新しい資料ではありませんが、最近入手したものを紹介します。 

「横笛物語 第三巻」福原一笛 CDアルバム 定価2381円+税

  
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横笛奏者、福原一笛さんのCDです。
 
「智恵子と空」「霞ヶ城幻想曲」という曲が収録されています。流行りの言葉で言えば智恵子へのオマージュといったところでしょうか。平成8年(1996)のライブ録音だそうです。
 
福原さんのHPを拝見しましたが、人間国宝の横笛奏者、故・寶山左衛門(たから・やまざえもん)氏に師事なさったとのこと。
 
寶氏のCD「笛のこころ」は以前から持っており、そちらにも「智恵子と空」が収録されています。
 
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「霞ヶ城幻想曲」の方は、福原さんの作曲で、笛以外にシタール、タブラが使われており、不思議な感覚の曲です。ちなみに「霞ヶ城」は二本松霞ヶ城、智恵子の故郷にある城ですね。
 
こういったものも、誰かが気をつけて情報や現物の収集をしておかないとなりません。少し前に、戦時中の光太郎作詞の歌曲について、SPレコードやら楽譜やら、当時出たものをいろいろ調べていたのですが、たかだか数十年前の話なのに難航しました。
 
現代のものでもまだまだ当方の知らないものがいろいろあるようです。こんなものもある、という情報をお待ちしております。

神田の古書店、八木書店様より少し前に送られてきた講演会の案内です。光太郎がメインではありませんが、ご紹介します。 

晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-

講師 逸見久美氏
日時 平成24年9月29日(土) 15:00~
会場 東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール
入場無料

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光太郎と親交のあった与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻研究の第一人者であらせられる逸見氏のご講演です。氏の編まれた『与謝野寛晶子書簡集成』には光太郎の名が散見され、「光太郎遺珠」編集に際して大いに参考にさせていただきました。
 
今月末に八木書店様の出版部から『新版 与謝野寛晶子評伝昭和篇』という氏の新著が刊行されるので、その関連と思われます。
 
講演会自体はまだ先なのですが、「先着80名」だそうですので、早めにご紹介いたします。
 
ここ数年、与謝野夫妻と光太郎がらみでの新資料をいくつか見つけていますので、当方も聴きに行ってみようと思っております。

あまり光太郎と関係ないかも知れませんが、yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

GRACE of JAPAN~自然の中の神々【文豪の町 根津神社・白山神社】

BSジャパン 2012年8月16日(木) 21時00分~21時54分
 
日本全国の約8万の神社の中から、その季節、全国で最も美しいとされる神社と周りに広がる美しく神秘的な風景を、静かな感動とともにお楽しみいただけます。
 
東京の東側、文京区の鎮座するお宮「根津神社」「白山神社」の2つのお宮。古き良き下町情緒を残す街並み、迷路のように細い路地が入り組み昔の面影を今だに残す町。この地域は多くの文豪が愛した文化香る町として知られています。森鴎外、夏目漱石、高村光太郎、与謝野鉄幹、石川啄木、川端康成など日本を代表する文豪たちが住み、その文豪たちの小説にもたびたび登場する「根津神社」「白山神社」をご紹介します。
 
◆ナビゲーター 堤真一
 
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女川レポートの最終回です。
 
8月10日(金)、石巻の宿を出て、再び女川に向かいました。佐々木(貝)廣さんの御霊前に焼香と、女川港の現状を観るためです。
 
前日の女川・光太郎祭参加の際に、女川港も通りましたが、今日はバスを止め、歩きました。

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一面、更地のようになっていますが、かつてはここが繁華街でした。そうといわれなければとても信じられないと思います。横倒しになったビルが三棟、そのままになっているのが名残です。今さらながらに津波の膨大な力に驚きました。

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4基あった光太郎碑のうち、2基だけはかろうじて残っています。メインの大きな碑は仰向けに倒れています。公園だったこの一帯は地盤が1㍍以上沈下したということで、満潮時には海水が周りを覆い、近づけません。おそらく文学碑としては日本最大、といわれていただけに、かえって動かそうにも簡単には動かせないようです。

メインの碑の真下にあった短歌「海にして……」を活字で刻んだ小さい碑は無くなっています。

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詩「霧の中の決意」を刻んだ碑は、ほぼ元の通り残っていました。

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それとセットになっていた詩「よしきり鮫」を刻んだ碑も行方不明とのこと。北川先生曰く、「よしきり鮫だけに、海へ帰ったんでしょう」。
 
前日の光太郎祭の中で、女川町長・須田善明氏があらたに公園を作り、そこに今ある碑を設置し直す予定とおっしゃっていました。震災の爪痕を風化させないためにも、そうしてほしいものです。横倒しになったビルのうち、元の交番だった建物も残すという話が持ち上がっているようです。地元の人々にとっては、辛い記憶の残るモニュメントとなると思いますが、やはりこういうことも大事なことだと思います。

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その後、仮設商店街に行きました。仮設住宅は当方の住まう千葉県香取市にも作られましたが、仮設商店街というのは初めてでした。

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港の周辺は壊滅状態でしたが、仮設住宅や仮設商店街には人々のエネルギーが溢れ、改めて人間の素晴らしさを感じました。しかし、そこにいる人々は皆、多かれ少なかれ痛手を負っているわけで、でも、そこから立ち直り、進んでいこうとなさっているわけです。
 
我々一般庶民に出来ることは小さなことだと思いますが、被災地のためにできること、やらなければいけないこと、もう一度考えてみたいと思います。
 
話は変わりますが、今日は国会図書館に行ってきました。地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前駅で降り、議事堂の裏を通って図書館に向かいつつ、議事堂の中で政争に明け暮れているセンセイ達を思い、腹が立ちました。もっと他にやるべき事があるんじゃないの? と。
 
おそらく一年後にまた女川を訪れることになると思います。一年後の女川がどうなっているのか、無論、復興していて欲しいと願っています。
 
以上、女川レポートを終わります。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭。北川太一先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の方々・北斗会さんで手配して下さいまして、石巻グランドホテルさんに宿泊致しました。
 
夕食の際にはサプライズが用意してありました。北川先生の米寿の御祝。これまでも北斗会の皆さんは、北川先生の還暦、古希、喜寿などの御祝いを企画なさってきており、北川先生が最近はあまり外に出られないということもあって、今回、それを兼ねることにしたそうです。教え子の皆さんも、教え子とは言う条、年かさの方はもう70代。北川先生とは60年以上のおつきあいです。それほどの長いおつきあいがあるというのも素晴らしいことですね。

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女川・光太郎の会の皆様、本宮寛子氏、ギタリストの宮川菊佳氏も交え、楽しい一時となりました。
 
翌朝、早くに目が覚めてしまいまして、石巻の街を散策してみました。石巻は昭和6年、光太郎が紀行文「三陸廻り」の連載第一回を記した地です。やはりあちこちに震災の爪痕がまだ残っています。

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ビートたけしさん、木村拓哉さんが出演されていたトヨタのReBORNキャンペーンCMに使われた石ノ森萬画館。石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎さんの記念館です。いまだ休館中でした。

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歩道橋には何やら青いプレートが。

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近づいてみると、この高さまで津波が来たという標識でした。

