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光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている、信州善光寺からイベント情報です。

第十五回長野灯明まつり 「未来へ繋ぐ平和の灯り」

開催期間 : 平成30年2月7日(水)~2月12日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー 
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 
       長野駅前西口・東口広場、善光寺表参道
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会
共  催 : 公益社団法人長野青年会議所   

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

2004年2月、長野冬季オリンピック記念イベントが発展した形として生まれた長野灯明まつりも、2018年同月、第十五回を迎えることとなりました。平和の象徴である善光寺を五輪カラーの五色でライトアップする「ゆめ常夜灯」、平和への想いがカタチになった「ゆめ灯り絵」、これらの「灯り」を通じて「世界に対し平和の灯りの発信」という、変わらぬメッセージを送り続けて参りました。
第十五回のテーマは「未来へ繋ぐ平和の灯り」とし、日本のみならず世界中が平和の灯りを取り戻せるように、「変わらぬ平和への想い」を、そして「あきらめない心」を、より一層強く発信し、ご参加いただく皆様に平和を考える機会をご提供いたします。
「長野灯明まつり」は、善光寺のまちである「信都・長野」オリンピック開催都市である「国際都市・NAGANO」この2つを融合した「まつり」として、世界平和という「ゆめの灯り」を灯していきます。
そして、現在でも世界各地で行われている戦争やテロに対し、我々はオリンピックの精神でもある「平和」の精神を繋ぐ都市として、長野の未来、日本の未来、そして世界の未来へ繋ぐためにも地域に住まう若者たちにこの精神を広く伝えていく必要があると考えます。長野灯明まつりを通じて、平和の灯りを未来へ繋ぐべく第十五回も盛大に開催します。

実施する事業
①「善光寺・五色のライトアップ」
 市照明から建築照明、ライトパフォーマンスまで幅広い光の領域を開拓する照明デザイナー石井幹子先生をはじめとした有名デザイナーの皆様の企画・デザインで「国宝・善光寺」をライトアップ。
②「ゆめ灯り絵展」
 「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、小学生から大人まで想い想いのデザインをした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベント。
③「宿坊・ゆめ茶会」
 善光寺の各宿坊による長野灯明まつりオリジナルの企画・サービスのご提供。
④「ゆめ演奏会」
 善光寺本堂に特設ステージを組み、連日アーティストを入れ替えて演奏会を実施。ライトアップをした幻想的な善光寺本堂の下で聴く音楽で来場者をおもてなしします。
⑤「スキー&スノボ ワンメイクジャンプ台」
 オリンピックにちなんだスポーツの祭典。中央通りにジャンプ台を設置し、プロのスキーヤースノーボーダーによるジャンプの競演。街中で行うジャンプで来場者を魅了します。
⑥「長野灯明まつり謎解き周遊イベント」
 オリンピックと善光寺にまつわる謎を各箇所に散りばめられたヒントを頼りに謎を解いていきます。正解者には先着でオリジナルのピンバッジをプレゼントします。
⑦灯明バル
 長野駅前、権堂地区の飲食店と協力をして、灯明まつりオリジナルのメニューやサービスを提供し、来場者のおもてなしをします。事前に販売されるチケットを購入するとお得です。


十五年前から行われていたそうですが、当方、存じませんでした。

光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが安置されている仁王門もライトアップされるとのこと。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな銅像や壁画や建築が出来ても喜びも悲しみもしない国民はあはれな美の冷感症患者である。

散文「展覧会偏重の弊」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

直接には、文部省主催の展覧会シーズンの秋だけ、美術が話題になることへの警句です。

一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊から。

舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も

 毎年夏から秋にかけて大勢の観光客でにぎわ001う長野県・上高地。1933(昭和8)年にバスの乗り入れが始まるまで、旅行者や登山客は、徒歩で徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入った。日本アルプスの魅力を初めて国内外に広く知らせたウェストン(1861~1940)の著書など、多くの紀行文に登場する峠を訪ねた。【関雄輔】

 「峠の最高点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで、円い形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山の風景とは、全くその趣を異にしている」
 
 英国出身のウェストンは宣教師として日本を訪れ、1891年(明治24年)の夏、徳本峠を経て槍ケ岳を目指した。悪天で断念したが翌年、登頂に成功。その後も繰り返し徳本峠を越え、周辺の魅力を「日本アルプスの登山と探検」などの著書に記した。ウェストンだけでなく、上高地を舞台に「河童(かっぱ)」を書いた芥川龍之介や、詩人の高村光太郎もこの峠を歩いたという。
 
 今月1日の早朝、松本市の安曇支所前でバスを降り、徳本峠への道を歩き始めた。上高地までは約20キロ。2時間ほど歩くと、道ばたに炭焼き窯の跡があった。上高地が観光地化される以前から、この峠道は狩猟や炭焼きなどに従事する人々の生活の道だったのだろう。今は利用する登山客も少なく、ハイシーズンの北アルプスとは思えない静かな山道が気持ちいい。
 
 さらに歩くこと1時間、現在は営業休止中の岩魚留(いわなどめ)小屋にたどり着いた。道沿いの沢が、岩魚を足止めするほどの急流に変わることからこの名が付いたという。

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 小屋の前で休憩中、この日初めて他の登山者と出会った。神奈川県藤沢市から来たという小川武士さん(53)。「多くの人が行き来した歴史あるルートで、以前から
一度歩いてみたいと思っていた」。互いの疲れをいたわり合い、峠への急坂に取りかかった。
 
