと日
 本人
  渡仏前後  小川国夫
  私のエコール・ド・パリ地図  辻邦生
  わが哲学時代から  辻邦生
  パリの冬とその街  森有正
  ソルボンヌの壁新聞  開高健
  パリ・その象徴  草野心平
  「五月革命」のパリから  朝吹登水子
 編者エッセイ パリの視覚装置と、オルセー美術館  和田博文
 あとがき

「パリ」に特化したアンソロジーで、リアルタイムでのパリ、あるいは日本に帰ってから記憶を記したものなどがほとんどのようです。

のべ30名程の詩文が採択されていますが、登録情報としては「高村光太郎、林芙美子ほか 著」となっている他、帯に大きく印刷されている「はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです」は、本書に採択されている光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)の一節です。

他に光太郎と関わりの深かった面々の作品も多数掲載されています。与謝野晶子、梅原龍三郎、草野心平、岡本一平など。

ちなみに編者の和田博文氏は、同じ平凡社さんから『日本人美術家のパリ 1878-1942』という書籍も刊行されています。アンソロジー系でも筑摩書房さんからちくま文庫の一冊として『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』など。

ぜひお買い求め下さい。000

【折々のことば・智恵子】

ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。

「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」案内状より
明治45年(1912) 智恵子27歳

光太郎と知り合った翌年、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で開催された田村俊子の「あねさま人形」と智恵子の「うちわ絵」の二人展案内状から。

ことによると文面の執筆は田村かもしれませんが。

花巻レポートの承前です。

12月15日(月)、旧太田村の高村光太郎記念館さんにて「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」拝観の前、同じく旧太田村の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄りました。
PXL_20251215_034028993
まず農産物等の直売や土産物等の販売を行っている「すぎの樹」さんで、林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送(左下)。この季節のルーティンです。後述のやつかの森LLCさんから既に大量に送られてきている(右下)のですが、いくらあっても困りませんので(笑)。
PXL_20251217_221959650 PXL_20251217_221900969
「すぎの樹」さんの正面の壁には光太郎を描いた大きな壁画。
PXL_20251215_035020993
PXL_20251215_035030895
その右下に、弁当やお総菜を販売なさっているミレットキッチン花(フラワー)さんがあります。
PXL_20251215_035039289.MP
こちらでは毎月15日、豪華弁当「光太郎ランチ」を限定10食で販売中。ちょうど15日でしたので、「どれどれ」と見に行きました。

この時点で13:00近かったのですが、残り2食。
PXL_20251215_034740930 PXL_20251215_034755354
PXL_20251215_034800786
売り切れていたら画像が出せないなと思っていたのでラッキーでしたし、逆に全然売れていなくても悲しいところで、いい塩梅でした。

現物を見るのは3度目でした。最初は販売が始まった令和2年(2020)のお披露目会の折、2度目はやはりたまたま15日に訪れ、ゲットして帰って妻と二人でいただいた一昨年の冬。今回は1泊2日の初日で、既に新幹線車内で駅弁を食した後だったので購入はしませんでした。

メニューの考案には、地元で主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが担当されています。そのやつかの森さんから送られてきた画像。
1765768371071 1765768371129
1765768371124
1765768371132
品目は「チキンの照り焼き」「牛すき煮」「大根とさつま揚げの煮物」「卵焼き」「さつま芋入り蒸しパン」「青豆入り麦ご飯」「大学芋」「みかん」。今月は当方の好物が並んでおり、こりゃ食べたかったな、というメニューでした。

それにしても、この諸物価高騰の折、変わらず800円というのがすごいと思います。令和2年(2020)の段階では800円だと安くはないな、という感じでしたが、現在ではお手頃価格感です。なし崩し的に諸物価高騰に馴らされてしまっているようで、逆に怖いなと思いました。壺が大好きな無策な政府の思う壺にはまっているようで(笑)。

今年はこれで終了ですが、来年以降も愛され続けることを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

この繁雑な世の中に出て奮闘するには随分よく心身をきたへて置かねばなりませんよ くれぐれも祈ります


明治42年(1909)2月7日 鈴木謙二郎宛書簡より 智恵子24歳

鈴木謙二郎は、明治40年(1907)に智恵子が父・今朝吉やきょうだいと共に宿泊した福島相馬の原釜海岸にあった金波館という宿で知り合った、その当時の旧制米沢中学生です。智恵子は7歳年下の鈴木と姉弟のように親しくなり、確認できている限り明治44年(1911)まで文通を続けていました。

のち、鈴木は山形県伊佐沢村村長や長井市教育委員などを歴任します。
219aa629

監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、12月15日(月)・16日(火)と1泊2日で花巻に行っておりました。

14日(日)にちょっとした降雪があったそうで、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんはこんな感じ。
PXL_20251215_050102879
入ってすぐ、「おっ!」と思ったのがこちら。まだ正式に展示が始まってはいなということですが、花巻南高校さん書道部の生徒さんたちの書。

追記:書道部さんではなく、授業で書道を選択された生徒さんたちだそうでした。
PXL_20251215_054121240.MP
PXL_20251215_050318420 PXL_20251215_050337304
すべて違う生徒さんの作品で、それぞれ思い思いに光太郎詩の一節を書いて下さっています。「卒業記念」的な意味合いもあるそうで。こういうのを見ると、不覚にもうるっときてしまいます(笑)。

同校の文芸部さんと家庭クラブさんにはいろいろとお世話になっていますが、今度は書道部さんも巻き込んだか、という感じでした(笑)。若い世代に光太郎を知ってもらうという意味でも、良い試みですね。

