事件。
名古屋の方からこんなニュースがあったとお知らせいただきました。

高村光雲の木彫を無断売却=横領容疑、元美術商逮捕―横山大観作品も質入れ―警視庁
時事通信 5月15日(火)16時36分配信
預かっていた高村光雲作の木彫を2500万円で勝手に売却し、横領したとして、警視庁捜査2課などは15日、業務上横領容疑で、鳥取市桂見、元美術商の山本麿容疑者(47)を逮捕した。同課によると、容疑を認めており、売却益は遊興費や借金返済に充てたという。山本容疑者は他の美術商らから横山大観や東山魁夷作の絵画など約11点の販売委託も受けていたが、いずれも質の出し入れを繰り返していた。
逮捕容疑は昨年9月、静岡県内の美術館に販売する名目で、東京都練馬区の美術商から預かった高村光雲作の木彫を別の美術商に2500万円で売却し、横領した疑い。
同課によると、山本容疑者が美術館に売却する話を持ち掛け、4000万円で商談が成立したが、売却話は架空だったという。
バブルがはじけてだいぶ経ちますが、光雲の木彫ともなるとこのくらいの金額になるのですね。

ムンクの「叫び」はオークションで96億円という話でしたが……。
大沢温泉。
花巻行レポートの3回目です。
高村記念会の浅沼氏のご厚意で、本宮さんともども車で大沢温泉さんまで送って頂きました。大沢温泉さんは花巻西方の山間にある温泉で、豊沢川の清流に面し、高村山荘からは10㎞弱。光太郎もたびたび泊まった温泉です。
佐藤隆房著『高村光太郎山居七年』(高村記念会 初版昭和37年 増補版同47年)に「先生の温泉行はたびたびでした。東京や盛岡から来るお客さんの中には、自動車で先生を温泉に案内して一緒に泊まるものもありますし、先生も旅の後などには、温泉で休養をとることを楽しんだようです。」という一節があります。大沢温泉さん以外にも、花巻にはたくさんの温泉があり、光太郎の日記や書簡などから、志戸平温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、台温泉さんなども利用していたことが分かります。
光太郎が暮らしていた頃には花巻電鉄というローカル線があり、花巻温泉行きの路線(鉄道線)と、大沢温泉さん、志戸平温泉さん、鉛温泉さんなどの花巻南温泉峡に向かう路線(軌道線)の二本がありました。光太郎は花巻市街に出る時にこの軌道線をよく利用しており、大沢温泉さんに行く時もこれに乗った話が、やはり『高村光太郎山居七年』に記されていますし、昭和28年(1953)に撮影されたブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」にも光太郎がこの電車に乗っているカットがあります。
光太郎が暮らしていた頃には花巻電鉄というローカル線があり、花巻温泉行きの路線(鉄道線)と、大沢温泉さん、志戸平温泉さん、鉛温泉さんなどの花巻南温泉峡に向かう路線(軌道線)の二本がありました。光太郎は花巻市街に出る時にこの軌道線をよく利用しており、大沢温泉さんに行く時もこれに乗った話が、やはり『高村光太郎山居七年』に記されていますし、昭和28年(1953)に撮影されたブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」にも光太郎がこの電車に乗っているカットがあります。
大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、長期の湯治客のための「自炊部」、築百六十年という趣のある別館「菊水館」の三つに分かれています。このうち光太郎が最もよく利用したのが山水閣、次いで菊水館だったそうです。山水閣はその後リニューアルされて近代的な建物になりましたが、リニューアルの際に、光太郎がよく泊まった部屋は間取りもできるだけ当時に近く、また、欄間や柱などの部材も当時の物を再利用し、「牡丹の間」と名付け、光太郎ゆかりの部屋として、一種の貴賓室のような扱いにしているそうです。今回、本宮さんが泊まったのがこの牡丹の間。当方、図々しくも部屋の中を見せていただきました。当方が泊まったのは-というかこのところ花巻行の際に定宿としているのが-菊水館です。
さらに宮澤賢治も幼い頃よくこの大沢温泉さんに来たそうで、写真も残っています。山水閣では賢治や光太郎など、ゆかりの人々の書や写真パネルなどを廊下に設けた展示コーナーに並べています。光太郎に関しては直筆の書「顕真実」、花巻鳥谷崎神社に建てられた碑の拓本などが展示されています。


