隣町・成田の家電量販店でプロジェクタとノートパソコンを買ってきました。
 
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プロジェクタはパソコンの画面やDVDの映像などをスクリーンに映写する機械です。企業などではいわゆる「プレゼン」でよく使われますね。
 
光太郎智恵子について、人前で話す機会が多く、今まではせいぜい紙に印刷したレジュメを用意する程度でしたが、やはりこういうものを活用することで発表のクオリティーが上げられると考え、思い切って買ってしまいました。連翹忌などでも活用できるかな、とも思っています。
 
発表する側でなく、聴く方の側もよく体験していますが、やはり画像等が大写しになっていると、理解の助けになります。レジュメの小さい、しかもモノクロの画像で説明されてもわかりにくい、ということが多々あります。或る意味「百聞は一見にしかず」ですね。
 
手始めに来月16日(日)、二本松で行われる智恵子講座。「光太郎に影響を与えた人々」という連続講座の2回目で、岡倉天心と東京美術学校について話してくれとのことですので、早速、パワーポイントを使って資料を作ってみます。
 
しかし、これから先、以下の点に注意しようと思っています。
 
必要もないのに使わないこと
プロジェクタなどを使うと、それを使うことに満足してしまい、それを使う必要があったの? という発表にあたることがあります。しゃべる内容をただ文字にして大写しにしているだけ、または逆にアニメーションとかを駆使し、いろいろな動きがあるけれど、だから? のような。そういう使い方はしないよう心がけたいと思います。
 
画像などに頼らないこと
画像などを大写しにすれば、確かに理解の手助けにはなりますが、そこに頼ってしまう内容の薄い発表では仕方がありません。そうならないよう注意したいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月24日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、PTA主催の講演会を行いました。
 
その中に、こんな一節があります。
 
ありったけの力で最善を尽くせばいいのです。自分を捨ててかかればいいのです。僕はお金も名誉も望みません。世の中の役に立てばいいのです。一日一日、緩みのない生活でありたいのです。何がほんとうであるか、わかるようにと努めることです。あしたのことを考えても、そのとおりにはならないので、その日、そのときに最善を尽くすことだと思います。
 
いいですね。

昨日、神田の古書店八木書店様からメールマガジンが届きました。
 
その中に光太郎とも縁の深かった与謝野晶子の忌日、白桜忌(はくおうき)の案内が書かれていました。八木書店様には出版部もあり、逸見久美氏、太田登氏などの鉄幹・晶子論を刊行されている関係だと思いますが、後援として名前を連ねています。 

白桜忌002

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
【日時】5月29日(水曜)午後1時30分
【場所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ徒歩約1分)
【参加費】1,000円
【主催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
〈講演〉「晶子における現代的意味を考える -堺の晶子から世界の晶子へ-」
(講師)太田 登(天理大学名誉教授・国立台湾大学日本語文学系教授)
〈合唱〉「君死にたまふことなかれ」他
(出演)堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会  電話 072-258-0948
 
「白桜忌」という名は、昭和17年(1942)に刊行された晶子の遺稿歌集『白桜集』に由来するのだと思います。この『白桜集』、光太郎が序文を書いています。

追記・逆でした。晶子の戒名が「白桜院鳳翔晶燿大姉」が先にありきで、それにちなんで『白桜集』だそうで。
 
さて、5月29日。たまたまですが、少し前からこの日は大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫三点を観ようと、京都に行く計画を立てていました。
 
もう一件、こちらは先方の都合でどうなるかわかりませんが(返答待ち)、京都で別件の調査が入るかもしれません。ただ、京都と堺ならそれほど離れていないと思うので、余裕があれば白桜忌にも行ってみようかと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月23日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で「高村光太郎の芸術」展が開幕しました。

もう1日、智恵子の誕生日ネタで引っ張ります。
 
一昨日が智恵子の誕生日でした。この時期の生まれ、ということは西洋占星術でいうと牡牛座です。
 
当方、あまり、というかほとんど信じていませんが、この手の星座占いはもはや普通に日本人の生活に溶け込んでいますね。
 
15年前に出た本ですが、こんなものを持っています。
 
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『星の運命(さだめ)を生きた女たち』 山崎洋子著 講談社文庫
 
山羊座から始まって射手座まで、近現代の女性を取り上げ、それぞれの生き様と十二星座との関連を記しています。各星座ごとに二人ずつ紹介されており、一人は外国の女性、一人は日本女性です。各女性についてルネ・ヴァン・ダール・ワタナベさんという占星術師が読み解いたご託宣からはじまり、それを受けての山崎洋子さんによる簡潔な評伝、という構成です。
 
牡牛座の項は、写真家のリー・ミラー、そして智恵子。他に伊藤野枝(水瓶座)、相馬黒光(乙女座)など光太郎・智恵子と関わる女性も取り上げられています。
 
さて、智恵子の項では以下の記述があります。
 
「牡牛座は十二星座の中でもとりわけ感受性が無題2強いといわれる」
「高村智恵子もまた純粋な感性ゆえに魂を迷宮にさまよわせた牡牛座の女である」
「1886年5月20日生まれの彼女の太陽は牡牛座にあり、月は奔放な射手座にある。この二つの要素から、感受性の豊かな彼女が大人になってもなお、子供のような純真な心を持ち続けていたことが理解できる」
「さらに、牡牛座にある愛の星、金星は、愚直なまでに優しく人を愛する性格を彼女に与えた」
「やがて海王星、冥王星のもたらす困惑の影響が表れ、狂気の影が忍び寄った」
 
話のネタとしては面白いと思いますが……。
 
信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月22日

大正5年(1916)の今日、智恵子と神奈川の江ノ島に出かけました。

昨日は智恵子の誕生日でした。
 
「智恵子の顔を持つ」とも言われる十和田湖畔の裸婦像をかかえる青森県の地方紙『陸奥新報』さんに、智恵子誕生日がらみのコラムが載りました。『朝日新聞』で言えば「天声人語」にあたる欄でしょう。

冬夏言2013/5/20 月曜日 

ある人物に思いを巡らすと、別の人物についても連想することがある。きょう20日は、彫刻家・高村光太郎の妻智恵子が生まれた日。冬夏言子の場合、この高村夫妻から想起するのが、本県出身で多彩な才能を発揮した寺山修司だ▼光太郎といえば、智恵子が死去した後に出版した詩集「智恵子抄」が有名だ。芸術家夫婦の苦悩と純愛がつづられ、多くの愛読者がいる作品である▼寺山修司は著書「さかさま文学史黒髪編」の中で、高村夫妻を取り上げた。智恵子が精神を病むまで追い詰めたのは光太郎とし、それを自覚しなかった光太郎を「人間音痴」と厳しく評した▼夫妻の真実は、他人に分かりようもない部分がある。それでも「純愛カップル」という通説をひっくり返そうとするかのような視点に、大きな衝撃を受けた▼世間の常識をそのままよしとせず、新たな視点で常識に風穴を開ける―。冬夏言子が作品を通して寺山修司に感じた姿勢である▼今年は寺山修司没後30年。47歳という短い生涯だったが、今なお影響力を発し続けている。本県が生んだ偉大なる反骨精神に敬意を表したい。
 
取り上げられている寺山修司の「さかさま文学史黒髪編」は角川文庫で昭和53年(1978)に刊行されています。
 
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林静一氏のカバーイラストが実にいいですね。智恵子もイメージされているのではないでしょうか。
 
問題の章は、「妻・智恵子 彫刻詩人・高村光太郎の孤独な愛、詩集『智恵子抄』の明暗」という題です。
 
その後、平成3年(1991)に刊行された雑誌『鳩よ!』95号「特集 光太郎・智恵子」にも再録されています。どちらも古書市場では比較的容易に入手できます。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月21日

昭和17年(1942)の今日、詩集『道程』により第一回帝国芸術院賞に選ばれ、文部大臣官邸で行われた授賞式に出席しました。
 
『道程』。初版は大正3年(1914)ですが、昭和15年(1940)には改訂版、さらに翌年には改訂普及版が刊行されており、それらを受けての受賞でしょう。また、この当時の光太郎は日本文学報国会詩部会長だったり、大政翼賛会文化部の仕事をしていたりで、詩壇の大御所的存在。大量の戦意高揚の詩を書き殴っていました。そうした光太郎への箔づけ的な側面もあったと思います。

昨日は乃木坂国立新美術館で太平洋美術展を観たあと、原宿のアコスタディオさんに向かいました。シャンソン歌手・モンデンモモさんのライブです。何度もご紹介してきていますが、光太郎の詩にご自分で作曲され、発表なさっています。
 
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今回は2部構成でした。1部は主に明治末から大正初めの光太郎智恵子が結ばれる時期にポイントを絞り、新曲も多く交えてステージを組みました。モモさんの凄いところは、聴くたびに曲が増えていることです。昨日も今までなかった「N-女史に」とか「或る夜のこころ」、「淫心」などが披露されました。また、智恵子が雑誌『青鞜』の表紙を描いたことをふまえ、平塚らいてうにもからめ、らいてうの書いた「元始、女性は太陽であつた」も歌にしていました。
 
