タグ:詩

一昨日、拝見して参りました。  

日本文学関係貴重書展示:近現代編

期 日 : 2018年5月30日(水)~6月12日(火)
会 場 : 大妻女子大学博物館 東京都千代田区三番町12(図書館棟B1F)
時 間 : 10:00〜16:00
料 金 : 無料
休館日 : 6/3(日)

 大妻女子大学では、2018年5月30日(水)~6月12日(火)にかけて、「大妻女子大学日本文学関係貴重書展示:近現代編」の特別展示を開催します。この展示は、昨年度に引き続き行うもので、本学日本文学科及び短期大学部国文科を中心として収集して本学図書館及び草稿テキスト研究所に所蔵されている貴重な資料を展示します。
 
 今回の目玉は、梶井基次郎[1901-1932]直筆の書簡に加えて、愛用の鞄やマフラーの展示です。また、その他、伊東静雄・井伏鱒二・金子光晴・坂口安吾・島崎藤村・高村光太郎・谷崎潤一郎・中原中也・萩原朔太郎・堀 辰雄・室生犀星・森 鴎外・森茉莉等13人の作家の直筆原稿も展示します。

イメージ 4


というわけで、行って参りました。

最寄り駅は半蔵門駅、あるいは市ヶ谷駅でしょうか。当方、江古田の日大芸術学部さんからのハシゴのため、乗り換えの都合で九段下駅から歩きました。

イメージ 5 イメージ 6

本校舎から離れたところにある図書館棟、エレベータで地下1階に下りると、博物館さんです。

館長さん名義での挨拶文。

イメージ 7

会場入り口から。

イメージ 8

受付で、展示品に関するリーフレットを下さいました。A3判二つ折り、全7ページ。画像は入っていませんが、よくまとまっています。

イメージ 11

光太郎関連は、まず光太郎から詩人で編集者の池田克己にあてたはがき3通が展示されていました。

文面の側が見えるように展示されているものが一通。昭和25年(1950)10月21日付です。だいぶ以前にこのブログでご紹介しましたが、雑誌『サンデー毎日』に、光太郎の戦前の旧作「或る日」(昭和3年=1928)が転載された際、本来、秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚を祝す詩なのに、その意図が伝わらず(宮様の名前等伏されていたので致し方なかったのでしょうが)、田舎の花嫁が馬に乗って嫁入りする挿画が付されてしまったことに関してのものです。掲載誌『サンデー毎日』本体と、当該ページのカラーコピーも並んでいました。

イメージ 9 イメージ 10

それから、表書きの面を上に、前年2月と3月のもの。

大妻女子大さんでは、こうした肉筆資料等の蒐集に力を入れているようで、池田宛の光太郎はがきはさらにもう1通、所蔵されています。4通セットで、10年ほど前でしょうか、都内の古書店さんが売りに出したものです。すべて『高村光太郎全集』未収録で、そうしたものは当方編集の「光太郎遺珠」(現在は高村光太郎研究会さんで年刊の『高村光太郎研究』に連載)でご紹介しているのですが、その際の目録に載った画像などから、3通の内容は割り出すことができ、掲載しています。

それから大妻女子大さんでは、平成18年(2006)の明治古典会七夕古書入札市に出た、光太郎から神保光太郎(同じ「光太郎」なのでややこしいのですが)に宛てた大量の書簡類も購入されています。そちらも大半は『全集』未収録と思われます。

池田宛の残り1通と、神保宛の大量のもの、いずれ調査させていただこうと思いつつ、まだ果たせていません。この手の『全集』未収録書簡類、あちこちに所蔵されており、「光太郎遺珠」のページ数が限られているため、少しずつ片付けている次第です。ちなみに来年4月刊行の『高村光太郎研究』に載る「光太郎遺珠」では、発見が大きく報じられた、オリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎に宛てた書簡ごっそりを載せる予定でいます。


003さて、今回の展示の話に戻します。

光太郎本人のものではありませんが、関連する資料が他にも出ていて、実はこちらの方に驚きました。

まず、当会の祖・草野心平の構想ノート。2冊出ていて、うち1冊は「高村光太郎研究ノート」と題されていますが、詩「高村光太郎」(昭和28年=1953)に書かれた長詩・「高村光太郎」のための構想ノートです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕された直後の10月23日、光太郎も演壇に立った青森市野脇中学校で開催された文芸講演会の席上、心平がこの詩を朗読しました。活字としてはその月の雑誌『文芸』が初出です。

「生ける混沌(カオス)」とも言うべき心平らしく、書いた詩の上に、落書きとも見まごうような人物画。光太郎の顔なのか、何なのか、見ようによっては仏画のようにさえ見えます。それも、見開き2ページで5人も。

もう1冊、こちらは光太郎とは直接関わらないようですが、同じ年の詩稿ノートも出ていました。こちらは題して「雑雑」。すさまじいまでの推敲の痕跡が残っており、そのエネルギーに圧倒されました。

福島いわきの草野心平記念文学館さんにあるべき品のような気がしますが、意外と心平の肉筆物も市場に出回っていますので、大妻さんが入手されたのでしょう。


それから、昭和22年(1947)、天明社から刊行されたアンソロジー『近代抒情詩選 花さうび』関連資料。これは佐藤春夫の編集で、光太郎詩も「秋の祈」、「冬が来た」、「ぼろぼろな駝鳥」、「夜の二人」の4篇が収められています。

イメージ 2

リーフレットには掲載されている佐藤春夫の書簡004と草稿が、残念ながら展示されていませんでしたが、岡鹿之助による表紙の原画が出ていて、こんな物が残っているんだ、と驚きました。

右は当方所蔵の『花さうび』です。ちなみに「さうび」は現代仮名遣いでは「そうび」、漢字に直すと「薔薇」です。


その他、直接光太郎とは関わりませんが、光太郎と交流のあった文学者たち――与謝野夫妻、森鷗外、中原中也、伊藤静雄、萩原朔太郎、室生犀星ら――の草稿、書簡、著書などが並んでおり、興味深く拝見しました。

大妻さん、こうした資料の蒐集に力を入れるだけでなく、「死蔵」とならないよう、こうして展示もなさっているということで、すばらしいと思いました。

逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンは忠実な自然の研究者であつた。他の多くの天才よりも際立つて自然に近づいた。自覚して入つて行つた。そして、芸術の本道を大きくして、豊かに盛んな永遠の仕事を生み出した。

談話筆記「ロダンの生涯」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

光太郎ファンとしては、「ロダンは」を「光太郎は」と読み替えたい一文です。

思潮社さんから刊行されている雑誌『現代詩手帖』の最新号です。 

現代詩手帖 2018年6月号

2018年5月28日発売  思潮社  税込定価1280円

イメージ 1 イメージ 2

【特集】『月に吠えらんねえ』の世界

◎作品  清家雪子 花なんかいらない
◎対談  萩原朔美+清家雪子 『月に吠えらんねえ』の秘密
◎座談会 
朔太郎、戦争詩、女性性、ときどきBL。
      安智史+栗原飛宇馬+猪俣浩司+浅見恵子
◎論考  藤井貞和、川口晴美、TOLTA、黒瀬珂瀾、岩川ありさ
◎人物紹介 詩歌句街から
 青木亮人、安住紀宏、伊藤詩織、井上法子、北爪満喜、栗原飛宇馬、佐藤弓生、
 佐伯百々子、田口麻奈、
田野倉康一、陶原葵、中地幸、中西恭子、マーサ・ナカムラ、
 安智史、柳澤真美子、山田夏樹


というわけで、講談社さん刊行の漫画雑誌『アフタヌーン』で、平成25年(2013)から連載されている、清家雪子さん作「月に吠えらんねえ」の特集が組まれています。

同作は単行本としては、現在、8巻まで刊行されており、「月吠」の愛称で、コアなファンを獲得しています。

イメージ 3


近代文学者たちの作品からのイメージで造型された登場人物達がおりなす、妖しく怪しい(笑)独特の世界です。主人公は「朔」。萩原朔太郎の作品からのインスパイアです。

光太郎智恵子からのそれ、「コタローくん」と「チエコさん」も登場し、第4巻所収の第17話「あどけない話」では、二人がメインのストーリーになっています。

イメージ 4

その他、ところどころに「コタローくん」と「チエコさん」が登場しますが、第6巻以降はほとんど出番が無く、残念に思っています。

真面目(笑)な文学界でもこの作品は無視できないと見え、各地の文学館さんで企画展が開かれたり、詩歌系の雑誌で特集が組まれたりしています。

で、『現代詩手帖』さん。作者の清家さんはじめ、朔太郎の令孫・萩原朔美氏、詩人の藤井貞和氏などが、作品の魅力を語り尽くしています。作品の主要テーマである「戦争詩とは何だったのか」という点についても、逃げることなく真っ向から向き合っています。

そうした中で、「コタローくん」と「チエコさん」の立ち位置についても、ところどころで言及されています。下記は特集の最後、登場人物紹介の項。

イメージ 5


それから、同じ号で「赤磐発・永瀬清子生家保存会の試み 映画『きよこのくら』雑記」という記事も載っていました。香川佳子さんという方のご執筆でした。永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の女流詩人。昭和15年(1940)刊行の詩集『諸国の天女』の序文を光太郎に書いてもらうなどしています。

当方、6年前に足を運んだ赤磐市の生家保存の取り組みと、残念ながら解体されてしまった蔵を描いた映画「きよこのくら」についてのレポートで、興味深く拝読いたしました。

イメージ 6

『現代詩手帖』さん、大きめの新刊書003店なら普通に置いてあると思われます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

実に、王公の面前に立つても、なほかつ「爾曹蝮の裔よ」と叫んで怖れなかつたヨハネが人物の雄大と率直とは妙にロダンが勁健な作風に適してゐることから考へても、氏が三十年の蘊蓄を傾倒して仏国彫刻界の舞台へ漸く其の手腕をふるはんとした時の序幕としては実に痛快極まる図題であつた。

散文「アウグスト ロダン作
「バプテスマ」のヨハネ」より
明治38年(1905) 光太郎23歳

我が国に於いて、ロダンを詳細かつ肯定的に評した文章のうち、最も古いものの一つです。光太郎のその炯眼にはやはり舌を巻かざるを得ません。

昨日は、千葉市の朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの公開講座、「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務めさせていただきました。

イメージ 1

もともとこちらで短歌の講座をお持ちの、歌人にして明星研究会の松平盟子氏にご紹介いただき、松平氏とご一緒に講師を仰せつかりました。

受講してくださった方は10名。平日の昼間、受講料もそこそこの料金でしたが、ありがたいかぎりです。文芸誌『青い花』に、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイや、毎年ご参加下さっている連翹忌のレポートなどを寄稿して下さり、「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」、「第5回 春うららの朗読会」、「響きあう詩と朗読」などの朗読公演で、光太郎詩の朗読や自作の脚本による朗読劇「智恵子さん」などに取り組まれている、宮尾壽里子さんが、遠く埼玉から駆けつけて下さいました。ありがたや。

イメージ 2

松平氏は、与謝野夫妻の雑誌『明星』における光太郎、それぞれに光太郎智恵子と縁のあった与謝野夫妻、石川啄木・節子夫妻、岡本一平・かの子夫妻と光太郎夫妻の比較、三期に分かれる光太郎短歌の魅力、「智恵子抄」所収の詩のご紹介などのお話をなさいました。

当方は、光太郎智恵子の略歴、詩集「智恵子抄」の成立と、その受容の歴史といったことについてお話しさせていただきました。

太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、出版社龍星閣主・澤田伊四郎のすすめで編まれたオリジナルの『智恵子抄』は、「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、見合い結婚が約7割だった時代に、燃えるような恋愛を謳った詩集として驚きをもって迎えられ、戦争の影響で龍星閣が休業する昭和19年(1944)までに13刷もの版を重ねました。

象徴的なのが、冒頭に配された詩「人に」(明治45年=1912)の、さらに冒頭に掲げられた一節「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」。これは男性である光太郎が女性である智恵子に語りかけるフレーズですが、男女が逆転し、戦時の女性たちは出征する男性たちに「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」という思いを抱き、しかし、それを口に出すことは憚られていた、その思いを託して読み継がれたとも言われています。

戦後、光太郎自身は「ものにならない」だろうと澤田に書き送った『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)、龍星閣の戦後復元版、さらに光太郎が歿した昭和31年(1956)の廉価な新潮文庫版『智恵子抄』などが続々刊行され、「智恵子抄」はますます広まり、やはり多くは「純愛の詩集」と受け止められ続けました。講座の受講者の中にも、お父様がお母様に贈った『智恵子抄』をご持参下さった方もいらっしゃいました。

イメージ 3

そうした「純愛の詩集」的な讃美に異を唱えたのが、まずは吉本隆明。「智恵子の姿が見えない光太郎の一人相撲」的な見方を示し、その後、ウーマンリブ系・ジェンダー論系の人々に受け継がれました。光太郎は「似非フェミニスト」「意識せざる男尊女卑論者」、智恵子はその「光太郎によって作り上げられた虚像、犠牲者」、「智恵子抄」は「贖罪の詩集」などという構図です。そこまで過激ではなくとも、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子さんなどは、光太郎が智恵子を聖化しすぎ、智恵子は息が詰まっただろうとおっしゃっています。

イメージ 4

当会顧問にして晩年の光太郎に親炙した北川太一先生は、過激なジェンダー論などに疑問を呈し、戦後、続々と見つかった智恵子自身の文章や書簡、同時代人の証言などをもとに次のように述べられました。

はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。  (『芸術夢紀行シリーズ 智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)

このあたりを受け、当方、「智恵子抄」の「抄」とは何か、というお話もさせていただきました。「抄」の漢字は、「すくいとる」「書き抜く」という意味で使われるのが一般的で、「戸籍抄本」 「抄録」などがその例です。つまり「智恵子抄」は、「光太郎全文筆作品の中から、智恵子に関するものをすくいとり、抜き書きしたもの」となります。しかし、それだけでなく、「ここに表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだ」という光太郎のメッセージも込められているような気がします。

「智恵子抄」の詩の中には、心を病んだ智恵子のそれほど具体的な描写がありません。せいぜい以下のようなところです。
001

 尾長や千鳥が智恵子の友だち
 もう人間であることをやめた智恵子に
 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
 智恵子飛ぶ
  (「風にのる智恵子」より 昭和10年=1935)


 人間商売さらりとやめて、
 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
 うしろ姿がぽつんと見える。
  (「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年=1937)


 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを 為 る。

 智恵子は 現身うつしみ のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。
   (「ひがたき智恵子」全文 昭和12年=1937)


 半ば狂へる妻は草を 藉 いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに 慟哭どうこく する
 ――わたしもうぢき駄目になる
  (「山麓の二人」より 昭和13年=1938)


ところが、同時期に明星系の歌人・中原綾子に送った手紙には、智恵子の病状がかなり詳細に記されています。

ちゑ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽してゐますが、連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります。何とか方法を講ずる外ないやうに存じます。
  
此を書いてゐるうちにもちゑ子は治療の床の中で出たらめの讒言(うはごと)を絶叫して居る始 末でございます。看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り殆ど寸暇もなき有様です。

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます。病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます。拙宅のドアは皆釘づけにしました。往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません。

病人は発作が起ると、まるで憑きものがしたやうな、又神がかり状態のやうになつて、病人自身でも自由にならない動作がはじまります。手が動く首がうごくといつたやうな、病人の独語または幻覚物との対話は大抵男性の言葉つきとなります。或時は田舎の人の言葉、或時は候文の口調、或時は英語、或時はメチヤクチヤ語、かかる時は小生を見て仇敵の如きふるまひをします。


こうした点、さらには他の点も含め、「「智恵子抄」に表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだから、その他の部分は想像して下さい」という、光太郎の意識が、「抄」の一字に垣間見えます。もともと龍星閣の澤田が「詩集 智恵子」という題名を提案したところ、光太郎本人が「抄」の一字を付け加えることを提案したそうです。

それを受けての北川先生の「芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」の発言なわけです。

そこで当方、「芸術のあらゆる分野の作者、演技者」の皆さんによる、「智恵子抄」二次創作も、いろいろとご紹介させていただきました。小説、漫画、映画、舞台演劇などの文芸系、造形作品系、音楽・舞踊系など。このあたりの内容が、一般の方にはかなりくいつきがいいというのもありましたが。

イメージ 6 イメージ 7
イメージ 8 イメージ 9
イメージ 10 イメージ 11

そんなこんなで約1時間半。いい機会を与えて頂きました。松平様、朝日カルチャーさんに大感謝です。手前味噌で恐縮ですが、こうした講座の講師等、日程さえ合えば全国どちらででもお受けいたします。ぜひお声がけください。


【折々のことば・光太郎】

農こそ人間の根本的な本業であり、農こそ人間生活の根幹であり、他の一切の人間活動はそれに附随するアクセサリーに過ぎない。農は人間と自然との合力であり、合体であり、最も深いところから人間精神を支え、人間文化の花を咲かせる活動源である。

散文「農にほこりをもて」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」制作のため、再上京した翌年の文章から。花巻郊外太田村で農作業に取り組み、まがりなりにも野菜類は自給できていた光太郎の言葉。重いものがあります。

まずは一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊から。昨年亡くなった詩人・評論家の大岡信さんを偲ぶ連載の8回目です。

