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2日に執り行いました第61回連翹忌の席上で、参会の皆様からいろいろいただきましたのでご紹介します。

日本文学誌要 第95号

2017年3月24日 法政大学国文学会編・発行007

光太郎と交流のあった山梨県出身の詩人、野澤一(はじめ)のご子息・俊之氏からいただきました。今号から始まった、同大教授の中丸宣明氏の連載、「法政ゆかりの作家たち 野沢一(1)」が掲載されています。光太郎にも触れる箇所があります。

昨夏発行だった同誌の前号には同じ中丸氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、それを踏まえての連載だそうで、野沢の簡略な評伝となっています。

野沢一は、法政大学中退。昭和初期、卒業間際になって、思うところあって山梨県の四尾連湖畔で5年にわたる独居自炊の生活を始め、それが後の光太郎の花巻郊外太田村での山小屋生活にも影響を与えたと考えられます(他にも同様の行為をしていた光太郎の友人知己は少なからずいますが)。

東北文学の世界 第25号

2017年3月14日 盛岡大学文学部日本文学科編・発行008

当方も加入しています高村光太郎研究会主宰で、都立高校教諭の野末明氏の論考「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されており、野末氏からいただきました。

光太郎の詩集『典型』は、花巻郊外太田村に隠棲中の昭和25年(1950)に刊行されたものです。選詩集的なものを除けば、光太郎生前最後の単行詩集となりました。

その詩集『典型』の成立過程、出版後の評価、「編者」となっている詩人・宮崎稔などについて書かれた労作です。ただ、固有名詞に数ヶ所誤りがあり、その点が残念でした。

興味深いのは、國學院大学図書館に所蔵されている、光太郎自筆の『典型』装幀原案が画像入りで紹介されていること。2種類あり、時期的に古い方は10年ほど前にひょっこり古書市場に出たものですが、いわば第二稿の方は当方も存じませんでした。

「典型」の題字は、光太郎の手になる自刻木版です。その他様々な指示が書き込んであります。

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いずれつてを頼って現物を拝見したいと思っております。

高村光太郎研究(38)

2017年4月2日 高村光太郎研究会編・発行009

上記の野末氏が主宰されている高村光太郎研究会の会誌的なものです。

当会および高村光太郎研究会の顧問、北川太一先生の玉稿「高村光太郎・最後の年 (4)」が巻頭に掲げられています。光太郎の亡くなった昭和31年(1956)の日記を軸に、記されている人物や事項に適宜解説を加えたものです。

その後、当方の稿が3本。元々、連載として、一年間に見つけた新発見の光太郎文筆作品等を紹介する「光太郎遺珠」、さらに一年分の「高村光太郎没後年譜」を書かせていただいていますが、それプラス、昨秋の第61回高村光太郎研究会で発表させていただいた、当会の祖・草野心平と光太郎の交流についての稿も載せて下さいました。

さらに野末氏による「高村光太郎文献目録(平成二十八年一月~十二月)」、「研究会記録、寄贈資料紹介、あとがき」が掲載されています。


冊子ではありませんが、花巻高村光太郎記念館さんの下記チラシも頂きました。

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来週14日から、企画展「光太郎と花巻の湯」(当方手持ちの資料も展示されます)が始まり、さらに記念館と隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の「智恵子展望台」が整備され直したとのことで、新しいチラシが作られました。

智恵子展望台に関しては、地元の方々に完成記念のお披露目的な催しを明日の午後に行うということで、行って参ります。元々は、明後日、盛岡で開かれる「盛岡地区更生保護女性の会」さんの総会の中で講演を頼まれており、そのついでに花巻に立ち寄って、企画展の展示作業を見せていただくだけのつもりでしたが、なにやら大げさなことになってしまって、恐縮しております。

そのあたりは帰ってきましたらレポートいたします。

上記いただきもの類ご入用の方、こちらまでご連絡いただければ、仲介できるものは仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

怒とは何。 怒とは存在の調革(しらべかは)。

詩「怒」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「調革」は「調べ帯」ともいい、二つの車輪にかけ渡して 一方の回転を他方に伝えるための帯状のもの。エンジンのファンベルト、或いは昔のミシンを想像していただければわかりやすいでしょうか。

「怒」によって、自分の人生は回っているのだ、と光太郎は言います。この後、一時的にプロレタリア詩人達に近い立ち位置に入っていく光太郎、様々な社会矛盾に黙っていられないといった感じでした。

昨日は都内2カ所を回っておりました。田舎者の習性で(笑)、都内に出ると複数の用件をこなすことにしています。

まず、九段下駅近くの千代田区立千代田図書館さんへ。千代田区役所さんの9・10階です。桜の名所、千鳥ヶ淵にもほど近く、建物の前でも見事な桜が咲いていました。こちらでは、展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」を開催中です。

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戦前から戦時中、旧内務省警保局図書課が行っていた出版物の検閲をテーマとした展示です。検閲制度は出版文化としての「負」の部分も含むもので、あまり公に語られることは多くなく、ましてや個々の検閲官については資料が少なく、断片的にしかわかっていません。それらをつなぎ合わせることで、制度の実情、裏側に隠されたドラマに迫るというコンセプトです。

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取り上げられている検閲官4人のうち、佐伯郁郎(本名・慎一)は、自身も詩人・編集者であり、光太郎とは戦前から交流がありました。自身の詩誌に執筆を依頼したり、様々な会合で顔を合わせたりしています。

一昨年、岩手県奥州市にある佐伯の実家「人首文庫」さんにお邪魔し、光太郎がらみの様々な資料を拝見しました。それ以前から、光太郎書簡のコピーを頂いていましたが、さらに書や写真なども見つかり、大興奮でした。

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そういうわけで、パネルには光太郎の名も。

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佐伯に関しては、今回の展示も、多くは人首文庫さんのご提供でした。

そのうち「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。

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光太郎は写っていませんが、交流のあった人物が目白押しでした。草野心平、土方定一、吉田孤羊、尾崎喜八、野村胡堂、宮静枝、永瀬清子、高橋新吉、逸見猶吉などなど。

検閲官の名簿。パネルに拡大されていたのと、原簿も展示されていました。
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さらに、詩人としても活動していた佐伯自身の詩集なども並んでいました。
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以前にもこのブログに書きましたが、詩人・光太郎の代表作の一つ『智恵子抄』(昭和16年=1941)。公然と性愛を謳ったり、大君=天皇と、自分の妻を同列に並べた表現があったりと、かなり「危ない」部分があります。それでも検閲を通り抜け、ベストセラーとなったその背景には、佐伯が手心を加えたのではないかと推測されます(証拠はありませんが)。検閲という、ある意味「負」の部分の仕事を担いながらも、芸術的良心にしたがって仕事をしていた(敬愛する光太郎の詩集だから、という依怙贔屓もないとはいえませんが)と考えたいところです。

展示は22日まで。ぜひ足をお運び下さい。


続いて、九段下駅から東京メトロ半蔵門線で住吉駅へ。同駅近くのティアラこうとう(江東区公会堂)さんで開催の、「第5回 春うららの朗読会」に向かいました。

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先日の第61回連翹忌にて、連翹忌ご常連で、出演なさる詩人の宮尾壽里子様からご案内をいただき、はせ参じた次第です。

宮尾様作の「智恵子さん」が演目に含まれていました。「智恵子さん」は昨年暮れに、汐留ベヒシュタイン・サロンさんで開催された「2016年 フルムーン朗読サロン IN汐留」が初演でした。その時は6名の方による朗読劇でしたが、今回は3名による上演。主にト書き部分を担当される方、主として光太郎詩を朗読される方、そして宮尾様ご自身は智恵子役的な配分でした。

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主に『智恵子抄』の構成に従い、光太郎智恵子の出会いから、智恵子の死までが語られました。汐留での初演では、ベヒシュタインのピアノで演奏されたBGM・カッチーニの「アヴェ・マリア」が、今回は音響機器で。テルミンの大西ようこさんなどもよく使われています。哀愁漂うメロディーは、確かに『智恵子抄』の世界によく合います。

出演者が少なくなった分、おのおのの役柄がはっきりし、すっきりした感がありましたし、何よりドラマチックな内容に引き込まれました。

その他の演目も、興味深く拝聴。

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芥川の「蜜柑」以外は読んだことのないものばかりで、光太郎関連以外はあまり読まない当方には、実に新鮮でした。

最後のカーテンコール。

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終演後、ロビーにて。宮尾様(右)と、やはり連翹忌ご常連の、太平洋美術会の坂本富江さん(左)。

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今後とも、光太郎智恵子の世界を取り上げていただきたいものです。

というわけで、充実の一日でした。


【折々のことば・光太郎】

魂にぶつからないとて不平をいふな、 君の魂の張り切つてゐる時、 もう一度この世の隅々を見てみたまへ。

詩「不平な人に」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「何も面白いことがない」的な「不平」を口にする人へのエピグラムでしょうか。たった3行の短い詩です。

「この世の隅々」には新しい発見のタネがみちみちています。しかし、たしかに「魂の張り切つて」いない時には、スルーしてしまうものですね。

一昨日の第61回連翹忌にて、ご参会いただいた詩人の宮尾壽里子様から、ご案内をいただきました。明後日の朗読系公演情報です。

第5回 春うららの朗読会

期 日 : 2017年4月6日(木)
会 場 : 江東区公会堂ティアラこうとう 小ホール 東京都江東区住吉2-28-36
時 間 : 開場13:00  開演13:30
料 金 : 1,500円(全席自由)
主 催 : NPO日本朗読文化協会蒔村三枝子朗読教室
演 目 :
 「口紅のとき」 作・角田光代   出演・鶴見恵子/藤田治子
 「デューク」   作・江國香織   出演・須藤芙美子
 「とんかつ」   作・三浦哲郎   出演・日比堯子
 「智恵子さん」  作・宮尾壽里子  出演・小川弘子/宮尾壽里子/藤田治子
 「佐賀のがばいばあちゃん」  作・島田洋七  出演・内堀芳江
 「蜜柑」     作・芥川龍之介  出演・沼尻輝篤
 「うた時計」   作・新美南吉   出演・赤政葉子
申し込み : 090-4004-1493(まきむら)

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昨年暮れに、汐留ベヒシュタイン・サロンさんで開催された「2016年 フルムーン朗読サロン IN汐留」で上演された、宮尾さん作の朗読劇「智恵子さん」の再演が含まれます。出演される方は変わるそうですが。光太郎智恵子の文筆作品を織り交ぜてのドラマチックな構成で、感動的な朗読劇でした。

他に予定も入っておりませんし、参上つかまつります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか。 年で洗はれたあなたのからだは 無辺際を飛ぶ天の金属。 見えも外聞もてんで歯のたたない 中身ばかりの清冽な生きものが 生きて動いてさつさつと意慾する。

詩「あなたはだんだんきれいになる」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子は光太郎より3歳下ですので、この時数え42歳。

智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた随筆「智恵子の半生」には、この詩の背景が書かれています。

私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

実際、智恵子は服装等にあまり頓着しなかったのかもしれませんが、もともとは素封家のお嬢様です。生活不如意による「スエタアとズボン」の状態を、「仕方ない」と思いこそすれ、積極的に喜んでいたとはどうしても思えません。しかし光太郎の方は、心理学的にいえばある種の適応規制というか、代償というか、その状態を良しと自らに言い聞かせ、智恵子にもモラハラ的に無意識に強制していたように思われます。

しかもたちの悪いことに、その状態の智恵子を女神的に賛美しています。いわば「あるべき姿の無言の強要」。これでは智恵子も息が抜けないように思えます。

智恵子の心の病が顕在化するまで、あと4年半です。


昨日は、第61回連翹忌を終えて帰宅し、体力的にはくたくたながら精神的にはハイな状態で、連翹忌レポートを書きました。しかしやはり体力的にはくたくたで、最後にこのコーナーを書く段になって、力尽きました(笑)。今日からまた復活します。

戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

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その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、記念イベントが実施されます。
会 場 : 寛永寺輪王殿第一会場 東京都台東区上野公園14-5
時 間 : 14:00~16:00(開場13:30~)
料 金 : 学生:無料(学生証提示) 一般:1000円
定 員 : 約200名(要予約・申込先着順)  専用フォームより申し込み
      往復ハガキ 〒101-0051 千代田区神田神保町1-11 晶文社 吉本全集イベント係
出 演 : 糸井重里、ハルノ宵子
 ◇糸井重里(いとい・しげさと)
1948年、群馬県生まれ。Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。同サイトでは、’60年代から’08年の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集め、デジタルアーカイブ化して、無料で公開している。著書多数。吉本さんとの共著に『悪人正機』(新潮社)があるほか、ほぼ日ブックスより、『吉本隆明の声と言葉。』 『吉本隆明が語る親鸞』を刊行している。
 ◇ハルノ宵子(はるの・よいこ)
1957年、東京都生まれ。漫画家・エッセイスト。長年の介護の末、’12年に父と母を相次いで亡くす。妹は小説家の吉本ばなな。現在は定住猫数匹+外猫たちと暮らす。マンガ以外の著書に『それでも猫はでかけていく』(幻冬舎)、『開店休業』(プレジデント社・吉本隆明と共著)など。

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光太郎に関わる内容が出るか、微妙なところではありますが、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

さあもう一度水を浴びよう。 さうしてすつかり拭いた自分の体から 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ  あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、  生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
詩「秋を待つ」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

さまざまな獣や妖怪に仮託して自らの内面を謳う連作詩「猛獣篇」時代ですが、仮託しない自分自身、充実した「生」を送っている一個の「生きもの」であるという実感のようなものが感じられます。

このブログでご紹介している内容は、主に以下のようなものです。これから行われる光太郎、光雲、智恵子関連のイベント等のご案内。それらに足を運んでのレポート。新刊出版物等のご紹介。関連するテレビ番組等のご紹介。新聞記事等で光太郎らにふれられたもののご紹介、などなど。

