今日、5月20日は智恵子139回目の誕生日です。

その智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山では、一昨日、第71回山開きが行われました。

地元紙『福島民報』さん。

残雪を踏み、山頂目指す 福島県の安達太良山で山開き

 日本百名山の安達太良山(1700メートル)は18日、山開きした。約2100人の登山者は例年よりも豊富な残雪を踏みしめ、山頂を目指した。
 福島市の会社員佐藤泰則さん(55)は妻と登った。「雪が多く残り、普段と違う山の表情を見ることができて得した気分だ」と笑顔を見せた。
 安全祈願祭は、福島県二本松市のあだたら高原スキー場ランデブーで行われた。安達太良連盟会長の三保恵一市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさんらがシーズン中の無事故を願った。
 山頂付近は強風が吹き、予定していた「ほんとの空大声コンテスト」は中止となった。
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今年、初の試みとして行われるはずだった「ほんとの空大声コンテスト」は、残念ながら山頂付近の強風により中止されたとのこと。テレビユー福島さんのローカルニュース動画で山頂付近の映像等も見ましたが、これでは確かに無理だったかな、という感じでした。

そのローカルニュース。

4年連続“登られた山”東北ナンバーワン「安達太良山」で山開き

本格的な夏山シーズンを前に、福島県の安達太良山では山開きが行われ、大勢の登山客が山頂を目指しました。
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18日に山開きが行われた安達太良山。スキー場で行われた登山客の安全を祈る神事では、二本松市の三保恵一市長などが玉串を捧げるとともに、安達太良山観光大使のなすびさんが、「世界に誇れる山として、たくさんの方に来てもらえるよう盛り上げたい」と挨拶しました。
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登山のスタートとなる安達太良奥岳登山口には、朝からおよそ2100人の登山客が訪れました。
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強風でロープウェイが一時運転を見合わせ、予定より1時間ほど遅れて登山口に到着した登山客は、早速、それぞれのペースで山を登りはじめ、残雪や自然を楽しみながら山頂を目指しました。
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郡山市から来た親子「楽しい。風が本当に強くてあおられるなという感じがありました」
二本松市から来た親子「山頂まで行きたい」
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しかし、多くの登山客が山頂の一歩手前で引き返すことに。
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ストックなどを使って頂上までたどり着いた人は…。
本宮市から来た夫婦「今年は雪が多いですね、いつもよりも。今回が一番大変だったような気もする。すごく風は吹いていたが、山頂は最高です」
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東京から来た人「雪がきれいで、山頂はあまり景色が見られなかったが、良い経験になりました。また良い天気の時に登りに来たいと思う」
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また、山頂で予定していたイベントは、強風のため中止となりました。二本松市では今年、去年とほぼ同じ10万人の入山者を見込んでいます。
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その安達太良山、実はとても人気の山なんです。

■4年連続“東北ナンバーワン”

 登山情報などを提供する「YAMAP(ヤマップ)」というアプリやウェブサイトの利用者を対象に集計した2024年登られた山ランキングで、なんと安達太良山が、東北エリアで第1位となりました。安達太良山は、このサイトで4年連続第1位ということです。他にも、県内からは一切経山と磐梯山も4年連続でランクインしています。
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YAMAPによりますと、安達太良山はロープウェイがあるので気軽に登ることができること、また、秋の紅葉がきれいなこと。色づいた木々を楽しみたいと、登山者のおよそ3割が10月に登っているそうです。さらに、近くに温泉があること。登山の後にふもとの岳温泉などに入ることができるのも人気の理由だということです。
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強風などのため、かなりの方が山頂の一歩手前で登頂を断念して引き返したとのこと。「山頂の一歩手前……ああ、あそこか」と思いあたりました。令和元年(2019)の山開きの際、当方も山頂まで登りまして、山頂手前に難所があったのを思い出しました。その年は残雪はほとんど無かったのですが、一ヶ所だけけっこうきつい斜面が広範囲でアイスバーンになっていて、滑落の危険がありました。今年は更に残雪が多かったようで、ストックなどが無ければ確かに無理だったでしょう。

実は今年の山開きに参加するつもりもあったのですが、つい先日も二本松に行ったばかりですし、今週も他の場所にいろいろ行く予定もあり、パスしました。それで正解だったかな、という感じです。

おまけの部分、安達太良山が昨年の「登られた山」ランキング、東北エリアで第1位、それも4年連続ということで、非常に喜ばしく感じました。式典での安達太良山観光大使のなすびさんによる「世界に誇れる山として、たくさんの方に来てもらえるよう盛り上げたい」とのご発言どおり、さらにたくさんの方に「ほんとの空」を体感していただきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

配偶者に死なれるほど不幸なことはないと思ふので、大に同情しますが、今日の世の中では、戦争未亡人などが子供をかかへて勇敢に生活と闘つてゐる実状ですから、気を落さないで賢明に進んで下さい。

昭和28年(1953)6月8日 宮崎春子宛書簡より 光太郎71歳

春子は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取りました。戦後になって光太郎が出雲の神となって詩人の宮崎稔と結婚、しかし、その宮崎が胃潰瘍で没し、それに関わる書簡です。

春子にしてみれば、実際に配偶者を亡くし、それでもがんばり続けている義理の伯父の言ですので、他の誰のそれよりも心に染みたのではないでしょうか。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みを2件。ともに記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたりしています。

まず先月末の4月30日(水)、花巻市東和地区の「ワンデイシェフの大食堂」さんでの「こうたろうカフェ」。日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。やつかの森さんも月に一度出店されています。
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メインディッシュが「ミートローフ&ポテトサラダ」。
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サイドメニューで「ほうれん草のわさび醤油和え」「卵焼き」「ひろっこのチヂミ」。
ほうれん草わさび醤油和え、卵焼き、ヒロッコのチヂミ
「ひろっこ」は葱の仲間の「アサツキ」という野菜の新芽だそうで。香ばしそうですね。

同じく「すき昆布煮」、「キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬」。
キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬
さらにご飯と「アスパラスープ」が付いて、デザート的に「黒豆ゼリーの胡桃かけ」とコーヒー。
黒豆ゼリー胡桃かけ
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これで1,000円ですから、もうけはほとんど無いのでは、と思われます。都心などでは考えられませんね。

今月も月末で、5月30日(金)に出店なさるそうです。その際のメニューは……
 ・鶏ももスティック天  ・山菜盛り合わせ
 ・葉わさびやっこ    ・新玉ねぎのシーフードサラダ
 ・キャロットラペ    ・お漬物
 ・筍ご飯        ・トマトスープ
 ・ヨモギ餅       ・珈琲
と、予告されています。

同じくやつかの森さんがメニュー考案に当たられている、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されているテイクアウトの豪華弁当・光太郎ランチ

今月分がこちら。
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こちらのメニューは「サバの塩焼き」、「豚肉の春キャベツ炒め」、「わらびのおひたし」、「山菜の酢味噌かけ」、「卵焼き」、「筍ご飯」、「古代米入りご飯」、「うぐいす餅」。季節的に山菜系が旬を迎え、非常にヘルシーな感じですね。「うぐいす餅」は別腹でしょうか(笑)。

「食」を通して偉人の実像に迫るのも、一つのアプローチ。両取り組み、今後とも人気を博すことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

山口は今頃さぞよいだらうと想像してゐます、東京では八百屋の青物がふるくてまづいです。とり立てのニラをくふ事も出来ません。


昭和28年(1953)5月17日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、光太郎が前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。

終戦直後の混乱は解消されたものの、まだまだ流通の事情はよくなかったはずで、都内では新鮮な野菜など、なかなか手に入らなかったようです。

昭和20年(1945)5月15日、前月の城北空襲で本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、宮沢賢治の実家や賢治の主治医であった佐藤隆房医師等の勧めで、岩手花巻に疎開のため、上野駅を発ちました(到着は翌日)。この日を記念して、光太郎三回忌に当たる昭和33年(1958)から、光太郎が7年間の蟄居生活を送った郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されるようになりました。

当初は光太郎と直接交流のあった人々による回顧談的な講演、地元の山口小学校の児童による光太郎から贈られた楽器を使用しての音楽演奏などが行われていました。徐々に生前の光太郎を知る人が減り、講演は大学教授や渡辺えりさん、当方など、直接的には光太郎を知らない人が担当することが多くなりましたが、それでもとびとびながら、光太郎と面識のあった方々がお話しされることもありました。末盛千枝子氏、藤原冨男氏、旧太田村の皆さんなど。また、楽器は新しいものになってしまいましたし、山口小学校も統合されてしまいましたが、統合先の太田小学校の児童の皆さんをはじめ、中高生、看護専門学校生の生徒さんたちも、音楽演奏や朗読、郷土芸能などで出演されていました。

その高村祭、令和元年(2019)の第62回をもって終了となってしまいました。翌年からはコロナ禍もありましたし、それが沈静化しても、以前の形での開催はもはや難しい、との判断だったようです。

しかし、地元では復活を望む声が強く、実際、当方がパネラーなどを務めた別のイベントで質疑応答の時間にそういう要望が出されたこともあったりしました。

そこで昨年から、「高村祭」とは銘打たないものの、やはり5月15日に「花巻 光太郎を知る会」さんという有志の市民団体の主催で、山荘敷地内の光太郎詩碑前で光太郎詩の朗読を行うというイベントが行われています。今年も開催したそうです。

ちなみに同会代表の阿部彌之氏の父君は、宮沢賢治の教え子にして、花巻に林檎栽培を広め、光太郎とも深く交流のあった故・阿部博氏です。
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「高村祭」時代には花巻市さんの共催だったので、小中校生・看護専門学校生などが大挙して参加、そうすると保護者の皆さんも我が子の晴れ舞台を見ようと集まり、大勢の方々で賑わいました。それが無い分、こぢんまりとした集いですが、「高村祭」の精神を受け継ぐという意味では、有意義なものだと思います。たまたま訪れていた観光客のご夫婦なども見守られていたそうです。

泉下の光太郎も照れくさそうにしつつも喜んでいたのではないでしょうか。ちなみにこの詩碑の地下には、当会顧問であらせられた北川太一先生が保管なさっていた、光太郎が歿した時に剃った髭(ひげ)が、第一回高村祭に合わせて行われた詩碑の建立の際、分骨のように遺髯として埋納されています。

ただ、精神を受け継ぐというだけでなく、やはり「高村祭」の名称の復活が望まれるところですが……。

【折々のことば・光太郎】

早速木炭十俵安着、感謝します、ちかく為替をお送りしますが、とりあへず到着のおしらせまで、

昭和28年(1953)5月12日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

昨日も書きましたが、駿河は光太郎に山小屋の土地を提供してくれた村の長老でした。
駿河
元々太田村は炭焼きが主産業の一つで、良質な炭が生産されていました。村にいた頃、当たり前のように使っていた炭が、上京して改めていいものだったと再確認し、取り寄せたわけです。

中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

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アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
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問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】002

山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

昭和28年(1953)5月6日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

光太郎の父・光雲の木彫が展示されています。

芸術家の目を通した生きものたち

期 日 : 2025年4月25日(金)~8月19日(火)
会 場 : 東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜・木曜 5月31日(土)……貸し切り
料 金 : 大人 1,000円(800円)ペア 1,800円  高・大学生 800円(600円)
      小・中学生 500円(400円)  ( )内団体料金

新緑のあふれる季節。東石美術館ではさまざまな動植物が生き生きと表現された美しい作品を展示いたします。芸術家たちが、何を感じ、どのような想いを込めてこの作品を生み出したのか。 それぞれの作品に込められた物語を想像しながら、生命の多様性とその美しさを感じてください。今回は日本(日本画、洋画、彫刻、彫金)、中国(陶磁器)・中近東(ペルシア陶器)など、各国で創られた多彩な銘品をお楽しみいただけます。
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光雲の作品は「牧童」(大正9年=1920)。
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同館の所蔵品で、これまでも繰り返し出品されてきたものです。旧・佐野東石美術館時代に一度拝見して参りましたが、まさに超絶技巧の優品でした。

「旧・佐野東石美術館時代」と書いたのは、昨年、リニューアルされて「東石美術館」と改称が為されたためです。美術館以外にレンタルスペース、広大な庭園などを兼ね備えた複合施設「東石スカイテラス」として整備されました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔君の死はまことにやむを得なかつたやうに思へます、長い間の胃酸過多症のところへ無茶な酒びたりでしたから胃潰瘍は当然だつたでせう、宮崎君は一種の性格破綻者でしたが魂の純粋さだけは持つてゐたやうです、

昭和28年(1953)5月6日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った長沼春子と結婚した宮崎稔が亡くなりました。茨城の素封家だった父・仁十郎ともども、光太郎とは戦前から交流がありました。詩も書いていましたが、その方面ではものにならなかったようです。

光太郎を支える部分も多々あったものの、逆に足を引っ張ることも多く、そのあたりを踏まえて当会顧問であらせられた北川太一先生は、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、この年の項に「何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血のすえ四十三歳で没した」と書きました。

一昨日、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで特別御開帳が為されている、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像を拝観後、帰途に立ち寄りました。
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調布市制施行70周年・実篤記念館開館40周年・武者小路実篤生誕140年記念春の特別展「実篤の肖像」

期 日 : 2025年4月26日(土)~6月8日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200円 小・中学生100円