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橋の欄干もひん曲がっています。

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しかし、さすがに震災からもうすぐ1年半。復興は進んでいるようです。ReBORNのCMでは辺り一帯が廃墟でゴーストタウンのようになっているのかな、と思いましたが、そんなことはなく、街には普通の生活が見られました。もっとも、もともとの石巻の姿をよく知りませんし、1年半経って、瓦礫の撤去が進んだために却って被害の後がよく分からないのかも知れません。人々の生活にしても、旅人の自分には見えない所での苦労はまだまだたくさんあることと思います。
 
朝食後、再びバスで女川に向かいました。かつて光太郎碑が建っていた港の辺りを見に行くのがメインです。そのあたりはまた明日。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭に参加して参りまして、昨夜、帰宅いたしました。今日から数回、レポートさせていただきます。
 
朝7時、池袋駅前からマイクロバスに乗り込み、いざ出発。今回は北川太一先生が久々に参加なさるということで、先生が高校で教鞭を執ってらした頃の教え子の皆さんの会である北斗会の方々のお世話になりました。バスも北斗会で手配して下さいました。北川先生は奥様、息子さんとご一緒に仙台まで新幹線。宿泊予定の石巻グランドホテルで合流しました。
 
一路、女川へ。光太郎祭自体は午後1時開始でしたが、我々は3時からの第二部に参加致しました。
 
会場は町立野球場に作られた仮設住宅敷地内の坂本龍一マルシェ。坂本さんが資金を提供して作られた巨大テントです。

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女川町長・須田善明氏のご挨拶の後、北川先生のご講演。演題は「かさねて最後の詩「生命の大河」について」。北川先生、以前は毎年女川・光太郎祭でご講演をされていましたが、ここ数年は体調の問題もあり、ご欠席なさっていました。しかし、かつての光太郎祭を中心となって運営されていた佐々木(貝)廣氏が昨年の大震災で津波に呑まれて亡くなり、女川を訪れてご焼香したいというご希望で、今回のご講演が実現しました。

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内容は、先生のご盟友・故吉本隆明氏、ヴァレリー、サルトル等の言と光太郎の詩をからめ、震災、原発問題にゆれる社会への提言といったものでした。

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その後、オペラ歌手の本宮寛子さんの歌。本宮さん、以前のブログにも書きましたが、平成3年に女川で開かれた詩碑除幕記念のオペラ「智恵子抄」上演以来、女川のご常連です。

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4時過ぎに閉会となり、またマイクロバスで石巻へ。明日は石巻での様子をレポートいたします。

女川港のかつて繁華街だったあたりを訪れました。

横倒しになったビルが三棟、光太郎碑も仰向けになっています。

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しかし、高台に上がれば、仮設住宅や仮設店舗には人々のエネルギーが溢れています。人間って、素晴らしいものですね。

明日以降、撮影した画像を交え、詳しくレポートいたします。


今日は宮城県女川町での第21回光太郎祭に来ています。

今しがた終わりました。これから石巻グランドホテルに向かいます。北川太一先生、女川光太郎の会の皆さんと懇親会です。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

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yahoo!のニュース検索で1件、ヒットがありましたのでご紹介します。光雲の代表作の一つ、有名な「老猿」に関してです。
 
画像は平成14年に開催された展覧会のチラシです。「老猿」が大きく載っているので使わせていただきます。 
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にほんご鹿沼市:高村光雲「老猿」生んだトチノキで「木彫りのまち」PRへ 第1弾、26日に国立博物館見学ツアー /栃木

 ◇若手林業者ら乗り出す
日本近代彫刻の重鎮・高村光雲(1852~1934)の代表作「老猿」の素材が、鹿沼市産のトチノキだったことに、同市の若手林業者のグループ「森のなかま」(福田勝美代表)が着目。「木彫のまち鹿沼」のPRに乗り出した。26日には第1弾として東京国立博物館に展示されている「老猿」見学ツアーを計画。国の重要文化財である作品を味方につけ、イメージアップに努める。【浅見茂晴】
木工業が盛んな同市には、鹿沼産材の使用拡大を目指し、森林組合や製材所、建具店など木工関係者でつくる鹿沼地区木材需要拡大協議会がある。「森のなかま」は協議会の企画を実行するグループで、チェーンソーアーティストによる松尾芭蕉像をまちの駅「新・鹿沼宿」に設置した。
また、彫刻屋台や木版画の「川上澄生美術館」もあることから、森のなかまでは「木のまち、木工のまち鹿沼」に続く第三のキャッチコピーとして「木彫のまち」を考案した。
高村は東京生まれ。仏師の弟子として木彫を学び、同時に西洋の写実主義を取り入れて、新しい時代を切りひらいた。「老猿」のほか東京・上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠公像などで知られる。
「老猿」(高さ90・9センチ)は1893(明治26)年のシカゴ万博出品のため制作。大ワシとの格闘直後の気迫あふれる姿を描写した。材料のトチノキは、鹿沼に来て買い付けた。その際のエピソードを「栃の木で老猿を彫ったはなし」に書き残している。同市の上粕尾地区にあった、幹の直径が約2メートルの大木を切り出したという。その後、切り株から新たな芽が出て、現在は3代目と伝えられる木が、幹の周囲約3メートルにまで成長している。
現地は林道の終点から徒歩約30分上った斜面にあり、雑草が生い茂っている。整備が必要な状態だ。「森のなかま」は11月、現地確認に訪れる予定で、このトチノキをそのシンボルの一つと位置づけ、イメージアップを図っていくと同時に木彫に関するエピソードの掘り起こし作業も進める。代表の福田さんは「老猿に使われた木にあやかって、いろいろな方法でPRし、木工業の発展に寄与したい」と話している。
見学日程は26日、市民を対象に定員25人を募集する。8月10日までに申し込む。問い合わせは、協議会事務局(電話0289・62・5171)。

毎日新聞 8月7日朝刊

光雲、この「老猿」の制作には非常に苦労したそうです。彫刻そのものに関してもそうでしたし、ニュースで取り上げられている材料の買い付けも予想外の出来事が重なったため苦労しています。また、ちょうどこの時期に長女(光太郎にとっては姉)さくが急逝するという悲しい出来事もありました。
 
そのあたりは光雲自身の回想録『光雲懐古談』(昭和4年)に詳しく書かれています。サイト「青空文庫」に掲載されていますので、リンクを貼ります。
 
それにしても100年以上前に一度伐採された栃の木がまた芽を吹いて生き延びている、というのもすごいですね。
 
花巻や二本松、女川、そして今回の鹿沼など、光太郎・智恵子・光雲ゆかりの地は全国にたくさんあります。それぞれの地域で町おこしに活用してほしいものですね。そういうことが顕彰活動にもつながりますから。
 
明日は宮城県女川光太郎祭に行って参ります。

昨日8月6日は広島原爆の日でした。001
 
そこで、昨日のブログでは光太郎が原爆に言及した文章を一篇、紹介しました。
 
昭和24年3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文が書いた広島での被爆体験記、『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。
 