 息を切らしながら3時間ほど登ると、峠の広場に出た。標高2135メートル。あいにくの曇り空で、ウェストンが「日本で一番雄大な眺望」と賞した穂高岳の姿は見えない。翌日に期待をかけ、今夜の宿である徳本峠小屋に荷物を下ろした。
 
 1923(大正12)年に営業を始めた徳本峠小屋は、2010年に建てられた新館に隣接して旧館がそのまま残されている。国の登録有形文化財に指定されており、内部の柱や梁(はり)は建てられた当時のままという。
 古い落書きがいくつも残されていた。ほとんどが名前と日付で、特に多いのが「昭和二十年八月」。「八日」もあれば「二十日」もある。終戦の前後、彼らはどんな思いでここに来たのだろう。
 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴だった。峠の木々004の間から穂高岳が見えた。峠から尾根伝いに霞沢岳(2646メートル)まで往復し、昼過ぎに上高地へと下山。梓川沿いの散策路は大勢の観光客でにぎわっていた。
 大正時代末から昭和の初めにかけ、上高地は観光地として大きく姿を変えた。商店や旅館が増え、バス路線の開通で峠道は使われなくなった。豊かな自然は今も変わらないが、人の流れは100年あまりで大きく変化した。英語や中国語の会話が聞こえてくる現代の上高地を歩きながら、ウェストンらが歩いた往時の風景を思った。

徳本峠登山ルート(長野県松本市)
アクセス
 徳本峠へは、安曇支所前から徒歩で約7時間半。峠から上高地への下りは約1時間半。霞沢岳へは峠から往復約7時間。所要時間は個人差が大きいため要注意。徳本峠小屋(090・2767・2545)は予約が必要。


記事にある、光太郎が徳本峠を越えて上高地に入ったのは、大正2年(1913)の夏。あとから結婚前の智恵子も追いかけてきて合流、1ヶ月ほどを過ごしました。智恵子も健脚で、徳本峠を歩いて越えました。光太郎は上高地で描いた油絵を、この年開かれた生活社展に出品しています。

上高地についてはこちら。



白状いたしますと、当方、上高地には行ったことがありません。いずれ、とは思っております。


【折々のことば・光太郎】

夫人一生を美に貫く。 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず、 夫人おんみづからめでさせ給いし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ。

詩「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎の本格的な文学活動の出発点といえる新詩社を主宰していた与謝野鉄幹・晶子夫妻。いわば光太郎の師にあたります。

その晶子が亡くなったのは、昭和17年(1942)5月29日。晶子は光太郎より5歳年長でしたので、数え65歳。早いといえば早い逝去でした。光太郎のこの詩、智恵子へのそれとはまた趣を異にした、味わい深い挽歌です。

しかし、こう言っては何ですが、晶子はこの時点で亡くなったのは、ある意味、幸せだったかも知れません。

かつて日露戦争の際に、出生する弟に「君死に給ふことなかれ」と謳いかけた晶子も、この年にはこんな短歌を詠んでいます。

  戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
  水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

「四郎」は「四男」の意で、大正2年(1913)生まれのアウギユスト(本名です。ロダンのファーストネームから採りました)。

この時期、ほとんどすべての文学者は、こうした戦意高揚の作品を書くことが求められていました。変な言い方ですが、晶子ももう少し生きながらえてしまっていたら、この手の歌をもっとたくさん遺してしまうことになったでしょう。そうならなかったのがせめてもの救い、というわけです。

一昨日、塩尻市古田晁記念館さんを後に、安曇野市の碌山美術館さんを目指しました。

途中の車窓からの風景。北アルプスの山々です。

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周辺に観光に訪れている方も多かったようで、意外と車が混雑していましたが、午後3時近くなって到着。

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まずは一通り、展示を拝見。

最初は、碌山荻原守衛に敬意を表し、本館であるレンガ造りの碌山館へ。重要文化財の「女」、光太郎がパリで粘土原型を見て、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた「坑夫」など、守衛の彫刻作品が並んでいます。

裏手には光太郎詩碑。傍らに植えてくださった連翹がまだきれいに咲いていました。

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種類によっては、桜もまだ残っていました。

杜江館では、守衛の絵画がずらっと並んでいました。自分では意外なところでしたが、守衛の絵画をまとめて観たのは初めてだったかもしれません。

第一展示棟には、光太郎や中原悌二郎、戸張孤雁ら、周辺人物の作品。光太郎の作品はいずれもブロンズですが、数が増えていました。ありがたいことです。

第二展示棟は、春季企画展 「美の概念 -具象の中の抽象性-」展を開催中。石井鶴三、喜多武四郎、基俊太郎といった、後の世代の彫刻家の作品が並んでいました。

午後3時半から、杜江館2階で研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」が開催されました。

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3名の方から発表がありました。まずは同館学芸員の濱田卓二氏。文献から推定される、守衛のロダン訪問の時期、内容等について。続いて、碌山友の会会長を務められている幅谷啓子氏から、近代日本でのロダン受容史について。最後は、地元ご出身の彫刻家・酒井良氏が、実作者の立場から。それぞれ、光太郎にも触れる発表をしていただき、興味深く拝聴しました。

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午後6時からは、グズベリーハウスにおいて、「碌山を偲ぶ会」。30名ほどが集まりました。

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しばらく前から恒例となっている、光太郎詩「荻原守衛」の全員での朗読に続き、献杯。ビュッフェ形式で(連翹忌に倣ってだそうです)料理をいただきつつ、スピーチに花を咲かせ、交流を深めました。参会の皆様の、守衛への熱い敬愛の思いが感じられました。

