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史上初の10連休は終わりましたが、今月後半、各地でいろいろと光太郎智恵子光雲がらみのイベントが目白押しです。

今日は都内のイベントを。募集は終了しているとのことですが、こういうイベントもあるんだな、という紹介で。また、キャンセル等あるかもしれませんし。

杉並区歴史講座見学会「とげぬき地蔵から染井霊園を訪ねる」

期   日 : 2019年5月16日(木)
会   場 : 集合 JR巣鴨駅前広場  解散 JR駒込駅
時   間 : 午前9時(出発)から正午(解散)まで
料   金 : 500円(傷害保険料含む)

行程
【集合】JR巣鴨駅→真性寺(六地蔵)→高岩寺(とげぬき地蔵)→猿田彦庚申堂→妙行寺(お岩様の墓)→本妙寺(遠山金四郎、千葉周作 ほかの墓所)→都立染井霊園(高村光雲、岡倉天心 ほかの墓)→西福寺 →JR駒込駅【解散】
  約5.6キロメートルの平坦なコースです。


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染井霊園は豊島区ですが、主催は杉並郷土史会さん。まあ、同じ都内ですし、ことによると杉並ゆかりの著名人のお墓もあるのかもしれません。

ちなみにこちらに眠る著名人というと、光雲、光太郎智恵子をはじめ、こんな感じです。近くのお寺も含めていますが。

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それから、上記講座見学会のコースに入っている妙行寺さん。東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立された「うなぎ供養塔」があり、光雲作の観音像を戴いています。戦後の鋳造ですが。

ひと頃、「掃苔(そうたい)」と称し、著名人の墓参が静かなブームとなりました。「掃苔」の語は本来、墓参全般を指しますが。アニメファンの「聖地巡礼」のようなミーハー的感覚では困りますが、それぞれの人物の業績に思いを馳せ、また、身近に感じるにはいい機会だと思います。


【折々のことば・光太郎】

自然の季節に早いところとおそいところとはあつても、季節のおこないそのものは毎年規律ただしくやつてきて、けつしてでたらめでない。ちやんと地面の下に用意されていたものが、自分の順番を少しもまちがえずに働きはじめる。
散文「山の春」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳 

風薫る五月。厚くもなく寒くもなく、梅雨入り前のちょうどいい季節です。10連休は終わりましたが、野山の――あるいは街角でも――「季節のおこない」に敏感でいたいものです。

昨日は、都内2ヶ所を廻っておりました。

まず、日暮里の太平洋美術会研究所さん。明治40年(1907)からのおそらく数年間、智恵子が通った太平洋画会の後身です(智恵子が通っていた頃と、場所は変わっていますが)。

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こちらで、智恵子の名も載った昔の名簿的なものが出てきたというので、拝見させていただこうと、参上した次第です。隣接する第一日暮里小学校さんでの特別授業などで知遇を得ていた、同会の松本氏が対応して下さいました。

こちらがその名簿。昭和に入ってから書かれたものでした。

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智恵子の名は、昭和7年(1932)の「第二回卒業者」という中にありました。「千恵子」と誤記されていましたが、「高村光太郎夫人」と薄く書き込みがしてありました。さらに「明治三十八年通学」「こゝに記載」「卒業者とする」などの書き込みも。何をもって同会の卒業という扱いにしたのか、なぜ昭和7年の項に名前があるのかなど、詳しいことは不明とのことでした。

ちなみに智恵子が同会に通い始めたのは日本女子大学校を卒業した明治40年(1907)とされています。明治38年(1905)は、まだ女子大学校に在学中でした。しかし、もしかすると、在学中に松井昇などの手引きで、同会に通い始めたことも考えられなくはないな、と思いました。ただ、名簿が書かれたのが昭和に入ってからなので、智恵子が通っていたのはその時点で20年以上前。関係者の記憶や記録があやふやだったための誤記とも考えられます。

当方がお伺いするということで、松本氏、光太郎に関する資料も引っ張り出していて下さいました。明治から大正にかけての雑誌『秀才文壇』。国会図書館さんには所蔵がなく、駒場の日本近代文学館さん、横浜の神奈川近代文学館さんでは、とびとびにしか所蔵されていないため、光太郎が寄稿しているはずの号がこれまで未見でした。

以前に、当会顧問・北川太一先生から、「光太郎にこういう文筆作品があるはずだから見つけるように」と渡されたリストに、『秀才文壇』に掲載されたはず、というもののタイトルが複数記されていました。しかし、これまで折に触れて捜していましたが、見つからないでいたものです。

その『秀才文壇』がドンと出てきたので、驚愕しました。なんとまあ、編集長の野口安治が、松本氏の御曾祖父にあたられるそうで、こちらに所蔵されているとのこと。

そして、ありました!

