昨日から1泊2日の行程で、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市に来ております。
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いつものように宿泊は大沢温泉さん。光太郎や宮沢賢治ゆかりの宿です。
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クローズドのイベントなので告知しませんでしたが、今日はこれから市のボランティアの方々に講演です。
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昨日は夕方に来花、旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんと、光太郎が昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に足を運びました。
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そちらのレポートは帰りましてから。

しかし、取り上げるべき事項が山積しておりまして、花巻ネタを今日のこのタイミングで扱わせていただきます。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

今月分がこちら。
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「鮭の塩焼き」、「イカとアスパラのバター醤油炒め」、「ワラビの煮物」、「きゃら蕗」、「ミズときゅうりの漬物」、「ニラチャーハン」、「白六穀ご飯」、「紫芋の羊羹」だそうで。

やつかの森さんからのメールによれば、「ミズとキュウリの漬物・・・塩味の浅漬け、ミズの歯触りが心地よいです。きゃら蕗 ・・・ 蕗の香りがする甘辛でご飯が進みます。わらびの煮物・・・わらびは、ふんわり仕上がり、他の具材との相性もよく程よい味でした。」とのこと。ミズは光太郎が殊の外好んだ山菜です。

また、今月は販売日の15日が日曜だったため、普段(10個)より多めに出したそうですが、完売だったのではないでしょうか。

個人的には「ニラチャーハン」にそそられます(笑)。

さて、そういうわけで、これからべしゃくって参ります。

市民講座情報2件、ご紹介します。

まず、埼玉から彫刻関連。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年6月24日(火)
会 場 : 平野市民活動センター 埼玉県東松山市大字東平567-1
時 間 : 午前10:30~12:00
料 金 : 無料
講 師 : 東松山市文化芸術推進室長 熊澤篤司


高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか?彫刻家・高村光太郎とも関係がある?
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早世した荻原守衛を除き、光太郎が唯一と言っていいくらい高い評価を与えた同時代の彫刻家・高田博厚。光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎等の援助で渡仏しました。何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、光太郎胸像を含むプロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。

対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。同様の講座が先月にもありましたが、その際もそうでしたが。

もう1件、都内で開催のものです。

活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から

期 日 : 2025年6月28日(土)
会 場 : 八木書店古書部三階催事場 千代田区神田神保町1-1-7
時 間 : 15:00~16:00
料 金 : 無料

◆講師 大木志門 先生
大戦中に多数の戦争協力詩を著した彫刻家で詩人の高村光太郎は、空襲によるアトリエ焼失後に岩手県花巻郊外の山小屋にこもり、独居自炊の生活を7年間にわたって継続した。その暮らしは厳しい自然と地域の人々との交流の中で営まれ、そこから新しくいくつもの詩が生まれ出ていった。光太郎自身により自己流謫とも表現されたその生活の様子と、戦中の自己と戦後日本の姿を見据えた詩人の晩年を、夥しく残された取手の詩人・宮崎稔宛の書簡からたどってみたい。

〔講師紹介〕東海大学教授、1974年生。自然主義文学・私小説を中心に研究。主な著書・編著に『徳田秋聲と「文学」』(鼎書房、2021)、『高村光太郎作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』(田畑書店、2025)、『石川啄木作品アンソロジー エッセンシャル啄木』(同、2024)、『島崎藤村短篇集』(岩波文庫、2022)など。
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他に3つの講座があり、ラインナップは以下の通り。

◆病気と文人 ―書簡から見る病んだ作家たち 尾崎紅葉、内田百閒、子母澤寛、斎藤茂吉、森田草平
 講師 中澤 弥 先生 6月21日(土) 13:00~14:00
◆1枚のハガキが証してくれたこと ―大阪毎日新聞社と菊池寛、芥川龍之介の一断面
 講師 庄司達也 先生 6月21日(土) 15:00~16:00
◆信子がくれた聖書  ―田村三治宛書簡にみる国木田独歩の青春
 講師 河野龍也 先生 6月28日(土) 13:00~14:00

それぞれ10名程の定員で、光太郎の回は既に満席だそうですが(当方も申し込みました)、これからキャンセル等もあるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

市民講座と言えば、実は明日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市での講師を仰せつかっています。クローズドのイベントなので告知しませんでした。同市のボランティアの方々対象です。
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そういうわけで、今日、花巻に旅立ちます。

こうした光太郎関連の講座等、途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

染井墓地にある墓に彫つてある智光童女といふのはお言葉通り姉梅子で、七月とある由ですが、それは間違で、一月が正しいのです。小生の生れる前に既に死んでゐました。


昭和29年(1954)4月19日 北川太一宛書簡より 光太郎72歳

当会顧問であらせられた北川太一先生。この頃から光太郎の生涯をしっかり記録に残すことを考えられ、年譜の作成や光太郎への聞き書きに取り組まれていました。その一環で、染井霊園の髙村家墓所に眠る人々の調査等も行われたようです。

光太郎の直ぐ上の姉・うめ(梅子)は光太郎が生まれた明治16年(1883)、数え5歳で病没しました。非常に利発な子供だったとのこと。書簡の方が勘違いだったようで、やはり7月が命日です。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ十和田湖。光と影の明暗が分かれる報道が為されています。「光」の部分は、一昨日お伝えした「第60回記念十和田湖湖水まつり報道」。多くの方で賑わって……というわけで。

「影」の方、ここ数日で、さまざまなメディアが一斉に報じました。一部、ご紹介します。

地元紙『東奥日報』さん。

国立公園・十和田湖の放置遊覧船 青森県が撤去勧告 所有者側への指導26回、対応なく

 十和田湖の宇樽部桟橋(青森県十和田市)に不法係留されている放置遊覧船が横倒しになっている問題で、船を所有する十和田湖遊覧船企業組合(同市、解散)の清算人に対し、県が撤去勧告を出していたことが16日、県への取材で分かった。県がこの清算人に対し、撤去勧告を出したのは初めて。県はこれまで、前段階の撤去指導を26回にわたり行ってきたが、具体的な対応がなかった。
 同桟橋には4隻の遊覧船が不法係留されており、うち1隻が横倒しになっている。勧告は5月30日付で、全4隻を対象に行った。
 県によると、清算人は同組合の関係者で、連絡は取れている。これまで何度も現地に赴き、放置遊覧船の状況は確認しているものの、撤去に向けた動きを見せていないという。
 撤去勧告は強制力がない行政指導。一段階上の撤去命令は強制力が生じる行政処分で、県港湾空港課の担当者は「まずは相手の対応を見極めたい」と話した。
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RAB青森放送さんのローカルニュース。

「使わなくなったものはきれいに…」十和田湖観光への悪影響を“懸念” 不法係留の放置遊覧船に「撤去勧告」も所有者側は対応とらず… 青森県十和田市

十和田湖で不法係留されている4隻の遊覧船です。県が所有者の清算人に5月30日付で撤去勧告を出しました。
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十和田湖宇樽部地区の桟橋に不法係留されている4隻の遊覧船について、県は所有者で2016年に事業を停止した「十和田湖遊覧船企業組合」の清算人に対して、5月30日付で「撤去勧告」を初めて出しました。
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4隻は2015年から不法係留され、県はこれまで26回にわたり「撤去指導」を行ってきました。県は勧告で速やかな撤去を求めていますが、撤去勧告に強制力はありません。
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ことし2月には雪の重みで、4隻のうちの1隻「第3十和田丸」が横転し、今もロープで固定されシートが被せられています。
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十和田湖では、きのうまで夏の観光シーズン幕開けとなる十和田湖湖水まつりが開かれ、多くの観光客が訪れていました。
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観光関係者は景観や環境面でも悪影響を与えかねないとして、早期撤去を求めています。
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★十和田奥入瀬観光機構 安藤巖乙事務局次長
「十和田湖の美しい景観を守るために、放置遊覧船だったりとか休屋地区の廃屋もそうですけど、使わなくなったものはしっかりきれいになっていくといいなと思っています」
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★県港湾空港課 橋本公学課長
「所有者側に対してはこれまで撤去指導を行ってきたところですが、現状対応が取られていないということを踏まえて、一歩踏み込んだ撤去勧告を発出した」
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県によりますと、いまのところ組合から勧告の求めに応じる連絡はないということです。

全国ニュースでも。FNNさん系のテレビニュース。

まるで“船の墓場”…横倒しになった船も放置に地元住民「もう何十年も…みっともない」県が撤去指導26回も解決めど立たず 青森・十和田湖

青森県と秋田県にまたがる十和田湖で“廃船群”が問題となっており、なかには横倒しになったままの船もある。青森県は何度も組合関係者に撤去を求めてきたというが、解決のめどは立っていない。
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横倒しになった船が放置も… 東北地方を代表する観光名所の一角に広がる、まるで船の墓場のような光景。
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船体はさびだらけで、クモの巣も張り放題。さらには横倒しになったままの船もあった。
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地元住民は「10年もこうほっぽり投げられるんじゃ、置かれた方はたまったもんじゃないですよ」と話す。
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廃船群が問題となっているのは、青森県と秋田県にまたがる十和田湖。十和田湖は世界でも珍しい「二重カルデラ湖」で、周辺の木々とともに織り成す自然の造形美は東北きっての観光ポイントとして知られている。
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約10年間、不法係留状態の船 そうした十和田湖の観光に欠かせないのが遊覧船なのだが、青森県側のある桟橋に行ってみると、放置された船があった。船体に書かれた文字が一部読み取れないほどはがれた塗装。船の至る所が汚れとサビにまみれ、長年人の手が入っていない様子がうかがえる。

付近の住民:
もう何十年もこのままですから、みっともないですよ。(観光の)お客さんにも申し訳ないなと思って。
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この桟橋に係留されている5隻のうち4隻が、約10年もの間、不法係留状態。この4隻はかつて地元の企業組合が遊覧船として使用していたが、その組合はすでに解散済みだという。
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地元住民は、「どうにもならない。完全に撤去するしかないでしょ」と話していた。
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青森県はこれまで、組合の関係者に何度も撤去を求めてきた。
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青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
これまで26回ほど指導をしております。先方からは前向きな回答をいただけなかったと。
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「朝起きたらひっくり返ってた」
すると2025年、ある異変が起こったという。

FNNのカメラが25年前に撮影していた「第3十和田丸」の塗装作業。この時、船体は光り輝いていた。そして、その「第3十和田丸」の現在はというと、横転してロープでつながれ、シートがかぶせられている。横転直後に撮影された「第3十和田丸」の写真。2025年2月ごろ、大雪の重みに耐えかね、船体が傾いていったのだという。
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付近の住民:
「この船危ないね」って言ってたらもう本当に斜めになってて、朝起きたら本当にひっくり返ってたんですよね。
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景観の悪化どころか、周辺の安全にまで大きな影響を及ぼし始めた十和田湖の廃船群。この事態を受け、県は5月末、これまでの指導よりも一段階踏み込んだ“撤去勧告”を関係者に行ったという。ただ、勧告には強制力はない。
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青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
まだ今のところ、先方からの回答はございません。速やかに対応していただきたい、これに尽きるかと。
(「イット!」6月18日放送より)

問題の廃船が放置されているのは、「乙女の像」のたつ休屋地区と、奥入瀬渓流への入口に当たる子(ね)の口地区の中間に位置する宇樽部地区。解散したという組合が運行していた遊覧船は休屋-子の口間を航行する途中で宇樽部の桟橋にも立ち寄っていたと記憶しています。

宇樽部にはキャンプ場があり、また、民家も建ち並んでいます。かつては旅館等もあり、昭和27年(1952)、「乙女の像」設営の下見のため十和田を訪れた光太郎は宇樽部の東湖館という宿に泊まり、智恵子の顔を持つ像を作ろう、と決意しました。その東湖館の建物は平成29年(2017)まで残っていましたが、残念なことに解体。逆に撤去されるべき廃船が繋留されたままだそうで……。
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廃船の剥がれかけた塗装に「乙女の像」の文字が読み取れるのが悲しい感じです。

ずどんとテンションが下がりましたので、上げます。『朝日新聞』さん、6月14日(土)の東北版。

みちのく歌壇 梶原さい子選

湖(うみ)ひかりふたりの智恵子影為合(しあ)ふ「乙女の像」に姿を化(は)けて (仙台市)大橋勝

【評】 十和田湖の「乙女の像」を詠む。古語の使用が、歌にふさわしいたおやかな風情を増している。


読者短歌の投稿欄から。
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像の建立に一役買った佐藤春夫が詠ったごとく「あわれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかいて 何をか語る」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

あの魴鮄が現存してゐる事を確認したのは愉快でした、製作年代の分つたのもありがたく、これで他の木彫の年代もおよそ類推することが出来ます、


昭和29年(1954)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎72歳

木彫「魴鮄」は大正13年(1924)の作。永らく行方不明でしたが、詩人の宮崎と親しかった材木商・浅野直也がこの年、当時の価格13万円で入手しました。

浅野はやがて中野の貸しアトリエに居住していた光太郎に現物を見せに行き、宮崎は詩「蘭と魴鮄」を書きました。029

   蘭と魴鮄

 花を開き初めた春蘭が
 葉を垂れてゐる鉢の傍へ
 高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
 これはいゝ
 思はず自分はさう云ひながらも
 この心に叶つた快さを
 どう説明していゝかは知らない

 魴鮄はその面魂(つらだましひ)を
 それに打ち込んだ作者をさながらに現して
 むき出しにしてゐる
 ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
 きつぱりとそのかたちに切られて
 そして今こゝに
 蘭の薫を身に染ませて

「他の木彫の年代もおよそ類推」とありますが、昭和20年(1945)の空襲で記録類が焼けてしまったためもあるでしょうが、光太郎、意外と自作の制作年代をちゃんと記憶していませんでした。

6月15日(日)、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会」について、地元紙『福島民報』さんが報じていますのでご紹介します。

同じ『民報』さんで2バージョンの記事。まず県内全域向けと思われる方。ネット上でもこの内容でした。

第100回定演祝う歌声響く 二本松音楽協会 「からくりうた」を初演 福島県二本松市

 二本松音楽協会の第100回定期演奏会は15日、福島県二本松市コンサートホールで開かれ、地域の音楽文化発展に貢献してきた演奏会の節目を祝った。
 カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが出演。高村光太郎の詩集「智恵子抄」から、佐藤さんが作曲した「からくりうた」を初演した。深く澄んだ歌声で日本情緒豊かに表現し喝采を浴びた。「あどけない話」「レモン哀歌」なども披露し、100回の歴史を祝福した。シューベルトの「白鳥の歌」全14曲も歌い上げ、感動を呼んだ。
 1988(昭和63)年のホール完成を機に有志が協会を結成し、1989(平成元)年から毎年数回、クラシックを中心に手作りのコンサートを開いている。太田英晴会長(大七酒造社長)は「100回の歴史を重ねることができたのは市民の音楽を愛する心のたまもの。これからも長く続けていきたい」と語った。
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おそらく二本松市を含む中通り地区向けと思われるバージョン。こちらの方が「智恵子抄」に詳細に触れています。

