月が改まりまして6月となりました。

光太郎とゆかりのある岩手県花巻市、青森県十和田市。それぞれの広報紙の今月号から。

まずは花巻市の『広報はなまき』。先月15日に行われた第59回高村祭のレポートが掲載されました。

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前日に行われた「高村光太郎記念館講座 高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」についても載るかな、と思っておりましたが、残念ながらそちらは掲載されませんでした。

双方に関する当方のレポートはこちら


続いて青森県十和田市の『広報とわだ』。十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域が国立公園指定80周年を迎えたということで、今月号から「受け継がれる歴史 十和田・八甲田」という連載が始まりました。

第一回は「十和田と大町桂月」。

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 十和田国立公園(現十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域)指定80周年を迎えました。
 桂月が、明治41年に初めて十和田を訪れて著した「奥羽一周記」は大正天皇(当時の皇太子)にも感動を与え、全国に十和田の名を知らしめました。晩年には「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」という請願文を起草し、国立公園の指定にも貢献しています。
 十和田国立公園指定15周年を記念して建立された「乙女の像」は、十和田の観光開発に功績のある桂月、県知事武田千代三郎、地元の村長で県議会議員小笠原耕一の3氏を顕彰したものです。
 桂月は、十和田の紀行文、漢詩、和歌など多く残しています。上の写真の歌は、桂月が好んで揮毫(きごう)したものです。晩年には、「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」「住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」と、推敲しています。
 この二つの歌が、初めて文献に登場するのは、4回目の訪問で定宿の蔦温泉に滞在中の大正11年8月29日の日記です。   【文責・大町桂月を語る会】


十和田湖の景勝美を初めて中央に紹介した大町桂月。昭和28年(1953)に除幕された光太郎作の「乙女の像」は、記事にあるとおり、桂月ら3人の顕彰のためのものでした。

以下、当会顧問北川太一先生の談話筆記から。実際に光太郎から聴いた話の紹介です。

 大町桂月と高村さんは、早くから直接面識がありました。しかし、桂月は若い頃に高村さんが加わっていた新詩社の与謝野鉄幹とか晶子とかとは、むしろ反対の立場でした。鉄幹は『文壇照魔鏡』事件の時に桂月と喧嘩したことがあったし、晶子の詩「君死に給ふことなかれ」を桂月は「非国民」だと言って非難した。
 高村さん自身も「僕もよく知っていた。桂月に怒鳴られたこともあるし、十和田湖のモニュメントにしても、桂月がもし生きていて、僕が裸の女の人を造ると言ったら、必ず憤慨して『なぜこんなものを造った』と怒られただろう」と言っています。
 (略)
 高村さんは、十和田湖の景色にものすごく感動しています。大町桂月も同じく十和田湖の景色に感動した。だから自分の感動をそのまま表現すれば、それは大町さんだって喜んでくれるだろうという思いがあった。
(『十和田湖乙女の像のものがたり』 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会 平成27年=2015)


さて、『広報とわだ』さんの連載、いずれは光太郎も紹介していただけるでしょう。注意していたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

雲まよふ刀根(とね)のゆふべの真菰舟なにか悲しき風のおもひぞ
明治35年(1902) 光太郎20歳

「(以下五首常陸の旅の歌の中に)」という詞書きがついています。「刀根」は「利根」、千葉、茨城県境を流れる利根川です。また、連続する他の歌の中に「出島」の語が使われており、かつて利根川につながる霞ヶ浦沿岸に「出島」という地名がありました。ただ、地名ではなく、「小さな半島状の地形」の意味で使われているかも知れません。

明治35年(1902)のこの旅行の記録が残っておらず、どのあたりを回ったのか不明です。「出島」が地名として使われているのであれば、当方の住む千葉県香取市にそう遠くない場所です。利根川も当方自宅兼事務所から2㎞足らずのところを流れています。もしかすると104年前に当地の近くを舟で通ったのかも、と思っています。

「真菰」は「まこも」と読み、水辺に生えるイネ科の草です。かつては食用や眉墨、お歯黒の原料などに使われ、それを刈るための小舟を「真菰舟」と言っていました。夏の季語です。