 武者小路実篤は、今年2025年5月12日に生誕140年を迎えます。東京で生まれ育った実篤は、学生時代を過ごした学習院で多くの友人と出会い、24歳で雑誌『白樺』を創刊して歩み出した文学の道、33歳の時に始めた新しき村の活動、40歳を前に本格的に取り組み始めた書画の制作など、多岐にわたる活動の中で多くの人と交流を重ねました。
 岸田劉生や堅山南風ら日本近代美術を代表する画家が実篤をモデルに絵画を描き、文壇では白樺同人をはじめ、佐藤春夫や久米正雄らが実篤の人柄や文学作品ににじみでる人間性に言及しています。
 本展覧会では同時代の文学者が著した印象や人物像、芸術家が絵画や彫刻で表現した肖像、田沼武能や林忠彦、坂本万七、吉田純ら写真家が撮影したポートレイト、妻や娘から見た父・実篤の姿など、さまざまな「実篤の肖像」をとおして「武者小路実篤」という人物を今一度とらえ直す機会とします。
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絵画も嗜んだ実篤自身の自画像や、交流のあった画家・彫刻家や写真家の手になる実篤像、それから文章で描かれた実篤像(原稿や書籍類、さらに揮毫された書)などの展示です。

それらをただ並べるのではなく、光太郎を含む様々な人物の実篤評を一言ずつ小さなパネルで添えています。それがフライヤーの表に印刷されているこの部分。光太郎の一言も。
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曰く「前額と後頭と眼とはすばらしい」。出典は「人の首」というエッセイで、初出は昭和2年(1927)1月の雑誌『不同調』です。全体としては、彫刻家として「人の首」に異様なまでの興味関心を持たざるを得ない、的な内容で、彫刻家・光太郎の内面がよく表されているため、光太郎の没後に刊行された選集的な書籍の多くに再録されています。

いきなりその書き出しが「私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでゐるからである」。思わず「獄門晒し首かよ」と突っ込みたくなりますが、それが光太郎の狙いかもしれません。ぐいぐい引きこまれます(笑)。
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少し後の方では「人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる」。確かにサムネイル的な小さい肖像写真でも、その人の人となりがだだ漏れになっているなと感じるものがありますね。

その後は首、というか顔や頭、うなじなどの各パーツがこうで……というやはり彫刻家のミクロ的視点で見た話、さらに人の顔の持つ先天的な美と後天的な美、といった話など。そして終盤近くで、さまざまな味のある顔立ちの人々を列挙。その中で、「武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」。

他に好意的に上げられている人物は、海外だとドストエフスキー、ロマン・ロラン、ポー、ヴェルレーヌ、レーニンら。国内では武者以外に千家元麿、室生犀星、野口米次郎、佐藤春夫、市川團十郎、高橋是清、濱口雄幸など。かなり主観的な見方で、決めつけが激しいと思えるところもありますが。

前額と後頭と眼とはすばらしい」が印字されたプレートは、光太郎とも親しかったバーナード・リーチのエッチングによる実篤像に添えられていました。
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直接光太郎に関わる展示はこちらと、『白樺』10周年の記念で撮られた集合写真くらいでしたが、フライヤーに光太郎の名があり、さらに招待券も頂いてしまっていたので、足を運んだ次第です。その上、参上したところ、図録も頂戴してしまいました。恐縮です。

武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」と書いた光太郎、武者を彫刻のモデルに、とひそかに狙っていました。武者と同じ白樺派の中心にいた志賀直哉も。

 私はかねてから、武者小路さんの顔はブロンズで、志賀さんは木彫で、それぞれ彫塑してみたいと秘かに思つていたものである。しかし、いざモデルとなつていただいても、武者小路さんはじつとはぜず絶えず動いておられるだろうし、志賀さんはあのピリピリした神経が顔の皮膚の外に出ていてお願いするのがなんだか悪い気がし、未だに望みを達することが出来ないでいるのである。
(「志賀さんの顔」 『文芸』第12巻第17号 昭和30年=1955 12月

光太郎は、同じ『文芸』の少し前の号(第12巻第12号 昭和30年=1955 8月)には、「埴輪の美と武者小路氏」という談話筆記もよせ、武者の人間性を賞讃しています。また、『不同調』の第2巻第4号(大正15年4月)にはずばり「武者小路実篤氏」という短評も。

 日本に珍らしい根本的なものを持つてゐる武者小路実篤氏の人と芸術とは、詩に於ける千家元麿氏と同様、全然他の人とは違ふと思ひます。時代が過ぎて見れば殆ど問題にならない程、此は明瞭になると思ひます。
 さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。


人としての武者を尊敬していたというのがよく分かりますね。ちなみに光太郎の方が2歳年上なのですが、そんなことは関係なかったのでしょう。

美術を愛した武者の方でも、自らが立ち上げた「大調和展」に光太郎の出品を仰ぎ、『白樺』や『大調和』、『心』などで光太郎の寄稿を取り付けています。そして昭和31年(1956)に光太郎が歿すると、その葬儀委員長の大役も果たしてくれました。
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左で立っているのが当会の祖・草野心平。その右、マイクスタンドで一部隠れていますが、武者が座っています。その右隣は尾崎喜八ですね。

さて、「実篤の肖像」展、6月8日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】a4ba5f65

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、


昭和28年(1953)4月10日 
岩淵徹太郎宛書簡より 光太郎71歳

岩淵徹太郎は中央公論社の編集者。「選集六冊」は同社より昭和26年(1951)から刊行が続き、この年1月に完結した『高村光太郎選集』全6巻。おそらく6冊セットを誰かに贈るため、光太郎自身が注文したのだと思われます。しかし岩渕の方では「お代は結構です」ということだったのでしょう。

ちなみにこのハガキ、当方手持ちのものです。光太郎書簡は手許に数十通ありますが、中野のアトリエからの発信はこれだけです。

昨日は神奈川県と都内をうろうろしておりました。

まずは神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像の特別御開帳が行われています。
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元々の予定では、4月22日(火)の信州安曇野碌山美術館さんでの「第115回碌山忌」に参列後、途中で仮眠し、翌日に中央道から圏央道、さらに東名、新東名と進んで大山寺さんに参拝するつもりでしたが、安曇野で愛車のナビが故障、その際には断念しまして、リベンジです。

昨日は公共交通機関を使って行って参りました。新宿から小田急線で伊勢原駅まで。そこから路線バスで大山ケーブル駅バス停。
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あちこちにポスターが。いやが上にも期待が高まります。しかし、バス停からケーブルカーの駅までがけっこうきつい上りで約15分。
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平日にもかかわらず、ほぼ満員でした。ほとんどの方は終点まで行き、さらに大山自体に登るトレッキングが目的という感じでしたが。当方は途中の大山寺駅で下車。新緑の参道を歩きました。
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駅からは5分ほどで到着。
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右上画像に「五月十八日」とあるのは、その日に開山1270年の記念法会が行われるためです。

さっそく拝観料400円也をお納めして、内陣へ。問題の三面大黒天像、撮影禁止とのことで画像が出せませんが、700円也でいただいた御朱印に描かれていました。
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持物(じぶつ)や衣の紋様など、細部はかなり実物と異なるのですが、まぁ、こんな感じです。

同じ光雲作の三面大黒天像は、信州善光寺さんの仁王門にも納められていまして、持物やポージング等は同じでした。ただ、いろいろ違いもあって興味深く拝見しました。

まず、サイズ。信州善光寺さんの方は七尺五寸とかなりの大きさですが、こちらはおそらくその3分の1と思われます。なぜに3分の1かというと、信州善光寺さんの方も雛形がそのサイズで、そこから星取り法で3倍に拡大、寄木造りで作られているためです。

それから信州善光寺さんの方は、本体、雛形とも彩色が施されていますが、こちらは白木造り。てっきりこちらも彩色仏と予想していましたが、これは外れました。

さらにお顔の感じもかなり異なっていました。信州善光寺さんの方は荒ぶる神である三面大黒天の属性が生かされ、強面(こわもて)の感じですが、こちらは全体にふっくらしたお顔立ちで、どちらかというと通常の大黒天像に近いと思いました。信州善光寺さんの方は、二尊の金剛力士と三宝荒神と共に門を守る役割ですから、邪悪な者を通さないようにということでいかついお顔をなさっているのでしょうし、こちらはそうした役割ではないので柔和なお顔なのかなと思いました。

ちなみに三面大黒天、両サイドのお顔は向かって左が毘沙門天、右が弁財天のお顔です。なぜそのようなお姿かというと、今回の特別御開帳に合わせてアップされた大山寺さんのフェイスブック記事に動画で紹介されていました。
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いろいろ笑えますが、おおむねそういうことで(笑)。

参拝を終えて、帰途に。往路では背後でしたし、気が急いていたので気づきませんでしたが、ケーブルカーの大山寺駅附近から相模湾が遠望できました。
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特別ご開帳は6月1日(日)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日九尺―四尺―六尺の台の模型を四分一に造つてもらつて雛形像をのせてみました。堂々たる台のブロツクに彫像の方が少々負けるやうな感じがします。最後の決定前に一度ごらんを願ひます。

昭和28年(1953)4月3日 谷口吉郎宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。谷口は像を含む現地の設置場所一帯の公園を設計した建築家です。「九尺―四尺―六尺の台」は像の台座で、これも谷口が担当しました。このあたりのバランスも光太郎と谷口、知恵を出し合って考えていたようです。

ちなみに台座に使われてたのは岩手産の折壁石です。翌年の除幕の頃は正しく「岩手産」と報道されていましたが、のちに谷口が「福島産」とあちこちに書いてしまい、それが元で「福島産」と誤って紹介されるのが定着してしまいました。
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それぞれ少し前のものですが、3件。

まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。

 <新・北のうた暦>4月4日007

 光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重

 高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子


光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。

同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。

読売俳壇 矢島渚男選008

 光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江

【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。


昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。

選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。

取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。

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彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)

『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
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ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、


昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。

光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのライブ。ここ数年島根の方を拠点にされてミュージカル等に携わられることが多かったのですが、先月に続き都内で「智恵子抄」をメインに演(や)られるそうで。

BOOK CAFÉ LIVE vol2モモの智恵子抄

期 日 : 2025年5月19日(月)
会 場 : 府中の森芸術劇場分館 東京都府中市宮町1-100 武蔵府中ル・シーニュ地下2階
時 間 : 19:15~20:45
料 金 : 3,500円

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

モモの智恵子抄 春抄 逢いたい時にあうから〜別居結婚 入籍しないの〜 光太郎さんは 智恵子さんに逢えると大喜び〜 違った智恵子さんの姿をお伝えします だって 青鞜の表紙を描き 田村俊子さん 与謝野晶子さん らいてうさんと交流し 自転車を乗り回し グロキシニアの花を抱え やはり 女の最先端でした 今回のブックカフェライブ   モノドラマでおつたえします 19日 いらしてね!!
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もう20年以上のつきあいとなり、都内をはじめ、智恵子のふるさと・福島二本松、光太郎第二の故郷・花巻、当会の祖・草野心平所縁の福島県川内村、モモさんの拠点・島根などで十数回、ステージ等を拝見・拝聴しています。宇宙飛行士の山崎直子さんとのコラボなどもありました。

時々伴奏を担当されるギターのたしま氏とも長い関わりとなりました。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

自分でも忘れてゐるうちに今年は東京でいつの間にか誕生日をむかへるやうになりましたが、今朝は美しい花やおめでたいお菓子やお茶など届けて下され、仕事のあとでたのしくおうけとりいたしました、今日は十三日の金曜日といふ日ですが、まず静かに仕事してゐました、


昭和28年(1953)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

元日に数え71歳となった光太郎、この日は満70歳の誕生日でした。

イスカリオテのユダを含め、「最後の晩餐」に集まったイエスの弟子が13人、その後、イエスが磔刑に処されたのが金曜日と信じられ、「十三日の金曜日」は不吉とされていますが、この頃の日本でもすでにそういう迷信があったのですね。

智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の山開きが行われます。

第71回安達太良山山開き この景色は登った人だけのご褒美だ。

期 日 : 2025年5月18日(日)

奥岳登山口(あだたら高原スキー場)でのイベント
 ①安全祈願祭【午前8時~】
  1年間の安達太良山登山の無事を参加者で祈願します。
  (荒天時はランデブー内で実施します)
 ②あだたらマルシェ【午前9時~】
  山に登らない方も楽しめる屋台などがいっぱい!

山頂でのイベント
 ➀ペナント配布【午前9時30分~】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ②ほんとの空大声コンテスト【午前11時~】
  山頂で募集します。テーマに沿った内容で大声を出してもらいます。
  男性部門の大賞、女性部門の大賞を決定します。(定員20名)
  大賞には豪華景品をご用意しております。また、参加された方へも参加賞がございます。
【協賛団体】
  一般社団法人岳温泉観光協会、福島民報社、福島民友新聞社、にほんまつDMO、
  二本松市観光連盟

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毎年ではありませんが、サブタイトルというか、キャッチコピーというかに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さることが多数。最近ですと故・湯浅譲二氏作曲の二本松市民の歌の一節「ほんとの空がここにある。」が使われたのが平成28年(2016)、平成29年(2017)、令和4年(2022)、令和5年(2023)。平成30年(2018)は「花がさき 鳥がなき 風かおる ほんとうの空。」。令和元年(2019)で「ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸。」、そして昨年には「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。

ところが今年は「この景色は登った人だけのご褒美だ。」と、「ほんとの空」の語が使われませんでした。まぁ、令和2年(2022)が「安達太良山で二本松ブルーとめぐり逢う。」でしたので、前例がありますし、先述の通り翌年には「ほんとの空」が復活しましたが。

その代わり、というわけでもないのでしょうが、山頂でのイベントで新たな試み。昨年まで行われていた「ミズあだたらコンテスト」が無くなり、代わって「ほんとの空大声コンテスト」が初めて開かれます。それを報じた『福島民報』さん記事。

5月18日の安達太良山開き初のコンテスト 「ほんとの空」に大声を響かせて

008 5月18日に行われる安達太良山開きは、恒例のミズあだたらコンテストをやめて、代わりに「ほんとの空大声コンテスト」を初めて実施する。関係機関・団体でつくる安達太良連盟が10日に二本松市役所で総会を開いて決めた。
 関係者から「男女とも参加できる行事を」との声があり、新たに企画した。20人の参加を募り、午前11時から山頂で実施する。連盟会長の三保恵一二本松市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさんらが審査して入賞者に賞品を贈る。午前9時30分から先着3千人にペナントを配る。二本松市の奥岳登山口で午前8時から安全祈願祭を行い、「あだたらマルシェ」も開催する。荒天時は中止や変更となる。
 総会では登山道の整備、くろがね小屋建て替えの情報発信などの要望も出された。新たに8月11日の「山の日」関連事業を検討することとした。