二本松音楽協第100回定演 「智恵子抄」の曲初演 情感ある旋律伸びやかに

 二本松音楽協会が15日に二本松市コンサートホールで開いた第100回定期演奏会では、カウンターテナーの藤木大地さん、ピアノの佐藤卓史さんが高村光太郎の詩集「智恵子抄」より「からくりうた」を初演し、節目に花を添えた。
 「二本松」「阿武隈川」などが登場する詩に佐藤さんが情感あふれる旋律を付けた曲。藤木さんが澄んだ歌声で伸びやかに歌い上げた。「あどけない話」とともにアンコールでも披露し、詰めかけた聴衆を喜ばせた。
 藤木さんは「100回の歴史の一部となることができて本当にうれしい。『からくりうた』は民謡調で、日本酒を飲みながら楽しんでもらうのもいい」などと提案した。太田英晴会長は「素晴らしい曲で、間違いなく二本松の宝になる。藤木さん、佐藤さんも二本松での再演を約束してくれた」と喜んでいる。
 市コンサートホールは今後、改修工事に入る。次回の第101回定期演奏会は9月23日に安達文化ホールでピアノの鬼武みゆきさんのコンサート、第102回は来年3月8日に市民交流センターで市内出身のオーボエ奏者鹿又寒太郎さんらによるトリオ・ダンシュのコンサートを開く。


初演された「からくりうた」。作曲され、当日はご自身でピアノを弾かれた佐藤卓史氏のX(旧ツィッター)投稿で、さわりの部分のみ動画がアップされていました。


確かに「民謡調」ですね。

お二方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

別件で、やはり福島での楽曲「智恵子抄」がらみの報道。須賀川市で発行されている「あぶくま時報」さんの記事です。

太鼓演奏などで長寿祝う 八幡町町内会「敬老会」

 須賀川市八幡町町内会「敬老会」は15日、町内の75歳以上25人が参加して八幡山集会所で開かれ、子どもたちの太鼓演奏や日本舞踊などアトラクションで親ぼくを深めた。
 全員で物故者に黙とうを捧げ、佐藤富二会長は「みなさんお越しくださりありがとうございます。長年、町内発展のためにいろいろとご協力くださりほんとうにありがとうございます。今日は一日楽しんでゆっくりと過ごしてください」とあいさつした。来賓の大寺正晃市長も祝辞を述べた。
 アトラクションは八幡町子ども育成会の太鼓演奏「神炊館(おたきや)」を元気いっぱい演奏し、懐かしい昔話「ふくろうの染物屋」を方言混じりで披露された。
 藤蔭流三藤会が「智恵子抄」など4曲を披露し、最後に参加者全員で懐かしい「須賀川盆踊り」を楽しんだ。
 須賀川市は今年度も自主的に敬老事業を開く行政区・町内会を支援しており、22日は東町と南上町、29日は下宿町で実施する。
 ほかに敬老祝い商品券・一日温泉入浴券を喜寿・傘寿・卒寿。白寿に、米寿と賀寿には祝い金をそれぞれ贈る。
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おそらく「智恵子抄」は、小野町出身の故・丘灯至夫氏作詞で、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる昭和39年(1964)の「智恵子抄」と思われます。

こちらの「智恵子抄」も末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康で、毎日胸像制作にかかつて居り、夜は原稿を書いてゐます、まつたく殆ど余分の時間がありませんが、時々温泉に行きたくなります、うまく仕事のきれ目を見て一寸大沢温泉あたりにゆきたいです、

昭和29年(1954)3月10日 浅沼政規宛書簡より 光太郎72歳

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しかし、健康状態の悪化により、結局は完成させることができず、まさに「遺作」となってしまいました。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

6月14日(土)・15日(日)に開催され、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為された「第60回記念十和田湖湖水まつり」についての報道をご紹介します。ただし、「乙女の像」ライトアップには触れられていませんが……。

RAB青森放送さんのローカルニュース。

【幻想的】湖畔を彩る350個のランタンと打ち上げ花火…夏の観光幕開けを告げる「十和田湖湖水まつり」が開幕! 青森県十和田市

 夏の十和田湖観光の幕開けを告げる十和田湖湖水まつりが開幕し、訪れた人たちが幻想的な景色を楽しみました。
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 今回で60回目となる十和田湖湖水まつりは14日開幕しました。
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 十和田湖畔休屋地区の会場には屋台やキッチンカーが並び、よさこいなどのパフォーマンスで盛り上がりました。
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 午後8時すぎには、願い事を書き込んだバルーンランタンが夜空に放たれました。
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 小雨が降るあいにくの天気となりましたが、およそ350個のランタンが湖畔を彩り幻想的な景色が広がりました。
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★千葉から
「とてもきれいでした 幻想的な景色でした 参加してよかったです」
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最後は200発の花火が打ち上げられ訪れた人たちが楽しみました。まつりは15日まで開かれています。
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鹿角きりたんぽFMさん。

「湖水まつり」人気定着で人出 十和田湖

 秋田と青森にまたがる十和田湖で「湖水まつり」が14日、2日間の日程で始まり、大勢の来場者でにぎわっています。
 湖水まつりは、観光客を呼び込もうと地元の関係者でつくる団体が開いていて、60回めのことしは去年に続き、観光シーズンの平準化などを目的に以前の日程から1か月前倒しされました。
 今や見ものとして定着したバルーンランタンの打ち上げでは、会場にアナウンスされたカウントダウンとともに、バルーンランタンを購入した人たちが一斉に浮かび上がらせました。
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 雨の影響で長い間、楽しむことはできなかったものの、オレンジや青のLEDが光るバルーンランタンおよそ400個が夜空に浮かぶ光景はメルヘンチックで、訪れた人たちがうっとりと眺めたり、写真を撮ったりしていました。010
 フィナーレの打ち上げ花火は、あいにくの天候で、打ち上げ地点の近くではほとんど見えませんでしたが、離れた場所で見ている人たちが夏の雰囲気を味わいました。
 弘前市から訪れていた20代の男性は、「花火があまり見えなくて残念でしたが、ランタンが幻想的だった。いい思い出になったし、来年の楽しみもできた」と話していました。
 湖水まつりは5年前のバルーンランタンの導入以降、人気がさらに高まり、近年は大勢の人出でにぎわっています。
 この日もバルーンランタン400個が早々に完売し、名物の「乙女もち」などを販売する屋台やキッチンカーの前に行列ができるとともに、駐車場待ちの渋滞も長くつながりました。
 主催する祭りの連携会議では、「6月の開催でも大勢に来てもらえて、手ごたえをつかんでいる。十和田湖にいろいろな季節に人を呼び込んでいきたい」としています。

「乙女の像」には触れられていませんが、像にちなんでネーミングされたであろう「乙女もち」に言及されています。きりたんぽと同じ味噌ダレがまぶされていて、2人の女人が向かい合って立つ「乙女の像」をイメージ、2個の餅が串に刺さっています。ただ、お店によっては3個ですが(笑)。
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地方紙で『デーリー東北』さん。

花火やランタン夜空彩る/十和田湖水まつり、15日まで016

 第60回十和田湖湖水まつりが14日、十和田湖畔休屋地区で開幕した。夜は雨が降る中、願い事が書き込まれたバルーンランタンと大輪の花火が打ち上げられ、湖面を彩った。15日まで。
 同まつり連携会議と十和田奥入瀬観光機構が主催。今回も混雑回避や観光時期の平準化を目的に、昨年に引き続いて約1カ月早く開催した。
 日中は郷土芸能などのパフォーマンス披露や、キッチンカーを楽しむ人でにぎわった。午後8時過ぎには、オレンジ色や青色のバルーンランタン約350個が湖岸から一斉に放たれたほか、最後は音楽に合わせて花火200発を打ち上げ。あいにくの雨だったが、夜空を幻想的に染め上げた。 東北町から訪れた会社員中塚巴泰さん(27)は「バルーンランタンがディズニー映画のようで、とてもきれだった」と語った。
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同じく『東奥日報』さん。

湖水まつり開幕/十和田湖畔休屋

 青森県十和田市の十和田湖畔休屋で14日、「十和田湖湖水まつり」が2日間の日程で始まり、初夏の湖畔が市民や観光客らでにぎわいを見せている。
 初日は歌やダンス、よさこいなどストリートパフォーマンスが行われ、来場者らは肉料理やスイーツなどの屋台やキッチンカーに行列を作っていた。
 夜のイベントはあいにくの天気だったが、家族連れらはひもを使って、願い事を書いたバルーンランタンを飛ばした。
 この日は打ち上げ花火も行われたが、濃い霧と煙でほとんど見えなかった。青森市から家族で来ていた五十嵐敬子さん(68)は「悪天候で残念だったけど、ランタンを一度は飛ばすことができたので願いはかなうと思う」と話した。
 60回目を迎えた今年のまつりは、十和田湖の魅力を世に広めた文人・大町桂月の没後100年を記念して行っている。
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こちらのみ、「乙女の像」で顕彰されている大町桂月没後100年記念に触れられていました。その活動に同紙も関係しているのかもしれません。

というわけで、「十和田湖湖水まつり」、末永く続いてほしいものですし、当方、一度行っただけなので(「冬物語」等では何度もお邪魔しましたが)、再訪しようかという気になりました。来年以降、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鋳金代については、県の方へ、貴下のお話通りに二万円程度と話してあります、それも最後的におきめ下さい。又台座、荷造、運賃等は別ですから、その様に御請求を願ひます。出来上りましたら直接貴下から県庁にあててお送り下さい。 小生は青森に行つたら、その時見ます。


昭和29年(1954)2月18日 伊藤忠雄宛書簡より光太郎72歳

伊藤忠雄は「乙女の像」の鋳造を担当した鋳金家。

「乙女の像」本体は前年に除幕されましたが、それとは別に記念として像の小型試作を新たに二体鋳造し、県に贈ることになり、その相談です。この際の小型試作は現在も青森県で所有しています。

たまたまですが、一昨日、Yahooオークションでこれと同型の小型試作が出品されました。平成15年(2003)の新しい鋳造ですが。開始価格18万円。この価格で落とせれば実にお買い得ですが、おそらく競られて上がると思われます。
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昨日は上京し、新宿区で「木村俊介Concert 『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~」を拝聴して参りました。

会場は早稲田奉仕園スコットホールさん。
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同じ早稲田奉仕園さん内の隣接するリバティホールさんでは、令和4年(2022)に講演をさせていただきましたが、スコットホールさんに足を踏み入れるのは初めてでした。ホールと言っても音楽ホールとして建てられたものではなく現役の礼拝堂です。

開演前に会場内で注意事項についての説明があり、携帯の電源は切って下さい的な通常のものプラス、公演中はもちろん開演前や終演後であっても会場内撮影禁止とのこと。建物自体が築100年以上の国指定登録有形文化財ですし、いろいろ大人の事情が、とうわけで。

それから、これも開演前のお話の中にあったのですが、ここで米津玄師さんのヒット曲「lemon」のPVが撮影されたとのこと。しかも「あそこの後にある小窓のあたりです」と、係の方が指さしたのは、自分が座っていたすぐ後の一角でした。

「マジか?」と思い、このブログ内に当該PVを貼ってあることを思い出して、早速見てみると、まさにそうでした。「Lemon」。米津さんご自身、「智恵子抄」収録の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないと発言されていまして、奇縁に驚きました。

さて、15:30開演。
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演目は主に3つでした。

まずはパク スナ氏の奏でる伽耶琴(カヤグム)に乗せ、和楽器奏者の木村俊介氏が韓国のいわゆる処女鬼神系の民話を語られました。伽耶琴は見た目は日本の箏とあまり違いませんが、日本で一般的な十三弦より一本少ない十二弦だそうですし、奏法は琴爪を使わず、だからでしょうか、音色的にもやはり違いを感じました。

続いて壤晴彦氏がステージに上がられ「おこんじょうるり」。原作はさねとうあきら氏作の創作民話ですが、映像作家・岡本忠成氏が人形アニメーション化され、高い評価を得た作品です。その際には長岡輝子さんが主演。長岡さんと言えば、戦時中から光太郎とも交流があり、おそらく宮沢賢治について質問があったのでしょう、光太郎が花巻郊外旧太田村での蟄居生活を終えて再上京した中野の貸しアトリエにもいらっしゃいました。昭和30年(1955)、光太郎最晩年でした。そんなところにも奇縁を感じます。

壤氏の落ちついたバリトンの美声での語り、パク氏がやはり伽耶琴、そして木村氏は太棹や横笛など、いろいろ持ち替えての演奏。実にいい感じでした。

休憩を挟んで第2部。第2部はやはりお三方でまるまる「智恵子抄」で60分ほど。詩の朗読が数編ならそうした工夫は必要ありませんが、長いステージでまるまる「智恵子抄」を扱うとなると、時間の経過も数十年に及びますし、どうしても詩の朗読以外のいわばト書きの部分での説明的なパートが必要になります。どのように構成するのかなと興味津々でしたが、昨日は佐藤春夫の『小説智恵子抄』を使われていました。同作は光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられてもいます。

余談になりますが、朗読家の荒井真澄さんはこうした場合、光太郎本人の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)を使われます。今春、二本松の智恵子生家座敷で行った当会プロデュースの
「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」公演でもそうでした。また、令和3年(2021)に文京区の光太郎の実家の隣・旧安田楠雄邸で、やはり朗読家の北原久仁香さんと当方のコンビで行った「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」では、パワーポイントのスライドショーで効果音を入れたアニメーションを流しつつ、当方が解説を行いました。

閑話休題。昨日のト書き部分以外の詩は、以下の通りのラインナップでした。

 「あどけない話」(昭和3年=1928)
 「案内」(昭和24年=1949)
 「人に(いやなんです……)」(大正元年=1912)
 「カフエにて(おれの魂を……)」(大正2年=1913)
 「人類の泉」(  〃  )
 「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)
 「樹下の二人」(大正12年=1923)
 「人生遠視」(昭和10年=1935)
 「山麓の二人」(昭和13年=1938)
 「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)
 「レモン哀歌」(昭和14年=1939)
 「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)
 「梅酒」(昭和15年=1940)
 「案内」(昭和24年=1949)


すべての詩を全文読まれたわけではなく、長い詩は抜粋で。最初の「あどけない話」と「案内」(一部分だけ)は、全体の予告のような位置づけで。その後の「人に」からは、おおむね時系列に沿っての構成でした。一部年代が前後しているのは、光太郎自身が時間を遡って書いたりしているためです。

元々は、昨日も劇中で演奏されたパク氏のオリジナル曲を聴かれた木村氏が「これは「智恵子抄」の世界観にぴったりだ」と感じ、壤氏を巻き込んで(笑)このステージを作られたとのこと。「なるほど」という感じでした。

