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『週刊朝日』さんの先週号。情報を得るのが遅れ、慌てて買いに行ったら店頭ではもう今週号に切り替わっており、しかたなくネット通販で手に入れました。

「文語の湯宿」という連載が為されており、その第63回だそうで、光太郎智恵子がメインに取り上げられています。

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「湯宿」は、栃木県の那須塩原温泉に今も健在の柏屋旅館さん。昭和8年(1933)に、光太郎智恵子が滞在しています。 

【文豪の湯宿】 高村光太郎・智恵子が新婚写真を撮影した、最後の2人旅

 文豪たちの作品に登場する温泉宿を訪ねる連載「文豪の湯宿」。今回は「高村光太郎・智恵子」の「柏屋旅館」(栃木県・塩原温泉 塩の湯)だ。
 因習を嫌った高村光太郎と智恵子は大正3年の結婚披露宴以降も入籍を拒んできた。だが、昭和6年に精神を病んだ智恵子が、その翌年に睡眠薬自殺未遂を起こすと、光太郎は全精力を智恵子の回復のために注いだ。昭和8年8月23日に入籍したのも智恵子を守るためだった。
  入籍の翌日から2人は、墓参りを兼ねて智恵子の故郷に近い東北地方の温泉をめぐる3週間の療養の旅に出る。福島・宮城の湯治場を回り、9月4日には旅程の最後となる栃木県塩原温泉・柏屋旅館に到着した。2人はその翌日、智恵子の母・長沼セン宛てに絵葉書を送っている。
 <(塩原塩ノ湯柏屋にて)帰りかけに塩原へよりました 智恵>
  十数日間の滞在中、宿の下を流れる鹿股川で、2人は写真屋に記念写真を撮ってもらっている。数少ない貴重なツーショット写真となった。
  9月18日、療養の旅を終え帰宅したが、智恵子の病状は<上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化していた>(「智恵子の半生」)。
  光太郎の必死の看病にもかかわらず智恵子は、昭和13年に結核で死去。塩原は最後の2人旅となった。(文/本誌・鈴木裕也)
■柏屋旅館(かしわやりょかん)  栃木県那須塩原市塩原364

よくまとまっています。

「新婚」といっても、文中にあるとおり、正式な入籍に対しての「新婚」で、光太郎智恵子、事実婚の開始は大正3年(1914)に上野の精養軒で行った結婚披露よりさらに遡ります。当時の(現在でもそうだそうですが)フランスでは事実婚のまま入籍しないカップルが多いとのことで、それにあやかったのでしょう。この時期に正式に入籍したのは、やはり文中にあるとおり、心の病が顕在化した智恵子の身分保障のためでした。智恵子もそうでしたが、既に光太郎自身も結核に冒されており、万一、自分の方が先に逝くことになったら……という配慮です。

そして、智恵子の愛した「ほんとの空」のある東北方面の温泉地で療養すれば、智恵子の心の病も快方に向かうのではないかという淡い期待の元、昭和8年(1933)8月24日からおそらく9月中旬まで、二人は4ヵ所の温泉地を廻りました。

まず、福島の裏磐梯川上温泉。ここにはこの湯治旅行で最も短く、一泊しかしませんでしたが、この際に、「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)が着想されました。

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013続いて向かったのは、宮城県蔵王山中の青根温泉。二人が泊まった湯元不忘閣さんは今も健在です。青根に「一週間ばかり滞在」したという二人は、8月末か9月の頭に、次なる投宿地、福島土湯温泉に向かいました。土湯では旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。この旅館は平成25年(2013)に火災焼失、現在は焼け残った露天風呂を使い、日帰り入浴施設として再オープンしています。

そして、不動湯に9月4日まで滞在した二人は、福島市方面に山を下ります。おそらく東北本線を使って移動。翌5日に塩原温泉から、智恵子の母・センに宛てて、『週刊朝日』さんに紹介されている連名の絵葉書を送っています。

塩原では、柏屋旅館に投宿。柏屋は、塩原の中でも鹿股川の渓谷沿いの「塩の湯」というエリアにあり、塩原温泉の中心街からは離れて位置しています。いったいに、この湯治行では、一件宿だったり、温泉街のはずれだったりのいずれも静かな宿が選ばれました。症状の思わしくない智恵子や、他の湯治客への配慮でしょう。

そして、『週刊朝日』さんにも載った、右の写真が撮られました。これが確認できている限り、智恵子最期の写真です。

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上は戦後すぐと思われる柏屋さんのパンフレット、それから戦前と思われる絵葉書です。絵葉書には、上記ツーショット写真にも写っている橋が。残念ながらこの橋は戦時中に金属供出に遭い、現存しません。

9月19日には、二人で撮った写真を使った絵葉書を、やはり連名でセンに送っています。

 しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、

文面は光太郎の筆跡で、差出人欄の「智恵」署名のみ智恵子の手になると思われます。そうとすれば、現存が確認できる智恵子最後の筆跡です。

19日の時点で「先日」と書かれているので、そう遠くない9月中旬の帰京だったのでしょう。『週刊朝日』さんには「9月18日、療養の旅を終え帰宅した」とありますが、こちらでは正確な帰京の日付を特定できていません。何か新資料でもあったのでしょうか? 柏屋の後に、二人が他の温泉宿に寄ったという記録が見あたらないので、ここには10日ほども滞在したと考えられます(今後、書簡等の発見で、新事実が出て来るかも知れませんが)。

