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かつて光太郎が暮らした東京千駄木からのイベント情報です。

谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ

 
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谷根千ゆかりの文芸作品へのトリビュート美術展
カフェギャラリー幻のある谷中・根津・千駄木(略して谷根千)界隈は、夏目漱石・森鴎外・江戸川乱歩・川端康成など、多くの文人の旧居・旧跡がある「文豪に愛された町」です。
 
そこで、谷根千にゆかりある文人・文芸作品をモチーフとした美術展を行います。
 
2014年2月28日(金)~3月9日(日)
企 画 カフェギャラリー幻 東京都文京区千駄木 2-39-11
     笠原小百合(WEB文芸誌「窓辺」編集長)
休廊日 未定(期間中2日ほど)
時 間 15:00~22:00
人 数 7名前後(うち公募参加枠は4名ほど予定)
関連イベント
◆オープニングレセプション:2月28日(金)
◆谷根千文学さんぽツアー:3月2日(日)、8日(土)
 文人ゆかりの旧跡をめぐるお散歩ツアー。
◆クロージングパーティー:3月9日(日)
 
申込
 募集期間:2013年12月26日(木)~1月10日(日) /選考制
 ※選考は過去作をもとに行います。出展作品は会期までにご準備ください。
費用
 出展料:無料
 販売手数料:売上価格の40%※
 ※作品・グッズが売れた際のみ頂戴致します。
お申込方法
 当ページをお読みの上、下記内容をメールにてお送りください。
 Mail:
info@cafegallerymaboroshi.com
 •作家名: グループの場合は団体名および各作家名。
 •参考作品: 過去作品を拝見できるウェブサイトや、作品画像など。実際に出展する作品ではなく、作風が分かるもので構いません。創作にあたってのコンセプト・説明文などがあればお書き添えください。
 •作品形態: 出展作品の大きさ・形式(平面か立体かなど)のおおまかな予定をお教えください。特に立体やインスタレーションなどはスペースが限られるためご相談ください。後日の変更も可能な限り ご対応します。
 •モチーフとする文人と作品(第1希望)
 •モチーフとする文人と作品(第2希望)
 お申込みいただいた方全員にメールにて結果をご連絡させていただきます(2014年1月中旬予定)。
 諸注意
 ・複数名で1団体としてもご参加いただけます。
 ・他の展示・公募等に出品された作品も出展可。
 ・著作権存続作品の二次創作は不可(権利許諾を得たものは可)
 ・作品は販売を行います。非売品とする場合はご相談ください。
 ・作品制作・搬入出にかかる諸費用は作家様にてご負担お願い致します。
 ・選考は展示全体のバランスなども考慮して判断させていただきます。
 
谷根千ゆかりの文人(例)
 下記以外でも、谷根千地域にゆかりある小説家・詩人などの作品、谷根千を舞台とした作品であれば構いません。
 ・森鷗外:この地に居住。「雁」「青年」などの舞台にも。森鴎外記念館あり。
 ・夏目漱石:この地で「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などを著す。「三四郎」の舞台にも。
 ・江戸川乱歩:団子坂上にて古本屋「三人書房」を営む。団子坂は「D坂の殺人事件」の舞
  台。
 ・高村光太郎:「智恵子抄」の智恵子とともにこの地に居住。
 ・川端康成:この地に居住。
 ・石川啄木:近隣の本郷に居住。鴎外宅の歌会に参加。
 ・北原白秋:この地に居住し、鴎外宅の歌会にも参加。
 ・幸田露伴:この地に居住。谷中霊園は「五重塔」のモデル。
 ・樋口一葉:近隣の本郷に居住。鴎外宅での批評会にて「たけくらべ」を激賞される。
 ・平塚らいてう:青鞜社を千駄木に構え、女流文芸誌『青鞜』を発刊。
 ・二葉亭四迷:近隣に居住し、界隈が「浮雲」の舞台となる。
 ・正岡子規:近隣に居住し、「自雷也もがまも枯れたり団子坂」と詠むなど。
 ・室生犀星:詩「坂」の舞台。
 ・竹久夢二:隣接する弥生に竹久夢二美術館あり。画家だが、詩人・童話作家としても知ら
  れる。
 ・ほか坪内逍遥、宮沢賢治、内田百閒などが近隣に居住。
 たくさんのご応募お待ちしています。
 ※出展作品のジャンルや数は問いません(絵画、写真、彫刻、工芸、服飾、文芸、映像、音楽、インスタレーションなど)。
 