温泉はアルカリ性の泉質で、ものすごく肌がすべすべになり、女性には喜ばれるかもしれません。大沢温泉さんのパンフレットには「光太郎は花巻を愛し、大沢温泉を『本当の温泉の味がする』と喜びました」とありますし、再三引用する『高村光太郎山居七年』には、光太郎の語った内容として「大沢温泉は川向きの室で、夜になると豊沢川の流れの音がするし、カジカの鳴声もするし、閑静で、考えごとの仕事などにとてもよい」と記されています。
当方、この部分を読んで、「光太郎がいた頃はカジカがいたんだ。すごいなあ」と思っていました。カジカガエルというと、深山幽谷というイメージでしたので、21世紀の現在にはもういないだろうと頭から決めてかかっていました。実際、これまで大沢温泉でカジカの声を聞いたことはありませんでしたし。しかし、今回、露天風呂に浸かっていると、何とカジカの鳴き声が聞こえるではありませんか! 実際のカジカの声を聞いたのは生まれて初めてでした。考えてみれば、当方、大沢温泉さんには雪の季節にしか泊まったことがなく、カジカは冬眠中だったわけすね。
みちのく花巻。光太郎や賢治ゆかりの地としての文化遺産の側面と、こうした自然豊かな面をこれからも大切にしていっていただきたいものです。
のんびり一泊し、帰って参りました。とても有意義な花巻行でした!
高村山荘。
さて、花巻行レポートの二回目です。
スポーツキャンプむら屋内運動場での高村祭を後にし、岩手高村記念会の高橋様とともに、山荘に向かいました。ここを訪れるのは10回目ぐらいですが、今回は特別に山荘内部に入れて頂けるとのこと。
ご存じない方のために申し上げておきますが、山荘とは、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした小屋です。山荘というしゃれた名前は名ばかりで、屋根は杉皮葺きで天井はなく、壁は隙間だらけの粗壁、今回初めて知りましたが、土台も柱をしっかり地面に埋めてあるわけではなく、大きめの石の上に置いてある状態です。光太郎が暮らしていた頃、冬場は隙間から雪が舞い込み、寝ている布団にもうっすら積もったというのですから、恐ろしい環境です。今でも周囲に人家はなく、電気も昭和24年(1949)までは引かれておらず、水は当然のように井戸。もっとも、山の麓なので少し掘ればすぐ水は湧くと言うことですが、逆に光太郎自身「水牢」と表現した程に湿気がひどかったそうです。
そのまま剥き出しにしておいては早晩朽ち果てるだろうということで、昭和33年(1958)には套屋(とうおく……上にかぶせた建物)が作られ、そちらも傷んできて昭和52年(1977)には鉄骨造りの第二套屋が建てられました。現在、見学者は第二套屋の内部に入り、第一套屋の外側からガラス越しに山荘を見る形になっています。似ているものを挙げろ、といわれれば、昨年世界遺産になった中尊寺金色堂を見学するイメージでしょうか。

で、今回は高村記念会の特別なお計らいで、山荘の内部に入れて頂きました。もちろん初めての体験です。靴を脱ぎ、かつては畳が3枚敷かれていたという板敷きに上がりました。部屋としては意外と広い感じもしますが、この一間だけです(もっとも、昭和26年=1951には2間×3間の別棟-こちらは少し離れた場所に移動-が付け足されましたが)。また、当時の写真で見ると、壁際には書物がうずたかく積み上げられ、やはり最低限の居住空間でしょう。当時の書物は今でも作り付けの棚や床に置かれた茶箱の中などに無造作に置かれています。他にも雑多な生活用品の数々、囲炉裏のつけ木まで残っているのには驚きました。