山開き全体に関して、二本松市の『広報にほんまつ』さん。
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三保恵一市長の連載コラムでは、光太郎、「智恵子抄」に触れて下さいました。
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臨時シャトルバスの情報。
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ぜひ足をお運び下さい。

ついでというと何ですが、安達太良山を含む二本松市内でもロケが敢行され、光太郎智恵子や「智恵子抄」が取り上げられる2時間ドラマの再放送情報です。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2025年5月12日(月) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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ご覧になったことのない方(ある方も(笑))、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

セカイノビ ヤマイニナヤムコレヲイヤスモノイデ ヨ


昭和28年(1953)3月13日 岩手県立美術工芸学校宛電報より 光太郎71歳

花巻郊外旧太田村蟄居中、何度も訪れて講演などを行った県立美術工芸学校の卒業式に送った祝電です。
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「世界の美、病に悩むこれを癒す者出でよ」となりますが、「病に悩むこれ」は若干、意味不明。もしかすると「病に悩む我(われ)」なのでは……などとも思っています。

埼玉県東松山市からの情報を2件。

まずは市民講座です。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年5月16日(金)
会 場 : 高坂丘陵市民活動センター 埼玉県東松山市松風台8-2
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか? 彫刻家・高村光太郎とも関係がある? 
講師 生涯学習部長 柳沢知孝

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東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。

「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。
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光太郎を作った胸像も含まれます。
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何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。

ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。

ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。

望月桂 自由を扶くひと

期 日 : 2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会 場 : 原爆の図 丸木美術館 埼玉県東松山市下唐子1401
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 
料 金 : 一般 900円、中学生・高校生・18歳未満 600円、小学生 400円、60歳以上 800円

 望月桂(1886-1975)は、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した芸術家です。黒耀会は、社会の革命と芸術の革命は自由獲得を標榜する点において不可分であると主張した芸術団体です。美術に限らず、文学や音楽、演劇など、さまざまな領域の表現者や労働運動家が参加して1919年に結成されました。参加者の顔ぶれは、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄や、社会主義運動の指導者となる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊など、類例のない多彩さでした。表現はあくまで個人のもので他人の評価を前提としないという考えのもと、無審査で誰もが参加できる自由度の高さも重要な特徴でした。1922年頃に解散するまで4度の展覧会を開催し、プロレタリア美術運動の草分けとして評価されています。
 しかし望月の活動はそれだけではありません。黒耀会結成前には一膳飯屋を営み、社会運動家や労働者の集う場を形成していました。1920年代後半には犀川凡太郎の筆名で読売新聞に漫画を描き、その後に平凡社の百科事典の挿絵も手がけました。1938年から39年までは漫画雑誌『バクショー』を主宰し、漫画家の小野佐世男や、東京美術学校で望月の同級生だった藤田嗣治も参加しています。1945年に長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)に帰郷後は、地主の立場でありながら戦後の農地改革を先導し、農民運動に尽力しつつ、信州の自然を題材に数多くの風景画を残しました。
 本展は、こうした幅広い活動と、その活動に貫かれた自由と扶助の精神を紹介するものです。開催にあたっては、長年望月を研究してきた二松学舎大学准教授の足立元(美術史・社会史)の呼びかけにより、美術館学芸員や地元地域の関係者、美術・文学・社会運動などの研究者、アーキビスト、ジャーナリスト、編集者らによる「望月桂調査団」が組織され、ご遺族の厚意のもと、3年前から資料調査を進めてきました。特筆されるのは、かねてより望月を敬してやまない風間サチコ、卯城竜太、松田修といった現代アーティストも調査団に参加し、本展のタイトルやロゴマークの考案、展示監修、映像制作といった役割を担うことです。こうした職業的立場を超えた連携による展覧会の立ち上がり方も、黒耀会の精神を今日的な視点から読みなおすための重要な導線となるでしょう。
 望月の掲げる問題意識は、閉塞した日常を生きる私たちにも通じるものです。本展では、油彩画、水墨画をはじめ、デッサンや漫画、さまざまな関連資料など約120点を展示し、その足跡をたどります。
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望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。

会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。

卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。

ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。

というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、


昭和28年(1953)3月10日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。

中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。
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光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

文芸評論家の桶谷秀昭氏ご逝去が報じられました。

共同通信さん配信記事。

桶谷秀昭氏が死去 文芸評論家000

 桶谷 秀昭氏(おけたに・ひであき=文芸評論家)3月27日、心不全のため死去、93歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長男、省吾さん。
 専門は近代日本文学・思想。1992年に「昭和精神史」で毎日出版文化賞。99年紫綬褒章、2005年瑞宝中綬章。著書に「保田与重郎」「伊藤整」など。

氏は昭和47年(1972)、青土社さん発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」に「「自然」理念の変遷について――高村光太郎ノート」という論考をご発表。当方、卒論執筆の際には大いに参考にさせていただきました。
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同じ文章は昭和54年(1979)、河出書房新社さんから出された『文芸読本 高村光太郎』にも転載されています。
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非常に力の入った論考で『ユリイカ』、『文芸読本 高村光太郎』ともに10ページにわたっています。光太郎に対する確かなリスペクトに立脚してさまざまな作品にあたり、しかし批判すべき点には容赦なく大なたを振るう、教科書通りの文芸評論です。

一部抜粋します。

 高村光太郎は自分の本職は彫刻家で、詩を書くのは、彫刻から文学性という不純物を排除するための作業だといった。だが、高村光太郎は彼が書く詩からさえ、不純な――と呼ぼうと呼ぶまいと――文学性を排除したようにみえる。


 のちに高村光太郎は、智恵子が自分をあてどないデカダンスの泥沼から救ったというふうな回想を、詩や散文に書いているが、彼を浄化したのは、智恵子ではない、彼が徹底的な献身の理想としてみずから抱いた「自然」による自己浄化にほかならない。彼の「自然」への献身の捲き添えをくった智恵子こそ、いい面の皮だったかもしれぬが、実状はそうではなくて、この女のもっている或る異常性こそが、そういう捲き添えをくらうに打ってつけであった、そういう意味では光太郎は選択をあやまらなかったので、智恵子が自分を浄化したと信じていい根拠はたしかにあったのだといわねばならない。

 荷風が戦争に一貫して非協力であったのは、社会との倫理的な関係を結ぶ意志を徹底的に放棄していたからである。戦争であれ平常時であれ、社会の外側に孤立してひややかに眺めていたからである。荷風は世に働きかけなかったかわりに、世から動かされることもなかった。
 光太郎の純粋な倫理は荷風の対極にあるようにみえる。しかしよくみると、その倫理性は、世にもぐりこむのではなく、倫理的意志は不動のまま世を超越した。戦争が破局的様相を呈するにつれ、彼の超越的な倫理が、戦争の異常と一体化を強めていったのはそのためである。彼が戦争に近づいたのではなく、戦争が彼の方へやってきたのである。


全てに諸手を挙げて賛同できるわけではありませんが、なかなかに鋭い考察でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】006

「みちのくの手紙」は中央公論社からもらひました、文句なし。

昭和28年(1953)2月17日
宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

『みちのくの手紙』は姻戚であった宮崎の編集になる光太郎書簡集。昭和20年(1940)から同24年(1949)に至る、花巻郊外旧太田村から発信された、宮崎、宮崎の父・仁十郎、宮崎の妻・春子(智恵子の姪)にあてた光太郎書簡をまとめたものです。

「文句なし」といいつつ、光太郎はこの書籍の出版に同意はしていませんでした。歌集『白斧』(昭和22年=1947)にしてもそうですが、宮崎は強引に光太郎の書籍を刊行することがあり、光太郎の悩みの種の一つでした。

『毎日新聞』さん系列のスポーツ紙『スポーツニッポン』さんで、5月3日(土)、智恵子にからめ、その故郷である福島県二本松市を大きく取り上げて下さいました。

こだわり旬の旅 福島・二本松

二本松城でしのぶ戊辰戦争の悲劇 少年隊士の思いに涙…本丸跡からは絶景が
 JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中の福島県は二本松市に出かけた。IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランクされたからだ。霞ヶ城公園にある二本松城(霞ヶ城)跡や詩集「智恵子抄」で知られる智恵子の生家、岳温泉など観光スポットが点在するが、中でも同城にまつわる、会津・鶴ヶ城の白虎隊より若い二本松少年隊の悲劇に心奪われた。
 春の桜と秋の菊人形で知られる霞ヶ城公園。桜の季節が終わり静けさが戻ったが、胸はすぐに熱くなった。二本松城の美しい三の丸石垣と白土塀をバックに建つ「二本松少年隊群像」。1868年の戊辰戦争で薩摩・長州などの西軍から城を守るため、若い命を散らした二本松少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿をかたどったブロンズ像で、名誉市民の彫刻家・橋本堅太郎氏が制作したもの。脇の掲示板や音声ガイドで、その悲劇が伝わってきた。
 それによると、少年隊は12~17歳の62人。緊迫した状況下で自ら出陣を嘆願し、熱意で藩主を説得して出陣。同年7月29日、城内への要衝・大壇口(城から南へ約2キロ)では隊長木村銃太郎が率いる25人が果敢に戦ったが、正午頃、二本松城は炎上し落城。少年隊の戦死者は他の戦地と合わせ14人を数えたという。
 17歳以下といえば、あの白虎隊の隊士より年齢が下。敗戦必至の中で、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の壮絶な戦いに追随、維新の夜明けを見ずに幼い命を散らした彼らの気持ちを思いやると、群像を見ているだけで涙を禁じ得なかった。
 少年隊が命がけで守ろうとした城は、室町時代の1414年、畠山満泰が築城し、1643年から丹羽氏が居城にした平山城。現在は日本百名城の一つで国指定史跡に指定されており、群像を過ぎてくぐった「箕輪門」は初代藩主・光重が最初に建造した櫓門(やぐらもん)。主柱のカシの巨木は箕輪村・山王寺山の神木を用いたことから、その名が付いたという。
 城内には落城の際に割腹した藩士・丹羽和左衛門らの自尽の碑や唯一の江戸期の建造物の茶亭「洗心亭」、門の土台となる石垣と門柱の礎石が残る「搦手門跡」など、見どころは多いが、圧巻は箕輪門から徒歩約15分の「本丸跡」(標高345メートル)。総工費5億3000万円、2年かけて復元されたもので、周囲を高石垣で固められ、枡形門や天守台がある。天守閣はなかったというが、眺望は最高。北側の眼下には福島市の町並みが広がり、西側には安達太良山がそびえる。まさに360度の大パノラマだ。
 その光景に何とか心は晴れたが、最後は少年隊にお参りをしようと墓のある大隣寺へ。丹羽家代々の菩提寺で、14人の供養塔が建立されている。隣接して会津藩の墓も建てられており、白虎隊への思いも含めてそっと手を合わせた。
 ▽行かれる方へ 東北本線二本松駅から徒歩約25分。車は東北道二本松ICから約5分。霞ヶ城公園から大隣寺へは車で約5分。問い合わせは二本松観光連盟=(電)0243(55)5122、大隣寺=(電)同(22)1063。 
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高村智恵子の生家は明治の面影そのまま…安達太良山の上には「ほんとの空」
 詩人・高村光太郎が妻・智恵子への想いを記した「智恵子抄」。その“純愛”に触れるべく、智恵子の杜公園にある「智恵子の生家・智恵子記念館」(入館料410円)を訪ねた。生家は造り酒屋で、明治初期に建てられた建物には、屋号「米屋」、酒銘「花霞」の看板が掲げられ、新酒の醸造を伝える杉玉が下がる。当時の面影をそのままに残しているようで、2階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りてきそうな気配だ。
 裏庭には当時の酒蔵をイメージした記念館があり、晩年、病に侵された智恵子の美しい紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品などを展示。見学し終わって外に出ると、後方には智恵子が愛してやまなかった「阿多多羅(安達太良)山」の上に青空が広がる。それはまさに抜けるようで、「ほんとの空」(智恵子抄から)を見た思いだった。東北本線安達駅から徒歩約20分。(電)0243(22)6151。
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生家の裏には記念館。こちらは白亜の近代的な建物だ
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智恵子の画像を入れたまちガイドマップ。見どころは多い

他に鬼婆伝説の残る安達ヶ原の黒塚や観世寺さん、安達太良山中腹の岳温泉さんが取り上げられていましたが、長くなりますし、智恵子の名は出て来ないので割愛します。

記事では「JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中」とありますが、正確には「デスティネーションキャンペーン」は来年4月から、現在は「プレデスティネーションキャンペーン」中です。その一環として県全域で「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」、二本松限定で「二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~」などが行われています。

また、二本松が「IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランク」だそうで。「穴場の」ではなく「定番の」とか「王道の」とかになってほしい気もしますが、昨今のいわゆるオーバーツーリズム問題を考えると、たいした混雑もなくゆったりのんびりと見て歩ける状況の方が望ましいと思います。閑古鳥が啼いている状態では困りものですが……。

GWも終わってしまいましたが、それだけに交通系の混雑も一段落。智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」は5月25日(日)までです。その他の光太郎智恵子聖地と共に、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡妻の実家も酒造りだつたので以前は時々酒粕をもらひました、大好物、うまい甘酒が出来ます、

昭和28年(1953)2月22日 石井荘男宛書簡より 光太郎71歳

石井荘男は埼玉在住だった画家。光太郎も足を運んだ帝国劇場での舞踊公演「藤間節子リサイタル」を観に行き、その会場で光太郎と知遇を得、お近づきのしるしに、的にのちほど酒粕を贈ったようです。