名残を惜しみつつ、午後8時に閉会。一路、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

光太郎ともども、日本近代彫刻の礎を作った碌山荻原守衛。その業績が、末永く語り継がれて行ってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

人情ぽいものよ、 願はくはおれの彫刻から去れ。 無ざんなまでに平然たるもの、 それが欲しい。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ロダンへの崇敬から自らの彫刻の道筋を定めた光太郎ですが、単なる模倣に留まることを良しとしませんでした。また、師と仰ぐロダンの作品も、そのすべてを無条件に良しとはしませんでした。特に引っかかったのが、「人情ぽいもの」。いわくありげなポーズなどを指すのではないかと思われます。

昨日は、日帰りで信州に行っておりました。目的は、安曇野の碌山美術館さんで開催された、第107回碌山忌。光太郎の朋友・碌山荻原守衛の忌日の集いでした。

同館にお邪魔する際には、同じ方向にある、光太郎ゆかりの人物関わりの文学館や美術館にも立ち寄ることにしておりまして、昨日は、塩尻市古田晁記念館さんを訪れました。

朝、7時30分に愛車を駆って自宅兼事務所を出発。そちら方面に行く際、これまでは東関道、首都高、中央道、長野道と乗り継ぐパターンでしたが、少し違うルートを通ってみました。土曜日でしたので、首都高から中央道に入ってしばらくは渋滞していることが予想されましたし、先月、圏央道の北関東部分がすべてつながりましたので、そちらを走ってみました。

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距離的には大回りになりますが、首都高から中央道に入ってしばらくの渋滞を考えると、時間的にはそう変わらないかな、と思った次第です。同じくらいの時間なら、距離が長くても渋滞していない方を採りたいと思いました。案の定、八王子JCTから中央道に入り、山梨県に入るまでは順調でした。ところが、勝沼インター手前で、大型トラックが炎上したとのことで、大月あたりから15㎞ほど渋滞、通過に1時間半くらいかかりました。

遠出の際に時折あるのですが、こうなると手も足も出ません。改めて自分がそういう原因を作らないよう、運転には注意しようと思いました。

双葉SAで昼食後、岡谷JCTから長野道に入り、目指す古田晃記念館さん最寄りの塩尻インターで下車。まだ桜が満開でしたし、趣のある大きな神社などもあって、余裕があればぶらぶら散策したかったのですが、予想外の時間ロスがあったため、そうもいきませんで、残念でした。

ほどなく古田晃記念館さんに到着。

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『高村光太郎全集』を刊行した、筑摩書房さんの創業者・古田晃の旧宅です。昭和初期の建築だそうですが、国の登録有形文化財の指定を受けています。

『高村光太郎全集』は、光太郎没後の刊行ですが、生前から光太郎の選詩集的なものが同社から刊行されています。昭和28年(1953)には、中山義秀解説による『道程・典型 現代日本名詩選』。同29年(1954)には『現代日本文学全集24 高村光太郎集 萩原朔太郎集 宮澤賢治集』。また、『展望』など、同社刊行の雑誌に光太郎はたびたび寄稿していました。

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そうした関係があり、古田はたびたび光太郎終焉の地・中野のアトリエを訪れ、光太郎日記にその名が記されています。また、光太郎と交流の深かった、当会の祖・草野心平とはさらに縁が深く、心平が経営していた居酒屋「火の車」の常連で、心平や、「火の車」の板前だった橋本千代吉の回想に、その破天荒な酒豪ぶりが詳述されています。

さて、記念館。

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土蔵の1階部分が展示スペースになっていました。古田自身の書き残したもの、交流の深かった人物からの書簡や原稿、そしてそれぞれの肖像写真などが展示されています。

太宰治、川端康成、宮本百合子、島崎藤村、井伏鱒二、渡辺一夫などなど、錚々たるメンバーです。


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当会の祖・草野心平の油絵や原稿、書簡なども。

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太宰の葬儀に際し、古田が読んだ弔辞の原稿。

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高田博厚作の光太郎胸像。

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同一の型から取ったものは、岩手の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の豊科近代美術館さんなどに収蔵、展示されています。

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こちらのものは、古田が社長室に飾っていたものだそうで、そのエピソードは存じませんでした。

もしかすると、光太郎からの書簡や書の揮毫などがあるかと期待していたのですが、それはありませんでした。

二階は三間続きの座敷。

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窓から見える、母屋へと続く渡り廊下。

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母屋の方が低い位置にあり、斜めになっています。した003がって、窓は平行四辺形。時代はまるで違いますが、奈良の春日大社さんの回廊などもそうなっています。匠の技ですね。

こちらは土・日・祝日のみの開館。ただし雪深い冬期は閉鎖です。ありがたいことに入館無料。ぜひ足をお運びください。


こちらを後に、再び愛車を駆って、安曇野碌山美術館さんへ。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

どうせ死ぬ首の中に死なないものがある。 どうせ死ぬものがそのまま、 死なないものに見えてくる。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

ここでの「首」は、光太郎が肖像彫刻としてあつかった人々のことでしょう。彫刻作品になることで、永遠の命が吹き込まれ、死なない首への変貌がおこります。古田晃記念館さんで見た光太郎の首、それから明日レポートしますが、碌山美術館さんで見たさまざまな首から、そう思いました。

昨夜、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽんトレッキング100」を拝見しました。

昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映され、そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