高村記念会の高橋氏曰く、やはり湿気のため、第一套屋の傷みがひどく、根本的に改修をしたいとのことでした。この小屋で劣悪な環境にめげず、光太郎は自らの戦争責任を恥じ、さらにそれまでの人生を振り返り、いつもどこかしらに無理があった社会との関わりを反省し、積極的にかつ自然な形で山口地区の人々との交流を持ちました。ここにいたって初めて光太郎はヒューマニストとしての姿を確立します。そうした巨星・光太郎を偲ぶよすがとして、永久に保存してほしいものです。
その後、近くに建つ記念館を拝見しました。こちらには光太郎の遺品や作品の数々が展示されていますが、内部をリニューアルし、以前は展示していなかったものも新たに出したとのことで、早速、初めて見る書簡なども見つけました。のちほどデータを送って下さると言うことで、楽しみにしています。
記念館には偶然、本宮寛子さんもいらしていて、以後、行動を共にさせて頂きました。聞けば当方と同じ光太郎ゆかりの大沢温泉さんにご宿泊とのこと。やはり高村記念会の浅沼氏(光太郎がここで暮らしていた頃の旧山口小学校長・故浅沼政規氏のご子息で、御自身もよく光太郎に郵便物を届けに行かれたそうです)のご厚意で、車で大沢温泉さんまで送って頂きました。非常に有り難い限りでした。
次回は大沢温泉をレポートいたします。
花巻・高村祭報告。
昨日は花巻の高村祭に参加、先程帰宅いたしました。三回に分けてご報告いたします。
まず今回は高村祭そのものに関して。
そもそも高村祭とは何ぞや? なぜ5月15日なのか? ということになりますが、事の起こりは昭和20年(1945)。4月13日の空襲で、東京千駄木にあった光太郎のアトリエは焼け落ちてしまいました。光太郎はしばらくは近所の姻戚に身を寄せていましたが、花巻の宮澤家からの誘いで、花巻に疎開することにしました。そのために東京を発った日が5月15日。その日から約七年半、光太郎は生活の拠点を花巻に置いたのです。
はじめは花巻市街の宮澤家に身を寄せた光太郎ですが、その宮澤家も終戦間際の8月10日にあった空襲で焼け、その後は元花巻中学校長・佐藤昌氏のお宅や、花巻病院長・佐藤隆房氏のお宅にそれぞれ1ヶ月ほど滞在、10月になって花巻西方の太田村山口(現・花巻市太田)に移り住みます。その後七年間、山口地区での生活を続けるのです。このあたりの経緯は佐藤隆房著『高村光太郎山居七年』(財団法人高村記念会・初版昭和37年=1962、増補版同47年=1972)などに詳しく描かれています。
光太郎と山口地区の人々とは心温まる交流を続け、地区の人々や元花巻病院長・故佐藤隆房氏を中心に作られた財団法人高村記念会が中心となり、光太郎没後、昭和33年から光太郎の遺徳を偲ぶ日として、5月15日を高村祭と定め、花巻市や観光協会などの共催を得て続けられ、今年で55回目の高村祭ということになりました。
例年は光太郎が起居していた小屋に近い屋外で行われるのですが、今年はあいにくの雨。廃校となった旧山口小学校が建っていた場所に作られたスポーツキャンプむら屋内運動場での開催となりました。
プログラムに拠れば、光太郎遺影への献花・献茶、主催者挨拶 、地元の太田小学校・西南中学校・花巻農業高校・花巻高等看護専門学校の児童生徒による楽器演奏・合唱、光太郎詩の朗読などがありました(実は当方、朗読の途中で会場にたどり着きました)。

その後は特別講演。講師は盛岡大学・同短期大学部学長、国際啄木学会会長の望月善次氏。演題は「光太郎と啄木・賢治」ということで、同じ時代を生きた岩手ゆかりの三人のつながりを分かりやすく語られました。
昼食をはさんでアトラクション。トップバッターは連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さんでした。今年の連翹忌で岩手高村記念会の皆さんから是非にというお誘いを受けてらしたそうです。「赤とんぼ」はじめ4曲、それからオペラ「智恵子抄」の一節などもご披露されました。続く地元の方が、光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」を歌われたのには驚きました。

会場内には何気に貴重な資料が展示されていました。光太郎がデザインの案を出した校章を染め抜いた旧山口小学校の幔幕、やはり光太郎がデザインの案を出したという山関青年会の旗など。ちなみにこの幕、光太郎の詩集『典型』が読売文学賞に選ばれた際の賞金を光太郎が寄贈し、出来たものだそうです。(このあたりの経緯は浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』平成7年=1995 ひまわり社 などに詳しく語られています)