奥の企画展示室へ。
PXL_20251215_051659711
花巻と光太郎を結びつけたキーパーソンである宮沢賢治との繋がりに焦点を当てました。
PXL_20251215_051223681 PXL_20251215_051231128
2人が実際に顔を合わせたのは、大正15年12月のたった1度だけでした。しかし、2人の天才は、それぞれの作品を通してお互いを深く敬愛していましたし、残念ながら賢治が歿してからになりますが、その結びつきはより強固なものとなっていくことになります。

昭和8年(1933)に賢治が亡くなり、すぐ翌年には光太郎も編集者として名を連ねた『宮沢賢治全集』の刊行が始まります。光太郎が関わった賢治の全集は4種類。それらにより、生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治の名が世に広く知られていくことになります。

そこで今回の展示では、光太郎が関与した4種類の全集にスポットを当て、それらの成立過程やさらに派生して刊行された書籍、それらに関わった人々の思いといったところを前面に押し出しました。

最初の文圃堂版全三巻(昭和9年=1934~同10年=1935)。
PXL_20251215_050955763
それを補完する形で出された十字屋版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。
PXL_20251215_050948186
『全集』とは冠されていませんが、戦後の日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)。
PXL_20251215_050936200
そして筑摩書房版(昭和30年=1955~同32年=1957)。
PXL_20251215_051318576
PXL_20251215_051338064
装幀、題字揮毫は全て光太郎です。特に筑摩書房版は、光太郎のこの手の仕事の最後のものとなりました。

賢治作品を世に出す強い意志を持って臨んだ実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治についても詳しく紹介されています。当会の祖・草野心平についても。
PXL_20251215_051214092 PXL_20251215_051004299
PXL_20251215_051010681 PXL_20251215_051433078
テレビモニターでは、昭和11年(1936)、光太郎が碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑除幕式の様子。碑の近くの桜地人館さんで常時上映されているものです。
PXL_20251215_051347605.MP PXL_20251215_051154472.MP
桜地人館さんでは、戦後の光太郎書も貸して下さいました。これまで門外不出だったものですが。
PXL_20251215_050918771 PXL_20251216_003201874
右上は、藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏ご提供の写真。世に出るのは初めてではないかと思われるものです。

賢治の遺言で、没後に配付された「国訳妙法蓮華経」。
PXL_20251215_051245074
なかなかに充実した展示でした。

その他、同時開催中の4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」(2月28日(土)まで)。
PXL_20251215_051550738
先月末まで開催されていた企画展「昔なつかし花巻駅」に出品されていたジオラマは、第一展示室に移動されていました。
PXL_20251215_054250405
その後、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)へ。
PXL_20251215_055704992 PXL_20251215_054547519
少し早かったのですが、寒いので(笑)、宿泊先の光太郎も愛した大沢温泉さんへ。
PXL_20251215_062916517 PXL_20251215_062949429.MP
PXL_20251215_063308067 PXL_20251215_063331721
最近は予約を取るのもけっこう一苦労です。

翌朝(昨日ですが)、再び高村光太郎記念館さんに。この日はNHKさんの取材ということで。余裕を持って行きましたので、まずまた山荘に。夜のうちに新たに雪が降り積もることもほぼなく、助かりました。
PXL_20251215_234829413
さらに奥の「雪白く積めり」碑。この地下には光太郎の遺髯が埋まっています。
PXL_20251215_235241629
碑の前の広場。熊の足跡でしょうか。
PXL_20251215_235303559
PXL_20251215_235318669
明らかに狐や兎ではありません。

裏山の智恵子展望台からの眺め。
PXL_20251215_235634224
記念館に戻り、取材を受けました。NHKさん以外に地方紙『岩手日日』さんにも。

NHKさんには、「民間通信員」という制度があり、業務委託された民間の方が取材、撮影なさり、放送局でそれを編集し放映するシステムになっています。今回いらしたのは旧知の北山公路氏。花巻のタウン誌『Machicoco』の編集・発行もなさっている方です。
PXL_20251216_004724824.MP
早速昨日のうちに夕方のローカルニュースで流れ、ネットにも出ました。

高村光太郎と宮沢賢治のつながり紹介する企画展 花巻

001
 詩人で彫刻家の高村光太郎と花巻市出身の詩人で童話作家の宮沢賢治のつながりを紹介する企画展が、花巻市で開かれています。
002
003
 花巻市の「高村光太郎記念館」で開かれている企画展では、光太郎が賢治の作品に出会って賢治の家族と交流を深め、賢治の死後に発行された全集の編集や装丁を手がけた過程などが、4種類の全集などとともに紹介されています。
004
 また、賢治の作品を広めた、賢治の弟の清六や賢治の親友の藤原嘉藤治の功績も一緒に紹介されていて、昭和11年に市内に設置された「雨ニモマケズ」が刻まれた賢治の詩碑の除幕式を撮影した動画を見ることができます。
005
 企画展を監修した高村光太郎研究者の小山弘明さんは「生前は無名だった賢治が世界的に有名になった過程に、光太郎が関わっていたことを広く知ってほしい」と話していました。
006
 また、主催する花巻市生涯学習課の菊池功昇課長補佐は「賢治と花巻の関わりは広く知られているが、光太郎と花巻の関わりについても、もっと市民に知ってほしい」と話していました。
007
 この企画展は、来年3月末まで開かれています。