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ロダンの秘書だった、ジュディト・クラデルが書き、光太郎が訳した「ロダンといふ人」。明治43年(1910)の『秀才文壇』に3回にわたって掲載されたのですが、筑摩書房『高村光太郎全集』刊行時点では、そのうちの第3回のみしか見つけられず、第1回、第2回が漏れています。それがあったので、驚愕した次第です。

また、野口に宛てたと推定される、大正6年(1917)の年賀状も紹介されていました。「賀正」一言の簡素なものでしたが、これも『高村光太郎全集』に未収のものでした。

他にも色々ありそうなので、自宅兼事務所に帰って早速調べた内容と、さらなる調査を依頼する文言を書いて、松本氏に手紙を書きました。今後に期待しております。


そんなこんなで太平洋美術会研究所さんを後にし、次なる目的地、谷中の台東区立朝倉彫塑館さんへ。先月から特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」が始まっています。

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こちらでは、こちら001の所蔵の、光太郎ブロンズ彫刻代表作「手」が展示されています。3点しか確認できていない、大正期の鋳造、さらに台座の木彫部分も光太郎の手になる物の一つです。

同館では他館の様々な企画展等に貸し出していて、他の場所で何度も見た作品ですが、こちらで見るのは初めてでした。また、以前に伺ったときにはなかった新商品ということで、「手」のポストカード(100円)が販売されていまして、思わず10枚も買ってしまいました(笑)。

その他、光太郎とも交流のあった大工道具鍛冶・千代鶴是秀の手になる刃物類などがたくさん並んでおり、興味深く拝見しました。「用の美」がにじみ出ている実用的なものもそうですし、遊び心溢れる非実用的な魚の形のものなど、そのどれもこれもですが、特に切り出し刀は「切れる」というのが見ただけで分かります。朝倉や、光雲弟子筋の平櫛田中などが惚れ込んだというのもうなずけました。

こちらは12月24日(月)までの長い会期となっています。ぜひ足をお運びください。

今日はこの後、信州安曇野碌山美術館さんでの開館60周年の記念行事に行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

「故郷図絵集」をよんで其の中にある一脈の「荒さ」に強く心をひかれました。この荒さといふ事に就ては或は自己流の説明を要するかも知れませんが、とにかくオリヂナルのものに必ず潜む「あらたへ」の感じです。芭蕉が持つてゐて其の弟子達に少いものです。荒々しい文字に必ずしもあると言へないところのもの、オリヂナルならざるものには絶無の或る感じです。

散文「所感の一端――室生犀星詩集「故郷図絵集」――」より
昭和2年(1927) 光太郎45歳

「故郷図絵集」は、この年刊行された室生犀星の詩集。「あらたへ」は、織り目の粗い粗末な織物のことです。

テレビ放映情報です。

TOKYOディープ!「山の手と下町 ふたつの記憶が残る街 千駄木」

NHK BSプレミアム 2018年5月21日(月)  12時00分~12時30分

千駄木は山の手と下町、ふたつの顔を持つ。かつて財閥当主が住んだ、ため息が出るほど美しい屋敷。現在は地元ボランティアによって守られている。元従軍看護婦たちが使っていた蔵。今は映像や音声など、地元住民の“記憶”を保管するために使われていた。その蔵で、千駄木の和菓子屋が作った貴重なアニメを拝見。千駄木には“本の街”という顔も。月に1回ほどライブを開く古書店や、「製本カフェ」というユニークな店などを紹介。

【出演】篠原ともえ 【語り】モト冬樹

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先週、5月14日(月)夜に本放送がありまして、再放送です。

光太郎をはじめ、多くの文豪が暮らした街という紹介をして下さいました。

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もっとも、「光太郎をはじめ」ではなく、「夏目漱石、森鷗外をはじめ」で、光太郎はその他大勢扱いでしたが(笑)。