こうした地域に密着した活動がなされているのは、本当に有り難いことです。今回の世話役的な方々も、お名前を聞けば光太郎日記に出て来る誰々さんのご子息とか、子供の頃に実際に光太郎にかわいがってもらった方とか、そういう方々がこうして光太郎顕彰の活動に粉骨砕身されている姿には感動を覚えます。
二本松での智恵子顕彰活動もそうですし、穂高での碌山忌もそうですが、やはりそれぞれの地元の方々の力というのは大きいと思います。我が連翹忌、東京で行っていますが、東京だと光太郎の地元という意識が薄く、本当に光太郎と密接なつながりがあった人々や、当方のような光太郎ファンでなければ顕彰活動に積極的に取り組むという気風がありません。言い方は悪いのですが、東京はたくさんの偉人を輩出しているのに対し、二本松といえば智恵子、穂高といえば荻原守衛、そして花巻といえば宮澤賢治と光太郎、そういう限定が好い意味で作用していると思います。東京といえば光太郎とはとてもいえませんし、もっと限定して文京区といっても森鷗外やら夏目漱石やらいろいろ出て来てしまいますし……。
とにもかくにも花巻の高村祭、今後とも盛況のうちに続いていくことを願ってやみません!
高村祭。
今日は岩手花巻に来ています。
光太郎が昭和20年(1945)から7年間をすごした旧太田村山口地区にある高村山荘で、毎年、光太郎を偲ぶ高村祭が行われており、そちらに参加させて頂いております。
今夜は郊外の山中、大沢温泉さんに泊まります。こちらも光太郎ゆかりの宿。
詳しくは明日、帰ってからご報告致します。

光太郎が昭和20年(1945)から7年間をすごした旧太田村山口地区にある高村山荘で、毎年、光太郎を偲ぶ高村祭が行われており、そちらに参加させて頂いております。
今夜は郊外の山中、大沢温泉さんに泊まります。こちらも光太郎ゆかりの宿。
詳しくは明日、帰ってからご報告致します。
「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」。
今日はこれから放送される光太郎関連のテレビ番組から。
土曜ワイド「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」
2012年5月19日(土) 15時30分~17時30分 地上波フジテレビ系
内田康夫原作の人気シリーズの第22弾。 福島と島根で起こった2つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 光太郎彫刻の贋作を巡り、思わぬ展開を見せる事件の真相は?
キャスト
浅見光彦……中村俊介 野沢光子…… 紫吹淳 真杉伸子……姿晴香 橋田刑事……菅原大吉
宮田治夫……冨家規政 真杉民秋……中谷彰宏 柴山亮吾……新藤栄作 浅見陽一郎……榎木孝明
浅見雪江……野際陽子 ほか

もともとは平成18年(2006)2月24日に金曜プレステージの枠で放映された2時間ドラマの再放送です。
原作は内田康夫著『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986 8月31日 トクマノベルス)。この年5/6~6/1に東京セントラル美術館で実際に開かれた「the光太郎・智恵子展」が事件の発端になっています。
原作は内田康夫著『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986 8月31日 トクマノベルス)。この年5/6~6/1に東京セントラル美術館で実際に開かれた「the光太郎・智恵子展」が事件の発端になっています。
当方、学生時代にこの展覧会も見に行きました。光太郎・智恵子の企画展を見たのはこれが初めてで、印象に残っています。そしてその展覧会をモチーフにした作品ということで、『「首の女」殺人事件』も購入、その後、内田氏の浅見光彦シリーズにけっこうはまり、文庫や新書になった作品はすべて読みました。
この2時間ドラマも平成18年(2006)の本放送で見ました。花巻の光太郎記念館や岳温泉でのロケが行われ、意外と良くできていて感心しました。本放送をご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。
ちなみにテレビの浅見光彦シリーズは、フジテレビ系の中村俊介主演のものと、TBS系の沢村一樹主演のものがあり、沢村一樹主演の方でも、平成21年1(2009)2月16日に「「首の女」殺人事件」がオンエアされました。この時は全9回の連ドラ枠で「浅見光彦~最終章~」という題名。サブタイトルは「最終話 草津・軽井沢編」でした。原作での物語の舞台に草津や軽井沢は出てこないのですが、なぜか草津・軽井沢となっていました。こちらはDVD-BOXとして販売されています。
フジテレビの中村俊介主演のシリーズはDVD化されていないので、残念です。
他にも光太郎・智恵子がらみのテレビ番組、映画等でDVD化してほしいものがたくさんあるのですが、なかなか難しいようですね。今後に期待しますが。
最近入手した書籍。
2011/3/22発行 西和夫著 集英社 定価720円+税
カバーより「かつてウサギ小屋などと海外から揶揄されたように、日本の住宅事情は劣悪だとされている。だが夏目漱石や内田百閒、高村光太郎など極小の空間を楽しみながら住んだ先人たちをみると、広さのみが豊かさに通じるとは言えないのではないか。本書は、究極の住居の実例を示し、住むことの根源を考えてみようとするものである。狭い住居の工夫を知って身の丈の生活の意味を再検討する。」
光太郎に関しては、25頁にわたり、戦後の大田村山口での独居自炊生活を紹介しています。
2011/6/20 木下直之著 祥伝社 定価1100円+税
カバーより「西郷隆盛、楠木正成からフーテンの寅さん、アンパンマンまでこれ1冊で、日本と世界の英傑に会える東京の銅像めぐりパーフェクト・ガイド!!」
光太郎より光雲に関する資料です。「序章 日本の銅像の基礎知識」で、近代彫刻黎明期に触れています。以後の各章は東京を地域別に分け、有名な銅像の紹介。光雲作の楠木正成像、西郷隆盛像、他にもロダンや光雲門下の彫刻家が作った銅像などが豊富なカラー写真とともに紹介されています。
この項、来週も続けます。
4/22 碌山忌の報告。
4/22(日)、信州穂高の碌山美術館さんで開催された碌山忌に行って参りました。
碌山(ろくざん)とは、光太郎と交流のあった彫刻家、荻原守衛(明12=1879~同43=1910)の号。守衛と光太郎はお互いが留学中だった明治末にニューヨークで知り合い、その後光太郎が移り住んだロンドンやパリでも交流を深めました。お互いの帰国後も、手を携え、古い日本彫刻界に新風を送り込む役割を果たしたのです。しかし、守衛は数え32歳の若さで夭折。現在残っている彫刻は15点だけだそうです。それでも古い日本彫刻界に新風を送り込んだ功績は大きく、彼の絶作「女」は国の重要文化財に認定されています。
碌山美術館さんはそんな守衛の功績を後世に残すべく、碌山の故郷、信州穂高に昭和33年に開館しました。碌山作品の他、光太郎の作品もたくさん展示されていますし、何度も光太郎に関わる企画展を開催、現在も学芸員の方が我が連翹忌に欠かさず参加して下さっています。
さて、4月22日は守衛の命日、碌山忌ということで、行って参りました。4月も中旬ということで、関東ではとっくに桜は散っていましたが、信州はまさに満開の時期でした。
当方が着いたのは昼前で、まずは守衛の墓参。美術館自体はたしか4回目の訪問でしたが、守衛の墓は初めて行きました。館から車で10分ほどだったでしょうか。館の方に送っていただきました。やはり守衛と交流のあった画家、中村不折(太平洋画会での智恵子の師でもあります)の筆で墓碑銘が書かれていました。光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。