2部は旧曲からのセレクトで、光太郎智恵子の後半生を謳うステージ。その冒頭で5分ほど時間をいただき、レクチャーして参りました。1部で扱われていた明治末から大正初めは、光太郎の内部で満たされない思いが渦を巻き、詩として吐き出されていたり、智恵子との恋愛の成就でそれが満たされ、有頂天になって高らかに詩が謳われたりしたこと、その後は平穏な生活が続き、詩作が途絶えたことなどです。光太郎に限らず詩人全般に言えることですが、平穏な日々を送っている間は詩作が少なく、マイナスの鬱屈した思いや逆にプラスの高揚感で満たされている日々になると詩作が増えます。
 
光太郎に関して言えば、大正3年(1914)の結婚披露から10年ほどの間は詩作が少なく、比較的平穏な日々だったといえます。それが大正12年(1923)頃から再び詩作が多くなるのは、智恵子との生活に「きしみ」が見えてきたからだ、ということで、2部につなげました。このレクチャーが意外と好評だったのでよかったと思います。どさくさに紛れて光太郎生誕130周年記念で花巻の記念館がリニューアルオープンしたことや、来月から始まる「彫刻家・高村光太郎展」の宣伝もさせていただきました。
 
2部まで終わり、アンコールは「道程~冬が来た」。お客様(坂本富江様もいらしていました)の反応も上々でした。光太郎詩以外にも、サティの「Je te veux」やフォーレの「夢のあとに」を歌付きで入れたのも良かったと思います。相変わらず伴奏の砂原嘉博さんのピアノも冴え渡っていました。
 
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終演後の会場で
 
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地下のホールから地上に上がると、なぜかキティーちゃんとダニエル君(笑)。同じビルを拠点にサンリオさんのイベントカーが走り回っていました。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月20日

明治19年(1886)の今日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)で、智恵子が誕生しました。
 
智恵子は生誕127年になります。

今日も上京、2件用事を片付けてきました。001
 
1件目は乃木坂の国立新美術館で開催中の第109回太平洋展を観ること、もう1件は原宿アコスタディオさんで開催されたモンデンモモさんのライブに出演することです。2件の場所が近かったので、まとめました。
 
今日はまず太平洋展のレポートを。
 
「一般社団法人太平洋美術会」さんの団体展で、この団体は明治末に日本女子大学校を卒業した智恵子が所属していた「太平洋画会」の後身です。高村光太郎研究会に所属され、連翹忌などのイベントに欠かさずご参加くださる坂本富江様がこちらの会員で、坂本様の作品も並ぶとのことで、見に行って参りました。
 
当方、美術館にはよく足を運びますが、ほとんどは個人作家、それも光太郎と縁のあった作家-したがって少し前の時代の作家-の企画展です。考えてみると、団体展、それも現代の、となると初めて観ました。
 
油絵、水彩画、版画、染織作品、彫刻の五部門が一堂に会し、とんでもない点数の作品が並んでいました。
 
絵画が中心でしたが、ほとんどが100号前後の大きなもの。圧倒されました。圧倒はされましたが、不快なものではありませんでした。意外とわかりやすい具象の作品が多かったせいだと思います。
 
また、版画や染織の作品にも非常に好感が持てました。002
 
さて、坂本様の作品。これも100号の大きな絵です。
 
題して「智恵子抄の里(二本松市)」。桜と針葉樹のある野の道、その向こうに安達太良山、その上には「ほんとの空」。昨年、坂本様の出版なさった「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」と同一のモチーフです。
 
100号もあって自宅に飾るのは不可能ですが、先週リニューアル成った花巻の高村光太郎記念館や、今日、このあとに行ったモンデンモモさんのライブ、それからもちろん連翹忌などでこうしたものが飾られるといい感じだな、と思いました。
 
しかし、「美」を生み出そうとする人間のエネルギーというか、意欲というか、そういうものを非常に感じた展覧会でした。自分も絵心があれば、挑戦してみたいと思うのですが……。
 
会期は5/27(月)までです。
 
明日のブログでは、この後行った、原宿でのモンデンモモさんのライブについてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月19日

明治26年(1893)の今日、智恵子の両親斎藤今朝吉・セン夫妻が、センの養父長沼次助と夫婦で養子縁組、数え8歳だった智恵子も斎藤姓から長沼姓になりました。
 

花巻に行く前、このブログの「ブログ設定」の部分を見ていたところ、下の方に「あなたのブログが本になる ブログを本にしよう」というバナーが貼ってあるのに気がつきました。
 
リンクに入ってみると、どうも製本サービス的な内容でした。
 
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要するにブログの記事をPDFに変換、カラー印刷(モノクロも可)、製本してくれるというサービスです。もちろん有料ですが。
 
いつどんな事を書いたかぱっと見られるのがいいかなと思い、早速、注文してみました。ちょうどブログを始めて1年たちましたし、1年分を一冊にまとめて記録の意味で紙媒体で保存しておくのもいいかなと思いました。
 
しかし、ページ数に上限があり、1年分で設定したら「ページ数の上限を超えています」とのメッセージ。では半年分、と思ったら同じく「ページ数の上限を超えています」。「はぁ?」と思いつつ4ヶ月分に減らしても駄目。結局3ヶ月分が限界でした。
 
試しにそれで申し込んでみたところ、昨日夕刻に届きました。
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3ヶ月分がB6版で360ページ。内容的にはたいしたことのないものですが、画像がカラーで印刷されているのできれいです。しかし1冊で8,845円でした。大量に作れば1冊のコストは下がるのですが、大量に作っても仕方ありません。残り9ヶ月分を作るとなると他に3冊必要となり、ページ数により多少の前後がありますが、約9,000円×3。高いのですが、とりあえず頼んで、来年の連翹忌に展示しようと思っています。
 
ちなみにこのサービス、当方の利用しているYahoo!ブログ以外にもアメブロやエキサイトブログなど、主要なブログにはほとんど対応しています。ご参考までに。
 
明日は原宿でモンデンモモさんのコンサートに出演します。その前に太平洋美術展を見てから行ってきます。
 
【今日は何の日・光太郎】5月18日

昭和19年(1944)の今日、光太郎が序文を書いた清水多嘉示著『巨匠ブルデル』が創芸社から刊行されました。

花巻へ3泊4日の旅を終え、帰って参りました。
 
一昨日の高村記念館仮オープン、第56回の高村祭と、あちこちで報道されています。
 
まず、昨日の地元紙2紙、大きく取り上げていただいていたのでコンビニで購入してきました。
 
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こちらは『岩手日報』さん。花巻支局の美人記者さん、がんばりました。見開き2ページで特集記事を組んでくださいました。
 
渡辺えりさんの講演の模様も。
 
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ちなみに一番下には当方のコメントも写真入りで掲載されています。
 
それから『岩手日日』さん。こちらは県内社会面で大きく取り上げてくださいました。
 
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こちらの2紙、渡辺さんにも差し上げました。今日あたり、山形で入院されているお父様のお見舞いに行かれるそうで、「いい土産ができた」と喜んでらっしゃいました。

ネット上では『河北新報』さんと『読売新聞』さんの記事が無料で読めました 

光太郎の足跡、後世に 新記念館がきょうオープン 花巻

岩手県花巻市で晩年の一時期を過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の作品を後世に残そうと、同市がことしの生誕130周年に合わせて整備した新しい記念館が15日、開館する。

新記念館は、同市太田の市歴史民俗資料館を衣替えする形で整備。旧記念館の約3倍の216平方メートルに「彫刻」「文芸」「書画」「花巻」「智恵子」の5テーマ別に、作品や愛用品など約300点を展示。代表作の彫刻「手」や詩集「智恵子抄」の初版のほか、眼鏡や彫刻刀などが光太郎の息遣いを伝える。花巻では初公開になる生前の映像も見られるという。
高橋久雄館長は「初展示の作品が15点あり、解説も充実させた。光太郎の生活、作品に親しんでほしい」と話す。
旧記念館は1966年開館。高村記念会が管理していたが、手狭で空調設備がないため、同会と市が整備を検討していた。新記念館は当面市が運営し、年間1万5000人の来館者を見込む。収蔵庫などの整備が残っており、2015年度の完成を目指す。
15日は午前9時から開館式を行い、高村山荘詩碑前で「高村祭」を開く。開館は午前8時半~午後4時半。入館料は一般350円、高校生・大学生250円、小中学生150円。15日は無料。連絡先は0198(28)3012。
(河北新報) 

光太郎記念館プレオープン きょう花巻市直営で

花巻市に新しい高村光太郎記念館(花巻市太田)が15日、市直営施設としてプレオープンする。花巻歴史民俗資料館を改装した新記念館は、高村光太郎の花巻移住70周年となる2015年に本格オープンする。
高村光太郎(1883~1956)は1945年、親交があった宮沢賢治の弟・清六氏を頼って花巻市に疎開、7年間を過ごした。地元の財団法人高村記念会が運営していた旧記念館は、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行ったあばら家「高村山荘」そばにあったが、手狭な上に資料の保存管理体制が十分でなく、財団法人が市に近くの資料館の活用を要望していた。
新記念館はプレオープン時で、旧記念館と比べ、展示スペースが3倍近くの216平方メートル、展示品も20点ほど多い約150点になる。彫刻、文芸、書画、花巻での暮らしなど五つのテーマごとに展示する。十和田湖「乙女の像」の試作ブロンズ像など従来の展示品に加え、花巻空襲後に詠んだ詩など、これまで展示できなかった書画や詩など15点も並ぶ。
花巻での暮らしぶりがわかる映像の上映も予定しており、館長の高橋久雄・市賢治まちづくり課長は「光太郎の新たな魅力を再発見してもらえれば」と話している。
入館料は一般350円など150~200円値下げし、2013年度の入館者は前年度より約4000人多い約1万5000人を見込んでいる。15日は入館無料。
2013年5月15日 読売新聞)
 
ちょうど新緑の美しい季節です。ぜひ、足をお運びください!
 
