こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。
まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。
高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。
続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。
花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。
正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。
ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。
さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、
結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。
「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。
まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。
詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。
続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。
対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。
正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。
ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。
さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、
昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳
結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。
「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。