智恵子の故郷・福島二本松の高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」につき、地元紙2紙が報道して下さっています。特に生誕祭の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」を前面に押し出して下さり、ありがたく存じます。

まず『福島民報』さん、先月末には記事を出して下さいました。

詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の生誕祭 5月11日まで紙絵の実物展示 福島県二本松市の智恵子記念館 智恵子抄の収録作、音楽に乗せて披露

 詩集「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・高村智恵子(1886~1938年)の生誕祭は4月24日、同市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で始まった。5月20日の誕生日に合わせ、智恵子が制作した紙絵の実物展示や居室の特別公開などのイベントを繰り広げている。
 紙絵は「花パターン」や「菊」など10点を11日まで公開する。上川崎和紙の紙絵制作体験を17、18、24、25の各日に催す。生家の2階にある智恵子の居室は3~6、10、11、17、18、20、24、25の各日に公開する。
 入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは智恵子記念館へ。
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紙絵の実物を展示している記念館

 高村光太郎連翹忌運営委員会は4月27日、二本松市の智恵子の生家で、智恵子抄の収録作を音楽に乗せて披露する朗読公演を開いた。
 高村智恵子生誕祭の一環。ボイスパフォーマーの荒井真澄さんが朗読を担当し、智恵子抄の「樹下の二人」「あどけない話」「レモン哀歌」などを情感たっぷりに披露。箏曲演奏家の元井美智子さん、テルミン奏者の大西ようこさんが美しい音色を添えた。
 聴衆は高村光太郎が紡いだ言葉の数々と、音楽の共演を満喫していた。
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聴衆を作品の世界に引き込んだ朗読公演

続いて『福島民友』さん。昨日の掲載でした。

演奏に乗せ智恵子抄朗読 二本松の記念館で生誕祭

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は25日まで、同市出身の美術家高村智恵子の20日の誕生日にちなんだ恒例イベント「生誕祭」を開催している。4月27日は市と高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会との共催で初の特別企画「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」が開かれた。
 特別企画は午前と午後の2回行われた。箏曲奏者元井美智子さんとテルミン奏者大西ようこさん、朗読家荒井真澄さんが箏曲とテルミンの演奏に乗せて詩集「智恵子抄」を朗読した。
 期間中は、岩手県の花巻南高の家庭クラブの生徒が復元した「智恵子のエプロン」の復刻展示や「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作成編」を開催している。折り鶴展は智恵子が晩年作成した折り鶴を来館者が作成すると、オリジナル紙絵ペーパークリップを贈呈する。作成した折り鶴は秋のレモン祭に展示する。
 このほか紙絵の実物展示や生家では25日までの土、日曜日、祝日と20日に、普段公開していない智恵子の居室を特別公開する。17、18、24、25日には同市の伝統工芸「上川崎和紙」を使い、しおりなどを作る制作体験も行われる。
 開館時間は午前9時~午後4時半(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

『民友』さんでは、花巻南高さんによる「智恵子のエプロン」復刻展示にも触れて下さいました。『民報』さんの記者氏にもエプロンの件を推したのですが、「また改めて」みたいなご返答でした。口約束に終わらないことを期待します。殺伐としたニュースの多い中、こうした件を報道することで、人々の癒しにつなげてほしいものです。

生誕祭は5月25日(日)まで、ぜひ足をお運び下さい。

また、末筆ながらコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」にご出演下さったお三方に改めて御礼申し上げ、さらなるご活躍を祈念いたします(といいつつ、また当会主催ということで、7月に光太郎第二の故郷・花巻での公演を行うことになり――詳細は後日――、荒井さん、元井さんがご出演なさいますが)。

【折々のことば・光太郎】003

彫刻の方は今週あの粘土を石膏にとります。


昭和28年(1953)2月16日
真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

「あの粘土」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。実物およそ2分の1で、小型試作、実物と比較し、その顔が最も智恵子の顔に近いと評されています。

この中型試作は、生誕祭会場の智恵子記念館さんにも展示されている他、花巻高村光太郎記念館さん、現在特別展示 智恵子の紙絵」開催中の信州安曇野碌山美術館さん、それから野外展示で大阪御堂筋で常設展示されている他、千葉県立美術館さんにも同型のものの所蔵があり、時折展示して下さっています。

石膏取りの職人は牛越誠夫。光太郎もその作品を所有していた伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿でした。

『毎日新聞』さんの石川版に、光太郎と交流のあった詩人/作家・室生犀星令孫にして犀星記念館名誉館長・室生洲々子氏の連載「犀川のほとりで」が連載されています。

若干前の掲載ですが、4月20日(日)分に光太郎の名。刺身のツマのような扱いですが(笑)。

犀川のほとりで 遺伝子=室生洲々子

  こども
 こどもが生れた/わたしによく似ている/どこかが似ている/こえまで似ている/おこると歯がゆそうに顔を振る/そこがよく似ている/あまり似ているので/長く見詰めていられない/ときどき見に行って/また机のところへかえってくる私は/なにか心で/たえず驚きをしている
『星より来れる者』より

 初出は未詳だが、昭和11年に発行された書籍に収録されているので、長男豹太郎が生まれた時の作品だろう。やっと憧れた家庭を持ち、初めての子供が生まれた時の喜びと驚きを率直に書いている。豹太郎さんは私の伯父であるが、1歳で夭折(ようせつ)している。この深い悲しみを祖父母はどのように癒(いや)したかはわからない。豹太郎さんのことは、母もあまり話さなかった。
 中学3年生の時、教科書に祖父の詩「寂しき春」が収められていた。続いて、高村光太郎の「道程」。「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」と始まるその詩を読んだ時、なんと印象的な一節だろうと魅了された。そして、先生は私に祖父の詩の代表作である「ふるさとは…」で始まる小景異情その二を暗誦(あんしょう)させた。私はあがってしまい最後まで暗誦できず、とても恥ずかしい思いをした。教科書には、晩年の祖父の顔写真が掲載されていて、友達から「似ている」と冷やかされ、当時の私は乙女心が傷ついた。
 馬込の家の縁側で祖父が寛(くつろ)いでいる写真がある。着物の裾が捲(まく)れ、膝から下が写っている。見覚えのある脛(すね)だと思ったら、自分の脛とそっくりだった。祖父の記憶がない私にも、祖父の遺伝子は流れているのだと、実感した瞬間だった。 最近は、小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。
 先日、天気のよい昼下がり、雑貨屋さんを覗(のぞ)くと、幾何学模様の織物を見つけた。アフリカ民族の織った「クバ布」だという。気に入って購入した。和室の壁に掛けてみた。その横に、昔、飼っていた猫がピアノの鍵盤に乗っているモノクロの写真を掛けた。このクバ布、民芸っぽい雰囲気を醸し出すのか、和室にもモノクロ写真とも相性がよく、とても満足した。 我が家には、古い布や端切れが沢山(たくさん)あった。子どものころは、ぼろ布としか思っていなかったが、それは祖父が集めたものだった。そして、その布を骨董(こっとう)品の下や机に敷いていたようだ。今風に言うならば、インテリアコーディネートだろうか。 我が家の部屋はすべて祖父好みに整えられていた。
 私の布好き。これも祖父からの遺伝かもしれない。奇妙なところも似るものだ。

犀星と光太郎というと、犀星が光太郎没後の昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載した「我が愛する詩人の伝記」中の「高村光太郎」の項が有名です。若い頃、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、智恵子に追い返された話や、次々に詩が雑誌に掲載される光太郎への嫉妬など、かなりアイロニカルな内容です。

しかし、以前にも書きましたが、同じく犀星が改造社から昭和4年(1929)に刊行した随想集『天馬の脚』では「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」と、光太郎を賞讃していました。両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったように思われます。

『天馬の脚』の方は、盟友・萩原朔太郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた際の体験が元になっています。朔太郎がこの時のことを書いたものがないかと探していたのですが、見つけました。昭和3年(1928)4月の雑誌『新潮』第25年第4号に載った「歳末に近き或る冬の日の日記」というエッセイです。

まず、前年とおぼしき時、福士幸次郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた話。そしてその約3年前、犀星と二人で複数回訪問したことも回想されています。

 僕が前に高村氏を訪うたのは、三年以前、田端に居た時であつたが、何時来ても氏のアトリエは同じであり、思ひ出が非常に深い。僕がまだ無名作家で、室生と二人で東京にごろごろしてゐた頃、図々しくもよくこのアトリエを訪ねたものだ。その頃先輩の高村氏は、僕等に親切にしてくれたので、一層思ひ出が深いのである。

ちなみに犀星は光太郎の6歳下、朔太郎は同じく3歳下(智恵子と同年)です。

犀星と光太郎が一緒に写っている写真も見つけました。
現代詩鑑賞講座 第12巻
キャプションの通り、大正7年(1918)の撮影。光太郎の向かって右下に犀星が居ます。上記の福士幸次郎も。朔太郎がここにいないのが残念ですが。

さて、令孫・洲々子氏のエッセイ。「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ」としたお祖父様同様、光太郎の「道程」(大正3年=1914)書き出しを「なんと印象的な一節だろうと魅了された」として下さいました。ありがたいことです。そして「小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。」とされていますが、なかなかどうして味のある文章ですね。

今後ますますのご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

今年花巻の方は雪も寒さも殊の外はげしいやうで、山口の小屋もさぞ雪に埋もれてゐる事でせう、東京はひどくあたたかく、まるで冬が無いやうで仕事にはらくですが薄気味わるい次第です、


昭和28年(1953)2月13日 照井秀子宛書簡より 光太郎71歳

マイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の冬と比べれば、東京の冬など何ほどのこともなかったのでしょうが……。

最近流行りのカプセルトイ(いわゆる「ガチャガチャ」で出てくるカプセル入りの商品)です。

カエルの森工房 無事カエルストラップ ~アースカラー~

発売日 : 2025年4月下旬
発売元 : 株式会社キタンクラブ
定 価 : 400円

「カエル=帰る」から、無事に家に帰るという想いを込めたマスコットが、カラーリング新たに登場です!大好評の第1弾に続き、ラインナップは日本の美しい大自然をイメージしたアースカラーでまとめた全4種。作家自らが足を運んだ場所がモチーフになっています。大きなリュックを背負って、登山靴を履いたカエルたちは、元となる作品の雰囲気そのままに細部まで再現しました。

ラインナップは「 草紅葉 、カルデラ 、ほんとの空 、チズゴケ 」の全4種。
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ご覧の通りのリアルなカエルがリュックを背負い、登山靴を履いて凛々しく立っています(笑)。ラインナップ4種のうち、「ほんとの空」君は光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュ。
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他に「カルデラ」君も安達太良山の爆裂火口・沼の平からのインスパイアですね。「草紅葉」君は光太郎智恵子も訪れた磐梯山、「チズゴケ」君は不明ですが、やはり福島の山々にちなむのでしょうか。

早速ゲットしました。と言っても、ガチャガチャで、ではなく通販で。ある意味、インチキですが(笑)。
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どこが「ほんとの空」だ? というと(笑)、背負っているザックの色のようです。

せっかく写実的なカエル君なので、自宅兼事務所から徒歩5分ほどの田んぼで(笑)。
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リアルのカエルが背景で「ぎゃわろっぎゃわろっ」(笑)。

昔はガチャガチャといえば100円と相場が決まっていましたが、現代は200~300円程度が主流だそうですし、中には1,000円などというものもあるとのこと。400円は決して特別ではないのですね。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

仕事は毎日戦ひのやうなものでございます。

昭和28年(1953)2月13日 佐藤隆房宛書翰より 光太郎71歳

「仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作。自らの命の尽きる日が送遠くないことを自覚し、こう思っていたのでしょう。

福井県からコンサート情報です。

めいおんFukui第16回演奏会

期 日 : 2024年5月10日(土)
会 場 : ハーモニーホールふくい 福井県福井市今市町40-1-1
時 間 : 18:30開場 19:00開演
料 金 : 一般:1,000円 学生(高校生まで):500円
主 催 : 名古屋音楽大学 同窓会 福井支部(担当:吉田)Tel.090-4683-7255

《出演》
 大野舞子 岡安朋美 佐々木英宏 谷川美翔 南部匡恵 西野佳世 羽生泰子
 三浦恵美子 吉田真里子 鈴木睦美 佐々木都恵 竹沢友里 前川明音 大岡訓子

<曲目>
 エレクトーン Joan of Arc 作曲 安藤ヨシヒロ
 クラリネット 歌劇「椿姫」による演奏会用幻想曲 作曲 D.ロヴレーリョ(ヴェルディ)
 サックス   アルペジオーネ・ソナタょり第1楽章 作曲 F.シューベルト
 クラリネット クラリネット・ソナタ 作品167より 作曲 カミーユ・サン=サーンス
 トロンボーン Pair Up - Duo for Trombone and Marimba 作曲 Myles Wright
 クラリネット クラリネットデュエットNo.1 作曲 B.クルーセル
 声楽     智恵子抄(連作曲)~その愛と死と~より 作曲 野村朗
 ピアノ    喜びの島作曲 C.ドビュッシー他

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「めいおん」は名古屋音楽大学さんの略称だそうです。同学卒業生、教員の方々による演奏会だそうで、やはり卒業生で名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」から第2曲「あどけない話」と終曲「案内」が演奏されます。歌唱は岡安朋美さんと言う方だそうです。

生演奏は、野村氏と交流の深い森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻の演奏で、氏の地元の名古屋、智恵子の故郷・二本松、それから都内でもと、計5~6回(もっとかもしれません)拝聴しましたが、何度聴いてもドラマチックでいい曲です。


お近くの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

肋間神経痛はまだ相当いたみますが、花巻温泉か大沢あたりに一寸ゆきたい気もしますが、どうも時間の余裕が出来さうもありません、


昭和28年(1953)2月8日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から再上京して4ヶ月近く。そろそろ山の温泉が恋しくなってきたようです。