当方としては内容が分かっていますし、「次はこの詩だな」とほぼ予想もつくのですが、それでも、というかそれだけに、感動も一入でした。展開がわかっていても楽しめるという意味では、昔の日本人全般にとっての「忠臣蔵」みたいなものでしょうか(笑)。「智恵子抄」系をあまり詳しくご存じない一般のお客さんがどのように感じられたか、興味深いところではあります。

アンコールでは壤氏は退場され、木村氏とパク氏で尹東柱の詩を韓国語と日本語で朗読されながらの演奏。尹東柱も光太郎と同時代を生きた詩人ですが、今のところ直接の繋がりは確認できていません。

というわけで、なかなか充実のコンサートでした。「智恵子抄」の再演を望みますし、お三方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

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昭和29年(1954)3月5日 岩手県立盛岡美術工芸学校宛電報より 光太郎72歳

かつて花巻郊外旧太田村蟄居中には何度も訪れて講演等を行った岩手県立盛岡美術工芸学校の卒業式のための祝電です。

紹介すべき事項が山積しておりまして、雑誌や新聞に掲載された複数案件を。

まずは雑誌『月刊絵手紙』さん5月号。平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていて、その頃は定期購読していたのですが、連載が終了してから疎遠になっていました。現在は手紙文化研究家・中川越氏の「手紙のヒント あの人に学ぶ親愛の伝え方」という連載が為されていて、近現代の芸術家の手紙等が紹介されています。その中で5月号は光太郎の水彩素描2点を元に「高村光太郎――山のスケッチに対抗して街のスケッチ」というタイトルで書かれています。
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素描は昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区を描いたものと、居住していた山小屋周辺の草花を描いたスケッチ帖から。

山口地区を描いたものの原画は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、時折、展示されています
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草花の方はチゴユリ。こちらも同館で複製スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示されたりもしました。

中川氏、昨秋、中野区のなかのZEROさんで開催され、当方もスタッフとして毎日詰めていたた中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にいらして下さり、いろいろお話をさせていただきました。今回以外にも同じ連載などで光太郎に触れて下さっているようで、バックナンバーを探してみます。

中野と言えば……ということで、『読売新聞』さんに6月12日(木)に載った記事。

高村光太郎が晩年を過ごしたアトリエをめぐる文人たちの作品朗読会…7月6日に中野区で開催

 詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年を過ごした東京都中野区のアトリエにゆかりのある文人たちの作品を紹介する「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が7月6日(日)に中野区産業振興センター大会議室(中野区中野2-13−4)で開かれる。
 同区内の住宅街にある築80年近くの「中西アトリエ」は、水彩画の革命者と言われた洋画家の中西利雄(1900~48年)が終戦後間もなく建てたアトリエで、高村光太郎は56年4月に亡くなるまでの3年半をここで過ごし、青森県十和田湖畔に立つ代表作「乙女の像」の塑像を制作した。
 朗読会では、高村をはじめ、創作活動を通じて交流のあった佐藤春夫や草野心平、太宰治などの詩人、小説家6人の作品を、13人の発表者が紹介する。
 アトリエの保存活動を行っている有志の会の主催で入場は無料。定員は80人で、定員になり次第締め切る。申し込みと問い合わせは曽我貢誠さん(090・4422・1534)まで。メールは sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
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高村光太郎ゆかりのアトリエ(東京都中野区で)

当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催で来月行われるイベントの予告記事です。
朗読会案内① 朗読会案内②
また追ってご案内いたしますが、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。司会は当方です。

ついでですので、もう1件。

直接的には光太郎に関わりませんが、光太郎が終生敬愛していたロダンがらみで、時事通信さん配信記事。

ロダンの「複製」の大理石像、実は本物 1.4億円で落札 フランス

【AFP=時事】フランス人彫刻家オーギュスト・ロダンの複製と思われていた大理石の像が本物と認定され、オークションで86万ユーロ(約1億4000万円)で落札された。主催者が9日、発表した。
 オークション主催者のエメリック・ルイラック氏によると、この像は「Le Desepsoir(絶望)」と題されたロダンの1892年の作品で、1906年のオークションで落札された後、所在が分からなくなっていた。
 ルイラック氏によると、週末に行われたオークションでのスタート価格は50万ユーロ(約8200万円)で、最終的には86万ユーロで落札された。
 像は高さ28.5センチで、女性が片足を両手で持って座っている。
 所有していた家族は長年、複製だと思い込み、ピアノの上の隅に置いていたという。
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平成29年(2017)にも同じようなことが、ただしアメリカでありました。その際は大理石のナポレオン像で、今回のものより高額の「400万~1200万ドル」。おそらく大きさの違いもあるのではないかと思われます。

光太郎と同じく、ロダンを敬愛し、というか、弟子とも言える碌山荻原守衛にも「Le Desepsoir(デスペア)」と題する作品があります。光太郎は詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)に登場させています。
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当然、ロダンからのインスパイア、ロダンへのオマージュがあったのでしょう。

ロダン作品に戻りますが、長年、ピアノの上に置いてあった……驚きですね。当方自宅兼事務所を隅々まで探してもそんな凄いものは置きっぱにはなっていないでしょう(笑)。

最後にもう1件、荻原守衛関連です。信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第45号が届きました。ありがたし。
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昨年の第114回碌山忌の際の関連行事「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」の、「びじゅチューン」でおなじみ井上涼氏と同館学芸員・濱田卓史氏による対談が文字起こしされています。光太郎にも触れられていました。

他には以下の目次の通り。
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同館サイトから全文が読めますが、紙媒体で手許に欲しいという方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】049

創元社から「ヴエルハアラン詩集」を届けられました。思つたよりはきれいに出来ました。貴下のお骨折によるものとてありがたく存じました。これらの詩を夢中になつて訳してゐた青年の頃を思ひ出します。

昭和29年(1954)1月10日 
真壁仁宛書簡より 光太郎72歳

「ヴエルハアラン詩集」は、光太郎が青年時代に翻訳し、さまざまな雑誌に発表したり、単行書として刊行された『天上の炎』から抜粋したりで編まれました。奥付は前年12月25日の発行となっています。編集に当たったのが真壁で、真壁は「あとがき」も執筆しています。

最近の地方紙、全国紙から光太郎の名が載った一面コラム等を。

まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。

大自在(6月8日)杢太郎はどこから来たのか

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。長い名前の絵画で知られるポール・ゴーギャン(1848~1903年)は昨日、6月7日にパリで生まれた。県立美術館で開催中のコレクション展に、別の作品が出ている▼178回目の誕生日、彼の「家畜番の少女」の前に立った。発色のいい黄、緑、青。光あふれる画面だが神秘的な雰囲気も漂う。都会の退廃を嫌ったゴーギャンはフランス北西部のブルターニュ地方をたびたび訪れ、牧歌的風景を描いた。「家畜番-」も成果の一つだ▼日本で早くから彼を取り上げた美術評論家の一人が、医師、詩人の顔も持つ伊東市出身の木下杢太郎(1885~1945年)である。明治時代末期、欧州帰りの詩人高村光太郎に教わったようだ。セザンヌ、ゴッホらとともに「新印象派」の画家として記述し、10年の詩「異国情調」には名前を引用した▼杢太郎は45年6月上旬、最後の随筆「すかんぽ」を執筆した。すかんぽとはタデ科の植物「スイバ」のこと。「郷里ではととぐさと呼んだ」そうだ▼この年の夏以降、都内で入退院を繰り返し、10月15日に亡くなった。絶筆は原稿用紙16枚足らず。野生のすかんぽを食べた幼少期の回想を起点に、半生を振り返っている▼ふと、思う。80年前のちょうど今頃、杢太郎の頭にはゴーギャンの長い作品名があったのではないか。随筆は自分がどこから来た、何者だったかを確認しているように読める。死期を悟った彼は、自分が「どこへ行くのか」もお見通しだったろう。

雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。

光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。

 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
 僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
 僕の製作時の心理状態は、従つて、一箇の人間があるのみである。日本などといふ考へは更に無い。自分の思ふまま見たまま、感じたままを構はずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品が所謂日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あつても、なくても、僕といふ作家にとつては些少の差支もない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。

その流れの中で、

 GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。

なるほど、ですね。

紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。

余録

半熟の生梅を灰汁(あく)で洗い、古酒、白砂糖と合わせてかめに入れる。年を経たものが最も良い。梅を取り、酒を取りしてどちらも用いる――。江戸時代の博物書「本朝食鑑」が記す梅酒のレシピである▲砂糖が貴重だった時代。庶民には高根の花だっただろう。江戸後期に商品作物としての梅の栽培が盛んになり、徐々に広まったという。今の主流である焼酎を使った梅酒は明治以降に誕生したらしい▲スーパーの青果売り場に青梅が山積みになっていた。氷砂糖と焼酎もそばに置いてある。梅の実が熟す入梅の時期。毎年、梅酒を造る家庭も多いのだろう。物価高騰の折、安価な「キズあり」も問題なく使えるというのはうれしい▲もっとも酒税法の壁はある。アルコール度数20%以上の酒を使って自家消費することが条件。63年前の法改正で、この条件付き容認が明確化されるまでは家庭での梅酒造りは「もぐり」扱いだったという▲「厨(くりや)(台所)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さをわたしはしずかにしずかに味わう」。彫刻家で詩人の高村光太郎は「智恵子抄」の最後に記した。愛妻が残した手作りの味は特別だったのだろう▲本朝食鑑は「食を進め、毒を解す」と効能を記す。クエン酸を含み、疲労回復や血行促進の効果があるらしい。健康志向もあり、メーカー物の高級梅酒はインバウンド客に好評という。温暖化の影響でこのところ猛暑の年が続く。伝統の味を夏バテ予防にも生かしたい。<とろとろと梅酒の琥珀(こはく)澄み来(きた)る/石塚友二>
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関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。

一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。

 対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
 さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。

(『日本放送史 下』昭和40年=1965 日本放送協会放送史編集室編 日本放送協会)

実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。

最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
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最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。

さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、

昭和28年(1953)12月26日 風間光作宛書簡より 光太郎71歳

風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。

こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。

都内から演奏会情報です。

第39回カトリック松原教会チャリティーコンサート~ガリラヤの風かおる丘で~ フィリピン・ミンダナオ島で活動するシスターたちのために

期 日 : 2025年6月22日(日)
会 場 : カトリック松原教会 世田谷区松原2丁目28番5号
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 一般 3,000円 小中高生 2,000円

「ガリラヤの風かおる丘で」を作曲された蒔田尚昊先生は松原教会に所属されていました。蒔田先生は「ウルトラセブン」で知られる冬木透でもありました。昨年12月に帰天された先生を偲んで、先生の作品も紹介します。今回は松原教会メンバーに加え、若いバリトン歌手が賛助出演いたします。このコンサートは、フィリピン・ミンダナオ島にあるニーニャ・マリア・ラーニングセンターの貧しい家庭の子どもたちの支援のために行います。

出演
 秋永佳世(Sop) 有坂緑(Fl) 黒川京子(Sop) 小西陽子(Pf) 千賀由里(Pf)
 藤本典子(Ms)  安田紀生子(Vn) 保多由子(Ms) 楢原敬之(Br)

曲目
 蒔田尚昊   ガリラヤの風かおる丘で 「智恵子抄」より
 冬木透    ゾフィーのバラード
 アメリカ民謡 アメージング・グレース
 メルカデンテ サルベ・マリア
 ピアソラ   「天使の組曲」より
 中田喜直   悲しくなったときは
 他

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6月7日(土)、上野の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」で蒔田尚昊氏の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲を歌われた黒川京子氏がご出演。おそらく同じ二曲を演奏されるのだと思われます。

他に蒔田氏が映画音楽等を作曲なさった際の変名である冬木透クレジットで「ゾフィーのバラード」。ゾフィーはウルトラ兄弟の長男ですね。ファーストウルトラマンの最終回、宇宙恐竜ゼットンに敗れ、命を落としたウルトラマンを助けにやってきたのが初登場でした。その当時は兄弟とか長男とかの設定にはなっていませんでしたが。
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売り上げはフィリピン・ミンダナオ島での活動支援に宛てられるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お餅と白いんげんたくさんいただきありがたく存じました。これでお正月の雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。


昭和28年(1953)12月25日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

前年まで花巻郊外旧太田村山口地区に蟄居していた頃は、都内の友人等からいろいろと食糧等が送られていましたが、中野の貸しアトリエに出て来てからは、逆に太田村民らから様々な食品などの贈り物。食糧難の時代も過ぎ、光太郎とてこの頃は経済的な困窮はまったくなかったのですが、人徳なのでしょうね。

神奈川県鎌倉市からのイベント情報です。

民学の会第223回例会「高村光太郎と尾崎喜八~100年を越える文化の縁」

期 日 : 2025年6月22日(日)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 14:00~ 2時間ほど
料 金 : 1,000円(珈琲付き)

講 師 : 石黒敦彦(詩人、芸術文化研究、尾崎喜八令孫) 山室眞二(版画家・装幀家)
コメンテーター : 山端通和(音楽家、「笛」マスター、高村光太郎縁戚)

今春に上梓された『高村光太郎と尾崎喜八』(蒼史社)を編集された石黒敦彦氏と山室眞二氏(第221回で講演。この本も芋版画で装丁担当)にお話をしていただきます。お二人は北川太一氏(『高村光太郎全集』編纂実務を手掛けるなど、高村光太郎についての編著書も多数)が残した高村光太郎と尾崎喜八についての文章を後世に残したいとこの本が出版されました。その想いを高村光太郎の御親戚がマスターの喫茶店をお借りして語っていただきたいと思います。どなたでも参加できますのでお誘い合わせてお出かけください。(スペースの関係でお席は25名までですのでお早めにメールなどでご予約ください)
mingakunokai@gmail.com

特別展示:高村・尾崎夫妻の交友を示す白樺派などの写真パネル多数。山室装幀・編集の高村光太郎についての本(北川太一著)、山室装幀の「高村光太郎と尾崎喜八」(北川太一著)の版画原画。

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案内文にあるように、今春刊行された『高村光太郎と尾崎喜八』(当会顧問であらせられた故・北川太一先生の玉稿を再編)の内容を元に、編集された石黒氏と装丁をなさった山室氏がご講演。

会場は明月院さん裏手のカフェ兼ギャラリー笛さん。マスターの奥さまが光太郎の直ぐ下の妹・しづ(静子)の令孫で、石黒氏もお近くにお住まいとのこともあり、毎年秋に、光太郎と尾崎に関わる展示をなさっています。昨年の様子がこちら。また、今年は春先に『高村光太郎と尾崎喜八』出版記念として臨時の展示も為されました。今回も貴重なものが並ぶようです。

