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新刊情報です。

文豪と酒 酒をめぐる珠玉の作品集

2018年4月20日 長山靖生編 中央公論社(中公文庫) 定価820円+贅

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漱石、鴎外、荷風、安吾、太宰、谷崎ら16人の作家と白秋、中也、朔太郎ら9人の詩人の作品を厳選。酒に託された憧憬や哀愁がときめく魅惑のアンソロジー。

収録作品  屠蘇……夏目漱石「元日」  どぶろく……幸田露伴「すきなこと」  ビール……森鴎外「うたかたの記」  食前酒……岡本かの子「異国食餌抄」  ウィスキー……永井荷風「夜の車」  ウィスキーソーダ……芥川龍之介「彼 第二」  クラレット……堀辰雄「不器用な天使」  紹興酒……谷崎潤一郎「秦准の夜」  アブサン酒……吉行エイスケ「スポールティフな娼婦」  花鬘酒……牧野信一「ファティアの花鬘」  老酒……高見順「馬上侯」  ジン……豊島與志雄「秦の出発」  熱燗……梶井基次郎「冬の蝿」  からみ酒……嘉村礒多「足相撲」  冷酒……坂口安吾「居酒屋の聖人」  禁酒……太宰治「禁酒の心」  
●諸酒詩歌抄 上田敏「さかほがひ」  与謝野鉄幹「紅売」  吉井勇「酒ほがひ」  北原白秋「薄荷酒」  木下杢太郎「金粉酒」「該里酒」  長田秀雄「南京街」  高村光太郎「食後の酒」  中原中也「夜空と酒場」  萩原朔太郎「酒場にあつまる」


最近流行の、文豪アンソロジーものです。

光太郎作品は、詩「食後の酒」(明治44年=1911)。「雷門にて」の総題で、雑誌『スバル』に発表された5篇のうちの一つです。

  食後の酒003

青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの静物画は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚(ビユツフエ)の鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し来る月琴の調(しらべ)は
幼くしてしかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさ


「マドモワゼル、ウメ」は、浅草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅。吉原の娼妓・若太夫に失恋したあと、光太郎は今度はお梅に入れあげ、日に5回も通ったとか。ところがこの年の暮、智恵子と出会い、お梅との関係は解消します。

「ベネヂクチン」は「bénédictine」。仏国ノルマンジー地方のベネディクト派修道院に昔から伝わるリキュールです。その瓶を描いた光太郎の静物画が、よか楼の壁に掛けてあったそうですが、酔った光太郎自身がナイフで切り裂いてしまったとかいう逸話もあります。

右は少し下って大正3年(1914002)に描かれたやはり洋酒の瓶の静物画。おそらく似たような絵だったのではないかと思われます。

強く辛い酒に酔いながらも、心のどこかは醒めている若き光太郎、この時、数え29歳です。

他に収録されている詩の作者で、光太郎と交流の深かった吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄ら、すべて芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーです。「よか楼」が「パンの会」会場となったこともありました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その軸がかかると私の粗末な四畳半に或るほのかな匂がただよふのである。ほのかであるが消えやらない、ロワンタンであるが深く実相にしみ入るけはひ、又殆とあるかと見れば無く無きかと見れば有るもののたたずまひである。
散文「松原友規小品画頒布会」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

松原友規は、光太郎も寄稿していた雑誌『潮音』の表紙画を書くなどしていた画家です。あまり有名な画家ではありませんでしたが、光太郎はその作を高く評価し、軸装して自室にかかげていたとのこと。

「ロワンタン」は仏語の「lointain」。「漠然とした」の意です。

一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

「あのとき、それから」という、昔懐かしのアイテムなどを紹介する連載で、コーラを紹介するものでした。

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長い記事ですので全文は引用しません。上記画像をクリックすると拡大されます。

記事は、光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)、コカ・コーラとペプシコーラの日本法人が本格的に輸入、製造、販売を開始したことに始まり、アメリカでそれぞれが誕生した歴史、本格輸入前の日本での受容が紹介されています。

その中で、光太郎の名が。触れられている段落のみ引用します。

 日本では、大手ブランド2社の上陸前に輸入は始まっていた。輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。高村光太郎の詩集「道程」(14年刊行)には「コカコオラもう一杯」とあり、芥川龍之介が25年に記した手紙にも登場する。

この件はそれなりに有名な話で、日本コカ・コーラ株式会社さんのサイトにも記述がありますし、このブログでも以前にちらっとご紹介しました。

「コカコオラもう一杯」は、『道程』所収の「狂者の詩」(大正元年=1912)という作品の一節です。長い詩ですので、該当部分のみ引用します。

 (略)
 コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH
 銀座二丁目三丁目、それから尾張町
 電車、電燈、電線、電話000
 ちりりん、ちりりん、
 柳の枝さへ夜露の中で
 白ぼっけな腕を組んで
 しんみに己に意見をする気だ
 コカコオラもう一杯
 サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン
 (略)
 ああ、髪の毛の香ひがする
 それはあの人のだ、羚羊(りんやん)の角(かく)
 コカコオラもう一杯
 きちがひ、きちがひに何が出来る
 己はともかくも歩くのだ
 銀座二丁目三丁目、それから尾張町
 (略)