その後、調べてみましたところ、小倉宛の書簡で『絶後の記録』に触れたものがいくつか見つかりましたので、関連する部分のみ抜粋して紹介します。
 
書簡三〇九一 昭和23年(1948)10月2日(『高村光太郎全集』別巻)
 「原爆手記」は期待されます。
 
書簡一五〇八 昭和23年(1948)12月10日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
 
書簡一五一二 昭和23年(1948)12月15日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
 
ここまでが初版の『絶後の記録』に関する内容でしょう。光太郎、若い詩人達から詩集などを贈られると律儀に返礼を書いていますが、ここまで手放しで礼賛している例は非常に珍しいことです。
 
 
書簡三〇九三 昭和24年(1949)1月5日(『高村光太郎全集』別巻)
 おてがみをよんで感動しました。
 「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
 
この時期におそらく海外輸出版の企図を伝えられたのでないかと推測されます。
 
書簡二八八六 昭和24年(1949)1月27日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
 
書簡二八九六 昭和24年(1949)2月20日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
 
これが海外輸出版の序文を書いたことに関わるのでしょう。
 
 
書簡三〇九四 昭和24年(1949)3月29日(『高村光太郎全集』別巻)
 中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
 
そして光太郎の序が載った海外輸出版が届いた、というわけですね。
 
小倉本人に宛てたものではありませんが、宮澤賢治の父・政次郎に宛てた書簡では、このように語っています。もともと小倉は宮澤賢治の研究者で、その関連で光太郎や政次郎と面識があった人物です。
 
書簡一五五四 昭和24年(1949)3月18日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 小倉豊文氏の「絶後の記録」が大変ひろく読まれるやうでよろこんで居ります。同氏の悲願がかなへられるやうにとおもひ居ります。
 
今年はオリンピックイヤーということで、昨日のニュースでは原爆の日の扱いが例年より少なかったように感じました。もちろん、ロンドンでの日本人選手の目をみはる活躍を報じることも大切でしょうが、やはり、日本人として、この日を風化させてはならないと思います。

今日は8月6日、広島原爆の日です。
 
光太郎が原爆に言及した文章を一篇思い出しましたので、紹介します。
 
昭和24年(1949)3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文著『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。また、その後中央公論社から覆刻された文庫版等にも掲載されています。画像は文庫版です。

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これもあまり長いものではありませんので全文を紹介しましょう。
 
豆ランプの光の下で小倉豊文氏の「絶後の記録」を読みをはつて私は何だか頭の中がきな臭いやうになり、自分がこんな静かな山の中の小屋に住んでゐるのをむしろ夢幻のやうにさへ感じた。翌日の夜また読みかへし、その後また読みなほして、しんから此の実感のあふれた記事の真相に心をゆすぶられた。甚だ素朴な書き方で氏自身の体験が端からつぎつぎと記録されてゆくうちに、此の火薬庫の爆発かと思つたものが、世界に於ける前代未聞の原子爆弾の爆裂である事がわかつて来る物凄さはまつたく私を戦慄させた。所謂原子爆弾症に仆れた夫人の事に筆が及ぶと殆と卒読に堪へない思がした。此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。此の記録を読んだらどんな政治家でも軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであらう。今後せめて所謂冷たい戦争程度だけで戦争は終るやうになつてくれなければ此の沢山の日本人は犬死にになる。此本を読んで世界の人々に考へてもらひたい。
   一九四九年二月
 
戦時中には国民を鼓舞する戦争詩を書きまくっていた光太郎にとって、広島の惨状を記録したこの書は、ある意味峻烈な刃となって突きつけられたものです。
 
こうしたものを読むだにつけ、自らの戦争責任への反省の意は強くなったと思われます。
 
本当に地球上から戦争というものが無くなる日が来てほしいものです。

ロンドンでは「熱い夏」が繰り広げられていますが、日本では「暑い夏」ですね。
 
光太郎は生涯冬をこよなく愛した詩人でした。詩「冬が来た」(大正2年)では、「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と謳っています。
 
逆に夏は大の苦手だと、いろいろな文章などで語っています。
 
下の画像は当方が持っている葉書です。昭和24年(1949)9月、花巻の山小屋から詩人で編集者でもあった八森虎太郎に宛てたもの。八森は北海道の札幌青磁社に勤務していました。

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おてがみと小包と忝くいただきました。中々乏しい品をお送り下され恐縮至極です。
今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。今は恢復しましたが、用心して静養してゐます。
秋冷の候がくれば相変らず元気になることと思つてそれを待つてゐます。
そのため諸方に御無沙汰を重ねてゐます。

「四度高熱を発し」はおそらく今でいう熱中症だったと思われます。
 
今と違って冷房もなかった時代でしたが、逆に今のように地球温暖化などと騒がれることもなかった時代でした。それでも光太郎は夏の暑さを大の苦手としていました。
 
当方、光太郎と違い、どちらかというと寒さの方が苦手です。しかし、このところの暑さには閉口しています。特に昼間の暑さは尋常ではありませんね。といって、冷房に長時間当たるのもあまり好きではありませんし、節電ということもありますので、ほとんど冷房なしで頑張っています。ただ、暦の上ではもうすぐ立秋。朝夕は少ししのぎやすくなってきたかなという感じです。
 
朝、四時頃からヒグラシやホトトギス、カラスが鳴き始めます。この時間帯は過ごしやすい。しかし、六時頃になってミンミンゼミが鳴き始めると同時に暑くなり始め、今(午後三時)、アブラゼミが鳴いている時間帯は炎熱地獄です。
 
みなさんもくれぐれも体調にお気をつけ下さい。

またオリンピック関連に戻ります。「またか」と思われるかも知れませんが、四年に一度のことですのでご寛恕の程。
 
『高村光太郎全集』の頁を繰っていて、光太郎がオリンピックに言及した箇所をまた発見しましたので、紹介します。
 
2篇あり、どちらも少し前に紹介した座談「新女性美の創造」と同じく、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックに関係するものです。
 
まず、第二十巻に掲載されている「「美の祭典」を観る」という散文。座談「新女性美の創造」を紹介した時にも書きましたが、「美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年。のんびりした話ですね。もっとも、純粋な記録映画ではなく、後から選手にもう一度演技してもらっての撮影、今で言う「やらせ」が多用されているとのことで、クランクアウトまでに時間がかかったようです。
 
初出は昭和15年12月1日発行の『科学知識』第20巻第12号。かなり畑違いの雑誌ですが、光太郎、本当にいろいろな分野の雑誌に寄稿しています。そのあたりについても後ほど書いてみようと思っています。
 
長い文章ではありませんので全文を紹介しましょう。「いかにも彫刻家」という視点が窺えます。
 
「美の祭典」の全体に叙情性の濃厚なのを認めた。闘争のスリルよりも均衡の美を求める努力と意志が著しい。体操と飛込とに一番多く時間を与へてゐるのでもわかる。
 編輯に於ける全体的構成の雄大なことと、撮影途上の細かい注意とは相変らず見のがし難い。常に個々の競技そのものよりも、その競技のうしろにある力と美とを表現しようとしてゐるし、又馬の蹄の先とか、日本女性の足の指とか、各国人の表情の相違とか、雲と帆、雲と人とか、さういふ数々の挿話のおもしろさを長からず短からず取り入れてゐる緻密さがある。
 体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。女学生の集団体操の撮影の順序には微笑した。
 最後の飛込の天と水と人体との感覚は圧巻である。尚ほ水泳の葉室君の顔がこの上もなく美しくて嬉しかつた。
 