昨日は「「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」。

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かつてバスがなかった時代、麓の新島々から上高地までは、徒歩で登るしかなかったわけで、そのルートを2日かけて改めて歩く、というコンセプトでした。

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ナビゲーター役は、ファッションモデルの仲川希良さん。登山ガイドの方と一緒に歩かれました。

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このルートは、大正2年(1913)、翌年に結婚する光太郎智恵子も歩いたルートということで、途中の岩魚留小屋に着いたあたりで、その話が出ました。

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小屋の傍らに聳える推定樹齢数百年という桂の巨木。

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後に、光太郎智恵子それぞれが、この木の思い出を書き残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)
「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

智恵子の言葉は番組で引用されました。ただ、「晩年」と紹介されていましたが、そう言うにはちょっと早いのですが……。

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その他、日本アルプスの魅力を海外に発信し、さらに国内に近代登山を広めたウォルター・ウェストンのエピソードがふんだんに紹介されました。ちなみに光太郎智恵子もウェストンと会っています。

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予定では来月はじめまで、各地の紅葉風景を紹介されます。

また紅葉の季節が近づいた頃、再放送していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私の苦しみはこれから本当にしん身の苦しみになるに違ひない 私の悩みは私に死力を出さないでは置かないに違ひない 私の悲しみは私をしばしば濡れしぼませるに違ひない しかし、私の喜は私の生(いのち)を意識する時たちまち強大な力となつてあらはれるに違ひない 

詩「よろこびを告ぐ ――TO B.LEACH――」より
 
大正2年(1913) 光太郎31歳

上高地で智恵子と夢のような日々を過ごし、新機軸の団体展「ヒユウザン会展」を無事に終え、ますます意気軒昂だった時期の言葉です。

「B.LEACH」は陶芸家のバーナード・リーチ。ロンドンで光太郎と知り合って、光太郎より一足早く来日し、奮闘していました。同じリーチに宛て、2年前には「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」という詩を贈った光太郎。その頃はデカダン生活からの脱却はまだ不完全でしたが、智恵子との邂逅を経て、ようやく自分の道を見つけたという「よろこび」を語っています。

テレビ放映情報です。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」

NHK BSプレミアム 2017年1月25日(水)  19時00分~19時30分 

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓

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昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映されました。その中でも、大正2年(1913)に婚前旅行で上高地を訪れた光太郎智恵子にちらっと触れられました。そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

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そして上高地クラシックルート編が、来週水曜日の放映。

事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。そのあたりは一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。尺の都合などでカットされなければ、そういった話が出るものと思われます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれの魂をつかんでくれ おれの有り様(やう)を見つめてくれ 「夜目遠目笠のうち」 そればつかりは真平(まつぴら)だ

詩「カフエにて」 大正元年(1912) 光太郎30歳

「夜目遠目笠のうち」は、よく見えないものを、実際よりずっと美しいものに仕立ててしまうものだということ。買いかぶらずに、醜さや汚さも内包した生身の「高村光太郎」を見てくれ、という内容です。

誰に? やはり、智恵子に、でしょう。

内容的には一昨日、昨日の記事と前後しますが、碌山美術館さんでの講演の前、8月7日(日)午前中に訪れた豊科近代美術館さんをレポートします。

前夜から宿泊していたのは、青木湖畔のホテルブルーレイク&リゾートさん。例によってさっさと就寝したので、朝は早く目が覚め、湖畔を散策。

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こんな看板がありました。

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「鹿に注意」。鹿なら見てみたいな、と思いましたが遭遇できず。「しか」し、同じ看板の裏は……

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熊はさすがにパスしたいところでした。遭遇せずに済みましたが。

朝食後、ホテルをあとに、愛車を駆って安曇野へ。1時間ほどで豊科近代美術館に到着。

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なかなか瀟洒な建物です。いきなり目的の一つ、高田博厚の彫刻がお出迎え。

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同館の通常展示は、それぞれ光太郎と縁のあった、彫刻家の高田博厚と、画家の宮芳平の作品が中心です。以前から、碌山美術館さんに足を運ぶ際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家の記念館なども訪れる習慣となっており、今回はこちらにお邪魔しました。

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高田の彫刻は展示室に入りきれず、中庭や廊下などにも。

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そして、光太郎の胸像。下記は同館のミュージアムショップで売っているポストカードです。

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同一の型から取ったものは、岩手花巻の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の塩尻市にある古田晃記念館さんなどにも収蔵されています。

豊科近代美術館さんの光太郎胸像は、高田が他の日本人芸術家をモデルにした胸像とともに展示されていました。森鷗外、中原中也、佐藤春夫、宮沢賢治、岩波茂雄、岸田劉生、梅原龍三郎、高橋元吉などなど。その人々はそれぞれ光太郎と縁のあった人物でもあり、同窓会というかサロンというか、そんな感じを受けました。

他のジャンルの作品を含め、同時代の彫刻家の中で、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎が最も高く評価した高田の作品は、やはり光太郎のそれにも通じる精神性を感じるものでした。

宮芳平の絵、当方、現物は初めて観ました。鷗外が認めたという、特異な才能を感じました。

そして、高田、それぞれに宛てた光太郎書簡のコピーが展示してあり、興味深く拝見。コピーは以前から観ていましたが、こういう場で観ることで、違った見え方がしました。


他にも信州には、光太郎と縁のあった芸術家の記念館などで、訪れたことのない場所がまだまだあり、来年以降、4月の碌山忌などを使って訪れようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの
明治37年(1904) 光太郎22歳