【今日は何の日・光太郎】5月17日

昭和20年(1945)の今日、疎開した花巻で高熱を発し、肺炎と診断されました。

このあと1ヶ月、宮澤家で床に臥します。

今日も携帯からの投稿です。001

花巻市文化会館において、渡辺えりさんの講演会があり、先程終わりました。昨日の高村祭での講演に続き、2日連続でしたが、さすがにプロですね。満員の聴衆を飽きさせることなく、光太郎と賢治の魅力や、その他に岩手が舞台ということで、朝ドラ「あまちゃん」の裏話など、大いに楽しめるお話でした。
今後、人前で話す機会が増えますので、見習いたいものです。

光太郎や賢治の愛した大沢温泉に泊まり(渡辺さんも泊まられています――当方とは別の部屋です、念のため(笑))、明日帰ります。

【今日は何の日・光太郎】5月16日

昭和4年(1929)の今日、詩人の尾崎喜八との旅の途上、群馬の中之条に一泊しました。

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【今日は何の日・光太郎】5月15日

昭和20年(1945)の今日、疎開のため花巻に向け、東京を発ちました。


というわけで、毎年今日は花巻で高村祭が開催されており、昨年に続いて今年も参加いたしました。

今年はこの日に合わせ、仮オープンとなる高村記念館開館式がまずありました。花巻市長を始めとする皆さんにより、テープカットが行われ、めでたく一般公開スタートです。関係者の皆様(自分もですが)、お疲れ様でした。

その後、例年の通り、高村祭。昨年は雨のため、屋内での開催でしたが、今年は山荘近くの「雪白く積めり」詩碑前広場で実施できました。

地元小中高生、看護学校生の皆さんによる音楽演奏や朗読の後、渡辺えりさんの講演でした。人気女優、しかも岩手県を舞台にしている朝ドラ「あまちゃん」のレギュラーということで、立ち見もたくさん出る盛況でした。

午後は宮城からいらした朗読の荒井真澄さん、大阪から駆けつけた光太郎研究会の西浦氏とともに山荘付近や新しい記念館、花巻駅近くの林風舎さん(宮澤賢治関連ショップ&カフェ)などを巡りました。

宿で撮ったローカルニュース画像を載せます。

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今日から三泊四日の日程で花巻です。

花巻郊外、旧太田村に今も残る光太郎が7年暮らした小屋「高村山荘」周辺で、明日は光太郎祭があり、それにあわせて近くに高村記念館が仮オープンします。

今日は報道関係向けの内覧会があるということで、1日早く現地入りし、解説をしました。館内の説明ボードの文面を当方が執筆しましたので、そういった関係です。

明日の高村祭では、特別講演として渡辺えりさんが来花、光太郎と交流のあったえりさんのお父様のお話などが聴けると思います。

詳細はまた後ほど。

【今日は何の日・光太郎】5月14日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町で光太郎が経営していた画廊「ろうかん洞」(携帯で漢字が出ません。「ろう」は王へんに良、「かん」は同じく王へんに干です)で、画家の正宗得三郎の個展を開きました。

大谷直子さん演じる「智恵子」が高村智恵子もモチーフにしているということで、たびたびこのブログでご紹介してきた園 子温監督映画「希望の国」。

昨日、主演の夏八木勲さんの訃報がネットに出ました。今朝の朝刊にも。
 
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心よりご冥福をお祈りいたします。

【今日は何の日・光太郎】5月13日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院中の駒込病院から、滋賀県彦根近郊犬上郡北青柳村の野田守雄にあててはがきを書きました。
 
現存するこのはがきの宛名面には赤で「消毒済」の印が押されています。文面は以下の通り。
 
拝啓
先日感冒の気味にて閉口いたし居候処遂に腸チフスに冒され只今は入院治療いたし居候。今月中には退院いたし得るかと存居候へば貴下宛の彫刻は今少々遅延いたす事と相なる可く此儀御承知置被下度候
 
野田はこの前年、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」を注文していましたが、こうしたもろもろの事情で完成が遅延、結局、野田の手に渡ったのはさらに翌年です。
 
来月から千葉市美術館で開催される企画展「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の図録には、資料として光太郎の書いたものの中から、個々の彫刻に関するものなども掲載されます。「裸婦坐像」に関しては、この書簡を始め、他にも最近発見したものを含めて野田宛書簡13通が掲載されます。中には「裸婦坐像」のスケッチが描かれているものもあり、一つの彫刻が一人の愛好家の手に渡るまでの経過ということで、非常に興味深いものです。
 
是非ご来場の上、図録もお買い求めください。

千葉市美術館様より、6/29(土)~8/18(日)に開催される「生誕130年彫刻家高村光太郎展」のポスターとチラシが届きました。

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関連行事等が正式決定ということで、裏面に記載されています。同館のHPにも記載されました。
 
こちらでも詳細を記します。


■記念講演会
「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」(事前申込制)
7月7日(日)14:00より(13:30開場)/11階講堂にて
【講師】北川太一(文芸評論家・高村光太郎記念会事務局長)
【聞き手】小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 聴講無料/定員150名 
【申込方法】往復はがきまたはEメールにて、郵便番号、住所、氏名、電話番号、参加人数(2名まで)
 を明記のうえ、下記までお送りください。
〒260-8733 千葉市中央区中央3-10-8 千葉市美術館 高村光太郎講演会係
kotaro.event@ccma-net.jp(件名を「高村光太郎講演会参加希望」としてください)
※申込締切 6月26日(水) 必着
※お申込はお1人につき1通まで、応募多数の場合は抽選となります。
※携帯電話からお申込みされる場合は、ccma.event@ccma-net.jpからのメールを受信できるように設定してください。
 
■ワークショップ
ファミリー・プログラム「はさみで描こう」(事前申込制)
きれいな色紙を使って夏の絵をつくります。
7月28日(日)13:30~16:00 11階講堂にて
対象:小学1~3年生の子どもとその保護者(2人1組)10組
参加費:500円/組
【申込方法】往復はがきまたはEメールにて、郵便番号、住所、2人分の氏名、お子さんの学
 年、当日連絡可能な電話番号を明記のうえ、下記までお送りください。
〒260-8733 千葉市中央区中央3-10-8 千葉市美術館 ファミリー・プログラム係
workshop@ccma-net.jp(件名を「ファミリー・プログラム参加希望」としてください)
※申込締切 7月16日(火) 必着
※お申込はお1人につき1通まで、応募多数の場合は抽選となります。
※携帯電話からお申込みされる場合は、workshop@ccma-net.jpからのメールを受信できるよ
 うに設定
してください。
 
■中学生のためのギャラリークルーズ'13
7月26日(金) 、27日(土) 10:00~15:00随時受付/展示室にて
参加無料/各日30名程度/所要時間30~40分程度
子どもだけでの来館と鑑賞をサポートします。受付順にグループを組み、ボランティアリーダーと「彫
刻家・高村光太郎」展を鑑賞します。1人でもグループでも参加可。夏休みの宿題(展覧会鑑賞)にも対応できます。
参加希望の方は直接会場へお越し下さい。
 
■市民美術講座
「光太郎・そのあゆみ」

7月20日(土)14:00(13:30開場)より
「光太郎・その時代」
8月10日(土)14:00(13:30開場)より
いずれも、11階講堂にて聴講無料/先着150名 
【講師】藁科英也(当館学芸係長)
 
■ギャラリートーク
担当学芸員による ―7月3日(水) 14:00より
ボランティアスタッフによる ― 会期中毎週水曜日(7月3日を除く)14:00より
*水曜日以外の平日の14:00にも開催することがあります。



というわけで、7/7(日)には、北川太一先生と、不肖・当方にて対談形式の記念講演会を行います。事前申し込み制となっておりますので、よろしくお願いいたします。
 
以前にも書きましたが、「生誕130年彫刻家高村光太郎展」としては、全国3館巡回で、以下の日程になっております。
6/29(土)~8/18(日) 千葉市美術館
8/30(金)~10/20(日) 井原市立田中美術館
11/1(金)~12/15(日) 碧南市藤井達吉現代美術館
 