「葉室君」は葉室鐵夫。005子200㍍平泳ぎの金メダリストです。

女子200㍍平泳ぎの金メダリストは前畑選手ですから、アベック優勝だったのですね。

もう一篇、その前畑選手の名前が、昭和30年(1955)、光太郎最晩年の日記の巻末余白に記されたメモ書きに現れます(『高村光太郎全集』第十三巻)。
 
ベルリンオリムピツクで前畑秀子が二百米平泳で優勝したのは一九三六年。(浅草のカフエでその放送をきいたので年代おぼえの為書抜)
 
なぜ突然この時期に前畑選手の名前が出て来るのか不思議でしたが、8月5日~14日にかけての日記に、断続的に「夜日米水泳をラジオできく」といった記述があるので、その関係で思い出したのだと思います。
 
例の「前畑がんばれ!」を光太郎は浅草のカフェで聞いていたのですね。この時、智恵子はその終焉の地となった品川のゼームス坂病院で、有名な紙絵の制作にかかっていました。
 
ざっと調べた限りでは、光太郎とオリンピックの関連はこんなところでした。ロンドン五輪も後半戦に突入。会期中にまた何か見つけたら紹介したいと思います。

さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」。ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。
 
私は二十五、六歳のころ、ニューヨークのある美術研究所の教室で一人の米国人と喧嘩したことがある。彼は実に猛烈な力を揮つて一気に私を慴伏せしめようとした。級友をまはりに見物させて堂々とかかつて来たが、私に腕を握られることを嫌つて、いはゆるメリケンを濫発し、又は逆に私の上半身を抱きすくめようとした。その勢は実に圧倒的であつたが、恐らく彼はボクシングも、レスリングも妙手ではなかつたと見えて、幾度か私のやうなものにも投げつけられた。最後の力を出しきるまで彼は頑強に立上つて向かつて来たが、最後には彼は急に弱くなつた。私がうろおぼえの怪しげな逆手を取つた時、つひに「お前の勝だ」といつた。そして握手した。それ以後彼は現金なほど教室で威張らなくなり私の彫刻にいたづらもしなくなつた。
 
ここまでは、先の二篇とほぼ同じです。しかし、この後、話が意外な方向に進みます。
 
米国人は最大の力をまづ正面に出すのが好きである。いくらやられても出す。最後の力を出しきるまでははでに出す。その代り弱る時は急に弱くなる。米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでやらなければならない。とても駄目だと思ふに至るまでこちらが頑ばると最後に急にへこたれる。
 
やはり戦時中ということで、対米戦争の方に話が進むのです。この文章の題名は「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」(昭和19年7月 『高村光太郎全集』第二十巻)。題名だけでも痛々しいと思います。
 
もはや日本軍はマリアナ沖海戦にも負け、サイパン島を失い、敗色は誰の目にも明らかな時期、さらにはこのころから大本営発表に「特攻」の文字が目立つようになります。

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光太郎も題名に「神性」の語を使っていますが、日本全体「今に神風が吹く」という神頼みの状態でした。そして翌昭和20年(1945)には「米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでや」った結果の、広島、長崎への原爆投下。そして敗戦……。
 
来週には広島、長崎の原爆の日、再来週には終戦記念日です。いずれ光太郎と戦争とのからみを載せたいと思っています。

閲覧数が2,500を超えました。有り難うございます。
 
さて、光太郎自身が異種格闘技戦を行ったという事件。時は明治39年か40年、所はニューヨークの美術学校であるアメリカン・アート・スチューデント・リーグ。対戦相手は同じ学校に通う米国人の若者です。ここからは、光太郎自身の言葉を引用しましょう。
 
クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけの彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になつていた頃だから、タツク(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がつて、レスリングをやつたことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやつたわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝つた。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だつたのである。それから、皆余り僕に悪戯をしないようになつたのは有難かつた。
(「青春の日」昭和26年 『高村光太郎全集』第十巻)
 
高村 (前略)それから夜学へ通つてたけれども、向うの生徒の茶目つてないんですね。みんなモデル写生をやつて、帰りに布で包んでね、明日の晩また来るまで、そうやつとくんですよ。それが開けてみるとね、首がうしろ向きになつてたりする。誰かがいたずらして、知らん顔してるんですよ。みんなの顔見ると、黙つているんだけど、マネージャーがいるんです、そいつがどうも怪しいから、とうとう白状させちやつてね。そうしたら、みんなが仕事台を方附ちやつて、まん中へ広場をこさえちやつて、そこで二人でやれつて言うんですよ。

高見 日米対抗競技ですね(笑声)

高村 向こうはボクシングでやる。こつちは柔道。柔道なんか全然知らないんですよ。そうすると、ぼく
の手がちよつとさわると、ビリビリッてふるえて、手をひつこめるんですよ。

高見 強いと思つて、向うじや恐れたんでしよう。

高村 グッとひつぱると、向うは退くでしよう。ドーンと突くとね、思いきり、ぶつ倒れちやう。そうして二つ
三つ逆手か何かで押えちやうとね、とても大袈裟に参るんです。とうとうしまいにはいたずらしなくなつた、うん。
(対談「わが生涯」昭和三十年 『高村光太郎全集』第十一巻)
 
微妙にディテールの違いがありますが、大筋は同じですね。光太郎、見事に米国学生から、怪しげなサブミッション(関節技)でギブアップを取っています。
 
その秘訣は光太郎自身も語って001いる「サンドー体操」。「サンドー」というのはドイツ人ボディビルダーのユージン・サンドウ。明治30年代に鉄アレイを使っての筋肉トレーニングを考案、これがボディビルの祖となったそうです。「シャーロック・ホームズ」のシリーズで人気を博したコナン・ドイルもこれにはまったとのこと。日本にも伝わっていたのですね。
 
ちなみに、光太郎は身長180㌢以上、当時の日本人としては規格外の体格でした。手足も異常に大きく、手の大きさに関しては色々な人が印象に残っていると語っていますし、足も光太郎自身曰く「13文半」=約32㌢。この体格があって、さらに筋肉も鍛えていたからこその勝利ですね。
 
さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。明日はその辺を。

ロンドンでは熱い闘いが繰り広げられています。いろいろな競技がありますが、当方、一応黒帯を持っている関係で、特に柔道を興味深く見ています。以前から言われていることですが、国内の試合とは全く異なるといっても過言ではなく、正直、戸惑う部分もあります。松本薫選手以外金を取れないというのも、ある意味仕方がないのかなと思います。それにしても、連日遅くまで見ているので昼間眠くて仕方ありません。
 
さて、柔道。光太郎とも無関係ではありません。
 
光太郎と親交のあった歌人、大悟法利雄氏の回想『文壇詩壇歌壇の巨星たち』という書籍があります。平成10年(1998)6月、短歌新聞社さんの発行です。元は平成2年(1990)~4年(1992)、『短歌現代』という雑誌に連載されたものですが、この中に「高村光太郎」の項があります(今年4月に当方が作成した冊子『光太郎資料37』に掲載させていただきました)。