大岡信をたどって 6762回の「折々のうた」003

 詩人・批評家の大岡信は1979年1月25日、詩歌コラム「折々のうた」の連載を朝日新聞で始めた。
 依頼は前年秋。その段階から引用を含め200字程度という字数制限があったようだ。難色を示す大岡との「交渉」には、編集局次長で後に社長となる旧制一高の元同級生・中江利忠(88)も加わった。一高では農耕サークル・耕す会で、便所から肥だめにふんにょうを運び込む苦労を分かち合った仲という。
 妻かね子(87)は「当初は新聞小説の後ろの空白を埋めるためと言われた。でも字数制限でかえってやる気が出たみたい」と振り返る。第1回の東京の紙面を調べると、曽野綾子の小説「神の汚れた手」の後ろにくっつくように、24面に掲載されていた。
 〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉。彫刻家で詩人の高村光太郎が1906年、彫刻修業のために渡米した際に船中で作った短歌。大岡は、「高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える」と評した。
 連載は評判を呼び、編集局長となった中江の決断もあり79年5月には1面に移った。中断もあったが2007年まで6762回を数え、「万葉集」を超える詩歌選集となった。中江は米紙ニューヨーク・タイムズ幹部に「恋の歌が1面に載っているのは世界でも朝日新聞だけだ」と言われたとうれしそうに振り返る。
 約1年分を掲載した岩波新書は19冊を数える。同書に載せた引用詩歌の作者略歴の作成で協力した詩人の高橋順子(73)が今も覚えているのは〈看護婦の妻とボイラー技士のわれ定休日重なり海を見ている〉という歌。「有名な人の作品でなくても、生活感があって心に訴える作品を大岡さんは選んだ」
 「折々のうた」は海も越えた。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーンの弟子で、大東文化大名誉教授のジャニーン・バイチマン(75)が英訳を手がけた。約10年間、朝日新聞の英字新聞の日曜版に載り、本にもなった。引用する詩歌の解釈などをめぐってバイチマンは大岡とファクシミリで対話を重ねた。
 〈白壁を隔てて病めるをとめらの或(あ)る時は脈をとりあふ声す〉。肺結核で30歳で夭折(ようせつ)した歌人・相良宏(さがらひろし)の歌を翻訳した際は、約24時間でやりとりが5回ほどに及んだ。
 バイチマンが一つの言葉を選ぶに至った理由を書くと、「いい解決を見つけましたね!」。一方、大岡は訳文の語順の変更を提案。理由を尋ねるバイチマンに、この歌の魅力は療養所の隣の部屋の女性たちを思う、歌人の孤独だが大変優しい心情だと書いた。
 「大岡さんは心を砕いて詩歌を選び、深く読み込んでいた。詩人たちに尊敬を抱いていた」とバイチマンはいう。そして「折々のうた」を「古今東西の詩人が集う巨大な円卓」にたとえる。「歌人や俳人、詩人たちが無名有名の区別なく座っていて、円卓を作った大岡さんも笑顔で座っているんです」=文中敬称略(赤田康和)


昭和54年(1979)に始まった、朝日さんの伝説的ともいえるコラム「折々のうた」。その記念すべき第1回に、光太郎の短歌を取り上げて下さったことが記されています。

後半に紹介されている、ジャニーン・バイチマン氏。。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にご参加なさっていて、終了後の懇親会でお話しさせていただきました。お写真を見て、「あれま」と思った次第です。寡聞にして大岡氏との交流について、存じませんでした(汗)。


続いて、少し前ですが、先月末の『東奥日報』さん。先月、青土社さんから刊行された中村稔氏著『高村光太郎論』の書評が出ています。 

高村光太郎論 中村稔著 巨人の近代を照らす

 「高村光太郎はまことに夢想家であった」。91歳の詩人中村稔は幾たびもこのように語る。同時に「高村光太郎は、たんに彫刻家、詩人というより、ひろく文明一般に関心のある人物」であり、それが彼の「創作活動の特徴」であるとする。
 中村はこの近代の巨人を深く愛しており、500ページ超の大著の全篇で、光太郎の前のめりの近代性を厳父のごとく叱る。同時にその仕事の核を浮かび上がらせてゆく。
 留学を終え帰国した光太郎は日本の前近代性に激しい焦燥を抱く。日本の彫刻界の匠(たくみ)であった父、高村光雲が望んだのは、「新鮮な彫刻技術」であったろうが光太郎が学んだのは「技術でなく、芸術」であった。
 例えばロダンから学んだのは、「愛は自然と同義であり、自然の摂理にしたがい、愛をもって社会と立ち向かっていく」ことであった。
 この時「自然」は人工と対立する哲学であるが、後年それは光太郎のなかで「おのずから」の意味に変容し、陰の部分を形づくる。
 一つは妻、智恵子との関係である。その身体に抱え込んだ凶暴なエネルギーをひとりよがりに放出したことが、妻を狂気に追いやったのではないかという。しかし智恵子を巡る作品は「愛というものの一方通行的性質」を捉えており、尋常とはいえないほどの愛を背景としていたともみる。
 もう一つは第2次大戦への動きを「とどめ得ない大地の運行」「歴史的必然」とする誤謬(ごびゅう)である。戦中に書かれたおびただしい戦意昂揚の詩が「将兵を励まし、死に赴かせた」ことを光太郎は戦後も反省した形跡は認められないと指摘。それゆえ、花巻の7年間も「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする。
 中村のまなざしは終始、現実主義の側から巨人の近代が何であったか断罪しつつ照らし出す。それは次第に日本近代の自画像にも見えてくる。この厳しい自画像を描くことが、詩人中村稔を完成することであるかのように。(川野里子・歌人)

イメージ 2

この記事の載った『東奥日報』さん。GWに秋田小坂青森十和田湖を回った際に東京駅から乗った東北新幹線はやぶさ号で、当方が座った座席前のネットに、車内誌『トランヴェール』などとともに入っていました。青森方面から載った前のお客さんが置いていったのでしょう。通常、係員の方が清掃点検の際に片付けるので、始発駅の東京駅から乗って、こういうことはまずないのですが、そのおかげでこの記事の掲載を知ることができました。不思議な縁を感じました。



東北新幹線といえば、明後日からまた同線に乗り、今度は岩手花巻に行って参ります。花巻郊外旧太田村、中村氏が「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする(当方は断じてそうは思いませんが)、7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)での第61回高村祭のためです。また同じようなことがあるかな、と期待しましたが、こういうことが重なると、逆にかえって怖いですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

材料がまはつて来ないといふやうな愚痴ばかり並べて、紆余曲折の工夫を為ない頭脳は頼りにならない。さういふ頭脳は一旦材料が潤沢にまはつて来るやうな日が来ても又何とか不足を見つけてよく運転しないであらう。

散文「戦時の文化」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

同じような言を、最近、何かのテレビ番組で聴いて、「なるほど」と思いました。「「時間がないからできない」という人は、時間があってもやらない」、「「資金が足りないからできない」という人は、資金ができてもやらない」といった感じだったように記憶しています。一面で、真理を突いていますね。

このところ、このブログでご紹介すべき事項が多く、後手後手に回っております。特に新刊書籍等の情報は後回しになりがちで、面目なく思う次第です。

そんなわけで、雑誌の新刊です。 

『短歌研究』 5月号

2018年4月21日 短歌研究社 定価1,000円+税

イメージ 5

短期リレー連載 明星研究会「口語自由詩と『明星』」 第1回 松平盟子 高村光太郎――独自に開いた口語自由詩のフィールド」という記事が掲載されています。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での第二部シンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」のうち、歌人・松平盟子氏による光太郎の部の筆録です。

先月号では、同じ明星研究会での、第一部の講演「再録 明星研究会講演 松平盟子『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」筆録が掲載されています。

今月号は、光太郎の、というより、光太郎と与謝野晶子のからみ、お互いの、特に晶子の自由詩作品に見られる光太郎詩の影響、といった内容で、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。


ちなみに松平氏、来週18日(金)、当方とのユニットで、朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務められます。なかなか受講者が集まらないようで、まだ余裕があるそうです。リンクご参照の上、お申し込み下さい。

004


公開講座といえば、こんな講座の情報を得ました。 
会  場 : 和の器 韋駄天地下ギャラリー 東京都台東区谷中5-2-24 03-3828-1939
時  間 : [篆刻]11:00-13:30 [書]15:00-17:30
料  金 : 6,000円(材料費込)
講  師 : 華雪(書家)


【篆刻講座|「わたし」の判子】
方寸の芸術とも称される篆刻。宋代以降、人々はここに”わたしの中の「わたし」”を求めるようになっていきました。自分自身に新たな名――雅号(ペンネーム)を与え、”わたしの中の「わたし」”の名前を石に刻む。空想した書斎の名を石に刻み、そこで過ごす”わたしの中の「わたし」”に思いを巡らし、詩を詠む。そうした”わたしの中の「わたし」”は、あるひとにとっては苛烈な現実を生きるための糧であったのかもしれません。
あるひとにとっては”わたしの中の「わたし」”のあり方を通じて自らをよりよく知ろうとする術であったのかもしれません。
今期の篆刻講座では、そうした自分の中の”わたしの中の「わたし」”をイメージし、名前の判子をつくります。太い線・細い線・かたい線・しなやかな線……篆刻特有の意匠を学ぶことを通じて、毎回異なる様々な「わたし」の判子をつくります。

【書の講座|ひとりの人の眼を通して見る書の見方】
東洋における文字の歴史は、およそ3300年前の古代中国で発生した甲骨文字に遡ります。文字は、長い時間の中で、ひとびとの間で使用され、徐々にその書き方は研ぎすまされ、一定の型を得てゆきました。そしてより速く便利に書くという自然の条件に従い、唐代初頭には篆書・隷書・楷書・行書・草書の書体が確立しました。書体が完成した唐代以降は、それら基本の型をよりうつくしく書くという希求がひとびとの中に芽生え、それが書という文字芸術を生み出していきます。ただ、うつくしさ、というのは時代によって移ろいます。今期は、書の歴史における古典と呼ばれる書と、それを後の時代に真似て、学んだひとの書とを比較し、ひとりの人が、どのように古典を見ていたのかを、うつくしさをどのように消化しようとしたのか、ふたつの書を摸写することを通して学びます。そこから、様々な時代、様々なひとにおける書の見方を知り、自らの書を見る眼を育みます。

篆刻と臨書の2本立てだそうです。書の講座は、全6回で今回が5回目。これまでに「石鼓文と呉昌碩」、「太宗皇帝と王羲之」、「八大山人と王羲之」、「光明皇后と王羲之」というお題でなされてきており、今回が「高村光太郎と黄庭堅」、次回は「白井晟一と顔真卿」だそうです。

黄庭堅は、中国北宋の進士。山谷と号して草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は庭堅の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁にその書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。昭和30年(1955)には、平凡社刊『書道全集 第七巻 中国・隋、唐Ⅰ』の月報に「黄山谷について」を発表、その魅力を語っています。



イメージ 2

イメージ 3 イメージ 4

画像はともに書帖を見る最晩年の光太郎です。

さて、講座の方は定員6名だそうで、もう埋まってしまっているかもしれませんが、ご興味のある方、リンクをご参照の上、お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

たとひ菊の花一輪の絵画でも人を廃頽への傾きから呼び返す力は持ち得る。人の心を貫く美はさういふ力を必ず持つ。美に溺れて滅びた輩はその美とするところを誤つた者に過ぎない。上昇の美こそ美の本来であつて下降の美は美の変種である。

散文「戦時下の芸術家」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いわゆる頽廃芸術を好まなかった光太郎の真髄が、こうしたところにも表れています。ただ、それが一種の精神主義、根性論と結びつき、戦時にはプロパガンダに使われていってしまうのですが……。

千葉から市民講座のご案内です。 

愛の詩集<智恵子抄>を読む

期  日 : 2018年5月18日(金)
        千葉市中央区中央1-11-1 三井ガーデンホテル千葉5階
時  間 : 15:30~17:30
講  師 : 歌人 松平 盟子   高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山 弘明
料  金 : 会員 3,456円  一般 4,104円 

彫刻家で詩人の高村光太郎が、最愛の妻・智恵子への愛を綴った<智恵抄>。光太郎は、智恵子との愛をどのようなかたちで詩に託したのでしょうか。歌人と研究者がそれぞれの視点で語り合います。松平さんは、光太郎の詩の特質と、智恵子が詩にどう捉えられているか、という点について話します。ある意味で理想的な男女関係を模索した光太郎ですが、そのモデルはあったのでしょうか。小山さんは、「抄」の一字に込めた光太郎の思いと、<智恵子抄>が現代までどのように読みつがれてきたのかに焦点をあて、二人の鮮烈な生の軌跡をたどります。

松平 盟子 (マツダイラ メイコ)
愛知県生まれ。南山大学国語国文学科卒。「帆を張る父のやうに」により角川短歌賞。歌集に『プラチナ・ブルース』(河野愛子賞)『カフェの木椅子が軋むまま』『天の砂』など。著書に『母の愛 与謝野晶子の童話』『パリを抱きしめる』など。与謝野晶子のパリ滞在とその文学研究のためパリ第7大学にて在外研究(国際交流基金フェローシップ)。現代歌人協会および日本文藝家協会会員。
小山 弘明 (コヤマ ヒロアキ)
千葉県香取市出身。高村光太郎連翹忌運営委員会代表として執筆、講演、市民講座講師、美術館・文学館アドバイザー、TV番組制作協力などを行っている。

イメージ 1

というわけで、歌人の松平盟子氏と共に、当方も講師を務めさせていただきます。

松平氏とは、昨夏、神保町の学士会館さんで開催された「現代歌人協会公開講座 高村光太郎の短歌」の際に知遇を得まして、秋には日比谷図書館さんを会場とした「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にもお誘い下さり、参加させて頂きました

光太郎に並々ならぬご関心を抱かれ、他にも朝日カルチャーさんで講座をお持ちの松平氏がご紹介下さり、今回の講座が実現いたしました。ありがたいことです。

当方は、以前から感じていた『智恵子抄』という、ある意味日本近代詩史上、特異な詩集の特異性ということに関し、それがどのように読み継がれてきたのか、そして光太郎自身の意図は奈辺にあったのか、そういった点についてお話をさせていただくつもりで居ります。

こういう機会を与えていただくと、気になっていた課題を自分なりに整理する事ができ、そういう意味でもありがたいことです。

ぜひご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

人の心は理窟だけでは動きません。内面からのうるほひと光とが無ければ人の心は本然のはたらきをいたしません。私がかういふ非常時に際して、芸術といふやうな問題を重要視するのはこの点に根拠があるのであります。

ラジオ放送「芸術と国民生活」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

JOAKから放送された光太郎の講演の一節です。雑誌『歴程』や、書籍『生活と文化技術』にその筆記が載りました。

光太郎、泥沼の戦時体制が止めえないものであれば、せめて人心の荒廃を防ごう、というスタンスでした。そのために非常時こそ芸術を愛する心の重要性を訴えています。何としても戦争終結を、という方向に行かなかったのは残念ですし、この後はさらにヒートアップし、「鬼畜米英殲滅すべし」というプロパガンダに積極的に協力していく光太郎。戦後、自らの扇動で多くの若者を死地に追いやった反省へとつながります。

沖縄から企画展情報で、昨年、足利市立美術館さんで開催されたものの巡回です。巡回があるというのを存じませんで、ご紹介が少し遅れました。面目ありません。

涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展

期 日 : 2018年4月27日(金)~6月24日(日)
会 場 : 沖縄県立美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 09:00-18:00  金・土は20:00まで
料 金 : 一般1000(800)円/高校・大学生600(480)円/小・中学生300(240)円
       (  )内団体料金
休館日 : 月曜日 (ただし4月30日(月)は開館)、5月1日(火)

 吉増剛造(よします・ごうぞう 1939- )は、1960年代から現在にいたるまで、日本の現代詩をリードし続けてきました。その活動は、詩をはじめとすることばの領域にとどまらず、写真や映像、造形など多岐に広がり、私たちを魅了し続けています。
 常にことばの限界を押し広げてきた吉増の詩は、日本各地、世界各国をめぐり、古今東西、有名無名の人々との交感を重ねる中で綴られてきました。本展では、半世紀以上におよぶ活動の中から、各時代の代表的な詩集を柱とし、詩や写真をはじめとする吉増の作品群に加えて、関連するさまざまな表現者の作品や資料と共に展示します。
 現代のみならず、古代の営みにまで遡って様々な対象をとらえ、そこからかつてないビジョンを生み出し続ける吉増の視線、声、手は、日常を超えた世界への扉を私たちの前に開くでしょう。

<出品作家>
吉増剛造、赤瀬川原平、芥川龍之介、荒木経惟、石川啄木、浦上玉堂、折口信夫、加納光於、川合小梅、川端康成、北村透谷、島尾敏雄、島尾ミホ、高村光太郎、瀧口修造、東松照明、中上健次、中西夏之、中平卓馬、奈良原一高、西脇順三郎、萩原朔太郎、柳田國男、吉本隆明、松尾芭蕉、南方熊楠、森山大道、与謝蕪村、良寛、若林奮

イメージ 1

イメージ 2

足利と同一内容と思われ、吉増氏には、第二詩集『黄金詩篇』(昭和45年=1970)に収められた「高村光太郎によびかける詩」という長詩があることから、台東区立朝倉彫塑館さんの所蔵のブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されているはずです。3点しか現存が確認できていない、大正期の鋳造のうちの一つで、台座の木彫部分も光太郎が彫ったものです。

沖縄では光太郎作品の展示というのは珍しいのではないかと思われます。お近くの方、ぜひどうぞ。

ちなみに8月からは、渋谷区立松濤美術館さんに巡回されるそうです。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

一番要求されてゐるのは、よろこんで縁の下の力持になれる人間です。隠忍ではいけません。当然の事として、ほがらかな心を以て、此役目を尽す人間です。石のやうにがつしりして、そして微妙で、小うるさい言ひ訳無しに静かに黙つて、常に自然と根を通じ、常に人間以上のものと交渉してゐる人間です。至極平凡なやうな英雄です。