「花巻温泉」は松雲閣、「大沢」は大沢温泉山水閣、あるいは菊水館

オンラインのそれと、対面型のものと、2件の市民講座情報をお伝えします。

心に響くオンライン朗読講座 ~基本スキル編~

期 日 : 2025年5月9日(金)  「あどけない話」高村光太郎 
      2025年5月23日(金) 「やまなし 五月」宮沢賢治
      2025年6月13日(金) 「やまなし 十二月」宮沢賢治
会 場 : Zoomミーティングによる受講
時 間 : 各回10:30~12:00
料 金 : 9,900円
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデン教室
講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現

PC、タブレット(LANケーブルもしくはwi-fiに接続し、通信環境の良い所から参加してください)
●マイク付きイヤホンを使う等、音声のやり取りができる状態でご受講ください。
●事前にビデオ会議ツールZoomアプリをインストールしてください。文化センターホームページ【オンライン講座受講前の準備】参照。
https://www.nhk-cul.co.jp/misc/onlinecourse_guide/
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オンラインによる朗読の講座。講師の川邊暁美氏は以前にもおそらくほぼ同じ内容の講座講師を務められています。

「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編」/「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
オンライン講座2件 「戦争とモダニズムの詩学 現代詩の源流と詩作のヒント」/「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編~」。

同様に、これまでも富山県でさまざまな講座等をなさっていた茶山千恵子氏の講座。

高村光太郎智恵子講座

期 日 : 2025年5月11日(日) 智恵子亡き後の光太郎はどう生きたか
      2025年6月8日(日)   宮沢家との関わり
      2025年7月13日(日)  岩手に移住した光太郎の生活
      2025年8月10日(日)  続き
      2025年9月7日(日)  晩年の光太郎 乙女の像と智恵子
会 場 : 高岡市生涯学習センター 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 各回14:00~16:00
料 金 : 運営費2,000円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,500円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏

智恵子亡き後の光太郎を支えてくれた人々、宮沢家との関わり等、そして智恵子の紙絵を発表した光太郎の思いや願いは…。一緒に楽しく語り合いましょう。


他にも様々な講座が用意されている「市民大学たかおか学遊塾前期講座」の一環と言うことです。
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茶山氏、昨年度も同じ会場で「高村光太郎『智恵子抄』講座」を受け持たれていて、その続き的な感じですが、別個の独立した講座としても十分成立するのでしょう。

既に初回の申し込み定員は埋まっているようですが、キャンセル等有るかも知れませんし、途中入会も可だそうです。また、記録のためにもご紹介しておきます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の詩をこのやうにして読んでゐて下さる方々があるといふ事を知つて、感謝の念と一種畏怖の感とを抱かせられました、書いたものはどこでどなたが読むか知れず、ただ全力をつくすのみと思ひました、


昭和28年(1953)2月8日 向井正宛書簡より 光太郎71歳

おそらくファンレター的なものへの返信と思われます。光太郎詩、リアルタイム、あるいは少しタイムラグがあってでいろいろな読者の眼に触れていた上に、没後も読み継がれ、上記のようにさまざまな講座等でも使われているわけで、泉下の光太郎、照れくさい思いをしているかも知れません。

書いたものはどこでどなたが読むか知れず、ただ全力をつくすのみ」。まさにその通りですね。手前味噌で恐縮ですが、このブログも平成24年(2012)の開設から今日でまる13年経ちました。13年間「雨ニモマケズ風ニモ負ケズ」、1日も休んでいません。光太郎智恵子等に関する情報源としてのそれなりの役割は果たせているかと自負しております。「全力をつくす」ほどには気負って書いては居ませんが(笑)。

先月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展。佐藤が所蔵していた美術作品、61件148点の寄贈を受けて開催されています。

開幕前の準備段階で、そのうちの光太郎に関わる出品物について照会があり、分かる範囲でお答えいたしました。すると、その御礼というわけでしょう、同展図録及び招待券等が届きまして、恐縮している次第です。
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図録は正確には「パンフレット」と銘打たれており、A5判並製の簡易的なものです。それでもオールカラー30ページ、解説も充実しており、いい出来です。

以前にも書きましたが、光太郎作品が2点。油彩の「佐藤春夫像」(大正3年=1914 以前からの寄託品)と、ブロンズの「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)です。光太郎と交流のあった石井柏亭や川西英の作品も含まれ、他に川上澄生、谷中安規、恩地孝四郎、ゴヤ、ビゴーなどのビッグネーム。そして佐藤自身が描いた日本画や油絵。興味深く拝読しました。

同展についてはNHKさん、『読売新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『朝日新聞』さんでも光太郎に触れつつ記事にして下さいました。

佐藤春夫ゆかりの版画や絵画を展示 和歌山県立近代美術館

 明治から昭和にかけ、小説や詩などで大きな足跡を残した和歌山県新宮市出身の佐藤春夫(1892~1964)ゆかりの版画や絵画など美術作品を紹介する展覧会「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。6月29日まで。
 主に文学の世界で活躍した春夫だが、「二十のころの希望は文学と美術との二つに分かれていた」と若き日のことを回想している。上京後には高村光太郎と親交を結び、自ら絵筆をとって二科展で連続入選を果たしたこともある。
 同館は昨年度に春夫の遺族から美術作品148点の寄贈を受けたことがきっかけで、初めて企画展を開催した。会場には、高村が描いた春夫の肖像画や、春夫自身が筆をとった油彩画「花」などを展示。春夫と親交が深かった版画家・谷中安規(たになかやすのり)の作品なども並ぶ。
 開館時間は午前9時半から午後5時(入場は4時半まで)。休館日は月曜日(5月5日は開館)と5月7日。観覧料は一般600円、大学生330円。高校生以下、65歳以上、障害のある人は無料。
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佐藤春夫が描いた「花」、版画家・谷中安規の作品「文豪 佐藤春夫」、高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」

同展、6月29日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日は日曜なので少しゆつくりいたしました、なるべく外出もせず、人にもあはぬやうにしてゐます、


昭和28年(1953)2月8日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

佐藤が青森県と光太郎を仲介し、実現を見ることとなった生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。光太郎にとっては「月月火水木金金、土曜日曜あるものか」でしょうが、雇っていたモデルに対してはそうもいかないようで、この日は制作を休みました。その分、溜まっていた来翰への返信をたくさん書いています。

4月26日(土)~4月28日(月)、2泊3日で智恵子の故郷・福島二本松に行っておりまして、昨日はメインの目的だった高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」についてレポートいたしました。

今日はその前後や合間にいろいろ巡った当地の光太郎智恵子関連スポット等のレポートを。二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

4月26日(土)、JR東北本線二本松駅からスタートです。二本松にかつてあった智恵子顕彰団体・レモン会に所属されていた方、朗読家の荒井真澄さん、テルミン奏者の大西ようこさんご夫妻とここで待ち合わせ。
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昭和51年(1976)に駅前に設置された光太郎詩碑。「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節が刻まれています。
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光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる故・橋本堅太郎氏作の智恵子像「ほんとの空」。
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車輌二台に分乗して、安達太良山奥岳登山口へ。
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ロープウェイ乗り場に。
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揺られること10分ほど。8合目まで行けてしまいます。
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山頂駅周辺はまだ雪で覆われていました。
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10分ほど歩くと、薬師岳パノラマパーク。「パノラマ」と冠されている通り、絶景ポイントです。
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再びロープウェイで下り、登山口で昼食。当方は山菜そばと、大西さんの買ったチュロスをひとかけら分けていただきました。左は「奥岳」の「岳」、右はひらがなの「あ」。「あだたら」の「あ」でもあり、「ADATARA」で母音が全て「あ」ということにちなみます。
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ここから智恵子生家に移動、翌日のコンサートの会場設営等を行いました。
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めどがついたところで、同じ敷地内の智恵子記念館さんへ。
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花巻南高校さんの家庭クラブ/文芸部さんのご努力で復刻された智恵子のエプロン

やはり「高村智恵子生誕祭」の一環として行われている、「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」にチャレンジ。
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おそらく今秋、やはりこちらで1ヶ月ほど開催されるであろう「高村智恵子レモン祭」の折に、こうして作られた折り鶴が展示されるはずです。

智恵子生家/智恵子記念館さんを後に、智恵子の実家・長沼家の墓所のある満福寺さんへ。
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智恵子が奉納した花立てには智恵子の名が刻まれています。
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続いて、阿武隈川が峡谷となっている「稚児舞台」へ。ここは直接は光太郎智恵子に関わりませんが、昔から名所とされている場所で、おそらく智恵子は足を運んだことがあると思われます。前九年の役にまつわる悲しい伝説の残る地です。
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ここを後にしてから知ったのですが、マムシがうようよいるところだそうで(笑)。

この日最後に、鬼婆伝説の残る観世寺さんと、黒塚。ただし観世寺さんは拝観時間を過ぎてしまっていました。
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ここは光太郎智恵子もやってきた場所です。戦後の昭和26年(1951)に光太郎が書いたエッセイ「『樹下の二人』」(同名の詩の解説)に、「近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた」とあります。

2泊お世話になったルートイン二本松さんへ。こちらのロビーにも、ちらっと智恵子の紹介などが。ありがたし。
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翌朝、ホテルの駐車場から見えた安達太良山。
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この日は先述のコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」でした。
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智恵子生家/高村智恵子記念館さん近くのスペース。昨年除幕された光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボード。題字揮毫は書家の菊地雪渓氏。

コンサート午前の部を聴いて下さった、花巻南高校文芸部/家庭クラブの生徒さん、先生方。

エプロンの前で。
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智恵子生家内で。
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このあとご一行は、智恵子生家/智恵子記念館裏手の智恵子の杜公園を歩いて散策されたそうです。さらに地元の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~の方にお願いして車を出していただき、智恵子の母校・油井小学校さんや安達駅前の智恵子像などに案内してもらいまして、安達駅から花巻に帰られました。

コンサートの合間に、通常非公開の生家二階も。
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油井小学校さんと、安達駅の智恵子像、コンサートが終演し、片付けも終えたところで、我々も。
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こちらの智恵子像「今 ここから」も、二本松駅前の「ほんとの空」と同じ、故・橋本堅太郎氏の手になるもので、氏の遺作となってしまいました。

二本松駅前まで戻って早めの夕食を摂り、ここで荒井さんは仙台へ、箏曲の元井さんは都内へと、それぞれお帰り。大西夫妻と当方はルートインさんでもう一泊。

最終日、4月28日(月)。午後に発たれるという大西夫妻と共に、愛車で二本松市内聖地巡礼をさらに。

まずは道の駅安達智恵子の里さんへ。ここは全国的にも珍しく、上り線と下り線とに分かれ、それぞれがかなりの敷地を擁する大きな施設です。

下り線側から攻めました(攻めてどうする(笑))。
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上り線への連絡道路。ここからの安達太良山がまた実にいい感じでした。
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上り線側。
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智恵子にちなむご当地ソングの歌詞が三曲分。上段に故・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)。二本松にほど近い小野町ご出身の故・丘灯至夫氏の作詞です。下段の二曲は吾妻栄二郎氏の「折鶴の舞」「智恵子のふるさと音頭」(平成7年=1995)。
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施設内へ。
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これも上川崎和紙でしょうか。
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旧安達町から、二本松市街へ。電線を地中化してある竹田地区。ハナミズキが満開でした。
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二本松霞ヶ城。
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この少年隊像も橋本堅太郎氏作。
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桜はほぼ終わり。代わって藤が咲き始めていました。
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元は智恵子生家にあった藤です。
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ここで車に戻り、一気に天守台まで。歩いても行けますが、高齢者にはきつい行程です(笑)。
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この辺随一の初日の出スポットで、360°の眺望が素晴らしいところです。

天守台から下っていくと、少年隊の顕彰碑。彼らにこそ「義烈」の語がよく似合います。
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レリーフは橋本堅太郎氏のお父さま・橋本高昇の作。高昇が二本松出身ということで、堅太郎氏の作が市内あちこちにあるわけです。

そのちょっと下に、光太郎詩碑。
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千葉ではとっくに散った連翹もまだ健在。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周作のブロンズパネルが三面。
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右上の碑陰記的なパネルは当会の祖・草野心平の文字。他は光太郎の直筆を使っています。

大西夫妻にはこの下の道端で待っていてもらい、当方はとって返して愛車に乗り込み、お二人を拾いました。その後、東北道に入って南下。大西さんはウルトラ系ともご縁が深いので、安達太良SAで昼食。
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円谷英二監督が、同じ福島の須賀川ご出身ということで、安達太良SAには等身大(巨大化前の(笑))フィギュアが設置されています。

さらに南下して郡山駅で、神奈川の逗子に帰られるお二人をお見送りし、当方は千葉に戻りました。

というわけで、当会主催のコンサート以外にも充実の3日間でした。「聖地巡礼」もほぼコンプリート。智恵子生家/高村智恵子記念館さん裏手の稲荷神社にある智恵子揮毫の「熊野大神」碑、さらにその上の鞍石山の光太郎「樹下の二人」碑には行けませんでしたが。

今回の旅でゲットした関連グッズ。
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中央の一筆箋と左上のマスキングテープは智恵子記念館さんでの新商品。左下のペーパークリップは「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」で鶴を作るともらえます。ここにも智恵子紙絵があしらわれています。右の一筆箋は道の駅で購入。以前に大山忠作美術館さんで入手しましたが、保存用は別として使い切ってしまいましたので。
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最初にも書きましたが、二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生仕事は順調に進んでゐますが肋間神経痛の方は相変らずで、彫刻で腕力をつかふので時々は相当にひどい時があります、まあ病気をだましだまし仕事をしてゐるといふ状態です。


昭和28年(1958)2月3日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣主。「仕事」「彫刻」は、智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」制作です。