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この中に以下の記述があります。
 
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
 
この時の座談が実現されていれば、とても面白いものになっただろうと、残念に思います。ちなみにこの当時、東京オリンピックの前ですから、まだ日本武道館は造られていませんので、柔道全日本選手権は旧両国国技館で開催されていました。
 
「前田光世」は講道館黎明期の柔道家。光太郎より一足早く柔道使節団の一員として渡米しています(前田、明治37年(1904) 光太郎、明治39年(1906))。親日家でもあったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスで柔道の試合を披露したりもしています。それ以外にも、滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
 
ちなみにその後、前田はブラジルにも渡り、柔道の種をまきました。今回のロンドン五輪にもブラジル選手がけっこう出場していますが、こういった背景があるのです。また、前田の教えを受けた現地人が作り出したのが有名なグレーシー柔術です。
 
光太郎自身の語った内容としては、『高村光太郎全集』第11巻に掲載されている高見順との対談「わが生涯」に以下の部分があります。これは昭和30年(1955)に行われた対談です。
 
高見 日露戦争の直後ですな。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いた
んです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
 
ここでは光太郎、柔道家の名前を006ど忘れしているようですが、「四段の人」という点から、おそらく前田光世のことだと思われます。講道館四天王の一人、富田常次郎や佐竹信四郎という可能性もありますが。
 
「ルーズベルトの言う事を聞いた」というのは、彼の斡旋でポーツマス条約が締結された事を指しています。
 
さて、前田の活躍でアメリカでも「日本の柔道は凄い」という認識が広まります。すると、現代でもそう思われている部分があるようですが「日本人はみんな柔道ができる」との勘違いが生じていたようで、光太郎自身が異種格闘技戦を行う、という事件が起こります(史実です!)。その辺りは明日のこのブログで。

ロンドンオリンピックが盛り上がっています。柔道の松本薫選手の金をはじめ、日本選手のメダル獲得数がじわじわと増えてきていますね。
 
さて、オリンピックと光太郎の3回目。
 
『高村光太郎全集』の第13巻に載っている昭和27年(1952)7月19日(土)の光太郎日記には、「夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく」の記述があります。その後も何回か同様の記述が続いています。現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。
 
昭和27年(1952)の夏季オリンピックはフィンランドのヘルシンキでの開催。昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。レスリングフリースタイルバンタム級で石井庄八選手が金メダルを獲得しています。当時は「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。
 
この前年、昭和26年(1951)にはサンフランシスコ講和条約の調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中でのヘルシンキ五輪。自らの戦争犯罪を自ら断罪する意味合いもあって、花巻の山小屋生活を続けていた光太郎は、どのような思いでラジオを聴いていたのでしょうか。
 
この頃の光太郎の動静を見てみましょう。この年3月には、青森県から十和田湖畔に建てるモニュメントの制作を依頼され、6月には現地を視察、7月には東京中野の中西利雄アトリエを借りて制作にあたることが決定、10月には7年ぶりの帰京。そして完成するのが十和田湖畔の裸婦像です。

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(十和田湖畔の裸婦像……最近入手した昔の絵葉書です)
 
日本の国際社会への復帰と時を同じくし、光太郎自身も彫刻界に復帰するのです。講和条約の締結・発効、オリンピックへの復帰などの世相と無関係ではないでしょう。
 
裸婦像完成後は、また花巻に帰るつもりでいた光太郎(家財道具も住民票もしばらくは花巻に残したままでした)ですが、宿痾(しゅくあ)の肺結核がそれを許しません。中野のアトリエで静かに息を引き取ったのは上京から4年後の昭和31年(1956)4月2日。この日を「連翹忌」として現在まで光太郎・智恵子を偲ぶよすがとし、集まりが続けられています。
 
ちなみに4年といえば、オリンピック。つまり光太郎の没した昭和31年(1956)も、オリンピックイヤーですね。この年は11月から12月にかけ(南半球ですから)メルボルンでオリンピックが開催されました。光太郎、空の上から日本人選手の活躍を一喜一憂しながら見守っていたのかも知れません。

昨日、ベルリンオリンピック関連の光太郎の発言を紹介しました。
 
その後、気になって調べてみましたところ、オリンピックと光太郎の関連がいくつか出てきました。
 
まず、現在、ロンドンオリンピックが開000催中ですが、ロンドンでのオリンピックは3回目。前回は終戦後の昭和23年(1948)。そして、最初にロンドンでオリンピックが開催されたのは明治41年(1908)。短期集中型でやっている今のオリンピックとは違い、会期が半年にも及んでいました。開会式が4月27日、閉会式が10月31日です。半年も続いていたというのは、どんなものだったのか、ちょっと想像がつきません。 
 
さて、明治41年といえば、光太郎はちょうどロンドン滞在中でした。
 
光太郎は、明治35年(1902)に東京美術学校彫刻科を卒業した後も研究科に残り、明治37年(1904)にはロダンの「考える人」を写真で見て激しい衝撃を受けます。根底から勉強し直そうと、翌38年(1905)には東京美術学校西洋画科に再入学(教授に黒田清輝や藤島武二、同級生に藤田嗣治や岡本一平。すごいメンバーです)。しかし「君は彫刻に専念すべきだ」という、彫刻科教授岩村透の勧めで、明治39年(1906)から、3年あまりにわたる留学に出ます。
 
まず目指したのはニューヨーク。1年あまりの滞在の後、大西洋を渡ってロンドンに向かったのが明治40年(1907)6月。ちなみに最近見つけた「海の思出」という散文があるのですが、それによればこの時の航海は、後にかのタイタニック号を保有するホワイトスターライン社の船、おそらくオーシアニック号での航海でした。
 
それから翌41年(1908)6月、パリに移るまでのまる1年、ロンドンに滞在します。最初のロンドンオリンピックはこの年4月27日が開会式。まさに光太郎がいた時期です。
 
ただ、この当時書かれた作品、後に往時を回想して書かれた作品等をざっと調べましたが、残念ながらオリンピック関連の内容は発見できませんでした(細かく探せばあるかも知れません)。光太郎の住んでいたチェルシーと、メイン会場だったホワイトシティ・スタジアムは直線距離にして2㎞ほどだったのですが。
 
もっとも、日本人選手の参加もありませんでしたし(日本人選手の参加は大正元年=1912のストックホルム大会から)、この時点ではまだオリンピックというもの自体が一般的でなかったのかも知れません。
 
光太郎とオリンピックの関わり、まだあります。明日も続けます。

ロンドンオリンピックが開幕しました。日本選手の活躍に期待したいものです。
 
オリンピックと言うことで、光太郎にもオリンピックがらみの発言があったことを思い出しました。
 
昭和16年(1941)1月24日から2月14日にかけ、『読売新聞』の婦人欄に連載された座談会「新女性美の創造」です。

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光太郎や宮本百合子など、出席者は総勢七名。上の画像では左から三人目が光太郎です。
 