ただし、3館で出品内容が異なります(また追ってこのブログにて紹介します)。最も大きな違いとしては、千葉展のみ、智恵子の紙絵が65点出品されることです。岡山展と愛知展では智恵子の紙絵は出ません。
追記 予定変更で井原で43点、碧南で26点出ることになりました。

 
紙絵の本物がズラッと並ぶのも久しぶりです。これを機に、ぜひご覧ください。


【今日は何の日・光太郎】5月12日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山口分教場で、村人を対象に「美の日本的源泉」と題し、連続講話を始めました。

【今日は何の日・光太郎】5月11日

昭和3年(1928)の今日、詩「あどけない話」を書きました。
 
 智恵子は東京に空が無いといふ、002
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。
 
右の画像は、福島二本松の智恵子生家と「ほんとの空」です。昨年9月に撮影しました。
 
さて、「あどけない話」。「ほんとの空」というフレーズは、東日本大震災以来、一種、反原発の象徴的に使われています。
 
それはそれでいいのですが、実は難しい詩です。
 
「東京に空がない」と言っても、85年前ですから、「大気汚染で汚れた空しか見えない」というわけではありません。
 
「空」=「心のよりどころ」または「自分の居場所」とでもいえるような気がします。
 
智恵子は洋画家を志し、結婚(大正3年=1914)前には、実際に展覧会に作品を出したり、雑誌『青鞜』の表紙絵を描いたりといったことをしていました。
 
そして同じく「美」の道を志す光太郎と出会い、惹かれ合い、そして結ばれました。二人の間には、一種の「同志愛」的な要素もあったのではないかと思います。
 
しかし、光太郎の彫刻や詩は徐々に世に認められていったのに対し、智恵子の絵はなかなかそうはなりませんでした。いわゆる「ジェンダー」の立場の方々は、光太郎との生活の中で、女性である智恵子が自分を犠牲にせざるをえなかったからだと論じています。光太郎自身もそのようなことを書いています。
 
その上、智恵子は健康面でもあまりすぐれなかったこと、二人の間には子供もおらず、さらには智恵子には友人も少なかったこと、二本松の実家・長沼家がだんだん傾いていたことなど、智恵子にとってはつらい要因が重なっていました。
 
そんな時に、智恵子はよく福島に一人帰省して、ガス抜きをしていたようです。
 
この「あどけない話」の解釈として、昔、当方は、智恵子の心の叫びを理解せず、「あどけない」と処理してしまった時点で、後の大きな悲劇=智恵子の統合失調症発症は決定的になったのだ、と書いたことがありました。
 
ところが後に、当会顧問・北川太一先生に「違う」と一喝されました。
 
北川先生曰く、この詩が書かれた前日に、不動産登記簿によれば長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けており、光太郎がこうした事情を知らなかったはずがないというのです。ちなみに明くる昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさと、そして「ほんとの空」を失います。
 
実家の斜陽化に心を痛め、しかしどうしてやることもできず、子供のように涙を流す智恵子。さらにそれを知りつつどうしてやることもできない光太郎。そういう姿が見えてきます。
 
しかし、どうしてそれが「あどけない話」なのか、実はまだよくわかりません。二人の「生」のありようを追い求めていくことで、その答えに近づくことができるのでしょうか。そうであってほしいものです。

先日、日暮里での野村朗氏のリサイタルに行った際、やはりご来場の『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江様からご案内をいただきました。
 
日本女子大学校卒業後の智恵子が在籍した太平洋画会の後身、太平洋美術会の定期展です。

河北抄第109回 太平洋展

開催期間   2013年05月15日(水)~2013年05月27日(月)
        10:00~18:00 【最終日は午前10時~午後3時30分】
展示会場  六本木 国立新美術館 港区六本木7-22-2
巡回展   福岡・大阪・名古屋・神奈川・千葉
 
 
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坂本様の作品も展示されるとのこと。やはり智恵子をモチーフとした作品だそうです。
 
当方、来週、花巻に行きますので、その帰り道に寄ってみようかなと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月10日003

明治33年(1900)の今日、上野公園竹の台五号館で始まった彫塑会第一回展覧会に、塑像「観月」を出品しました。
 
この「観月」、確認されているものとしては一番目か二番目に古い塑像です。残念ながら現存確認できていません。
 
光太郎曰く、「坊さんが月を見上げて感慨に耽ってゐるところ」(「美術学校時代」 昭和17年)。
 
さらに同じ「美術学校時代」では、こうも述べています。
 
彫刻をするについても非常に文学的に考へてゐたので」「それが当時の彫刻会では新しかつた。後にかういふことが間違つた新しい彫刻運動のもとになつたりした。
 
要するに、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻、ということです。後に光太郎はこういう方向性を否定し、彫刻には純粋に造形美のみを求めるようになっていきます。

新刊を取り寄せました。
 
建築家の中村好文さんの著書で、『小屋から家へ』。2013/4/16、TOTO出版、定価2200円+税です。
 
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同社のサイトから。
 
本書のテーマは「小屋」。「人のすまいの原型は小屋にある」と考える中村氏が手がけてきた極小の小屋から、小屋の面影を宿した小住宅まで12作品を、雨宮秀也氏の撮り下ろしの写真で紹介します。

また、「古今東西 意中の小屋たち」と題して、中村氏が長年魅了され続けてきた「7つの小屋」を巻頭に紹介します。旅好きの建築家としても知られる中村氏が訪ね歩いてきた世界中の小屋から厳選された「ル・コルビュジエの休暇小屋」など実在する小屋から、「鴨長明の方丈」など歴史上の小屋まで、氏が愛してやまない7つの小屋を通して、小屋の魅力を解き明かします。
 
この「7つの小屋」のうちの一つが、花巻郊外の光太郎が7年暮らした高村光太郎山荘。写真や1/75の図面入りで4ページにわたって紹介されています。
 
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写真は写真家の阿部徹雄(大3~平19)の撮影。昭和26年(1951)に『サン写真新聞』という雑誌に阿部による光太郎訪問記事が掲載され、そのために撮影されたものです。
 
『サン写真新聞』に掲載されなかったものを含め、写真の原板と光太郎からの書簡4通が平成22年に阿部氏の子息宅で見つかり、『岩手日報』で報じられました。その後、ご子息の厚意で、大伸ばしされた写真が花巻の高村光太郎記念会に寄贈され、現在、山荘に飾られています。当方の元にもメールで送っていただきました。
 
この手の山荘内部が大きく写っている写真は珍しく、また、それが掲載されている書籍もあまりありません。是非お買い求めください。
 
また、「7つの小屋」のうち、他に光太郎と交流のあったスキーヤー・猪谷六合雄が群馬の赤城山に建てた小屋も紹介されています。猪谷の実家は赤城山の猪谷旅館。たびたび光太郎が訪れたところで、猪谷の名は光太郎日記にも記されていますし、明治37年(1904)に光太郎が描いたスケッチ帳が『赤城画帖』として昭和31年(1956)に刊行された際、その解説を書いているのが猪谷です。
 
さて、乃木坂の建築・デザイン専門ギャラリー「TOTOギャラリー・間」において、著者の中村好文氏の個展「小屋においでよ!」が開催中です。
 
『小屋から家へ』の出版とリンクしているようで、3階の第1会場では「7つの小屋」の紹介、中庭には中村氏が設計した原寸大の「ひとり暮らし用」の小屋が展示されているとのことです。そこには光太郎山荘のエッセンスも取り入れられているのではないでしょうか。
 
暇を見つけて行ってこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月9日

大正7年(1918)の今日、智恵子の父・長沼今朝吉が歿しました。

これを機に、素封家だった長沼家は没落の道を歩み始めます。

新潟から入ったイベント情報です。

シーズン&アート第29章 「高村光太郎-安達太良山と智恵子」

 季節にあった文学の朗読・解説と、音楽の生演奏をお楽しみいただく「シーズン&アート」。
 今回の文学は、彫刻家であり偉大な詩人でもあった高村光太郎が、妻・智恵子への想いを綴った愛の詩集《智恵子抄》です。
『智恵子抄』は、高村光太郎の智恵子への深い愛情が、美しい東北の風景や千葉の九十九里浜の砂山の情景と重なり、絵的な美しさを感じさせる作品です。
今回は、高村光太郎の詩集『道程』、『智恵子抄』を、元NHKアナウンサーの高山憲治さんが朗読し、文芸評論家の若月忠信さんが解説します。
 二期会会員のソプラノ歌手・吉田友子さんが、朗読にあわせて歌曲『智恵子抄』より「あどけない話」や「レモン哀歌」などを歌います。
鈴木賢太さんのピアノ演奏でお楽しみいただきます。
 死後も光太郎の心に生き続けた智恵子の姿。詩からあふれる二人の愛の美しさを感じてください。
 
開催概要
日時  平成25年6月1日(土曜) 午後1時から午後3時(開場:午後0時30分)
会場  新潟市江南区文化会館 音楽演劇ホール 新潟市江南区茅野山3丁目1-14 
定員  120名 (先着順) 