次回は来年2月21日(土)、関連行事として、清六令孫にして林風舎代表取締役・宮沢和樹氏、藤原嘉藤治の顕彰を勧められている瀬川正子氏とのトークショーの際に参ります。

というわけで、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・智恵子】

この福島がいゝ人もあるか知れませんが私には一向よくもありませんねー 住めばみやこの習にて人気少ない家郷の山川もしのぶの空にすむ身には降りしきる五月雨につけ何となうなつかしう存られ候

明治34年(1901)7月5日 安田卯作宛書簡より 智恵子16歳

安田卯作は智恵子の母校・油井村の油井小学校に勤務していた教師です。この年、同校高等科を卒業した智恵子は福島町(現・福島市)の町立高等女学校に進み、大熊ヤスら同級生とともに町内の弁護士方に下宿していました。3ヶ月程でホームシックになっていたようです。

「しのぶの空」は女学校近くの信夫山(しのぶやま)に関わります。『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められた源融(河原左大臣)の有名な歌「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」も背景にあるでしょう。

そして故郷の山川を「偲ぶ」と、信夫山の「しのぶ」の掛詞(かけことば)。智恵子少女の教養の高さが窺えます。また、その筆跡の見事さも。
001

今年5回目(たぶん(笑))、そして今年最後となりますが、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
inbound856135077526496761
inbound5624232766184827002
先週末に高村光太郎記念館さんで、監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」が始まりまして、そちらの拝観。さらに来春開催予定の関連行事としてのトークイベントの打ち合わせ。
inbound3690266150871627718
inbound3312704828519537216
隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどに寄り(ほぼいつも代わり映えしないのですが(笑))、現在は光太郎ゆかりの大沢温泉さんに宿泊しております。
inbound6066480553048407304
inbound3023075958075386210
inbound4815212952665450673
inbound3087508305550960416
今日また朝から記念館さんに参り、企画展につきNHKさんの取材を受け(ローカルニュース用でしょう)、それで帰ります。

詳しくは帰りましてからお伝え致します。

テレビ放映情報です。

まずはアーカイブ映像の使い回しですが。

日本歌手協会歌謡祭プレミアム

BSテレ東 2025年12月17日(水)  19:00〜21:00

毎週水曜日は懐かしの名曲をたっぷりと聴くことが出来る2時間!赤、青、黄色・・・曲名や歌詞に「色」が入ったカラーソングをいろいろとお届けします!

「ルイジアナ・ママ」飯田久彦 「黒百合の歌」織井茂子 「イルカにのった少年」城みちる
「黒い花びら」湯原昌幸 「黒姫ものがたり」小沢あきこ 「桃色吐息」川中美幸
「赤と黒のブルース」鶴田浩二 「砂の十字架」中村晃子 「青い山脈」青山和子
「赤い花白い花」芹洋子 「真赤な太陽」秋元順子 「悲しき口笛」三山ひろし
「命くれない」瀬川瑛子 「白い花の咲く頃」岡本敦郎 「白い蝶のサンバ」森山加代子
「白いブランコ」ビリー・バンバン 「シクラメンのかほり」キム・ヨンジャ
「黄色いシャツ」浜村美智子
「黄色いさくらんぼ」牧山直江(スリー・キャッツ)、あべ静江、山田邦子
「みずいろの手紙」あべ静江 「月がとっても青いから」菅原都々子 「緑の地平線」青木光一
「新雪」高道(狩人) 「天使の誘惑」黛ジュン 「みかん色の恋」ずうとるび
「渡り鳥」三沢あけみ 「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ 「長崎の女」春日八郎
「亜麻色の髪の乙女」貴津章 「夏色のナンシー」早見優 「悲しい色やね」上田正樹

出演者 <司会>合田道人
000
昭和39年(1964)にリリースされた、故・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」の映像が使われます。これまでも同じ系統の番組で何パターンかが流されてきています。
001
作詞は故・丘灯至夫氏。智恵子の故郷にして歌の舞台にもなっている二本松に近い小野町のご出身でした。
002
二本松市では正午の防災無線のチャイムが「智恵子抄」です。


もう1件、番組ではなくCMですが、今月からオンエアされるようになったJR東日本さんの「大人の休日倶楽部」CMが「青森・奥入瀬」篇です。

冒頭にいきなり光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。
004
ぼーっとテレビを見ていて突然「乙女の像」が写り、仰天しました(笑)。厳密にいうと「乙女の像」のある休屋地区は「奥入瀬」ではないのですが、よしとしましょう(笑)。

「大人の休日倶楽部」CMは、20年もの長きにわたり吉永小百合さんが出演されていましたが、今年から竹野内豊さんにバトンタッチされ、3月から放映されていた「福島・会津」篇に続いて2作目です。
006 007
奥様役はJRさんでお名前を公表されていませんが、河井青葉さんという女優さんのようです。