そういったものが集中する時期には、半月先まで記事の内容が決まっていたり、一回の投稿で何件もご紹介したりということもあるのですが、逆にネタに困ることもあります。あまりにも先に行われるイベントをご紹介しても仕方がありませんし、新刊書籍も版元のサイトで情報がアップされていないなどの場合には、ご紹介しにくい部分があります。

今がまさにその状態で、情報が少なく、困っています。

そこで、今回は、最近入手した古資料について。新刊書籍等は「皆様もぜひお買い求めください」的なまとめ方ができるのですが、古資料ですと、それができないので、あまりご紹介してきませんでした。

背に腹は代えられないので、こうした機会にご紹介しておきます。今回は、光太郎編。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』に漏れているものの収集、というのが当方のライフワークでして、そういう関係がメインです。

まずは書簡。

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光太郎晩年、昭和28年(1953)4月10日付で、中央公論社の編集者・岩淵徹太郎に宛てたはがきです。とある古書店さんのサイトで見つけ、購入しました。

曰く、

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、
此間は久しぶりでおめにかかりましたが、この前よりも大変健康になられたやうに見うけました、

岩淵宛の書簡は、『高村光太郎全集』に5通掲載されていますが、これは漏れており、従前のものを補うものです。光太郎の住所は中野区桃園町四八 中西氏方。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その制作まっさかりの時期です。

選集」は、この年一月に完結した『高村光太郎選集』全六冊。誰かに進呈するためにセットで注文したものと思われます。「此間は久しぶりでおめにかかりましたが」とありますが、4月7日の日記に岩淵来訪の記述があります。

内容的にそれほど重要なことが書かれているわけでもありませんし、光太郎の書簡はすでに3,400通ほどが知られていて、珍しいものではありませんが、味のあるいい字ですし、それなりに貴重なものです。


続いて雑誌『キング』第5巻第9号。昭和4年(1929)9月の発行です。

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002現在の講談社さんの前身、大日本雄弁会講談社の発行していた総合雑誌です。

これに、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の文章が掲載されています。「ある日の日記」という総題で、光太郎、町田経宇(陸軍大将)、鈴木伝明(俳優)、朝倉文夫、山本久三郎(帝国劇場専務)の5人の日記が載せられています。

この時期の日記帳そのものの現存が確認できていないので、実際の日記からの抜粋なのか、このために書き下ろされたのか、あるいはこのために実際の日記を換骨奪胎したりふくらませたりしたのか、何とも言えませんが、光太郎に関しては、「六月十日」ということで、その日の出来事が記されています。

内容的には主に2点で、1点目は、改造社から刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集/現代俳句集』のために、自作短歌を選んだこと。「記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。」とあります。ちなみに同書に掲載された光太郎短歌は四十四首。この違いは何なのか、謎です。

笑ってしまったのは、海外留学のため、横浜港から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン船上での作「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という短歌(明治39年=1906)についての記述。「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」たしかに当方もこの歌の書かれた短冊を持っています。

後半は、智恵子の母校・日本女子大学校から同窓会誌『家庭週報』の記者が訪れたことが書かれています。大正8年(1919)、同校創設者の成瀬仁蔵の胸像を光太郎が依頼され、なかなか完成しないため(結局、昭和8年=1933までかかりました)、時折同校関係者が光太郎をせっつきに来ていました。この際の記事が、同じ年の6月28日発行の『家庭週報』第990号に掲載されてもいます。光太郎、呑気に記者が持参した手作りの洋菓子「クレーム フアンティーヌ」を賞味しています(笑)。
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比較的長い文章ですが、『高村光太郎全集』に漏れていました。その理由は、おそらく、目次。目次には光太郎の名が無く、「各方面五名士」となっているのです。

そこで、同じ時期の『キング』に、同じようにこれまで知られていない光太郎の文章が載っている可能性もあると思い、駒場の日本近代文学館さんに行って、片っ端から調べました。するとやはり、目次に「諸名家」とだけあって、氏名が明記されていない記事がたくさんありました。しかし、光太郎のものは新たに結局発見できませんでした。

代わりに、やはり日本近代文学館さん所蔵の資料の中から、『高村光太郎全集』未収録の短歌を見つけました。掲載誌は明治39年(1906)刊行の『新詩辞典』。短歌の作り方テキスト的な書籍です。

作例、ということで、与謝野晶子ら多数の歌人の作品が載っており、光太郎の短歌も18首。その中で1首だけ、これまでに知られていなかったものが含まれていました。

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一刷毛(ひとはけ)のそれは上総か春の海光ましろき雲ながれゆく

クレジットは新詩社における光太郎の号「砕雨(さいう)」です。

上記の「海にして……」同様、太平洋を渡る船中での作なのか、それとも千葉方面を旅した際の作なのか、何とも言えません。この時期に千葉方面への旅行という記録が残っていません。あるいは東京にいて、「あの雲の真下は上総あたりかな……」的なことも考えられますし……。


というわけで、まだまだ眠っている光太郎文筆作品等はかなりありそうです。今後もその発掘に力を尽くします。


【折々のことば・光太郎】

印度産のとぼけた象、 日本産の寂しい青年、 群集なる「彼等」は見るがいい、 どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

詩「象の銀行」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治39年(1906)から翌年にかけての滞米体験を下敷きとしています。セントラルパークの動物園で、客の投げる硬貨を上手に鼻で拾って貯金箱的な入れ物に入れる象を謳っています。

遠い異国からやって来たもの同士ということで、光太郎はこの象に奇妙な親近感を抱いていました。排他的な雰囲気のあったニューヨークは、光太郎にとってあまり居心地がよくなかったようです。

若き日の光太郎が、その本格的な文学的活動の出発点として加盟していた新詩社関連のイベントです。

第11回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」ではみんな詩人だった~鉄幹・晶子・白秋・啄木

日 時 : 2017年3月26日(日)
会 場 : 武蔵野商工会議所・市民会議室 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
時 間 : 開場:午後1時  開始:1時30分  終了:4時30分
参加費 : 1500円(含・資料代 別途懇親会費4000円)
定 員 : 90名

プログラム :
 第1部:ミニ講演
 「それは新体詩から始まった─和歌革新の源流について─」 前田宏(歌人)
 「与謝野晶子の詩の魅力~家族愛から政治批判まで」 松平盟子(歌人)
 
 第2部:鼎談「詩のことば、歌のこころ―表現の秘密と可能性をさぐる」
      細川光洋(静岡県立大学教授):北原白秋・吉井勇 
      西連寺成子(明治大学兼任講師):石川啄木 
      松平盟子:与謝野鉄幹(寛)・晶子 

 「明星」に集まった俊秀は、短歌と詩に優劣をつけることなく、自らを詩人と呼び、それぞれ作品を発表しました。そもそも鉄幹(寛)が文壇デビューしたのは詩歌集『東西南北』(明治29)。晶子は詩「君死にたまふこと勿れ」を歌集『恋衣』(明治38)に載せるなど、二人は一貫して詩と短歌を両立させていきます。
 今回は鉄幹(寛)、晶子、白秋、啄木を中心に据えて、「明星」の文学者たちの詩への意欲と、詩を通して果たした時代への挑戦に思いを馳せてみたいと思います。
 明治の詩歌の黎明期から、浪漫主義の「明星」を経て、大正期の口語自由詩へと展開する詩のダイナミズムは、おそらく現代の私たちの想像をはるかに超えるものだったことでしょう。多くの皆さまのご参加を心よりお待ちしています。

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というわけで、光太郎の名はあがっていませんが、名のあがっている人物たちとの交流の深さから、光太郎についての言及も為されることを期待しています。

昨日は、東京多摩地区を歩いておりました。まずは町田、そして小平。町田と小平では、あまり近くはないのですが、千葉の自宅兼事務所から見れば方角的には同じということで。

町田での目的地は、町田駅近くの町田市民文学館ことばらんどさん。こちらで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」を拝見して参りました。

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野田宇太郎は福岡県小郡市出身。主に戦前は詩人として、戦後は編集者、文芸評論家として活躍しました。戦後の活動は大まかにいうと二本柱でした。

一つは「文学散歩」の提唱。今ではあたりまえのようになった「文学散歩」という語や概念は、野田の提唱によるものが大きいようです。背景には、太平洋戦争で焦土と化した東京を見て、失われゆく「トポス」の記憶の記録、という意味合いがあったようです。昭和26年(1951)から、『日本読書新聞』に「新東京文学散歩」の連載が始まり、GHQによる規制で自由に写真撮影が出来なかった頃には、石版画家の織田一麿に挿絵を依頼、のちには野田自身の写真により、その対象は全国に及びました。

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左が単行本化された『新東京文学散歩』、右は野田愛用の「文学散歩」用品です。

そうした活動は文学碑建立などにも向けられ、師と仰いだ木下杢太郎の碑を静岡伊東に建てる際に奔走しています。野田はこの杢太郎碑や、博物館明治村の開設などで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む公園一帯の設計を手がけた建築家・谷口吉郎とも深く関わりました。

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以前にも書きましたが、野田が主宰した雑誌『文学散歩』の昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。

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余談になりますが、この中で、谷口は「乙女の像」の台座に使われた石材を「福島産の黒ミカゲ」と記しています。谷口は他に昭和34年(1959)・筑摩書房発行、草野心平編集の『高村光太郎と智恵子』に収められた「十和田記念像由来」では、「石材は福島県産の折壁石で、表面はつやつやと鏡のように磨いてある。」との記述も。しかし、「折壁石」は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来するブランドで、どうもどこかで勘違いがあったようです。

閑話休題。野田と谷口の深い縁というのは、当方、存じませんで、「そうだったのか」という感じです。実際にこういう展示を見ると、いろいろ発見があるものです。


野田の活動のもう一つの柱は、「パンの会」の研究。「パンの会」は明治末、野田が師と仰いだ木下杢太郎や光太郎などが中心になって持たれた芸術運動です。光太郎の滞欧中から開かれ、帰国後の光太郎はすぐその波に飲み込まれ、後には発起人にも名を連ねました。文芸誌『スバル』、美術誌『方寸』に寄った若い芸術家の集まりを中心としましたが、演劇界からの参加も目立ちました。

野田はまず、昭和24年(1949)に六興出版社から『パンの会』を上梓、さらに同26年(1951)には増補版として『日本耽美派の誕生』を河出書房から出版しています。そこにも「文学散歩」同様、失われゆく記憶の記録という側面がありました。

そこで今回の展示では、「パンの会」関連も充実していました。光太郎から野田に宛てた、『パンの会』受贈の礼状も展示されていました。

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こちらは野田の故郷・福岡小郡の野田宇太郎文学資料館さんの所蔵。その存在を数年前に突き止め、文面などは同館にご教示いただいたのですが、現物を見るのは初めてでした。昨日は、もしかするとこれも並んでいるのではないか、と思って見に行ったというのが大きいのですが、ビンゴでした。

その他、ヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と親しく交わった木村荘八が描いた油絵「パンの会」。

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こちらは以前に東京ステーションギャラリーさんで開催された「生誕120年 木村荘八展」でも拝見しましたが、今回はこの絵に関する木村のメモ(複製)も展示されており、光太郎を含め、描かれた人物一人一人が特定でき、興味深く拝見しました。

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会場出口近くでは、昭和40年頃に撮影されたと思われる野田と女優の故・小林千登勢さんとのトークが上映されていました。題して「千登勢の文学散歩 奥の細道」。テレビ番組だったのか、モノクロの映像で、スタジオでのトークと、深川、白河、平泉などの映像にのせての野田の解説が収められていました。

ちなみに帰ってから調べましたところ、光太郎智恵子にも触れた「犬吠岬」篇も制作されており、新潟県立生涯学習推進センターさんに収蔵されているようです。そちらも見たかったと思いました。

帰りがけ、図録を購入。

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A4判並製で30ページ。分厚いものではありませんが、よくまとまっています。これで300円は超お買い得でした(笑)。

不謹慎だなとは思いながら、笑ってしまったのが、昭和59年(1984)に亡くなった野田の年譜の最後。戒名が「文学院散歩居士」だそうで。いかにも、ですね。

同展、20日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


その後、次なる目的地、小平に向かいました。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

この猛獣を馴らして もとの楽園にかへすのが、 そら恐ろしい おれの大願。
詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

このあとに続く、社会矛盾への怒りを露わにする「猛獣篇」時代のプレリュード、約30篇の短章から成る「とげとげなエピグラム」の最後です。

出版社コールサック社さんから、詩誌『コールサック』の最新号が届きました。毎号送って下さっています。恐縮です。

光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

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「四尾連湖」は山梨県西八代郡市川三郷町にある小さな湖で、野澤一が昭和のはじめに約6年間、湖畔の丸太小屋で独居自炊の生活を送った場所です。

野澤一についてはこちら。



その丸太小屋のすぐ近くに「水明荘」という宿泊施設があり、そこの若女将さんが平成2年(1990)に書き、山梨県のふるさと作文コンクールで特別賞を受賞した作文が引用されています。四尾連湖判に野澤の詩碑が建立された頃の作です。光太郎についてもふれて下さっています。

当方、山梨県にも4年近く住んでいたことがありましたが、四尾連湖には行ったことがありません。直線距離で6㎞ほど離れた富士川町の高下地区には、光太郎の文学碑があります。昭和17年(1942)に、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の母を顕彰する「日本の母」顕彰事業のため、同地の井上くまの元を光太郎が訪れたことを記念して立てられました。建立は昭和62年(1987)。

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光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の句が刻まれています。漢字仮名交じりにすれば「美しきもの満つ」、「この世は美しいもので満ちているよ」といった意味です。