15:00から新宿中村屋CSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。新宿中村屋を創業した相馬愛蔵(明3=1870~昭29=1954)も穂高の出身。同郷の守衛をはじめ、多くの文化人が店に出入りし、「中村屋サロン」が形成されました。守衛の生前には光太郎もしばしば訪れたということで、現在でも光太郎の描いた油絵「自画像」が中村屋に残っています。しかし、吉岡氏曰く、あちこちの企画展等への貸し出しが非常に多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
続いて、学芸員の武井敏氏による研究発表「相馬黒光の追憶」。かつて光太郎も真壁仁との対談(昭和27年=1952 3月30日放送『全集』第11巻)で出演したNHKのラジオ番組「朝の訪問」で、相馬愛三の妻、黒光が出演した回の録音を聴かせていただきましたが、残念ながら、列車の時間があり、途中で退出いたしました。
碌山美術館では立派な研究紀要なども発行され、研究の拠点としての役割も果たしています。西浦さんとも話しましたが、光太郎顕彰にもこういう拠点があれば……というのが正直な感想です。
それを抜きにしても、碌山美術館、とてもいいところです。昨年度のNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台になった安曇野、他にも見所がたくさんあります。ぜひお越し下さい。
碌山美術館と周辺での光太郎スポット
碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。
碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。

第一展示棟……守衛の友人や系譜につながる彫刻家、画家の作品が展示されています。「手」「腕」など光太郎の彫刻も多数。
「荻原守衛」詩碑……碌山館の裏手に平成12年(2000)に建てられました。光太郎の詩「荻原守衛」が刻まれています。

「坑夫」……隣接する穂高東中学校に建つ守衛の彫刻です。台座にはめ込まれた題字を晩年の光太郎が揮毫しました。この彫刻「坑夫」は、守衛滞仏中の明治40年(1907)の作で、守衛の元を訪れた光太郎が、是非日本に持ち帰るように助言したといわれています。こちらには昭和30年(1955)に建立されました。

きらり!えん旅 由紀さおりさん。
昨夜、NHKBSプレミアムで放映された
「きらり!えん旅」。旅人は歌手の由紀さおりさん。原発事故で大変な状況の二本松を訪れました。