文学  高村光太郎 『智恵子抄』、『道程』 
出演者 朗読     高山 憲治 (元NHKアナウンサー)
 解説 
  若月 忠信(文芸評論家)
    歌        吉田 友子(ソプラノ、二期会会員)
    ピアノ   鈴木 賢太(新潟大学教育学部音楽科准教授)
料金  一般1,000円
お申込み方法  新津美術館あてに電話、FAX、メールいずれかで「代表者の住所、氏名、電話番
号、参加人数」をお伝えのうえ、お申込みください。(先着申込順、4月26日より受付開始)
 電話:0250-25-1300 FAX:0250-25-1303
 メール:museum.ni@city.niigata.lg.jp 

公演プログラム
朗読 高村光太郎 『智恵子抄』 より
    樹下の二人 、あなたはだんだんきれいになる
    あどけない話 (智恵子抄「あどけない話」 (清水脩作曲)の演奏とともに )
    千鳥と遊ぶ智恵子
    山麓の二人
    レモン哀歌 (智恵子抄「レモン哀歌」 (清水脩作曲)の演奏とともに)
    案内 ほか
    高村光太郎 『道程』 より 道程
演奏 歌 吉田友子(ソプラノ) ピアノ 鈴木賢太
朗読にあわせて
 あどけない話 (清水脩作曲 「智恵子抄」より)
 レモン哀歌 (清水脩作曲 「智恵子抄」より)
歌 砂山 
  九十九里浜
  浜千鳥 (鹿嶋鳴秋作詞、弘田龍太郎作曲 童謡)
  オペラ 「トスカ」より 歌に生き、恋に生き 
ピアノ  ドビュッシー 「月の光」 
     テクラ・バダジェフスカ 「乙女の祈り」 ほか
注) プログラムは変更になる場合があります。
 


早速、当方、申し込みました。
 
【今日は何の日・光太郎】5月8日
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、運動会を見物しました。
 
光太郎、なんと、前の年の運動会(残念ながら詳細な日付が不明)では、「老人の部」の「瓶つり競走」に参加しています。

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旧山口小学校(現在は取り壊されてしまって見ることができません)

先月末、全国の小中学校で「平成25年度全国学力・学習状況調査」が行われました。小学校6年生と中学校3年生が対象です。
 
いろいろ問題はあると思いますが、それはさておき、中学校3年生の国語A(「知識」を問う問題)で、光太郎の散文「山の春」が問題文に使われました。この「山の春」、昭和26年(1951)、雑誌『婦人之友』に掲載されたエッセイです。
 
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光太郎の文筆作品というと、どうしても詩が有名ですが、発表されたものとしては、評論やエッセイ、翻訳などの散文の方が圧倒的に多数です。
 
翻訳は光太郎オリジナルではありませんが、それでも訳し方、どういった文章にするかといった部分では、訳者の役割には大きなものがあります。
 
身びいきではなく、光太郎の散文は非常に読みやすいと思います。着眼点もすばらしいし、論の展開の仕方、適切な例の上げ方、言葉の選択、段落の設定の仕方、句読点の使い方など、実に参考になります。
 
『全集』補遺作品集「光太郎遺珠」や、冊子『光太郎資料』などの編集で、光太郎の文章を書き写す機会が多いのですが、光太郎の文章は書き写していてまったく苦になりません。ただ、光太郎のクレジットでも、他の人が筆録した談話筆記などになると、いつもの「光太郎ルール」ではないな、と思うことがありますが。
 
逆に談話筆記には、通常の散文にはない光太郎のしゃべり方のルールが見て取れ、それに感心させられる事も多くあります。
 
そういう意味では、テストの問題文などには光太郎の散文はうってつけだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】5月7日

昭和9年(1934)の今日、療養のため、智恵子が千葉県九十九里浜の妹の婚家に移りました。
 
光太郎は、この九十九里浜での智恵子の様子を、後に詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などに謳っています。
 
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智恵子が療養していた家(現在は取り壊されてしまってみることができません) 
 

【今日は何の日・光太郎】5月6日

昭和15年(1940)の今日、詩「新緑の頃」を書きました。
 
昨日は、家族サービスで、茨城県の筑波山周辺(雨引観音楽法寺、茨城県フラワーセンター)に行って参りました。新緑の山がとても美しく、こういうときには「日本に生まれてよかった」と思います。
 
帰ってきてネットで新しい情報の調査。すると、『北海道新聞』さんの記事がヒットしました。 

新緑の頃

寒さに震える大型連休。それでも、近郊の山々はやわらかな萌木の色に染まり、互いにほほ笑み合っているかのようだ。高村光太郎の「新緑の頃」は、この季節を喜びいっぱいに歌う▼<青葉若葉に野山のかげろふ時、ああ植物は清いと思ふ。植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡(ぬ)れて出たやうな緑のお祭>。「冬の詩人」とも呼ばれる光太郎には珍しい春の詩。いつ終わるとも知れない厳しい冬を熟知しているからこそ、ようやく巡りきた命の再生に感謝し、心を沸き立たせる▼それは北の地に暮らす私たちの実感でもある。どんな老木も、生きているかぎり、みずみずしい葉を芽吹かせる。いまある場所をじっと動かず、寒さに耐えながら、気温と日照のかすかな変化を感じ取り、春への日数を積算しているのだろう▼北電泊原発が停止したのは去年の5月5日だった。道民は節電など暮らしに工夫を凝らし、原発に由来しない電気で春夏秋冬を過ごしてきた。あれから1年。ほっと息をつく▼だが、緑なす列島の中で、福島第1原発と周辺の街や野山や海や川では放射能との闘いが続く。道内の水や空気や土を清く保ちたいと願うのは地域エゴではない。生きとし生けるものへの義務だろう▼幾春(いくはる)も深呼吸できる大気を―。濡れ出たばかりの無垢(むく)な命に誓う。きょう「みどりの日」。2013・5・4
 
『朝日新聞』さんでいえば、「天声人語」にあたる欄でしょう。ありがたいことです。しかし、北海道では「寒さに震える大型連休」なんですね。
 
ちなみに詩全文は次の通り。

 
   新緑の頃002
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。
 
画像は先日、碌山忌の際に碌山美術館でいただいて来た楓の苗です。2階のベランダから家の裏山の新緑をバックに撮ってみました。秋には真っ赤に染まるとのこと。今から楽しみです。
 
再び『北海道新聞』さんの記事。「緑なす列島の中で、福島第1原発と周辺の街や野山や海や川では放射能との闘いが続く」……。「幾春(いくはる)も深呼吸できる大気を―」その通りですね。

昨日、日暮里での野村朗氏作品リサイタル002に行く前に、東京駅丸の内北口の東京ステーションギャラリーさんに寄りました。 

現在、「東京ステーションギャラリー再開記念 生誕120年 木村荘八展」を開催中です。
 
木村荘八(しょうはち)は明治26年(1893))生まれ。光太郎より10歳年下です。岸田劉生と交流を深め、西欧のポスト印象派や岸田の影響を受けつつもそこからの脱却をはかり、東京の景物をモチーフにした絵で独自の境地を開きました。
 
大正元年(1912)、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒユウザン会(のちにフユウザン会)の結成に参加、やはり同人として参加した光太郎と知り合います。
 
大正2年(1913)には、雑誌『近代の洋画』第17号として、光太郎、劉生と3人で、「後期印象派」を刊行しています。
 
また、挿絵画家としても活躍、朝日新聞に連載された永井荷風の「濹東綺譚」などの挿絵を担当しました。今回の展覧会では、この「濹東綺譚」の挿絵原画がたくさん出品されています。
 
荘八はもともと牛肉屋「いろは」の息子です。異腹を含め、きょうだいが多く、兄たちも光太郎と関わっています。
 
四男で作家の荘太(『四』の字を嫌って四画の『太』の字を付けたそうです)は、吉原の娼妓、若太夫を巡って光太郎と争いました。その経緯は荘太の自伝的小説『魔の宴』に詳述されています。
 
五男、荘五は武者小路実篤が「新しき村」の出版部門として大正9年(1920)、池袋に近い長崎村に作った出版社、曠野社にいて、たびたび光太郎作品を掲載した雑誌『生長する星の群』などを刊行していた関係で、光太郎とも親しかったようです。
 
当方、昨年、荘五宛の光太郎書簡を二通、入手しました。
 
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さて、「生誕120年 木村荘八展」。5/19(日)まで東京ステーションギャラリーさんで、その後、5/25~7/7に豊橋市美術博物館さん、7/13~8/25で栃木の小杉放菴記念日光美術館さんを巡回します。
 
光太郎も愛したある意味エキゾチックな江戸情調があますところなく表現されています。是非ご覧ください。
 
【今日は何の日・光太郎】5月5日

昭和57年(1982)の今日、盛岡市川徳デパートで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

川徳さんでは昭和25年(1950)、智恵子の紙絵展覧会が開催されています。

今日は、名古屋の作曲家で、「連作歌曲「智恵子抄」」を作られた野村朗氏の作品リサイタルを聴きに、日暮里に行ってきました。
 
上京する際には複数の用件をこなすのがモットーでして(笑)、午前中には、東京駅に昨年リニューアルオープンした東京ステーションギャラリーに寄りました。現在、「東京ステーションギャラリー再開記念 生誕120年 木村荘八展」開催中です。木村はヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と縁があった画家です。明日、詳しくレポートします。
 