ちなみに、少し前に光太郎の変体仮名使用についてちらっと書きましたが、これもそうで、片仮名の「ミ」を平仮名に混ぜて使うことが多くありました。日記でも「手紙」を「てかミ」と表記することがしばしばでした。

ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが……。

他にも光太郎にまつわる「都市伝説」の類は少なくありません。「××神社の狛犬は光太郎の作である」、「××県の料亭の座卓には光太郎が包丁で彫った文字が残っている」など。実は後者の方は、ろくに確かめもせず、20年ほど前に当方も著書で紹介してしまったことがありますが、ガセネタです。

閑話休題。ほぼ毎年、4月22日に信州安曇野碌山美術館さんで開催される碌山忌にお邪魔していますが、その際には近隣、あるいは途中にある光太郎ゆかりの地、光太郎と交流のあった人々の記念館的なところに立ち寄ることにしています。四尾連湖もいずれその際に、と思っております。

富士川町の光太郎碑も含め、皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおれの錬金術、 出ないかも知れない金を求めて、 この禁苑の洞窟(ほらあな)に烈火をたく。 あんまりそばへ寄るな。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「無」から「有」を生み出し、しかも単なる「有」でなく、「美」にまで昇華させる彫刻。たしかに「錬金術」にも似た部分があるかもしれませんね。

唯一定期購読している雑誌、『日本古書通信』さんの今月号が届きました。その中で、以下のイベントが紹介されていました。

展示 検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔

期 日 : 2017年1月23日(月)~4月22日(土)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階 展示ウォール
 千代田区九段南1-2-1千代田区役所9階・10階
時 間 : 月~金 午前10時~午後10時 土 午前10時~午後7時  日・祝 午前10時~午後5時
休館日 : 2月25日(土曜日)~27日(月曜日)、3月26日(日曜日)
料 金 : 無料
主 催 : 千代田区立千代田図書館
協 力 : 浅岡邦雄氏 牧義之氏 村山龍氏 安野一之氏(千代田図書館「内務省委託本」研究会)
      人首文庫、県立長野図書館

戦前の日本では、中央官庁の一つであった内務省が出版物の検閲を行っており、全国で出版されたさまざまな書物が内務省に納本されていました。それらの書物を手に取って発売頒布の可否を決定していたのが、警保局図書課の検閲官たちです。
近年、出版検閲に関する研究が進み、制度としての側面は徐々に明らかになってきた一方で、個々の検閲官についての研究はほとんど報告されていません。それは、資料がそもそも少なく、また、彼らがどのような人生を送っていたのか、『出版警察報』などの内部文書からではわからないためです。
今回の展示では、新発見の資料とこれまで断片的に存在していた情報をつなぎ合わせることで、検閲官の実像に迫ります。図書課の人員体制や業務分担など、検閲官の全体像をパネルで解説し、関連する書籍を展示・貸出します。また、4人の検閲官をとりあげ、仕事内容や異動・昇進などのキャリアパス、さらにプライベートを含めて人物像を紹介し、彼らの仕事と横顔を今に伝える貴重な資料をケースにて展示します。

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関連行事

併設展示 県立長野図書館所蔵 出版検閲関連資料

検閲によって禁止や削除などの処分を受けた出版物は、各地の公共図書館でも所蔵している場合がありました。処分が決裁されるよりも先に市場へ流通し、図書館が購入したためです。処分についての情報は、内務省から警視庁へ、そして各地方の警察から管轄の図書館へ主に電話を使って通達されました。それを受けて、図書館では該当出版物の自主的な閲覧制限、ページの切り取り、警察への現物の引き渡しなどが行われていました。今回展示する県立長野図書館の事務文書綴り(4種9点)からは、戦前の公共図書館が検閲制度とどのように向き合っていたのか、その一端を読み取ることができます。


 講演会「検閲官の実像にせまるⅠ・Ⅱ」

検閲官の実像にせまるⅠ

 第一部 検閲官の実像にせまるⅠ ―エリートとたたき上げ―
 第二部 図書館と出版検閲 県立長野図書館の事務文書から
戦前の検閲制度に関する調査・研究が進む中で、現場で働いていた内務省警保局の検閲官の実像も少しずつわかってきました。今回の展示でもとり上げた土屋正三らエリート官僚と、図書課内のたたき上げであった安田新井など、個々の検閲官に焦点を当てて、調査から見えてきた彼らの実像について解説します。また、戦前の図書館と検閲制度がどのような関係の中にあったのか、県立長野図書館の事務文書から読み解いて行きます。
講 師 : 安野一之氏(NPO法人インテリジェンス研究所事務局長)
        牧義之氏(長野県短期大学多文化コミュニケーション学科助教)
        槌賀基範氏(県立長野図書館資料情報課情報係主任)
日 時 : 2017年2月11日(土曜日・祝日)午後2時~4時(午後1時30分開場)
場 所 : 千代田区役所4階 401会議室
定 員 : 80名(事前申込制・参加無料・先着順) 終了しました。


検閲官の実像にせまるⅡ ―文学青年だった検閲官―

警察出身者が多い検閲官の中で、佐伯郁郎と内山鋳之吉は文学部卒という異色の経歴を持つ人物です。彼らは職務として検閲する一方で、佐伯は詩人、内山は演劇人という顔も持っていました。検閲する側でありながら、時に検閲される側にもなった彼らの足跡を追いながら、一個の人間としての検閲官像を浮かび上がらせます。
講 師 : 安野一之氏(NPO法人インテリジェンス研究所事務局長)
         村山龍氏(慶應義塾大学非常勤講師)
日 時 : 2017年3月4日(土曜日)午後2時~4時(午後1時30分開場)
場 所 : 千代田図書館9階 特設イベントスペース
        ※都合により会場を変更したため、チラシの表記と異なります。ご注意ください。
定 員 : 70名(事前申込制・参加無料・先着順)
 千代田区立図書館の貸出券をお持ちの方対象


タイトルを見て、ぱっと頭に浮かんだのが、佐伯郁郎。戦前から光太郎と交流がありました。果たして佐伯に関する展示、講演も入っています。

当方、佐伯の生家に設置された史料館・人首文庫さんにお邪魔したことがあり、その前後、書簡や詩稿、古写真のコピーなど、光太郎関連のさまざまな資料をご提供いただいております。今回の企画にも協力なさっていますね。

以前にも書きましたが、『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

また、詩篇の中には公然と愛欲や性行為を謳ったものも含まれ(健康的な感じなのですが)、これも発禁対象とされてもおかしくありません。

しかし、『智恵子抄』は戦時にも関わらず、終戦までに13刷もの増版を重ねました。当方にはその陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。


講演は千代田区立図書館の貸出券をお持ちの方対象らしいので聴けませんが、展示の方は拝見に伺おうと思っておりますし、佐伯についてももう少し調べようと思っております。

出品目録はこちら。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

止め度なく湧いて来るのは地中の泉か こころのひびきか しづかにして力強いもの 平明にして奥深いもの 人知れず常にこんこんと湧き出るもの ああ湧き出るもの 声なくして湧き出でるもの 止め度なく湧き出でるもの すべての人人をひたして すべての人人を再び新鮮ならしめるもの しづかに、しづかに 満ちこぼれ 流れ落ちるもの まことの力にあふれるもの
詩「湯ぶねに一ぱい」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「地中の泉」=「温泉」ですが、とめどなく湧き出るそのさまを、自らの詩にも仮託しています。自らの詩も温泉のように、人々の癒しや活力たらんことを願っていたのでしょう。

東京都町田市の町田市民文学館ことばらんどさんで開催中の企画展示です。

野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-

会 期 : 2017年1月21日(土曜日)から3月20日(月曜日)
場 所 : 町田市民文学館ことばらんど 東京都町田市原町田4丁目16番17号
時 間 : 10時から17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし、3月20日は開館)、毎月第2木曜日
料 金 : 無料

野田宇太郎は、若き日には九州・久留米を舞台に詩人として活躍し、上京後は文芸書の出版で定評のあった小山書店をはじめ、第一書房、河出書房で文芸誌の編集に携わりました。この間、編集者として多くの作家や芸術家と親しく交わります。昭和20年10月、終戦から僅か2カ月後、敬愛した木下杢太郎の死に接した野田は、近代日本文学を専門とする研究者人生をスタートさせます。戦争によって、がらりと表情を変えた東京の町を歩きながら、彼が街並みのそこかしこに見出していたのは、かつての古き佳き東京の面影と失われつつある文学の痕跡でした。やがて、野田は「文学散歩」を通じて発見した文学の痕跡から、時代を遡行することで明治末期の文芸運動<パンの会>を見出します。それは、隅田川にフランスのセーヌ川を重ねたかつての<パンの会>の青年詩人や画家たちと同様に、旺盛な創造力を駆使した野田の新たな文芸復興運動ともいえるでしょう。
本展は、文学に「散策する愉しみ」を拓いた野田宇太郎の仕事を、彼が散策の途上で「見つめていたもの」を通じて再考する試みです。

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関連イベント
 2月11日(土曜日) 川本三郎講演会「近代文学の復興者・野田宇太郎のまなざし」
 2月25日(土曜日) 文学散歩「掃苔しましょう!文士たちの眠る場所」
 3月4日(土曜日)  文学散歩「馬込文士村を歩く」
 3月5日(日曜日)   文学散歩「江戸・東京、水辺の文化圏-日本橋界隈を歩く」
 3月11日(土曜日) 
山田俊幸講演会「散歩の達人・野田宇太郎-<雑誌>が繋ぐ文芸ネットワーク-」
 3月18日(土曜日) 
文学散歩「知っているようで知らない町田探検ツアー、春を探して-町田駅前文学散歩」
 1月24日、2月7日、2月26日、3月20日、ギャラリートーク(展示解説)


サブタイトルにある「パンの会」は、明治41年(1908)から45年(1912)にかけ、浅草周辺で開催された新興芸術運動。光太郎も欧米留学からの帰国(明治42年=1909)と同時にその狂躁に巻き込まれ、後には発起人にも名を連ね、数々のエピソードを残しています。
 
福岡小郡出身の詩人・野田宇太郎は、文学史研究の分野でも大きな足跡を残し、雑誌『文学散歩』を主宰したり、「パンの会」当時の研究をしたりもしています。昭和24年(1949)には『パンの会』という書籍を刊行、同26年(1951)には改訂増補版として『日本耽美派の誕生』を上梓しました。

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雑誌『文学散歩』では、昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。表紙はその歿後に光太郎がアトリエを借りて「乙女の像」を製作した、水彩画家・中西利雄が描いた十和田湖周辺の絵です。

『パンの会』は光太郎にも贈られ、光太郎からの礼状も残っています。

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光太郎と関わる展示もありそうです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

土壌は汚れたものを恐れず 土壌はあらゆるものを浄め 土壌は刹那の力をつくして進展する
詩「五月の土壌」より 大正3年(1914) 光太郎32歳


立春も過ぎ、南関東では土の匂いにも春が感じられるようになってきました。今日は珍しく雪が舞っていますが。

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この雪も土壌に吸いこまれ、草木の糧となってゆくのでしょう。

先週土曜の『日本経済新聞』さんの夕刊。「文学周遊」という連載で、光太郎が扱われました 

文学周遊 高村光太郎「典型」 岩手・花巻市 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。

 東京生まれ東京育ちの高村光太郎が、岩手県花巻の西郊、稗貫(ひえぬき)郡太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で、農耕自炊の生活を始めるのは、1945年の晩秋のことだった。
 その年の春の空襲で、光太郎は東京の自宅とアトリエを焼かれ、5月、宮沢賢治の弟、宮沢清六の招きで、花巻の宮沢家に疎開していた。亡くなった賢治の顕彰に光太郎が尽くしたことが縁である。
 地元の有志の協力で鉱山の小屋を移築した住居が、今も大切に保存されている。JR花巻駅から西へ車で20分余り、高村山荘は一面の雪原の中にあった。一昨年春、新装オープンした高村光太郎記念館から雪道を歩いて約100メートル、保存のための2重の上屋の中にある小屋は、古びた材木で組まれた粗末な作りで、3畳半ほどの板間と囲炉裏、土間でなる。屋根裏があらわな小屋には、隙間から雪が吹き込んできたという。都会人の光太郎は、なぜ独居自炊の生活を、ここで62歳から7年間も続けたのだろう。
 「光太郎は戦争責任を痛切に感じ、あえて不自由な生活を自らに課しました」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也氏は話す。「戦に徹す」「敵ゆるすべからず」……。戦争遂行を鼓舞する数々の詩を書いた光太郎は戦後、深く悔い、戦争協力と終戦に至った半生を告白的につづる連作「暗愚小伝」をこの小屋で執筆。それを含む詩集「典型」でも、自らの愚かさを厳しく凝視した。引用した詩「典型」の一節は、そんな自罰の意識の表れである。
 同時にこの寒冷な山間の地に深くひかれ、ここで日本の再生に尽くそうという思いも募っていった。近くの太田村立太田小学校山口分教場(後に山口小学校)へたびたび足を運び、子供の成長を見つめた。山口小学校に通った浅沼隆さん(75)は、学芸会でサンタクロースの姿に扮(ふん)した光太郎の姿を今も覚えている。「村落社会に根をおろして/世界と村落とをやがて結びつける気だ。」(「山林」)という夢が、光太郎にはあった。
 山口小学校は、過疎化で近くの太田小学校に統合され、今はない。しかし17年前、跡地に市のスポーツ施設ができたころから、付近はスポーツの拠点となり、記念館の周囲にクロスカントリースキーのコースもできた。亡き妻、智恵子をしのび、光太郎が歩いた雪道に、練習に励む小学生の声が響きわたっている。
(編集委員 宮川匡司)