昨日は今年から「山の日」。北アルプスの山々は、やはり素晴らしいビジュアルでした。

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4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。
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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

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時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました(汗)。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする

明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。

今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。

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こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。

釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。

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行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。

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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。

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2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。

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時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。

さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。

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場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。

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入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。

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邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。

その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。

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こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。

桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。

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門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。

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山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。


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さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日

大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。

銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。

信州軽井沢からのイベント情報です。 

軽井沢町立中軽井沢図書館 ☆青木館長朗読会☆

   2015年3月14日(土) 14時00分から
  
 軽井沢町立中軽井沢図書館多目的室 軽井沢町大字長倉3037番地18

室生犀星 著  “我が愛する詩人の伝記より「高村光太郎」” を朗読します。

はじめにネットでこの情報を見つけた時は、図書館の館長さんというと、ステレオタイプの連想で胡麻塩頭の神経質そうなおじいさんだろう、そんなの聴きたがる人がいるのかな、と、勝手に思つたのですが、調べてみると、さにあらずでした。

「青木館長」は、元NHKアナウンサーの青木裕子さん。NHKを定年退職後の現在もフリーとしてNHKさんのラジオ番組「視覚障害ナビ・ラジオ」という番組に出演なさっているそうです。こちらは視覚障害者の方々向けのものだそうですが、その中で朗読を披露されることもあるとのこと。

さらに軽井沢に「軽井沢朗読館」を設立、朗読の活動無題にも取り組まれているそうです。

という方ですので、わざわざ「青木館長朗読会」と告知するのもうなずけますね。

お近くの方、ぜひどうぞ。

それにしても犀星の「我が愛する詩人の伝記」、オリジナルは昭和33年(1958)の刊行です。昨年は金沢の犀星記念館の市民講座で扱われましたし、なかなか色あせない魅力を放つものです。中公文庫で出ていた復刻版も絶版ですが、古書市場で手に入ります。ぜひお読み下さい。

軽井沢は犀星が昭和6年(1931)に別荘を建て、亡くなる昭和36年(1961)まで毎年夏にはそこで過ごしたそうです。その別荘が室生犀星記念館として公開されています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月24日

昭和57年(1982)の今日、東急百貨店日本橋店七階グランドホールで開催されていた「生誕100年記念 高村光太郎展 智恵子その愛と美」が閉幕しました。

2月19日からの会期でしたが、その前になんば高島屋で000の大阪展が1月21日~26日でした。いずれも6日間だけの開催でした。

そのわりには光太郎の彫刻が約50点、絵画が約20点、書が約40点、智恵子の紙絵も20点に油絵も1点、さらに光太郎智恵子それぞれの書簡約20点、光太郎詩稿約20点、著書も約30点と、大規模な展覧会でした。それだけの逸品が並んだのに、6日間ずつというのが信じられません。

ところで、この年は正確に言うと生誕99年ですが、もうすぐ100年ということで「生誕100年記念」と謳ったようです。

ちなみに来年、平成28年(2016)は、智恵子生誕130年、光太郎没後60年です。それを冠した企画展等をぜひ開催していただきたいものです。全国の美術館、文学館、イベント会社などの皆様、よろしくお願いいたします。

長野県の松本平地区で発行されている『市民タイムス』という地方紙があります。そちらの一面コラム「みすず野」で、昨日、光太郎に触れて下さいました。 

みすず野 1月23日(金)

雪はしんしんと降る、と言う。雨はさんさん、ざんざんであり、日はさんさんと照る、と言う。日本語の表現は多様で、美しく、趣深い。雪のしんしんは、漢字では「深深」、夜がしんしんと更ける、しんしんと冷えると同じで、ひっそり静まり返るさまを表す◆確かに、雪が降り積もる日は、昼間でも車のエンジン音など音が吸い込まれて、とても静かである。「雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光を発す。(後略)」と詠ったのは、詩人で彫刻家の高村光太郎だ◆光太郎は、昭和20(1945)年4月の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁で岩手花巻に疎開、敗戦後は花巻郊外の山小屋に移り、独り農耕自炊の生活を7年間続けた。冬は深い雪に閉ざされ、つらく厳しいものだったが、自らに戦争責任の罪を科した。「雪白く積めり」の詩には、その覚悟が込められている◆中信地方も湿った雪が降り、交通機関は乱れ、多くの人が雪かきに追われた。山間部は大雪だろう。高齢者宅など心配になる。車の運転に焦りは禁物、余裕を持って出勤を。
 
 
引用されている詩「雪白く積めり」は昭和20年(1945)、花巻郊外太田村の山小屋に移って間もない頃に書かれたものです。この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらが、光太郎が暮らしていた当時の山小屋の写真。
 
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こちらは去年の今頃の山小屋の写真です。
 
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この冬は、東北でも信越方面でも積雪量が多く、雪崩などの被害もかなり報道されています。暦の上ではもうすぐ立春。気温はまだまだ低い状態ですが、昼間の陽射しには、確実に春の息吹が感じられます。雪国の皆さん、もう少しの辛抱です。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月24日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエに、十和田湖畔の裸婦群像制作のための機材、資材類が届きました。
 
当日の日記から。
 
大宮工作所より回転台、心棒届く、又板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、
 
「小坂さん」は小坂圭二。裸婦像制作の際に助手を務めた、新制作派所属の彫刻家です。下の画像、左の人物です。
 
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「回転台」は、上の画像で、像の足もとに写っています。もともと軍用で、機銃か何かの台座に使われていたものだということです。