「文豪の湯宿」、ぜひ単行本化していただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

智恵子は私との不如意な生活の中で愛と芸術との板ばさみに苦しみ、その自己の異常性に犯されて、刀折れ矢尽きた感じである。精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつたのだ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」、恐ろしいまでに的確な、しかし哀しい比喩です。

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当方、あちこち出かけておりますが、基本的にいつも一人です。
 
すると妻が「日帰りでいいから、たまにはどこかちゃんとした温泉に連れて行け」と言い出しました。
 
そこで、一昨年、全線開通した北関東自動車道を使えば、栃木までは比較的楽に行けるので、塩原温泉に行って参りました。
 
二人とも塩原には行ったことがありませんでしたし、訪れてみたい場所があったからです。
 
こんな写真があります。
 
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昭和8年(1933)9月、光太郎智恵子、塩原で撮影された一葉です。
 
光太郎智恵子が一緒に写っている写真で、現在でも普通に見られるものは6葉しかありません。
 
大正15年(1926)に、駒込林町のアトリエで撮られた3葉、その翌年に箱根大湧谷で撮られた2葉、そしてこれです。つまり、光太郎智恵子がそろって写っている最後のものです。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。8月24日のことです。
 
ちなみにその前日には、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
巡った温泉は福島の川上、青根、土湯など。今年8月末に全焼してしまった不動湯を訪れたのもこの旅の途次でした。
 
そして塩原。おそらくここが最後に寄った温泉だろうと推定されています。
 
しかし、9月中旬に東京に帰ってみると、智恵子の病状は出発前より悪化していたと言われています。
 
さて、上記の写真。二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたとのこと。そこでこの場所に行ってみたいと思い立ったわけです。
 
こんな時にも光太郎がらみか、と突っ込まれそうですが、妻も当方の仕事には理解を示してくれているので甘えました。
 
さて、柏屋旅館さんは今も健在。
 
 
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調べてみると、本館は昭和10年(1935)の竣工。惜しいところで光太郎智恵子が訪れた時期に重なっていません。ただ、看板はもっと古いもののような気がしました。
 
さて、問題の写真が撮られた場所、柏屋さんのサイトの記述をたよりに探してみました。
 
初めは林道から渓谷へ下りる道の入り口が分からず、一度通り過ぎてしまいましたが、何とかたどり着けました。
 
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この鹿股川、大雨で氾濫することも多いようで、さらにちょうど80年経っているので、多少は地形も変わっているかと思いますが、まずここで間違いないと思います。感慨深いものがありました。
 
ちなみに光太郎智恵子が柏屋さんから智恵子の母・センに送った葉書が残っています。
 
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帰りがけに塩原によりました 智恵
此間福島のそばやで二本松の久保さんに偶然あひました 光太郎
 
光太郎との連名ですが、これが確認されている智恵子最後の直筆書簡です。
 
また、旅から帰って、光太郎はやはりセンに、上記の二人の写真を絵葉書にして送っています。
 
しばらく方々を歩いてゐましたが、先日帰宅しました、
秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、
高村光太郎 智恵
 
こちらは署名のみ智恵子自筆と思われます。
 
ところでこの一角、実は塩原温泉の中心部からはけっこう離れています。下記画像で赤マルが柏屋さんのあるあたり、青マルが塩原温泉の中心部です。
 
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他の温泉を巡った時-焼失した不動湯さんにしてもそうだったようですが、智恵子を落ち着いてゆっくり静養させるため、わざわざ中心部から離れた静かな宿を選んで泊まっていたとのこと。
 
さて、当方夫婦、その後、塩原温泉の中心部に行き、上記地図にもある「塩原もの語り館」というところに入ってみました。
 
塩原周辺出身だったり、塩原を訪れたりした文人墨客に関する展示があるというので、光太郎智恵子も紹介されているかと思ったわけです。
 
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ありました。塩原に関する大きな年011表があり、昭和8年(1933)の項には光太郎智恵子の名。それから二本松市教育委員会さん発行の『アルバム 高村智恵子』も手に取ってみられる状態で置いてありましたし、例の写真もパネルに拡大されて展示されていました。
 
ただ、光太郎は塩原では詩歌を作っていないということもあり、あまり深く紹介されていませんでした。
 
ここでは室生犀星や尾崎紅葉などが大きく取り上げられていました。
 
その後、新そばを食べ、温泉につかり、足湯も堪能し、帰りました。紅葉にはまだ早かったのが残念でしたがなかなか有意義なプチフルムーン旅行でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月13日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野桃園町のアトリエに入居しました。
 
智恵子の顔を持つ、といわれる十和田湖畔の裸婦像制作のため、7年半ぶりに上京した光太郎は、水彩画家の故・中西利雄のアトリエを借りました。それまで住んでいた花巻郊外太田村山口の山小屋では、大きな彫刻を作る事は不可能だったためです。
 
本日、夜8:00からNHKEテレで「日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」」の再放送があります。この中野のアトリエ、さらに塩原での写真も映ります。先週の本放送を見逃された方、ぜひご覧下さい。

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