たかむら・こうたろう(1883~1956) 東京生まれ。詩人・彫刻家。父は木彫家、高村光雲。東京美術学校彫刻科卒。06年渡米。翌年欧州に渡り09年帰国。以後、美術評論、翻訳、短歌、詩を次々と発表。14年、第1詩集「道程」を自費出版、年末、新進の画家、長沼智恵子と結婚。彫刻制作のかたわら、翻訳で生活を支える。38年、精神と肺を病んだ智恵子が病院で死去。41年詩集「智恵子抄」を刊行。45年5月、岩手県の花巻に疎開。52年に帰京。
 50年刊行の詩集「典型」は、戦争協力の詩を書いた過去を厳しく省みる「暗愚小伝」と山村の生活を見つめる詩を収める。
(作品の引用はハルキ文庫「高村光太郎詩集」、写真は花巻高村光太郎記念会提供)

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002旧太田村(現・花巻市太田)の、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)を「周遊」しつつ、ここで生まれた生前最後(選詩集等を除く)の単行詩集『典型』(昭和25年=1950)を紹介して下さいました。

光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。

青年期のような情熱的な詩風は影を潜めて、むしろ「枯淡」の境地に達して015いますが、それでも内に秘めたエネルギーの発露はそこここに見え、まさに「百尺竿頭に一歩を進む」といった感があります。クリエイティブな人間は、死ぬまでそうなのだと改めて感じ入らせます。

そして、その生涯で多くのつまづきを体験し、そのたびにそこから立ち上がってきた光太郎だからこそ、この境地に到達できたのだと思われます。

この時期の詩作品、もっと見直されてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

牛はのろのろと歩く 牛は大地をふみしめて歩く

詩「牛」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

詩「牛」は115行にもわたる長大な詩です。自らを生み出した「自然」を信じ、のろのろと、不器用に、しかし必然の声に導かれて為すべきことを為しとげる牛に、自らの姿を仮託しています。

右はその全文を昭和14年(1939)に揮毫したもの。詩を作ってから四半世紀以上を経て全文を揮毫したあたり、この詩が光太郎にとって自らの座右の銘的な意味合いを持っていたことが推定されます。

そしておそらく『典型』に到った晩年にも、同じようなことを考えていたのでは、と思われます。ある意味、「三つ子の魂百まで」だったと言えるのではないでしょうか。

東京世田谷から朗読講座の情報です。NHK放送研修センターさんと、世田谷文化生活情報センターさんの共催です。

豊かなことばの世界 「朗読講座」2月期 水曜教室

期 日 : 2017年2月1日(水)・8日(水)・15日(水)・22日(水)
時 間 : 各回午前10:30~12:30 各回午後13:30~15:30
会 場 : 公益財団法人 せたがや文化財団生活工房
           東京都世田谷区太子堂4-1-1キャロットタワー内
講 師 : 岩井正(NHK日本語センター)
受講料 : 料金4回分 一般20,500円

朗読作品:高村光太郎著「智恵子抄」
「智恵子は東京に空が無いといふ」…の詩を引用しつつ彼女の思いをたどる高村光太郎。詩集「智恵子抄」の中の随筆「智恵子の半生」を読みます。智恵子の死を受け止めかねていた光太郎は、やがて智恵子は彼にとって「普遍的存在」になったという心境にたどり着きます。今期のテーマは「愛」です。

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このブログの先月末に「回顧2016年」として書いた記事を元に、昨年一年間の光太郎歿後年譜をまとめました。4月に高村光太郎研究会さんから刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』に掲載予定です。

その中で、光太郎の詩を取り上げて下さった朗読関連のイベント、講座などが結構目立ち、ありがたく存じました。

光太郎の詩は、白秋や中也などのそれと比べると、流暢に言葉が紡がれているというイメージには欠けます。しかし、他の詩人にはない、骨太の「述志」の感覚、彫刻で培った構成力の妙、そしてわかりやすさなどの点が魅力だと思われ、そういうところが好まれているのでしょう。そして「智恵子抄」で言えば、数十年にわたっての一人の女性に対する語りかけ、「愛」の表明という、日本の詩には稀有な内容も。

今後とも、こうした光太郎詩が愛され続けていくことを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

私は私自身との戦闘にまづ尽さねばならぬ 私はまだ一つの雰霧星の形に過ぎない 多くの不純を含み、無駄を有し、稀薄を交へてゐる 私は突進せねばならぬ
詩「戦闘」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

これなど、「述志」の詩句の代表格です。

新刊情報です。
目次
◎米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
 第一章 米国大統領への二つの手紙
 第二章 予科練の父
 第三章 軍人歌人
 第四章 硫黄島
 第五章 名誉の再会
 付録一 毛厠救命 豊子愷
 付録二 硫黄島から 市丸利之助の歌、折口春洋の歌 佐伯裕子
◎高村光太郎と西洋
 第一章「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―
 第二章 高村光太郎と西洋
 あとがき
新潮社版へのあとがき
出門堂版へのあとがき
「昭和」を大観した評論―二転三転の精神史 実像をあぶり出す― 中田浩二
鎮魂の紙碑に寄せて 土居健郎
解説 牧野陽子
著作集第7巻に寄せて―市丸家のご遺族―  平川祐弘


平川祐弘氏は、東大名誉教授で比較文学研究者。右派の論客として知られ、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」メンバーです。版元の勉誠出版さんから、「平川祐弘決定版著作集」全34巻が刊行中で、その第3回配本です。

表題は、太平洋戦争中、硫黄島で戦死した市丸利之助中将が残したルーズベルト宛の手紙から採られています。

もともとは平成8年(1996)に新潮社さんから刊行された『米国大統領への手紙』。絶版です。そちらは「第一部 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯―」、「第二部 「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―」、第三部「高村光太郎と西洋」の三部構成ですが、今回のものでは第二部が何故か第二部に組み込まれているようです。

「あとがき」によれば、「言語や文化を異にする国家と国家の間の軋轢(あつれき)の中で生き、反応し、歌い、そしてその志を文字で述べた人間を扱った」とのこと。

さらに遡れば、第三部「高村光太郎と西洋」は、平成元年(1989)の雑誌『新潮』が初出です。章立ては以下の通り。光太郎に光雲もからめ、西洋受容史の一典型を論じています。

  誠実な人、insincereな人007
  ジャップの憤り
  ロダンの国にて
  彫刻家ガットソン・ボーグラム氏
  高村光太郎と父
  近代日本における父と子
  反動形成としての『智恵子抄』
  訳詩と劇作詩
  童話と実話
  戦前・戦中・戦後
  自己同化性の人
  人生を刻んだ人
  上野の西郷さんと十和田湖畔の裸女
  父としての役割
  楠公銅像


平川氏には『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』という著作もあり、こちらは主に森鷗外を論じつつ、光太郎にも触れられています。

元版は河出書房新社さんから、昭和51年(1976)に刊行。気付きませんでしたが、昨年、同社から「完本」の二字が加えられて再刊されていました。いずれ全著作集に組み入れられるのではないでしょうか。

完本 和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本

平川祐弘著 2016年6月28日 河出書房新社 定価3,800円+税

日本人は西洋という異質の文明と対峙したとき、その衝撃に対してどのように応答したか。明治という過渡期を縦横に考察し、「日本とは何か」を解き明かしてゆく画期的名著。著者代表作。

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併せてご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

大きなる自然こそは我が全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し
詩「冬の朝のめざめ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

「運る」は「めぐる」。「自然」崇拝、讃美の光太郎、本領発揮という感があります。

いろいろ紹介すべき事項が重なり、後回しになってしまいました。双葉社さん発行の雑誌『小説推理』の2017年2月号(12月末刊)に連載の、喜国雅彦氏による漫画「今宵は誰と―小説の中の女たち―」が、「第六話 レモンを噛む女」ということで、「智恵子抄」を紹介して下さいました。

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「名作文学に登場する女性に焦点をあてたブックガイド的漫画」だそうで、これまでに安部公房『砂の女』、ツルゲーネフ『はつ恋』などが取り上げられてきたとのこと。

サブタイトルが「小説の中の女たち」となっていますが、小説ではなく詩集であるとことわった上で、あえて紹介してくださり、有り難く存じます。

「小説より言葉が少ないけれど 頭に浮かぶ映像は逆に鮮明」「この二人の何が哀しいって 最初に精神を病んだ智恵子の中から光太郎が消え 死によって光太郎の前から智恵子が消えるという 二度の別れがあること」など、的確に解説して下さっています。


今月末までは、店頭に並んでいるかと存じます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私達の愛を愛といつてしまふのは止さう も少し修道的で、も少し自由だ

詩「冬が来る」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

その恋愛の初期の頃には、このようなことを言っていた光太郎でした。後の大いなる悲劇の予感は全くなかったのでしょう。

一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が大きく取り上げられました。「発見者」の一人でもある光太郎にも言及されています。

(あのとき・それから)1931年 「雨ニモマケズ」の誕生 悲しみのりこえる切なる祈り

 ソプラノの独唱による宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、パイプオルガンの音とともにカトリック小倉教会(北九州市)の聖堂に響きわたる。
 オルガン奏者の宮崎裕之さん(61)が曲をつけ、信徒の女性が2011年3月11日の東日本大震災の翌月から十数回歌っている。この3月も予定され、宮崎さんはログイン前の続き「『被災したみなさんを支えたい』という気持ちを、多くの人の心に届けたい」と話す。
 聴衆からの義援金は、津波の被害が大きかった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で開業していた心療内科医師桑山紀彦さん(53)に贈られる。桑山さんが代表理事を務めるNPO法人「地球のステージ」は被災者らが語り部として体験を伝え、震災時の映像や写真などを展示する施設「閖上の記憶」を運営する。
 震災時、桑山さんの患者や知人らは家族や親しい人を亡くし、家や暮らし、職場も失い、心は土砂降りの雨にうなだれる状態だった。「支援は無言で『踏ん張れ』と言っていた。『雨ニモマケズ』の気持ちを芽生えさせてくれた」
 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」を自身の手帳に記したのは、1931(昭和6)年11月3日だと考えられている。
 その1カ月半前、賢治は勤めていた工場で作る壁材の販路を広げようと上京する列車で発熱。妹トシと同じ結核による死を覚悟し遺書を書き、やっと持ち直して戻った岩手・花巻の病床でつづったのが「雨ニモマケズ」だった。
 岩手は、賢治が生まれる2カ月前の1896年6月に明治三陸大津波、誕生4日後に岩手・秋田で大きな被害があった陸羽地震、亡くなる1933年は昭和三陸大津波に襲われた。度重なる冷害による飢饉(ききん)が女性の身売りや一家心中などの悲劇を増幅させた。
 宮沢賢治記念館の牛崎敏哉副館長(62)によると、賢治は「飢餓の風土」に立ち向かい、農業指導と人々の生活向上のために東奔西走した。だが「長く生きられない」と悟って、「雨にも風にも負けない『丈夫ナカラダヲ』持ちたいと願い、志を成就できない悲しみをのりこえる心からの祈りを言葉にした」。
 死の1年後、地元紙「岩手日報」に初めて活字として掲載され、その後、全集などに収録。祈りと別の利用もされた。太平洋戦争開戦の翌42年には、国民の戦意高揚と滅私奉公を促す目的か、大政翼賛会文化部編の詩集「常盤樹」に収められた。終戦間もない食糧難の時代には、文部省編の教科書「中等国語」で一時「一日ニ玄米四合」の一節を「玄米三合」と書き換えられた。米の配給が一日3合に満たなかったからだという。
 教科書や全集を通じて、賢治作品の中でも多くの人に親しまれた。
 そして東日本大震災で、改めて注目された。震災直後、俳優の渡辺謙さんが、これを読む映像が動画サイトで配信され、フランスやスペイン、アメリカでも朗読された。
 賢治を愛読する岩手県立大槌病院の心療内科医師、宮村通典さん(71)は、患者に「眠れていますか」と声をかけ、心身のケアに携わる。震災発生時は長崎県大村市の病院副院長だった。僧侶でもある宮村さんを転身させたのは、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」の「行ッテ」だった。「閉じこもり、悲しみにある人を受け入れ、立ち上がるための支援を医療や福祉関係者らと手を携えて取り組みたい」。震災から6年。仮設住宅に暮らす住民、親しい人を亡くし孤独感を抱える人……。震災の爪痕はいまだに消えていない。
 宮沢賢治記念館の牛崎さんは「雨ニモマケズ」に、現代への啓示を読み取る。震災直後は「行ッテ」に意味を見いだし、1、2年後は「ヨクミキキシワカリ」に心を砕いた。これからは、「ソシテワスレズ」であると。(平出義明)

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光太郎の名は、賢治の実弟・清六の令孫である宮沢和樹氏の稿に載っています。

■「人のために」気づかされ 宮沢賢治の弟・清六の孫、宮沢和樹さん(52)

 賢治さんが書き留めた手帳が13冊残っていますが、1冊に「雨ニモマケズ」がありました。祖父が賢治さんの原稿を詰めたトランクから賢治さんの死の翌年見つけました。
 祖父は生前、「兄は作品として書いたものではない」と話していました。終盤に、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と記しています。結核で体が弱っているとき、こういう人として生きてみたかったし、なりたかったが、なれなかったという、自分に向けた言葉であり、祈りの言葉でもありました。最後のページは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の曼荼羅(まんだら)で終えています。
 手帳を発見した場にいた高村光太郎さんや草野心平さんらと相談したのでしょうが、賢治さんとともに「行ッテ」という言葉を知ってもらうために、作品として出版したのです。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」など、東西南北の困っている人のところに助けに行く人になりたいと。東日本大震災ではボランティア、警察官、自衛隊員、医師らが活躍しました。その人たちは自らの行動を、自らに向けて表現した言葉が「雨ニモマケズ」だったと聞き、賢治さんも納得されたのではないかと思いました。
 賢治さんの作品は、これまでも多くの方が絵本や音楽、アニメにされています。「人のために」という気持ちや優しさに、気づかせてくれるからではないでしょうか。