この中で昭和11年(1936)に行われたベルリンオリンピックに関する話題が出ています。その部分のみ抜粋してみましょう。
 
高村「僕はこの間の「美の祭典」を非常に喜んで見ました。やはりあゝいふのは僕らの参考になります。さつき体操の話が出ましたがこれも勿論よいものですが、あの飛込みは素晴らしいものだ。第一水泳の人の身体は違ふ。」
吉田「水泳の人は非常に調和の取れた身体ですね。」
高村「前畑さんなどは普通では肥りすぎてゐるやうにいはれるけれども、僕などの立場から見ると実に美しいものですね。」
竹内「前畑さんは丁度理想的な寸法で決して肥りすぎてはをりません。あの人がドイツから帰つて来た日に私、宿舎へ行き、身体測定をしました。すると前畑さんに戦いを挑んだドイツのゲネンゲル女史と同じ格好をしてゐる。寸法でいひますと身長が一六〇糎(センチ)、胸の周りが九〇.二糎、これを身長との割合にすると五六.五になります。それから目方はあの人は五八瓩(キログラム)です。」
 
光太郎が見たという「美の祭典」は、ベルリンオリンピックの模様を記録した映画です。まだテレビがなかった時代、動画でオリンピックの様子を知るには、映画で見るしかなかったのですね。
 
ちなみに当方、昨夜はテレビでBS放送の柔道と地上波の女子サッカーを行ったり来たりしながら観ていました。さしもの光太郎も70年後にこんな便利な時代になっているとは思いもよらないでしょう。
 
「前畑さん」は、「前畑がんばれ!」の連呼で有名な水泳の前畑秀子選手です。昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200㍍平泳ぎで銀、4年後のベルリンオリンピックの同じ200㍍平泳ぎで、日本女性初の金メダルを獲得しました。同じ座談会によれば当時の日本女性の平均は身長150センチ、体重53キロだったそうですから、やはりかなり立派な体格だったようです。
 
「ゲネンゲル女史」は、ベルリンで前畑と死闘を演じたマルタ・ゲネンゲルです。
 
この部分の光太郎以外の発言者「吉田」は体育研究所技師・文部省体育官を務めていた吉田章信。「竹内」は竹内茂代。女医です。
 
この「新女性美の創造」、一昨年刊行の『高村光太郎研究(32)』所収の「光太郎遺珠⑥」に掲載しました。
 
オリンピックの歴史をひもとくと、この座談会が開かれた前年の昭和15年(1940)は第二次世界大戦のあおりで東京オリンピックが幻と化し、次の昭和19年(1944)もロンドン大会の予定だったのが中止。戦後になってようやく仕切り直しのロンドン大会が昭和23年(1948)に開かれました。ただし敗戦国である日本の復帰はさらに後、昭和27年(1952)のヘルシンキ大会からでした。
 
明日はその辺りを書こうと思っています。

昨日のブログで桑田佳祐さんの「声に出して歌いたい日本文学<medley>」が収録されたアルバム「I LOVE YOU -now & forever-」を紹介しましたが、yahoo!のニュース検索でこれがらみが1件ヒットしていますのでご紹介します。 

桑田佳祐スペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』【music.jp】が収録曲にちなんだ「自由研究」を大募集

リッスンジャパン 7月25日(水)20時24分配信
 
 7月18日にソロワークスの集大成といえるスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』をリリースした桑田佳祐。7月24日にスマートフォンでAndroidシングル、着うたフルの配信を開始する【music.jp】で、収録曲にちなんだ「自由研究」と題した投稿企画がスタートした。

『I LOVE YOU -now & forever-』に収録されている楽曲の好きな曲、思い出の曲にちなんだ投稿を大募集する「自由研究」。それぞれ絵画部門、感想文部門、写真部門を設けており各部門の優秀作品の方にはプレゼントが用意されている。

応募期間は7月24日(火)~8月31日(金)まで、桑田佳祐の楽曲と共に、楽曲にちなんだ絵を描いたり、感想文を描いたり、写真を撮影して応募しよう。

【Androidシングル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)000
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
・祭りのあと
・波乗りジョニー
・明日晴れるかな
・銀河の星屑

【着うたフル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・Kissin' Christmas(クリスマスだからじゃない)
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『汚れつちまつた悲しみに……』『智恵子抄』『人間失格』『みだれ髪』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(中)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『蜘蛛の糸』『蟹工船』『たけくらべ』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(下)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『一握の砂』『吾輩は猫である』『銀河鉄道の夜』を収録。

絵心のある方、文才のある方、写真を趣味している方、挑戦されてみては如何でしょうか?

桑田佳祐さん。日本を代表する歌手の一人ですね。彼がリーダーだったサザンオールスターズのデビューが1970年代末頃ですから、かれこれ30年以上のキャリアです。
 
サザン時代を含め、ソロ活動に入ってからもたくさんのヒットを飛ばしてきましたが、その凄いところはその地位に安住しないことだと思います。成功するかどうかはともかく、常に新しいことへの挑戦を続けている姿には頭が下がります。また、平成22年には食道がんと診断されたものの、不死鳥の如く復活。その姿にも頭が下がりました。
 
さて、そんな桑田さんの、これもまた新しいことへの挑戦の一つだったと思います。平成21年に発表した「声に出して歌いたい日本文学<medley>」。18分42秒もの長い曲です。歌詞は日本近代文学史上に燦然と輝く作品群から採っています。すなわち中原中也「汚れつちまつた悲しみに……」、太宰治「人間失格」、与謝野晶子「みだれ髪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、小林多喜二「蟹工船」、樋口一葉「たけくらべ」、石川啄木「一握の砂」、夏目漱石「吾輩は猫である」、宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、そしてわれらが高村光太郎「智恵子抄」から「あどけない話」。メドレーですので、途中で曲想がどんどん変化します。バラードあり、アップテンポあり、エスニックなアレンジも混ざり、聴くものを飽きさせません。
 
シングルCDでは平成21年に「君にサヨナラを」のカップリングとして発売されました。
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楽譜としては、翌年2月に発売された楽譜集「ギター弾き語り 桑田佳祐Songbook改訂版」に掲載されました。他の曲がだいたい4頁前後なのに対し、この曲だけ堂々の18頁。当方、ベースギターを嗜んでおりますので、CDに併せて弾いてみましたが、いや、疲れました(笑)。

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さて、この「声に出して歌いたい日本文学<medley>」を収録したCDアルバムが発売されました。過去にソロで発表した曲に加え、新曲も収録したスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』。

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完全生産限定盤は3枚組で¥3,600。通常盤は2枚組で¥3,300です。

是非お買い求め下さい。

yahoo!ニュース検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

原発事故への思いを演劇で、福島の高校生が横浜で公演へ/神奈川

7月25日(水)16時30分配信
 福島県の高校生が震災や原発事故に対する思いを演劇の形で描く「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」が31日、横浜市神奈川区のかなっくホールで上演される。事故に翻弄(ほんろう)され葛藤を強いられながらも、わが町への愛情を失わない「今の気持ち」が、ひたむきに表明される。

 タイトルの「ほんとの空」とは、詩人の高村光太郎が「智恵子抄」で「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」と記した福島の空。だが、2012年の福島の高校生は、自らの故郷に「ほんとの空」を見いだせないでいる。

