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本日発売です。

リーチ先生

2019年6月21日 原田マハ著 集英社(集英社文庫) 定価880円+税

日本の美を愛した英国人陶芸家の生涯。アート小説の旗手が贈る感動の物語! 

明治42年、来日したバーナード・リーチ。柳宗悦、濱田庄司ら日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を突き動かしていく。

第36回新田次郎文学賞受賞作。


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『リーチ先生』、平成25年(2013)から、『信濃毎日新聞』さん等に連載され、上製の単行本としては平成28年(2016)にやはり集英社さんから刊行されました。単行本刊行時に出た書評がこちら。そろそろ文庫化されるだろうと待ちかまえておりました(笑)。

架空の(モチーフは存在しますが)陶芸家・沖亀乃介を語り手とし、「先生」である英国人陶芸家バーナード・リーチの美を追い求める姿が生き生きと描かれています。

リーチは光太郎より4つ年少の明治20年(1887)、香港の生まれです。幼少期に京都で暮らしていたこともあり、長じて日本文化に興味を持ち、明治41年(1908)、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、来日の意志を固めました。そして日本で出会った陶芸を生涯の道と定め、白樺派の面々らの協力の下、日本と母国を行き来しながら、英国伝統の陶器・スリップウェアの伝承などに力を注ぎました。

そこで小説には光太郎、父・光雲、実弟・豊周も登場します。おおむね史実に沿った内容です。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、平成29年(2017)には第36回新田次郎文学賞を受賞されています。また、『リーチ先生』ではありませんが、近作『美しき愚かものたちのタブロー』で、次回直木賞候補にエントリーされています。

ちなみに『リーチ先生』、平成30年度の埼玉県公立高等学校入試の問題文にも採用されました。ちょうど光太郎も登場するシーンでした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

是は白耳義詩人ヹルハアランの愛詩である。あの男性的な詩人にとつて恋愛は宗教であつた。崇高な心の飛揚であつた。不可知への没入であつた。心の深さがあらゆる美しい詩句の背後に響いてゐる。

雑纂「訳書広告 ヹルハアラン詩集「明るい時」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

010ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。

いわば『智恵子抄』ベルギー版。こちらの方が先ですが。おそらく折に触れて智恵子に関する詩篇を書き続けた光太郎、ヴェルハーレンの「時」三部作を念頭に置いていたと考えられます。上記ヴェルハーレン評も、そのまま光太郎自身のことのように感じます。

先週の『神戸新聞』さんから。

原田マハさんに新田次郎賞 「美術史小説」へ意欲 

 第36回新田次郎文000学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式が31日、東京都内であり、小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られた。原田さんは「これからも思い切ってフィクションを書いていきなさいと言われたようで大変うれしい」と喜びを語った。
 受賞作は、実在の英国人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979年)や民芸運動を担った芸術家たちをめぐる、史実と虚構を融合させた物語。2014年7月から15年11月まで本紙に連載し、その後出版された。選考委員を務めた作家、阿刀田高さんは「小説の中で、芸術家たちの思いが生き生きと書かれている」と評価した。
 原田さんは学芸員経験があり、美術、芸術史を題材にした作品を多く手掛けている。この日のあいさつで「読者がアートに興味を持ち、調べてもらえたらと思いながら書いている」と明かした。また、「事実と虚構の境界線をあいまいにすることが作風になってきた。これからも『美術史小説』を書き続けたい」と意欲を示した。(大盛周平)


というわけで、原田マハさんが小説『リーチ先生』により、第36回新田次郎文学賞を獲得されました。おめでとうございます。

賞の決定自体は4月で、その頃の報道はすべてベタ記事でしかなく、授賞式の記事を待っていたところ、なぜか『神戸新聞』さんのみで大きく報道されました。他紙の記事は見あたりません。ネット上にアップされていないというだけで、記事にはなったのでしょうか。

『リーチ先生』。以前のこのブログでご紹介しましたが、バーナード・リーチの弟子となった架空の陶工を主人公とする小説です。初出は『信濃毎日新聞』さん他での新聞小説でした。

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リーチは香港の生まれ、光太郎の4歳年下です。幼少期に京都にいたこともあり、日本文化に憧れながら成長し、22歳の時にロンドン留学中の光太郎と知り合ったことで、再来日しました。その後、日英を行き来しながら、日本で身につけた陶芸と、英国の伝統陶芸を結びつける役割を果たしています。

そういうわけで、『リーチ先生』には、光太郎、そして光太郎の父・光雲、実弟・豊周も登場します。

非常に読み応えのある小説です。まだお読みになっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人とは特権ではない、不可避である。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩にはめずらしく、このフレーズは他の文筆作品からの転用です。初出は前年の草野心平詩集『第百階級』の序文です。

心平のように、生まれながらにして詩人となるべき者が不可避的に詩人となるに過ぎず、詩人となった者は特権階級でも何でもない、というわけでしょう。そしてそれは自らにも当てはまると考えているはずです。

光太郎、「不可避」の語を非常に好み、「不可避」一語、または「不可避の道」などの文言を、晩年まで揮毫によく用いました。

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日曜日の『日本経済新聞』さんに載った書評です。10月に刊行された原田マハさんの『リーチ先生』についてです。

リーチ先生 原田マハ著 独自性求めて奮闘する青春

 著者はルソーやピカソらの人生とその時代を、美004術館で働いた経験と知識を生かして小説に仕立ててきた。新作では日英の文化交流に尽力したバーナード・リーチを描いている。リーチと仲間たちの青春ドラマのような物語だ。
 香港で生まれ、3歳まで日本で育ったリーチは、ロンドンの美術学校時代に留学中の高村光太郎と出会う。日本への憧れを募らせて来日を決意。柳宗悦ら「白樺派」のメンバーと交流を深めながら陶芸にのめり込み、最後は英国で窯を開く。
 物語はリーチの助手、亀乃介の視点で語られていく。絵を描くのが大好きで、食堂で外国人と話すうちに自然と身につけた英語力を見込まれた。初めて絵付けをしたときの感動、苦労して作った窯が火事を起こして窯はおろか資料も燃えてしまったときの落胆――。リーチとともに一喜一憂する亀乃介もまた、陶芸の魅力に取りつかれていく。
 物語を貫くのは、芸術には「独自性(ユニークネス)」こそが大切だというリーチの信条だ。この言葉のとおり、自分だけの表現を求めて奮闘するリーチや亀乃介のひたむきな思いに心が揺さぶられる。
 何かに夢中になり、挑戦すること。国境や国籍を越え、友情を育む慶び。若者たちのあふれる情熱が、さわやかな読後感をもたらす。(集英社・1800円)


この他にも、先月には『毎日新聞』さんに短評が出ましたが、残念ながら光太郎の名は書かれていませんでした。

今後、各メディアで取り上げられそうな予感がしていますが、その際には光太郎や光雲も登場することに触れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

仇討かいさかひ事か生き死にの際(とき)か人みな血眼なるは
明治42年(1909) 光太郎27歳

75年前の今日、まさに日本全体がこういう感じだったのでしょう、光太郎も含めて。短歌自体は明治末の作ですが、その32年後を予言しているような内容です。

毎年この時期になると、にわか光太郎ファンが現れます。「記憶せよ、十二月八日。 この日世界の歴史 あらたまる。 アングロ サクソンの主権、 この日東亜の陸と海とに否定さる。」と、ブログなどに引用してありがたがる愚か者がいて辟易します。

昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。

リーチ先生

2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思わ000れる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

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