散文「岩石のやうな性格」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

「至極平凡」と言われても、なかなかそれが出来ないんですがね(笑)。

このところ、このブログでご紹介すべき事柄が多く、後手後手に回っています。全国の新聞等の一面コラムなどで、光太郎智恵子の名を上げて下さっているものが5件ほど溜まってしまいました。ネタの少ない時期でしたら無理矢理それ一つで1日分のブログ記事としていますが、新刊書籍等でも未紹介のものがありますし、週末にはまた遠出をしますので、そのレポートも書かねばなりません。そこで、一気に5件紹介します。

季語刻々 朝ぐもり窓より見れば梨の花002

 「晴、雨やみ、風をさまる。うす日もさす。温。朝食、むし飯、みそ汁(コブ、フキノタウ、もどしスルメ)、たくあん。茶」。1946年4月19日の光太郎の日記の冒頭部を写した。彼は今の岩手県花巻市郊外で1人暮らしをしていた。戦争を賛美した愚かな自分をその1人暮らしで処断したのだ。俳句はイタリア旅行中の1909年の作。
<坪内稔典>
(2018/04/19)

まずは『毎日新聞』さんの俳句コラム「季語刻々」。4月17日にも取り上げて下さいました。続けてのご紹介、ありがたいです。


続いて九州は『宮崎日日新聞』さんの一面コラム。 

くろしお 続けることの尊さ

 人手不足の県内企業にとって朗報だ。県立高校を卒業した生徒の県内就職率が57・4%と過去5年間で最高となった。生徒の志向に企業が情報発信で応えた成果といえよう。
 大事なのは長く勤めることだ。全国の平均だが、高卒就職者の3年後の定着率は6割弱。適性を考えて前向きな転職ならば仕方ないが、なるべく踏みとどまってほしい。春のゴールデンウイーク明けも五月病にならないように、仕事を続ける意義を考えていたい。
 亡くなった衣笠祥雄さんは手本だ。2215試合連続出場のプロ野球記録が輝かしい。死球で骨折しても出続けた。打者の実績はもちろん立派なのだが、ベンチにいつもいるという安心感だけでもチームへの貢献度は大きかったはずだ。
 「続けることに意味がある」とよく聞く。何でもできる人でも、行う対象を制限して腰を据えて努力を注入した方が大きな業績を上げるケースを実際に見聞することが多いからだろう。生き方は人それぞれだが衣笠さんの野球人生は継続の大事さを教えてくれる。
 「牛は非道をしない/牛はただ為(し)たい事をする/自然に為たくなる事をする/牛は判断をしない/けれども牛は正直だ/牛は為たくなって為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする」。高村光太郎の「牛」という詩から。
 一つの仕事に専念する尊さを牛の姿に託した。スピード感が重視される時代ではあるが、長い目で見れば牛歩でも確実に積み上げる仕事が評価される時が来る。そのためには健康が必要条件。それも衣笠さんが教えたプロの自己管理術だ。
(2018/04/26)

引用されている「牛」は、大正2年(1913)の作。全文で115行もある長大な詩です。光太郎は、自分を牛に例えることが時々ありました。戦後の昭和24年(1949)には「鈍牛の言葉」という詩も書いています。


次に、『日本経済新聞』さん。昨日の一面コラムです。 

春秋 

 「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」。詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を「あどけない話」という作品にそう残している。東京で体を壊しては故郷の福島で調子を戻す。そんな彼女にとり、本当の空は故郷の山の上に広がる青空だった。
▼「空が無い」東京も、終戦直後は広々とした青空が覆っていた。東京・九段下の博物館「昭和館」で開催中の写真展「希望を追いかけて」で、改めて知った。焼け跡、バラックの家、平屋かせいぜい2階建ての商店街。永田町も渋谷も表参道も、空の青さとそこここに残る緑が印象的だ。撮影者は米国の鳥類学者だという。
▼同じ昭和館で「女学生たちの青春」という企画展も開催している。こちらは戦争中の写真が中心で、訓練で銃を構え、ガスマスクを付け、あるいは動員されて工場や畑で働く少女たちの緊張した面持ちが並ぶ。比べて見るせいか、戦後を生きる人々の顔は子供も大人も明るい。あけっ広げな街の空気が、それとよく似合う。
▼いま東京は何度目かの再開発ブーム。オフィスに商業施設に小ぎれいなビルが増え、空は狭くなるばかりだ。「一億総活躍」の旗のもと、そこで働く人たちの顔は輝いているだろうか。智恵子は最後に心のバランスを崩した。明日から連休。しばし喧噪(けんそう)を離れ、ふるさとで、近くの公園で、自分だけの青空を探すのもいい。

ちなみに当方明日から、智恵子の愛した「ほんとの空」の下を通過し、秋田・青森方面に行って参ります。


同じく昨日、『朝日新聞』さん夕刊のミニコラム「素粒子」。  

素粒子

 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉。板門店での文在寅(ムンジェイン)、金正恩(キムジョンウン)両首脳の握手を見ていて、高村光太郎の詩「道程」が思い浮かんだ。
    ◎
 北朝鮮をいかに国際社会に結びつけるか。米中はじめ関係国の長い「道程」が始まる。
    ◎
 安倍政権も道普請役を果たせるかが問われる。心配なのは近い国ほど疎遠な現状だ。中国、韓国、そして北朝鮮。

ここで「道程」か、という感じでした(笑)。


ついでと言っては何ですが、物流、運送、ロジスティクス業界の業界紙『物流ウィークリー』さんでも、おそらく一面コラム的なところで「道程」を引いて下さっています。4月16日発行号です。 

射界

 先輩がつくった道を歩むのは楽で簡単だ。完成した道を忠実にたどればよいからである。そんな人に「何か新しいことをやれ」と指示しても、「前例がない」と反論するだろう。だが詩人の高村光太郎は「ぼくの前に道はない。ぼくの後ろに道はできる」と訴え、新しさに立ち向かう勇気を讃える。
  ▲時代がどんどん変化していく現在、十年一日のごとく前例踏襲の姿勢では、時流に取り残されて当然であろう。一昔前までは組織を安泰に維持するには「減点主義」がよいとの認識であった。指示された事柄を忠実にこなし、いささかのミスもないように仕上げるのがベストとされた。長い間受け継がれてきた習慣にならって過ごす…それを要諦としてきた。
 ▲しかし、時代の移り変わる速度は予想を超えて激しさを増す。そして「減点主義」では追い付かず、いよいよ「加点主義」の時代になった。いたずらに「前にならえ」の減点主義に固執していては色あせるばかり。この環境から抜け出て他人と異なる創造性を、いかに発揮できるかに価値判断の基準が進化し、「加点主義」台頭の動きが一段と活発化している。
 ▲人間の若さは、「創造の楽しみ」の多い少ないで決まると言った賢人がいるが、減点主義にはまって脱出できず、先人がつくった道を踏み外さぬ人に創造性を求めても夢でしかない。「自分の後ろに道をつくろう」という気概こそが若さである。前例のない道をつくり、歩む足どりは活気に満ちている。そこに求められるエネルギーは莫大だが感動もまた大きい。


それぞれに、光太郎智恵子に絡めて時候や時事問題を論じていますが、それぞれにさすがですね。


いつも書いていますが、光太郎智恵子の名が忘れ去られ、「道程」や「あどけない話」が引用されても、「何だ、これ?」ということにならないようであってほしいと、切に願います。


【折々のことば・光太郎】

恐らく、真に眼をさました女が満足して、十分に尊敬して手を取つてゆく男の人は稀れであらう。それは女に取つて随分不幸な事である。それだから日本のやうな思想の幼稚な国では、さういふ眼の醒めた女が独身に傾くのは已むを得ない。

談話筆記「女の生きて行く道」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

時事問題と言えば、非常に情けないセクハラ問題が連日、メディアを賑わしています。官庁トップのキャリア官僚が聴くに堪えない品性下劣なセクハラ発言をし、開き直り、監督責任のある大臣も事の重大さを解っていない現状。100年以上前に光太郎が「思想の幼稚な国」と断じ、女性の生きにくさを嘆いた、そのままに進歩していないのですね。

旧刊の復刊です。

人と作品 高村光太郎

2018年4月11日  堀江信男著 清水書院 
定価1,296円(税込み)

詩人としても彫刻家としても一流だった高村光太郎。西洋の生活を経験し独自の近代的自我を確立するが、封建的な制度や道徳を残す日本では彼は異端な存在であった。自我を生きようとする彼の妥協することなき偉大な生涯を描く。

目次002
 第一編 高村光太郎の生涯
  宿命
  ヨーロッパ留学
  美に生きる
  智恵子の死
  モニュマン
 第二編 作品と解説
  詩人光太郎の誕生
  道程
  雨にうたるるカテドラル
  猛獣篇
  智恵子抄
  典型
 年譜
 参考文献
 さくいん
 


元版は、同じ清水書院さんから昭和41年(1966)に刊行されています。目次を見る限り、同一の内容のようです。

著者の堀江信男氏は、現在、茨城キリスト教大学名誉教授。003

前半は簡潔な光太郎評伝。後半は詩集や、詩集のない時代には代表的な詩を中心とした作品鑑賞、という構成になっています。入門編としては好著です。

人と作品」というシリーズものの一冊で、シリーズ全体は、文芸評論家の故・福田清人氏の責任編集です。

光太郎以外の既刊は、有島武郎、菊池寛、国木田独歩、林芙美子、徳富蘆花、高浜虚子、坪内逍遙、二葉亭四迷、武者小路実篤、正岡子規、夏目漱石、北原白秋、斎藤茂吉、横光利一、田山花袋、永井荷風、堀辰雄、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、宮沢賢治、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、川端康成、志賀直哉、石川啄木、谷崎潤一郎。

当方の持っている昭和60年代の判に載っている巻末の広告では、佐藤春夫、萩原朔太郎、岡本かの子らもラインナップに入っていましたし、中原中也、三島由紀夫、井上靖などが刊行予定となっていました。今後も続刊されるのではないかと思われます。

それぞれ復刊であれば、最新の研究成果が反映されているわけではないと思いますが、入門編としてはよいのではないでしょうか。ただ、怖いのは、既に否定されている過去の定説がそのまま載ること。その点は注意が必要ですね。


【折々のことば・光太郎】

絵具や筆などといふ材料(メヂアム)を駆使するに二様ある。一つは多年の工夫と錬磨とで、材料の極微な性質までも承知してしまつて、按摩が浮世話をしながら肩を揉む程な熟練の域に到るのと、一つは、生(なま)な材料、初対面の材料にでも自分の熱い息を吹きかけて、たちどころに其を自分の勢力の下に屈服させて駆使するのとである。

散文「津田清楓君へ――琅玕洞展覧会所見――」より
 
明治44年(1911) 光太郎29歳

津田清楓は、光太郎の留学仲間でもあった画家です。その頃の津田を回想し、賞賛したあと、現在の津田にはあの頃の燃えるような情熱が感じられないとしています。そして展開される絵画論が上記の一節です。津田はそのどちらにもたどり着いていない、というのでしょう。

琅玕洞は、前年に光太郎が神田淡路町に拓いた画廊ですが、ちょうど一年で手放し、画家の大槻弍雄に譲られていました。

大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉銚子でのイベント情報です。 

仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展

期   日 : 2018年4月27日(金)~30日(月)
会   場 : 飯沼山圓福寺(飯沼観音)本堂 千葉県銚子市馬場町1-1
時   間 : 10:00~16:00 (最終日15:00まで)
料   金 : 無料

仏と鬼と銚子の風景を版画で表現した旭市出身の版画家・土屋金司さんの作品展。

≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】
 銚子浪漫ぷろじぇくとによる「犬吠の太郎」語り公演。土屋金司氏の版画と共にお楽しみください。当日は、境内にて和スイーツの販売(雨天中止)も実施いたします。
(開 催 日) 4月29日(日・祝)
(開催時間) 1回目12:00~ 2回目14:00~
(開催場所) 飯沼観音 本堂
(料金) 無料

イメージ 2


土屋氏は銚子に隣接する旭市のご出身だそうで、光太郎智恵子が宿泊した暁鶏館(現・ぎょうけい館)の館内にも作品が展示されています。記憶が定かではないのですが、そのうちの一枚が、光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)を刻んだ版画だったはずで、「≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】」につながるのだと思われます。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラクターだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。


    何をまだ指してゐるのだ001

 逆まく波のしぶきにうつそり濡れながら、
 あの岩の出鼻に裸で立つて、
 空の果まで何にも見えない沖の深みを見透すやうに、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。

 炎天溫気(うんき)の砂ほこりのまんなか、
 ゴオストツプの忙しい生産社会の人ごみにまぎれこみながら、
 建てかけた鉄骨の外には昼の月すら見えない空に手をあげて、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。 
 

会場の飯沼観音は、銚子の中心街です。昭和4年(1929)、光太郎を敬愛していた日中ハーフの詩人・黄瀛がここを訪れ、境内の火の見櫓から見た風景を「銚子ニテ」という詩に謳っています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一番危険なのは、アンデパンダン展がアンパンデタラメ展となることである。
散文「アンデパンダンについて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎には珍しく、オヤジギャグが炸裂しています(笑)。

「アンデパンダン」は仏語の「Indépendants」。本来、「独立した人々」の意ですが、サロン等の公設展覧会に対する無審査、無賞の展覧会を指すようになりました。この年4月、盛岡市の松屋画廊で「第一回岩手アンデパンダン展」が開催され、深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らも出品しました。

無審査であるのをいいことに、デタラメな作品がまかり通るようでは本末転倒、という警句です。

「角川文庫」ブランドを展開するKADOKAWAさんでのキャンペーンです。

角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作

角川文庫は、本を生み出し続けて70年。記念すべき出版1作目は、ドストエフスキーの「罪と罰」でした。
それから、何千、何万もの作品を世に送り出す間に時代は変わり、流行も変わり、娯楽もずいぶん変わりました。もちろん、本の楽しみ方も例外ではありません。
ただ、どんなに年を経ようとも、ずっと変わらないのは角川文庫が「紙の本」を作りつづけること。
いつでも、どこでも、誰でも、ページをめくるだけで、自由気ままに楽しめる本を作りつづけたいのです。
そして、この先の10年も、100年も、本を愛するひとの一番近くで寄り添いたい。
今日もポケットや鞄の中にひそみ込み、自由な想像の世界へ連れ出す時を待っています。
みんなの文庫へ 発見!角川文庫 70周年

角川文庫創刊70年の歴史の中には、数多くの名作が存在します。この貴重なアーカイブの中から、創刊70周年記念復刊を行います!
日本の名作・日本のエンタテインメント・海外作品の3つのジャンルに分けて、3ヶ月毎に全3回の選挙を実施。
読者の皆様に選ばれた上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊いたします!


投票方法
候補作品リストから、投票したい作品を選び、投票フォームへ必要事項を入力したあと、投票ボタンをクリックしてください。
※期毎に3回まで投票できますが、同じ作品への投票は1回までとなります。(同じ作品への複数回の投票は1票として集計します)

投票期間
第一期「日本の名作」:2018年4月2日(月)12:00〜6月28日(木)23:59

プレゼント
投票いただいた読者の方から抽選で、一期あたり100名様・合計で300名様に、図書カードNEXT1000円分をプレゼント!