一昨日、信州安曇野碌山美術館さんで開催された第104回碌山忌に行って参りましたが、その前に立ち寄った所があります。
 
同じ安曇野市にある臼井吉見文学館さん。
 
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臼井吉見は編集者、作家。やはり安曇野の生まれです。
 
昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊、編集長に就きます。
 
『展望』には、発刊の年に詩「雪白く積めり」が掲載された他、翌昭和22年(1947)には20篇からなる連作詩「暗愚小伝」が載るなど、光太郎作品がたびたび掲載されました。
 
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「暗愚小伝」は、ある意味、光太郎のターニングポイントになった作品群です。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
「暗愚小伝」の載った号に記された「編輯後記」で、臼井はこう書いています。
 
 つづいて二回の戦火に遭ひ、遠く岩手の山奥にみづからの手でしつらへた住ひに孤坐する高村光太郎氏が、想を構へること二年間、稿成つて珠玉二十篇を寄せられたことは感謝にたへない。歌ふところは孤独な老詩人の生涯の精神史であり、題して暗愚小伝といふ。電燈のつかない山小屋の榾火のあかりで鏤骨の推敲を重ねられた夜々をおもひ感慨なきを得ない。この詩人の数多い詩業のなかで本篇の占める特異な位置と意味については贅言するに及ぶまい。
 
掲載誌の編輯後記ということもあり、ここでは褒めています。しかし、これは言わば「建前」。昭和48年(1973)に有精堂から刊行された「日本文学研究資料叢書 高村光太郎・宮沢賢治」所収の「高村光太郎論」では、「本音」が出ています。
 
詩稿を手にして、ぼくはいたく失望したことをいまでも覚えている。これをかきあげないかぎり、一行も他の文章はかけないとまで言われ、骨にきざむ思いで苦心されたものであっただけに、いたましい思いなしには読み通せないものであった。そこには詩のリズムは消え失せて、説明ふうの言葉だけが並んでいたといっても過言ではなかった。
 
編集者というもの、なかなか一筋縄で000はいかないものです。
 
さらに臼井は、昭和39年(1964)から、実に10年かけて長編大河小説『安曇野』全五巻を書きました。新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、安曇野に生きる人々の群像が描かれています。
 
第二部では守衛との絡みで光太郎も登場します。
 
さて、安曇野市臼井吉見文学館さん。
 
その『安曇野』の原稿をはじめ、臼井の遺品や著書、蔵書、揮毫、書簡などが展示されています。平日ということもあり、他に入場者もなく、学芸員の方が細かく説明して下さいました。ありがたいかぎりでした。
 
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光太郎の原稿や、臼井宛の書簡の類はないかと期待していたのですが、そういうものはないとのこと。その点は少し残念でした。
 
安曇野方面には、他にも光太郎とゆかりのあった人物に関わる文学館、美術館のたぐいがたくさんあります。これからも、毎年、碌山忌にはお邪魔すると思いますので、そうした施設を毎年少しずつ制覇していきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月24日

平成9年(1997)の今日、NHK総合テレビで放映された「夢用絵の具」で、智恵子が扱われました。
 
サブタイトルは「ふたつの緑 高村智恵子」。003
 
この番組は毎回一つの「色」を軸に、その色と関わりの深い一人の人物をからめて描くというコンセプトの45分番組でした。平成8年(1996)の11月に単発で、その後、同9年の4月から翌年3月まで1年間、毎週木曜日の夜に放映されました。
 
MCは堺正章さん、大島さと子さん、テーマソングは辛島みどりさん。智恵子の回のゲストは浅野ゆう子さんでした。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる光太郎の評論、「緑色の太陽」に触発され、画家への道を目指す智恵子。しかし太平洋画会では、師・中村不折に人体を描くのに緑の多用は避けるべき、とたしなめられます。
 
絵画制作に絶望後、心を病んだ智恵子が作り始めた紙絵。そこにも鮮やかな緑が……。
 
平成10年(1998)には、好評だった回の内容をまとめた『夢用絵の具 心を染めた色の物語』(中村結美/夢用絵の具プロジェクト著、駿台曜曜社)が刊行されました。

昨日、信州は安曇野に行って参りました。光太郎の朋友・荻原守衛(碌山)の忌日・碌山忌だったためです。
 
会場は安曇野市の碌山美術館さん。
 
昨年は雪だったことを思い出し、ヒヤヒヤしながらハンドルを握りましたが、今年は大丈夫でした。ただし、夕方にはやはり寒いと感じましたし、帰りの道中、八王子付近では土砂降りの雨に見舞われました。
 
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先週の福島同様、まだ桜の花が残っていました。ヤマブキや連翹も花盛り。
 
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こちらは館の庭にある光太郎の詩碑ですが、右上に連翹が写っているのがおわかりでしょうか。以前は気がつきませんでしたが、光太郎詩碑があるから連翹を植えて下さっていたとしたら、ありがたいことです。
 
午後3時頃、碌山美術館さんに到着。所館長、学芸員の武井氏、それから今年の連翹忌にご参加下さった五十嵐理事といった顔なじみの方々にお出迎えいただきました。
 
まずは碌山館で、今年1月と2月にテレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられた絶作の「」をはじめ、1年ぶりに守衛の彫刻の数々を拝見しました。
 
第一展示棟では、光太郎ブロンズ。昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお借りした「腕」、「園田孝吉胸像」、それから「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」、「手」、さらに新しく購入した「倉田雲平胸像」。
 