その後、日暮里へ。まだ時間がありましたので、第一日暮里小学校、そしてすぐ近くの太平洋美術会に行ってきました(行ったと言っても、中には入りませんでしたが)。
 
第一日暮里小学校は、光太郎が明治23年(1890)から同25年(1892)まで通っていた小学校です。その縁で校門脇には光太郎自筆の碑があります。
 
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「正直親切」。下段のルビも光太郎の筆跡です。元々は、花巻郊外太田村山口在住の昭和26年(1951)に、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈ったものですが、昭和60年(1985)、第一日暮里小学校の創立100年記念に光太郎の母校として、この文字をいただいたとのこと。
 
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碑の向かいにはガラスケースの掲示板があり、同校の学校便りが張ってありました。その名も「正直親切」。
 
ちなみに同校では全校あげて光太郎の顕彰に取り組んでいるそうで、その一環として昨年度3月には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江さんが講話をなさっています。ありがたい限りです。
 
今日の野村氏のリサイタルには、同校の校長先生や、坂本さんもお見えでした。
 
すぐ近くには太平洋美術会。ここはかつて明治末に智恵子が通っていた太平洋画会の後身です。もっとも、第一日暮里小も太平洋美術会も、光太郎智恵子が通っていた頃とは場所が変わっていますが。
 
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画像の木炭デッサンは智恵子の作品(もちろん複製ですが)。
 
坂本さんはこちらの会員でして、こちらの会の第109回展の招待状を今日いただいてしまいました。5/15(水)~27(日)、六本木の国立新美術館です。こちらもまた項を改めましてご紹介いたします。
 
さて、いよいよ野村氏の作品リサイタル。会場は日暮里駅近くの日暮里サニーホールです。ここでは、数年前に荒川区主催の「光太郎智恵子フォーラム」というイベントがあり、当方が司会を務めました。それ以来でして、懐かしい場所でした。その際は大ホールでしたが、今日はコンサートサロンという小ホールでした。
 
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3月に野村氏の地元、名古屋であったリサイタルの時と同じ、森山孝光様、康子様による演奏でした。
 
前半は八木重吉、三好達治の詩に曲を付けたもの、後半が「連作歌曲「智恵子抄」」。「智恵子抄」は「千鳥と遊ぶ智恵子」「あどけない話」「レモン哀歌」、ピアノインストゥルメンタルの「間奏曲」が入って「案内」。野村氏の光太郎・智恵子に対する思い入れが感じられる作品群です。
 
名古屋では大ホールでしたが、今回は小ホールで森山孝光様の息遣いが感じられ、また康子様の指使いまで見て取れ、、かえって小ホールの方がよかったと思いました。
 
今年の連翹忌で野村氏が招待状を配布してくださったため、会場には、坂本様はじめ、連翹忌にご参加いただいている方々のお姿もちらほら。その中のお一人が、終演後、「光太郎が歌っているようだったね」とおっしゃっていました。「なるほど」と思いました。
 
今後とも、皆様のご活躍に期待したいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】5月4日

明治44年(1911)の今日、父・光雲を頂点とする古い日本彫刻会と訣別し、北海道移住を企てて東京を発ちました。
 
札幌郊外、月寒の牧場にたどり着き、ここで酪農をやりながら美術制作をする生活を考えていましたが、現実にはそんな生活は夢でしかないと悟り、中旬にはすごすご帰京しています。
 
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近々放映されるテレビ番組の情報です。

八重の桜(18)「尚之助との旅」002

2013/05/05(日)18:00~18:45 【NHKBSプレミアム】
2013/05/05(日)20:00~20:45 【NHK総合1】
2013/05/11(土)13:05~13:50 【NHK総合1】
 
会津の防衛に不安を抱いた尚之助(長谷川博己)は、八重(綾瀬はるか)を連れて周縁部の見聞に回る。二人は二本松で、変事に備え熱心に砲術教練に励む少年たちと出会う。

番組内容

会津の防衛に不安を抱いた尚之助(長谷川博己)は、八重(綾瀬はるか)を連れて周辺諸藩見聞の旅に出る。二本松に立ち寄った2人は、有事に備えて熱心に砲術教練に励む少年隊士たちと出会う。会津に戻ると、尚之助には藩から仕官の認可が下り、八重も権八(松重豊)や佐久(風吹ジュン)と喜びを分かち合う。尚之助は早速、各地の見聞録や軍備増強策を提出し、藩内の防衛強化を唱えるが…。

出演者

綾瀬はるか,西島秀俊,長谷川博己,綾野剛,玉山鉄二,斎藤工,風吹ジュン,松重豊,長谷川京子,反町隆史,吉川晃司,芦名星,降谷建志,山口馬木也,西田敏行 他
 
語り 草笛光子
 
智恵子が生まれる20年ほど前の二本松が舞台となります。いわゆる二本松少年隊の悲劇ですね。実際に戦闘になるのはまだ先ですが。
 



特選ドキュメンタリー・JNNドキュメント

2013年5月7日(火) 23時00分~24時00分【TBSニュースバード】
 
ATV青森テレビ制作「時空を超えて今、湖底からの目覚め~一式双発高等練習機69年ぶり十和田湖底より現れる~」です。
 
TBSが運営する有料のCS放送です。昨年報道された十和田湖で見つかった旧日本軍の航空機に関する内容です。
 


<ドラマ名作選>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

2013年5月8日(水) 12時00分~13時55分【BSフジ・181】
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。事件の真相に光彦が迫る!

番組内容

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる!!

出演者

中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
光太郎彫刻をめぐる殺人事件を描いたものです。リニューアル前の花巻高村記念館でのロケが行われています。
 
元々は平成18年(2006)に放映されたものですが、何度か再放送されています。昨年も再放送されました。まだご覧になっていない方はご覧ください。
 



【今日は何の日・光太郎】5月3日

明治36年(1903)の今日、鉄幹与謝野寛ら新詩社同人とともに、関西旅行に発ちました。京都、奈良、高野山、堺、近江などを巡りました。

一昨日でしたか、花巻の財団法人高村記念会様から、5/15の高村祭のご案内をいただきました。
 
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水曜日なのでいろいろ大変でしょうが、ご都合のつく方はいらしてください。画像の通り、渡辺えりさんの講演『光太郎と父』があります。
 
同じ日にリニューアルされた高村記念館の仮オープンです。財団法人高村記念会様から、メールでいろいろな図面などが送られてきました。今までは、はっきりいうとごちゃごちゃした展示でしたが、今度は広い建物を利用できるということで、すっきりした展示のようです。当方、館内に展示する説明版の執筆を頼まれまして、昨日、メールにて送付しました。
 
さて、別件ですが、このブログ、昨年の5月3日に開設しまして、今日の投稿が365件目です。とりあえず1年間、1日も休まずに更新しました。今後も地道にやっていきますのでよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月2日

昭和23年(1948)の今日、太田村の開拓事務所で、保健婦さんにビタミンB1の注射をしてもらっています。

先日、本郷の森井書店様から届いた同店の在庫目録。
 
光太郎がらみとして、昨日は識語署名入りの『智恵子抄』をご紹介しましたが、もう一点、光太郎がらみが載っていました。
 
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昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念に配布されたものです。ちなみに、「回忌」の正しい数え方は数え年と同じで、亡くなって何年目、と数えます。亡くなった年の翌年のみ満一年ということで「一周忌」、その次が「三回忌」となり、以後、一つずつ数字が増えていきます。従って、連翹忌の回数とは一つずれます。
 
制作はこの手の美術工芸品の複製で有名な大塚巧藝社。当然、非売品です。もともとは大正13年(1924)、光太郎の弟、豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたものです。この光太郎の心遣いに、豊周はいたく感激したとのこと。
 
さて、当方、同じものを持っています。
 
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ちなみに、第6回連翹忌でこれが配布された経緯を記した『東京新聞』のちいさな記事もついていました。
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数年前、どこかの古書店で売りに出ていたものをネットで買ったのですが、どこの古書店だったか覚えていません。値段も覚えていません。ただ、それほど高かった記憶はありません。高くても数千円だったような気がします。
 
ところが今回、森井書店様では150,000円で売りに出しています。考えてみればこのくらいの値段がついてもおかしくないものです。それが数千円でしたので、何だか得した気分ですね。まぁ、手放すつもりは毛頭ありませんが、安い買い物ができたという意味で、得した気分です。
 
ところでこの「般若心経」、一カ所、光太郎が書き間違いました。

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「菩提薩埵」で「菩提(ぼだい)」と書くべきところを勢い余って「菩薩(ぼさつ)」と書いてしまい、その後、「薩」と「提」の間に漢文のようにレ点を付けています。こういう点、かえって温かみを感じます。
 