結果発表
結果発表は、10月上旬頃に本サイトにて公開予定です。


イメージ 1




というわけで、70周年を迎える角川文庫で、それを記002念しての復刊キャンペーンです。投票により、第一期「日本の名作」、第二期「日本のエンタテインメント」、第三期「海外作品」から、上位作品の各5点を、スペシャル新カバーで復刊するとのこと。

かつて角川文庫のラインナップに入っていた光太郎の著書が3冊、候補リストに入っています。

『高村光太郎詩集』。初版は光太郎が亡くなった昭和31年(1956)、当会の祖・草野心平の編集により刊行されました。解説も心平が担当しています。

大正9年(1920)から、昭和28年(1953)までの光太郎詩146篇が収められています。初版刊行当時、流通していた他の光太郎詩集との重複を出来るだけ避けようという意図が見える選択です。それでも『智恵子抄』中の数篇や、詩集『典型』に収められた連作詩「暗愚小伝」などは外せない、という判断だったようです。

評論集『美について』。初版刊行は昭和35年(1960)11月10030日。当会顧問・北川太一先生、それから光太郎と交流が深かった伊藤信吉の解説です。

同名の評論集は、昭和16年(1941)8月、道統社からハードカバーで刊行されていますが、収められている作品はかなり異なります。道統社版は大正10年代から刊行直前までの、どちらかというと随筆系が多いのですが、角川文庫版は明治期の「緑色の太陽」や、長文評伝「オーギュスト・ロダン」(昭和2年=1927)なども含みます。

さらに昭和42年(1967)には筑摩選書版が出ましたが、そちらとも作品の選択が異なります。

そして『詩集 道程 復元版』。大正3年(1914)に刊行された光太郎第一詩集『道程』の覆刻です。角川文庫としては昭和26年(1951)にラインナップに入り、その後、昭和43年(1968)に改版が刊行されました。いずれもやはり当会の祖・草野心平が解説を執筆しています。今回の候補リストでは、改版の刊行日時で登録されています。

イメージ 4 イメージ 5

角川さんでは、同様の復刊キャンペーンを、平成元年(1989)にも、「40周年」ということで行いました。その際は、「外国文学」、「現代日本文学」、「社会 歴史」、「伝記」、「宗教 哲学 思想」、「日本古典」というジャンル分けで、合計30冊が復刊されました。そして『詩集 道程 復元版』も選ばれています。右上の画像がそれです。

004

今回も、光太郎著書のうちのどれかが選ばれてほしいものです。このあと早速、当方はサイトから投票をしますが、皆さんもよろしくお願い申し上げます。組織票ということになると、何だか、プロ野球のオールスターファン投票や、アイドルグループの選抜総選挙のようですが(笑)。



【折々のことば・光太郎】

正真正銘な自己の五臓六腑の感じ、欲し、見、望み、指さすところを基本とし、第一歩的足がかりとする処から一切は始まるのである。これが中々出来ない。しかしこれを本当に踏むことが出来ればそれは確実に地を踏み、天を踏むことなのである。その上は感性と知性との錬磨によつて何処までも生え抜きの芸術を育成させることが出来るに違ひないし、死ぬまで進歩発展するに違ひない。さもないものは皆浮遊の芸術として終る。

散文「上野の現代洋画彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳


造形芸術についての発言ですが、文学についても言えることでしょう。「道程」によって、「第一歩的足がかり」を踏み、死ぬまで進歩発展(時には道を誤ったり、後退したりもしましたが)した光太郎の道程に思いが馳せられます。

今月2日、第62回連翹忌の日に刊行された雑誌です。

高村光太郎研究(39)

2018年4月2日 高村光太郎研究会 税込1,000円

イメージ 1

当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

 いまもう一度云っておきたいことがある―平成十九年八月九日、女川光太郎祭談話要旨―
   北川 太一
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」  赤﨑学
 『をぢさんの詩』について(五) ―詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置―  岡田年正
 光太郎遺珠⑬ 平成三十年   小山弘明
 高村光太郎没後年譜 平成29年1月~12月  小山弘明
 高村光太郎文献目録         野末  明
 研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき     野末  明


当会顧問にして、生前の光太郎をご存じの北川太一先生は、このところ、「高村光太郎・最後の年」と題する連載を寄せられていましたが、今年は白内障の手術灯をなさり、書き下ろしができないとのことで、平成19年(2007)、宮城県女川町での女川光太郎祭におけるご講演をまとめられたものを寄稿なさいました。

それから、昨秋、アカデミー向丘で開催された第62回高村光太郎研究会で発表されたお二方が、それぞれの発表に関連する論考を寄せられています。

当方は2本、連載をさせていただいています。筑摩書房『高村光太郎全集』完結後に見つかり続ける光太郎文筆作品の紹介「光太郎遺珠」、それから昨年1年間の光太郎をめぐるさまざまな動きを記録した「高村光太郎歿後年譜」です。

「光太郎遺珠」は、短歌が一首(明治末と推定)、談話筆記で昭和26年(1951)、当時光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の山口小学校長・浅沼政規が筆録したもの、長短併せて7篇、書簡が23通。

比較的長命だったうえ、筆まめだった光太郎ゆえ、書簡はあ
002
とからあとからたくさん出てきます。現在、秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館で開催されている、「平成29年度新収蔵資料展」に出品されている、『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎宛の書簡のうち、『全集』未収録のもの、2月に現地に行って筆写して参りましたが、今回の〆切には間に合わず、次号に廻します。

それでも23通。うち、何通かは実際に入手しました。

そのうちの1通。昭和5年12月17日付で、市川忠男というマイナーな詩人に送った絵葉書で、なぜか鵜飼いの鵜の写真です。この頃、光太郎が岐阜方面に行ったという記録はありません。

文面は以下の通り。

拝啓 貴著詩集“静なる草舎”をいただき、感謝します、
心静かな日にしづかによみたいと思つて居ります、
御礼まで一筆、
十二月十七日
 高村光太郎
003

『静なる草舎』という詩集については確認できませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

いつも同じようなことを書いていますが、光太郎の筆跡、味のあるいい字ですね。当方、光太郎独特の崩し方にもだいぶ慣れてきました。

「高村光太郎歿後年譜」は、このブログの昨年末に書いた「回顧2017年」全4回を基にしています。


頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

人体を一つの物質と見て、何等の余分な甘味をも加へず、モデルを唯モデルとして彫刻しても其処に立派な芸術が成立つ筈である。ノイエ ザツハリヒカイトの彫刻の如しだ。その為には強盛な造形的意欲がいる。強盛な造形的意欲無しには物質自然の機微に迫る事覚束ない。

散文「」彫刻新人展評 文部省美術展覧会」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「ノイエ ザツハリヒカイト」は、独語で「Neue Sachlichkeit」。「新即物主義」と訳され、第一次大戦後に興った芸術運動です。モデルのポーズや表情などにより何かを物語らせる「表現主義」の対極に位置し、徹底したリアリズムに立脚しています。どうも光太郎、自身の肖像制作などで、この方面に興味を抱いていたように思われます。

3件ご紹介します。

まず、今月15日の『沖縄タイムス』さんから。

[記者のメモ]/教え子の質問にドキリ

002

○…市長選の応援で訪れた石垣で、八重山高校赴任時代の教え子と再会した赤嶺政賢衆院議員(共産)。当時の生徒らは62歳になっていた。「先生の声が大きくて眠れなかった」などの思い出話もあり、懐かしかったという。「高村光太郎の詩はまだ暗唱しているよ。先生も覚えてる?」と聞かれドキリとしたエピソードも。初めて教壇に立った時の生徒たちを前に「教員として未熟な自分を受け入れてくれた。生徒の人生に何かしらを与えられてたらうれしい。エネルギーをもらった」と、英気を養った様子。


赤嶺氏、おそらく教員時代、教え子の皆さんに光太郎の詩を暗唱させたのでしょう。「当時の生徒らは62歳」とありますから、少なくとも40数年前のことですね。

光太郎の代表作「道程」などの短い作品であれば、40数年経っていても記憶に残っているとしてもおかしくありません。


「道程」といえば、当方にとっては実にショッキングな報道がありました。昨日の『デイリースポーツ』さんです。 

サンプラザ中野くん 卒業生への言葉が名言と話題「皆さんの前に道はありません!」

 歌手・サンプラザ中野くん(57)が、00321日放送のTBS系「CDTVスペシャル!卒業ソング音楽祭2018」(午後7・00)に出演。番組内で今春に卒業する若者たちに向けて発した言葉が名言だと、ネット上で話題になっている。
 中野くんは番組で「大きな玉ねぎの下で」を歌唱。その後に、新たな世界に出発する若者たちにメッセージを求められると「卒業おめでとうございます」と祝福し「皆さんの前に道はありません!皆さんの後に道ができます」と伝えた。
  「無限のフィールドを思い思いのスピードで、方向へ駆け抜けて行ってください。いつまでも応援し続けます!Runner!」と拳を突き上げた。
  この言葉にネット上が反応し「これは名言すぎる」「ぐっときた」「何気にめっちゃいい言葉やん」「校長先生顔負けの名言」とのコメントが相次いでいる。


当然、中野くん氏は「道程」を念頭にこの発言をなさったはずなのですが、この記事を書いた記者さん、それから中野くん氏オリジナルと思って賞賛したネット住民の皆さん、それに気づいていないというわけです。

実際、一昨日のtwitterのツイート(つぶやき)を見てみると、記事にあるような賞賛の言葉が見受けられます。同時に、さすがに「道程」からの引用だと気づいた方もたくさんいらっしゃり、少し安心しました。

曰く、「まさか引用でこんなこと言われるとは、中野くんさんも苦笑いだろうなwww」、「高村光太郎が泣いてるわ。」、「高村光太郎の言葉を自身の言葉として称賛されてしまったサンプラザ中野くんが困っています。」、「有名な言葉やんって聞きながら思ってたけど、オリジナルみたいになっててびっくりするわ。」……。

一般的な国語の教科書には、もはや「道程」が載っていないようなのですが、それにしても……と思いました。この調子でいくと、数十年後には「高村光太郎? 誰、それ?」、「「道程」? 何じゃそりゃ?」という時代がほんとにやってきてしまうのかも知れません。当方、そうなることを最もおそれているのですが……。

ちなみに「道程」、大正3年(1914)の詩集『道程』に収められたショートバージョン(決定形)、それからそれに先立つ雑誌掲載時の102行ロングバージョン(初出形)ともに、先月のこのブログでご紹介しております。ご覧下さい。


もう1件、『東京新聞』さんから。ただ、紙面に載ったのか、web上だけのものなのか、当方、購読しておりませんし、地元の図書館でも置いていないので、わかりません。 

日々チョウカンヌ 3月13日

1883年の今日は、彫刻家で詩人004の高村光太郎さんのお誕生日。妻への気持ちをつづった詩集「智恵子抄」は映画化もされ、多くの人に愛されたわ。


「チョウカンヌ」というのは、ツイッターによれば「身も心も新聞でできている」、「今は東京新聞の公式キャラクターになるために、毎日がんばっているところ」だそうです。

イラストでは「詩人として有名な高村光太郎さん」とリスペクトして下さっていますが、先ほどのサンプラザ中野くん氏の記事を見ると、「有名な」の一語はもはや風前の灯火かも、と心配になってしまいます。

そうならないよう、光太郎智恵子の啓発に、今後とも取り組む所存であります!


【折々のことば・光太郎】

僕等の欲する画は真を模(うつ)したものではない。美しい生命をうつしたものである。眼に見える所謂真をうつした絵画は古来飽きあきするほど見せつけられてゐる。醜(きたな)い真の再現はもう沢山である。

散文「ENTRE DEUX VINS」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

そして光太郎、ヒユウザン会(のちフユウザン会)などで発表した自身の絵画は、大胆な色遣い、烈しいタッチのフォービズム(野獣派)風のものを実作していきます。

光太郎の本格的な文学活動の出発点ともいえる、雑誌『明星』がらみで2件。どちらも明星研究会さんの関連です。

まずはイベント情報です。 
会  場 : 武蔵野商工会議所・市民会議室 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
時  間 : 午後1時30分~午後4時30分
参  加  費 : 1,500円 (含資料代  別途懇親会費) 
申し込み : 下記画像参照

プログラム
  総合司会:芹澤弘子
  第1部 : ミニ講演
   「馬場孤蝶と薄田泣菫~与謝野夫妻との関係性について」 江田浩司(歌人)
   「平出修と平野萬里~与謝野夫妻が最も信頼した2人」 平出洸(平出修研究会主宰)
  第2部 : 対談 「極上のライバル、最上の知性~登美子・雅子・鷗外・敏」
   松村由利子(歌人):山川登美子・茅野雅子/松平盟子(歌人):森鷗外・上田敏

イメージ 1

「高村光太郎」の文字はありませんが、名前程度は出ることと思われます。


もう1件、雑誌の新刊情報を。 

『短歌研究』 4月号 

2018年3月21日 短歌研究社 定価1,000円+税

イメージ 2

「再録 明星研究会講演 松平盟子│『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」ということで、昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、やはり明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での、歌人・松平盟子氏による第一部講演の筆録が掲載されています。

今後、第二部シンポジウムの筆録も掲載されるそうで、そうなると、やはり松平氏による光太郎の稿も出るはずです。ただし、次号には、上記の「第12回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 We Love Akiko ~晶子を愛した「明星」の綺羅たち」での講演、対談の筆録が載るようですが。

追記 次号は松平氏による「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での光太郎に関するご発表の筆録が掲載されるそうです。

ぜひお買い求め下さい。


ちなみに、先の話になりますが、5月には朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室において、松平氏と当方による講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」が開催されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

現代の日本人にも現代の世界の思想と情緒とが脈をうつて漲つてゐる。日本の此の自然を此の日本人の本当の頭脳で了解して、広重歌麿があの当時の空気を遺憾なく訳出した如く、それ以上の自然の新しい美しさを発見したい。

散文「AB HOC ET AB HAC」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

題名は「手当たり次第に」という意味のラテン語です。前年秋の文展西洋画の部の評ですが、「日本初の印象派絵画」とも称される、山脇信徳の「停車場の朝」に焦点を当てています。

この絵は賛否両論を巻き起こし(光太郎は「賛」)、その論争から、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」が生まれました。

イメージ 3

この画の現物は残って居らず、モノクロの写真で見ることができるだけです。

まずは、今週末から始まる企画展情報です。 

特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」

期 日 : 2018年3月17日(土)~5月13日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 第2・3展示室 横浜市中区山手町110 港の見える丘公園内
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
料 金 : 一般600円(400円) 65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円) 高校生100円
      中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(4月30日は開館)

2018年は、歌人・与謝野晶子(1878~1942)の生誕140年にあたります。20世紀の幕開けの年、22歳の晶子が高らかに恋愛を謳いあげた第一歌集『みだれ髪』は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与え、新しい詩歌の時代を切り拓きました。文学史上に燦然と耀くその魅力は、今なお褪せることはありません。本展では、現在も多くの読者に親しまれている晶子の2作品-『みだれ髪』と、晶子訳「源氏物語」を軸に、さまざまな晶子の貌を紹介します。
師であった与謝野鉄幹への恋を貫き、情熱の歌人として知られる晶子は、5男6女を育てた母親でもありました。一家の家計は晶子の筆が支えていたこともあり、歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など、さまざまなジャンルで幅広い執筆活動を行っています。明治、大正、昭和にいたる激動の時代のなか、文学者として、また一人の女性として、常に先駆的な立場で生き抜いた人生は、現代の私たちにも強いメッセージを投げかけています。
本展は、堺市博物館・さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館をはじめ、多くのご関係の方々、団体にご協力を仰ぎながら、数々の貴重資料とともに、晶子の波瀾の人生を辿ります。

イメージ 1

イメージ 2

 

関連行事

生誕140年 与謝野晶子展 記念イベント
 4月 7日(土) 講演会Ⅰ「『恋衣』そして晶子と古典」 講師:尾崎左永子
 4月21日(土) 講演会Ⅱ 「近代を創る―鉄幹晶子の五十年」 講師:三枝昻之
 5月 5日(土・祝) 講演会Ⅲ 「『みだれ髪』―もうひとつの読み方」  講師:今野寿美
 4月14日(土) 朗読会 与謝野晶子「新訳源氏物語」から「桐壺」「若紫」  出演:竹下景子

イメージ 3

ギャラリートーク
 会期中毎週金曜日 各日14:00~ 参加無料・申込不要(要展示観覧料)
 会場=展示館1階エントランスホール


光太郎に関わる展示や、関連行事の講演等でも光太郎がらみのお話などがあるかと存じます。ぜひ足をお運びください。


いろいろ紹介すべき事項が重なっておりまして、もう少し。続いてはラジオ放送の情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 「詩と出会う 詩と生きる」  【今を生きる詩~高村光太郎と柳宗悦のまなざし】

NHKラジオ第2放送003
 2018年3月15日(木) 午後8:30~午後9:00(30分)
 再放送3月22日(木) 午前10時00分~ 午前10時30分

講師 : 若松英輔

彫刻家・高村光太郎(1883~1956)は言葉によって生気を写し取ろうとした詩人だといえるかも知れません。戦後7年間、岩手県花巻の郊外で独居生活中、彫刻を作りません。彼は触覚を超えるものと静かな対話を続けたのでしょう。一方、民芸運動を率いた柳宗悦(1889~1961)は優れた宗教哲学者でもありました。彼は詩人の作品に刺激されながら詩作を独特に進化させます。


テキストが既に発売されており、過日のこのブログでご紹介しました。

批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。

若松氏の定義では、「詩人」の幅が広く、今回光太郎とともに取り上げられる柳宗悦などは、通常、詩人の範疇に入りませんが、「広い意味での「詩」の作品を残している人々」だそうです。


続いて、訃報を1件。

国文学者の平岡敏夫氏死去

 平岡 敏夫氏(ひらおか・としお=国文学者、詩人)5日午後0時27分、肺不全のため東京都内の病院で死去、88歳。
 香川県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻豊子(とよこ)さん、長男可奈之(かなし)氏。
 筑波大教授、群馬県立女子大学長などを歴任。北村透谷や夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究で知られ、著書に「日露戦後文学の研究」「佐幕派の文学史」など。詩集も多く残した。


かつて至文堂さんから発行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」に「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という論考を発表されるなど、光太郎に関するご著作もありました。平成27年(2015)に思潮社さんから刊行された『平岡敏夫詩集』にも、光太郎論が掲載されていました。


イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7

連翹忌にも、5回ほどご参加下さっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

散文「書について」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

昨日と同じ文章から、今日は末尾の部分です。通常、このコーナーでは同一作品から2箇所以上採ることはしていないのですが、今回は例外。書の世界でも大きな足跡を残した光太郎の書論が非常に鮮明に表されていますので。

元NHKさんの看板アナウンサーであられた山根基世さん、現在はフリーだそうですが、その山根さんのご指導による朗読講座受講生の方々の発表会です。

山根基世の朗読指導者養成講座 やまねこ朗読発表会

期    日 : 2018年3月10日(土・土曜クラス)11日(日・日曜クラス)
時    間 : 13:30~16:00
会    場 : 日本出版クラブ会館 3階「鳳凰の間」  東京都新宿区袋町6
料    金 : 1,000円 中学生以下無料 各日定員200名
申    込 : web申し込みフォーム  またはFAX 03-5211-7285

イメージ 2

イメージ 1

プログラム(予定)
第一、二部 受講生による発表  第三部 養成講座アシスタントによる朗読/山根基世氏による朗読・講評

主な朗読作品 ― たのしいおはなし、ほっとするおはなし、ちょっぴり悲しいおはなし、わくわくするおはなし―
「手袋を買いに」新美南吉/「樹下の二人」(「智恵子抄」より)高村光太郎/「徒然草」吉田兼好/「字のない葉書」向田邦子/「玩具」(『晩年』より)太宰治  (土曜日クラス発表作品より一部を抜粋)
「おじさんのかさ」佐野洋子/「赤いろうそく」新美南吉/「なめとこ山の熊」宮沢賢治/「わたしを束ねないで」新川和江/「星の王子さま」サン= テグジュペリ  (日曜日クラス発表作品より一部を抜粋)
※ 順不同。作品は変更になる可能性がございます。あらかじめ、ご了承ください。