当方、花巻で市民講座講師があり、お伺いするのが難しいところですが、皆様方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あれから原稿を毎日書いてゐて、やつと書き終りました。今年は十二月までまだいろいろ仕事が残つてゐてらくでありませんが、時候が割にあたたかなのでいいです。

昭和28年(1953)12月20日 真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

この月の初めまで10日間ほど花巻郊外旧太田村に帰村していたこともあり、書かなければならない原稿が溜まっていたようです。身体的にはかなりガタがきていましたが、そのあたりの意慾はまだまだ旺盛でした。

智恵子の故郷・二本松系の投稿が続いておりますので、今日も。正確には二本松ではなく福島市ですが、老舗菓子店さんが智恵子の名を冠した新商品を出されました。

ちえこのレモン

レモン果汁、レモンピール、ラムレーズン、蜂蜜を加え、香り爽やかに焼き上げたやさしい風味のスイーツです。

単 価 : 151円
販売元 : お菓子のそよか 本店 福島市西中央4丁目15-4
              パセオ店 
福島市万世町5-1 万世町ビル1F
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レモン風味プラス、外側のクッキー部分のシルエットがレモンの形なのですね。

10個入りの箱詰めもあるようです。そもそもそちらをパッケージデザインされた仙台のデザイン会社「enround」さんのサイトで発売を知りました。
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光太郎智恵子のシルエット、安達太良山?と阿武隈川などが配され、なかなか秀逸なデザインですね。

元々、智恵子生家/智恵子記念館さんに近い道の駅安達智恵子の里さんでは、「智恵子の里だよりレモンサブレ」、「れもんドーナッツ」などが販売されていますが、新たなラインナップは大歓迎です。
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ただ、「レモンサブレ」などは基本的に道の駅安達さんでの限定販売でして(オンラインもありますが)、高速道路のSAなどでは見かけません。

また、4月から先月にかけて智恵子生家/智恵子記念館さんで開催されていた「高村智恵子生誕祭」の中で、紙絵制作のワークショップをやられた道の駅安達智恵子の里さんのテナント・二本松和紙伝承館さんが限定企画でいろいろ販売なさいました。
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「限定」でなく、常に入手出来る状態であってほしいのですが……。

今回のお菓子のそよかさんも、ぜひ手広く販売をお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

鉄道便にてリンゴお送り下され、ありがたく落手いたしました、 数年前にお植ゑになつた苗が御丹精の甲斐あつてかくも立派なリンゴを実らせました事を考へ、小生までうれしく存じ上げました、


昭和28年(1953)12月14日 浅沼菊蔵宛書簡より 光太郎71歳

「レモン」ならぬリンゴがらみ。

浅沼は前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区の住民。おそらく、光太郎と交流のあった阿部博の指導でリンゴ栽培を始めたのでしょう。

こちらの検索の網に「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。都内で開かれる、智恵子の故郷・福島二本松市主催のイベントです。

二本松市移住出張相談会 一緒に地域おこししませんか?

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 東京交通会館8階ふるさと回帰支援センター 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 10:30~17:00 (1枠45分)
料 金 : 無料

移住に興味をお持ちの方へ、ぜひ二本松市を選択肢の一つに加えてみませんか?

首都圏から新幹線で約2時間程度。「智恵子抄」で詠われた『ほんとの空』が広がる二本松市は城下町として栄え、温泉や里山など田舎暮らしをしたい方の望むものが揃う一方、病院や公園などの遊び場も多く、子育て世帯も住みやすい街です。福島県の中でも、県庁所在地である福島市と、人が多く集まる商業都市である郡山市のちょうど中間地点に位置しており、利便性にも優れています!
 地域おこし協力隊としての活動先をご検討中の方、移住生活に興味はあるけれど具体的にイメージできない方、移住に向けて一歩踏み込んだ話をしたい方など、ぜひこの機会にお気軽にご利用ください。
 あなたのご参加をお待ちしております♪

■ご相談内容の例
 ・地域おこし協力隊活動についてのご相談
 ・二本松市での暮らし、仕事、住まいについてのご相談
 ・具体的な移住支援制度についてのご紹介
 ・子育て支援についてのご案内
 ・移住された方の事例についてのご紹介
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以前にも同様の相談会等の情報が「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。コロナ禍中の令和3年(2021)には、やはり二本松市さんがオンラインで相談会を開催。それ以前の令和元年(2019)には実際に二本松市内で「田舎暮らし体験ツアー」。この年には二本松市を含む「福島圏域」としての合同セミナーも今回と同じ東京交通会館さんで開催されました。

また、今回の要項では「地域おこし協力隊」関連も視野に入れていることが窺えます。同隊員の募集も今年始めにこのブログで紹介させていただきました。

さらに、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市さんでも「花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向け」ということで、「移住者交流会・花巻めぐりバスツアー」などの取り組みを行っています。

東京一極集中の弊害が叫ばれて久しいところですし、コロナ禍を機に広まったリモートワークの充実も追い風と言えるでしょう。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

椛沢さんが指圧療法を修得されて中々うまいやうですが、あなたも椛沢さんにそれを習つてみたらどんなものでせう、田舎でなら繁昌するかもしれないやうに思はれますがどうでせう、


昭和28年(1953)12月7日 宮崎春子宛書簡より 光太郎71歳

宮崎春子は智恵子の姪で、その最期を看取りました。この年に夫の稔を亡くし、光太郎としては幼子二人を抱えた義姪の生活のたづきを心配していました。ただ、稔の父・仁十郎は茨城取手の素封家で、この頃はいまだ健在、春子もすぐに困窮というわけではありませんでした。

智恵子の故郷、福島二本松からコンサート情報です。

藤木大地カウンターテナー・リサイタル 二本松音楽協会第100回定期演奏会

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 二本松市コンサートホール 福島県二本松市亀谷1-5-1
時 間 : 13:00開場 13:30開演 
料 金 : 一般前売 3,700円 一般当日 4,000円 小中高生 1,000円

昨年名古屋にて半分だけ演奏した「白鳥の歌」を、シューベルト愛だだもれる佐藤卓史さんの懐を再びお借りして、福島にて全曲演奏することにしました。またレパートリーが増えちゃうぞ。二本松音楽協会の「1️⃣0️⃣0️⃣回」記念にふさわしい演奏会になるようがんばります! 縁の地にて、智恵子抄もあるよ!

演奏予定曲目 
 中田喜直 マティネ・ポエティクによる四つの歌曲
 「智恵子抄」より 
  佐藤卓史 あどけない話/からくり歌(初演)  加藤昌則 レモン哀歌 

 F・シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」

出演 藤木大地(カウンターテナー) 佐藤卓史(ピアノ)

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藤木氏、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」をレパートリーの一つとされていて、今回も含め、たびたびコンサートでプログラムに入れて下さっています。また、今回もピアノを弾かれる佐藤卓史氏とタッグを組まれ、佐藤氏作曲の「あどけない話」も。把握している限りでは昨夏、名古屋でずばり「藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄」と、「智恵子抄」をタイトルに冠した公演も行われました。

そして今回初演の「からくりうた」。昭和16年(1941)刊行のオリジナル『智恵子抄』には入っていない詩ですが、まさに二本松の智恵子を謳ったものです。

   からくりうた
     (覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ)
婦人公論
 国はみちのく、二本松のええ
 赤の煉瓦の
 酒倉越えて
 酒の泡からひよつこり生れた
 酒のやうなる
 よいそれ、女が逃げたええ
 逃げたそのさきや吉祥寺
 どうせ火になる吉祥寺
 阿武隈川のええ
 水も此の火は消せなんだとねえ
 酒と水とは、つんつれ
 ほんに敵同志ぢやええ
 酒とねえ、水とはねえ


大正元年(1912)9月の『スバル』第4年第9号に発表された詩です。細棹の三味線をチントンシャンとつま弾きながら唄う小唄の歌詞のような詩ですね。

智恵子の名は入っていませんが、智恵子をイメージして書かれたことは明白です。「吉祥寺」は八百屋お七の巷説が背景にあるようです。

ちなみに掲載誌『スバル』の同じ号には「或る夜のこころ」、「」、「おそれ」も掲載されていて、「からくりうた」を含めて「詩群」の総題がつけられています。おそらくいずれもこの年8月の作で、それぞれ智恵子との恋愛関係をどうするかの逡巡をテーマにしたものです。8月末か9月初めには、銚子犬吠埼に絵を描きに来ていた光太郎を追って智恵子も現れ、ここに二人の恋愛が成就する直前です。

把握している限りでは、「からくりうた」にメロディーがつけられた楽曲は、ギタリストのソンコ・マージュ氏が弾き語りで歌われ、アナログLP「日本の心」(昭和49年=1974 日本コロムビア)に収められたものしか存じません。佐藤氏、あまり取り上げられない詩に曲をつけてくださり、ありがたく存じます。
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というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御文書により、(文学部門と伝聞いたしますが)日本芸術院会員候補者に小生を御推せんの趣承りましたが、右は御辞退申上げたく存じますので、よろしく御取りはからい願います、


昭和28年(1953)12月7日 宇野俊郎宛書簡より 光太郎71歳

宇野は日本芸術院事務局長。同院会員推薦辞退に関わります。

昨日は上野で「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」を拝聴して参りました。レポートいたします。
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会場は旧東京音楽学校のホール・奏楽堂さん。場所は少し動かされていますが、明治23年(1890)の竣工で、隣の東京美術学校に通っていた光太郎も目にしたことのあるはずの建物です。
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敷地内には光太郎とも交流のあった朝倉文夫による滝廉太郎像などもたっています。

開演前のステージ。
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13:00開演。
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当方、あまり詳しくはないのですが、二期会さんの中でいろいろな「○○研究会」という部会があって、その一つの「日本歌曲研究会」さんに所属する歌手の方々なのでしょう、12名の方が思い思いに自選された歌曲を歌われるというものでした。

故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲が、黒川京子氏の歌唱で演奏されました。ピアノは髙木由雅氏という方。
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いずれも抒情的なメロディに乗せて切々と光太郎智恵子の心境が表され、また確かな技倆に支えられて素晴らしい演奏でした。

「あどけない話」は、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に収められていますが、他の4曲「I 樹下の二人」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」は公刊された楽譜集等に収録されておらず、最近の各種演奏会でも抜粋で取り上げられるだけで(今回もそうでしたが)、全曲の楽譜公刊、コンサート等での演奏、さらにCD化が為されてほしいと願っております。

他の方々の演奏も堪能させていただきました。やはり「組曲 智恵子抄」を作曲され、連翹忌にもご参加下さった朝岡真木子氏作曲の作品(「智恵子抄」ではありませんでしたが)を取り上げた方もいらっしゃいました(朝岡氏、当方のすぐ前の席に座られ、お話しさせていただきました)。

それから、三木露風北原白秋山村暮鳥谷川俊太郎など、光太郎と交流のあった人々が作詞した曲が多く、その意味でも嬉しゅうございました。

終演後のカーテンコール的な。
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右からお二人目が黒川氏。黒川氏は、他に宮沢賢治がらみの歌曲等にも取り組まれるということで、お仲間で朝岡氏の「組曲 智恵子抄」をやはり奏楽堂さんで歌われCD化もなさって、今回も聴きにいらしていた清水邦子氏ともども、今年の1月31日(金)・2月1日(土)の2日間、当方が花巻の光太郎/賢治聖地巡礼ガイドを務めさせていただきました。

先の話ですが、その賢治がらみ。清水氏もご出演なさいます。
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他にも受付でもらったり、朝岡氏・清水氏から直接いただいたりしたフライヤー類。

蒔田氏・朝岡氏の「智恵子抄」が演奏されるもの(近くなりましたらまた詳細をお伝えいたします)。
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光太郎関係ではありませんが、朝岡氏・清水氏が作曲されたり出演なさったりするもの。
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左上は創作版画の川瀬巴水(ちなみに光太郎と同年の明治16年=1883生まれです)オマージュの歌曲が演奏されます。林望氏が作詩だそうで。右上は青島広志氏作曲のオペラですが、なんと、古代史や民俗学等に材を採ったおどろおどろの漫画(10冊ほど書架にあるのですが(笑))で有名な諸星大二郎氏の作品が原作です。最近はクラシック界も一筋縄ではいかないようですね(笑)。

関係の皆様方のさらなるご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

五日に無事に東京につきました、道具箱も安泰、木炭三十俵も昨六日届きました、お手数感謝いたします、 今度はいろいろお世話様になり、御馳走になり、出発の際には奥さまのお見送りをうけ、恐縮に存じました、 又部落の方から木炭十俵をいただき難有く存じます、よろしくお礼をお伝へ下さい、

昭和28年(1953)12月7日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

11月25日から12月5日にかけ、前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。中野の貸しアトリエに戻ったよ、という報せです。
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都内と太田村との二拠点生活を考え、住民票は太田村に残していましたが、結局は健康状態がそれを許さず、この際が最後の太田村訪問となってしまいました。光太郎の余命、あと2年余りです。

BS11(イレブン)さん及び一部地域の地上波で放映中の深夜アニメ「ざつ旅-That's Journey-」。KADOKAWAさんの月刊コミック誌『電撃マオウ』で連載の石坂ケンタ氏による漫画が原作です。新人賞に入賞し、プロの漫画家をめざす女子大生・鈴ヶ森ちかを主人公とし、ちかの一人旅や友人たちとの女子旅などが描かれます。

4月オンエアの第2旅「伊達じゃない! きときとふたり旅」では、宮城県の松島が舞台となり、瑞巌寺さんに納められている光太郎の父・光雲作の聖観音像も登場しました。
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そして来週月曜放映分は、後半が光太郎第二の故郷・花巻です。

ざつ旅-That's Journey- 第10旅「ココロのふるさと」 

BS11 イレブン 2025年6月9日(月) 23:00〜23:30

潮岬で初日の出を拝んだちかは、バスで熊野川沿いの道を行き、初詣のために熊野本宮大社へ。そこで彼女が願ったものとは? 1月末、ちかは暦と岩手県の新花巻駅に来ていた。しかし、どこか暦の元気がないようで……!?