 公演するのは、福島県郡山市の県立あさか開成高校演劇部の約20人。作品の舞台は高校、主人公は演劇部の部員たち―と、自分たちの姿を重ね合わせた。「智恵子抄」を題材に芝居をつくるうちに仲間内から「本当の空のリアリティーがない」と異議が上がる、といった筋書きには、高校生の真情がにじみ出ている。

 線量計の警告音が鳴り響き「そこ線量が高いからこっち来い」と声を掛け合う場面や「マスクをしないのは意地だ」との独白。土地に根差す者ゆえの切実な言葉は、震災後に重ねた即興劇の中で部員たちが紡ぎ出したという。部長の高校2年、円谷風香さん(17)は「反原発がどうとかではなく、悩みながら今も私たちが福島にいる、ということを伝えたい」と話す。

 横浜市中区の「横浜ふね劇場をつくる会」が彼らを横浜に呼んだ。今年3月11日、東京・新宿で上演された同作品を、事務局長の一宮均さん(61)が見たのがきっかけ。「私たち横浜の人間は、震災を『過去のこと』と考えてしまってはいないか」と警鐘を鳴らす。

 午後7時開演。料金は2千円、高校生以下は500円。8月1日には上演台本を用いた高校生向けワークショップもあり、参加者を募集している。問い合わせは、一宮さん電話090(1262)5520。
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今回初めて知りましたが、今年3月にも同じ公演が渋谷の笹塚ファクトリーで行われたようです。
 
残念ながら当日は都合で行けません。
 
この手のイベントを考えてらっしゃる方々、お早めにお知らせいただければ幸いです。宣伝やら後援やらでお役に立てることもあるかと存じます。金銭的な援助は不可能ですが。

女川とも関連が深い、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」について紹介します。
 
監修を北川太一先生が務め、台本は作家の山本鉱太郎氏。楽譜の「監修者の言葉」に書かれた北川先生の言によれば、このお三方で、果てしない討論をくり返し、生まれたものだということです。
 
初演は平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールでした。光太郎役は高橋啓三氏、智恵子役は本宮寛子氏。オペラとしては破格の登場人物二人だけという設定です。2幕7場、約1時間半の大作です。

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楽譜は平成3年(1991)10月に刊行されています。

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同じ平成3年(1991)10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで開催された「オペラ智恵子抄鑑賞会」でも上演されました。光太郎役は佐藤光政氏、智恵子役はやはり本宮寛子氏。
 
本宮寛子氏はこの辺りが機縁で、連翹忌の常連となって下さいました。今年5月の花巻光太郎祭で、ご一緒させていただいたのはこのブログでも書きました。
 
その後、何度か公演を重ね、平成18年(2006)10月14日には、日暮里サニーホールでの「光太郎・智恵子フォーラム」の一環として上演。この時は光太郎役が佐藤光政氏、智恵子役は津山恵氏でした。
 
また、昨年5月28日には、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の関連行事の一つとして上演されました。光太郎役に江原実氏、智恵子役に山口佳子氏という配役でした。
 
今年五月から始めたこのブログでも、リアルタイムで渡辺えりさんの演劇、荒井真澄さんと齋藤卓子さんの朗読などの公演の情報をお伝えしました。やはりドラマチックな光太郎・智恵子の世界ということで、色々な分野の表現者の方々が表現意欲をそそられるのでしょう。
 
今後ももっともっと色々な方が、もっともっと色々な分野で光太郎・智恵子の世界を表現してほしいものです。

昨日に続き、宮城県女川町がらみで、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を紹介します。 

「まち むら」第83号 平成15年9月30日 公益財団法人あしたの日本を創る協会発行


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2頁にわたり、作曲家・仙道作三氏の「台風の中の女川・光太郎祭」というエッセイが掲載されています。発行された頃の連翹忌で、仙道氏か故・貝廣氏に頂いたのではないかと思います。記憶があやふやです。

このエッセイでも述べられていますが、仙道氏と女川のつながりは深かったそうです。まず、平成3年に行われた女川の詩碑の除幕式に際し、碑に刻まれた光太郎短歌「海にして……」に混声四部合唱の曲をつけられました。同じ年10月には詩碑竣工記念という事で、女川町生涯教育センターで「オペラ智恵子抄鑑賞会」。これは北川太一先生の監修で、平成元年(1989)に作曲されたものです(明日のブログでさらに詳しく解説しましょう)。

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女川で光太郎がらみのイベントがある時には台風に見舞われることが何度かあったようで、「オペラ智恵子抄鑑賞会」の時も台風、仙道氏が「まち むら」に執筆された年の光太郎祭も台風。他にも何回か光太郎祭の日が台風だったというのを北川先生からお聞きした記憶があります。
 
今年はどうなることでしょうか。

宮城県女川町がらみの記事を書きましたので、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を引っ張り出して読んでみました。 

「詩をめぐる旅」伊藤信吉著 昭和45年12月15日 新潮社発行

  
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光太郎とも親交のあった詩人、故・伊藤信吉氏の著作です。主に近代の詩を取り上げ、その題名のとおり、日本全国に点在するそれぞれの詩の故地、いわば「歌枕」を訪れてのレポートです。60篇ほどの詩が取り上げられ、各篇4頁、光太郎に関しては「千鳥の足あと」(千葉・九十九里浜)、「国境の工事現場」(群馬/新潟・清水トンネル)、「冬の夜の火星」(東京・駒込台地)、そして「濃霧の夜の航路」(宮城/岩手・三陸海岸)です。女川の詩碑にも刻まれた「霧の中の決意」について論じています。
 
   霧の中の決意
  
  黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
 
 輪舵を握つてひとり夜の霧に見入る人の聴くものは何か。
 息づまるガスにまかれて漂蹰者の無力な海図の背後(うしろ)に指さすところは何か。
 方位は公式のみ、距離はただアラビヤ数字。
 
 右に緑、左に紅、前檣に白、それが燈火。
 積荷の緊縛、ハツチの蓋、機関の油、それが用意。
 霧の微粒が強ひる沈黙の重圧。汽角の抹殺。
 
 小さな操舵室にパイプをくはへて
 今三点鐘を鳴らさうとする者の手にあの確信を与へるのは何か。

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光太郎がこの詩を作ったのは、正確には女川ではなくもう少し北に行ってから、宮城・気仙沼から岩手・釜石にかけての8時間の夜間航海中のことだそうです。
 
北川太一先生は、近著「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」で、こう述べられています。
 
 釜石で改めて推敲されたという詩「霧の中の決意」は、この時光太郎が置かれていた時代と環境の中での、 深い思いに誘います。(中略)霧は実際に光太郎が三陸の海で経験したことですが、ここで自分自身にも、この詩を読む人にも問いかけているのは、自分たちが今置かれている状況、世界が戦争にまきこまれてゆこうとする、濃霧のような時代の到来の中での、生きるための決意だと言っていいでしょう。今この美しい三陸の自然や人の中にいて、その裏側で日々の身辺に確実に襲って来る、混沌とした世界。その道を歩むために、何が必要なのか、それを支える確信をどうしたら持つことができるのか。それが光太郎が問いかける問題、みずからが考え続ける問題だったに違いありません。(中略)奉天郊外で満州事変が起こったのは光太郎が三陸から帰った直後の九月十八日、翌日その第一報が臨時ニュースで放送されました。中国との十五年戦争の発端となった事件です。単に夜の海だけでなく、周囲に渦巻く世界の情勢は、どんなに光太郎の心を強く占めていたことでしょう。これらの詩を理解するためにも、夜の海での感想の底に流れる思いを感じ取るためにも、その状況を無視することは出来ません。
 