先週末からの2泊3日の行程を終え、昨日、千葉の自宅兼事務所に帰投しました。2回に分けてレポートいたします。

メインの目的は高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」。4月27日(日)、午前の部と午後の部と、2回公演でした。これまで当方は、毎年4月2日の日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いを除いて、各地のイベントに呼ばれて出向くばかりでしたが、今回はこの手のイベントとしては初の当会プロデュース。慣れないプロデューサー業で、各方面に助けられながら、何とか盛会のうちに終わらせることが出来ました。

出演は朗読で仙台ご在住の荒井真澄さん、音楽演奏で電子楽器・テルミンの大西ようこさん(神奈川にお住まい)、そして都内から箏曲の元井美智子さん。
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以前にも書きましたが、それぞれがまず単独、あるいは他の方とのコラボで「智恵子抄」系の公演をなさり、知遇を得させていただきました。で、連翹忌の集いにご参加いただくようになり、そこでお三方が意気投合。これまでもお三方中のお二人が組まれての公演が、光太郎がらみでないものも含め、複数回ありました。「それならいっそ3人でやってみませんか、この時期なら通常立ち入り禁止にしている智恵子生家の座敷でやらせていただけると二本松市教委さんからご返答いただいてますし」とお声がけしたところ、皆さん「ぜひやりたい」とのことで。

ネックは入場無料で行うため、ギャラをお出しできないこと。皆さんにとってのメリットは「智恵子生家の座敷で公演ができる」ということだけで、それぞれ遠方にお住まいですし、いわばハイリスクローリターン。それでもお三方とも「ここでやれるなら夢のようです」とおっしゃってくださり、実現しました。
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4月26日(土)、まず荒井さんと大西さんがいらっしゃり、ざっと会場設営と場当たり。
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襖を外したり、家具類を移動したり。すると、タンスの裏側にこんな文字が書かれているのを発見しました。
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「長沼セン」は、智恵子の母です。右上の画像で左端がセン。昭和2年(1927)、光太郎智恵子夫妻と訪れた箱根大湧谷でのショットです。こんなところに記名してあるとはまったく存じませんでした。

そして4月27日(日)、コンサート当日。元井さんも合流し、リハーサル。
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ぼんぼり的な丸いのは、地元の上川崎和紙で作られたもので、ここの備品をお借りしました。

満を持して11:00、午前の部の開演。
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午前中でお客さんがいらっしゃるかと心配でしたが、蓋を開けてみれば座敷はいっぱいでした。ありがたし。
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隣接する智恵子記念館で展示中の智恵子のエプロンを復元して下さった花巻南高校家庭クラブ/文芸部さんの生徒さん、先生方も駆けつけて下さいました。終演後には「エプロン展示中ですのでご覧下さい」と宣伝しつつ、生徒さんたちに立っていただいてご紹介させていただきました。事前打ち合わせ無しの無茶ぶりでしたが(笑)。
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荒井さんが「智恵子抄」所収の詩を13篇、さらにエッセイ「智恵子の半生」から抜粋で朗読。大西さんと元井さんが日本古謡「さくら」やドビュッシー「月の光」などを合奏。箏の演奏を間近で見られる機会もそうそうありませんし、ましてや不思議な電子楽器テルミンは見るのも聴くのも初めて、というお客さんがけっこういらっしゃいまして、ビジュアル的にも見ていて飽きない感じになりました。

荒井さんの朗読も、一人何役も演じ分けられたり耳に心地よい美声だったり。しかし、決して幸福一辺倒でなかった光太郎智恵子(特に智恵子)の生涯を追う構成なわけで、聴いていて切なくなるのはどうしようもありませんでした。いつものことですが。
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そしてやはりこの「場」。かつてここに智恵子やその家族が居て、たまには光太郎も来て、それぞれが生きて呼吸して家族の歴史を刻んだ場所なんだと思うと、感無量でした。
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約60分で午前の部が終わり、昼食。さらに14:00から午後の部。内容的には同一でした。
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意外でしたが、午後の部の方がお客さんが少なく、まぁそれでも盛会裡に終えることが出来ました。

何人か、聴かれた方の感想を伺いましたが、皆さん口を揃えて絶賛して下さいました。中にはこのブログのコメント欄にも書かれていますが、地元の方が「大変素晴らしく過去最高の「智恵子抄」だと思いました。テルミンの音色、古式豊かな雅な琴の音との智恵子抄は初めてでした。ずーと続けて欲しいなと思いました」とのことで。

プロデューサー冥利に尽きます。それを言えば、連翹忌の集いの一つの目標として、光太郎の顕彰以外にこのように人の輪を拡げることがありまして(そしてさらに光太郎顕彰に繋げるということになりますが)、それがまた少し果たせたことを嬉しく存じます。
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元井さんが8分余りの動画を上げて下さっています。


地元紙『福島民友』さん、『福島民報』さんが取材に来て下さいました。この手のイベントの記事は速報性が求められないので、数日後に出ることが多く、現時点ではまだ記事が読めていません。出ましたらまたご紹介します。

仙台に本社を置く東北6県をカバーする『河北新報』さんは以下の記事。取材にはいらっしゃいませんでしたが、事前にこちらで流しておいた情報に基づいて、4月26日(土)に掲載して下さいました。

高村智恵子の生涯 作品でたどる 福島・二本松で生誕祭

 詩人、彫刻家の高村光太郎の妻で、洋画家智恵子(1886~1938年)が生まれた5月20日に合わせた催し「高村智恵子 生誕祭」が、福島県二本松市の「市智恵子の生家・記念館」で開かれている。5月25日までの期間中、智恵子がデザインしたエプロンを再現した作品の展示などがある。
 エプロンは、光太郎が戦時中に疎開した岩手県花巻市の花巻南高家庭クラブの生徒が復元した。当時の女性向け雑誌に掲載されるなど注目を集めたという。
 記念館では、智恵子が病に伏していた時に作った「紙絵」10点など、普段は公開されていない資料が5月11日まで特別に展示される。生家では智恵子の居室だった2階が土日祝日を中心に公開する。
 4月27日には生家で、詩集「智恵子抄」の朗読公演がある。午前11時と午後2時の2回で予約不要、参加費無料。光太郎の活動を伝える「高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会」が企画した。
 午前9時~午後4時半。水曜日休館(祝日の場合は翌日)。入場料は高校生以上410円、小中学生210円。連絡先は記念館0243(22)6151。
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エプロンの展示を含め、「高村智恵子生誕祭」は5月25日(日)まで。他にもさまざまなコンテンツが用意されています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ感謝、仕事に没頭してゐたため、ハガキを書くのを、おろそかにしてゐて失礼しました。中央公論社の催に異存ございません。御多忙中上京との事恐縮に存じます。

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昭和28年(1953)1月15日 
真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

真壁は山形在住の詩人。戦時中、智恵子紙絵千数百枚の約3分の1を光太郎が真壁の元に疎開させていました。

その中から作品を選び、中央公論社画廊で「高村智恵子紙絵展覧会」が2月2日~12日の日程で開催されました。昭和26年(1951)6月に資生堂ギャラリーで行われて以来、都内では2度目の開催でした。

現在、二本松での「高村智恵子生誕祭」、そして信州安曇野碌山美術館さんでも「特別展示 智恵子の紙絵」ということで、実物が展示されています。

昨日は福島二本松の智恵子生家に於いて、「高村智恵子生誕祭」の一環としてコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」を当会主催で開催しました。
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午前と午後の2回公演、それぞれ60分ほど。元井美智子さんの奏曲、大西ようこさんのテルミン演奏に乗せて荒井真澄さんの朗読。
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地元の方々は勿論、都内や、光太郎第二の故郷・岩手花巻からも聴きにいらしてくださり、ありがたく存じました。

隣接する智恵子記念館で展示中の智恵子のエプロンを復元して下さった花巻南高校家庭クラブ/文芸部さんの生徒さん、先生方も。
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詳しくは帰りましてからレポート致します。

昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。
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同市の智恵子生家/智恵子記念館で24日の木曜日から約1ヶ月、さまざまなコンテンツが用意されています「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催のイベントを2つ入れていただきました。
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まず通期で大正期の智恵子デザイン/制作になり、実際に着用もしていたエプロンの復元展示。岩手県立花巻南高校家庭クラブの生徒さんが作ったものです。
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今日は家庭クラブと文芸部の生徒さん、先生もお見えになるそうです。

それから今日、智恵子生家の座敷で、ヴォイスパフォーマー荒井真澄さん、テルミン奏者大西ようこさん、奏曲奏者元井美智子さんによるコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。その会場設営を少しやって参りました。
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その前後には出演者の一部とご家族、当方で、地元の方のご案内により市内関係スポットなどを逍遥。
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ルートインさんに宿泊しました。

というわけでこれからコンサート本番。詳細は帰りましてからお伝えします。

4月2日(水)、当会主催の第69回連翹忌の集いにご出席下さった『毎日新聞』さんの記者氏による大きな記事が、4月23日(水)、『毎日新聞』さんの関東版に載りました。

旅するみつける 高村光太郎の理想郷 岩手と東京、最後の道程 「戦争責任」 「小屋」暮らし、文化向上へ交流 アトリエ取り壊しの危機

 アジア太平洋戦争が終結した80年前、みちのくの山野にわが身を「島流し」にした文化人がいた。日本の近現代を代表する彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)である。妻・智恵子への愛を支えとしつつ、戦争責任を背負った光太郎の最後の道程を岩手、東京とたどった。【高橋昌紀】

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㊧高村光太郎の命日で、遺影と献杯酒とレンギョウの花=東京都千代田区で

 ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
 3月に訪れた光太郎の旧居は、質素を超えて粗末に見えた。山中にあった林業用の作業小屋を転用し、終戦直後の1945年11月に建てられた。土壁に囲まれた板間と土間は計15畳ほどしかなく、杉皮ぶきの屋根が載る。冬には雪が吹き込み、夜具に積もったこともあったそうだ。
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「高村山荘」の板間。当初は電気も通っていなかった。通常は外側からの拝観になる=岩手県花巻市で

  東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
 かといって、世捨て人となったわけではない。戦後の日本に必要なのは文化の向上、と見定めていた。村民はもちろん、東北の芸術家らとの交流エピソードには事欠かない。一般公開されている山荘にはには子供たちと並んだサンタクロース姿の写真もあり、ほほ笑ましい。
 ――智恵子は死んでよみがへり、わたくしの肉に宿つてここに生き、かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ(「メトロポオル」1949年10月、一部抜粋)
 智恵子も共にいた。 
「ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ」(同)とたたえた理想郷だったが、光太郎は離れることになる。1952年10月、青森県から「乙女の像」の制作依頼を受け、一時的な帰京を決める。
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㊧覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、 拡大. 覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、光太郎は「自耕自炊」の日々を送った=岩手県花巻市で
㊨高村光太郎が最後の日々を過ごしたアトリエ。当時のままの大きな窓と斜め屋根が特徴的だ=東京都中野区で


 花巻市から約500キロ。東京都中野区のアトリエを訪れた。「ここに置かれていたベッドの上で、伯祖父( おおおじ )は亡くなったそうです」。光太郎の弟の孫娘、桜井美佐さん(61)が特別に案内してくれた。所有者は別なので内観は変わったが、木造一部2階建ての外観はほぼ当時のままだ。「いつ来ても、感無量になります」。桜井さんがしみじみと語る。
 光太郎はアトリエで花巻の「小屋」をしばしば気にしていたという。やがて智恵子をモデルにした塑像を完成させたが、体調は悪化するばかりだった。帰郷はかなわず、1956年4月2日、肺結核のために死去、73歳だった。
 空が無い、ほんとの空が見たい――。そんな智恵子のつぶやきが枕元で聞こえただろうか。アトリエからの帰路、知らず知らずのうち、ビルの合間の空を見上げていた。 
アトリエ取り壊しの危機
 高村光太郎の死後も、旧太田村の住民らは「小屋」=「高村山荘」を守ってきた。風雪害などを防ぐため、1957年に木造の覆屋を建て、さらに77年には鉄骨造の上屋で覆った。光太郎がいかに尊敬され、愛されていたかが分かる。隣接の記念館では詩、彫刻、書、遺品などを展示し、地元の小学校に贈られた「正直親切」と書かれた扁額(へんがく)は光太郎の人柄をしのばせる。
  遺作となった「乙女の像」は青森・十和田湖畔に建つ。塑像が制作された東京都中野区のアトリエは洋画家、中西利雄(00~48年)が建てたが、老朽化が著しい。取り壊しの危機にあり、有志が集まって2023年に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(渡辺えり代表)が発足した。
 光太郎は詩集「道程」「智恵子抄」などで知られるが、アジア太平洋戦争中は戦意高揚のための詩も書いた。劇作家で俳優の渡辺代表は光太郎の半生を舞台劇にしたこともあり、「保存する会」の意義を語る。「光太郎は自らに罰を与えました。反省と悔悟のうえで、『平和と自由の祈り』を『乙女の像』に込めました。その思いを伝えるためにも、アトリエを残したい」
 メモ 「高村山荘」(岩手」(岩手県花巻市太田3の91の3)は、東北新幹線新花巻駅から車で約25分。記念館も近くにある。詳しくは記念館0198・28・3012。東京都中野区のアトリエは「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が署名・寄付などを募集している。同会事務局090・4422・1534(曽我貢誠さん)。

昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。

中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。

関連する件で、展示の情報を。

主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。

『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月23日(金)
会 場 : 中野区桃園区民活動センター2階ロビー 東京都中野区中央4丁目57-1
時 間 : 9:00~22:00
休 館 : 5月19日(月)
料 金 : 無料

昨年11月、中野ZERO美術ギャラリーにて「中野たてもの応援団」と協力し「中野を描いた画家たちのアトリエ展」を開催しました。今回はその時の一部ですが、地域の皆様に中西利雄先生やアトリエのことをもっと知っていただきたいと、ミニ展示会を開催することにしました。日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったアトリエについてご紹介します。 