出演 月城日花 鈴代紗弓 平塚紗依 佐藤聡美 日笠陽子 小林ゆう 窪田等
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東北新幹線/釜石線の新花巻駅ですね。
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光太郎に関する展示も為されている宮沢賢治記念館さん。
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市街地へ出て、マルカン大食堂さんで定番の10段巻きソフトクリーム。

そして、光太郎や賢治に愛された大沢温泉さん。当方も再来週、またお世話になります。
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おおむね廻る箇所は原作に忠実になっているようです。
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残念ながら花巻高村光太郎記念館さんには廻らないようですが、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

二十五六日頃でかけるつもりで居りますが、汽車からすぐ大沢温泉にまゐります。今度は山で映画撮影の事などあるので、お目にかかるのは月末か十二月初めと存ぜられますし、宿泊は大沢等の温泉地だけにするつもりで居ります。

昭和28年(1953)11月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。ただ、当会の祖・草野心平や、美術映画「高村光太郎」撮影スタッフが一緒で、元の山小屋で寝泊まりはしませんでした。
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それでも村人たちと旧交を温めました。
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あまり大々的に宣伝は為されていないようなのですが……。

木村俊介Concert『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 早稲田奉仕園スコットホール 新宿区西早稲田2丁目3-1
時 間 : 開場 15:00 / 開演 15:30
料 金 : 全席自由 5,500円 要予約
予 約 : 木村俊介 mail:insho@sky.plala.or.jp TEL. 090-8346-5548


パクスナ氏と始めた、日韓定期開催LIVE『鵲の橋の上で』。3年目を迎える今年は、~愛のかたち、様々に~と題して、日韓の文学作品から珠玉の“愛”の物語を取り上げます。愛する人が、愛した時のその人ではなくなってしまったら。愛する人が異界の存在であることを知ってしまったら。それでも、誓った愛を貫くことができるのか。昨年、壤晴彦氏との共演で大好評を頂いた、高村光太郎作『智恵子抄』をはじめ、先人の残した言葉が、時代を超えて問いかけます。会場は築100余年の祈りの空間。溶け合い、響きわたる言葉と音楽に、ゆったりと浸るひと時を。

出 演
 〈横笛・能管・三味線〉木村俊介  〈伽耶琴(カヤグム)〉パク スナ  〈語り〉壤晴彦
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昨年9月、同じく『鵲(かささぎ)の橋の上で』と題されたコンサートがさいたま市で開催されていました。その再演に近いのかな、という感じです。

その際の紹介記事でも書きましたが、朗読を担当される壤晴彦氏、かなり以前から「智恵子抄」朗読に取り組まれている方です。

今回は新宿区で。早稲田奉仕園さんといえば、当方、令和4年(2022)に日本詩人クラブさんの例会で講演をさせていただいた場所です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京も寒くなり、山口ではもう雪が降つてゐる事でせう、小生廿五日の朝上野を出発して同夜花巻着、大澤温泉に参ります、山口へは廿六日か廿七日に出かけるでせうが、あの小屋には寝られさうもないので、夜は又大沢温泉に行きます、

昭和28年(1953)11月22日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区に約1年ぶりに戻るという連絡です。
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昨日お伝えした、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖での「第60回記念十和田湖湖水まつり」とも関わる内容で、現地の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。5月30日(金)の掲載分です。

天地人

 十和田市の古木「法量のイチョウ」の枝が今冬の大雪で折れた。心配していたが、十和田古道フォーラム参加者ら約30人と訪れて見上げ、変わらぬ威容にほっとした。
 近くを通る国道102号はかつてなく、奥入瀬川が法量のイチョウ下の巨岩にぶつかって流れる石門状の地形だったという。参詣者は巨岩脇を登って越え、十和田湖に向かった。斉藤利男弘前学院大特任教授は「ここから先は神域」と説明、鈴木健郎専修大教授は「日本の宗教的に、巨岩は神が降りる場所。非常に重要だったことが分かる」と注目する。
 十和田開発の功労者として、1908年に本県に赴任した官選知事の武田千代三郎、文人・大町桂月、法奥沢村長で県議の小笠原耕一が挙げられる。十和田湖畔の「乙女の像」は3人の顕彰で建てられたという。
 武田は十和田湖と奥入瀬を一体ととらえており、自著で十和田湖を詳細に記述。貴重な財産だと説き、自身の着任前に行政が許した伐採等の影響で一部景観が「名勝變(へん)じて凡境と化した」と嘆き、自然破壊行為を厳に慎むよう苦言を呈した。
 斉藤特任教授はさらに、八甲田も含めた一帯が広大な霊場だったと推測する。一時どん底だった十和田湖観光は、歴史を生かした再起のエネルギーが起きている。悠久の歴史を知るにつれ、われわれにこの得難い財産を後世に残す責務があると身が引き締まる。

「乙女の像」の正式名称は「十和田国立公園功労者顕彰記念碑」。昭和25年(1950)に、時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)の肝煎りで準備委員会が発足、同27年(1952)に正式に「十和田国立公園功労者顕彰会」となり、建設が具体化していきます。コンセプトは十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念と、その指定に功績のあった「十和田の三恩人」、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の顕彰でした。
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明治の文豪・大町桂月は、それまで一般に知られていなかった十和田湖の景観美をさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。
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明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心しました。

昨日お伝えした通り、「十和田湖湖水まつり」は今年が60回の節目の年で、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた大町桂月の没後100年記念も兼ねています。

桂月といえば、与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。
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この当時、光太郎は既に与謝野夫妻の『明星』に依り、新詩社社中の新鋭の一人と目されていました。したがって、桂月にしてみれば憎き晶子の弟分(笑)。その光太郎が時を経て、桂月顕彰の意味合いも含めて「乙女の像」を制作したわけで、そのあたりも念頭に、光太郎自身は次のように語っています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

ここにはなぜ裸婦像なのか、という問題も含まれています。それについても同じ対談で、

初めは三人の首をといふ事がすぐ頭に出たんですけれども、これは何だか獄門みたいになりますから考へて、止しました。(略)とにかく僕に自由なものをやつていゝと言ふと、大町さんとの関係がなくなつてしまふんですよ。たゞ裸の像では大町さんは寧ろ嫌ひですよ。(略)だからあの時は姑息な事を考へてね、像に木の枝を持たせて、その木を桂の木にしようと思つた。月の桂で桂月を意味するし、そんな馬鹿な事も考へたけれども、段々やつてゐる内に、一切さういふ事を離れちまつて、自分が湖から受ける感じ――桂月さんが湖から受けてあれだけ感動したんだから、自分が湖から受ける感動をそのまま正直に出せば、結局同じなんじゃないか。(略)桂月が草鞋ばきで尻を端折つてあそこを歩いてゐたやうな時の姿をあそこへ置いたら、どんな滑稽か分からない。これはもう恐らくどんなによく拵へてもをかしい。

などと発言しています。

さて、桂月没後100年ということで、十和田や都内でそのあたりの記念行事等も予定されています。その中で、「乙女の像」、さらには像の作られた中野のアトリエの保存などについても、スポットが当たることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

昨夜草野心平さんにあつた処山口での撮影には立合ひたいといふ事でしたが、ブリツヂストンでその費用を果してだすものでせうか、一応貴下から先方の意向をきいてくれませんか、

昭和28年(1953)11月15日 難波田龍起宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。この月25日に帰村し12月5日まで滞在しました。
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「撮影」はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のためのもの。前半は中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景などを、後半を旧太田村で撮影しました。

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光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖からイベント情報です。

第60回記念十和田湖湖水まつり

期 日  : 2025年6月14日(土) 15日(日)
      荒天の場合
       ①6月14日(土)が中止の場合
→6月15日(日)、6月21日(土)開催
       ②6月15日(日)中止→6月14日(土)、6月21日(土)開催
       ③6月14日(土)、6月15日(日)中止→6月21日(土)、6月22日(日)開催
       ④6月14日(土)、6月21日(土)中止→6月15日(日)、6月22日(日)開催
       ⑤6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)中止→6月22日(日)のみ開催
       ⑥6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)、6月22日(日)中止→湖水まつり中止
会 場  : 十和田湖畔休屋桟橋前 青森県十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋486 
問合せ  : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

 遡ること1908(明治41)年夏、高知県出身の文人・大町桂月が、十和田湖をはじめて訪れました。その時に桂月が感じた雄大さや自然の美しさを、雑誌に寄稿したことが、十和田湖を景勝地として世に広めるきっかけとなりました。その後、何度も十和田湖を訪れた桂月。病を悟りながらも最期の地に選んだのも十和田でした。1925(大正14)年6月10日、緑萌ゆる蔦温泉で、56歳の若さで亡くなりました。今年は、その没後100年にあたります。
 大町桂月が世に広めた十和田湖の変わらない美しさ。その美しさを、北東北の夏の観光シーズンの幕開けを飾る花火大会として続いてきた湖水まつりをきっかけに、多くの人に知ってほしい。そうした思いで、記念すべき年の第60回湖水まつりを開催します。
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十和田の夏を盛り上げるコンテンツ満載!

バルーンランタン
十和田湖の夜空に、願いを込めたランタンを一斉に浮かべましょう。湖面に映る無数の光が、幻想的な景色をつくり出します。バルーンランタンには、お好きな文字やイラストを描いて、世界に一つだけの灯りを届けることができます。
 6/14(土) バルーンランタン 1個あたり 6,600円
 6/15(日) バルーンランタン 1個あたり 6,200円
 50個限定!早期購入で400円引き!
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メッセージ花火
大切な人へのメッセージを花火と共に贈りませんか?
ご指定のメッセージをアナウンスした後に、花火を打ち上げさせていただきます。
 1玉+メッセージ読み上げ 10,000円
 3玉+メッセージ読み上げ 28,000円
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ナイトクルーズ
十和田湖ナイトクルーズは年に一度、湖水まつり限定! バルーンランタンと打ち上げ花火を湖上鑑賞してみませんか? 十和田のカルデラに包まれながらの特別な時間を約束します。
 時間:20:15〜
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今年は屋台コーナーも登場!
時間 : 11:00〜22:00
 キッチンカーコーナー
  うれしいうれしい一品(みたらし団子、わらび餅)
  ほっとまん企画(おつまみセット、チーズセット、生ハム)
  たご助(煮干したご焼き、トルネードポテト)
  豚専門店 いろとん(豚つくね串、じろう串、ホルモン串)
  ナイトマーケット(大分中津からあげ、フライドポテト)
  OIRASETOWADA おまかせKitchen(バラ焼きうどん、わんぱくナポリタン、パフェ)
 露店コーナー
  湖白家(ポテト、チュロス、肉巻、シャーピン)
  和の店(からあげ、オム焼きそば、あげたこ)
  田村商会こなもんや(オムそば、豚まん、たこ焼)
  かばさわ商店(フライドポテト、かき氷)
  鎌田功誠(フルーツ飴、はしまき)
  Enjoyとわだこ(行者ニンニクぎょうざ、日本酒/新政10種・花邑)
  マルショウ(トルネードポテト、肉巻き棒、サツマイモチップス)
  宮本商店(たこ焼き、バナナチョコ)
  メディアサポートシステム(ジャンボ牛串、マシュマロスティック)
   ※()内は主なメニュー

パフォーマンス団体/個人を募集中!
十和田湖湖水まつりでは、音楽、ダンス、郷土芸能など、様々なジャンルからのパフォーマンスを募集しております。
 ◇会 場:桟橋前広場(十和田湖が背景になります)
 ◇特典:カメラマンによる出演写真をご提供
 ◇申込み〆切(第一次):5月16日(金)
  申込み〆切(第二次):5月30日(金)※応募枠に余裕がある場合のみ実施(先着順)
 ◇発表:主催者による簡易審査の結果次第随時

公式サイトに記述がありませんが、問い合わせたところ、夕方から「乙女の像」ライトアップも為されるそうです。下記は過去の画像ですが。
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今年は湖水まつり自体が60回の節目、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた明治の文豪・大町桂月の没後100年だそうで(「乙女の像」は桂月ら「十和田の三恩人」顕彰というコンセプトも含めて作られました)、今回の案内文には桂月についても触れられています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖旅行のかへりに山口にゆくつもりでしたが、青森でいろいろの事をするので相当疲れると思ひ、今度は一旦東京に帰り、少々休んでから、十一月に又あらためて山口に行き大沢あたりで休養したいと思つてゐます、

昭和28年(1953)10月15日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「十和田湖旅行」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のためでした。除幕式に直接関わる書簡が、今のところ発見出来ておりません。
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遺言はオープンに

智恵子のソウルマウンテン・二本松市の安達太良山でのイベントです

第24回オリエンテーリングあだたら高原大会・あだたら高原ロゲイニング大会 走って 歩いて 楽しんで 「ほんとの空」を探そう 

期 日 : 2025年6月8日(日) 雨天決行
会 場 : あだたら高原・岳温泉周辺(福島県二本松市)
実施種目・競技形式
 ①ポイントオリエンテーリング:個人競技 ミドルディスタンス
 ②スコアオリエンテーリング※:グループもしくは個人 制限時間60分
  決められた時間内に自由にコントロールを廻り、より多くの得点を獲得する競技方式
 ③ロゲイニング:制限時間5時間、3時間
  グループを基本としますが、3時間の部はソロ※での参加も可能です。
  ソロは試験実施です。表彰の際、メダルの授与はありません。
 どなたでも参加できます。
 ※ ただし、ロゲイニングについては、以下の条件を満たすチームのみが参加できます。
 ① 中学生以下の参加者がいるチームには、保護者(20歳以上)を必ず含めてください。
 ② 高校生のみのグループで参加する場合は、保護者からの承諾が必要です。

スケジュール
     7:15 ロゲイニング5時間受付
     8:00 ロゲイニング5時間スタート
     8:15 開場
     9:15 ロゲイニング3時間スタート
     9:45~グループクラス初心者説明(※希望者のみ)
   10:00~オリエンテーリング個人スタート
   10:15 オリエンテーリンググループスタート
   13:00 表彰式、閉会式
   13:30 フィニッシュ閉鎖(予定)
   14:30 閉場
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実は申込期限を過ぎてしまっていましたが、オリエンテーリングのみ当日も仕込みも可能だとのこと。ロゲイニングの方もキャンセル等あるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

オリエンテーリングとロゲイニングの違いは、オリエンテーリングが全てのチェックポイントを回った「時間」で競う競技であることに対し、ロゲイニングは制限時間は固定して時間内でチェックポイントを回って稼いだ「点数」で競うのが大きな違いだそうです。

「智恵子抄」所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっています。参加する皆さんには光太郎智恵子に思いを馳せつつ、「ほんとの空」の元、現地の自然を堪能していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来た時角筈のアトリエで見たのはデスペヤだつたやうです、「労働者」がその時出来かかつてゐたかどうか記憶がありません。「北条虎吉」はもつと後だつたと思ひます。「柳さん」のはもつと後だつたでせう。

昭和28年(1928)10月10日 笹村草家人宛書簡より 光太郎71歳

光太郎の親友だった碌山荻原守衛に関わります。「帰つて来た時」は、光太郎が欧米留学から帰朝した明治42年(1909)、「角筈のアトリエ」は先に帰っていた守衛が構えていたアトリエです。

この頃、笹村を顧問格に迎え、守衛の地元の信州穂高で「荻原碌山研究委員会」が立ち上げられ、守衛の顕彰活動が本格化しました。やがてそれが昭和33年(1958)の碌山美術館さん開館につながってゆきます。
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昨日は鎌倉に行っておりました。過日ご紹介した鎌倉覚園寺さんでの「後醍醐院法躰御木像 特別開帳」拝観のためです。ご朱印マニアの妻も連れて行きました。

webで予約をしましたが、受付が13:30~13:40の10分間。遅れてはいけませんし、妻は覚園寺さんをはじめ近くの二階堂地区、鶴ヶ岡八幡宮さんを除く雪ノ下地区などの寺社には参拝したことがないというので、そのあたりも廻ろうと早めに行きました。