「雨ニモマケズ」、上記記事にあるとおり、もうすぐ6年経つ東日本大震災の折には、、被災者の皆さんへのエールとして脚光を浴びました。

しかし、これも記事にあるとおり、戦時中には戦意高揚のために編まれた詩集『常盤木』に収められたり、戦後の復興期には「玄米三合」と書き替えられたりという、一種の冒涜のようなことも為されています。窮乏生活でも賢治を見習って我慢しろ、ということでしょうか。

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天災である震災で苦しい時に、自然に人々の間に沸き上がった「雨ニモマケズ」讃仰と、人が起こした戦争による窮乏状態の時に、上から押しつけのように「雨ニモマケズ」を与えること、これを同列にはできませんね。

ちなみに『常盤木』には、光太郎の散文「詩精神」と、詩「秋風辞」も掲載されています。

「道程」に代表される光太郎の詩の数々、そして賢治の「雨ニモマケズ」は、苦しい中でも新しい道へ踏み出す人々へのエールとして、使われ続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

こころよ、こころよ わがこころよ、めざめよ 君がこころよ、めざめよ

詩「或る夜のこころ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

デカダンス生活への訣別宣言であると同時に、「君」=智恵子と共に手を取り合って生きて行こうという決意表明も含むでしょう。

同じ「或る夜のこころ」の中に、「めざめ」る前の現状を「病の床」「アツシシユの仮睡」と表現しています。「アツシシユ」は「ハシッシュ」、マリファナですね。実際に使っていたわけではありませんが。

『毎日新聞』さんの長崎版に以下の記事が載りました。

障害者成人式 社会への一歩、決意新たに 「7300日」の歩み振り返る 長崎

 身体障害などがある新成人の成人式が9日、長崎市茂里町の市障害福祉センターで開かれた。新成人40人や家族、施設関係者らが出席。家族らはこれまでの歩みを振り返りながら祝い、新成人は社会への一歩を踏み出す決意を新たにした。【今野悠貴】

 式は長崎市心身障害者団体連合会が主催。今回は誕生から20歳までが7300日であることにちなみ「7300日の感謝」をテーマに掲げた。来賓の田上富久市長は高村光太郎の詩「道程」を紹介し「7300日分の頑張った努力の成果で皆さんの後ろに道ができた。これからも新しいことにチャレンジして、道を切り開いてください」とあいさつした。

 新成人を代表し、同センターで働く松尾澄佳さん(19)が「このように成長できたのも両親、私たちに関わってくださった方々のお陰」と感謝し「これからも向上心を持って頑張ります」と誓った。
 長男拓未さん(20)の成人を祝った薛(せつ)和子さん(49)=長崎市=は「小さい頃は病気がちだった息子が無事に成人を迎え、本当にうれしい。これから少しずつできることを増やして自立してほしい」と話した。
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9日の成人の日の話題です。ハンデを抱える皆さんの成人式、ということでニュースになったようです。被爆地・長崎の市長として、核廃絶の活動にも積極的に取り組まれている田上市長のスピーチに、光太郎の「道程」が使われたとのこと。

おそらく他にも全国の自治体の首長さんなり、来賓の方なりが、「道程」などを引用しつつお話をして下さったのではなかろうかと思います。

光太郎の詩は、自らを奮い立たせるエールとして作られたものが多いのが特徴です。しかし、光太郎自身、「一人に極まれば万人に通ずる」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)と発言しているとおり、普遍的なエールとして通用するものです。

これからの卒業式シーズン、新生活スタートのシーズンなどでも、新たな道へと進みゆく方々へのエールとして、光太郎の詩が愛され続けていってほしいと、切に願います。


【折々のことば・光太郎】

お嫁にゆくを わるいと誰が申しませう わるいと誰が申しませう どうせ一度はゆくあなた――

詩「泥七宝(四)」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

この時期、智恵子には郷里で縁談が持ち上がっていたというのが従来の定説でした。この小曲なども、それを裏付ける証左とされています。

しかし、その相手として従来言われていた智恵子の郷里の医師某は、この時点では既に他の女性と結婚していたことが明らかとなり、見直しが迫られています。

他の人物との縁談があったのか、はたまた具体的な相手までは未定でも郷里では智恵子を早く結婚させようと画策していたのか、といったところではないかと思われます。

または、縁談自体が光太郎の気を惹こうとする智恵子のブラフだった可能性も棄てきれません。

というわけで、新しい年がやって参りました。

本年もよろしくお願いいたしします。

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【折々のことば・光太郎】

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
詩「道程」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

昨年は、【折々の歌と句・光太郎】ということで、366日間(閏年でしたので)、一日一首、または一句、光太郎作の短歌、俳句などをご紹介して参りました。有り体にいえば、かつて大岡信氏が『朝日新聞』さんに連載なさっていた「折々のうた」のパクリでした(笑)。

数的には、もう一年間続けられるだけの、まだご紹介していない光太郎短歌や俳句が存在しますが、残念ながら取り立てて紹介すべき秀作ばかりではありません。光太郎といえど、駄作や意味不明の作もあります(笑)。

そこで、今年は趣向を変えまして、【折々のことば・光太郎】。これも現在『朝日新聞』さんに連載されている鷲田清一氏の「折々のことば」のパクリですが(笑)、『高村光太郎全集』を第1巻からひもとき、独断と偏見で、これはと思う光太郎の言葉をご紹介して参ります。おおむね『高村光太郎全集』の掲載順に、一つの作品から一つずつ言葉を拾おうと思っております。そこで、「折々」と言いつつ、あまり時節に関係なくなるでしょう。

昨年の【折々の歌と句・光太郎】は、その点が厄介でした(時折、季節外れのものを紹介いたしましたが)。

さて、記念すべき第1回は、もっとも有名と思われる光太郎の言葉から。この気概で、当方もやっていこうと思っております。

智恵子がらみのイベント二つ、ネット検索で情報を得ました。

まず都内から朗読系。

光子/Unplugged 〜四谷で文学に浸る夜

期  日 : 2016年12月20日(火)
場  所 : 綜合藝術茶房 喫茶茶会記 新宿区大京町2-4 1F
時  間 : 19時半スタート
料  金 : 2000円(ワンドリンク付き)

音響・照明の力を極力かりず、シンプルな舞台の上で、光子という俳優ひとりの声と身体を用いて、みなさまを文学の世界へお連れします。

演目 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」 「よだかの星」  高村光太郎 「智恵子抄」…他

光子プロフィール
東京乾電池、ニナガワスタジオ等で演技を学び、数々の舞台や映画に出演。現在は浅草リトルシアターにて、コメディ集団「浅草くじら座」の一員として毎月喜劇の舞台に立っている。


続いて大阪で、「紙絵」に関して。

高村智恵子's『紙絵』

期  日 : 2016年12月28日(水)
場  所 : コミュニティープラザ平野 2階 第3&第4会議室
       大阪市平野区長吉出戸5丁目3-58
時  間 : 13:30~16:00
料  金 : 500円
問い合わせ : 
メール momento.jp/at/gmail.com (「/at/」を半角の「@」に変えてご連絡ください。) 電話 090-8212-7499

『智恵子抄』の本などを執筆した詩人で彫刻家でもある高村光太郎さんの奥方である、洋画家で紙絵作家の高村智恵子さんが行なっておられた『紙絵』作りの会を催します。お正月に向けて、素敵な紙絵を作りましょう。小さなお子さまも、お気軽にご参加ください。

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また近くなりましたらご紹介しますが、年が明けて1月、2月にも「智恵子抄」朗読系のイベントを見つけています。

光太郎智恵子を取り上げて下さり、有り難い限りです。

【折々の歌と句・光太郎】

雪よけの縄こそ松に張られたれ形そびえて朝風に揺る
大正15年(1926) 光太郎44歳

当方自宅兼事務所のある、比較的温暖な房総も、今日は底冷え。さらに雪でも舞い出しそうな曇り空です。

昨日は、都内汐留で、朗読系イベント「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」を拝聴して参りました。

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会場は汐留ベヒシュタイン・サロンさん。ドイツのピアノ製造会社のブランド「ベヒシュタイン」の輸入代理店が持っている施設で、販売の他、小ホールが併設されていて、各種コンサートなどに使われています。

汐留地域、久しぶりに歩きましたが、欧州のような街並みに変貌していて驚きました(イタリア街というそうです)。右は帰りがけです。

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こちらが会場です。

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右は展示されていたベヒシュタイン。450万だそうです。この他にもチェンバロまであって驚きました。

さて、「フルムーン朗読サロン IN 汐留」。

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第1部で、詩人にして文芸同人誌『青い花』同人の宮尾壽里子さん作の「智恵子さん」がありました。宮尾さんはじめ、6名の女性による朗読劇でした。

冒頭、フルコンサートのグランドピアノ(もちろんベヒシュタイン)による、カッチーニ「アヴェ・マリア」にのせ、光太郎詩「あどけない話」「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」、智恵子書簡などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡が語られます。

終末近く、「智恵子抄」所収のさまざまな詩から、一部分ずつを取り上げてのコラージュ。光太郎ファンにはたまりません(笑)。最後は短歌「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」(昭和13年=1938頃)で締めくくり。ドラマチックでした。

その後は、群読あり、自作詩の朗読あり、創作舞踊やハーモニカ、もちろんピアノ演奏、会場を巻き込んでの歌なども織り交ぜ、多彩なプログラムでした。

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今後も皆様のご活躍を祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

冬ごもりみぞれ吹き入るふる壁の眼なし達磨ををかしと見る日

明治35年(1902) 光太郎20歳

正月に片目だけ入れて購入しただるまが、まだそのままという景。「あるある」という感じです。

気がつけば今年もあと半月。都内は店々の飾り付け等、クリスマス一色でした。いよいよ冬本番でもあります。

今日、12月9日は、文豪夏目漱石が亡くなってちょうど100年だそうです。

16歳違いの漱石と光太郎、ともに芸術の道を志したり、海外留学でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられたり、漱石は言文一致の小説、光太郎は口語自由詩と、新しいスタイルの文学を確立したり、といった共通点があります。また、共通点といえば、同じ千駄木界隈に暮らしていたことも挙げられます。

さらに、漱石の『坊っちゃん』に表れているような、権威的なものを嫌う傾向も、二人の共通点といえるかもしれません。漱石が文学博士号を拒否した話は有名ですが、光太郎も芸術院会員を辞退しています。

それから、文学と美術の問題。光太郎は自身では美術(彫刻)が本業と位置づけていました(しかし、現実には詩人としての方が有名ですが)。一方の漱石は小説家を自認していたと思われますが、美術にも造詣が深く(描画にも取り組んでいました)、自作の中にさまざまな美術関連のエピソード的なものを効果的に盛り込んでいます。そのため、漱石と美術に的を絞った研究、展示なども為されています。

ただ、絵画の実作者としての漱石は、光太郎の留学生仲間だった画家の津田青楓にけちょんけちょんに言われていますが(笑)。

それはともかく、いろいろと共通点が感じられるので、当方、漱石作品は非常に好きです。

ところが、漱石と光太郎、お互いにどうだったかというと、水と油、犬猿の仲、とまでは行きませんでしたが、光太郎が漱石に噛みついたことがあり、以後、互いに敬遠していたようです。

その裏には、似たもの同士がお互いの中に自分の嫌なところを見いだし、結局は好きになれない的な関係があったのではないかと、勝手に想像しています。


さて、新刊をご紹介します。

いま、漱石以外も面白い 文学作品にみる近代百年の人語り物語り

2016/12/05 倉橋健一 述 / 今西富幸 筆録 株式会社澪標 無題定価2,500円+税

活字文化の花形であった近代の文学作品は、物語と同時に書かれた時代そのものの吐息も鮮明に伝えてくれる。哀しみ、苦しみ、はかなさ、喜び、夢、希望、すべての作中人物の息遣いをとおしてリアルタイムに直接わたしたちに呼びかけてくれる。だからこそ漱石以外も魔的に面白い。七年にもおよんだ産経新聞連載「倉橋健一の文学教室」。新たに数本の加筆と対談を得て、古今東西の名作がよみがえる。いま、格好の文学案内。

目次
(近代編)尾崎翠/小林多喜二/室生犀星/石川淳/有島武郎/夏目漱石/谷崎潤一郎/島崎藤村/井伏鱒二/堀辰夫/織田作之助/太宰治/山川菊栄/内田百閒/徳田秋声/折口信夫/菊池寛/知里幸恵/柳田国男/川端康成
 (戦後編)金子光晴/島尾敏雄/高橋和巳/椎名麟三/宇野浩二/高見順/伊藤整/里美弴/林芙美子/広津和郎/深沢七郎/檀一雄 (現代編)辻井喬/吉村昭/堀田善衛/石牟礼道子/野坂昭如/井上ひさし (近世編)仮名手本忠臣蔵/三遊亭円朝/井原西鶴 (海外編)メリメ/ラファイエット夫人/トルストイ/チェーホフ/サルトル/ボードウィン/ウルフ/レマルク/ドストエフスキー/ブロンテ/ミシュレ/ホーソン/カフカ/カミュ/コクトー/フォークナー/ポオ/ヒューズ
(詩歌編)北原白秋/高村光太郎/山村暮鳥/小野十三郎/三好達治/丸山薫/黒田三郎/吉野弘/吉原幸子/荒川洋治/金時鐘/石原吉郎/平田俊子/寺山修司/山頭火/ヌワース/ランボー ほか 
(対談)文学が担うものをめぐって

もともと、『産経新聞』さんに連載されたコラムの単行本化だそうです。光太郎の項は平成22年(2010)に載ったとのこと。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わたくし道徳しないあるなど言ふ人と犢の肉を喰ひて別れぬ
大正末~昭和初期(1920年代半ば) 光太郎45歳頃