第二展示棟では、企画展「小品彫刻の魅力ー動きの表現-」が昨日から始まり、ここにも光太郎の「裸婦坐像」が展示されていました。他には橋本平八、戸張孤雁など。
 
下の画像は館で販売しているポストカードです。
 
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午後4時、例年通り車に分乗して、守衛の墓参。現地で荻原家当主の義重氏から興味深いお話を色々うかがえました。守衛の墓標は画塾・不同舎の先輩、中村不折の筆になるものですが、「故荻原守衛君之墓」と書かれた揮毫から、遺族が違和感を感じて「君」の字を除いたとのこと。その「君」の字だけ、荻原家に伝わっていたそうです。他にも荻原家が改宗して、戒名も変わった話など。
 
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墓参の後、再び館に戻り、午後5時から学芸員の武井氏による研究発表会。
 
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明治41年(1908)、欧米留学から帰る途中で立ち寄ったイタリア、ギリシャ、エジプトでの足取りと、その時に描かれたスケッチブックに関する考察でした。帰国時の守衛の足取りはまだ不明な点が多いそうです。ただ、スケッチブックにはギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドも描かれているとのこと。
 
ちなみに光太郎は翌年帰国しましたが、ほとんど船中無一文だったため、寄港地のどこにも上陸しなかったそうです。
 
後述する「碌山を偲ぶ会」の席上でも、参会者の方からお話が出ましたが、守衛は日本郵船の因幡丸で明治41年(1908)の3月13日に日本に着いたらしいとのこと。
 
当方、一昨年、高村光太郎研究会の研究発表で、やはり欧米留学時の光太郎の船旅について発表した関係で、そうした船を巡る話は興味深いものがありました。
 
午後6時15分。館内のコテージふうの施設、グズベリーハウスにて、「碌山を偲ぶ会」。昨年に引き続き、お邪魔しました。
 
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はじめに光太郎の詩「荻原守衛」(上記の詩碑に刻まれています)を参会者全員で朗読。光太郎にふれていただき、ありがたいかぎりでした。
 
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その後は会食しつつ、いろいろな方のお話を聞いたり、当方もスピーチをしたり、ヤマハの文化財級のオルガン伴奏で「ふるさと」をみんなで歌ったりと愉しい時間を過ごしました。
 
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午後8時過ぎ、散会。一路、千葉の自宅に帰りました。
 
碌山忌、今年で104回目だそうです。ということは、まだ58回の連翹忌と違い、もう守衛本人を知っている方はいらっしゃいません(連翹忌でも光太郎本人を知っている方はだいぶ少なくなりましたが)。それでも地元・安曇野の方々を中心に、守衛の魂を受け継いでいこうという気概が感じられます。末永く続けていって欲しいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月23日

平成20年(2008)の今日、故・小沢昭一さんのCD「昭一爺さんの唄う童謡・唱歌」がリリースされました。
 
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光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩く歌」が入っています。
 
以下、小沢さんが亡くなった一昨年のこのブログからコピペです。
 
この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。

昨日から引き続き、上高地での光太郎智恵子を追いかけます。
 
智恵子没後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた「智恵子の半生」(『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス 倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。
 
テレビ放送「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」で、俳優の小野寺昭さん一行も苦労していた約20㎞の山道を、智恵子は身軽に登って来たそうです。「恋」する女のパワーでしょうか。
 
それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃肋膜を少し痛めているらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。
 
「ウエストン」はウォルター・ウェストン。イギリス人宣教師で、「趣味としての登山」という概念を日本にもたらした人です。上高地にある彼のレリーフをご存じの方も多いでしょう。
 
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光太郎画 木立と山(上高地風景) 大正2年(1913)
 
光太郎と智恵子が上高地で夢のような日々を送っていた時、下界ではちょっとした騒ぎが巻き起こりました。写真週刊誌ならぬ『東京日日新聞』に、次の記事が載ったのです。
 
美くしい山上の恋 洋画家連口アングリ
 
信州鎗ヶ岳の麓の上高地温泉、此附近には文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる、或日の事此美術家の群が遊びにいつて麓の道を見下してゐると一人の美人が二人の強力に荷物を背負はせ乍ら登つてくる、其姿がいかにもいたいけである、どこからどこへこの美人はゆくのであらう、近くなつたら手を引いてやつて山中には珍らしい美人から感謝の言葉を戴かうと思つてゐると今度は山上から一人の青年が強力を連れてとぼとぼと下りてくる、と下から美人、上から青年、ハタと視線が合うと握手して手を引き乍ら俄に元気づいて温泉の方へ向つて上つていつた。美術家連は唖然として狐につまゝれたよう、此男女こそは誰あらう彫刻家の泰斗高村光雲氏の息高村光太郎氏と青鞜社員で女流洋画家の長沼智恵子である。二人が相愛の仲は久しいもので今では「別居結婚」をしてゐる仲ぢやもの、二人して日本アルプスの大景に接し乍ら文展の製作を急がうと、その企てから智恵子が早く滞在してゐる、光太郎氏を訪ふたものと知れた――と岡焼からの便りがあつた。
 
光太郎は「智恵子の半生」で次のように書きます。

 
当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。(中略)
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。 所謂 ( ) 洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。
 