お二人はJRバスに乗って、十和田湖から奥入瀬渓流へ。
012 009 
005 008 
010 011
013
まさに今、現地はこんな感じなんでしょうね。

15秒バージョンとと30秒バージョンの2種が制作されています。



今後、ぜひ花巻篇や安達太良山篇、九十九里浜篇なども作っていただきたいものです(笑)。

【折々のことば・智恵子】

芸術の問題から、魂の事を除外しては――表現の技巧ばかりの事では――われわれを感動させる事は不可能です。


アンケート「好きな俳優=その理由=」より 大正13年(1924) 智恵子39歳

全ての芸術にあてはまることですね。

『毎日新聞』さん12月11日(木)夕刊に載った、比較文学・比較芸術ご専門の東京大大学院教授・今橋映子氏の玉稿です。

美の越境 「新美術」を世に送り出す

 明治大正期、洋画の世界では、古美術ではないという意味での「新美術」をいかに世に広め、画家たちが自活でき、そして作品として評価されるか――が、大きな課題となっていた。
 岩村透(1870~1917年)という東京美術学校教授で美術批評家は、「要は食えないという問題をどうするか」を、若い美術家たちのために真剣に考え、新美術を売るための場所や戦略を考えた。
 その一つの解決法が、現代の画廊にあたる「新美術店」(あるいは「画堂」とも称す)の創設である。12(大正元)年開店の「画博堂」は岩村の強い勧めによるものであったという。岩村自身は同世代の工芸家たちとともに、「吾楽殿」(11年)を創始し、そこで最先端の工芸作品を厳しい相互批評で創り、一般市民に販売するという方策も立てた。
  同じく10年に、彫刻家で詩人であったあの高村光太郎も、「琅玕洞(ろうかんどう)」という画堂を開いたことは知られているだろうか。光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである。
 今回、埼玉県立近代美術館で単館開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展(2026年1月18日まで)は、光太郎と同世代、岩村より半世代若い写真家と洋画家、共に埼玉生まれの優れた創作家二人の、それぞれの歩みを堪能できる展覧会である。
 ただそれだけでない。今回は、銀行家の裕福な実家のお陰もあって、その富を画堂の創設や美術家支援に惜しみなく使った野島康三の活動と、彼と協働した斎藤与里の活動にも焦点を当てる、盛りだくさんの展覧会になっている。
 斎藤は野島に油彩画の技法を教えた存在だが、彼らは師弟というより、友人あるいは同志と言うべきだろうか。
 驚くのは野島の「兜屋画堂」(19~20年)、およびその後自邸を画堂とした活動(22~34年ごろ)で取り上げられた「新美術家」の名前である――梅原龍三郎、関根正二、村山槐多(かいた)、中川一政、恩地孝四郎といった洋画家たちのみならず、岡田三郎助を筆頭とする装飾美術家、藤井達吉や富本憲吉、高村豊周(とよちか)といった工芸家たち、あるいは山本鼎(かなえ)の児童画まで、ジャンルを超えた新しい才能が次々と紹介されたのである。
 野島自身は写真史ではいまやよく知られる存在で、岸田劉生の画風を思わせるような重厚なピクトリアリズム写真からスタートし、30年代には日本におけるモダニズム写真の根拠地となった雑誌『光画』(32~33年)の同人(他に中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男)であり、表現者であり、出資者でもあった。ここでもまた、日本の新興写真の支援者であったという見方ができる。
 10年代以降、東京には多くの画堂が開店し、新美術は、文展のような公的展覧とは別のルートを持つことで、社会と繋(つな)がり、顧客を得て、批評や評価の機会を得ることができた。つまり近代のアバンギャルド芸術は、こうした「場」の創始と不可分な関係にあったのだ。
 野島・斎藤の二人展は埼玉を機縁として、深く新美術創出の歴史へと私たちを連れていく。彼らのコラボレーションの熱気にあてられつつ、できるならば将来、吾楽殿、琅玕洞や兜屋画堂で開かれた展覧会そのものの再現展に立ち会えないだろうか――そんなむちゃな空想に浸りつつ、北浦和公園の深まる秋の小径(こみち)をたどった。
001
野島康三「チューリップ」(1940年、京都国立近代美術館蔵)
000
斎藤与里「秋海棠」(50年、埼玉県加須市蔵)
 
埼玉県立近代美術館さんで開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展をご覧になっての評というか随想というか、です。

光太郎と共にヒユウザン会(のちフユウザン会)を立ち上げた斎藤与里はともかく、野島康三という写真家については、当方、寡聞にして存じませんでした。ただ、野島が経営していたという「兜屋画堂」は、光太郎が開いた琅玕洞ともども日本近代美術史を論じた文献等に時折その名が出てくるので記憶の片隅にありました。

兜屋及び、その後、自邸を画堂とした中での出品作家に、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周の名が上げられています。そこで、文治堂書店さんから発売された『髙村豊周文集』を繙いてみたところ、第4巻に以下の記述がありました。

 大正八年には装飾美術家協会が結成された。広川君や私などの青年の工芸運動に大先輩が協調してくれた結果を示したのが此の協会だ。岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉といふ先生方が集つた。広川、髙村、西村敏彦、原三郎、その他の若手がみな一緒になつた。築地の精養軒で華々しい旗上げをして、第一回展を神田神保町の兜屋画堂で開いた。これは模範的な最高級画廊として当時の野島康三氏が経営に当たられたものだつた。
(「広川松五郎追憶」 昭和28年=1953)

「広川君」は豊周の盟友にして染織工芸家の広川松五郎です。

その他、兜屋画堂については随所で触れられていました。なるほど、という感じでした。ただ、光太郎と野島には深い関わりはなかったらしく、『高村光太郎全集』には野島の名は出て来ません。

玉稿では、兜屋に先行する光太郎の琅玕洞にも触れて下さいました。文脈としては連載のタイトルにもなっている「美の越境」ということで、「光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである」。