一昨日に続き、「カキ」ネタです。

昔、華僑の人々が、手っ取り早く日本語を話す手段として、断定・完了などの意の文末を「~ある」としていたそうです。芸人のゼンジー北京さんや、石ノ森章太郎さんの「サイボーグ009」の006(張々湖)が使っていたため、ステレオタイプの表現に過ぎないと思われがちですが、実際に光太郎短歌にも使われています。

この歌に関しては、与謝野晶子に師事した歌人の中原綾子の回想があります。

 大正末期か昭和の極く始め、荻窪の与謝野邸で久々で古い同人達の歌会が催されたが、これは席上結び字で高村先生がお詠みになつたお歌である。いまでは私の記憶に在るだけかも知れないと思はれるので書き留めておくが、途方もない此のお歌と、それを読み上げられた寛先生の御迷惑顔とが同時に思ひ出されて、いまでも可笑しい。余談だが、その事を当日欠席された堀口大学氏へ知らせてさし上げたところ「――高村君は一種の巨人です。ときどき見ておくよろしいある」と御返事が来た。
(『高村光太郎全集』第六巻月報「第二期明星の頃」)

こういう部分にも、光太郎の権威的なものへの反抗心が色濃く表れています。

週末の『日本経済新聞』さんに、立て続けに光太郎の名が出ました。

そのうち、先週土曜の夕刊に載った記事です。同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。 

遠みち近みち中村稔89歳 燃える執筆意欲

 「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」という言い回しに、20代のころは反発を覚えていたものだ。しかし、いざその年代も過ぎようとしている昨今、「なるほどうまいこと言うものだ」と苦笑いを交えて、肯(うべな)うことが多くなった。
 例えば、来年1月に90歳を迎える詩人で弁護士の中村稔氏の驚くべき仕事ぶりに接した時には、怠惰な自分を省みて悄然(しょうぜん)とならざるをえない。中村氏は、89歳になった今年に限ってみても、2月に550㌻に及ぶ大部の「萩原朔太郎論」、4月に井原西鶴の主要な作品の魅力を読み解く「西鶴を読む」、7月にエッセー集「読書の愉(たの)しみ」という3冊の単行本を、いずれも青土社から刊行した上に、この秋には、初の書き下ろし詩集である「言葉について」(青土社)を出版したばかり。
 ほぼ2、3ヶ月おきに単行本を出し、しかも西鶴文学という新しいジャンル、書き下ろし詩集という新たな形態への挑戦が続くという、とても卒寿とは思えない精力的な執筆活動を続けている。
 「言葉について」は、詩人として七十余年、積み重ねてきた言葉に対する思索を凝縮したような詩集で、14行のソネット形式で20編を収める。
 「言葉は時間の流れの中で黄ばみ、/ぶざまに歪み、無数に裂け、/つくろいようもなく傷ついた/私たちの意思伝達の道具であり、また、私たち自身だ。」
 こうした今の言葉に対する厳しい認識は、次のような行に、さらに鮮明に表れている。
 「着せかえ人形ほどに軽い、なにがし大臣の椅子、/紙幣をじゃぶじゃぶ金融市場に溢れさせている、/権力者のそらぞらしい言葉の軽さ。」
 その後の「言葉の軽さは傲慢な思いつきの軽さだ」の行に、今を見据える目が光る。
 90歳になる来年は、「高村光太郎と石川啄木についてそれぞれ本を書くつもりです」。言葉の本質を見つめる仕事は、なおも途上といっていい。
(2016/12/03 夕刊)


詩人で弁護士、評論家、さらに駒場の日本近代文学館名誉館長であられる中村稔氏に関する記事です。

弁護士としての氏は、知的財産権関連を手がけることが多く、いわゆる「智恵子抄裁判」で、原告・高村家側の弁護人を務められました。20年以上にわたる裁判の末、原告側の勝訴に終わり、この件は著作権に関する判例の一つの指針として、現代でも重要な扱いを受けています。

詳細は氏のエッセイ集『スギの下かげ』(平成12年=2000 青土社)に「回想の『智恵子抄』裁判」としてまとめられています。

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また、その裁判の関連もあり、平成11年(1999)には、角川文庫から『校本 智恵子抄』を編刊されてもいます。

氏とは今年、お会いしました。

夏に信州安曇野碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際に、記事に有るとおり、光太郎についての論考をまとめられているというお話を伺い、そのバイタリティーに感銘しました。

それにしても記事の冒頭、「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」とありますが、当会顧問の北川太一先生にしても、中村氏よりさらに2歳年長(夏には中村氏に北川先生の近況を尋ねられ、「中村先生ご同様にお元気です」とお答えしました)で、来春には満92歳になられます。かないませんね(笑)。

しかし、光雲の弟子筋に当たる彫刻家・平櫛田中は満107歳で天寿を全うし、「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」と言っていたといいます。そうなると当方、洟垂れ小僧にもたどりついていません(笑)。

さて、中村氏御著書、来年には刊行されるようですので、楽しみに待ちたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

牡蠣を賞す美人の頬の入れぼくろ    明治42年(1909) 光太郎27歳

鍋の美味しい季節となりました。当方、鍋にはカキが入っていてほしいのですが、娘がカキをあまり好まず、我が家の鍋にはめったにカキが入りません。

時折、当方が夕食の支度をしますので、その際、隙を狙ってカキを入れてしまおうと企てております(笑)。

朗読系のイベントです。文芸同人誌『青い花』同人で、詩人の宮尾壽里子様からご案内を頂きました。 

2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留

期  日 : 2016年12月14日(水)
時  間 : 開場14:15  開演14:30  終演17:15
場  所 : 汐留ベヒシュタイン・サロン 東京都港区東新橋2-18-2グラディート汐留1F
料  金 : 無料(お気持ち)

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第1部で、宮尾様によるオリジナル作品「智恵子さん」の朗読があります。宮尾様、『青い花』に智恵子に関するエッセイや、連翹忌のレポートなどを執筆なさっています。

また、12月14日といえば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日(旧暦ですが)、というわけで橋田壽賀子さんの「女たちの忠臣蔵」からの朗読もあるそうです。汐留ですから浅野公の墓所にして浪士たちが吉良上野介の首級を運んだ泉岳寺も近くといえば近くですね。

その他、朗読だけでなくピアノありハーモニカあり、創作舞踊も交えての、なかなか趣向を凝らしたイベントのようです。

ぜひ足をお運びください。当方も参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のことをば汝わすれよといふにあらねど山の風ふく
大正13年(1924) 光太郎44歳

師走となり、凩を肌で感じるようになって参りました。

当方は加盟しておりませんが、「昭和文学会」さんという学会があります。そちらの研究発表会で、光太郎が扱われますのでご紹介します。

昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会

期  日 : 2016年12月10日(土)
時  間 : 午後1時30分より
会  場 : 東京学芸大学 C棟(中央講義棟)302・203教室
        東京都小金井市貫井北町4-1-1
研究発表 :
 第一会場(C棟302教室) 司会 掛野剛史・竹田志保
   尾崎翠テクストにおける「影」への恋 ――「歩行」を中心に ―― 小野光絵
   「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――
     アギー・エヴァマリア

   不透明な戦後 ―― 川端康成『舞姫』における舞踊 ―― 杵渕由香
   安部公房「赤い繭」論 ――「寓話」と名付けられること―― 斎藤朋誉
 第二会場(C棟203教室) 司会 河田綾・友田義行
   〈批評文学〉の可能性 ―― 福田恆存「道化の文学」論 ―― 長谷川雅美
   大岡昇平『レイテ戦記』に於ける「人間」と
「全」 中山新也
   中上健次『枯木灘』における語りの構造―― 聴き手としての秋幸 ―― 峰尾俊彦
   石油資源の獲得という大義 ―― 山崎豊子『不毛地帯』を読む視点 ―― 徳永光展


アギー・エヴァマリアさん。首都大学東京大学院生だそうです。おそらく留学生の方でしょう。同会サイトには、「発表要旨」も載っていました。

   太平洋戦時下の戦争詩の多くは、「兵士」や「戦闘」、「死」など〈男性の戦争〉という主題を備えていた。高村光太郎の「彼等を撃つ」や「必死の時」などはその代表作である。だが高村は一方で、女性を歌った戦争詩も残している。太平洋開戦以前、西洋の美に傾倒する『道程』から日本女性に初めて美と愛を見いだす『智恵子抄』まで、高村は女性を様々に表象した。そこでは、特に女性の「肉体」とその肉体に向けられる「性欲」が主題となっていた。こうした女性像は、宣戦布告を経て大きく変貌する。肉体と性欲の要素を削った〈母〉が、作品「女性はみんな母である」や「山道のをばさん」の中に新たな女性像の典型として登場する。一方「少女戦ふ」では、〈母〉以前の女性を「立派な戦士」として称え、戦地の兵士に劣らぬ姿として描いてもいる。本発表は、高村の太平洋戦時下の作品中における女性像に焦点をあて、戦時下の詩における〈女性〉という主題のもと、戦争詩読解の新たな局面を開くことを目的とする。

光太郎の翼賛詩に表れる女性像に焦点を当てた発表だそうです。


発表題に掲げられた「女性はみんな母である」は、昭和17年(1942)、『婦人朝日』に発表された詩です。

   女性はみんな母である009

 女性はみんな母である。
 子あるは言はずとしれたこと、
 不幸、子なきもまた母だ。
 母の神秘は深さ知られず、
 母の愛撫は天地に満つ。
 あたたかし、あたたかし、
 母はあたたかなるかな。
 夫を守る妻は夫の母。
 ひとりある女性は又なく清く、
 母性の磁気を皮膚から発する。
 童女は五尺の男子を慰め、
 白髪(はくはつ)の女性は世を救ふ。
 伊勢にこもらすおんたましひ、
 われらを包みわれらをはぐくむ。
 されば、われらの女性国土にあまねく、
 世にもあたたかき母のかをりを放つ。
 女性はみんな母であり、
 天地は慈愛の室(へや)である。


要旨にもあるとおり、光太郎には女性賛美的な内容の詩作品がかなり存在します。

その理由として、智恵子や夭折した姉のさく(咲)、母のわかなどの影響を指摘する論考は古くからありますし、実際、そうなのでしょう。

しかし、見落としてはいけないのは、作家の主体性とともに、版元の要求、という点です。

光太郎、遠く明治期から、婦人雑誌への寄稿がかなり目立ちます。現在も刊行されている『婦人之友』には、明治45年(1912)から、最晩年の昭和30年(1955)まで、50篇を超える寄稿をし、大正期には連載まで持っていました。その他にも『婦人くらぶ』、『女子の友』、『婦女界』、『女子文壇』、『家庭』、『大正婦人』、『淑女画報』、『婦人雑誌』、『婦人週報』、『新家庭』、『家庭週報』、『婦人画報』、『女性日本人』、『女性』、『婦人の国』、『婦人公論』、『主婦之友』、『婦人世界』、『オール女性』、『新興婦人』、『女性時代』、『女性線』、『女性教養』などなど……。

詩にしても散文にしても、光太郎作品は非常にわかりやすい日本語で書かれ、それでいて含蓄や示唆にも富み、女性読者からの支持が大きかったのではないかと思われます。

となると、そういう雑誌に載せる詩文だから、女性賛美的な内容になるのはある意味当然のことで、筆を曲げる、というわけではないのでしょうが、発表誌と内容との関連については、考える必要があると思います。

光太郎レベルになると、「こういう物を書いたからそちらの雑誌に載せて下さい」ではなく、「こういうものを載せたいからうちの雑誌に書いて下さい」と頼まれるわけで、もっとも、書くのが嫌なら断ればいいのでしょうが、生活のためにはそうもいかないという部分もあり、簡単にはいかないと思いますが……。

こういう点は、翼賛詩にも当てはまるような気もします。

「書きたいから書く」と「頼まれたから書く」、あるいは「書きたいと思っていたところにちょうど頼まれた」もあるでしょうし、このあたりは本当に想像するしかありませんね……。

最近、いろいろ原稿依頼があり、そういったことも考えさせられる今日この頃です。


【折々の歌と句・光太郎】

足もとの小さき石より風起こり落ち葉巻くなり七つ八つほど
大正8年(1919) 光太郎37歳

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自宅兼事務所裏山のイチョウ。箒になるのは、もうすぐのようです。

今年8月に、コールサック社さんから刊行された『少年少女に希望を届ける詩集』。女川光太郎祭にもご参加下さった、詩人の曽我貢誠氏らの編集で、「いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。」というコンセプトのもと、広く募集した書き下ろしの詩作品などと、光太郎などの物故詩人の詩で構成されています。

これまでも新聞各紙で取り上げられた他、9月にはNHKさんの朝のニュース番組「おはよう日本」中の、関東甲信越向けのコーナーで紹介されました

 
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一昨日の『朝日新聞』さんの秋田版でも、この詩集について報じられました。編者のお一人、曽我氏が秋田ご出身だそうで、そのからみです。 