というわけで、「コカコオラ」の語が三回出て来ます。

初出は大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号。この際には「コカコオラ」は「COCA COLA」でした。その他、詩集『道程』(大正3年=1914)に収録される際に、かなりの改変が見られます。

以前は、この時期にコーラはまだ輸入されていなかったはずだ、として、米国留学時代(明治39年=1906~翌年)を思い出しての光太郎の幻想だという説もありました。たしかに、この詩全体が酔っぱらいの幻覚のような内容なので、それも全く否定は出来ません。しかし、近年、コーラ受容の歴史が明らかになるにつれ、本当に銀座でコーラを飲んでいてもおかしくないことがわかってきました。

『朝日新聞』さんの記事に、「輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。」とありますし、明治44年(1911)に発行された雑誌『飲料商報』第27号には、アメリカのコカ・コーラ工場の様子が紹介されています。

 米国人に好かるゝ飲料にコカ、コーラと云ふのがある。此の飲料の壜詰工場は、米国アトランタ州にあつて、主人をモント君と云ふ。モント君非常な八釜敷屋(やかましや)で、工場に向つて「絶対的清潔」を命令するので、職工共は一と通りならぬ、注意と苦心を重ねて居るが、其の結果、此の工場は米国でも第一流の仲間入りが出来て、其の製造にかゝるコカ、コーラの信用は、国の上下に厚いのである。

「狂者の詩」以前に、既にコカ・コーラが紹介されていました。したがって、ネット上に時折「光太郎が初めてコカ・コーラを日本に紹介した」という記述がありますが、それは誤りです。

この話は、画家の林哲夫氏が雑誌『彷001書月刊』第212号(平成16年=2004)に発表した「光太郎、スカッとさわやか――清涼飲料の時代」という記事に引用されていました。

ちなみに『彷書月刊』、題字は当会顧問の北川太一先生作の木版によるものです。

閑話休題。林氏、さらに「サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン」に注目し、「コカコオラ」を含め、薬局のソーダファウンテンで売られていたのでは、と推測されています。

ソーダファウンテンは、現代のファミレスなどで、ドリンクバーに使われている機械です。やはり林氏によれば、明治35年(1902)に、資生堂さんがアメリカから機械一式を輸入し、全国の薬局や菓子店などが追随したとのことです。資生堂さんといえば資生堂パーラー。ここは光太郎も訪れた店で、銀座で現在も営業中。かつては連翹忌会場に使わせていただいたこともあります。また、林氏は、銀座一丁目で薬品や化粧品を扱っていた佐々木源兵衛商店もその候補に挙げています。

おそらく、そのあたりで正解なのでしょう。

ところで、東北地方に展開する「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの工場は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)にあります。そんなご縁で、昨年5月15日に開催された第58回高村祭のプログラムには、広告を出して下さいました。

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ありがとうございました。


さて、もう1件。明日の話題が予告報道されていますので、今日のうちにご紹介します。 

「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演

 十和田八幡平国立公園の002指定80周年を記念し、青森県十和田市の劇団「エムズ・パーティ」(仲島みちる代表)は16、17の両日、市内の2会場で、十和田湖の象徴となっている「乙女の像」をテーマにした朗読劇を上演する。本番を控え、団員たちは声の抑揚や場面を切り替えるポイントの確認など練習に熱を入れている。

 タイトルは「乙女の像のものがたり」で、「十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会」が、像の建立60周年を記念して編集した冊子を基に制作した。

 像の作者である高村光太郎の波乱に満ちた人生を交え、像が完成するまでの過程などを描く。上演時間は約50分。

 練習会場は市民交流プラザ「トワーレ」。夜、仕事を終えた団員が集い、台本を手に感情豊かに、せりふを読み上げた。せりふを切り出すタイミング、声のトーン、場面の進行などを入念にチェックしている。

 仲島代表は「郷土の歴史や文化を子どもたちに伝えたい。朗読劇といっても役者として取り組む以上、感情を込めて表現したい」と意欲を見せる。

 会場は16日が十和田湖観光交流センター「ぷらっと」、17日が十和田市民交流プラザ「トワーレ」で。いずれも午後3時開演。入場は無料。座席数に限りがあるため予約が優先となる。

 申し込み、問い合わせは仲島代表=携帯電話090(7066)2873=へ。


過日もご紹介した「乙女の像のものがたり」朗読劇に関してです。青森の地方紙『デーリー東北』さんでご紹介下さいました。

言い出しっぺである十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトにも紹介されています。原作は当方です。自分の作ったものがこういう形で公演されるというのも、不思議な感覚です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

赤き屋根のあちこちにあり青畠     明治42年(1909) 光太郎27歳 

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市では、そろそろ田植えです。田には水が張られ、蛙の大合唱も始まりました。

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