確かに琅玕洞では、斎藤、正宗得三郎、柳敬助、濱田葆光、荻原守衛、岸田劉生、津田青楓らの油彩画、石井柏亭の版画、西洋画の複製などの他、藤井達吉の工芸作品なども並べました。しかしそれらだけでは売り上げは芳しくなく、与謝野夫妻の短冊、父・光雲の伝手で板谷波山の陶器、伝統的な木工作品なども扱っています。そのあたりは経営していくためには、背に腹は替えられぬという判断においてであったようです。それでも経営的にはまるで成り立たず、僅か一年で大槻弍雄(つぐお)に譲渡されてしまいます。

さて、埼玉県立近代美術館で開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展、出品目録にその名はありませんでしたが、光太郎や豊周の名がキャプションに出たりといったことはありそうです。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
002 003
【折々のことば・智恵子】

冬の朝しづかに銀葉の上、一すぢほのかなけむりを見つゝ玉露を飲むはこよない。甘美な刺戟が味覚に浸み、どこか奥底にとゞくとき感情は尽きぬ流れになる。併私達多くは言葉なく感じ、理解し、各々の無言のうちに心充つる静寂にして白熱する朝夕が生活におとづれたのをしる。


散文「画室の冬――ある日の日記――」より 昭和2年(1927) 智恵子42歳

雑誌『婦人之友』第21巻第2号に掲載された長い文章の一節です。公に発表されたものとしては智恵子の最後の文章となりました。

12月7日(日)、地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。ご執筆は東京国立近代美術館(MOMAT)さんの主任研究員・成相肇氏。ネット上に見当たらず、同紙独自なのか、よくある通信社等の配信記事なのか判然としませんが。

手は物語る…1 高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻

000 東京国立近代美術館のコレクションの中から、「手」にまつわる作品を紹介していきましょう。時代や表現方法を問わずさまざまに表されてきた手の図像の中に、美術の魅力の手掛かりを探ります。
 ちょうど新聞紙片面の横幅くらいの高さの大きなブロンズ製の手。詩人として も知られる高村光太郎(1883~1956年)の彫刻です。あるとき自身の左手をじっと見ていると「自分の手でないやうな気が」して、「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」かのように思えた。そして、おもむろに「施無畏印(せむいいん)」(奈良の大仏と同じポーズ)の形にしたときに感じた「自分の手の威厳」と「霊光」をどうにか再現しようと思った、と光太郎は述べています。
 実際、この作品のてのひらに正対して眺めてみると、仏像のように穏やかで落ちついた印象です。そういえば光太郎の父・光雲は江戸時代に仏師からキャリアを始めた彫刻家でした。
 この作品で何より興味深いのは、台座に対して手が少し横を向いている点です。この台座は作者が彫った木ですから、角度にも意図が込められています。そこで今度は台座に対してまっすぐ向き合ってみると、たちまち緊張した指の筋肉が際立ち、ダイナミックな動きが立ち現れます。光太郎は近代彫刻の祖とされるオーギュスト・ロダンを日本に紹介した人物でもありました。この手の力強いひねり、張り詰めた劇的な筋肉の動きは、まさしくロダンからの影響といえるでしょう。
 「霊光」はこのひねりにこそ宿っています。すなわちこの作品には、一点において和と洋が、静と動が、同居しているのです。ほんのわすかな角度の差で、洋の東西が大きくシフトする。真横から見ると鳥のような優美な形をしたこの「手」は、まさしく近代の彫刻が飛躍しようとする一瞬を凝縮した作品なのです。
 当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています。自宅でも、ぐるぐるといろんな角度から眺めて楽しんでみてください。

前半に引用されている「自分の手でないやうな気が」「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」などは、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に載った光太郎の「手紙」と題する散文の一節です。筑摩書房『高村光太郎全集』にもれていたものですが、「手」に関して最も多くが語られており、しかもほぼ制作リアルタイムのもので、これを参照しなければ「手」の考察は不可能と言っていいくらいのものです。MOMATさんでも気づいて下さったかという感じでした。

その後の「角度」の話や「和と洋」「動と静」といった解釈、確かにその通りですね。ただ、同じ光太郎生前鋳造の「手」でもMOMATさんのもの(有島武郎・秋田雨雀旧蔵)と朝倉彫塑館さん所蔵のもの(朝倉文夫が購入したもの)では微妙に角度が異なり、そのあたり詳細な考察が為されることを期待します(或いは既に為されているかもしれませんけれど)。それを言えば、台座の形状、ブロンズの仕上げ(つやの有無)もかなり異なります。

最後に「当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています」とありますが、「台座から引き抜いて……」はこちら、「全方向から見られるデータ」はこちらをご参照下さい。

「手」は、同じ型から鋳造されたものが数多く存在します。ぱっと思いつくだけで、 国立東京近代美術館(MOMAT)さん、朝倉彫塑館さん、髙村家、碌山美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん、島根県立美術館さん、たましん美術館さん、呉市立美術館さん、岩手大学さん、千葉県立美術館さん、山口県宇部市さん(なぜか中国地方に多いのが不思議です)。その他の公的機関でもまだ所蔵があるような気もしますし、オークションに出たこともあります(ただ、中には「レプリカ」と断られているものもあるようで)。

各地で「手」をご覧になる方、上記のような点に注意して観て下さい。ちなみに当方、また明後日、花巻で観て参ります。

【折々のことば・智恵子】

あなた御自身、如何なる方向、如何なる境遇、如何なる場合に処するにも、たゞ一つ内なるこゑ、たましひに聞くことをお忘れにならないやう。この一事(いちじ)さへ確かならあらゆる事にあなたを大胆にお放ちなさい。 それは最も旧く最も新しい、生長への唯一の人間の道と信じます故。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 智恵子41歳