主催:中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会  協力:中野たてもの応援団 
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花巻の「高村山荘/高村光太郎記念館」、中野の「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」、それからアトリエ自体も外観は見学可です。桃園区民活動センターから南西方向に徒歩10分ほど、桃園川緑道添いにあります。モダニズム建築家・山口文象設計によるかなり特徴的な建物なので、行けばすぐ分かります。
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表は行き止まりの路地ですが、そちらからも見られます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、


昭和28年(1953)1月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。

それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。

横浜の神奈川近代文学館さんで先月から開催されている特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」の公式図録です。

大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす

発行日 : 2025年3月20日
著者等 : 県立神奈川近代文学館/公益財団法人神奈川文学振興会編
版 元 : 港の人
定 価 : 2,420円(税込)

特別展「大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす」県立神奈川近代文学館[2025年3月20日―5月18日]公式図録。「折々のうた」をはじめ、詩歌の魅力を伝えた大岡信。おおらかな感性の詩人・大岡信の生涯をおいながら、詩人が紡いだ豊かな言葉の世界に迫る。大岡家ほかから文学館に寄贈された、大岡が遺した書、詩稿ノート、創作メモなど貴重な資料を多数収録。

装丁 須山悠里
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目次
 巻頭詩 神話は今日の中にしかない 大岡 信
 寄稿 日本詩歌の豊穣――『折々のうた』の射程 三浦雅士
 序章 舞い、あらわす
 第一章 生まれ、生きる
  軍国の田におんまれなすつた
  「鬼の詞」(ことば)/わがうた ここにはじまる――
 第二章 出で、立つ
  感受性の祝祭――批評家から詩人へ
  クローズアップ 詩友・谷川俊太郎
  大岡かね子=深瀬サキとともに
  クローズアップ 「春のために」
 第三章 和し、合す
  戯曲、シナリオ
  連句の可能性
  「櫂」連詩、国際連詩へ
  故郷・静岡での継続的連詩の試み
  SPOT 大岡信ってどんなひと
 第四章 うつし、つなぐ
  古典探究
  アンソロジー「折々のうた」
  詩歌の面白さ
 終章 伝え、結ぶ
 詩篇・評論
  初秋午前五時白い器の前にたたずみ谷川俊太郎を思つてうたふ述懐の唄  大岡 信
  微醺をおびて  谷川俊太郎
  大岡信 架橋する精神  宇佐美圭司
 寄稿 大岡信の背中、そしてこれから
  『あなたに語る日本文学史』を読む  五味文彦
  連詩の楽しみ、苦しみ  高橋順子
  大岡信の外国での活動――六〇、七〇年代、そして私の回想  越智淳子
  大岡信と「しずおか連詩」  野村喜和夫
  共鳴が始まる  蜂飼耳
  「折々のうた」に思うこと  永田 紅
  断片と波動 大岡信の歌仙  長谷川 櫂
 大岡信略年譜
 主な出品資料
 執筆者一覧
 出品・協力者一覧

最近流行りの公式図録でありながら一般書店等にも流通させているタイプです。

『毎日新聞』さんに書評が出ました。

渡邊十絲子・評 『大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす』=県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会編(港の人・2420円) 鋭敏な感覚と熟成した「出会い」

 もっとも多くの日本人に知られた大岡信の仕事は、朝日新聞連載のコラム「折々のうた」であろう。毎日、詩歌ひとつを紹介するというのは、口で言うほどかんたんなことではない。
 まず、膨大な詩歌作品をあらかじめ知っている必要がある。新しい出会いはもちろんあるにしても、詩歌との出会いは瞬間になされるものではなく、時間をかけて熟成されてはじめて「出会った」といえる状態になることが多いからだ。また、引用は二行、解説は一八〇字という制約のなかで詩歌の魅力を伝えるのは至難のわざである。しかし大岡は、途中休載期間をはさみながら、足かけ二九年にわたりこの難業をなしとげた。
 この本は、県立神奈川近代文学館の特別展「大岡信展」(五月一八日まで)の公式図録として編まれたものだ(独立した書籍として一般書店で入手できる)。巻頭に置かれた三浦雅士氏の寄稿「日本詩歌の豊穣(ほうじょう)――『折々のうた』の射程」を読んで大岡の仕事を改めて振り返り、その大きさを実感した。大岡の詩も『折々のうた』も批評も書もひとつの地平のうちに描き出したこの寄稿に心を揺さぶられたので、今回ぜひともこの本を紹介したいと思った。
  のちに岩波新書としてまとめられた『折々のうた』巻頭第一首は、志貴皇子(しきのみこ)「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも」。出発にふさわしい清新な歌だ。しかしじつは、新聞連載の第一回は高村光太郎の「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という歌だった。厳しい冬のさなか、当時は「男子一生の大事業」に近かった洋行に際し、船中で作られた歌だという。それがコラム連載初回の一月二五日という季節とも、詩歌の大海原に漕(こ)ぎ出す大岡の武者震いとも、ぴたりと合っていた。しかしあえて「さ蕨の萌え出づる春」にとりかえたのは、詞華集は春夏秋冬の順序で進むものという約束事が尊重されたのと、<少なくとも日本語においては、季節がなかば身体の事柄としてあること>(三浦氏)のためである。それが誰であれ、出発する身体は春を生きているのだ。日本人の身体に深くしみこんだ「季節を生きる、季節として生きる」作法を、大岡は個人の事情に優先させたのである。 
 身体感覚の共有と同期。その鋭い感覚が、たとえば「ぬばたまの」という意味のわからない枕詞(まくらことば)をとらえにかかり、『ぬばたまの夜、天の掃除機せまつてくる』(大岡の詩集タイトル)に結実させる。説明的な言語のレベルでは意味がわからないと言うしかなくても、身体感覚が「ぬ」という暗く不穏な音と「夜」の体感とをとりもつことによって、大岡はこの単語を自分の手から読者へと手渡せる。わからない言葉を、わからないままに使えるのである。巻頭寄稿は、このあたりの機微を明らかにした評論である。 わたしは詩を、言語では説明できないものに言語をもって接近する試みだと思っている。とりわけ日本の現代詩はその方向に先鋭化してきた。そのなかで大岡が武器とした鋭敏な身体感覚は、非言語と無名性に支えられたものである。自分という閉じた存在をひらいて、大いなる存在に溶け込んでいく勇気。それは自分を信じる心と表裏一体のものなのだと思う。

「第四章 うつし、つなぐ」中の「アンソロジー「折々のうた」」の部分に着目されています。昭和54年(1979)1月に『朝日新聞』さんで始まった連載は、書評にある通り、光太郎短歌「海にして……」が記念すべき第一回でした。

展示でも図録でもその第一回については大きく取り上げられています。大岡氏の生原稿、当該短歌を光太郎が揮毫した色紙など。
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当方、展示は3月26日(水)に拝見に伺いました。その際、既に受付等で販売されていたのかどうか、気づきませんでした。図録と言ってもよくあるA4サイズ等の大判ではなく、先述の通り一般書店等にも流通させているタイプでA5判です。うっかり見逃していたかも知れません。『毎日新聞』さんに書評が出て、「えっ? 出てたのか」と、慌てて取り寄せた次第です。

展示は5月18日(日)まで。ぜひ足をお運びの上、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康よろしく、仕事の方も順調に運びまして、もう小型の石膏型を二本作りました。次に中型のを作るところ。暮も正月もない次第です。


昭和27年(1952)12月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかり切りで、この年は暮れて行きました。以前から常々「70になったら本当の仕事をする」とうそぶいていた通りになった感じです。

今月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展について、光太郎がらみで報道が為されていますのでご紹介いたします。

まずNHKさんのローカルニュース。

佐藤春夫が愛した美術作品を展示 和歌山県立近代美術館

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近代文学を代表する和歌山県出身の作家、佐藤春夫が所蔵していた絵画などの美術作品を集めた展示会が和歌山市の県立近代美術館で開かれています。
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新宮市出身の佐藤春夫は、小説「田園の憂鬱」などの作品で知られ、大正から昭和にかけての文壇を代表する小説家や詩人として活躍しました。
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和歌山市の県立近代美術館では、今月(4月)から佐藤春夫が所蔵していたおよそ150点の美術作品が展示されています。

このうち、詩人で彫刻家の高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」は、文学を志して上京したものの思うような作品が残せず、行き詰まった若き日の春夫が描かれています。
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また、川上澄生の版画「絵ノ上ノ静物」は、佐藤春夫と編集者との間で交わされた手紙に出てくることが知られていましたが、展示会を前に春夫の孫から寄贈されたことで実際に所有していたことが確認されたということです。
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企画した宮本久宣 主任学芸員は「佐藤春夫が所有していた美術作品を見ることのできる初めての機会です。文学に関心がある人だけではなく、多くの人に楽しんでもらいたいです」と話していました。
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この展示会、「佐藤春夫の美術愛」は、6月29日まで和歌山県立近代美術館で開かれています。
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続いて『読売新聞』さん。

佐藤春夫 愛した美術品

和歌山で企画展
 新宮市出身の作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964年)が所蔵していた美術作品を紹介する企画展「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。文学で大きな功績を残しながら、美術への関心を持ち続けた作家の一面がうかがえる。
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作家仲間や自筆の絵、版画略法
 春夫の親族から昨年度に絵画などの寄贈を受けたことを記念して開催。生前交流を持った作家の版画や春夫自ら描いた油彩画など、41作家の150点をまとめて見てもらうことにした。
 春夫は医師の父・豊太郎らの影響で新しい文化芸術に触れ、文学を志して上京するが、思うような評価が得られずに行き詰まる。この頃、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)と出会い、絵画制作に目覚めたという。

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 光太郎が描いた肖像画「佐藤春夫像」(1914年)には、そんな苦悩を抱く若き日の春夫が垣間見える。春夫はその数年後、小説「田園の 憂鬱ゆううつ 」を発表し、流行作家に仲間入りするが、その前に二科展で入選した経験もある。油彩画「花」を見ると、その確かな実力がわかる。
 作家としての地位を確立した後も、画家との交流は続いた。川上澄生(1895~1972年)は春夫がほれ込んだ版画家の一人で、作品を多く手元に集めていた。澄生は春夫の詩集「魔女」の挿画も担当し、ほうきにまたがり空を飛ぶ和装の女性をキャッチーに描いている。
 版画家の谷中安規(1897~1946年)との関係も特別だった。ロボットや妖怪が登場する幻想的な世界観を得意とし、春夫が熱心に支援。制作に打ち込む自身の脳内をイメージしたような「画想」(1932年頃)など、どこかユーモラスな作品が多い。
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 春夫と安規は出版社を通じて知り合い、書籍の装画などを通じて関係を深めた。春夫が安規に絵を催促する手紙も展示。自らを「カンシャク先生」と名乗ったり、「シツカリ致セコノ野郎」とせかしたり、気心の知れた関係性が示唆される。
 同館の宮本久宣・主任学芸員は「貴重な版画が多く、日本の美術史を語る上で意義深い作品群だ」と評価。「絵を描いたり、画家と交流したりすることが、執筆活動にも良い影響を与えただろう。春夫が画家だったかもしれないと想像するのも面白いのでは」と語る。29日と5月6日の午後2~3時、学芸員による展示解説がある。会期は6月29日まで。問い合わせは同館(073・436・8690)。

どちらも光太郎の描いた佐藤の肖像画について紹介して下さいました。同館ではことあるごとに出品して下さっている作品ですが、今回も目玉の一つであることは確かです。

描かれたのは大正3年(1914)。光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、長沼智恵子と結婚披露を行った年です。この頃の光太郎は彫刻よりも油絵の方に軸足を置いており、油絵の頒布会も行っていました。その広告が雑誌『現代の洋画』や『我等』に掲載され、佐藤は後者の編集に携わっていた萬造寺斉の勧めもあって、自らの肖像画を描いてもらったそうです。
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佐藤はそれ以前から与謝野夫妻の新詩社で光太郎とは顔見知りでしたが、肖像画を描いて貰うために駒込林町の光太郎アトリエに通うようになり、9歳年上の光太郎と親しく交わるようになりました。そのあたり、光太郎没後に佐藤が書いた『小説高村光太郎像』に詳しく述べられています。

その佐藤が戦後になって、当時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の件を相談され、即座にその作者として光太郎を推挙し、「乙女の像」として結実したわけで、人の縁(えにし)というものの大切さに思いを馳せております。光太郎の名を挙げた人物は他にも複数存在しましたが、それらの人々を代表し、佐藤は「あの美しい十和田湖に貴下の作品以外のろくでもないものがたてられることはありえない」的な説得の手紙を光太郎に書き、光太郎も激しく心を動かされました。

閑話休題、「佐藤春夫の美術愛」展、6月29日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小型エスキスを終り、二体石膏型にとり、その組み合せをすませ、今度は建築家の谷口さんと台石の設計について協議をいたすまでになりました、次は中型の彫刻にかかる次第です。

昭和27年(1952)12月19日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「小型エスキス」「中型の彫刻」は「乙女の像」のための試作。「組み合せ」は二体の位置関係。当初から全体の構図が三角形になるようにと考えていました。
裸婦像スケッチ

昨日は信州安曇野に行っておりました。

今、千葉の自宅兼事務所でこれを書いておりますが、昨日は当初の予定では帰ってくるつもりではなく、塩尻にある何度か泊まった健康ランドで仮眠し、帰り道、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳を拝観し、都内で光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエを保存する会の会合に出席、というはずでした。一度千葉の田舎まで帰ってしまうとまた都内に出るのが面倒ですので。

ところが愛車にトラブルで、帰らざるを得ない状況に。車輌本体は全くノープロブレムですが、癇癪を起こしたのはカーナビ。安曇野に着いた頃から自車の位置と画面の表示にズレが生じ始め、帰る頃には無茶苦茶になりました。南下しているのにどんどん北上していると表示され、実際にいる場所とどんどん乖離。一晩経てば治るかなとも思ったのですが、もし治らなければ大山寺さんにたどり着けません。断念して昨夜のうちに帰りました。