大変な状況にもめげず、野菜作りや和紙作りに精を出す地元の方々、原発に近い浪江町から避難されてきた方々……。そして「ほんとの空」自慢ということで、智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さんもご出演なさいました。智恵子生家の裏手にある詩碑の丘に由紀さんを御案内し、雪と春霞に覆われた安達太良山をお見せなさっていました。映像で見る限りロケの日(4/11)は気持ちの良い晴天で、まさしく「ほんとの空」が広がっていました。しかし、熊谷さん曰く「原発事故のため、青い空でも、ちょっと複雑なところがある。早く元の純粋な青い空に戻ることを願っている。」とのことでした。本当にそうですね。
番組のラストには安達文化ホールでの由紀さんのコンサート。熊谷さんはじめ観客の皆さんは涙を流して聴き入っていました。音楽は人の心を揺さぶるものだと、改めて痛感しました。
お見逃しの方は、5/16(水)午前11:00~11:30、5/17(木)15:30~16:00に再放送がありますのでご覧下さい。
東北復興のため、我々にできることもしっかりと考えていきたいと思います!
徹子の部屋 渡辺えりさん。
昨日のテレビ朝日系「徹子の部屋」、ゲストは渡辺えりさんでした。貴重なお話がたくさん聞けました。
今年87歳になられる渡辺さんのお父様は光太郎と面識があり、お父様が光太郎と出会った時のエピソードをご紹介、光太郎署名入りの『道程 再訂版』や、光太郎からの葉書をご持参、黒柳さんも興味深そうでした。
お父様と光太郎にまつわるエピソードは、以下の書籍・雑誌に記述があります。
日本絵手紙協会 平成15年(2003)
渡辺正治氏(お父様です)の「昭和20年4月10日光太郎先生との一期一会」2ページ。先の『道程』や葉書の画像も掲載されています。
ただ、ちょっと古い雑誌でして、ざっとネットで探した範囲ではバックナンバーも完売してしまって販売されていないようです。入手には古書市場だのみとなりますね。
ただ、ちょっと古い雑誌でして、ざっとネットで探した範囲ではバックナンバーも完売してしまって販売されていないようです。入手には古書市場だのみとなりますね。


こちらの書簡については、平成18年(2006)高村光太郎記念会発行の『光太郎遺珠』北川太一・小山弘明編にも掲載させていただいております。『光太郎遺珠』とは何か? また後ほどのブログで紹介いたします。
牛田守彦著 ぶんしん出版 平成23年(2011)
昨日の「徹子の部屋」オンエアで紹介されたものですが、当方、こちらの書籍は存じませんでした。早速購入しようと思います。
昨日の「徹子の部屋」オンエアで紹介されたものですが、当方、こちらの書籍は存じませんでした。早速購入しようと思います。
また、今月17日から公演が始まる舞台、光太郎・智恵子を描いた『月にぬれた手』、宮澤賢治が主人公の『天使猫』についてもお話がありました。当方、5/26(土)のチケットを購入、2本立てで見に行って参ります。
今日は夜7:30~8:00、NHKBSプレミアムの「きらり!えん旅」で、由紀さおりさんが二本松を訪れた模様が放映されます。再放送は5/16(水)午前11:00~11:30、5/17(木)午後3:30~4:00です。
いろいろなところで光太郎、智恵子が取り上げられ、嬉しい限りです。この流れを途切らせないようにしたいものです。
また、明日5/11(金)、地上波テレビ東京系11時35分~12時30分、大人の極上ゆるり旅「岩手・花巻温泉郷/中伊豆・名湯巡り」が放映されます。元「わらべ」の高橋真美さんと、温泉エッセイストの山崎まゆみさんが、光太郎も時折滞在した花巻・鉛温泉を訪れます。
この番組、一回の収録で何回かに分けてオンエアされるようで、4/27の放映は、同じお二人が、やはり光太郎が愛した花巻・大澤温泉と花巻温泉を訪れた模様でした。この回では、宮澤賢治に関しては詳しく取り上げていましたが、光太郎の話は出てきませんでした(背景に光太郎の揮毫した書が映りましたが)。今回の鉛温泉はどうでしょうか?
最近刊行された雑誌。
最近刊行された雑誌を紹介します。雑誌系はぼやぼやしていると店頭や版元に無くなってしまいますので。
2012/3/20 祥伝社発行 定価 838円+税
特集 谷村志穂「この時代のことばを探しに。」~福島・安達太良山紀行
カラーグラビアを含め、13ページにわたり、安達太良山や智恵子生家周辺の現状(3・11から一年経って)のレポート。昨日の時点で近所の書店の店頭にまだ並んでいました。