この一節も、智恵子の言葉としてはよく引用されるものの一つです。

結局、智恵子は「あらゆる事にあなたを大胆にお放ち」出来なかったと思われますが……。

文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』の第二十一号が届きました。同社は当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっており、当会としてはいわば先代からのおつきあい。そこでいつのまにか連載を持つことになっていて、「連翹忌通信」の題で書かせていただいています。
001 002
そうそう持ちネタがあるわけでもなく、また、読者層も少々異なるようなので、このブログに書いたようなことを換骨奪胎したり、逆に膨らませたりして書いています。

今号は「マドモワゼル・ウメ」。

光太郎が智恵子と知り合う直前にいい仲だった、淺草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅に関してです。光太郎は詩「食後の酒」(明治44年=1911)に「マドモワゼル・ウメ」としてお梅を謳った他、複数の詩文で彼女について書き残しています。

 雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

当時、よか楼では女給の顔写真を載せた新聞広告を盛んに出していたというので、お梅も写っているだろうと思い、調査した件を書きました。
000
結果、かなりのパターンの広告が見つかったのですが、女給の名が記されて居らず、お梅と断定できるものはありませんでした。

ところが、こうした広告でないところで、お梅の写真を確認できました。
001
掲載されていたのは、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わり髙村家を継いだ豊周による『光太郎回想』という書籍です。

豊周曰く

兄の好きになる女性は、ずっと通して顔だちに共通のところがある。いわば智恵子風の平たい丸顔で、お梅の顔も智恵子に似ていたと後から気がついた。それから推して、若太夫の顔もそんな風で、兄ははじめて智恵子と会ったとき、「若太夫に似ているな」と第一印象で思ったそうだ。

「若太夫」はお梅の前に入れ込んでいた、吉原河内楼の娼妓です。彼女については『とんぼ』の前号に書きました。

「光太郎回想」には3種類の版があります。まず、有信堂から昭和37年(1962)に刊行されたオリジナル、続いて、その全文にさらに他の光太郎に関する短文等を併せて編まれ、同じ有信堂から昭和47年(1972)に刊行された『定本光太郎回想』、そして名著の復刻的なコンセプトのシリーズ「人間叢書」のラインナップで平成12年(2000)に刊行された日本図書センター版です。
004
手許には、最も本文の分量が多い『定本光太郎回想』しかありません。数十年前、オリジナルと定本を比較し、こっちの方が内容が充実している、というわけで「定本」のみを購入しました。ところが、オリジナルと「定本」では掲載されている画像の種類が異なり、お梅のそれを含む「定本」に載っていない写真がオリジナルにたくさんありました。逆も又然りでしたが。購入時にはそこまでは気づきませんでした。

そんなこんなを今号の『とんぼ』に書きました。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。頒価600円だそうで。
003
今日の記事最上部リンクからも注文可と思われますが。

ちなみにオリジナル『光太郎回想』には、他にも昭和31年(1956)4月2日に光太郎が亡くなった際の死に顔の画像も出ています。さすがにここに載せるにはためらいますが……。

【折々のことば・智恵子】

日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。


アンケート「棄権――総選挙に誰れを選ぶか?」より
 大正13年(1924) 智恵子39歳

この時代、女性には選挙権がありませんでしたが、もしあったらという仮定の下での回答です。

後の部分では「私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。」とも。

100年経っても「利害」「情実や術数の巣のやうな政党」に牛耳られているこの国の現状を見て、泉下の智恵子はどう思うでしょうか……。

コンサート情報、2件ご紹介します。

開催日順に、まずは都内から男声合唱。

男声合唱団東京リーダーターフェル1925 創立100周年記念定期演奏会2025

期 日 : 2025年12月19日(金)
会 場 : すみだトリフォニーホール 東京都墨田区錦糸1-2-3
時 間 : 18:30開演
料 金 : S席 3,000円 A席2,000円
      プレミアムチケット特別席 ペア特別席と5,000円の寄付で10,000円

創立100周年を迎える男声合唱団東京リーダーターフェル1925が、記念すべき節目にすみだトリフォニーホール大ホールで贈る四部構成の記念演奏会です。第一ステージではこれまでに委嘱された小品集と一青窈さんの〈ハナミズキ〉を米国の詩人アーサー・ビナードの英訳版で演奏。続くステージではシューベルトの男声合唱名曲集を弦楽五重奏とともに、さらに第3ステージでは鈴木憲夫先生の本邦初演作を第4ステージでは当団にゆかりのある仲間と一緒に高村光太郎作詞 清水脩作曲の〈智恵子抄〉を、最後に長年にわたりお付き合いのある韓国男声合唱団を迎えて韓国曲「ポリバ」や「なつかしい金剛山」を共演。多彩な作品と100年の歴史が紡ぐハーモニーを心ゆくまでお楽しみください。今回はMCによる曲目紹介もありますので初めて男声合唱を聴く方にも分かりやすい演奏会にしておりますのでぜひご来場お待ちしております。