秋田)悩む子へ希望の詩 旧河辺町出身の元教師まとめる

 いじめ、不登校……、生きることに悩010む子どもたちに希望の言葉を届けたい。旧河辺町(現秋田市)出身の元中学教師で詩人の曽我貢誠(こうせい)さん(63)=東京都在住=の呼びかけで、「少年少女に希望を届ける詩集」(コールサック社)が編まれた。「親たちにも、子どもとのコミュニケーションの材料にしてほしい」と曽我さんは話す。
 「あなたの最も柔らかくしなやかな心の奥深くから詩的な言葉を発して頂けませんか」。昨年秋から、曽我さんがネットや各地の詩の会で呼びかけたところ、約170人から詩や文章が寄せられた。詩人の谷川俊太郎さん、作家の浅田次郎さんらも詩を提供した。
 さらに、曽我さんは「思春期の若者を力づけられるような」という観点から、高村光太郎、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、島崎藤村ら物故詩人の作品も加えた。そして、いじめを乗り越えたり、身近な人の死を経験したりした、有名、無名の200人の心の底からの言葉が1冊の本となり、今年8月に発行された。
 県出身の作家、西木正明さんは「今、日本が不景気だ少子化だなどと騒いでいるのはちゃんちゃらおかしくなる。地球上にはまだまだたいへんな地域があるわけですから、我々はもっと広い視野を持って生きて行かなければならないと思っています」(「真の冒険者は臆病な人である」)。
 「夜回り先生」として知られる元高校教諭で教育評論家の水谷修さんは「君のことを知ったその瞬間から、君は私のかけがえのない仲間、私の子ども。君が死んでしまったら、私はどうすればいいのですか。」(「生きよう」)と記した。
 中学教師を35年勤めた曽我さんは「小学校高学年から高校生ぐらい向けの、悩める子どもたちの助けになるような教材が、すぽっと抜け落ちている」と感じていた。この一冊が、教育現場や家庭でそんな役割を果たして欲しいと願う。
 詩集はA5判、319ページで1500円(税別)。問い合わせはコールサック社(03・5944・3258)へ。


光太郎の詩は「道程」と「冬が来た」。どちらも大正3年(1914)、100年以上前の作品ですが、きっと現代を生きる少年少女の心の琴線にもふれるものと思われます。

版元のコールサック社さんのサイトや、アマゾンさんから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

相倚りて笑みて黙(もだ)して事もなくたのしかりしを罪とし言ふや

明治36年(1903) 光太郎21歳

……というような、楽しい青春時代を送っている少年少女たちばかりではありません。「原発いじめ」などの問題もありますし……。

光太郎詩が、悩める若者たちへのエールとなれば、と思います。

昨日は、文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会でした。

当会及び高村光太郎研究会顧問の北川太一先生もおいで下さり、貴重なお話をいただけました。

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司会はは佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏。昨年は発表をされました。

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最初の発表は、高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関してでした。

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『高村光太郎全集』には、光太郎日記中、宮崎に関する記述がかなりあったり、宮崎宛の膨大な書簡が掲載されたりしており、さまざまなところで光太郎と関わったことはわかっていますが、それ以外の事績がよくわかっていません。光太郎より早く亡くなってしまい、結局、無名の詩人として生涯を終えた人物です。

野末氏、数年前から宮崎についてコツコツ調べていらっしゃいまして、今後も継続される由、その成果に期待したいものです。

続いて、当方の発表。

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先だって、福島県いわき市の草野心平生家で開催された、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で講話を仰せつかり、一般の方々に向けてお話しさせていただいた内容を、多少、専門家向けにアレンジしました。

いわきでは持ち時間が40分と決められており、ほんとに概要だけのお話になってしまいましたが、昨日はがっつり時間を取らせていただきました。

光太郎と心平、二人の出会いは大正14年(1925)。やはり詩人の黄瀛(こうえい)に連れられて、心平が駒込林町の光太郎宅を訪れた日のことでした。時に光太郎数え43歳、同じく心平23歳。ちょうど20歳違いの二人の天才の邂逅でした。

二人はたちまち意気投合し、長い交流が始まります。そこには、お互いの芸術、そして人間性に対する深いリスペクトがあったように思われます。そして、お互いにお互いのために、いろいろなことをやりました。


まず、光太郎から心平に。

『銅鑼』、『学校』、『歴程』といった、心平が主宰していた詩誌に、光太郎は実に多くの作品を寄稿しています。また、心平が関わった『歴程詩集』などのアンソロジーにも。光太郎の作品が載っている、ということで、売り上げに貢献したと考えられます。

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次に、心平の詩集の序文執筆、装幀など。光太郎は中原中也や八木重吉、宮沢賢治など、色々な詩人に対してこの手の仕事をしていますが、心平のそれに対しては6冊にのぼり、最多です。

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それから、心平の経営していた焼き鳥「いわき」(戦前)、居酒屋「火の車」(戦後)に足繁く通うなどの、経済的援助。

そして、これが一番大きいと思うのですが、総合的な芸術家としての手本を示したこと。彫刻、詩、絵画、書、翻訳、短歌、俳句などなど、実にさまざまな分野で足跡を残した光太郎。むろん、光太郎の影響ばかりではないのでしょうが、心平も詩以外に、絵画や書で優れた作品を遺しています。そしてそれぞれ、根底に光太郎と共通する何かが流れているような気がします。

詩もそうです。非常にわかりやすい光太郎の詩と、「蛙語」を使うなどの前衛的な心平の詩。一見、対極のようにも思えますが、権威的なものへの反抗、力強さ、生命讃歌的な内容、自由闊達さといった点で、やはり同じ精神の顕現です。

また、文学史的に見ると、光太郎はそれまでの文語定型詩を打破し、心平は「詩」という概念そのものを破壊しようとしたのではないかと思われます。ともに、既成のものへのレジスタンスですね。

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続いて、光太郎と心平の共同作業。それは、無名、若手詩人の発掘、援助、顕彰です。

主に心平と同世代で、『歴程』同人だった詩人たち――宮沢賢治、馬淵美意子、八木重吉、猪狩満直、尾形亀之助、石川善助、竹内てるよ、永瀬清子、伊藤信吉、黄瀛、中原中也、逸見猶吉、鳥見迅彦、藤島宇内ら――。彼らを世に送り出し、早世した者にはその顕彰活動と、心平は奔走しました。詩の実作者としての姿の蔭にかくれがちですが、そうした心平のプロデューサー的手腕も、もっと評価されていいと思います。そして光太郎も、全集等の編輯、著書の序文、装幀などで協力しました。


一方、心平から光太郎へ。

まず、『銅鑼』や『歴程』などで、光太郎に発表の場を提供したこと。まぁ、これは持ちつ持たれつという感じですが。


それから、光太郎詩集等の編集、解説執筆など。

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この中には、現在も版を重ねている新潮文庫版の『智恵子抄』なども含まれます。


さらに、雑誌などに光太郎評論、近況などを執筆、没後は回想などを多数執筆、テレビ等で談話をしたりといったこと、それらをまとめ、多くの光太郎関連書籍等を編集したり、書き下ろしたりしたこと。

その代表作が昭和44年(1968)に刊行された『わが光太郎』ですが、それに収められていないものも同程度の分量、ことによるとそれ以上あると思われます。また、『草野心平全集』は、単行書として刊行されたもののみを対象としているため、それらをまとめて読むことが出来ません。『続・わが光太郎』の刊行が望まれます。


そして、光太郎生前(特にその晩年)には、身の回りの世話を焼き、歿後には心平自身が歿するまで、光太郎の顕彰活動を続けたこと。

昭和32年(1957)の第一回連翹忌、発起人代表は心平でしたし、その後の10年間限定で実施された、造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の運営、美術館等での光太郎智恵子展への協力、各地の光太郎文学碑建立、花巻高村記念館への協力などなど。

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ついでに言えば、心平は同郷だった智恵子の顕彰にも力を入れたり、光太郎の実弟・豊周、その子息・規との交流もさかんだったりしました。


そう考えると、心平は、光太郎生前に知り合ってから、光太郎が歿するまで30年と少し、光太郎が歿してから、心平自身が亡くなるまでの30年と少し、合計60年以上を、光太郎の顕彰活動その他に費やしてくれたわけです。

まがりなりにも現在まで光太郎(智恵子も)の名が、世の中から忘れ去られていない背景には、こうした心平の業績が欠かせなかったのだと、今回、あらためて痛感しました。


さて、光太郎は心平をこう評しました。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。
 (略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。
   (光太郎 「草野心平詩集「第百階級」序」昭和3年=1928)
  ※ tour d'esprit 性格

一方の心平は、

 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。
 (略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。
      (心平 「大いなる手」昭和43年=1968)

とのことでした。


そんな二人をそばで見ていらした、当会顧問・北川太一先生のお言葉。

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高村さんと話をしていると、ふと草野さんの名前が出る。そんな時、いつも高村さんの顔にうかぶ微笑の、いかにもあたたかく、楽しげな表情を忘れない。「こんどの日曜に草野君とNHKの対談をやるんだそうで、草野君が引受けてきてしまった。断わると草野君の会計にひびくんでね」。文字にすればそっけない言葉の裏側の無類のいつくしみと信頼を、なんだかねたましく感じたものだ。
(北川太一「高村光太郎との断片」 平成2年=1990 『歴程』心平追悼号)

こと光太郎に関する限り、心平は両肌ぬぎで事に当った。光太郎を記念する仕事のいつも中心にいた。その間にも見た、惚々するような笑顔と怒り。光太郎が残したものを正しく伝えるために、最も親しい友とも一度ならず争った。
(略)
ひとかけらの私心もない、光太郎のためのいちずな怒りは、結局、相手も傷つけなかった。
(北川太一「人と作品 心平と光太郎」
 平成2年=1990 『わが光太郎』文庫版)

僕の掌はいつもはっきり覚えている。光太郎の大きな、つつみこむようなあの掌と、何度も何度も光太郎のことを遺託した心平の、厚く、熱く、痛いほど強い掌の握力を。
(同前)


と、まぁ、こんな発表をさせていただきました。合間には、二人の肉声や動画を流し、気がつけば85分ほどかかりまして、申し訳なかったのですが、おおむね好評でした。

資料としてお配りした二人の交流年譜(現在、もっとも詳細なものと自負しております)、発表のレジュメ、それぞれ残部があります。ご入用の方はこちらまで。


【折々の歌と句・光太郎】

弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
明治42年(1909) 光太郎27歳

誰が、という主語が抜けていますが、日本の女性たちが、です。

一昨日、昨日、それから7月にもこのコーナーでご紹介した、欧米留学からの帰朝直後、日本女性に対する失望を露わにした連作の一つです。

100年前はいざ知らず、現今は女性たちも大活躍ですね。昨日の研究会にも、各地から才媛の皆様がご参加下さいました。

昨日は都内で2箇所、企画展示を見て回りました。

まず、文京区さん主催の「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」。

会場は、文京シビックセンターさん。東京メトロ後楽園駅の目の前です。区役所や音楽ホール、展望ラウンジまで入っている施設です。
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1階に、アートサロンという展示スペースがあり、そちらが会場でした.。
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入ろうとしたところで、現・髙村家ご当主で、写真家の達氏、お姉様の朋美さんとお会いしました。お二人のお父様で光太郎の令甥・規氏亡き後、こうした企画にご理解を示され、ご協力を惜しまれていません。

お二人とお別れし、受付でパンフレット2種類を拝受。入場無料ですし、パンフレットももちろん無料です。

下記はカラーA3判二つ折りのメインのパンフレット。

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もう一つ、今回の企画展を含む、「文の京ゆかりの文化人顕彰事業」としてのパンフレット。こちらはA4判三つ折りです。

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見開きの面に、今回の展示に関しての記載。賢治と光太郎智恵子の紹介です。

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さて、展示は、4章に分け、それぞれ10枚ほどのパネルが掲げられています。「もの」としての展示は、ブロンズの「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」中型試作が一体、光太郎詩稿複製が2点、『宮沢賢治全集』と『高村光太郎全集』のみ。基本的にはパネル展示です。ただ、パネルに画像が多用され、光太郎智恵子と賢治の生涯などが俯瞰できるようになっています。
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第1章が「少年賢治と青年光太郎(1883年~1914年)」。形成期の光太郎・賢治が語られます。第2章は「文京の地で(1915年~1922年)」。千駄木林町での光太郎智恵子の生活、さらに賢治も本郷菊坂に暮らしていた時期があり、そこにスポットが当たります。

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第3章に「交錯する賢治と光太郎(1923年~1933年)」。二人が唯一会った大正15年(1926)前後。智恵子と賢治の死……。第4章には「光太郎と宮沢家(1934年~1956年)」。賢治歿後の宮沢家と光太郎の結びつき、岩手花巻への疎開、「乙女の像」制作と進んでいきます。

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合間に光太郎・賢治と関わった文京区ゆかりの文人の紹介も。夏目漱石、森鷗外、佐藤春夫、大町桂月等。

光太郎・賢治の関係年譜も。

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パネルの解説文、なかなかよくまとまっていました。

しかし、惜しむらくは会期が短いこと。昨日始まって、14日の月曜までです。それが終わると、力作のパネルなどはどうするのだろうと思いました。どこかにスペースを設け、常設展示でもいいかと思えるようなものです。

このあたり、ゆかりの文人を多数抱える文京区さんならではの課題ですね。

さて、会期は短いのですが、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

皿にもりしもつさう飯をもくふものか鏡にうつるおのが顔見つつ

大正13年(1924) 光太郎42

「もつさう飯」は「物相飯」。茶の湯の点心などで饗される、花などの型にはめてかたどったかわいらしいものを指すこともありますが、全く逆に、牢屋敷で囚人に与えたものを指す場合もあります。

おのが貧しさを自虐的に詠っている連作の一首ですので、後者の意味でしょう。

年に一度開催されている高村光太郎研究会の季節がやって参りました

第61回高村光太郎研究会

期 日 : 2016年11月19日(土)
時 間 : 午後2時から5時
会 場 : アカデミー茗台 7F 学習室A  
      東京都文京区春日2‐9‐5 東京メトロ丸の内線茗荷谷下車

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参 加 費 : 500円

<研究発表>
「詩人 宮崎稔―その基礎的考察①―」  高村光太郎研究会会長 野末明氏
「高村光太郎と草野心平 魂の交流」    高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明


毎年ご案内していますが、この会は昭和38年(1963)に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」を前身とします。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、現在は年に一度、研究発表会を行っています。以前は年間数回、勉強会のような形で行われていたようで、そこで61回という回数になっています。