震災、原発事故、先の見えない経済不安、政治の混乱。混沌とした時代という意味では平成24年(2012)の現在も同じです。今、この時期に、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。
 
さらに光太郎に限っていえば、この時期に大きな転機を迎えざるを得なくなります。「詩をめぐる旅」から伊藤氏の言を拝借します。
 
 ガスの海で高村光太郎が崩れのない意志の歌を発想していたとき、東京本郷駒込の留守宅で異変が突発した。智恵子夫人に、精神分裂症の最初の兆候があらわれたのである。旅の途次でそのことを知らされた高村光太郎が、どれほどのショックを受けたか。愛する者が、事もあろうに精神分裂症に陥るとは! 高村光太郎と智恵子夫人の生活は、このとき音もなく暗転した。崩れのない「霧の中の決意」の詩。崩れはじめた智恵子夫人の脳髄の生理。この対照は悲劇的である。このような運命の翳りを、私どもはいかにして振払うことができるか。「三陸廻り」は高村光太郎にとって忘れることのできない旅であり、「霧の中の決意」はいわば『智恵子抄』の外篇として、二人の愛の生活を前後・明暗に境界づける詩だったのである。
 
混沌とした時代の不安、それに追い打ちをかけるような個人としての悲劇。この後、光太郎は戦争の波に翻弄され、戦後はそうした自らを恥じ、悔い、花巻の山小屋で「自己流謫」-自分で自分を流罪に断ずる処罰-を科します。
 
くり返しますが、今、この時期の我々が、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。

昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

宮城県牡鹿郡女川町。昨年三月の東日本大震災で20㍍を超える津波に襲われ、激甚な被害に見舞われた地です。俳優の中村雅俊さんの故郷でもあるそうです。
 
この地で平成4年(1992)から毎年、「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。
 
北川太一先生の近著『光太郎智恵子 うつくしきもの「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(このブログ6月24日の項参照)に詳しく書かれていますが、昭和6年(1931)夏、光太郎は『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、約1ヶ月の行程で三陸地方を旅しています。女川にもその際に立ち寄りました。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。地元有志の方々が中心となって立ち上げた「女川・光太郎の会」が設立母体です。碑については明日のブログで詳しくご紹介します。

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翌平成4年(1992)から毎年8月9日(光太郎が三陸へ旅立った日)に、その海岸公園を会場にして「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。ほぼ毎年、北川太一先生によるご講演があったり、地元の方々による合唱や朗読、連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さん、シャンソン歌手・モンデンモモさん、ギタリスト・宮川菊佳さんらのアトラクションなどで、おおいに盛り上がっていたとのことです(当方、女川には行ったことがありますが、光太郎祭には参加したことがありません)。

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平成14年(2002)には、それまでの北川先生のご講演の筆録が一冊の本にまとまりました。約400頁の堂々たるものです。

「高村光太郎を語る-光太郎祭講演-」北川太一著 平成14年4月2日 女川・光太郎の会発行

非売品ですが、時折古書店サイト等で見かけます。是非お読み下さい。

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これらの活動の中心となって獅子奮迅の活躍をなさっていた女川・光太郎の会事務局長の貝(佐々木)廣氏。やはり連翹忌の常連でしたし、他のイベント等でもご一緒させていただいたことがありました。ものすごい行動力と、繊細な気づかいの心を持ち合わせた方でした。「でした」と、過去形にしなければならないのが残念です……。
 
震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、北川先生をはじめ、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすらと横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、やがて、ご遺体発見の報。ショックでした……。
 
テレビやネットで女川の惨状を見るにつけ、心が痛みました。しかし、事実を認めたくなくて、女川には足が向きませんでした。自分の中では、女川は豊かな緑に囲まれた美しい港町、そこに行けば貝氏が元気な笑顔で迎えて下さる街、そのままの姿で取っておきたいという思いでした。
 
昨夏、数えてみれば20回目の女川・光太郎祭。例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思つていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。

さて、今年も第21回の女川・光太郎祭が開催されます。女川・光太郎の会の皆さん、さらには北川先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんの集まりである北斗会の方々のお骨折りです。
 
期日は例年通りの8月9日(木)。会場は女川の仮設住宅だそうです。15:00から北川先生のご講演。会場を移し、18:30から石巻グランドホテルにて懇親会。当方、北斗会の皆さんが手配して下さいまして、当日朝7時に池袋から貸し切りバスが出ますので、それに便乗します。帰着は翌10日の夕方です。お近くの方、そうでない方も御都合のつく方は、ぜひご参加ください。連絡をいただければ取り次ぎは致します。

yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしていますので、紹介します。 

「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 第5話「智恵子抄」高村光太郎

BS日本映画専門ch(255ch) 2012年7月23日(月)25時00分~25時28分=24日(火)午前1時~ 
 
元々は地上波日本テレビ系で平成20001年(2009)に深夜ドラマとして放映されていたものです。ブレイクする前の吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、それから最近色々なドラマでちょくちょく見かける田中哲司さんらが出演しています。
 
古風な日本女性といった感じの長女(吉瀬美智子さん)、自由奔放な次女(紺野まひるさん)、病弱な文学少女の三女(高橋真唯さん)の三姉妹が、父(田中哲司さん)が遺した11冊の近代文学作品を通して亡き両親の愛の形を確かめる、というストーリーです。11冊の近代文学作品に入りこんだ三姉妹の「妄想」によってドラマが進みます。全話、女性の監督が起用され、女性ならではの視点で映像が創られています。

第五話が「智恵子抄」。次女の紺野まひるさんが「妄想」の中で智恵子を美しくも妖しく演じています。
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ちなみに他のラインナップは以下の通り。

 第1話 与謝野晶子「みだれ髪」
 第2話 夏目漱石「虞美人草」
 第3話 堀辰雄「風立ちぬ」
 第4話 泉鏡花「外科室」
 第6話 坂口安吾「白痴」
 第7話 江戸川乱歩「お勢登場」
 第8話 太宰治「女生徒」
 第9話 樋口一葉「にごりえ」
 第10話 芥川龍之介「藪の中」
 第11話 夢野久作「瓶詰地獄」
 
さて、今回のオンエアはBS日本映画専門ch(255ch)ですので、契約していないと見られない有料放送ですが、DVDボックスが発売されていますので、ぜひお買い求めになり、御覧下さい。お勧めです。

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深夜ドラマとしてはかなり視聴率も取りましたし、続編が期待されていたのですが、この後、吉瀬さんや紺野さんがブレイクしてしまったので、このキャストではもう無理でしょう。
 
『智恵子抄』や、光太郎・智恵子の生き様、どしどしドラマ化してほしいものです。

閲覧数が2,000を超えました。ありがとうございます。
 
ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

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