プログラム
 第1ステージ 委嘱作品小品集
  夜明けのうた 岩谷時子作詞 いずみたく作曲 安藤由布樹編曲
  竹田の子守歌 京都府民謡 和田和宏編曲
  牛深ハイヤ節 熊本県民謡 相澤直人編曲
  江戸木遣り唄 東京都民謡 土田豊貴編曲
  A HundredYears一青窈作詞 アーサー・ビナード英訳 マシコタツロウ作曲 和田和宏編曲
 弟2ステージ シューベルト男声合唱曲集
  夜 春へ ナイチンゲール 水上の精霊の歌
 第3ステージ 創立100周年記念委嘱作品
  宇宙の塵となって… 塔和子作詞 鈴木憲夫作曲
 第4ステージ ターフェルの仲間たちと共に
  或る夜のこころ 高村光太郎作詞 清水脩作曲
  智恵子抄巻末のうた六首 高村光太郎作詞 清水脩作曲
  ポリバ(麦畑) 韓国歌曲
  クリウンクムガンサン(懐かしい金剛山) 韓国歌曲

出演
 合唱:男声合唱団東京リーダーターフェル1925 
    男声合唱団東京リーダーターフェルジルヴァーナー1995

 指揮:樋本英一 佐藤洋人 岩佐義彦 金弘植  ピアノ:高取達也 大下さや香
 ギター:宮下祥子 弦楽五重奏:尾原記念五重奏団
004
003
男声合唱の古典の一つ、清水脩氏作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」(昭和39年=1964)、同じく清水氏の「或る夜のこころ」(昭和40年=1965)が演奏されます。共に定番すぎて却って最近は取り上げられる機会が多くない曲だと感じます。

それにしても創立100周年というのがすごいと思いました。100年前はまだ大正ですから。

もう1件、大阪から器楽系です。

『クレモナ』モダンタンゴ・ラボラトリ第19回定期公演「ほんとうの空」

期 日 : 2025年12月21日(日) 
会 場 : あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール
      大阪市北区西天満4丁目15-10
時 間 : 開場: 13:00 / 開始: 13:30 / 終了: 15:30
料 金 : S席 6,000円 A席 5,000円 B席 4,000円 (当日各500円増) 

空を聴く。音楽を超える体験を 東京には空がない、と言った高村智恵子。星月夜を描いたゴッホ。そして私たちは音楽で、「ほんとうの空」を描きます。

プログラム(一部抜粋)
 坂本龍一:戦場のメリークリスマス・Aqua・東風 
 ピアソラ:ブエノスアイレスの冬・1960年のナイトクラブ・天使の復活 
 オリジナル曲:ほんとうの空 ― クレモナが贈る最新作
  ※ほか、坂本龍一・ピアソラ作品を中心にお届けします。
出演者
 『クレモナ』モダンタンゴ・ラボラトリ
 森脇佑季 fl 上野舞子 sax 松田あやめ hrn 久保田ひかり fg
2016年結成。「アストル・ピアソラ」の遺志を継ぎ、クラシック音楽の「次の100年」へ繋げる、新しいスタイルの木管四重奏団。国内唯一の「ピアソラ専門」の室内楽団であり、これまで50曲以上を手がけ、全ての楽譜を自分たちの手でオリジナルアレンジをし、暗譜で演奏をする。対位法を駆使して新たな音響効果に挑戦し、歌口の異なる4本の管楽器それぞれの限界に挑戦したアドリブ・ソロの数々、まるで4本で演奏しているとは思えないような卓越した新しいサウンド、クリアな音像とストイックな演奏スタイルは、他のアンサンブルの追随を許さない。
000
001
「智恵子抄」に収められている「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」からのインスパイアで、オリジナル曲「ほんとうの空」が初演され、それをコンサート自体のタイトルに持ってきて下さいました。

カフェでの公開練習をなさったり、X(旧ツィッター)instagramで練習の様子を動画で公開なさったりと、出演者の方々のコンサートにかける意気込みがうかがえます。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・智恵子】

恋愛、母性愛、全人類に対する平等愛、すべて熱烈な願望の火と燃ゆる愛の生活こそ、人間の最上のものであるこの事に一点の疑義はありません。


散文「生き甲斐のある悩みを悩め」より 大正13年(1924) 智恵子39歳

「恋愛は婦人最上のものか」の総題で、宮本百合子、原阿佐緒、神近市子らの文章と共に、雑誌『女性』第5巻第2号に掲載されました。
005
智恵子の熱量が伝わってくる一節ですね。

現在開催中の企画展示についての報道を2件。いずれも『毎日新聞』さんから。

まず、北海道版。札幌の本郷新記念美術館さんの「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」についてです。

著名作家の名品、彫刻三昧-50選 本郷新記念美術館/北海道

 展覧会「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」が、札幌市中央区の本郷新記念札幌彫刻美術館で開かれている。ロダン、高村光太郎、佐藤忠良をはじめとする国内外の著名作家の作品50点を展示している。2026年1月4日まで。
 展覧会は、札幌芸術の森(南区)開園40周年を記念して開催。収集してきた彫刻コレクションから50展を選んだ。印象派の画家、ルノアールの彫刻も含まれ、2点展示。ブロンズ「ヴェールを持つ踊り子」(1908年)は優美な動きを感じさせる。ルノアールは晩年、リウマチに苦しみながら弟子と共に彫刻を制作した。 日本の近代彫刻の先駆け荻原守衛の作品も展示している。ブロンズ「文覚」(同年)は筋骨隆々とした男性が厳しい表情で腕を組む。荻原は渡仏して、近代彫刻の父ロダンに影響を受けた。 休館日は月曜と年末年始(12月29日~1月3日)。問い合わせは同館(011・642・5709)へ。
003
光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。
008 009
明けて1月4日(日)までの会期です。ただ、前日まで年末年始休館ですが。