ところで、古書目録といえば、昨日届いた杉並の中野書店様の目録には、大正3年の詩集『道程』初版が載っていました。

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詩集『道程』初版。国会図書館にすらないものです。同館にあるのは売れ残りを改装し、奥付を変えた「再版」です(それはそれで珍しいのですが)。1~2年に一度くらい市場に出てきます。昨年は明治古典会七夕古書大入札会にカバー付きのものが出ましたが、今回のものはカバーなし、状態もあまり良くないようです。それでも94,500円。まぁ、これも妥当な価格です。当方、同じような状態のものを同じような価格で手に入れました。
 
昨日ご紹介した識語署名入りの『智恵子抄』といい、心ある人や機関の手元に行ってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】5月1日

明治38年(1905)の今日、上野公園竹の台五号館で第一回彫塑同窓会展が開幕しました。光太郎は塑像「薄命児」「解剖台上の紅葉山人」を出品しました。

週に1~2冊、古書店から目録が届きます。通販用の在庫カタログといった位置づけです。今ほどインターネットが普及していなかった時代には、地方在住者としては非常にありがたいものでした。昨今は古書店もネット販売を取り入れているところがほとんどですが、紙の目録もまだまだ役に立つものです。
 
先日、本郷の森井書店様から届いた目録。80ページ中の約50ページがカラー版で、近代作家の肉筆ものなどが多数載っており、見ているだけでも楽しいものです。
 
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ちなみに上の画像は表紙ですが、上から順に横光利一の草稿、岡本かの子・一平合作の短冊とかの子の草稿、永井荷風の書簡です。
 
残念ながら、どうしても必要なものは載っていなかったので注文しませんが、「ほう」と思ったものが何点かありました。
 
まず、識語署名入りの龍星閣版『智恵子抄』。

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見返しに短歌「わが為事(しごと)いのちかたむけて成るきはを智恵子はしりき知りていたみき」がペン書きで書かれています。「光」の署名も。この短歌は『智恵子抄』に収められた「うた六首」の中の一つ、有名な作品です。筆跡的に光太郎のもので間違いありません。
 
本自体は、函がしっかりついていますが、重版なので、この識語署名がなかったら1,000円ぐらいのものです。しかし、この識語署名があることによって売価380,000円。妥当な値段かな、と思います。ここまでしっかり有名な短歌が書かれているという点では、識語署名というより、一つの書作品に近いといえるでしょう。美術館や文学館の企画展などで展示されてもおかしくないものです。
 
有り余るほどの資産があれば購入するのですが、そうもいきません。どなたか心ある方の手元に行ってほしいものです。
 
他にも数点、「ほう」と思うものがありましたが、ブログのネタかせぎのため、明日に回します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月30日

昭和30年(1955)の今日、結核のため、赤坂山王病院に入院しました。
 
7月には小康状態となり、退院していますが、もはや手の施しようはなかったようです。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
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娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

隔月刊の美術雑誌『花美術館』の今月号。
 
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青森在住の彫刻家・田村進氏からいただきました。
 
巻頭特集は画像でご覧の通り、竹久夢二ですが、後半の「今日まで、そして明日への芸術」と題する現代作家を紹介するページに、田村氏も取り上げられています。
 
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氏の近作、「レリーフ習作・巨星高村光太郎」の画像、紹介も。
 
曰く「本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。」。
 
氏とは電話で何度かお話しさせていただきましたが、光太郎が十和田湖畔の裸婦像を作った頃、青森で会ったことがあるとのこと。光太郎が没してから生まれた当方にとっては、うらやましいかぎりです。
 
また、本号が通巻30号ということで、アーカイブ的なページもあり、一昨年の第18号の巻頭特集が「光太郎・智恵子」だったため、その際の監修をされた北川太一先生の短文も載っています。

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ちなみに「老彫刻家」とは長崎の「平和祈念像」などで有名な北村西望です。
 
この雑誌、巻頭特集には日本人美術家を一人ずつ(光太郎・智恵子は二人でセットでしたが)を取り上げています。荻原守衛、佐藤忠良、岸田劉生など、光太郎とも縁の深い作家も何度も取り上げてくれています。
 
ある意味、地味な雑誌ですが、作りはほぼ全ページカラーでぶ厚く、その意味では豪華です。こういう真面目な雑誌がしっかり続いていってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】4月28日

昭和8年(1933)の今日、日本女子大学校刊行の『家庭週報』第1175号に散文「おわびとお礼と」が掲載されました。
 
この年除幕された同校創立者、成瀬仁蔵の胸像に関し、完成までに14年もかかった経過が述べられています。

中国地方からもニュースが入っています。

宇部ときわ公園で「風を感じる」彫刻展-扇風機で作品動く演出も

 ときわ公園内のときわミュージアム分館(湖水ホール内、宇部市沖宇部)で現在、彫刻展「風を感じる あれ?彫刻が動いた展」が開催されている。

 「風を感じる」をテーマに3月30日に始まった同展は、これまでに彫刻展「UBEビエンナーレ」に出品した彫刻家の大隅秀夫さんや村中保彦さん、大井秀規さんの作品のほか宇部市が所蔵する彫刻など約30点を展示する季節に合わせた企画展。館内には扇風機を設置し、風を受けて回ったりゆらゆらと揺れたりする彫刻や自動で動く作品なども並ぶ。

 石に鉄やチタンなどの金属を組み合わせた大隅秀雄さんの作品と、壁や床までいっぱいに展示する村中さんの作品は、風に揺れる様子が楽しむことができ、大井さんの作品は石彫刻を鑑賞し、風を感じることができるという。 

 
宇部市の所蔵作品では、久保田后子市長が「大好き」(同ミュージアム学芸員の三浦梨絵さん)だという荻原守衛の「女」や高村光太郎の「手」など代表作品を中心に展示する。

 三浦さんは「作品を見ていると、彫刻は私たちに話しかけてくることが分かる。今回は、難しく作品を解釈するというよりも日常とは違う世界に入ったような気持ちになってもらえる。同園へのピクニックついでに寄ってもらい、レジャー気分を高めてもらえれば」とも。

 関連企画として、5月4日にはワークショップ「風と遊ぶ彫刻 ゆらゆらカラフルモビール」を実施。村中さんを講師に、アルミ板などを使い動く彫刻を制作する。参加には事前の申し込みが必要。参加費は600円。4月26日締め切り。

 開館時間は10時~16時。入場無料。4月26日までと5月7日~6月14日の平日は随時入館を受け付ける。問い合わせはときわミュージアム(TEL 0836-37-2888)まで。6月16日まで。
 
山口県宇部市は、「緑と花と彫刻のまち」を標榜、同市所蔵の野外彫刻作品は国内屈指のコレクションということです。野外彫刻以外にも、光太郎や碌山、それに続く近・現代の彫刻家群の作品を豊富に所蔵しています。
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こういう町おこしの方法もあるんですね。

【今日は何の日・光太郎】4月27日

大正8年(1919)の今日、岐阜県恵那郡岩村町で、光雲の代作として光太郎が作った「浅見与一右衛門銅像」が除幕されました。

 
この像は戦時中に金属供出のために失われ、現存しませんが、当時の台座と、昭和60年(1985)に地元出身の彫刻家が新たに作った浅見翁の銅像を現在も見ることができます。


昨日に引き続き、福島二本松周辺での各種イベント等の報道です。

夫や家族の生涯解説 二本松で「智恵子講座」開講

 詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の出身地・福島県二本松市で顕彰活動を行っている智恵子のまち夢くらぶの「智恵子講座2013」は20日、同市の市民交流センターで開講した。 
 智恵子の夫・高村光太郎に影響を与えた人をテーマに12月まで7回の講座を開く。県北地方を中心に郡山、白河、田村、南相馬各市から30人が受講している。 
 初回は夢くらぶの本多長幹事があいさつした後、熊谷健一代表が「父高村光雲と家族」について講話した。光太郎の「私は何をおいても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある」との言葉から、彫刻の大家だった光雲の生涯、親子の葛藤などを説明した。 
 次回は5月19日で「第九回智恵子生誕祭~好きです智恵子青空ウォーク」として他の参加者も募り、智恵子の生家やゆかりの地を巡る。 
 問い合わせは熊谷代表 電話0243(23)6743へ。 
福島民報社
 
昨年からこのブログでも何度かご紹介していますが、二本松で地道に続いている講座です。6月には当方も講師を務めます。

常設作品展示替え 大山忠作美術館

 福島県二本松市の大山忠作美術館は常設展の展示替えをした。故郷への思いを込めた大作や初公開作品など36点を11日から9月29日まで公開する。
 同美術館は所蔵作品を半年に1度入れ替えている。第8期の今回は、安達太良山とススキを背景にした「智恵子に扮(ふん)する有馬稲子像」など、初期から晩年までの作品を並べた。初展示の書「花」や小品の「桜」など、展示期間の季節に合わせた作品もある。
 入館料は一般400円、高校生以下200円。時間は午前9時半から午後5時(入館は午後4時半)まで。問い合わせは同美術館 電話0243(24)1217へ。
福島民報社
 