※「朗読指導者養成講座」とは?
絵本から古典文学まで、早広い題材から日本語の特性をふまえた読み方を身につけます。
朗読上級者、指導者を目指す人、「ことばの力で未来を拓く」― そんな子どもを育てたいという志のある方に向けた講座です。


というわけで、「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで有名な、「樹下の二人」(大正12年=1923)が取り上げられます。「土曜クラス」の方のご発表だそうですので、3月10日(土)ですね。

指導者を目指されている皆さんの講座ですので、ハイレベルな朗読が期待できると思います。ぜひ足を大運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

此の比例均衡の美には少しもけがれが無い。かういふ類の美こそ千古に聳えて悠々たるものと言へよう。

散文「戒壇院の増長天」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

帝国教育界出版部から刊行された、北川桃雄・奥平英雄編『日本美術の鑑賞 古代篇』に寄せた文章から採りました。「戒壇院」は奈良東大寺の戒壇院。「増長天」はそこに安置されている国宝の四天王像のうちの一体、天平彫刻の最高傑作の一つとされている塑像です。

イメージ 3 イメージ 4

光太郎の彫刻も、このように評されるべきものと思います。

昨日の『京都新聞』さんの一面コラムです。 

凡語:大学入試終盤へ

アニメの巨匠・押井守監督は大学受験で苦い経験を持つ。学生運動に目覚めた東京の高校時代、親の干渉から逃れるため、京都市立芸術大を受験する▼かつて得意だった絵のことを思い出し、付け焼き刃でアトリエに通ったが、実技試験で打ちのめされる。課題はニワトリのデッサン。他の受験生の絵に愕(がく)然とし、腹痛にも襲われて会場から担ぎ出された(「他力本願」)▼受験の思い出は人それぞれ、喜びより悔しさが勝る人も多かろう。そんな大学入試が大きく変わる。センター試験に代わり、2020年度から「大学入学共通テスト」が始まる▼思考力を重視し、国語と数学で記述式問題も加わるよう。昨秋の試行調査では高校生から戸惑いの声が漏れたとか。入試改革は改めて、高校・大学での学びの意味を問いかける▼昨日から国公立大の2次試験が始まり、私立大では合格発表も相次ぐ。数学者の故森毅さんはこの時期、大学進学が何の役にたつかと問われ、こう記す。「役にたたすのは本人のカイショの問題。このことについては入試に通ろうが落ちようが、考えねばならない」▼与えられた環境をどう生かすか。押井監督はその後、東京の大学で絵をあきらめ映画を作り始める。すべては自分次第。高村光太郎の詩ではないが、道は後ろにできる。


もうすぐ3月。そろそろ卒業、そして新生活スタートのシーズンです。この時期、光太郎の「道程」が、各種の式辞などでも広く使われますね。
002

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため


大正3年(1914)の作ですから、既に100年以上が経過していますが、とてもそうは思えない新鮮さをもって、心の琴線に触れる詩だと思います。

以前にもご紹介しましたが、この詩は元々、同じ年3月の雑誌『美の廃墟』に発表された段階では、102行もある長大なものでした。それが10月刊行の詩集『道程』に収録された際、現行の9行の形に改変されています。

原型はこちら。

 どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 道は僕のふみしだいて来た足あとだ
 だから
 道の最端にいつでも僕は立つてゐるimg_1
 何といふ曲りくねり
 迷ひまよつた道だらう
 自堕落に消え滅びかけたあの道
 絶望に閉ぢ込められたあの道
 幼い苦悩にもみつぶされたあの道
 ふり返つてみると
 自分の道は戦慄に値ひする
 支離滅裂な
 又むざんな此の光景を見て
 誰がこれを
 生命(いのち)の道と信ずるだらう
 それだのに
 やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
 そして僕は此処まで来てしまつた
 このさんたんたる自分の道を見て
 僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
 あのやくざに見えた道の中から
 生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
 僕をひき廻しては眼をはぢき
 もう此処と思ふところで
 さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
 これこそ厳格な父の愛だ
 子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
 どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
 とうとう自分をつかまへたのだ
 恰度その時事態は一変した
 俄かに眼前にあるものは光りを放射し
 空も地面も沸く様に動き出した
 そのまに
 自然は微笑をのこして僕の手から004
 永遠の地平線へ姿をかくした
 そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
 驚いてゐる僕の魂は
 いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
 僕は武者ぶるひをした
 僕は子供の使命を全身に感じた
 子供の使命!
 僕の肩は重くなっつた
 そして僕はもうたよる手が無くなつた
 無意識にたよつてゐた手が無くなつた
 ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
 自分の全身をなげうつのだ
 僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
 かなり長い間
 冷たい油の汗を流しながら
 一つところに立ちつくして居た
 僕は心を集めて父の胸にふれた
 すると
 僕の足はひとりでに動き出した
 不思議に僕は或る自憑の境を得た
 僕はどう行かうとも思はない
 どの道をとらうとも思はない
 僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
 その間に花が咲き水が流れてゐる
 石があり絶壁がある
 それがみないきいきとしてゐる
 僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
 しかし四方は気味の悪い程静かだ
 恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
 寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
 僕はその時又父にいのる
 父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
 同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
 声をあげて祝福を伝へる
 そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
 僕の眼が開けるに従つて
 四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
 生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
 彼等も僕も004
 大きな人類といふものの一部分だ
  しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
 人間は鮭の卵だ
 千万人の中で百人も残れば
 人類は永久に絶えやしない
 棄て腐らすのを見越して
 自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
 腐るものは腐れ
 自然に背いたものはみな腐る
 僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
 もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
 自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
 子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
 ああ
 人類の道程は遠い
 そして其の大道はない
 自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
 歩け、歩け
 どんなものが出て来ても乗り越して歩け
 この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、父よ
 僕を一人立ちにさせた父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程の為め

ネット上などで時折誤った記述を見かけるのですが、これは「原型」もしくは「発表形」であって、「全文」というわけではありません。また、「末尾の部分だけを切り取った」というのも誤りです。原型の「ああ、父よ」が「ああ、自然よ/父よ」と、「自然よ」が書き加えられた上で2行に分けられ、それに伴って次の行の「父よ」の前に「広大な」の一言が挿入されています。また、最終行も「為め」が仮名書きに変わり、さらにリフレインされています。

機会があれば、こちらの原型の方も広くご紹介いただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あはれな片ぼかしや、つけ立て流や、思ひつき派は亡びるがいい。

散文「仏画賛」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

鎌倉時代の恵心僧都筆筆と003される「阿弥陀聖衆来迎図」を取り上げ、絶賛する文章の一節です。これは極彩色の大きな作品で、日本画特有の「幽玄」とか「枯淡」、「わびさび」、「余韻」といった感覚からは外れたもの。しかし、そういうものでなければ西洋の「最後の晩餐」や、ルオーの宗教画などに対抗できないのだ、という言です。

そして光太郎の矛先は、小手先の技巧(「片ぼかし」「つけ立て」など)を重視し、量感や力感に乏しい日本画に向かいます。「現代日本画の展観をローマのまん中でしてみたら、それに感心するのは現代日本画家だけであらう」と。

その論旨の是非については諸説ありましょうが、上記「道程」原型の「腐るものは腐れ/自然に背いたものはみな腐る」に通じているようにも思えます。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の3月号が届きました。

やはり3.11が近いというこで、特集は「それぞれの「雨ニモマケズ」」。東日本大震災後、改めて見直されるようになった、賢治歿後、光太郎がその「発見」の現場にも立ち会い、賢治の故郷・花巻に建った詩碑の揮毫を請け負った「雨ニモマケズ」が取り上げられています。

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 3

棟方志功の版画など、後世の人々のオマージュ作品。

イメージ 4

連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」も、それとリンクして賢治がらみです。

イメージ 5

画像は、光太郎自身の揮毫になる短歌「みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきゝ」。それから、昭和24年(1949)9月21日の『花巻新報』に掲載された「宮沢賢治十七回忌」という文章の抜粋。

オンラインで入手可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

思考の外なるもの、思ひがけず新鮮なるものは常に自然の中にのみある。

散文「能面の彫刻美」より  昭和13年(1938) 光太郎56歳

日本古来の能面を彫刻家の視点で分析した文章から。実際の人間の深い写生から、人間そのものの象徴にまで昇華している能面を賛美し、舌を巻いています。自身の彫刻にも、こうした部分を取り入れていっているのではないでしょうか。

一般参加型の朗読会の情報です。

ポエトリーカフェ 《高村光太郎 篇》

日 時 : 2018年2月25日(日) 19:00~21:30
会 場 : 神田伯剌西爾(ぶらじる) 東京都千代田区神田神保町1-7 小宮山ビルB1
料 金 : 1,300円 (1ドリンク別)
定 員 : 15名 (要予約)  
主 催 : Pippo

000「Pippoのポエトリーカフェ」とは、2009年10月より「入りやすい、詩の入口を作ろう!」との思いで、スタートした《気さくな詩の勉強会》です。 詩の活動をはじめて以来、「興味はあるんだけど...誰からなにから、読んだらいいのか」「楽しみ方がわからない」という方々に、とても多く出会ってきました。そういう方々の、なにか手がかりになれればと、このような会を開催しています。

詩がお好きなかた、「詩や詩人についての知識はそんなにないんだけど、でも興味はある!」という方、心から大歓迎。はじめての方も、どうぞお気軽にご参加下さいませ。

〈内容〉 Pippoによる詩人の生涯紹介。ご参加の方々によるくじ引き詩朗読。 茶話会。
     ※年譜・テキスト配布します。
     高村光太郎にちなんだ、特製ポエトリーおやつあり♪


主催者のPippoさん、「近代詩伝道師、朗読家、著述家」だそうです。見落としていましたが、先週も新潮社さんのカルチャースクール的な「新潮講座」で光太郎を取り上げて下さっていました。ありがたい限りです。

以前にも書きましたが、光太郎の詩は平易な言葉遣いで、ある意味、小学生にも理解可能。それでいて通俗に堕せず、格調の高いものです。そして定型やわざとらしい各種の技巧に走らずとも、意外と朗読向きです。光太郎自身が「内在律」と呼ぶ、一種のリズム感が感じられます。

今秋には、智恵子の故郷・福島二本松で歿後80年を記念した全国「智恵子抄」朗読大会もあることですし、この分野、どんどん盛り上がって欲しいものです。

ちなみに4月2日の光太郎忌日・第62回連翹忌。毎年、さまざまなパフォーマーの方にアトラクションをお願いし、会に花を添えていただいておりますが、今年も朗読系で、昨年、千葉県柏市のアミュゼ柏で「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ  ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」公演をなさった山田典子さん(プラス謎のゲスト1名)にお願いしてあります。乞うご期待。


【折々のことば・光太郎】

人類が最後に遺すものは結局美である。

散文「美術立国」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

太平洋戦争が終わり、岩手花巻郊外太田村の山小屋に入って書かれたもので、激動の戦争を経てたどり着いた境地がこれです。「自然と遺るもの」というよりは、「遺すべきもの」というニュアンスでしょうか。主に造形芸術についての言ですが、詩などの文筆作品についても当てはまるような気がします。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で北東北3県、秋田、青森、岩手を回っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まずはメインの目的だった、秋田県小坂町。

光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈されました。

花巻の高村光太郎記念館さん経由で、その情報が入り、担当の方と連絡を取り合ったところ、『高村光太郎全集』に掲載されていない光太郎書簡が多数含まれていることがわかり、調査に赴いた次第です。

小坂町は十和田湖の西半分を含む山あいの町です。盛岡から出ている青森行きの高速バスが小坂に停まるため、それを利用しました。東北自動車道を走るバス、小坂ICで一旦一般道に下り、IC近くの小坂高校さんで停車します。町中心部までは2㎞ほどでしょうか。

イメージ 1

町教育委員会の担当の方が車で迎えに来て下さっていまして、助かりました。

今回寄贈を受けた新資料を、来月11日から展示する町立総合博物館郷土館さん。

イメージ 2

現在は冬期休館中ということで、隣接する町立図書館さんに通されました。

早速、光太郎関連資料を拝見。事前に、『高村光太郎全集』掲載済みの書簡と、そうでないもの(半々です)とを区別して下さっていたので、手間が省けました。未公開のものは、一通ずつ筆写させていただきました。

最初に情報を得た時から、なぜ、半数のみが『高村光太郎全集』に既収で、半数がそうでなかったのか、あれこれ推理していました。公表するには差し障りのあるものは提供しなかったのではないか、など。ところが、読んでみると、そうでもないようでした。特に既出のものと比較して大きな違いはありません。

最も古いものは、戦時中の昭和17年(1942)、最後のものは、光太郎最晩年の昭和30年(1955)のもの、大半は花巻郊外旧太田村在住時のものでした。特に目を引いたのが、詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)出版に関する内容のものがあったこと。最初は出版に乗り気でなかった様子が窺えましたが、どうも澤田の熱意にほだされたように見受けられます。

それから、他に類例がないハガキ類。一言でいうと受領証の類ですが、澤田から送られた完成した『智恵子抄その後』や、茶葉、香水線香などの雑貨類を確かに受け取ったよ、というハガキ。これが10通以上あり、途中からは宛先の澤田の住所氏名、品目などは澤田の筆跡になっています。光太郎が律儀に受け取りのハガキを返送するので、途中から澤田が光太郎の手間を軽減しようと、返送用に小包に同封したのだと思われます。

イメージ 3

面白いと思ったのは、その品目の中にあった「クマゼミ(シヤンシヤン蝉)」という項目。既出の書簡には、熱海に住んでいた澤田にクマゼミを捕まえて送ってくれ、的な内容がありましたが、それの受領証です。光太郎、太田村の山小屋に蟄居中は、作品として彫刻を発表することを一切しませんでしたが、手すさびというか、腕をなまらせないための鍛錬というか、そういう形では蝉などの彫刻を彫っていたようです。地元民の方の目撃談もありますし、他の人物に送った書簡にもそういった内容があります。短歌でも、「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。ただ、彫ったものの現物は確認できていませんが。

それから、その太田村での生活のディテール。これは『高村光太郎全集』既収の、他の人物に宛てたものにも共通しますが、やはり四季折々に光太郎が感じた自然美などが記されています。何げない一言にも味わいがありました。

その他、光太郎の周辺人物からの書簡類もかなりありました。太田村で光太郎に山小屋の土地を貸していた駿河重次郎、宮沢賢治の父・政次郎と共に花巻疎開を助けた医師・佐藤隆房、光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚した宮崎稔、そして宮崎歿後は春子。

個人経営、おそらく社員一人の龍星閣、明確な印税制を採らず、光太郎もその辺りはアバウトでしたから、どれだけ著書が売れても光太郎は報酬を受け取ることに積極的ではありませんでした。ある意味仕方なく、澤田は小切手やらで「寸志」として送りました。また、『智恵子抄』の戦後復元版(昭和26年=1951)が出た頃には、澤田が6万円あまりを負担して、山小屋を増築しています。大工の手配等は駿河重次郎がやったようで、駿河から澤田には、その工事経費の明細書的なものが送られていました。

このブログでまた続報を出すと思いますが、先述の通り、来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんで、企画展「平成29年度新収蔵資料展」として、光太郎関連もピックアップされて出品されます。ぜひ足をお運び下さい。

イメージ 4


ところで小坂といえば、かつて鉱産額で全国一位にまでのぼりつめた小坂鉱山の企業城下町として、レトロモダン建築が立ち並ぶ「明治100年通り」が有名です。昨日の朝、歩いて参りました。

国指定重要文化財・小坂鉱山事務所。

イメージ 5 イメージ 7

イメージ 6

イメージ 8

イメージ 9


天使館(旧聖園マリア園)。元の保育園的な。

イメージ 10

イメージ 11 イメージ 12

日本最古の芝居小屋・康楽館。こちらも重要文化財です。

イメージ 13

イメージ 14

横から見ると、擬洋館建築だというのがよくわかります。


小坂鉄道レールパーク。ただしこちらは冬期閉鎖中。

イメージ 15

それにしても、雪、雪、雪でした(笑)。

イメージ 16

明日は「十和田湖冬物語2018」をレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間の四肢胴体の凹凸を司る理法は重畳たる山嶽の起伏を司る理法と違つてゐない。彫刻家は人間の顔面に湖を見たり、瀧を見たり、雲を見たりする。

散文「彫刻に何を見る」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

龍星閣からオリジナルの『智恵子抄』が刊行された年に書かれた評論です。

企画展情報です。

谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro

期 日  : 2018年1月13日(火) ~ 3月25日(日)
会 場  : 東京オペラシティ アートギャラリー 東京都新宿区西新宿 3-20-2
時 間  : 11:00~19:00(金・土は20:00まで/入館は閉館30分前まで)
料 金  : 一般 1,200円 大学・高校生 800円 
休館日  : 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)