『青鞜』創刊100周年記念特集
青鞜物語
特別対談 瀬戸内寂聴×森まゆみ 「青鞜の女たち」
宝石箱-「青鞜」短歌を読んで 林あまり
青鞜の俳句・らいてうの俳句 飯島ユキ
「青鞜」異聞-「青鞜」的な、余りに「青鞜」的な-或る恋の行く末
正津勉
青鞜物語
特別対談 瀬戸内寂聴×森まゆみ 「青鞜の女たち」
宝石箱-「青鞜」短歌を読んで 林あまり
青鞜の俳句・らいてうの俳句 飯島ユキ
「青鞜」異聞-「青鞜」的な、余りに「青鞜」的な-或る恋の行く末
正津勉
川島幸希氏の連載「私がこだわった初版本」で、驚いたことに、おそらく献本として一部あるいは少部数作られたと思われる『道程』私家版について語られています。光太郎の識語署名三カ所、三方金、桐箱入(箱書・佐藤春夫)だそうで、当会顧問の北川太一先生にこの本の正体を尋ねるくだりもあったりし、とても興味深い内容でした。



普通の書店では置いていないと思いますので、リンク先からご注文を。
最近入手した雑誌以外の書籍についても、後ほどレポートします。
近々行われるイベント。
近々行われる高村光太郎・智恵子関連のイベントをご紹介します。
高村祭
2012年5月15日(火) 10:00~14:30頃
岩手花巻の、光太郎が昭和20年から丸7年を過ごした小屋、「高村山荘」で行われます。
今年は盛岡大学・同短期大学部学長、国際啄木学会会長の望月善次氏の特別講演があるそうです。その他、地元の児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラスなどが予定されています。参加は無料です。
20日は智恵子の誕生日ということで、以下のイベントがあります。
智恵子講座’12 第2回「智恵子ゆかりの地を歩く」智恵子生誕祭「好きです智恵子青空ウォーク」
2012年5月20日(日) 9:30~
福島二本松の旧安達地区で活動している智恵子のまち夢くらぶさんの主催です。全7回のうちの2回目で、希望する会だけの参加も可能とのことです(参加費1,000円)。
申込先は智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん。tel/fax0243-23-6743。1週間前ですから5/13まで申し込み受付中のようです。
2012年5月20日(日) 15:00~
仙台の長町遊楽庵びすたーりというところで行われる公演です。
斎藤卓子さんのピアノにのせ、荒井真澄さんの「智恵子抄」朗読。平成21年(2009)年、そして今年の1月にも同様の公演があり、荒井さんのライフワークのようなものでしょうか。料金はケーキセット付きで3,800円。連絡先はびすた~り 022-352-7651 アクテデュース 022-265-5350。
当方、①および③に行って参ります。のちほどご報告を致します。
4月14日(土)の報告(その2)。
4月14日(土)、横浜のそごう美術館さんを後にし、
一路、新宿へと向かいました。

老舗のライヴハウス、ミノトール2さんにて、高木馨さんの『高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥』出版記念イベントがあったためです。同書は、昨年10月に文治堂書店さんから刊行されました。原稿用紙500枚という大作です。
さて、イベントは高木さんの親友で詩人・刀道の達人、佐土原台介氏の司会で始まりました。
光太郎関連では、中西利一郎氏の興味深いお話がありました。中西氏は、水彩画家の故・中西利雄氏(明33~昭23)のご子息で、中野区ご在住です。光太郎がその最晩年、十和田湖畔に建つ裸婦像(通称・乙女の像)の制作のため借りたのが中西利雄のアトリエ。
ちなみに光太郎はこちらの庭に咲いていた連翹を愛し、そこから光太郎の命日が「連翹忌」と命名されました。中西利一郎氏は、写真のパネル等を持参され、光太郎の回想を披瀝されました。
続いて当方のスピーチ。連翹忌についての話をメインに、15分ほどしゃべらせていただきました。