結局帰る途中もずっとしっちゃかめっちゃかで、信州から山梨県、神奈川県と進んでいるのに最北で新潟の妙高市まで行ったと認識。その後も長野県内や群馬県嬬恋村あたりをぐるぐるうろうろしているということになっていました。一晩経って治ったかな、と思って先ほど見てみましたが、やはり長野県野沢温泉村にいることになっています(笑)。

閑話休題。安曇野には光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行きました。

アルプスの山々にはまだ残雪。いい感じでした。
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館に到着すると、ちょうど本館に当たる碌山館前でアルペンホルンの演奏が行われていました。碌山忌ということで、アトラクションの演奏です。いかにも高原という感じで、「いとつきづきし」(笑)。
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隣接する杜江館での「特別展示 智恵子紙絵」を拝見。
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本来撮影禁止ですが、許可を得て撮らせていただきました。
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髙村家から拝借の、紙絵の実物と、光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏撮影の複製と、同時に展示されていました。こういう展示の仕方もありか、と思いました。
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紙絵を収蔵していた箱も。文字は光太郎の揮毫です。
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さらに光太郎草稿。
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生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型試作。顔は智恵子のそれです。
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アルペンホルンの演奏も終わったので、碌山館に。「女」をはじめ守衛の作品が一堂に会しています。
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裏手には光太郎詩碑。
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第一展示棟では光太郎の作品も。
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その後、休憩所兼インフォメーションコーナー的なグズベリーハウスへ。こちらではやはりアトラクションとしてコンサートが。
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そちらも終わり、午後4時、守衛の墓参。歩いていける距離ではありませんので、守衛の兄の令孫・荻原義重氏などの車に分乗して現地へ。
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昨日の信州は強風、というか烈風でしたので、山火事も怖いということで、焼香は無し。お坊様の般若心経読経や荻原氏のお話など。
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いつも書いていますが、墓碑銘は守衛と交流のあった中村不折の揮毫です。中村は太平洋画会での智恵子の師でもありました。

再び館に戻り、懇親会。
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恒例の光太郎詩「荻原守衛」全員での朗読。先導役は臼井吉見文学館の平沢重人館長。昨年は当方でした。
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代表理事、高野博元館長のご挨拶。
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祝辞を述べられた、同館理事でのあらせられる安曇野市長・太田寛氏、荻原氏。
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その後はスピーチ等おりまぜつつ、和気あいあいと懇談/会食。

途中、トイレに行った際。とっぷり日が暮れ、煉瓦造りの碌山館が実に映える感じでした。
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7時45分にお開きとなり、8時には片付けも終わって館を後にしました。

この後、最初に書いた通りの事態となって、結局千葉の自宅兼事務所まで帰った次第です。雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳は日を改めてリベンジに参ります。

「特別展示 智恵子紙絵」は6月22日(日)まで。公式サイトに情報が出ました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

仕事の方はやうやく二尺ばかりのエスキスを完成、今週中に石膏にとりますが、又すぐに三尺五寸の中型原型にとりかかるので今その支度に大童です。


昭和27年(1952)12月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

「二尺ばかりのエスキス」が、上記「特別展示 智恵子紙絵」会場に展示されている小型試作、「三尺五寸の中型原型」は第一展示棟に並んでいる中型試作です。

DMM.comさんから配信されているブラウザゲームを元にした演劇です。

文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)

東京公演
 期 日 : 2025年5月1日(木)~5月11日(日)
 会 場 : IMM THEATER 東京都文京区後楽1丁目3-53
 時 間 : 5月1日(木) 18:00~        5月3日(土・祝) 12:30~ 17:30~
          5月4日(日) 12:30~ 
17:30~  5月6日(火・振) 13:00~
       5月7日(水)  18:00~       5月8日(木)  13:00~
       5月10日(土)   12:30~ 17:30~   5月11日(日)  12:00~ 17:00~
 休 演 : 5月2日(金) 5月5日(月・祝) 5月9日(金)
 料 金 : 全席指定 10,000円(税込)学割5,000円(税込)

京都公演
 期 日 : 2025年5月17日(土)・5月18日(日)
 会 場 : 京都劇場 京都市下京区烏丸通塩小路下ル 京都駅ビル内
 時 間 : 5月17日(土) 12:30~ 17:30~  5月18日(日) 12:00~ 17:00~
 料 金 : 全席指定 10,000円(税込)学割5,000円(税込)

太宰治らと共に帝國図書館を救い絶筆した北原白秋。

転生を選ばず、再び復活を遂げようとする悪しきアルケミストを葬る術を見出すため、負の感情が充満する生と死の狭間に留まっている。一方、石川啄木、高村光太郎そして小泉八雲は、北原白秋を転生させるべく目論み、また久米正雄と直木三十五は、深い親交のある文豪を探し求めていた。

そんな折、アルケミスト・ファウストと出会った文豪たちは、「かつて文学で世界を救おうとした青年」について聞かされる。

終わらない侵蝕を食い止めるため己の文学を信じ、文豪たちは戦いへと赴く。

キャスト
 北原白秋:佐藤永典   石川啄木:櫻井圭登
 高村光太郎:松井勇歩  久米正雄:安里勇哉(TOKYO流星群)
 直木三十五:北村健人  小泉八雲:林光哲
 ファウスト:原貴和   青年:松村龍之介
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舞台化は第8弾だそうで、前作「旗手達ノ協奏(デュエット)」に続き、光太郎が登場します。演じられるのは前作と同じ松井勇歩さん。
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前作はDVDで拝見しましたが、「転生」した「文豪」たちがそれぞれの得意な武器を手に、「侵蝕者」たちとド派手な大立ち回り。そういう系の役者さんたちですので、殺陣はなかなかの迫力、美しいと思いました。

この系列をご紹介する際にはいつも書いていますが、こういうアプローチから文豪たちに触れていくのも有りでしょう。ただし、そこからさらに進んでそれぞれの作品や生きざまに深く触れていっていただきたいものです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨夜は感激しました、とうとう見たとおもひました、どれもおもしろく見ましたが、いかにもあなたが踊りそのものになり切つてゐることを感じました。最後の場面などはあなたが踊りに踊りぬいたといふ感じをうけました、


昭和27年(1952)12月1日 藤間節子宛書簡より 光太郎70歳

藤間節子(後に黛節子と改名)は、大正10年(1921)生まれの舞踊家。戦時中から光太郎に親炙し、その許しを得て昭和24年(1949)、帝国劇場で『智恵子抄』をモチーフにした舞踊を発表しました。『智恵子抄』がこの手の舞台芸術で取り上げられた嚆矢です。翌年には再演も為されています。光太郎生前には藤間の舞踊が唯一の二次創作でした。

昭和24年(1949)の初演から、藤間は光太郎に観に来て欲しいと言い続けていましたが、花巻郊外旧太田村に蟄居中はそれが叶わず、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京したため、初めてリサイタルに足を運んだわけです。ただし、この年のリサイタルでは「智恵子抄」は上演されませんでした。

客席にいる光太郎の姿を写した写真が残っています。
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光太郎の右隣が小川未明、さらにその右隣が高松宮夫妻です。

「文豪とアルケミスト」の舞台も、若い頃から芝居好きだった光太郎、魂となって客席から見ているかも知れません(笑)。

昨日の『日本経済新聞』さん日曜版に「The Art of Sharpening 一心に、研ぐ 海を渡る包丁研ぎ 刀が育んだ生活の技、仏シェフも魅了」という3ページにわたる記事が出ました。

メインタイトルの「一心に、研ぐ」は光太郎詩「刃物を研ぐ人」(昭和5年=1930)からのインスパイアで、詩の一部が記事の末尾に引用されています。
光太郎回想1
詩の全文はこうです。

   刃物を研ぐ人

 黙つて刃物を研いでゐる。
 もう日が傾くのにまだ研いでゐる。
 裏刃とおもてをぴったり押して
 研水(とみづ)をかへては又研いでゐる。
 何をいつたい作るつもりか、
 そんなことさへ知らないやうに、
 一瞬の気を眉間(みけん)にあつめて
 青葉のかげで刃物を研ぐ人。
 この人の袖は次第にやぶれ、
 この人の口ひげは白くなる。
 憤りか必至か無心か、
 この人はただ途方もなく
 無限級数を追つてゐるのか。

画像はかなり後、昭和24年(1949)頃、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られたもの。研いでいる場面ではなく、おそらく肥後守の小刀で鰹節を削っているところです。残念ながら光太郎が彫刻刀を研いでいるところを撮影した写真は確認できていません。

記事全体はこの「研ぐ」をテーマに、日本各地、さらには海外で活躍する人々を追っています。

まず、大阪府堺市の「山本刃剣」の「刃付け屋」と呼ばれる職人・山本真一郎氏。鍛冶職人が打ち上げた庖丁などを、砥石を使って研いで刃をつけたり、切れなくなった刃物を研いだりというプロです。
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欧米ではこのように砥石を使って刃物をメンテナンスするという習慣がほとんど無く、ヤスリのような金属の棒で刃を削るだけだとのこと。これには驚きました。

続いてその砥石の採掘から加工までを手がける京都亀岡の「砥取屋」4代目・土橋要造氏。
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安価な人造砥石に押されつつあったところ、ネットで販売を始めたら息を吹き返したとのこと。仕上げ用の砥石が採れるのは世界でここだけだそうです。もっとも、砥石を使う風習のない国々では採掘をしていないわけで、探せば鉱脈があるのかも知れませんが。

そして実際に刃物を使う、大阪の料理人・中村重男氏。ミシュランガイドの星を獲得した「ながほり」店主です。天然の砥石は人造ものと比較にならないと証言。さらによく研いだ庖丁で作る料理の魅力についても。
 
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海外の方も。フランスの料理学校で日本式の「研ぎ」の魅力や奥深さを伝えているというマリナ・メニニさん。
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こうした講習は日本でも。かっぱ橋道具街の「かまた刃研社」さん。若い料理人も通っているそうです。
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こうした人々を紹介した後、最後に光太郎詩「刃物を研ぐ人」でオチが付けられています。

 多くの人が研ぐ光景を見ているうち、一編の詩が頭に浮かんだ。高村光太郎の「刃物を研ぐ人」だ。
 「黙つて刃物を研いでゐる。/もう日が傾くのにまだ研いでゐる。」と始まり、一心に研ぎ続ける人物を活写する。「憤りか必至か無心か、/この人はただ途方もなく/無限級数を追つてゐるのか。」
 「心を研ぐ」という表現があるように、刃物を研ぐことは私たちの精神世界と深いつながりがあるのかもしれない。どんなに精巧で簡単な機器ができようとも、人はこれからも砥石の上で自分の手を動かし続けるのだろう。

そうであってほしいものです。

光太郎も砥石に対するこだわりは半端ではありませんでした。昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された際も、砥石を持ち出しています。

 いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。
(「信親と鳴滝」 昭和25年=1950)

おなじ文章では、京都鳴滝産の砥石の魅力について語っています。

 小刀やノミがいくら良くても砥石が悪ければ切味が出ない。それで彫刻家は砥石を選ぶ。
 砥石の味は一般の人でもおよそ分るだらう。書家が硯を珍重するのと似てゐるし、誰でも硯で墨をすつた者ならその手応へを感じてゐるだらう。良い砥石で研げば刃物が細かにおりて、刃先が極めて鋭くなり、切味がよくなるのは当然だが、その上に早く研げる。石が緻密でありながら鋒(ほう)が立つてゐるのである。早く研げながら荒くならない。まるで刃物が石面にすひつくやうにやはらかでゐて、しかも鋼をどしどしおろす。これは硯でも同じであつて、硯では撥墨の色と光とに不可言の美が生じ、砥石では研いだ刃物がいきいきと生きて来て、しかも前述のやうな気品が出て来、切れてくる。
 古来、合砥(あはせと)は京都の鳴滝産が一ばんいいといはれてゐるし、まつたくそのやうである。合砥といふのは仕上砥(しあげど)のことで、これが切味の如何を決定するから、昔から砥石ではこれをいちばん大切にする。合砥は全国の所々から出るが、どうも鳴滝に及ぶものはない。それで鳴滝のを本山(ほんやま)といふ。鳴滝の山は既に掘りつくされて今はもう産出しない。丁度端渓の硯のやうに、ただ世人に所蔵される若干の石が転々として誰かの手に渡つて歩くに過ぎない。亡父遺愛の砥石は二面とも鳴滝で、一つは石質軟く、一つは稍硬い。両面それぞれの用を果す。石の四方を朱漆で塗つて、桐の箱に入れてある。
(略)
 私は今その一つを花巻町の花巻病院長佐藤隆房氏邸に預つていただいて居り、一つをこの山小屋の座右に置いて愛用してゐる。この砥石に触れる時、天下豊満、こんなあはれな山の掘立小屋が急に魔法のやうに輝き出すのだ。
 亡父の門下生であつた関野聖雲といふ木彫家が砥石のことにくはしく、自分でも良い石をかずかず持つてゐたやうであるが、先年死んだ。あとに残つた名石は今どうなつてゐることだらう。

この一節を改めて読んでみて、光太郎や光雲一派のメチエがこういうところにも裏打ちされていたんだなと再確認したような気がしました。逆にこういうバックボーンも身につけないまま、何でもかんでも「アート」とする風潮はどうなの? とも。余計なことかもしれませんが。

日本古来の「研ぎ」の技、今後とも途絶えることの無いように、と祈念せざるを得ません。

【折々のことば・光太郎】

毎日午前モデルが来て試作を小さくやつてゐます、モデルを久しぶりで見るのですばらしいです、  トンチ教室のやうなモダンアートになるのがいやなので、うんと太古にやります、


昭和27年(1952)11月30日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎70歳

いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかりました。刃物を使うカーヴィングではなく、粘土を積み上げるモデリングですが。雇ったモデルはプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデル・藤井照子。当時19歳でした。
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光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

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