JR二本松駅前にある、日本画家・大山忠作の美術館です。こちらには智恵子をモチーフとした絵画が何点かあります。 

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こちらは以前同館で入手したクリアフォルダとポストカードです。
 
いつもいつもオチの一言はこれですが、「ぜひ足をお運びください」。
 
【今日は何の日・光太郎】4月26日

昭和33年(1958)の今日、花巻郊外高村光太郎山荘敷地内に立つ光太郎詩碑「雪白く積めり」の銅板プレート(高村豊周・西大由制作)が完成、花巻に届けられました。

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しばらくニュース検索の結果をご紹介しないでいたら、溜まってしまいました。特に福島二本松周辺での各種イベント等の報道が多くあり、まとめてご紹介します。

道の駅「安達」下り線オープン 地場産品の直売人気

 二本松市米沢の国道4号下り線沿いに5日オープンした「道の駅『安達』智恵子の里下り線」は、初日から大勢の利用客でにぎわい、地場産品の農産物直売場や土産物売り場などが活気であふれた。
 オープンに先立ち行われた完成式では、三保恵一市長らと先着500人の利用者も加わった大テープカットが行われ、関係者らが新たな観光拠点の誕生を祝った。同市のトランペット奏者でNoby(ノビー)の愛称で知られる長屋伸浩さんの演奏も披露された。
 施設内には、にほんまつ未来創造ネットワーク(安斎文彦会長)による「合戦場のしだれ桜」など市内の桜の名所写真19点と桜マップが展示され、利用者へ春の観光情報を発信していた。
 また、風船で犬などに模したバルーンアートプレゼントや、奥の松酒造(同市)の甘酒試飲なども家族連れに好評を博した。
(2013年4月6日 福島民友トピックス)
 
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「万燈桜」ライトアップ 道の駅「安達」智恵子の里下り線

 二本松市米沢の道の駅「安達」智恵子の里下り線の入り口にあり、桜の名所となっている「万燈桜(まんとうさくら)」のライトアップは25日まで行われる。同下り線オープン記念の一環で、期間中は「万燈桜まつり」も開催される。
 同所で11日に点灯式が行われ、三保恵一市長があいさつした後、スイッチを押して点灯。高さ約15メートルで樹齢約270年の高く伸びた枝ぶりが美しい1本桜が、幻想的に映し出された。ライトアップの時間は午後6時30分から同11時まで。
(2013年4月13日 福島民友ニュース)
 

あぶくま抄(4月16日)

 二本松市米沢の4号国道沿いに「万燈[まんとう]桜[ざくら]」がある。福島市との境に近い。推定樹齢270年のエドヒガンの一本桜は今が花盛り。5日にオープンした道の駅「安達」智恵子の里下り線のシンボルだ。
 昔、この地に住む旭長者が無病息災を願い、一万の塚を築き、灯明をともした伝説に由来する。残雪の安達太良山を背景に咲く姿は、多くの人に愛されてきた。国土交通省と二本松市は道の駅整備に際して、万燈桜の保護と景観に配慮した。駐車場の面積を予定よりも狭くし、桜の周囲を芝生広場にした。
 道の駅「安達」は東北地方で初、4号国道でも唯一、上下線両方にある。既設の上り線に次ぐ下り線の完成は当初の計画から2年遅れた。着工目前に大震災があった。直後は、浜通りからの避難者が上り線にあふれた。災害時の一時避難や情報発信の役割が一層高まった。下り線の駅は、停電の際に補う太陽光発電設備を備える。
 休憩だけでなく、特産品の買い物や周辺の観光、歴史・文化に触れようという人々でにぎわう。いざというときは、避難所としての機能を発揮する。地域を災害から守ろうと祈った旭長者の思いを継ぐように、万燈桜が見守る。

「春らんまん号」出発 二本松の桜の名所など巡回

 二本松市内の桜の名所などを巡回する臨時バス「春らんまん号」は6日、運行をスタートした。28日までの土、日曜日の計8日間、1日8本のバスを運行し、春の観光シーズンを迎えた同市内を巡る。
 コースはJR二本松駅前を出発点に本町から亀谷坂(坂の駅露伴亭)、智恵子の生家を経て、霞ケ城公園や大隣寺を巡って駅前に戻る。料金は大人(中学生以上)が170~520円、子どもは90~260円。1日フリー乗車券は大人(同)500円、子ども250円(乳幼児無料)。1日フリー乗車券の提示で、同市の大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割り引きされる。
 問い合わせは福島交通二本松営業所(電話0243・23・0123)か二本松観光協会(電話0243・55・5095)へ。JR二本松駅前の発車時刻次の通り。
 午前=10時10分、11時、11時40分▽午後=0時30分、1時15分、2時10分、2時50分、3時35分
(2013年4月7日 福島民友ニュース)
 
他にも二本松周辺の報道がありますので、明日ご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】4月25日

明治44年(1911)の今日、築地精養軒で行われた親友で画家の柳敬助、橋本八重の結婚式に出席しました。

柳夫妻はこの年、光太郎と智恵子の出会いのきっかけを作りました。

4/22(月)に安曇野市穂高の碌山美術館で行われた碌山荻原守衛の命日「碌山忌」のレポートです。
 
午後から館の庭で地元の皆さんによるコンサートがありましたが、そちらは欠礼いたしました。4時頃に「碌山友の会」の方などが車を出してくださり、4㎞ほど離れた場所にある守衛の墓参に行きました。
 
その後、5時から研究発表ということで、学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」が行われました。
 
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守衛は、はじめ画家を志し、明治32年(1899)に上京、画塾・不同舎に通うため、明治女学校の敷地内にあった草庵で1年半ほど暮らします。
 
一方の片岡当は守衛より一つ年上。守衛が東京で暮らしていた頃、明治女学校に在学しており、ここで二人の交流が始まったとのこと。
 
守衛は明治34年(1901)に留学のため渡米。しかし、苦労の連続でした。その時、折れそうになる心を救ったのが片岡当からの手紙で、それを読んで一念発起、再び頑張ることができたそうです。そんな縁で守衛は恩人の井口喜源治に宛てた手紙の中で、当を「岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」と紹介していたわけです。
 
その後、明治37年(1904)にロダンの「考える人」を見て彫刻に転向、同39年(1906)にニューヨークに来た光太郎と知り合い、やがて意気投合します。
 
相前後して帰朝した守衛と光太郎、共に手を携えて新しい彫刻を日本に根付かせるつもりでいましたが、明治43年(1910)、守衛は急逝。光太郎の衝撃はいかばかりであったことか……。
 
その一端を示すのが、穂高からやはり親友だった陶芸家のバーナード・リーチに送った以下の葉書です。
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殴り書きのような文字、そして文面からは、同志を失った悲しみと、そして怒りも感じられます。
 
片岡当はその頃、郷里岡山で教員をしていたそうですが、守衛の死を新聞で知り、日記にその衝撃を記しています。勤務先の学校でその記事を目にして涙を流したこと、自宅に保管してあった守衛からの来翰21通(現存せず)を引っ張り出して感懐にふけったことなどが記されています。
 
当は、翌年には穂高の守衛の墓に詣で、守衛の実家の人をして「あんな女性が奥さんになってくれていたらよかった」と言わしめたとのこと。その後、官吏と結婚し京城に渡り、終戦後に帰国。昭和36年(1961)に亡くなったそうです。
 
こうした経緯はすでに知られていたことだそうですが、濱田氏の発表では、岡山市内の当の実家のあった辺りの様子、当の日記の問題のページの画像などが提示され、また、明治女学校内にあった守衛の暮らした草庵の場所等も特定したり、興味深いものでした。
 
サプライズがありました。当のお孫さんにあたる岩田圭二氏が西東京市からいらしていました。氏の話によれば、当はその晩年に守衛が好きだったと、近親者にもらしていたそうです。
 
ドラマチックですね。
 
研究発表のあと、館内のグズベリーハウスという建物にて、「碌山を偲ぶ会」が催されました。山田理事長、所館長をはじめ館の皆様や、荻原家の現当主の方、守衛研究者の仁科惇先生、先ほどの岩田氏、「碌山友の会」の皆さんなど、約30名ほどでしたか、飲んで食べて、守衛について語り合いました。当方も簡単にスピーチ。
 
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長野県出身のシンガーソングライター、三浦久氏も参加されており、ずばり「碌山」という曲の入ったCDアルバムをいただいてしまいました。ありがとうございます。

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8時過ぎにお開きとなり、それから愛車を駆って千葉に帰りました。さすがに自宅に帰り着いたのは日付が変わってからになりましたが、有意義な2日間でした。
 
碌山忌、碌山を偲ぶ会、参加は自由のようです。当方、他に何もない限り毎年参加することになりそうです。ぜひ皆さんも足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月24日

平成16年(2004)の今日、福島県立美術館で企画展「高村光太郎展」が開幕しました。

同展はその後、東京の損保ジャパン東郷青児美術館(7/7~8/29)、広島のふくやま美術館(10/1~11/28)を巡回しました。

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