その後は高木さんのお仲間のみなさんによるアトラクション。シンガーソングライター小藤博之さん、
ピアノ引き語りいまむら直子さんとシューフィーズの皆さん、アコースティックギター中村ヨシミツさんと歌の三原ミユキさん、フラメンコ手下倭里亜さんと手下ダンススタジオの皆さん。
この手のイベントが有れば、出来る限り駆けつけますし、しゃべれと言われればしゃべりますので、お声がけ下さい。
4月14日(土)の報告(その1)。
ブログ、開設したばかりで最近の報告が追いつきません。
現在は福島のいわき市立美術館で巡回開催中(6/17まで)。
赤羽末吉、いわさきちひろ、武井武雄、司修、ますむらひろしなど、後世のアーティスト達が表現した賢治の世界がメインでしたが、そこに光太郎の書も展示されました。岩手花巻、羅須地人協会の跡地に建つ「雨ニモマケズ」を刻んだ詩碑の元になった光太郎の揮毫です。
光太郎と賢治、二人が直接会ったのは大正15年の秋、おそらく一度しかありません。しかし、お互いにお互いの芸術世界を激賞していました。そうした縁もあり、賢治没後の昭和11年(1936)に建てられた碑の揮毫を光太郎が引き受けたのです。
当方、碑は何度も見ましたし、拓本も持っているのですが、やはり元の筆跡はまた違った感じがしました。


それにしても光太郎の筆跡のすばらしさ。この揮毫に限らず、光太郎書の全般にいえることですが、どれもものすごい芸術的な書、というわけではなく、当たり前の書法で当たり前に書いています。しかし、そこから漂う「品格」「気」とでもいうのでしょうか、それは絶対に真似の出来ないものだと思います。
光太郎・智恵子関連テレビ情報。
4月2日、連翹忌終了後、1ヶ月の間にも光太郎関連のイベントなどいくつか参加して参りましたが、明日以降のブログでご報告します。
今日はこれから放送される光太郎・智恵子関連のテレビ番組の情報を二つ。
地上波テレビ朝日系 2012年5月9日(水) 13:20~
ゲストは渡辺えりさん。5/17(木)から公演が始まる光太郎・智恵子を主人公とした「月にぬれた手」、宮澤賢治を主人公とした「天使猫」のお話や、光太郎と面識があったお父様に関するお話が聴けることと思われます。
ただし、地上波ですので、関東地方以外では放送日程が異なるかもしれません。
きらり!えん旅

NHKBSプレミアム 2012年5月10日(木) 19:30~
震災からの復興を応援する番組ですが、ゲストは由紀さおりさんで、福島・二本松が舞台です。地元で智恵子の顕彰を続けていらっしゃる「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷さんも出演なさっています。
ふるってご視聴のほど。
第56回連翹忌を開催しました。


平成24年(2012)4月2日、東京日比谷の松本楼において、第56回連翹忌が行われました。昨年は震災の影響で集まりは中止、こうして皆さんとお会いするのは2年ぶりとなりました。
まず、一昨年の連翹忌まで、毎回元気に参加なさっていた宮城・女川光太郎の会の貝廣さんをはじめ、震災で犠牲になられた方々への黙祷。
乾杯のあとは、各地で活躍される方々からスピーチをいただきました。
高村光太郎記念会事務局長にして当会顧問をお願いいたしました、北川太一先生
女川光太郎の会の笠松さん、佐々木さん
岩手・高村記念会の高橋さん
光太郎・智恵子を主人公とした舞台「月にぬれた手」を上演される女優の渡辺えりさんとお仲間のみなさん
長野・碌山美術館の武井さん
昨年、「北川太一とその仲間達」を上梓された文治堂書店さん
やはり昨年、文治堂書店さんより力作「高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥」を刊行された高木馨さん
今年、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を刊行される坂本富江さん
光太郎のご親族で、鎌倉でギャラリー笛を開かれている山端ご夫妻
生前の光太郎を知る鋳金家・人間国宝の斎藤明先生
オペラ「智恵子抄」等でご活躍の歌手・本宮寛子さん
福島・智恵子のまち夢くらぶ熊谷さん
他にも大勢の方にスピーチをいただきました。ありがとうございました。
来年の第57回連翹忌も、どうぞよろしくお願いします。
はじめまして。

コメント大歓迎です。
これからどうぞよろしくお願いします!
彫刻家にして詩人、その業績の大きさと体格の大きさ、そして人間としての大きさから「巨星」と称された高村光太郎(明16=1883~昭31=1956)。
毎年、光太郎の命日である4月2日は「連翹忌(れんぎょうき)」と名付けられ、彼の功績をたたえ、敬愛する人々によって、東京日比谷公園内の松本楼にて催しが行われています。今年も56回目の連翹忌がつつがなく終わりました。
このブログは、全国の光太郎・智恵子ファンの交流の場としていきたいと考えています。
これからどうぞよろしくお願いします!