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画面片隅には、智恵子がらみの「『青鞜』発祥の地」も。

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ナビゲーターは、篠原ともえさん。

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さらに番組前半では、伝説の地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(通称『谷根千』)を作られていた山﨑範子さんもご出演。同誌では繰り返し光太郎、光雲、智恵子を取り上げて下さり、当方、バックナンバー10冊ほど所蔵しております。

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昨年文庫化された、『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』や、『「谷根千」地図で時間旅行』などの著者・森まゆみさんも『谷根千』中心メンバーでしたので、昔の映像の中にご登場。

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山﨑さんのご案内で、光太郎の実家である髙村光雲・豊周邸に隣接する旧安田楠雄邸が大きく取り上げられました。

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また、山﨑さんの現在の活動拠点である「記憶の蔵」。『谷根千』編集時に集めた資料などが保管されており、現在、一般公開に向けて準備中だそうです。公開されたら真っ先に行ってみようと思いました。

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その他、団子坂を下りて下町エリアに入ると、千駄木は「職人の街」でもあるということで、女性の職人さんが活躍する左官屋さん、不思議な取り合わせのパン屋さん兼花屋さんなどが登場、最後に「本の街」ということで、音楽ライブを営業中に開催する古書店さん、特徴的な配架をなさっている新刊書店さん、クラウドファンディングで製本機を購入したカフェさんなども紹介されました。

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まさにさまざまな文化の部分で「ディープ」。篠原さんも感心しきりでした。

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ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

笑うなら笑いが天の美ろくであるように、泣くなら涙が夜明けの露であるようにと切に思う。

散文「私のきいた番組」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

ラジオ放送に関する評論です。出演者の声調や、ラジオでの詩の朗読など、多方面に話題が及びます。そして番組の中で、「むやみと卑屈に笑う人が多いのは病的なものを感じさせる」、「世にいう豪傑笑いというものも多く心の強さをあらわさないで心の空虚さを示す」、「われわれは小泉八雲もいつた通り少し不可解に笑いすぎる」などといった部分の後に出て来るフレーズです。

現今の、特にバラエティー系のテレビ番組がまさにそうですね。ただ、BS放送等の充実で、「TOKYOディープ!」のような落ち着いた番組も増え、ありがたいところではあります。視聴率は取れないのでしょうが、こうした良質な番組が絶えることの無いようにしていただきたいものです。

本日行って参ります都内での展覧会二つ、それぞれ報道されていますので、ご紹介します。  

まずは『東京新聞』さんの東京版で、昨日掲載された記事。「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」髙村豊周邸写真展」に関してです。

高村光太郎の弟、鋳金家・高村豊周 書斎、庭を写真で紹介

 詩人・高村光太郎の弟で工芸家の002高村豊周(とよちか)(一九七二年没)が暮らした家の写真展「となりの高村さん展」が、隣接する旧安田楠雄邸庭園(文京区千駄木五)で開催されている。高村邸は来月にも解体されることが決まっており、豊周の孫で写真家の達(とおる)さん(50)が、何とか形に残したいと撮影した。達さんは「当時のまま残してあった書斎などを見てほしい」と話している。 (原尚子)

 豊周は人間国宝の鋳金(ちゅうきん)(金物工芸)家で、「藤村詩碑」など数々の作品を残した。伝統的な手法を使いながらも新しい作風で知られ、工芸の近代化運動にも貢献。与謝野鉄幹・晶子夫妻に短歌を学び「歌ぶくろ」などの歌集も出している。

 高村邸は一九五八年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財だった。光太郎・豊周兄弟の父で彫刻家の光雲から家督を継いだ豊周が建てたが、息子で写真家の規(ただし)氏が二〇一四年に亡くなった後、老朽化もあって解体が決まったという。

 会場には、達さんが昨秋から最近まで何度も撮り直して厳選した約三十点を展示。雪景色や桜、咲き始めたばかりの藤棚といった四季折々の庭や書棚など、豊周が愛したたたずまいが、家族ならではの温かいまなざしで表現されている。達さんは「四歳のときに豊周が亡くなり、あまり記憶はないが、最後に書斎をバックに写真を撮った思い出の場所」と話す。