イメージ 2

谷川俊太郎は1952年に詩集『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たしました。感傷や情念とは距離をおく軽やかな作風は、戦後の詩壇に新風をもたらします。
「鉄腕アトム」の主題歌、『マザー・グースのうた』や、『ピーナッツ』の翻訳、市川崑監督による映画「東京オリンピック」の脚本、武満徹ら日本を代表する音楽家との協働などでも知られるように、幅広い仕事によって詩と言葉の可能性を拡げてきました。
86歳を迎えた現在も、わかりやすく、読み手一人一人の心に届くみずみずしい言葉によって、子どもからお年寄りまで、多くの人々を魅了し続けています。
一方仕事の幅広さ・膨大さゆえに、この国民的詩人の「人」と「作品」の全体像をとらえるのは容易ではありません。谷川俊太郎のエッセンスを探るべく、本展では詩人の現在に焦点をあてることにしました。実生活の喜びやいたみから詩を紡ぎ出し、社会とつながろうとしてきた谷川。その暮らしの周辺をさまざまに紹介します。影響を受けた「もの」や音楽、家族写真、大切な人たちとの書簡、コレクション、暮らしの断片や、知られざる仕事を織り交ぜ、谷川俊太郎の詩が生まれる瞬間にふれる試みです。本展のために書き下ろされる詩や、音楽家・小山田圭吾(コーネリアス)とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)とのコラボレーションも発表します。

Gallery1:音と映像による新たな詩の体験
 展覧会の始まりは小山田圭吾(コーネリアス)の音楽とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)の映像による、谷川俊太郎の詩の空間です。名作絵本『ことばあそびうた』で知られる詩「かっぱ」など、谷川のことばに内在するリズムと小山田の音楽との出合いにご期待ください。谷川の声をまじえた音と映像のコラージュは、谷川の詩を浴びるような、新たな詩の体験を生むでしょう。

Gallery2:「自己紹介」
 日本で一番その名を知られているであろう詩人・谷川俊太郎。それぞれの世代が思い浮かべる谷川の仕事や詩人像があることでしょう。本スペースでは、20行からなる谷川の詩「自己紹介」に沿って、20のテーマごとに谷川にまつわるものごとを展示、私たちが知っているはずの谷川俊太郎像を見つめ直します。会場には20行の詩を1行ごとにしるした柱があらわれ、谷川が影響を受けた音楽や「もの」、家族写真、大切な人たちとの書簡、ラジオのコレクション、暮らしの断片、知られざる仕事など、選りすぐりの詩作品とともに展示されます。谷川の詩で谷川を紹介するユニークな展示からは、谷川の日々の暮らしと詩の深い関わりが浮かび上がってくることでしょう。また、本展のための書き下ろしの詩も発表します。

コリドール:「3.3の質問」
 「3.3の質問」は、谷川が1986年に出版した『33の質問』(ノーマン・メイラーの「69の問答」にちなんで33の質問を作り、7人の知人に問いかけをしながら語り合う)がもとになっています。本プロジェクトではその現代版として、当初の33の質問から谷川が3問を選び、新たに「0.3の質問」を加えて「3.3の質問」を作りました。これらを各界で活躍する人々に投げかけ、その回答を作品として展示します。シンプルな問いに、回答者のどんな世界観が見えてくるのでしょうか。「問うこと」、「答えること」、「そこに立ち会うこと」に、詩的な体験があふれています。 

関連企画

開催記念対談
 ① 1月27日[土] 都築響一(編集者) × 谷川俊太郎
 ② 2月10日[土] 小山田圭吾(コーネリアス)(音楽家) × 谷川俊太郎
 時間:各回14:00 ─ (13:45開場).
 会場:東京オペラシティビル7F会議室.
 定員:各回160名(全席自由).
 参加費:無料(展覧会の入場は別料金)要整理券

スペシャルライブ 谷川俊太郎&DiVa 「よしなしうた」
 谷川俊太郎による詩の朗読と、高瀬 "makoring" 麻里子(Vo)、谷川賢作(Pf)、大坪寛彦(B)によって1995年に結成された、現代詩を歌うバンドDiVaのスペシャルライブ。
 日時:2018年3月10日[土]14:00開演(13:30開場)
 会場:東京オペラシティ リサイタルホール(東京オペラシティビルB1F)
 出演:谷川俊太郎(朗読)DiVa[高瀬“makoring”麻理子(ヴォーカル)、
    谷川賢作(ピアノ)、大坪寛彦(ベー
ス)]
 演奏予定曲:(谷川俊太郎・詩 谷川賢作・曲)
  
けいとのたま ・すいぞくかん・たんぽぽのはなのさくたびに・せなか ・ふしぎ他
 チケット料金:3,500円(全席自由・税込)
 チケット取扱:東京オペラシティチケットセンター 03-5353-9999

先月末の『朝日新聞』さんに、大きく紹介する記事が出、「谷川さんあてに届いた堀口大学や小林秀雄らからのはがきや、家族との写真、あるいは愛用のTシャツも展示した。」とあり、「」に光太郎も含まれるのでは、と、ピンときました。平成28年(2016)、静岡三島の大岡信ことば館さん(昨年で閉館)を会場に開催された「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」でも同様の展示があり、光太郎から谷川氏へのハガキが出品されたためです。

イメージ 3

そこで照会してみたところ、ビンゴでした。昭和29年(1954)5月20日、光太郎最晩年のもので、氏の詩集『62のソネット』の受贈礼状が出ているそうです。以前に谷川氏に問い合わせたのですが、光太郎からの来翰のご所蔵はこれ一通のみとのことでした。

イメージ 1

極論が許されるなら、近代と現代、それそれを代表する詩壇の巨匠二人のつながりが端的に示された一品です。


ぜひ足をお運びの上、ご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

地紋を彫つて味が出ないやうであれば、大きな人物などを彫つても其の程度はおよそ分る。彫刻といふ一つの世界をその人がまだ内に持つてゐない事になるのである。

散文「木彫地紋の意義」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「地紋」とは、伝統的な木彫を習得するための、初歩の課題。五寸角や三寸角の檜の板へ、直線や曲線で彫られたさまざまな紋様です。当然、幼少期の光太郎もこの習練から彫刻の道に入りました。

しかし、長じるに従って、こんな習練に何の意味がある? と疑問に感じたとのこと。ところが、そろそろ老年にさしかかるこの時期に、改めてこの基礎的な習練法から、彫刻の奥深さを感得するようになったというのです。

すなわち、板に一本の溝を彫るにしても、幅や深さ、谷の断面に出来るV字の対称性などへの配慮と、考えるべきことがいくらでもあるというのです。それから木目との闘い。順目に彫る場合と逆目に彫る場合では、当然、彫刻刀の使い方が異なってきて、それをいい加減に処理すれば、細かいところがつぶれたり欠けたり、見るからにぼやけたものになってしまうとのこと。さらに全体のバランス。溝の深さが深すぎると鋭すぎる感じになり、浅すぎると無味なものになるし、板の大きさによってもほんのわずかな調整が必要だそうです。

こうした感覚――要するに光太郎が重視した、比例均衡の感覚―――が、地紋の反復で身につくし、「音楽家が音階の練習を絶えずするやうに」取り組むことが重要としています。

トップアスリートが基礎トレーニングに時間を割き、力士が四股やテッポウ、すり足を重要視するのと似た感覚かも知れません。

この文章の掲載誌『改造』には、光太郎が最近彫ったという地紋を版画にした図版が掲載されています。

イメージ 4 イメージ 5

イメージ 6 イメージ 7

本日も新刊情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる

2018年1月1日 若松英輔著 NHK出版 税込定価977円

イメージ 1


喪失、苦しみ、悲しみに、語りの名手が、あなたの詩心を呼び覚ます!
「詩」に込められた切実な想いから、私達は何を得ることができるのか? 「詩」を身近に感じ、味わい、それと共に生きる豊かさを探る。

目次
 はじめに
 第1回 詩を感じるには ── 岡倉天心と内なる詩人
 第2回 かなしみの詩 ── 中原中也が詠う「おもい」
 第3回 和歌という「詩」 ── 亡き人のための挽歌
 第4回 俳句という「詩」 ── 正岡子規が求めた言葉
 第5回 つながりの詩 ── 吉野秀雄が感じた存在
 第6回 「さびしみ」の詩 ── 宮澤賢治が信じた世界
 第7回 心を見つめる詩 ── 八木重吉が届けた声
 第8回 「いのち」の詩 ── 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9回 生きがいの詩 ── 神谷美恵子が背負った生きる意味
 第10回 語りえない詩 ── 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11回 今を生きる詩 ── 高村光太郎と柳宗悦のまなざし
 第12回 言葉を贈る詩 ── リルケが見た「見えない世界」
 第13回 自分だけの詩 ── 大手拓次が刻んだ詩の扉162
 詩と出会うためのブックガイド


NHKラジオ第2放送さんで、毎週木曜日の午後8:30~9:00(再放送は翌週木曜の午前10:00~10:30)に放送されている「NHKカルチャーラジオ 文学の世界」のテキストです。

今月から3月にかけ、全13回で、批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。「詩人」とカギカッコをつけたのは、若松氏の言によると、以下の通りです。

「詩」は、必ずしも詩人と名乗る人々によって作られているとは限りません。この講座における「詩人」は、広い意味での「詩」の作品を残している人々を指します。ですから世にいう詩人以外の人たちが作った詩歌にもふれていきます。(「第1回 詩を感じるには ── 岡倉天心と内なる詩人」より)

いきなり初回に取り上げられる岡倉天心がそうですし、光太郎の回にセットになっている柳宗悦などもそうですね。広い意味では、彫刻を本業としていた光太郎もあてはまるかも知れません。

光太郎の回は3月15日(木)のオンエア。再放送が翌週22日にあります。「人間の捉えがたい「気」」、「詩はどんな矛盾も受け入れる」、「ふれ得ないものにふれる」という章立てで、主に「智恵子抄」所収の詩にスポットが当てられています。

ぜひお買い求めの上、ラジオ放送もお聞き下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は仮象の現象なのだから、芸術品としてみてくれないといけない。一つの銅像の中にその人の凡ゆる時代をもつこともあるのだから。

談話筆記「彫刻鑑賞の蒙を啓く――憲政三偉人の銅像に就て――」より
昭和13年(1938) 光太郎56歳

この年、国会議事堂の中央大広間に設置された憲政史上大きな功績のあった三人、板垣退助、伊藤博文、大隈重信の銅像についての談話の一節です。

三体それぞれ作者が異なり、板垣退助像は北村西望、伊藤博文像で建畠大夢、大隈重信像が朝倉文夫の作です。設置当初から、「ポケットに手を突っ込んでいるとは何ごとか」、「室内の様子なのか、屋外の姿なのか判然としない」、「ステッキは左手で持つ物ではない」などといった批判が起こったそうです。そこで、美術雑誌『アトリヱ』の記者が光太郎の意見を求め、その答として掲載されました。

北村、建畠、朝倉、それぞれ光太郎はあまり高く評価しなかった彫刻家です。文展(文部省美術展覧会)などへの出品作はけちょんけちょんにけなしてもいます。しかし、ここでは擁護に廻っています。まぁ、擁護というよりは、一般の人々に、肖像彫刻とはこういうものだという啓蒙を意図したとすべきでしょうか。

ところで、議事堂の銅像。台座は四体分ありながら、実際に作られたのは三体のみで、未だに空いている台座が一つ残っています。四人目を人選できず持ち越されたという説、政治に完成はないので未完の象徴という意味もあるという説があります。まさか、自分が四人目となって銅像を作ってもらうつもりでいるような、愚かな政治家などいませんよね、まさか。

ラジオ、テレビの放送情報です。

まずは長野県限定ですが、光太郎詩の朗読があります。 

ゆる〜り信州9584f024

NHKラジオ第一長野 2018年1月10日(水) 16:55~18:00

ワンダフル信州「信州を読む」 読み手:関根太朗アナウンサー
作品:高村光太郎『智恵子抄』より「レモン哀歌」「狂奔する牛」「人類の泉」

「Wonderful 信州!」は、この1年、NHK長野放送局が取り組むテーマです。 信州には 、雄大な自然をはじめ、歴史や文化、地域に暮らす人々など、魅力的で誇るべきものが たくさんあります。 そうした「Wonderful(ワンダフル)」なものを、県内だけでなく、全国、 世界に向けて発信していこうというのが、 この取り組みの目指すところです。

イメージ 2


というわけで、信州を見直し、その魅力を発信する活動をなさっているそうで、その一環として、「信州を読む」と題し、信州にゆかりのある文学作品の朗読がオンエアされます。

先月、長野放送局のロビーで公開収録が行われたそうです。リスナーの方々からのリクエストも受け付け、朗読作品が選ばれたとのこと。光太郎にもリクエストを寄せていただき、ありがたいかぎりです。

イメージ 3

光太郎智恵子と信州といえば、大正2年(1913)、婚前旅行で上高地を訪れたことが有名です。今回朗読される「狂奔する牛」(大正14年=1925)は、のちにその時のことを謳った詩です。「人類の泉」(大正2年=1913)は、上高地を訪れる直前の作で、智恵子への愛を高らかにうたいあげたもの。そして智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。有名なフレーズ「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつたの「山巓」は、上高地の山々を指すと思われます。

他に、津村信夫『戸隠の絵本』より(1/9)、はまみつを『わが母の肖像』より(1/11)、宮口しづえ『弟』(1/12といったラインナップで、同局アナウンサーの方以外にも、軽井沢朗読館長・青木裕子さんも朗読なさるそうです。

こうした取り組み、全国の放送局でもっと広まってほしいものです。


もう1件、光太郎に触れられるかどうか微妙ですが、テレビ放映情報です。 

美しい日本に出会う旅▼初夢温泉 名湯の旅~日本一の岩風呂とご利益いっぱい湯めぐり

BS-TBS 2018年1月10日(水) 19時00分~19時54分

高橋一生さんが案内する、2018年選りすぐり!4つの名湯旅。長野・渋温泉ではご利益抜群の九湯めぐりと、あの映画を思わせる、木造4階建ての湯宿へ。宿の看板猫は幸運のしるしでした。関西屈指の名湯・城崎では、お坊さんが教える入湯作法に、松葉蟹づくしを堪能。九州では神様が舞い降りた地、霧島へ。ありがたい地に湧いたありがたい湯を、茅葺き屋根の隠れ宿でひたります。日本一の深さを誇る岩手の湯は、宮沢賢治が愛した湯でした。

旅の案内人 高橋一生、瀬戸康史、井上芳雄

イメージ 4

「日本一の深さを誇る岩手の湯」は、鉛温泉さん。花巻南温泉峡に位置し、賢治の「なめとこ山の熊」に登場、光太郎も泊まりました。深さ約130センチの「白猿の湯」が有名です。


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

生命の戦慄が無いものは、如何なる時にもいけない。此だけは動かせない。
散文「雑記帳より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

彫刻に関しての発言ですが、「生命」を重視する姿勢は、すべての光太郎芸術に当てはまります。

元日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」で、光太郎に触れて下さいました。

正平調 2018・1・1

長い1本の道が続いていた。脇には昔のままプラットホームがあり、さびたレールもそこだけは残されている。年の暮れ、三木鉄道の廃線跡を歩いた◆播州鉄道として開業したのは1916(大正5)年のことである。国鉄、そして第三セクターと運営形態は時代とともに変わっていったが、乗客は次第に少なくなり、2008(平成20)年にその役割を終えた◆この春で廃線からちょうど10年になるのを前に、旧三木駅からの片道約5キロが遊歩道として整備されつつある。古い駅舎をイメージした休憩所が建ち、沿道につくられた花壇ではパンジーの花が風に揺れていた◆〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の詩「道程」の一節である。思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう◆このごろはどうしたわけか“遺産ブーム”で、近代産業、文化といった歴史の痕跡に再び光があてられている。後ろにできた道をふと振り返りたくなるのは、進むべき未来に迷いが生じてきたせいかもしれない◆今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。

1868年が明治元年でしたので、今年、2018年は、明治に換算すると151年ということになります。元号としての明治150年でなく、明治元年から始まった維新が150年ということで、いろいろな立ち位置から、それにかかわる記念事業等も計画されているようです。どうも判官贔屓というか、天の邪鬼というか、敗者の歴史に心牽かれる当方としては、新選組の近藤勇や沖田総司らの歿後150年という意味で感懐が涌いたりもします。

さて、『神戸新聞』さん。兵庫県内の三木鉄道廃線跡にからめ、「思えば明治の世が明けてからの150年は、豊かさを求めて前を向き、ひたすら汽車を走らせてきた道程だったのだろう」とし、光太郎の道程を引きつつ、「今年は平成から新時代へとレールをつなぐ1年となる。“中継駅”のホームに立ち、来た道、行く道をじっくり見つめる。そんな年にしたい。」と結んでいます。その通りですね。

001
【折々のことば・光太郎】

効果を横に並ぶるは卑し。有れども無きが如くすべし。

散文「彫刻十個條」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

あくまで自然に見える彫刻を、光太郎は目指しました。しかし、感覚的にさらっと造るのではなく、さまざまな技法を駆使し、ある種の超絶技巧も含みます。それがそうとわかるような、というか、技法を駆使していることを自己主張するような彫刻では駄目だ、ということでしょう。

彫刻のみならず、人生全般に当てはまるような気もします。

ちなみに右は光太郎の代表作の一つ、「手」。おそらく大正7年(1918)の制作と推定されますので、ちょうど100年前の作ということになり、各種展覧会で出品される際にはコメントしてほしいものです。

今年2月に亡くなった、元埼玉県東松山市の教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏

昨年には、「終活」の一環として、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさいました。

その後、同市立図書館さんで、それらの特別公開、田口氏ご本人によるご講演も行われました。

先月発表された、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚の遺品が同市に寄贈されることとなった件も、田口氏のご遺徳の賜です。氏を介して、高田と同市は以前から深いつながりがありました。

さて、同市立図書館さんでは、田口氏からの寄贈資料を常設展示する「高村光太郎資料コーナー」を設けることとなり、そのオープン記念の講演会が開催されます。僭越ながら、当方が講師を務めさせていただきます。 