こちらが覚園寺さん。当方も初めてでした。
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特別開帳拝観の前に御朱印を頂き、撮影全面禁止・有料部分の拝観。
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繁華街からは離れた場所で、静かな雰囲気の古刹。かつて本堂の役割だった的な茅葺きの大きな薬師堂が大迫力でした。こちらのご本尊で一丈(約1.8メートル)はあろうかという薬師如来様、左右の日光・月光菩薩さま、さらに宮毘羅大将以下の十二神将さま。実にエモいお姿でした。

さて、特別開帳拝観。こちらは現在の本堂にあたる愛染堂で。
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ご本尊の愛染明王様が修復のためお留守になり、光背と蓮華座はそのまま残っている形で、ぽっかりと空いた空間が寂しい、というわけで、そこに秘仏的な扱いで伝えられてきた光太郎の父・光雲作の後醍醐天皇像を御厨子ごと据え、ご本尊のお留守を護っていただこう、というコンセプトだそうです。

後醍醐天皇像を愛染明王様の代わりに、というのにはちゃんと理由がありました。愛染明王像は基本的に右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されます(六臂なので右手・左手というと正確には語弊がありますが)。そして後醍醐天皇が愛染明王様を篤く信仰されていたということで、絶対ではないのですが、絵画にしても彫刻にしても、後醍醐天皇像も右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されることが多く、こちらの像もそうなっているのです。
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まったく違う像を愛染明王様の光背と蓮華座に据えるのはお門違いですが、そういうことならそれもありだな、と判断されたとのこと。なるほど、と思いました。

で、光雲作の後醍醐天皇像。7寸ほどの小さなお像でしたが、実に精緻なものでした。他に光雲作の後醍醐天皇像は当方、寡聞にして存じません。しかし、やはり光雲作で多くの類例がある聖徳太子像大聖(孔子)像などと似た感じでした。
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ただ、量産されたこれらとは異なり、衣の模様の部分には金箔による截金(きりかね)が施され、特注品だったと思われます。

意外だったのは、制作年。聖徳太子像、大聖(孔子)像などは大正から昭和にかけてのものが多いのですが、こちらの後醍醐天皇像は明治26年(1893)の作とのこと。ちなみにこの年は、シカゴ万博に出品された「老猿」(国指定重要文化財)が作られた年です。
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それから、覚園寺さんのオーダーメイドではなく、昭和に入ってから、同寺が後醍醐天皇ゆかりのお寺でもあるということで、寄進を受けたというお話でした。像自体には光雲の銘は入って居らず(天皇像ということで遠慮した?)、光雲自筆の保証書的な書状が添えられ、コピーを拝見しましたが、斎戒沐浴の上、精魂込めて作りました、的な内容でした。今回の特別開帳のフライヤーにその書状から文字が採られていました。これには気づきませんでした。
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像本体は撮影禁止でしたが、特別開帳を申し込んだ参拝者には、画像が印刷されたポストカード大のカードがいただけます。そのまま画像を出さないでくれ、ということなので、モザイクを掛けました。
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右上はご開帳期間だけの限定御朱印です。

というわけで、実に有意義な参拝でした。

ついでというと何ですが、他に巡った御朱印スポット。行程順に。

荏柄天神さん。
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境内の「絵筆塚」。河童の漫画家・清水昆氏オマージュで、「フクちゃん」の横山隆一氏らの手で建立されました。ブロンズのプレートには「ドラえもん」の藤子・F・不二雄氏、「ゴルゴ13」のさいとうたかを氏、そして現在朝ドラで注目を集めているやなせたかし氏らのイラスト。
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一旦、中心街に戻って鶴ヶ岡八幡宮さん。
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段葛の通りで昼食を摂り、鳩サブレを買って(笑)、ふたたび東の方へ。

鎌倉宮さん。
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覚園寺さんはこの奥です。

特別開帳は来年1月まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青森へ行つた帰りに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます。


昭和28年(1953)10月11日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

駿河重次郎は、前年まで光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた、村の長老格の一人。「青森」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で、10月21日でした。

最初はその帰途に太田村に寄るつもりでしたが、予定を変更、11月に太田村に帰ることにしました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたメニューを饗する「こうたろうカフェ」。花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんで月に一回、開催されています。こちらは日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。

5月分が一昨日でした。
5月ワンデイ
5月ワンデイシェフ
鶏ももスティック天、人参シリシリ、イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ。
鶏ももスティック天・人参シリシリ・イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ
葉わさび奴、蕨のお浸し、サクの煮物、新玉ねぎシーフードサラダ。
葉わさび奴・蕨のお浸し・サクの煮物・新玉ねぎシーフードサラダ
筍ご飯、トマトと卵のジンジャースープ。
筍ご飯・トマトと卵のジンジャースープ
食べられる花ナスタチウムとレタス。
食べられる花ナスタチウム・レタス
別腹で(笑)ヨモギ餅粒あんのせ、コーヒー。
ヨモギ餅粒あんのせ
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いつも書いていますが、首都圏ではあり得ない1,000円というお手頃価格です。季節的に山菜系を素材としたメニューが多く、実にヘルシーな感じですね。山菜の採取もやつかの森さんがご自分たちで行ったそうです。

次回は6月27日(金)だそうで、今年度はほぼ毎月末に取り組まれるようです。光太郎も自分で採取し、好んで食材に使った山菜「ミズ」をつかわれるとのこと。

末永く続いてほしい取り組みです。

【折々のことば・光太郎】

鋳金像はやつと工場で出来上り、あと十日間位で十和田休屋といふ所の湖畔にたち、廿一日に除幕式、小生も十九日には出かけて列席、


昭和28年(1953)10月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎71歳

「鋳金像」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。鋳金家・伊藤忠雄の都内の工房でブロンズに鋳造され、十和田湖に運ばれました。
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キャラクターデザインの公募です。

商工会キャラクター制作依頼

新しい「智恵子ちゃん」を一緒に作りませんか?/福島県・地元商工会より

■ 募集概要
地元商工会では、これまで活用できていなかった旧キャラクター「ちえこちゃん」をリニューアルし、地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたいと考えています!
すでに過去に制作された着ぐるみがあるため、髪型や服装の変更にはある程度対応できますが、原型にとらわれず大胆なリデザインでもOK!

■ 「ちえこちゃん」について
智恵子ちゃんは、福島県二本松市出身の詩人・高村智恵子さんをモチーフにしたキャラクターです。
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■ リニューアルの方向性
 ・ファミリー層や若者向けに親しまれるデザイン
 ・インパクト・ユーモアのある雰囲気
 ・ギャル風、ゆるキャラ風など、個性的なアイデア大歓迎!
 ・旧デザインの要素を少し残していただけると嬉しいですが、大きく変更しても構いません!
■ 募集内容
 ・作成数:1点
 ・デザインサイズ:特に指定なし
 ・カラーイメージ:ピンク系(かわいく、若々しく、女性らしい印象)
 ・納品形式:JPG
 ・用途:チラシ、販売促進用のグッズなど
 ・商用利用:あり
 ・二次利用:未定・相談希望
■ 選考方法
 ・応募時にラフスケッチやイメージ画像(下書きでOK)を添えてご提案ください。
 ・商工会メンバーで検討し、正式にお願いする方を決定いたします。
■ 希望する対応
 ・急ぎのプロジェクトのため、スピード感を持ってご対応いただける方
 ・デザイン作成に不慣れな担当者が多いため、丁寧にコミュニケーションできる方

■仕事の概要
 固定報酬制 10,000円 〜 30,000円
 納品希望日 2025年06月02日
 応募期限  2025年06月02日

ちえこちゃん」は、智恵子の故郷・福島県二本松市のあだたら商工会さんで、平成30年(2018)に制定されたゆるキャラです。
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X(旧ツィッター)に「ちえこちゃん@福島県二本松市」というアカウントが作られ、智恵子生家や智恵子記念館、都内の福島県アンテナショップなどに出没した様子が上げられていました。
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ところが、その後、コロナ禍もあり、出番が激減。
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そして要項にある通り「これまで活用できていなかった」という事態に。X(旧ツィッター)投稿も令和4年(2022)を最後に途切れてしまいました。

「もったいないな」と思っていたのですが、このたび元のキャラクターを生かしつつ、新たなデザインの公募を行い「地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたい」だそうで、喜ばしい限りです。

募集期間が短いのですが(5月27日(火)から始まり明後日〆切)、それでも既に20件近くの応募があったそうです。

「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

賢治祭も大変さかんだつたと承り、よろこびました、いろんな人からその様子を書いてまゐりました、十月末には小生も十和田にまゐり、帰途花巻に寄るつもりでをります


昭和28年(1953)10月1日 宮沢清六宛書簡より光太郎71歳

「十和田にまゐり」は、智恵子の顔を持つ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式参加のためです。昭和20年(1945)に岩手に疎開後、「乙女の像」制作のため、前年に東京中野の貸しアトリエに入るまでは、ほぼ毎年参加していた「賢治祭」。現在も賢治命日の9月21日に行われています。

この年、参加出来なかった光太郎ですが、当会の祖・草野心平に托してメッセージを寄せ、当日は心平がそれを代読しました。これまで光太郎生前に活字になった記録が見あたらず、草稿からの収録で『高村光太郎全集』に「一言」の題で収められていましたが、地方紙『花巻新報』に載った会の開催を報じる記事中に全文の掲載を確認しました。

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明後日のイベントですが、昨日になってネット上での情報に気がつきましたので……。

大人のための朗読ライヴ

期 日 : 2025年6月1日(日)
会 場 : 磯部生涯学習センター 三重県志摩市磯部町迫間878−9
時 間 : 13:00開場 13:30開演
料 金 : 無料

プログラム
 『朝のリレー』 谷川俊太郎/朗読:花笑み
 『グチャグチャ飯』 佐藤愛子/朗読:江坂淳子
 『ヤギとライオン』 トリニダード・トバゴの民話/ストーリーテリング 森本時子
 『智恵子抄』 高村光太郎/朗読:牧野範子
 『驟り雨(はしりあめ)』 藤沢周平/朗読:岡野秋子
 「オーシャンボーイズ」演奏会 (男性デュオ・フォークソング・ニューミュージック)
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「志摩市での朗読会」というのが記憶に残っており、調べたところ、平成25年(2015)にも同じ団体さんの同じ方がやはり「智恵子抄」朗読をなさっていました。ありがたし。

昨日ご紹介したアニメ「花は咲く、修羅の如く」も朗読を題材としたものですし、朗読は大ブームとはいえないものの、根強い人気があるのでしょう。

光太郎自身も自作の詩の朗読をたびたび行いました。戦後の昭和27年(1952)、ラジオ放送のために花巻温泉松雲閣で詩人の真壁仁との対談が録音され、その終了後に光太郎の発案で「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」の三篇を光太郎自身が朗読した音源がNHKさんに残っています。

ただ、光太郎の自作詩朗読は戦時中に行われることが多く、愚にもつかない翼賛詩がほとんどでした。そのあたりも戦後の7年間の蟄居生活を送ることになった要因の一つでしょう。

また、やはりラジオで光太郎詩の朗読を行い、光太郎とも面識のあった盛岡出身の照井瓔三(栄三)の著書『国民詩と朗読法』(昭和17年=1942)に以下の序文を寄せています。

 最近詩の朗読が日本全国のあらゆる青年層の間に歓び迎へられてゐるといふ事を聞く。民族の大いに動く時、まづ詩精神の鬱勃が起り、その発現としての詩が求められ、詩そのものへの共感合体に魂の喜を人人が経験するに至るのは当然である。詩精神の発揚は即ち民族主義の溌剌を意味する。今日人が詩を読んで詩への共感を熱望する実状を見聞して、私は限りなき心強さを感ずる。
 詩を朗読するといふ事は人が詩を熱愛するのあまりに起こる衝動である。われにもあらず声に出るのである。その朗読をきく者は音響といふ要素の力に変形した詩の力に打たれる。詩は朗読といふ音響によつて淘汰され、洗練される。朗読のゆるがせに出来ないわけが此所にある。朗読技法の大切なわけも亦此所にあるのである。その技法の指針を示さうとするのが此書である。

戦時中の馬鹿馬鹿しい(というか、罪深い、というか)翼賛詩ということを考えなければ、特に後半部分「詩を朗読するといふ事は……」以下云々(「でんでん」ではありません、「うんぬん」です)、なるほど、と思わせられる内容ですが。

ちなみに照井は昭和20年(1945)5月の空襲により、東京で亡くなりました。

詩の朗読が妙な方向に利用される、そうした時代が再び来ないことを祈って已みません(「いません」ではありません、「やみません」です)。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏には閉口、来年の夏は山で過さうと思ひました、


昭和28年(1953)9月25日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

めっぽう夏の暑さに弱かった光太郎、花巻郊外旧太田村との二重生活を目論みました。結局、それが実現することはなかったのですが……。

今年1月から3月にかけて、地上波日本テレビさんなどで放映されていたアニメ「花は咲く、修羅の如く」のBlu-rayディスク上巻を入手しました。
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高校の放送部員たちの青春を描いたもので、原作・武田綾乃氏、むっしゅ氏作画のコミックが原作で、令和4年(2022)に単行本第1巻が集英社さんから発売されています。

ディスクには全12話中の第6話までが収録されており、第1話で光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が扱われています。
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「修羅の如く」という題名の通り、宮沢賢治の「春と修羅」も。
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ディスク1枚と、ブックレットが付いています。ブックレットには原作の武田綾乃氏によるオリジナルのスピンオフ短編小説「高架橋橋脚下」が収められています。

製品詳細は以下の通り。

「花は咲く、修羅の如く」Blu-ray上巻

発行日 : 2025年4月30日
著者等 : 武田綾乃・むっしゅ・集英社・すももが丘高校放送部
版元等 : キングレコード
定 価 : ¥20,900(税抜価格:¥19,000)
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ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

この頃住所定まらず、予定もはつきりしません。今月中か十月には東北へまゐりますがどの位そこに居るか、其時にならないと分りません、冬に又東京に来たいと思つてゐますけれど。


昭和28年(1953)9月10日 川島たかし宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も完成し、翌月に行われるその除幕式で関係者に配付する記念メダルも仕上げ、エアポケットのような空白の時間が生じました。

当初予定では、前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に帰るつもりでしたが、医師から止められたこともあり、寒い時期には東京、それ以外は太田村と、二重生活も考え始めましたが、具体的にはどうするかと思案中です。そこで「住所定まらず」としています。

都内から演奏会の情報です。

第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会

期 日 : 2025年6月7日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 12:30 開場 13:00開演
料 金 : 全席自由 4,000円