続いては大阪国立国際美術館さんの「特別展 プラカードのために」。

「周縁」を問う、7人の闘い 特別展「プラカードのために」 大阪・国立国際美術館

 生活者の視点から創作を続け、既存の制度や構造に問いを投げかける7人の作家の作品を集めた特別展「プラカードのために」が大阪市北区の国立国際美術館で開かれている。
 タイトルは出展作家の一人で、時代に先駆けたフェミニズム作品で再評価が進む田部光子さん(1933~2024年)が、61年に発表した文章から取っている。当時の安保闘争や三池闘争、米公民権運動、コンゴ動乱などを背景に<大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作>り、<たった一枚のプラカードの誕生>によって、社会を変える可能性を記した文章だ。思いは同年制作の5点のコラージュ作品「プラカード」(61年)に結実した。
 本展を企画した同館主任研究員の正路佐知子さんは<たった一枚のプラカード>とは「行き場のない声をすくいあげ、解放の出発点となるような、生きた表現の象徴でもある」と指摘。それが本展を貫く一つの道標となっている。
 田部さんは福岡発の前衛芸術家集団「九州派」(57~68年)の主要メンバーとして活躍。90年代からは海外にも活動の場を広げ、10年代まで旺盛な創作活動を続けた。本展では「プラカード」や、同時に発表された妊娠からの女性解放をうたったオブジェ「人工胎盤」(61年、04年に再制作)など28点を展示している。
006
 壁一面に色とりどりの切り絵が並び、天井からもつり下がる。谷澤紗和子さん(82年生まれ)の作品群だ。11枚組みの新作インスタレーション「目の前に開ける明るい新しい道」(25年)のほか、洋画家・切り絵作家の高村智恵子(1886~1938年)への手紙などを切り絵にした連作「はいけいちえこさま」など女性表現者の先達との架空の「対話」によって生み出されたシリーズを展示。
 「目の前に~」のうちの一作「お喋りの効能(西瓜(すいか))」は、中国の民間芸術「剪紙(せんし)」作家、庫淑蘭(クー・シューラン)さん(1920~2004年)の作品を基にしている。庫さんは季節の表象としてスイカを配置したが、谷澤さんはスイカがパレスチナ連帯のモチーフとして知られていることもふまえ、現代の視点で再構成した。作品を縁取る枠に並ぶ切り抜き文字は、無政府主義者の大杉栄らが虐殺された甘粕事件について智恵子が書いた文章。谷澤さんの作品は幾重にも覆われた「周縁化」のベールを一枚ずつめくり内にあるものを見つめる視点を持つ。「切り絵」という芸術もまた、美術史の中では周縁化されてきた。
005
 暗い地下道を男が何かつぶやきながら歩いている。飯山由貴さん(88年生まれ)の映像作品「In−Mates」(21年)はそんな場面から始まる。飯山さんは社会の周辺に置かれた人々への聞き取りや記録資料を糸口に個人と社会の関係を考察し、作品づくりに取り組んできた。「In~」は、戦前に東京都内の精神科病院に隔離入院していた2人の朝鮮人患者の看護日誌を基に、関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史を追う。22年、東京都人権プラザでの上映を「企画趣旨に合わない」などとして都が認めず問題となった。美術館での上映は初。
 「In~」は、川崎市出身の在日コリアンのラッパー、FUNIさんが、看護日誌に残った2人の言葉や葛藤を自身の肉体を通して「再現」し、現在まで続く差別の歴史を重ね合わせていく。冒頭から登場する地下道は、彼らが隔離された精神科病院にも、在日コリアンらが置かれた、あるいは私たち自身が置かれた閉塞(へいそく)した状況にも見える。自由への問いは、さまざまな自由を知らぬ間に手放しつつある私たちへも鋭く突き刺さる。
007
 ひときわ大きな空間をひときわ大きな空間を使っているのが福岡県八女市在住の牛島智子さん(58年生まれ)の新作インスタレーション「ひとりデモタイ箒(ほうき)*筆*ろうそく」(25年)だ。牛島さんは地元の産業や歴史に根ざした素材を使ったインスタレーションで知られる。 本作は八女和紙とコンニャク糊(のり)で作った二十七角形の巨大な「フィールド」の上に、家や箒、ろうそく、筆などを模した造形物が置かれ、天井からは牛島さんの詩や言葉を記した和紙のカードがつるされる。家の屋根の上に座っているのは一人の女性。歴史的に「家」に閉じ込められてきた「家婦」(家庭の中で仕事をする妻)がその外に出ている姿だ。 牛島さんは展示室の空間を見て「すぐに革命前夜の沸き立つイメージが出てきた」と語る。あらがうのは「私」であり、でも、一人一人が集まれば「隊」にもなる。タイトルにはそんな思いも込められている。
004
 このほか、労働と支配の関係を問う笹岡由梨子さんのインスタレーション▽複数の男性と女性1人による自身の共同生活を撮影し、家族や結婚の常識を問う金川晋吾さんの写真シリーズ▽08年から宮城県で暮らし、制作する志賀理江子さんの映像インスタレーションなど。来年2月15日まで。

こちらに関しては、年が明けてから行こうと思っています。年内はまだあちこち足を運ぶ予定がつまっていまして。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・智恵子】

すべてを破壊し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新しい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。

散文「建設の根源は此処に在り」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

関東大震災を受けての文章の一節です。

昨日の青森での大地震には驚きました。地震そのもので亡くなった方がいなかったようなのは不幸中の幸いですが。

↑このページのトップヘ