田口弘文庫「高村光太郎資料コーナー」オープン記念講演会

期   日 : 2018年1月13日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 3階視聴覚ホール 東松山市本町2-11-20
時   間 : 午後2時から3時30分
料   金 : 無料
内   容 : 詩の朗読(朗読ボランティア「あすなろ」)
        記念講演「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」
         講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定   員 : 100人(申し込み順)
申   込 : 2018年1月5日(金曜日)から直接又は電話で市立図書館へ 
         電話:0493-22-0324 ファックス:0493-22-0064

イメージ 1

当方、田口氏とは連翹忌の席上で何度か、それから昨年の講演会、一昨年にはご自宅にお邪魔いたしましてお会いしました。あとは書簡のやりとりといった程度のおつきあいで、氏について詳しく語る資格は不十分かと存じますが、氏と光太郎との関わりという点になると、やはり出馬せざるを得ないかなと思い、お引き受けしました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美を持たないものを心から信ずるわけにはゆかない。美を顧みない諸般の施設を喜ぶわけにゆかない。美を最奥の標準と為ない都市の建設は詮ずる所住民の虐待に急ぐ事となるのである。

散文「美の立場から(震災直後)」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

関東大震災により大きな被害をうけた東京の復興に関する内容です。欧州の諸都市を見てきた光太郎にとって、震災前のごみごみした東京の景観は許せないものでした。これを機に、美しい都市を造ろうという提言でしたが、それはかないませんでした。

久々に、光太郎詩の引用から始めます。

大正元年(1912)、雑誌『抒情詩』第2巻第12号に掲載された「冬の朝のめざめ」。
後に詩集『道程』(大正3年=1914)、さらに『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められました。
002

    冬の朝のめざめ

 冬の朝なれば
 ヨルダンの川も薄く氷りたる可べし
 われは白き毛布に包まれて我が寝室(ねべや)の内にあり
 基督に洗礼を施すヨハネの心を
 ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
 我はわがこころの中に求めむとす
 冬の朝なれば街(ちまた)より
 つつましくからころと下駄の音も響くなり
 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
 しづかに運る天行のごとく
 われも歩む可し
 するどきモツカの香りは
 よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
 いづこよりか室の内にしのび入る
 われは此の時
 むしろ数理学者の冷静をもて
 世人の形(かたちづ)くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
 起きよ我が愛人よ

 冬の朝なれば
 郊外の家にも鵯ひよどりは夙に来鳴く可し003
 わが愛人は今くろき眼を開(あ)きたらむ
 をさな児のごとく手を伸ばし

 朝の光りを喜び

 小鳥の声を笑ふならむ
 かく思ふとき
 我は堪へがたき力の為めに動かされ
 白き毛布を打ちて
 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり
 冬の朝なれば
 こころいそいそと励み
 また高くさけび
 清らかにしてつよき生活をおもふ
 青き琥珀の空に
 見えざる金粉ぞただよふなる
 ポインタアの吠ゆる声とほく来れば
 ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
 たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
 冬の朝なれば
 ヨルダンの川に氷を噛まむ


「わが愛人」は智恵子。現代とは「愛人」の語の指す意味が異なります。「恋人」に近い意味合いでしょう。

「起きよ」と言っても、光太郎の傍らで眠っているわけではありません。二人が共同生活を始めるのはもう少し後。「郊外の家」というのが当時智恵子が暮らしていた雑司ヶ谷の借家で、そこで目覚めるであろう智恵子の姿を推量しているわけです。

光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、冬の朝の爽やかな目覚め、清冽な空気の中で、敬虔な宗教的感動といった感覚が呼び起こされたのか、キリストやヨハネを想起しています。また、掲載誌の発行が12月ということも忖度し、クリスマスに絡めたとも考えられます。もっとも、イエスの降誕をことほぐ当方の三博士ではありませんので、考え過ぎかも知れません。


少し前になりますが(今月7日)、『宮崎日日新聞』さんの一面コラムでこの詩を引いて下さいました。

くろしお ヨルダン川は凍っているか

 昨日の朝は宮崎市で氷点下になるなど、県内はこの冬一番の冷え込みだった。白くなる息を見て、思い出したのが高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「冬の朝のめざめ」だ。
  冒頭に「冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷(こお)りたる可(べ)し」とある。ヨルダン川は中東シリアのゴラン高原から南に流れ、死海へ注ぐ川。ヨルダンとイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっており、沿岸部も含めて度々、聖書の主要な舞台として登場する。
  下流に近いエルサレムもその一つ。地図を見て驚いた。宮崎市と同じ北緯31度。遠い異文化の町ではあるが、毎日同じ角度の太陽を眺めていると思うと親近感を覚える。地中海性気候だが、冬にはたまに雪が降るという点でも似ている。
 本当にヨルダン川が凍る日もあるかもしれない。キリスト教に関心があった光太郎は度々かの地に思いをはせていたのだろう。ただ「智恵子抄」が出た当時は、イスラエルが建国する1948年より以前だから、その後の激しい紛争については知る由もなかった。
  三つの宗教の聖地エルサレムが再び揺れている。首都問題は建国以来くすぶっていたが、トランプ米大統領がイスラエルの首都と認める意向を示したことに対してアラブ諸国が一斉に反発、欧州や国連も米国の行動に懸念を強めている。
  中東の紛争は宗教に加え民族や部族の対立が絡み合って、他国が介入するほど泥沼に陥りやすい。トランプ氏には現地の寒さに肌感覚で思いをはせる慎重さが求められよう。同じ角度の太陽を仰ぐ者として問題の平和的な解決を切に願う。


メインは米国トランプ大統領の、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転するという発言に対してですが、時宜を得たうまい引用です。

問題の平和的な解決を切に願う。」九泉の光太郎もそう願っていることでしょう。


【折々のことば・光太郎】

少し誇張して言ふと、芸術が分るといふ事は人間の心の深さの尺度になると言へる。よき芸術家は必ず深い心を持つてゐる。深い心がなくてはよい芸術は出来ないのだ。その深い心の汲めない人はあやしい。

散文「芸術鑑賞その他」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

世界の指導者の皆さんが、芸術のわかる人、深い心の汲める人であってほしいと願います。どう考えてもそうでないとしか思えない人、その人のポチも居るのが残念ですが。

最近出ました光太郎の文筆作品を収めたものをご紹介します。

まずは朗読CDです。 

文豪とアルケミスト 朗読CD第二弾 高村光太郎

2017年11月29日 フロンティアワークス 定価2,160円(税込) 

朗読 森田成一010

<トラック>

 01 タイトルコール
 02 冬が来た
 03 道程
 04 蟬を彫る
 05 花のひらくやうに
 06 人に
 07 生けるもの
 08 ぼろぼろな駝鳥
 09 鯉を彫る
 10 最低にして最高の道
 11 金
 12 レモン哀歌
 13 雪白く積めり
 14 月にぬれた手
 15 オマケドラマ「緊急座談会その2~高村光太郎の詩を語る編~」


文豪とアルケミスト」は、DMM.comさんから配信されている、ブラウザゲームです。「様々な文豪と共に人々の記憶から文学が奪われる前に、侵蝕者から文学書を守りぬくことを目指す、文豪転生シミュレーションゲームです。また、本作品では実際にあった文豪同士の関係性を重視した内容を基調としており、それらが豪華声優陣によって現代に甦ります。」「近代風情が漂う平和な時代に、突如 として文学書が全項黒く染まってしまう異常現象が起きる。 それに対処するべく、特殊能力者“アルケミスト”と呼ばれる者が立ち上がり、文学書を守るため文学の持つ力を知る文豪を転生させる。 再びこの世に転生せし文豪たちが綴る、もうひとつの文学譚―」だそうです。

登場する「文豪」は、40名以上。光太郎もその一人です。

イメージ 2

常に穏やかな笑みを絶やさないクールな芸術家。文学の分野では詩人 として活躍しているが、その他にも彫刻や絵画、書道など多彩な才能を持つ。 武道の心得もある一方で戦いは悲しみを生むだけと考えており、侵蝕者と戦わなければ ならないことには少し複雑に感じているようだ。彫刻に適した木を見ると周りが見え なくなる。」とのこと。

実在の光太郎の特質をよく反映させた設定です。「武道の心得」は、柔道を指しているのでしょうか。当方、このゲーム自体はやっていませんのでよくわかりません。光太郎と柔道については、このブログの初期の頃に書きました。 光太郎と柔道(その1)。 光太郎と柔道(その2)。 光太郎と柔道、そして戦争。

ゲーム内で、光太郎の声を演じられているのが、声優の森田成一さん。その森田さんの朗読によるCDです。

渋い声で、詩の内容により読み方をいろいろ工夫されていて、ゲームとは無関係に純粋な朗読CDとして鑑賞できます。ただ、最後に中原中也(声・柿原徹也さん)、宮沢賢治(同・代永翼さん)とのミニドラマが入っていて、こちらはゲームの内容を下敷きにしているようです。

ゲーム自体は、たとえ荒唐無稽な設定であるとしても、二次創作としてそれもありだろうと思います。こうしたものを通し、各文豪に興味を持たれる方が増えてくれれば、という気がします。新潮社さんが協力に入っており、そうした考えからなのでしょう。また、調布市武者小路実篤記念館さん、菊池寛記念館さんでは、ゲームとのコラボ企画を行っています。

また、ネット上で著作権の切れている文学作品等の無料公開を行っている「青空文庫」さんにも好影響が出ているのでは、という話です。

少し古いのですが、今年6月のNHKさんのニュースから。

往年の「青空文庫」に異変 背景にイケメンゲームが?

著作権が切れた文学作品などをインターネットで無料で公開して人気を集めている「青空文庫」は、作品を入力する多くのボランティアが長年支えていますが、最近、ある異変が起きています。きっかけは、イケメンが多く登場するネットゲームだということですが…?

青空文庫は、往年の名作を手軽に読むことができるようにと平成9年に富田倫生さんの呼びかけで設立され、著作権が切れたり、許諾が得られたりした作品について、ボランティアの人たちが文章の入力と校正を行い、インターネットで無料で公開しています。
宮沢賢治や芥川龍之介といった有名な作家から、数は少なくても熱狂的なファンがいる作家まで、掲載作品は1万4000点を超えています。呼びかけ人の富田さんが3年前に亡くなった後も、青空文庫は有志のボランティアが運営を続けています。

ボランティアを高校生のころから続け、現在は運営にも携わっている翻訳家の大久保ゆうさんが、青空文庫の「異変」についてツイッターに投稿したのは先月30日のこと。
青空文庫ではこれまで比較的少なかった、例えば北原白秋に連なる作家たちの作品の入力や校正が増え始めたのです。
大久保さんはツイートの中で、「文アルの影響かどうかはわからないのですが/ご協力ありがとうございます」と述べました。
「文アル」とは、インターネットのゲーム「文豪とアルケミスト」のことです。

「文アル」は、芥川龍之介や太宰治など多くの文豪が「転生」したという設定のイケメンのキャラクターを育てながら、文学書を守る戦いを繰り広げるゲームです。人気声優たちが参加した話題性もあって女性ユーザーなどに人気を集め、運営会社によると、去年11月以降、プレーした人の数は30万に上るということです。
和歌山県新宮市にある詩人・佐藤春夫の記念館を訪れる若い女性がことしに入って増えるなど、その人気はゲーム業界にとどまりません。

文豪の作品を数多く収録している青空文庫にも、当然、影響が現れました。
ツイッターなどでは、「出てくる文豪の作品読んでないことがもったいないと思って、青空文庫で毎朝毎晩読むことにしました」とか、「純文学とか近代文学が苦手だったけど、ちょっとずつ踏破してるから文アルと青空文庫は偉大だ」など、ゲームに夢中になるあまり青空文庫の利用を始めたという人たちが現れ、中には、「青空文庫の入力ボランティアを始めた」という投稿もありました。

翻訳家の大久保ゆうさんによりますと、青空文庫のボランティアの中でも作品の入力や校正を完成まで続けられる人は少ないということです。
「ひとりでも新たに加わっていただけるのは本当にありがたいです。入力や校正の作業はひとりでこつこつ進めることが多く、根気のいる作業です。入力に取り組んでいることをツイッターなどで発信して、同じ作家のファンに応援してもらえればモチベーションの向上にもなるのでは」と話しています。
人気ゲームをきっかけに広がりを見せ始めた、青空文庫。自分たちの作品が現代の若い女性たちに急に読まれ始めたことを文豪たちが知ったらさぞ驚くことでしょう。


こうした動きが一過性のものでなく、発展していって欲しいものです。


しかし、苦言を一つ。先述の通り、ゲーム自体は、たとえ荒唐無稽な設定であるとしても、二次創作としてそれもありだろうと思います。ところがCDは、あくまで光太郎作品の朗読ですので、正確性を期していただきたかったと思いました。詩句の漢字の読み方で「これは絶対に違う」と断言できる箇所があったり(通常、「絶対に」という断言はなかなか出来ないのですが)、ミニドラマの部分でも光太郎詩に関し、事実と異なる内容があったりしました。どこが、という具体的な指摘は避けますが、或る程度の光太郎ファンなら気づくでしょう。これは朗読されている森田さんの責任ではなく、制作サイドの責任ですね。ゲーム同様、新潮社さんが「協力」にクレジットされていますが、それでも防げなかったかと、残念です。そうした玉に瑕を差し引いても、よい出来映えですが。


もう1点、書籍です。 

詩人小説精華集 The Poetic Novels

2017年11月29日 彩流社 長山靖生編 定価2,400円 + 税

北原白秋、萩原朔太郎、中原中也、立原道造、高村光太郎……詩人たちの「詩想」あふれる小説の世界!

「本書は二〇世紀前半に活躍した詩人たちが書いた小説・空想的散文のアンソロジーだ。いずれの作品も、詩人だけに言葉の選択はいずれも意外性を持っていると共に的確であり、今もまったく色あせていない。
優美・幻想・哀切・ユーモアを通して表現された時代と生活の諸相の表現は、的確であるばかりでなく、予言的ですらある。詩集を読む習慣のない人でも小説なら、彼らの魅力を読み取りやすいのではないだろうか。」(解説より)

これまであまり知られなかった瑞々しい小説の世界を読みやすい現代仮名遣いで!

目次
  石川啄木…散文詩五題「廣野」「白い鳥・血の海」001
   「火星の芝居」「二人連」「祖父」
  上田敏…「渦巻」
  山村暮鳥…「夕立」
  木下杢太郎…「霊岸島の自殺」
  野口雨情…「虹の橋」
  北原白秋…「影」
  平井功…「Headin, South」
  正岡蓉…「青恋」
  日夏耿之介…「源氏伝授」
  左川ちか…「暗い夏」
  中原中也…「我が生活」「散歩生活」「夜汽車の食堂」 
  立原道造…「花散る里」「物語」「眠つている男」「眠り」
   「オメガ小品」
  萩原朔太郎…「猫町」
  小熊秀雄…「風刺短篇七種」
  齋藤茂吉…「ヒットレル事件」
  高村光太郎…「九代目団十郎の首」
  【解説】「詩的生成と近代日本のあいだ」長山靖生


こちらも「青空文庫」さん同様、忘れられかけている作品に陽を当てている感があります。

光太郎の「九代目団十郎の首」は、智恵子没年の昭和13年(1938)、雑誌『知性』創刊号に掲載されたエッセイです。何度もその制作に挑戦し、最後は九分通り出来ていながら、結局、未完のままひび割れてしまった、九代目市川團十郎の塑像について述べています。


とにもかくにも、光太郎作品、さまざまな形で取り上げられ続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

あなたの国のモネエなどといふ人の油画は、私の国の雪舟などとまるで同じ気持の画を画くではありませんか。九泉の下から雪舟を起こして、あんな画を見せたら、さぞ膝をうつて感嘆するでせう。

散文「木曜便」より 治44年(1911) 光太郎29歳

「あなた」は、光太郎が仏語習得のため、パリ時代に日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」。従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。

「木曜便」は、パリ在住の「M――女史」(「マリー」の「M」です)にあてた書簡の形式で書かれていますが、テーマは、袋小路に入りこんでしまった日本画や、西洋の猿真似に過ぎない洋画がまかり通っていることへの警句です。

12/2(土)、3(日)、甲信地域を歩いておりましたレポートの最終回です。

光太郎の足跡が残る南巨摩郡富士川町上高下地区をあとに、再び甲府盆地に下りました。その後、笛吹川を渡り市川三郷町へ。かつて市川大門町だったエリアです。ここからまた山中に分け入ることしばし、次なる目的地、四尾連(しびれ)湖を目指しました。ここには光太郎の足跡が残っているわけではありませんが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一が山小屋生活を送っていました。野澤の詩碑も建てられています。こちらは当方、初めてです。

野澤に関しては、何度かこのブログでご紹介いたしましたが、改めて。光太郎より21歳年下の明治37年(1904)の生まれ。法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和9年(1934)には、四尾連湖で書きためた詩200篇あまりを『木葉(こっぱ)童子詩経』として自費出版。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。昭和20年(1945)に、結核のため亡くなりました。

結局、野澤と光太郎は会わずじまいだったようですし、野澤から光太郎に送った厖大な手紙の返事も数通、ほぼ一方通行という感じでした。しかし、この不思議な詩人のことを気にとめていたようで、光太郎は昭和15年(1940)、雑誌『歴程』第10号に連載していた随筆「某月某日」で、一回分の半分を、野澤について費やしています。