要するに、光太郎や漱石、鷗外など、谷根千ゆかりの文学者たちへのオマージュとしての展示があり、一般公募もします、ということですね。
 
絵心のある皆さん、応募されてはいかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月4日

明治45年(1912)の今日、新聞『二六新報』に談話筆記「詩壇の進歩」が掲載されました。
 
「僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。」と、のっけから爆弾発言です。
 
最後は「今のやうな時には、僕はポエムといふ作品よりも、寧ろ周囲の空気とか、人間そのものとかを尚ぶ。作品は多く出ないでも、さういふ風に向つて行く処を大いに尚ぶ。僕は全然製作品だけを味うて居るのでは足りない。その人を味ふ為に作品を見るのだ。地面を歩く芸術、力強い芸術に近づくのが嬉しい。四十四年の詩壇を顧みると、此の傾向が明らかに見られるやうになつて来た。」と結びます。
 
浅薄な美辞麗句の羅列に過ぎなかった文語定型詩全盛の時代をぶち壊して行く気概が見て取れますね。2年後の詩集『道程』でそれが結実するわけです。
 
しつこいようですが、今年、平成26年は詩集『道程』刊行百周年です。

今日は日比谷・銀座に行って参りました。 
 
いろいろ用事を片付ける中、銀座6丁目の株式会社ノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催中の田沼武能写真展「アトリエの16人」を観て参りました。
 
8月末から行われていたのですが、気がつくのが遅く、このブログで紹介していませんでした。申し訳ないので実際に足を運んでのレポートといたします。
 
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田沼武能氏は現在も活躍中の写真家。人物写真を多く手がけられ、特に子供の写真で有名ですね。
 
その田沼氏が、かつてそれぞれのアトリエで撮影した16人の美術家のポートレートが並んでいます。
 
以下、ノエビアさんのHPから。
 
「美術家にとってアトリエは戦場である」という田沼武能氏が、アトリエで作品に挑む16人の姿をとらえた写真展です。 美術家の風貌はもちろん、アトリエの空間を通して、その芸術と作品を生み出した時代がよみがえってくるようです。
奥村土牛、岡本太郎、福田平八郎、駒井哲郎、杉山寧、川合玉堂、高村光太郎など、2010年から2013年にかけて都内及び関東近郊の美術館で企画展が開催された美術家も多数含まれています。

 
というわけで、光太郎のポートレートも1枚。昭和28年(1953)、中野のアトリエで撮影されたものでした。光太郎は十和田湖畔の裸婦像を制作していた時期でしたが、像自体は布が巻き付けられた状態で写っています。キャプションには、光太郎が制作途中のものは見せない、と言った旨の記述がありました。
 
しかし、先日も少しご紹介したブリヂストン美術館制作の美術映画では、像の手の部分を制作中のカットがあり、ちょっと矛盾しています。ただ、ブリヂストンの動画でも、顔には布が巻き付けられたままでした。
 
さて、田沼氏の作品。肝心の光太郎は小さく写っています。しかし、その眼光は炯々と光り、まさしく「美術家にとってアトリエは戦場である」との言が納得いきます。その点は他の美術家も同じでしたが。
 
この古武士のような光太郎の風貌には、いろいろな写真家が惹きつけられたようで、早いところでは戦前から、土門拳などが撮影していますし、花巻郊外太田村山口の山小屋にも、土門が再訪したのをはじめ、阿部徹雄、濱谷浩らが撮影に訪れています。
 