結局はこの記事が決め手の一つになり、二人は結婚するわけで、何が功を奏するかわかりませんね。
 
この上高地での記憶は、光太郎にとって忘れがたいものだったようで、後々まで詩の中にくり返し謳われます。明日はそのあたりを。
 
【今日は何の日・光太郎】1月13日

明治17年(1884)の今日、光太郎の祖母、すぎが歿しています。

昨夜、1/8のブログで紹介したテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」。を観ました。
 
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戦前の絵葉書 日本アルプス上高地 徳本峠
 
大正2年(1913)7月から10月にかけ、光太郎は上高地の清水屋に滞在。9月には智恵子も来て、一緒に画を描いたそうです。光太郎の絵はこの年10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開かれた生活社主催の展覧会に出品されました。
 
二人で下山したのが10月8日。二人が結婚披露宴を行ったのは翌大正3年(1914)ですので、婚前旅行です。やるなぁ、という感じですね。光太郎と智恵子、上高地で結婚の約束を結んだとのことです。
 
さて、番組ですが、俳優の小野寺昭さんとイラストレーターの中村みつをさんが、山岳ガイドの方の案内で、麓の島々から徳本峠を経由、上高地までの約20㎞の山道を歩くというものでした。
 
番組冒頭近く、上高地の歴史を紹介するあたりで、光太郎・智恵子もここを歩いたとの説明がありました。二人にふれるのはこれだけかな、と、ちょっとがっかりしましたが、さにあらず。途中の岩魚止でかつて営業していた山小屋での小休止の際、かたわらに立つ桂の巨木にからめ、光太郎・智恵子と上高地について約3分間、紹介がありました。
 
光太郎も智恵子も、見事に色づいた上高地の桂の木について書き残しています。番組では下記の二人の文筆作品を紹介していました。よく調べているな、と感心しました。ただし、「歌人の高村光太郎」と言っていたのはいただけません。
 
光太郎
徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れがたい。彼女もよくそれを思い出して語った。
「智恵子の半生」昭和15年(1940) 『高村光太郎全集』第9巻
 
智恵子
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木。清らかに美しく、強くやさしい魂への、最後の思慕愛執も、いつか溢るゝ感謝となり、愛の個性は姿を消し。
「病間雑記」大正12年(1923) 『高村光太郎全集』別巻
 
他にも光太郎、智恵子と上高地については、いろいろとありますので、明日はその辺を。
 
【今日は何の日・光太郎】1月12日

昭和21年(1946)の今日、宮澤賢治の弟・清六を介し、花巻町役場より戦災見舞金80円を受け取っています。

昨日、智恵子も関わった雑誌『青鞜』に関する朝日新聞の報道を御紹介しました。
 
今回、『青鞜』をまとめて入手、公開したのはNPO法人平塚らいてうの会さんです。
 
同会は、女性の自立、平和・協同・自然を愛したらいてうの志を受け継ぎ、その顕彰活動を行っている団体です。
 
本部は東京小石川ですが、同会が運営する「らいてうの家」という記念館が、長野県上田市にあります。
 
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上田といっても、旧真田町(かの真田家の故地です)だった区域で菅平に近い四阿(あずまや)高原という、雪深いところです。したがって11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖の措置になっています。
 
当方、一昨年の秋にお邪魔いたしました。一昨年は『青鞜』創刊100周年という節目の年で、そのあたりに的を絞った展示-智恵子にもふれる-がなされていたためです。実は上田は当方父祖の地で、祖父母が存命中にはよく行っていました。ただ、父祖の地は同じ上田でも別所温泉に近い塩田平という地区で、少し離れています。
 
さて、千葉から自家用車で行くか、公共交通機関で行くか迷ったのですが、久しぶりにローカル列車の別所電鉄にも乗ってみたいなと思いましたので、結局公共交通機関を利用しました。らいてうの家に行くには上田駅から路線バスのつもりでした。ところが上田駅に着いて、バス停でいくら探しても四阿高原行きがありません。観光案内所で訊いたところ、やはり四阿高原方面のバスは存在しない、とのこと。仕方なくタクシーで行きましたが、山道を30分以上、かなりの料金でした。次に行く時は自家用車で行こうと思いました。
 
さて、ようやくたどり着くと、針葉樹の森に囲まれたコテージ風の小さな建物。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。いい感じです。
 
光太郎顕彰活動をしている者である旨をお伝えすると、歓待していただきました。昨日も御紹介した折井美耶子氏はじめ、スタッフの方が細かく展示の説明をしてくださいました。らいてうの遺品、『青鞜』関連の資料の数々など、非常に興味深く拝見しました。今回入手された『青鞜』もこちらに収蔵されるのではないのでしょうか。
 
さらには、「私たちはこれからお昼ご飯なんですが、よろしかったらご一緒にどうぞ」と、ご馳走になってしまいました。秋と言うことで栗ご飯やら、郷土料理やら、非常にありがたくいただきました。
 
ここでしか手に入らない智恵子デザインの『青鞜』表紙絵をあしらったクリアファイル、一筆箋、それかららいてう関連の書籍を買い求め、その後は上田駅前に一泊。祖父母と伯父の墓参をし、別所温泉に浸かって帰りました。
 
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らいてうの家、交通の便は良くありませんが、非常にいいところです。すぐ近くにリゾートホテルもありますので、そちらを予約して行かれるのもいいかと思います。ぜひ足をお運び下さい。ただし、先述の通り11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖。今は開いていません。また、東京本部の方でも、いろいろとイベント等を開催しています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月11日

昭和20年(1945)の今日、光太郎の弟、道利が防空壕に転落した事故が元で歿しま

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