今回は、当方も発表を行います。ちょうど一週間前に、福島県いわき市の草野心平生家において「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」が開催され、やはり当方が講話を仰せつかっています。その内容をベースにした発表です。心平忌の方は一般向け、こちらは研究者向け、という感じです。

ほぼ毎年、この世界の第一人者にして晩年の光太郎本人を知る、当会及び高村光太郎研究会顧問・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。

特に事前の参加申し込み等は必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。終了後には懇親会もあります。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりぬ米(よね)をくれよと我も言ふ人に向はずそらにむかひて
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日から始めまして、しばらく「腹の減る」シリーズの短歌をご紹介します。

大正末期、智恵子も比較的健康で、光太郎は詩文に、彫刻に、充実した毎日を過ごしていました。しかし、赤貧というほどではないにせよ、充分な収入があったとは言い難く、このシリーズの短歌につながっています。

空といえば、昨日の千葉、午前中はまとまった雨でしたが、午後からは晴れ間が広がりました。夕方にはまた彩雲が見えました。

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注文しておいたCDが届きました。  

<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 - 十七編抜粋-」

2016年10月20日 響林社 wis朗読 定価1,620円

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【解説】
『智恵子抄』は高村光太郎にとって、『道程』に続く2冊目の詩集にあたる。妻の智恵子と結婚する以前(1911年)から彼女の死後(1941年)までの30年間にわたって書かれた、彼女に関する詩29篇、短歌6首、3篇の散文が収録されている。本CDでは、以下の17篇を収録。

人に(いやなんです) 深夜の雪  人に(遊びぢやない)  人類の泉   僕等
樹下の二人  夜の二人 あなたはだんだんきれいになる   あどけない話
風にのる智恵子   千鳥と遊ぶ智恵子  
値ひがたき智恵子  山麓の二人  
レモン哀歌  亡き人に  荒涼たる帰宅  裸形

【収録時間】 計38分

 【朗読】
wis 女性朗読家。 i'Tunes storeのPodcast部門やオーディオブック部門の文学関係で幅広いリスナーの支持を得、すでに50を超える朗読作品を世に送り出している。また、個人ホームページ「  【朗読】声を便りに、声を頼りに――。」では、文学のジャンルを問わず、200を超える短編、長編作品を朗読。朗読に親しみを持ってもらえるようにと、いつでも無料で聴けるよう開放している。現在、「オーディオブックCD(朗読CD)」が響林社より好評発売中。


早速聴いてみました。透明感のある柔らかな、しかし、しっかりと芯のある声で、光太郎智恵子の世界が表現されていました。

光太郎詩は力強い男性的なイメージがありますが、女性でも朗読に取り組まれる方は多く、視点はあくまで光太郎という男性ですが、女性の声でも決して違和感はありません。

wisさんは、紹介文にもあるとおり、ネットで朗読を公開なさっています。このCDに収められている朗読も、既に平成20年(2008)にアップされていました。CD化されたことで、また異なる環境での聴取が可能となりました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

水ばかりのみてこの日は過ぎたりとうまき支那めしをくひつつわが思ふ

大正13年(1924) 光太郎42歳

3日前、草野心平関係の調べ物で行った千葉県立中央図書館さんの前にある中華料理店で昼食を摂りました。

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当方、幼い頃から炒飯が好物でして、一人で外食する際には時々頼みます。さらに餃子も。

食べながら上記短歌を思い起こしました。

昨日お伝えしたとおり、来月、福島県いわき市の草野心平生家で開催される「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会で講話を仰せつかっています。題は「草野心平と高村光太郎――魂の交流」としました。

平成25年(2013)、双葉郡川内村の小松屋旅館さんで開催された「第3回天山・心平の会 かえる忌」で、二人の交流について年譜をまとめ、やはり講話をさせていただいたのをベースにします。その際に作成した交流年譜にはまだ漏れが多く、懸案となっていましたので、いい機会と思い、完全版に近いものの作成を目指しております。

そこで一昨日、千葉市の千葉県立中央図書館さんに行きました。目当ては昭和50年代に筑摩書房さんから刊行された『草野心平全集』全12巻。近隣の市立図書館等には所蔵がなく、少し遠出となりました。

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第12巻に、100ページを超える心平の詳細な年譜が掲載されています。年ごとに、その年に発表された詩、散文等の題名、掲載誌が全て記されているので、非常に貴重な資料です。

光太郎に関わる詩文、さらにはイベントや訪問記録などについて、初めはメモを取っていましたが、メモすべき件があまりに膨大なので途中でやめ、100ページ超をコピーしてきました。申請書を書いて自分でコピー、コピー機も5台ほどあったので、館の方や他の閲覧者の方にも迷惑をかけずに済みました。館によっては職員の方にコピーを取っていただいたり、セルフコピーでもコピー機が1台しかなく、独占するには気が引けたりといったところもあり、そういう館では大量のコピーは不可能に近いのですが、今回はラッキーでした。料金も1枚10円で助かりました。

年譜に関しては、自宅兼事務所に帰ってからマーカーでチェックを入れました。心平が書いた光太郎に関する詩文は100編ほど。予想通り、以前にまとめた年譜には漏れていたものも多く、「こんな雑誌にこんなことも書いているのか」といった驚きがいろいろありました。

『草野心平全集』は、共著を除き、単行書として刊行された心平の著書をまとめたもので、新聞雑誌等に寄稿した散文の本文は掲載されていません。したがって、年譜に載っている題名だけでは光太郎に触れているか否か判断がつかないものもあります。

新聞雑誌等に寄稿した散文等のうち、主要なものは昭和44年(1969)刊行の『わが光太郎』にまとめられていますが、それ以降も光太郎に触れた文章は書かれ続けていますし、それ以前のものでも割愛されているものが多くあります。おそらく分量としてはもう一冊『続・わが光太郎』が出来るくらい有るのではないかと思われます。どこかの出版社さんで実現できないものでしょうか。もっとも、同じ主旨のことを繰り返し書いている、という部分はあるのかもしれませんが。

また、光太郎に関するものだけでなく、他の分野でも心平の散文は多く、『草野心平全集』の増補完全版として、全てがまとめられることも期待します。

年譜の載っている第12巻以外にも目を通し、そちらに掲載されていた必要と思われる事項はメモして参りました。それから、各巻のグラビアや月報で、見たことのない関連写真を目にし、また驚かされました。

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昭和28年(1953)、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。

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光太郎が歿した昭和31年(1956)、当会顧問の北川太一先生と心平。

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「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」での講話、プロジェクタでスライドショーを投影する予定ですので、このあたりも使おうと思っています。


ついでですのでもう1件。

一昨日訪れた千葉県立中央図書館さんは、千葉県文化会館や千葉市立郷土博物館(千葉城)などとともに、亥鼻公園を形成しています。

その公園内の一角に、こんなものが。

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光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作にして代表作「女」です。

昭和43年(1968)の建立で、千葉大学教育学部が001もともとここにあって移転したそうで、オブジェ全体が「千葉大学教育学部跡記念碑」です。この地に文化の薫りを、ということで「女」が乗せられています。

数年前にたまたま歩いていて見つけ、驚きました。


【折々の歌と句・光太郎】

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952) 光太郎70歳

今日、10月21日は、昭和28年(1953)に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式が行われた日です。心平も出席しています。

この歌は、前年、やはり心平も同行した十和田湖の下見の際の作。「泛びて」は「うかびて」と読みます。

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突然、既に亡くなっている与謝野晶子の名が引かれています。

与謝野鉄幹・晶子夫妻は、大正14年(1925)に十和田湖を訪れています。この際の旅行記や短歌は第二期『明星』に掲載されており、当然、光太郎も目にしていますし、ことによると夫妻から十和田湖のすばらしさを直接聞いていたのかも知れません。

そしておそらく、実際に初めて十和田湖を目の当たりにし、それを思い出したのではないでしょうか。

当会の祖、草野心平を偲ぶイベントが来月、2件続けて行われます。それぞれぜひ足をお運び下さい   

第6回天山・心平の会 かえる忌

期  日 : 2016年11月12日(土)
会  場 : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村上川内字町分211  0240-38-2033
時  間 : 午後3時より6時まで
会  費 : 2,500円 (食事代込み) 
主  催 : 天山・心平の会
講  話 : 晒名昇氏 (前かわうち草野心平記念館長) 
       金井真紀氏 (うずまき堂代表、ライター、イラストレーター、放送作家)
備  考 : 第2回第3次かわうち「酒場学校」開校式を兼ねる

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「かえる忌」は、モリアオガエルが縁で心平が愛し、蔵書を寄贈した天山文庫の建つ川内村で開催されます。

4年前3年前一昨年と3回参加させていただきました。下記は2014年、BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」から。3年前のかえる忌の様子です。当方も映っています。

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翌日は、心平の故郷、いわき市小川町で下記のイベントがあります。昨年の様子はこちら   

没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会

期  日 : 2016年11月13日(日)
会  場 : 草野心平生家 (いわき市小川町上小川字植ノ内6-1)
時  間 : 午前11時30分より午後1時まで
会  費 : 500円  
主  催 : 夢想無限の会
講  話 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表) 

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地元小中生の皆さんによる「第8回 草野心平ふるさとの詩けるるんくっく発表会表彰式」も兼ねています。

講話は当方です。「草野心平と高村光太郎――魂の交流」と題し、二人の交流について述べさせていただきます。資料作成を現在行っており、昨日もそのために千葉市の千葉県立図書館さんへ調べ物に行っておりました。明日はそのあたりを書きたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

とうとうと水の流れるやうなもの空いつぱいにこころをながれ
大正13年(1924) 光太郎42歳

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いい感じの秋晴れが続いています。画像は近所の畑に咲くコスモスです。

ネットでいろいろ検索をしていて、気になる展示情報を見つけました。9月から始まっていました。   

常設展アーカイヴ平成28年度第3期 文学館の中の美術―宮崎丈二

期  日 : 平成28年9月13日(火)~11月7日(月)
会  場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時  間 : 9:30~17:00(展示室入場は16:30まで)
料  金 : 一般500円 高大生250円 中学生以下・65歳以上無料

常設展アーカイヴは、当館の所蔵資料を年に数回テーマを変えながらご紹介する小企画スペースです。
 平成28年度第3期は、「文学館の中の美術―宮崎丈二」として、北海道にゆかりの詩人・画家の宮崎丈二関連資料をご紹介します。
これらの資料は、旭川市生まれの詩集の収集家で宮崎丈二に私淑した高橋留治氏より寄贈されたものが中心となっています。
 宮崎の詩について高橋氏は、「日常生活のありふれた用語を自分のものに洗い尽して、平明な詩を書き続け、その詩は中にキラリと光る、幽かな余韻がこころに長く残る。」と書いています。
 平明で明るく、そして心に響く宮崎丈二の詩と絵の世界をお楽しみ下さい。

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宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

光太郎晩年は、詩人の西倉保太郎、材木商の浅野直也との3人組で、中野のアトリエを訪れたり、光太郎を飲みに連れ出したりもしました。光太郎歿後には、昭和32年(1957)の第1回連翹忌にも参加しています。

昨年、『高村光太郎全集』に漏れていた、宮崎宛(西倉保太郎と連名宛)の光太郎書簡を見つけました。昭和27年(1952)1月19日付けで、まだ光太郎が再上京する前、花巻郊外太田村から送られたものです。

007  新年のおたよりいろいろいただき、たのしい思をいたしました。蘭の莟がもう開く頃かと、うらやましく存じます。清香をおもひやります。
  寄書の酔筆にも、雅興想意、小生も新年には例のもの一盞、又醇醸の焼酎を得て珍しく三十五度の風味を味ひました。
  冬もあたたかく雪少なく、これは物足りません。

上記説明で、展示品の多くが高橋留治氏の寄贈による、とあります。高橋氏は宮崎の研究に功績のあった方で、当方、氏の書かれた『評伝 無冠の詩人 宮崎丈二――その芸術と生涯――』(昭和49年=1974 北書房)を持っています。540ページ余の労作で、光太郎と宮崎の交流にも触れ、非常に示唆に富むものです。

そういう経緯もあり、今回の展示も近くで開催されていれば是非拝見に伺うところですが……。


だいぶ以前にも書きましたが、やはり宮崎が刊行に関わっていた雑誌『太陽花』の第2巻第1号に、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「栗色の顔をした野の若者よ」の光太郎訳が掲載されました。それに関する宮崎宛の光太郎書簡も現存します。

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『太陽花』は静岡で刊行されていた地方詩誌です。たびたび光太郎も寄稿していましたが、現存部数が非常に少ないようで、「栗色の顔をした野の若者よ」光太郎訳がどういう内容なのか、不明です。掲載誌は横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館さんに所蔵されています。しかし、「栗色の顔をした野の若者よ」の載ったページだけ破り取られており、読めませんでした。今回の展示がある北海道立文学館さんにも所蔵はないようです。

刊行は昭和2年(1926)1月。しかし、大正15年が前年の12月25日まで、翌12月26日から31日までが昭和元年ということで、先に印刷が終わっていたであろうこの号、奥付は大正16年となっています。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれをひとり離れし神の鹿かすかなる音に人を泣かしむ
明治35年(1902) 光太郎20歳


このところこのコーナーで紹介し続けている、奈良での作の一つです。鹿は奈良公園の鹿でしょう。

万葉の昔から、鹿の鳴き声は秋の風物詩。文字で表すと「ピュウーーーー」といったところでしょうか。高い音程の、一種もの悲しい特徴的な声です。

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画像は当方自宅兼事務所所在地の千葉県香取市に鎮座する香取神宮の神鹿。昨日撮影してきました。ちょうど食事タイムで、大半の鹿さんたち、ニンジンを食べるのに忙しく、鳴いていませんでした(笑)。

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