それから、光太郎の弟・豊周の子息の高村規氏も、後に写真家となりますが、学生時代に晩年の光太郎をよく撮影していました。連翹忌で飾る遺影は規氏の撮影したものを使わせていただいています。
 
さて、「アトリエの16人」。会期は明後日11/1まで。時間は午前10時~午後6時、入場は無料です。紹介するのが遅くなり、まことに申し訳ありません。お近くの方、銀ブラついでにどうぞ。
 
明日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明後日から)に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月30日6c2092aa

明治36年(1903)の今日、作家・尾崎紅葉が胃癌で歿し、光太郎が東京帝国大学での解剖に立ち会いました。
 
のち、この時の印象を元に「解剖台上の紅葉山人」という彫刻を制作しています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展にももちろん並びます。

画像は髙村規氏撮影。光太郎令甥にして、田沼氏と同じく木村伊兵衛に師事した写真家です。

【今日は何の日・光太郎】1月5日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで中西利雄夫人・富江にこの年初めての買い物を頼みました。


頼んだのはゴボウ、人参、玉ネギ、ジャガイモ、トイレットペーパーでした。
 
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昭和27年(1952)から同31年(1956)まで、光太郎がその最晩年を過ごしたのは、東京中野に今も残る水彩画家・故中西利雄のアトリエでした。このアトリエを借り受けた光太郎は、花巻郊外の山小屋から上京、十和田湖畔の裸婦像をここで制作しました。
 
光太郎は、裸婦像完成後は再び山に帰るつもりでいましたが、健康状態がそれを許しません。昭和30年(1955)には赤坂山王病院に入院した時期もありましたし、それ以外の時もベッドで過ごすことが多くなります。それでも頼まれれば原稿や書を書き、死の数日前まで日記に書の展覧会を開きたい旨の記述を残しています。
 
そんな光太郎を支えたのが、故・草野心平や北川太一先生ら「年下の友人達」。心平は出版社に掛け合い、印税を前借りして電気冷蔵庫の購入に奔走したりしました。
 
また、中西家の人々も、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれました。中西利雄ご子息の利一郎氏は今でも連翹忌に御参加いただいており、その頃の思い出を語ってくださったことがあります。
 
日常の必要な物の購入は、主に中西夫人に託されました。その際に光太郎が書いた膨大なメモが、現在も中西家に残っています。一昨年、群馬県立土屋文明記念館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」に出品された他、利一郎氏の許可を得て、当方により一昨年から『高村光太郎全集』補遺作品集「光太郎遺珠」にその全貌を掲載しています。量が多いので、一昨年は昭和29年(1954)のもの、昨年は昭和30年(1955)のもの、今年4月発行予定のものには日付が入っていない時期不明のものを載せ、それで完結する予定です。
 
便箋や包装紙の裏等を利用したもので、時に図入りで詳細な指示等も書かれています。当時の光太郎の嗜好、需要や健康状態などの細かな生活の断面が垣間見える貴重な資料です。
 
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意外と光太郎は肉食系だったようで、「ソテー用豚肉」とか「ビフテキ用牛肉」「ベイコン」などの文字が目立ちます。また、面白いなと思つたのは、現在でも販売されていたり、当方が子供の頃こんなものがあったっけな、と懐かしく思えたりする商品名が書かれていることです。
 
「サリドン」「ビオフェルミン」「龍角散」「浅田固形アメ」「フジヤプラムケーキ」「あけぼの鮭かん」「モノゲン」「ライオン歯磨チューブ入り」「ミツカン酢」「味の素」「ヤマサ醤油」「アリナミン錠」「小岩井バター」「ミューズ石鹸」「明治オレンジジユース」「渦巻蚊遣二箱(金鳥)」……。

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こういうものを読むと、光太郎、歴史上の人物という感覚ではなく、非常に身近に感じます。

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