出演
 <ソプラノ> 阿部麻子 木内弘子 黒川京子 品田昭子 柴田百代 武かほる
        鳥養和歌子 中村良枝 福成紀美子 毛木香保里
 <メゾソプラノ> 草西富貴子
 <バリトン> 馬場眞二
 <ピアノ> 髙木由雅 森裕子

演奏予定曲目
 山田耕筰 作曲 病める薔薇/南天の花
 斎藤佳三 作曲 ふるさとの
 平井康三郎 作曲 茉利花(まつりか)の/小面幻想
         歌曲集「日本の笛」より 夏の宵月 野焼の頃
 中田喜直 作曲 「”マチネ・ポエティク”による四つの歌曲」より 3. 髪
 武満徹 作曲 死んだ男の残したものは
 三善晃 作曲 「聖三稜玻璃」より 1. いのり 3. 青空に 4. ほんねん
 蒔田尚昊 作曲 「智恵子抄」より Ⅱ. あどけない話 Ⅴ. レモン哀歌
 加賀清孝 作曲 歌曲集Ⅳ「ハイゼのイタリア詩集(邦訳)による7つの歌」より
         2. あなた その気弱な一言で 5. 彼が歌ってるの 月明かりのおうちの前で
         6. きのう真夜中に起きたら
 朝岡真木子 作曲 さくらの はなびら
         まど・みちおの詩による組曲「リンゴを ひとつ」より 3. 貝のふえ
 木下牧子 作曲 「竹久夢二の詩による7つの歌」より
         3. ゆふぐれがたに 6. ジョウカア 7. あなたの心
 千原英喜 作曲 歌曲集「ありがとう」―谷川俊太郎の4つの歌―より
         1. 誰もしらない 4. ありがとう
 松下倫士 作曲 うたを うたうとき
 <委嘱作品>
 「音楽四章」前田佳世子 曲 / 谷川俊太郎 詩
   1.音楽の時 2. ただそれだけの唄 3.ないしょのうた 4.音楽
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故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から、第二曲「あどけない話」と第五曲(最終曲)「レモン哀歌」がプログラムに入っています。歌われるのは黒川京子さん。今回はご出演なさいませんが、お仲間で、朝岡真木子氏ご作曲の「組曲 智恵子抄」を歌われた清水邦子さんともども、今年の1月31日(金)、2月1日(土)と、花巻の光太郎・宮沢賢治関係スポットをご案内させていただきました。そんなこんなで招待券を頂いてしまっています。恐縮です。

蒔田氏の「智恵子抄」、公刊されている楽譜集では、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に「あどけない話」が収められているだけですし、市販のアナログレコードやCD等にも収録されていません(見落としがなければ、ですが)。YouTube上には令和3年(2021)に紀尾井ホールさんで開催された「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」(コロナ禍のため無観客)、同5年(2023)に渋谷区文化総合センター大和田さんで開催の「「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサート」での演奏などがアップされています。前者は大野光彦氏、後者は加耒徹氏の歌唱です。他に、野々村彩乃氏という方の演奏も上げられていますが、こちらは寡聞にしていつどこで収録されたものか不明です。

ちなみにウルトラ系がタイトルに入っているのは、蒔田氏が「冬木透」名義で「ウルトラセブン」をはじめとするウルトラ系の楽曲を作曲されているためです。

今回の会場は上野公園内の旧東京音楽学校奏楽堂さん。東京音楽学校は、光太郎の母校・東京美術学校とともに戦後に東京藝術大学さんへと改組され、ホール自体も藝大さんを離れて台東区さんに所管が移りましたが、創建当初の姿を残してリノベーションされ、味わい深い建造物です。重要文化財指定もされています。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日はメダル原型の石膏を渡して、百五十個作成を御依頼しました、経四寸、片面のメダル、一個分五〇〇円の由につき、県庁の金で半金三七、五〇〇円お渡し致しました。


昭和28年(1953)9月10日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。十和田湖の景観美を広く世に紹介した大町桂月は、道路整備等に腐心した元青森県知事の竹田千代三郎、元法奥沢村長の小笠原耕一とともに「十和田の三恩人」と称され、「乙女の像」は三恩人の顕彰という意味合いもありました。
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結局、このメダルが光太郎彫刻最後の完成作となりました。

『日本経済新聞』さんに広告が出ました。
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販売元のアートデイズさんで出しているカラーパンフレットがこちら。
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光太郎の父・光雲の木彫を原型としてブロンズに写した工芸品ですね。新商品かと思いきや、そうでもなく、少し前から販売されているようです。だいぶ以前からというわけでもなさそうですが。

「白象半跏 普賢菩薩(髙村光雲作)」ーー理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに

● 作品寸法:高さ21×幅25.5×奥行15センチ
● 材質:ブロンズ(本金粉手彩色仕上げ)
● 題字・落款入り高級桐箱
● 詳細解説書付
● 黒塗り台座
● 価格:220,000円(本体200,000円+税)
● 本品は受注生産ですのでお届けまでにお時間をいただく場合もあります。ご了承ください。

慈愛溢れる菩薩像と生気みなぎる白象。その静と動が織りなす造形の美を、光雲がもてる技の限りを尽くして彫り上げた傑作。まさに近代彫刻の祖・光雲の技を堪能できるブロンズ作品です。どうぞお手許でご堪能ください。

理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに。聖獣の象徴といわれる白い象に乗った普賢菩薩。普賢の「普」は、「あまねく」という意味で、ありとあらゆる世にあらわれて、仏の慈悲と理知により、人々を救う賢者であることを意味しています。また、長寿、延命の大きな功徳により、古来より特に民衆の篤い信仰を集めてきました。

作品と桐箱、光雲の落款2つが揃い、光雲原型による真正の作品であることを証明。所定鑑定人である高村家の承認により、作品本体の背部には光雲の落款が写されています。さらに、桐箱の蓋裏には高村家の正式許可を受けた証として、光雲の落款が押印されています。これにより、本品が高村光雲の原型により制作された優れた仕上がりの真正オリジナル作品であることを証明しています。
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光雲作の普賢菩薩像というのは、記憶にありませんでした。手許にある作品写真集や図録の類を見ても、見落としがなければ普賢菩薩像は掲載されていません。ただ、普賢菩薩の化身とされる「江口の遊君」像は京都の清水三年坂美術館さんに収蔵されており、現物を拝見いたしました。やはり白象に乗っています。
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昨日も書きましたが、自身が篤く信仰していた観音像だけで生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつかない状態で、意外と一般的な普賢菩薩像があっても何ら不思議ではなく、むしろ無い方がおかしいくらいです。

「おやっ」と思ったのは、普賢菩薩さまの髪の毛の処理の仕方。光雲令孫の藤岡貞彦氏から花巻市に寄贈され、花巻高村光太郎記念館さんで2回展示が為された「鈿女命像」とよく似ています。
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切れ長の目の表現も心なしか似ていますね。

さて、ご興味おありの方、または信心深く普賢菩薩さまを篤く信仰されている方(ちなみに十二支の辰年・巳年の方は普賢菩薩さまが守り本尊という俗信もあります)、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

模様がへなどしてゐたため、メダルの完成が遅れてゐましたが、お話の鋳金家に原型を見ていただいて予算を立てたいので、その鋳金家に小生アトリエまでおいで下さるやう貴下より御通知下さるやうお願ひいたします、


昭和28年(1953)8月31日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。元々「乙女の像」は、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念かつ、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトでした。
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小品ながら、完成作としては光太郎最後の彫刻作品となりました。

何度も書いていますが「乙女の像」を「光太郎最後の作品」とする記述が、出版されている様々な書籍、ネット上の書き込みなどに溢れかえっていますが、違いますのでよろしくお願いいたします。SNS等でも十和田湖を訪れ、「乙女の像」の写真等アップされている方が時々いらっしゃり、実にありがたいのですが、そこで「高村光太郎最後の作品」と書かれていると、「ちげーよ!」というわけで「いいね」もつけられません。

光太郎の父・光雲作の木彫の特別ご開帳です。

後醍醐院法躰御木像 特別開帳

期 日 : 2025年6月~2026年1月までの日曜日・月曜日
会 場 : 鎌倉覚園寺 神奈川県鎌倉市二階堂421
時 間 : 13:30~
料 金 : 高校生以上2,000円 未就学児を含む子供1,500円
申 込 : 完全予約制 覚園寺HPより

後醍醐天皇御像髙村光雲作特別開帳をいたします。愛染明王さま修繕に伴う初の試みです。

このたび覚園寺 愛染明王像の赤色剥落が目立ちはじめた為、修繕することにいたしました。今回の工期はおよそ一年です。万全なおもどりを、どうぞご期待下さい。愛染堂の中央尊がお留守になる事態の対処を覚園寺役員で話し合い、愛染明王様の留守を護り、皆さまに安心と生きる喜びを感じていただきたいと願い、これまで大切に祈り護持してきた秘仏を開帳することにいたしました。今回開帳いたします尊像は、小さな像ですが、愛染明王さまと同様に金剛杵と金剛鈴をもち、中世の仏教文化にも深く寄与された 後醍醐天皇 御像 髙村光雲 作です。後醍醐天皇は、覚園寺文書巻頭に記されているとおり、覚園寺を勅願所「金剛宝殿」と名付け庇護なさいました。本堂 薬師堂を再建された足利尊氏公とも縁の深い天皇です。時代を拓き悩み戦った人物ゆかりの地 覚園寺で秘仏として大切に護持してきた意義にどうか思いを馳せてご参拝ください。
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観音像だけでも生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつきません。中には弟子がおおむね作り、仕上げを光雲が行って光雲の銘が入っているいわゆる工房作も多いのですが。

そこで、「ここにもあったのか」という例があとからあとから検索の網に引っかかります。過日、拝観してきた同じ神奈川県の大山寺さんの三面大黒天像などもそうでしたし、今回の覚園寺さんの後醍醐天皇像というのも、まったく存じませんでした。

さすがに秘仏(厳密には仏像ではありませんが)扱いで、フライヤーにはお厨子画像のみ。それがかえって「これはぜひ見てみたい」と思わせる効果絶大ですね。
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早速、拝観申し込みを致しました。皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ御上京来訪されたののにお構ひも出来ず、却て御散財をかけてすみませんでした、 先生におめにかかると山口部落の全貌が眼に見えて来てなつかしい限りでした、いただいた桃をたべながら思にふけりました、 あの日が暑い日の終らしく翌日から急に涼しくなり、しのぎよくなりました、岩手から涼風が来たやうです、

昭和28年(1953)8月26日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。出張か、あるいは夏休みということで上京し、光太郎に会いに来たようです。桃は浅沼が自宅で栽培していたものとのこと。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しておよそ10ヶ月、そろそろ太田村が懐かしく感じられるようになったようです。

現在、「春の特別展 実篤の肖像」を開催中の調布市武者小路実篤記念館につき、『東京新聞』さんが大きく取り上げました。光太郎にも触れて下さいました。特別展のレポートと言うよりは、館自体の紹介です。毎月第4木曜に掲載の、「首都圏の文学館を訪ね、作家や作品にゆかりのある場所を巡」る、「本を読もう、街に出よう」という連載です。

〈本を読もう、街に出よう〉 武者小路実篤 人間輝け ロマンチストの願い

 「君は君 我(われ)は我也(なり) されど仲よき」
 「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲く也」
 ひと昔前に旅館や食堂で、そんな言葉とカボチャや可憐(かれん)な花の挿絵が入った色紙をよく見かけた。今月、生誕140年を迎えた武者小路実篤だ。味のある文字と、身近な野菜や植物を題材にした素朴な画風は多くの人に親しまれてきた。
 作家として成功する逸材は幼少期に学業優秀であることが多いが、実篤は例外。しかも、作文と図画が苦手だった。ところが10代後半にロシアの文豪、トルストイに影響を受け、夏目漱石を愛読するようになり、「社会に影響力のある作家になろう」と決意した。
 絵を描きはじめたのは38歳と遅い。生まれたばかりの長女がかわいく、絵心のある妻が娘をサラサラと描く姿を見て「私も描こう」。スケッチや淡彩画、そして油絵も独学で身に付けた。子や孫に「やりたいことを見つけて、頑張って続けよう」と諭した。それを自ら心掛けていたのだろう。
 「理想的社会」と題した評論で、その柱を「長生き」「個性を発揮出来る」「喜びを感じて生きられる」とした。人権の尊重や愛、友情―と人間社会に理想を求めたロマンチストだったようだ。実篤が中心となって創刊した雑誌「白樺(しらかば)」を愛読した作家、芥川龍之介は彼を「道徳的天才」と呼んだ。詩人、高村光太郎は実篤作品に触れると「おのずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなってくる」と話していた。
 白樺が成功した実篤は「人間らしく生活できる理想郷」をつくろうとした。1918年、宮崎県木城村(現・木城町)に「新しき村」を開村。出自に関係なく平等に農耕し、芸術や演劇などの活動を通じて自由で文化的な共同体を目指した。自身も6年間暮らし、農作業の傍ら小説を書き、今も版を重ねるロングセラー「友情」を発表。実篤の経済的支援もあって最盛期に村民は50人を超えた。その後、ダム建設で水没することになり、1939年に埼玉県毛呂山町に新設された村に一部の村民が移転。村民は減ったが、今も理念は受け継がれている。
  その活動を、白樺の同人だった作家、有島武郎は「失敗にせよ成功にせよあなた方の企ては成功です。それが来るべき新しい時代の礎になる事に於(おい)ては同じです」と評価していた。
 実篤の人物像に触れるこんな逸話がある。1939年に発表した「愛と死」で将来を誓い合った2人の悲恋を描いた。同作に取り組んだのはその2年前に日中戦争が勃発し、徴兵されて戦死した多くの若者たちがいたからだ。戦時色が強まる中、実篤は「愛する人を失う人の気持ちを書こう」と机に向かい、気持ちが高ぶっては落涙した。涙の跡がある原稿が今も残っている。
  実篤は55年に現在の調布市若葉町に転居し、76年に90歳で亡くなった。邸宅と庭は同市に寄贈されて実篤公園となり、武者小路実篤記念館も建てられた。特別展「実篤の肖像」を開催している同館の学芸員、佐藤杏さんは「ワークライフバランスといった言葉がない時代に実篤は働き方改革を進め、人間性豊かな社会をつくろうとした。前向きに、正直に生きた実篤の作品や名言は、格差や貧困が問題となっている今こそ味わい深い」と話す。
 特別展は6月8日まで。原則月曜休館。敷地内の旧実篤邸は週末と祝日に公開。
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武者小路実篤 むしゃこうじ・さねあつ
 1885年、東京生まれ。華族の家系で2歳の時に父が結核で死去。学習院高等学科を卒業した1906年に東京帝国大哲学科入学。その後中退し、学習院時代の同級生、志賀直哉らと1910年に雑誌「白樺」を創刊。人間賛美を理想とする白樺派の中心人物に。51年、文化勲章受章。代表作に「お目でたき人」「真理先生」「一人の男」など。