 木つ葉童子と自称する未見の詩人野澤一氏から二百回に亙つて毎日手紙をもらつたが、これで一先づ中止するといふ事である。彼は古今の人物を語り、儒仏を語り、地理地文を語り、草木を語り、春夏秋冬を語り、火を語り、わけても水を語り、墓地を語り、食を語り、女を語り、老僧を語り、石を語り、土を語り、天を語り、象を語り、つひに大龍を語る。甲州しびれ湖畔の自然を語る時、彼の筆は突々として霊火を発する。この詩人の人間に対する愛の深さには動かされた。童子独特の言葉づかひに偏倚の趣はあるが、それが又彼の東洋の深と大とを語るにふさはしくもある。彼は西歌的な叡智を小とし、東洋の底ぬけの無辺際を説く。彼は私を叱咤する。私の詩を読んでゐて、こんなものでいいのかといふ。こんなところに跼蹐してゐてどうするのだといふ。それを思つて肌に粟を生ずるといふ。私は此の人にどう感謝していいか分らない。二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大龍の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終るだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れた事はきつと何かのみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。もう此の叱咤の声も当分きけないのでもの足らぬ気がする。私は折にふれて此等の手紙をくりかへし読まうと思つてゐる。不思議な因縁があるものだ。

光太郎をしてここまで言わしめるのは、なまなかのことではないように思われます。


さて、四尾連湖。思っていたより小さな湖でした。

イメージ 1

野澤がここで仙人のような暮らしを送った背景には、かれが敬愛していた19世紀アメリカの詩人、ヘンリー・ディビッド・ソローの存在があります。ソローはマサチューセッツ州 コンコード市郊外のウォールデン池畔にやはり丸太小屋を建て、2年あまりの自給自足生活を送りました。近年はエコロジストのはしりとして注目されています。これも近年、野澤は「日本のソロー」とも称されるようになり、日本ソロー学会などでも取り上げられています。また、連翹忌にもご参加下さった坂脇秀治氏の野澤に関する編著のタイトルは『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』

四尾連湖畔には2軒の旅館があるのみで、民家はありません。そのうちの1軒、水明荘さんに愛車を駐め、野澤の詩碑の場所を訊きました。てっきり湖畔のわかりやすいところに碑が建っていると思い込んでいたのですが、見あたらなかったもので。そこでいただいた地図がこちら。

イメージ 2 イメージ 3

それによると、詩碑は湖畔ではありませんでした。ご主人のお話では、15分ほど登山道的な道を上っていった峠の上、車で行ける場所でもない、とのこと。歩くしかありません。

落ち葉の積もった細い急な坂道を、足下に四尾連湖を望みつつ上っていきました。

イメージ 4

途中に、野澤が小屋を構えていた場所。オリジナルの小屋自体は火災で焼失してしまったそうです。

イメージ 5

息を切らしつつ、ようやく峠の頂上へ到着。

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

野澤の詩「しびれの湖を歌う」の一節が000刻まれています。


 ああ されど湖のみは
 いつもながらの風光にかげうららかに
 桃の枝は育ち
 栗鼠はないて
 小鳥はあのたのしいさわがしい唱をうたい
 山は立ち
 水はほとばしりいでて
 とこしえに
 しびれの湖とたたえられてあれよ


前述した野澤唯一の詩集『木葉童子詩経』に収められています。野澤と親しかった詩人の一瀬稔や、連翹忌御常連の野澤の子息・俊之氏、そして当会顧問・北川太一先生などのお骨折りで同書は文治堂書店さんから二度にわたって復刊されました。右は平成17年(2005)の版です。

野澤の略伝などが記された碑陰記がこちら。

イメージ 10

光太郎の名も。

光太郎はここ四尾連湖に来たことはない001ようですが、昨日のこのブログでご紹介したとおり、富士川町の上高下を昭和17年(1942)に訪れています。直線距離では10キロ㍍足らず。その際に、野澤のことが頭をよぎったかもしれません。

また、野澤は昭和8年(1933)に四尾連湖を引き上げた後、同19年(1943)まで東京で暮らしていましたが(その間もたびたび四尾連を訪れたそうですが)、空襲で家を失い、山梨に一家で疎開しました。初め、甲府に近い東山梨郡春日居村、ついで、南巨摩郡増穂村。光太郎が訪れた上高下は増穂村から分離した穂積村でした。もしかすると、光太郎が訪れたことを耳にしていたかもしれません。

もっとも、野澤は前述の一瀬稔に対し、「同じ東京の空の下にいるので、逢おうと思えばいつでも逢えるのですが、ぼくは別にお目にかかりたいとも思いません。作品を通してあの方のことはかなり解っているつもりです。」と語っていたそうですが。

その後、野澤は結核のため、昭和20年(1945)に甲府の療養所で亡くなり、光太郎は同じ年、やはり空襲で焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家へ。戦後は翼賛活動への反省から、花巻郊外太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送ります。

光太郎の周辺には、辺境の地で芸術制作にあたっていた友人知己が少なからずおり、光太郎自身も古くからそうした生活に憧れていましたが、四尾連湖の野澤も、山小屋生活に入った光太郎の脳裏に浮かんだことでしょう。

野澤一、もっと注目されていい存在だと思われます。

四尾連湖をあとに、三たび甲府盆地へ。そろそろ夕刻が近づいた盆地から見た南アルプスと八ヶ岳。

イメージ 12

イメージ 13

甲府で同級生の結婚披露宴に出席していた娘を拾い、帰りました。これにて甲信レポートを終わります。またすぐに都内や花巻のレポートを書くことになりますが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

今の日本人は経済上の都合やら色々で、成べく簡単(サンプル)な生活を余儀なくさせられる。が生活はどんなに間に合せ主義で行つても、其のためにデリケートの感情まで殺したくない。実生活は粗雑でも、趣味生活だけは贅沢にならねば感覚は依然として芽を吹かない。

談話筆記「感覚の鋭鈍と趣味生活」より 治44年(1911) 光太郎29歳

100年以上前の警句ですが、この状況は変わっていないような気もしますね。

昨日も都内に出ておりました。都内に出る時は大概そうで、複数の用件を済ませて参りましたが、メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」の拝聴でした。

会場は、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さん。

イメージ 1

当会主催の連翹忌会場、日比谷松本楼さんのすぐそばですし、隣接する日比谷公会堂(現在は休館中)は、かつて光太郎がコンサートにも足を運んだ場所です。

イメージ 2

内容的には二部構成で、前半が講演「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」。講師の歌人・松平盟子氏は、今年6月に開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」の際にパネリストを務められ、その際に知遇を得まして、お声がけ下さいました。

イメージ 3

晶子の詩というと、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号に寄せた「そぞろごと」(「山の動く日きたる」などを含む)や、大町桂月に「非国民」と誹られた「君死に給ふことなかれ」(明治37年=1904)が有名ですが、他にも多くの詩を書いていたそうです(当方、これは存じませんでした)。確認されている最初の詩は明治32年(1899)の『よしあし草』に載った「春月」。その後、第一次『明星』廃刊の明治41年(1908)まで、同誌に「君死に給ふことなかれ」を含む多くの詩を発表していますし、亡くなる2年前の昭和15年(1940)、『冬柏』に寄せた「死」に至るまで、その詩は全集2冊分にもわたるほどでした。特に大正期にその発表が多かったそうです。

その詩型は文語定型詩に始まり、文語自由詩、口語定型005詩、そして口語自由詩へと発展、すると、その軛(くびき)のないスタイルが伸びやかな発想をもたらし、一気に花開いたとのこと。この点、光太郎を含む他の詩人達のあゆみと軌を一にします。

松平氏のご指摘では、『スバル』誌上などに次々発表された光太郎詩の影響も見て取れるとのこと。

下記は晶子の「或国」(明治45年=1912)という詩です。

   或国

 堅苦しく うはべの律儀のみを喜ぶ国、
 しかも かるはずみなる移り気の国、
 支那人ほどの根気なくて、 浅く利己主義なる国、
 亜米利加の富なくて、 亜米利加化する国、
 疑惑と戦慄を感ぜざる国、
 男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
 めでたく うら安く 万々歳の国。

たしかに光太郎の「根付の国」(明治44年=1911)と似ています。
 
  根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけ
らの様な日本人

日露戦争後の閉塞感やら、自然主義の勃興やら、『青鞜』に代表される女性の進出やらの文壇全体の流れの中で晶子の詩も多様な側面を見せ、ご講演のサブタイトルにもある「女性・子供・社会」そして自然美などへ眼差しが注がれて行ったとのこと。

ところで、「君死に給ふことなかれ」を痛烈に批判した大町桂月。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)は、十和田湖の国立公園指定に功績のあった大町桂月ら三氏を讃えるというのが基本コンセプトでした。その件に絡み、光太郎は以下の発言をしています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

どういうシチュエーションで桂月が光太郎を怒鳴ったのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の弟分、という感覚があったのかも知れません。

休憩を挟み、後半は口語自由詩の確立に功績のあった四人の詩人についてのご発表。年齢順に(講師の、ではなく詩人の、です)松平氏が光太郎、静岡県立大学教授・細川光洋氏で北原白秋、木下杢太郎を歌人にして東京大学教授の坂井修一氏、そしてやはり歌人の前田宏氏による萩原朔太郎。限られた時間での、それぞれのアウトライン的なものではありましたが、興味深く拝聴しました。

イメージ 5

聴きながら思ったのですが、晶子を含めた5人のうち、光太郎を除く4人は意外と早く亡くなり(晶子・白秋・朔太郎は昭和17年=1942、杢太郎は同20年=1945)、光太郎のみ「生きながらえた」感があります。戦時中の翼賛詩の
部分を考えると、重要な要素を含むように思われました。

閉会のご挨拶は、『明星』に拠った歌人、平出修の令孫・平出洸氏。おじいさまは弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。光太郎は大正3年(1914)に若くして亡くなった平出の追悼会に出席し、詩「瀕死の人に与ふ」で平出に触れています。

イメージ 6

閉会後、有楽町駅近くのドイツ料理の酒場的なお店で懇親会。

イメージ 7

与謝野夫妻研究の第一人者・逸見久美先生もご出席。隣に座らせていただきました。逸見先生は連翹忌ご常連で、一昨年にはNHKさんの生涯教育番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の与謝野晶子の回にご出演、その際に光太郎の回のためにNHKさんにご紹介下さり、当方、番組制作のお手伝いをさせていただきました。

平出氏や、鉄幹晶子関連などのさまざまな活動をなさっている皆さんとお話しをさせていただき、非情に有意義な時間でした。いつものように連翹忌の「営業」もしておきましたので、これでまた人の輪が広がることを期待いたします。


【折々のことば・光太郎】

どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りは為ないのである。

散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日に引き続き、日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論から。

元々、この「緑色の太陽」は、絵画に於いて、日本固有の色彩(ローカルカラー)を重視すべしという、画家・石井柏亭への反駁が動機となって書かれたものでした。これ以前に石井は、日本の風景にはあり得ない色彩を使う新興の絵画に対し、警句を発表していました。それを受けて光太郎は、そんなものは作家個人の自由、ことさらに日本などというものを意識する必要はない、所詮、日本人には日本人しか描けないものしか描けない、と論じたのです。

新刊です。

高校国語科授業の実践的提案

2017年11月10日 三浦和尚著 三省堂書店 定価2,200円+税

長年、国語(科)教育の「実践」と「研究」の「橋渡し」に取り組んできた筆者による、日常的営みとしての授業研究への実践的な提案。筆者による実際の授業実践・研究の動画4本をインターネットで配信する。

目次
はじめに
Ⅰ 【総論】授業研究のねらいと方法
Ⅱ 【提案授業1】豊かな文学世界の享受と言葉の力の獲得
-芥川龍之介「蜜柑」(高校一年)-
Ⅲ 【提案授業2】文学として味わう「古文」(伊勢物語)
-現代語訳・課題の在り方を中心に-
Ⅳ 【提案授業3】味読・批評を見通した評論の学習指導 
-松沢哲郎「想像する力」の実践を通し て-
Ⅴ 【提案授業4】 高村光太郎「レモン哀歌」の指導
 -詩の「楽しみ方」を求めて-
Ⅵ 【実践報告】小説教材を導入に生かした学習指導 
-「藪の中」「新聞記事」(高二)の場合-
Ⅶ [講演記録]国語科学習指導における発問の意義と課題
あとがき
初出一覧

イメージ 1  イメージ 2

高等学校の国語科教員向けの、授業実践記録集です。「智恵子抄」中の絶唱、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を扱った授業の記録を含みます。著者の三浦氏は愛媛大学名誉教授・特命教授・副学長ということで、附属高校さんの2年生を対象にした授業実践の記録が掲載されています。帯や版元サイトの紹介文に、授業の実際をインターネットで配信中とあったので、早速拝見しました。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

IDとパスワードの入力を要求してきますが、同書に掲載されています。ID:sanseido-kokugo    パスワード:90VXnQSW07 です。生徒さんたち、公開研究授業でビデオ撮影ありということで緊張しているようです(笑)。

版元の三省堂さんで発行している国語の教科書『高等学校 国語総合』[改訂版]に、「レモン哀歌」が掲載されているようです。ちなみに東京書籍さん刊行の中学校用3年生用教科書『新しい国語 3』にも「レモン哀歌」が採用されています。中学生には中学生なりの、高校生には高校生なりの読み取りが可能でしょう。ただ、21世紀の若者には、肺結核による死、というのはイメージが涌きにくいようです。


もう1冊、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』12月号。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まり、定期購読しております。11月号は年賀状特集号ということで当該欄がお休みでしたが、今号から復活。

イメージ 6  イメージ 7

今号は、散文「書について」(昭和14年=1939)から。花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、光太郎愛用の硯箱一式の写真が添えられています。

同館では来月9日から、市内4つの文化施設との共同企画展「ぐるっと花巻再発見! イーハトーブの先人たち」の一環としての「高村光太郎・書の世界」展が開催されます。下記は花巻市さんの『広報はなまき』11月15日号から。

イメージ 9

イメージ 8

同館では、常設展示でも光太郎の書を多数展示していますが、それ以外にも所蔵作品が多数有り、それらの中からセレクトして展示するとのこと。

イメージ 10


どういった作品が出されるか、現在問い合わせ中です。詳細が分かりましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

激烈なる近世の生存の競争は、既に一般の世人をして其の日常生活に於て、昔日の如き美術的享楽を専らにする事能はざるに至らしめたり。

散文「英国に於る応用彫刻に就て」より 明治41年(1908) 光太郎26歳

このコーナー、筑摩書房『高村光太郎全集』の第一巻から始め、これは、と思う光太郎の言葉をご紹介しています。昨日までで詩の巻の第三巻までを終わり、今日から評論の巻、第四巻に入ります。

明治39年(1906)から同42年(1909)にわたった光太郎の海外留学。当初は自費でのそれでしたが、光太郎の父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格が付与され、月額60円が給付されることになりました。その義務として提出した、家具などの応用彫刻のレポートの冒頭です。

産業革命も一段落し、機械工業による大量生産品の使用が一般的となった現状への警句です。

学会情報です。
会 場  : 日比谷コンベンションホール 
       千代田区日比谷公園1番4号 千代田区立日比谷図書館B1
時 間  : 13時40分~16時40分
参加費  : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
主 催  : 明星研究会

第1部 講演 「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」
       松平盟子(歌人)
第2部 シンポジウム 「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」
   坂井修一(歌人):木下杢太郎 細川光洋(静岡県立大学教授):北原白秋
   前田宏(歌人):萩原朔太郎   松平盟子(歌人):高村光太郎

 100年余り前の明治末期、詩歌の尖鋭たちを擁する「明星」は、文語定型詩から口語自由詩へ移行する詩界の激流に直面しました。日露戦争後の経済格差と閉塞感漂う時代の空気は、隆盛しつつあった自然主義文学の現実暴露に表現の真実を見出し、美的で自己肯定的な浪漫主義や言語美に詩情を託す象徴主義を過去のものへと追いやろうとしたのです。
  口語自由詩は、時代に適った表現なのか。素材やテーマはどう追求されるべきなのか。「明星」の詩歌人たちはその変革にどう立ち向かい、自らの表現を獲得しようとしたのでしょう。言葉と韻律をめぐるこの詩歌のドラマを、現代短歌まで視野に入れて考察します。
  多くの皆さまのご参加を期待致します。

イメージ 2


イメージ 1

今年6月に開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」の際、知遇を得ました歌人の松平盟子氏からご案内を頂きました。

毎年この時期に開催されている同会の公開シンポジウムでは、平成26年(2014)の第8回一昨年の第9回でも光太郎に触れて下さっていましたが、日程が合わず欠礼させていただいて参りました。今年は参加させていただくことにしました。

会場は毎年連翹忌を開かせていただいている日比谷松本楼さんの隣、日比谷図書館さんです。当日受付も行っているそうですので(定員200名)、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

こまかい事を思いだすと 気の遠くなるような長い十年。 だがまたこんなに早く十年が とぶようにたつとも思わなかつた。 はじめてここの立木へ斧を入れた時の あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

詩「開拓十周年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

イメージ 4  イメージ 3

盛岡で開催された岩手県開拓十周年大会に寄せた詩の一節です。戦後の開拓者視点で、その労苦の日々を謳っています。終戦の年、花巻郊外太田村の山小屋に入り、まがりなりにも農耕自炊の生活を7年間送った光太郎も、開拓者の端くれと言えましょう。実体験に根ざした同じ目線からのこの詩には、全国の開拓者たちから多大な共感が寄せられました。

正式な光太郎詩碑というわけではありませんが、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)の開拓に心血を注いだ平田良衛は、この詩を読んで感動し、小高にこの詩を刻んだ碑を建てました。

↑このページのトップヘ