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新刊情報です。 

文豪たちのラブレター

2018/09/21 別冊宝島編集部編 宝島社 定価1,380円+税

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芥川龍之介が後の妻・文に送ったラブレターの一節は、思わず赤面してしまうくらい恥ずかしく、それでいて恋する心情が伝わってくる「生っぽい」文章です。かの文豪たちも、ラブレターともなると、その人自身のパーソナリティが色濃く反映されてしまうもの。本書は、中島敦、太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石、森鴎外など、あの文豪たちが実際に書いたラブレターを、当時の状況の解説とともに掲載した一冊です。

目次

 はじめに

 第一集 君のことを愛しています。——愛する手紙
  芥川龍之介からのちの妻、塚本 文へ
  樋口一葉から師、半井桃水へ
  国木田独歩からのちの妻、佐々城信子へ
  坂口安吾から恋人、矢田津世子へ
  高村光太郎からのちの妻、長沼智恵子へ

 第二集 君のためなら何でもする。——赤裸々な手紙
  佐藤春夫からのちの妻、谷崎千代(潤一郎妻)へ
  谷崎潤一郎からのちの二番目の妻、古川丁未子、のちの三番目の妻、根津松子へ
  若山牧水から片想いの石井貞子、のちの妻、太田喜志子へ
  倉田百三から恋人、山本久子(仮名)へ
  島村抱月から愛人、松井須磨子へ

 第三集 あなたを、好きになれてよかった。——切ない手紙
  太宰 治から愛人、太田静子へ
  小林多喜二から恋人、田口タキへ
  有島武郎から「お仲よし」唐澤秀子、愛人、波多野秋子へ
  石川啄木から恋人、菅原芳子へ
  北原白秋からのちの妻、福島俊子へ

 第四集 お前は、私の妻であればよい。——想う手紙
  夏目漱石から妻、夏目鏡子へ
  森 鷗外から妻、森志げへ
  堀 辰雄からのちの妻、加藤多恵子へ
  中島 敦からのちの妻、橋本たかへ

手紙の出典・参考文献一覧


というわけで、結婚前に光太郎から智恵子に宛てた、大正2年(1913)の1月28日の書簡が紹介されています。

この年9月、信州上高地で婚約する二人ですが、この時智恵子は、新潟にあった日本女子大学校時代の友人・旗野スミ(澄子)の実家に滞在し、スキーに興じたりしていました。その智恵子に送った「ラブレター」です。

手紙画像はこちら。現物は当会顧問・北川太一先生がお持ちです。

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全文翻刻はこちら。

光太郎から智恵子に宛てた手紙は、現在、4通しか現存が確認できていません。そのうち、ラブレター的なものはこの1通のみ。そういうわけで、時折、取り上げられます。平成14年(2002)には、故・渡辺淳一氏著『キッス キッス キッス』で、同25年には、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で。


他に、光太郎と交流のあった石川啄木、北原白秋、佐藤春夫、森鷗外らの「ラブレター」も紹介されており、興味深く拝読(かえって、内容を知らなかったそちらの方が……)。

何はともあれ、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然が或る人間を特に人生の為に役立てようと思ふ時、其の使ひ方の決定的な巧妙さは驚くばかりだ。丁度或る時に丁度或る場所に丁度或る環境を与へて丁度或る強さの人間を生まれさせる。どうする事も出来ない。無自覚的にも自覚的にも、其の人間全体が一つの使命となる。その力は恐ろしい。

散文「ホヰツトマンのこと」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

歴史上、そういう人物はいろいろいると思います。日本でいえば、源義経、織田信長、西郷隆盛などに其れを感じますし、世界的にはチンギス・ハーンやロダンなどがそうでしょうか。光太郎はこの文章で、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンがそうであると言っています。

口語自由詩の確立や、近代彫刻の輸入といった部分では、光太郎もそうでしょう。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の2月号が届きました。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、これまでは全1ページでしたが、今号は3ページも取って下さっています。

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大正2年(1913)の1月と推定される、光太郎から智恵子への長い手紙の全文を掲載して下さいました。これは、現在、ほぼ唯一確認できている結婚前の智恵子宛です。光太郎智恵子の結婚披露は翌大正3年(1914)でした。

全文を紹介しようと思いましたが、長いので、こちらのリンクをご参照下さい。平成25年(2013)に放映されたNHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で、この手紙が取り上げられた際のレポートです。ついでに言うと、この手紙が紹介されている書籍、CDの情報はこちら

智恵子に宛てた光太郎書簡は、5通しか現存が確認できていません。

1通目は、大正元年(1912)と推定され、これも結婚前ではありますが、智恵子と同居していたすぐ下の妹・セキとの連名で宛てたもの。そこで、先ほど、「ほぼ唯一」と書きました。

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから 同封にて失礼の段おゆるし下さいまし 十月五日 高村光太郎 光 長沼ちゑ子様お妹様御座下

この次に、今回のものが入り、続いて大正5年(1916)夏。

いろんなものを写真にとりました 此は少し黒く焼きすぎました。もつとよく出来るでせう。 東京はまだ暑さ烈し

こちらは絵葉書、というか、写真を絵葉書として使ったもので、写真は智恵子の首を作った光太郎彫刻です。この時智恵子は、新潟の友人宅に滞在していました。

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次いで、時期的にはずっと飛んで、心を病んだ智恵子が療養していた千葉県九十九里浜にいた五番目の妹(セツ=節子)の家に送ったハガキ。昭和9年(1934)5月、同地に移った直後のものです。

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。 そしておいしい新らしい食物。 よくたべてよく休んで下さい。 智恵さん、智恵さん。

「節子さんによんでもらってください」とは、もはや夢幻界の住人となっていた智恵子は自分で読むことが出来なくなっていたからでしょう。末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、心打たれます。

最後に、同じ年の12月、やはり九十九里に送ったものです。

さつきはいそいだので無断で帰りました、無事に帰宅しました。 今度参上の時は多分東京から自動車を持つてゆけるでせう。それまで機嫌よくしてみんなに親切にして下さい。 心のやさしいのは実に美しいものですね。お天気がよいので暖かです。

「自動車」は、結局、九十九里にも置いておけなくなった智恵子の迎えの車です。「田村別荘」として平成11年(1999)まで残っていたセツの家には、姉妹の母・セン、セツの夫、さらにセツの幼い子供がおり、その子供への教育上の配慮から、ふたたび智恵子を光太郎が引き取ることになりました。翌年には南品川ゼームス坂病院へ入院することになります。

この5通以外は、先述の彫刻「智恵子の首」などとともに、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰燼に帰したと推定されます。ただ、なにがしかの事情で、今回の5通同様に、他所に保管されているものがまだあるかもしれません。それを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

美とは生活の附加物でなくて、生活の内部から人間を支へてゐる精神的基礎である。美を感ずる事は能力に属する。此の能力ある時美は到る処に充満する。此の能力の発動なき時この世は如何につまらない愚痴の世界であるか。

散文「戦時、美を語る」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日中戦争が泥沼化しつつある時期の発言です。こうした時代にも「美」を忘れるなという提言で、国民の心の荒廃を防ごうとしていたことがわかります。

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