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左:武者小路実篤 右:ロビーに展示されている実篤の手形のレリーフ
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自伝小説「一人の男」の自筆原稿も展示
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緑豊かな実篤公園にある武者小路実篤の銅像
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展示されている武者小路実篤の書画
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晩年を過ごした邸宅の隣接地にある武者小路実篤記念館

引用されている光太郎の武者評は、光太郎最晩年の昭和30年(1955)、雑誌『文芸』第12巻第12号に載った「埴輪の美と武者小路氏」の一節です。ちなみに『文芸』のこの号は、昨年、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「ハニワと土偶の近代」で、そのページを拡げて展示されました。
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埴輪の持つ素朴で原始的な美を「明るく、清らかで、単純で、惑うところのないこの美」と述べ、文芸の分野でも自らも同人に近い位置にいた白樺派が台頭した頃、「埴輪的性格がまだもどつて来た」とし、「武者さんが現われたからであり、武者さんは埴輪の美を、造型ではなく身につけたものとして我が国に現われたのである。我が国本来の姿が、ここに始めて立還つたと言つても過言ではなかつたのである」と続けています。その後、『東京新聞』さんに引用された箇所を含む次の一節。

 武者さんから沁み出るものを感取していると、人は自ずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなって来る。大きな考えでものを包み込んでしまうから、武者さんには小さないざこざが起らないのである。

その後も延々と武者を手放しで賞讃しています。

光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居中も、山小屋に武者の色紙を飾っていました。
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医は①
いずれの写真にも左上に写っています。

ついでというと何ですが、武者からの光太郎評も。

 高村光太郎君が日本に居てくれることは何となく嬉しい。滅多に逢はないし、作品も彫刻の方は暫く見ない。しかし高村君が居ることは何となく信頼が出来る感じだ。
 個人としてはこの頃少しも逢はない。訪問したい気はあるのだが、遠いのと、何かと用があつて、時間が足りないので、高村君の所までゆく閑がないが、しかしいくら逢はないでも、生きてゐてくれるだけで嬉しいのだ。珍らしい存在である。
(略)
 僕は高村君の木彫に一番愛着をもつてゐる。
(略)
 しかしそれ等以上に、人間が好きだと言つていゝと思ふ。要領を得ない感じがよく、何んでも言つて、わかつてもらへさうな気がする。実に気らくに本気な話の出来る人である。又常に夢みてゐる人で、その夢が実に面白い。

(「高村光太郎君に就て」 昭和16年=1941 雑誌『道統』第4巻第9号)

 高村君が当時の日本の彫刻界の事を実に痛快に罵倒した評論を読み、胸のすく思ひをしたのは事実で、あんな痛快な批評はなかつたと思つてゐます。荻原碌山だけは認めて居たと思ひますが。それが痛快すぎて、たうとう高村君は彫刻の方では芸術院会員になれなくなつたのではないかと僕は思つてゐるのですが、事実かどうかは知りません。何しろ痛快なものでした。
 白樺でロダン号を出す時、勿論高村君に原稿をたのみ、承諾を得ていゝ原稿をもらつて喜びました。
 当時僕はよく高村君のアトリエを訪問しました。高村君は作品を見せようと自分の方からはしない人なので、僕は勝手に許しを得てまいてある布をほどいて見たものです。それが僕の特権でもあるやうに思つて、言ひたい事を言つて、仕事を大いにするやうにすゝめたと思ひます。
(「白樺と高村君」 昭和31年=1956 雑誌『文芸』臨時増刊号『高村光太郎読本』)
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長期間にわたって頻繁に会っていたというわけではない二人ですが、お互いにお互いを信頼し、敬愛していたのがよく分かりますね。

そんなわけで、調布市武者小路実篤記念館さん、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おハガキいただきましたがやはり秋冷の頃までは覚束なく、まるでダメとお思ひください。今、暑さで閉口、とても出来さうもありません。

昭和28年(1953)7月28日 高藤武馬宛書簡より 光太郎71歳

高藤は雑誌『言語生活』主幹。その原稿依頼に対する断りの返信です。若い頃からの夏場は電池切れになる性向(笑)は、最晩年まで続いたようです。

信州安曇野の碌山美術館さんで開催されている「春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿」につき、報道が為されています。

『信濃毎日新聞』さんに折り込まれるフリーペーパー『MGプレス』さん。

安曇野・碌山美術館で「智恵子紙絵」展 6月22日まで

 安曇野市穂高の碌山美術館は6月22日まで、春季企画展「智恵子紙絵」を敷地内の杜(もり)江(え)館で開いている。碌山の友人で詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻・智恵子(1886~1938年)が制作した「紙絵」を3期に分けて展示。智恵子にまつわる光太郎の詩の原稿も並べている。
 洋画家だった智恵子は40代で精神を病み、後年入院した病室で、光太郎が持参した千代紙や色紙(いろがみ)をマニュキアばさみで切り抜いて別の紙に貼る「紙絵」を熱心に制作。対象は花や食膳の皿の中身などで、その数は千数百点に及んだという。
 今回は個人所有の20点ほどを借りて展示。現物は経年劣化で退色が見られるため、身内が撮影した写真も添えた。撮影年は作品によって違うが、どれも現物より色がはっきりしている。
 学芸員の武井敏さんは「智恵子の紙絵は小作品なのに存在感がある。海外でも評価されるのではと思うが、残念ながら年を追うごとに退色していく。この機会に見てほしい」。
 現在は2期目の展示で「器に魚」「シクラメン」など。6月初めからは「アジサイ」他を飾る。
光太郎の原稿は、詩集「智恵子抄」に収録された「あどけない話」や「レモン哀歌」の他、碌山の死を悼んで書いた詩「荻原守衛」などが並ぶ。
 午前9時~午後5時10分。一般900円、高校生300円、小中学生150円。同館TEL0263・82・2094
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智恵子の紙絵は元々が折り紙用のものや包装紙、さらには上記の画像に写っている「蟹」などは台紙が封筒だったりと、ちゃんとした紙が使われていないものも多く含まれています。そのため、ものによっては褪色が激しいものも。そこで入れ替えながらの展示となっています。

来月から展示されるという「アジサイ」も。今回のフライヤーにもメインで使われ、一昨年にやはり碌山美術館さんで開催された「生誕140周年高村光太郎展」でも展示されましたが、かなり色あせてしまっていました。
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ちなみにこの「アジサイ」、兵庫県の神戸文化ホールさん(昭和48年=1973竣工)外壁の巨大壁画の原画となったものです。紫陽花は神戸市の「市花」だそうで、同ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生で、そこから人脈をたどって実現しました。
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同ホール、老朽化のため令和10年(2028)に現在の大倉山地区から三の宮地区に移転されるそうですが、この壁画は何とか残して欲しいものです。

さて、碌山美術館さんでの「智恵子紙絵」展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

 檜材、とても見事なものおとどけ下さつて感謝してゐます。檜の膚の香りプンプンする大作をモニユマン製作後に張切つてやりたいと念願したくなりました。
昭和28年(1953)6月 西倉保太郎宛書簡より 光太郎71歳

「モニユマン」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

詩人の西倉が、友人の材木商・浅野直也から光太郎への贈り物だった檜材を届けてくれたことに対する礼状の一節です。ただ、結局はこの木材を使っての彫刻は出来ずに終わったようです。もはやそんな余力は残っていなかったようで……。

一昨日、六本木の国立新美術館さんでの第120回記念 2025年太平洋展拝観後、品川に足を向けました。次なる目的地は品川駅近くのキヤノン S タワー内にあるキヤノンオープンギャラリー。こちらで「東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展 Re Flowers」が開催中です。
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髙村達氏は、長男でありながら家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光雲三男にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周令孫の写真家です。お父さまの故・規氏も写真家でした。

ここで写真展詳細情報を。

東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展「Re Flowers」

期 日 : 2025年5月20日(火)~6月23日(月)
会 場 : キャノンオープンギャラリー1 港区港南2-16-6 キヤノン S タワー2F
時 間 : 10時~17時30分
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

 本展は写真家 髙村達氏による写真展で21点の作品を展示します。東京写真月間実行委員会が主催する「東京写真月間2025」の国内企画展の一環で、「写真の力で伝えよう 未来に希望を」をキャッチフレーズにSDGsを意識した写真展のシリーズVol.4として開催します。
 なお、本年の国内企画展は「写真で伝えようSDGs」を継続テーマとして、日頃写真を通して様々なアプローチでSDGsを表現している7名の出展者が選出され、都内6会場で写真展を開催します。展示作品は日本写真協会会員を対象にした公募形式で作品を募集しました。いずれも多面的な視点で「SDGs」についての取り組みが表現された写真展です。
 本会場の作品はすべてキヤノンの大判プリンター「imagePROGRAF」を使用してプリントし、展示します。

作家メッセージ
 高精細な表現と長期保存のプリント作品を意識するようになり風景写真と同じくマクロ撮影に興味を持ち、自然の中の緻密な植物の模様や表情をスタジオで撮影した。植物のディテールが撮影できた時、植物に対する興味が深まり散歩をしながら落ち葉やお花など植物を拾いノートに挟んだ。背景も金属の板に模様を描いては削り外で雨や風にさらして錆を繰り返して作りライティングをして僅かな陰影を活かし撮影をしました。今回の「Re Flowers」押し花は自然の中のお裾分けの一部であり今後も撮り続けていきたいテーマです。
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達氏が副会長を務められている日本写真家協会さんとしての「国内企画展 SDGsシリーズvol.4 写真の力で伝えよう SDGs」の一環という位置づけだそうです。

さて、レポートを。
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入口から入ると、基本的に会場内は暗く、黒い壁をバックにして各作品にスポットが当てられているという構成。藤城清治氏の影絵のような。と言っても真っ暗というわけではありません。こういうやり方もありなんだな、と思いました。
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来場の方に開設されている達氏。この後、当方も詳しく説明を拝聴しました。

基本、風雨に晒して錆びさせた鉄板をバックにし、散ったり朽ちかけたりした葉や花弁などを置いて撮影されているそうです。ものによって拡大率等が異なるようですが、マクロ撮影が中心ですね。そのデータをキャノンさんのプリンタを使って、漆喰をシート状に加工した特殊なインクジェット紙にプリントアウトする「フレスコジクレー」という技法です。それによって顔料が漆喰に浸透して耐久性が増し、褪色が防げるとのこと。中世ヨーロッパのフレスコ画に近いやり方ですね。
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参観された方から「智恵子の紙絵に似ていますね」という声が寄せられたそうです。なるほど、と思いました。

和紙にプリントされた作品も。
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実際に上記の方法で制作された作品そのものも1葉、いただいて参りました。ハガキ大の小さなものですが。
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もはや一般的な「写真」という概念には収まらない感じですね。絵画や彫刻などの世界でも、新しい素材が開発されたり従来見られなかった手法が取り入れられたりと日進月歩ですが、写真の分野でもそうなのだと思いました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間の絹地の小さい方に「わが山に」のうたを書きました、小包にするのが厄介なので中西さんの奥さまに托しました いつでもお渡し出来ます、


昭和28年(1953)7月29日 奥平英雄宛書簡より 光太郎71歳

奥平英雄は戦時中から交流のあった美術史家。この頃、東京国立博物館に勤務していました。

書もよくした光太郎、奥平には書画帖『有機無機帖』をはじめ、多くの書を進呈しています。「わが山に」は短歌。複数の揮毫例があり、「わが山に」ではなく「吾(われ)山に」となっているものが多く存在します。
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上記は奥平に贈られた物ではありません。「吾山に 流れてやまぬ 山みづの やみがたくして 道はゆくなり」と読みます。

また、「道はゆくなり」が「この道はゆく」、「あしき詩を書く」などとなっている異稿も存在します。

昨日は上京し、都内をふらふらしておりました。今日明日と、2日に分けてレポートいたします。

まず向かったのは六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、明治末から大正初めにかけて智恵子が所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの「第120回記念 2025年太平洋展」が開催されています。
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智恵子が加入していた太平洋画会は、前身の明治美術会が明治22年(1889)の創設で、明治35年(1902)に太平洋画会と改称、第1回展が開かれました。そして120年前の明治38年(1905)に谷中清水町から谷中真島町に移り、本格的に活動開始だそうです。その年からまだ日本女子大学校在学中だった智恵子が同会に通い始め、正式に加入したのは同校を卒業した明治40年(1907)と推定されています。いずれも日本女子大学校で美術を教えていた松井昇の手引きと思われます。
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今回が第120回記念展ということで、そのあたりの歴史に関する展示が為されており、その拝見が大きな目的でした。
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幟(のぼり)や看板なども。さらに光太郎と交流の深かった石井柏亭の名も。
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ただ、谷中真島町も戦時中の空襲でやられ、現在の西日暮里に移転したためでしょう、戦前の資料などはあまり遺っていないようでした。以前に一度お邪魔して、智恵子の名の載った(「千恵子」と誤記されていましたが)名簿などを見せていただきましたが。

智恵子は明治45年(1912)の第10回展に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。
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ちなみに隣に名のある池田永治は、駒込林町の光太郎アトリエ兼住宅の近くに住み、昭和20年(1945)5月14日(光太郎が花巻に疎開のため出発する前日)、その時着ていたチョッキに光太郎の揮毫を貰った人物です。
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智恵子や池田に直接関わる展示物は見あたりませんでしたが。

その後、通常の入選作等の拝見。

「先輩」智恵子の顕彰を様々な方面から行われている坂本富江氏。「会員秀作賞」だそうで、素晴らしい。
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能登の桜だそうで、「ほおお」という感じでした。

それから、以前にお邪魔した際お世話になった、同会事務局のお仕事もなさり、同会のX(旧ツイッター)アカウントの「中の人」・松本昌和氏。こちらは「記念賞」とのこと。
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西日暮里にある現在の同会研究所の向かいに鎮座まします諏方神社さんが描かれています。

たまたまでしょうが、彫刻の部では「道程」と題された作も。
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その他、染織や版画の作品も。

東京展は5月26日(月)まで、その後、福岡、大阪、名古屋に巡回だそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は老人医学の大家である尼子博士に身体検査をしてもらひ、肋間神経痛の治療にかかりました。二三日うちにレントゲン検査をしてもらふことになつてゐます。中々山口に帰れないので困ります。


昭和28年(1953)6月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は帰るつもりで、ほとんどの家財道具や住民票は残したままでした。

尼子博士」は尼子富士郎。現在の浴風会病院さんの前身である浴風園の医長(のち、院長)でした。かつては駒込千駄木町に住み、その父・四郎は夏目漱石と交流があって、『吾輩は猫である』に「甘木先生」として登場します。富士郎も漱石に中学受験の際に英語の家庭教師をして貰いました。

結局、富士郎の診断は「重度の肺結核」。光太郎の余命、あと2年半余りです。

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