 都指定名勝の旧安田邸の公開日に合わせて二十一、二十五、二十八日に開催。旧安田邸の入館料(一般五百円、中高生二百円、小学生以下無料)が必要。畳の保護のため靴下を着用する。二十一、二十五日には高村邸の見学ツアーもあり、達さんも参加する。問い合わせは、旧安田邸=電03(3822)2699=へ。


続いて、昨日もご紹介した、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんの個展。坂本さんご本人からコピーを頂きまして、『読売新聞』さんの東京版の記事だそうですが、大見出しが切れています。「智恵子」というのは判読できるのですが。

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仕方がないので小見出しから始めます。

坂本さん個展 福島など1都10県巡り

 詩人・高村光太郎(1883~1956年)の妻、智恵子の足跡をたどり、風景画などを描いている元板橋区職員の坂本富江さん(68)の個展「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~」が18日、新宿区西新宿の「ヒルトピアアートスクエア」で始まった。
 坂本さんは中学時代に光太郎の「道程」を読んだのをきっかけに、光太郎の作品のファンとなった。一方で、その光太郎が詩集「智恵子抄」で情熱的に描いた智恵子にも次第に興味を持つようになった。
 1995年以降、区で保育の仕事をしながら、智恵子の出身地の福島県や智恵子が光太郎と暮らした文京区千駄木など、1都10県を何度も巡り歩き、300枚以上の絵を描いてきた。なかでも、福島は何十回も訪れ、生前の智恵子の姿を追い求めた。
 東日本大震災の後には、少しでも復興に協力しようと、多くの人に福島などの被災地を訪れてもらうため、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。1000部が完売した。
 個展では各地で描いた約50点の作品を展示している。坂本さんは「作品を通じて智恵子だけでなく、被災地にも思いをはせてもらえれば」と話している。24日まで。午前10時~午後7時で、24日は午後3時まで。問い合わせはヒルトピア7アートスクエア(03・3343・5252)へ。


明日からはそれぞれのレポートを載せます。


【折々のことば・光太郎】

南洋の諸民族とわれわれとには切つても切れない血縁がある。今われわれは新東洋芸術の確立に力を致さねばならない時に来てゐるが、支那朝鮮の古美術がかなり精しく研究されてゐる割合に、われわれの遠祖の一系である南洋の古美術はまだ本当に究められてゐない。われわれが東洋芸術に包摂綜合しなければならない此等の要素がまだ日本人に十分に摂取さへもされてゐない。
散文「片岡環渡闍作品頒布会」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

片岡環という人物に関しては、ネット上でもほとんどヒットしません。この文章に依れば、「新進彫刻家」だそうです。その片岡がジャワ島の古彫刻を研究しに行くため計画された作品頒布会の推薦文です。題名の「闍」はジャワの漢字表記「闍婆」の略ですね。

同じく南洋のパラオに渡った彫刻家・土方久功の作も高く評価した光太郎、どうも南洋系のプリミティブな美への憧憬があったようです。

2日続けて都内に出ておりました。

まず一昨日、光太郎の母校である荒川区立第一日暮里小学校さんへ。この春卒業の6年生に、ゲストティーチャーとして光太郎の話をさせていただきました。同校では代々6年生が、「先輩 高村光太郎に学ぶ」というテーマで、光太郎に関する調べ学習を行っています。

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1月にも同校に参りまして、やはり6年生の図工の授業を拝見しました。光太郎のブロンズ代表作「手」にちなみ、卒業記念に自分の「手」を粘土で制作するというものでした。

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その際の作品が完成しており、廊下に展示されていました。

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力作ぞろいでした。いい記念になるでしょう。

それから、「先輩 高村光太郎に学ぶ」ということで、やはり一人一人が作成したレポートも完成していました。

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ざっと拝見しましたが、それぞれに異なる切り口で調べたことをまとめていて、こちらも力作ぞろいでした。これだけのものを作るとなると、指導に当たられた先生方も大変だったろうと思われました。

来週22日が卒業式だそうで、最後に光太郎についての話をしてくれ、とのことで、前述の「手」の制作の際にもゲストティーチャーを務められた、太平洋美術会・高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんともどもお招きを頂きまして、6年生の教室で、児童の皆さんの前に立たせていただきました。

まずは当方。持ち時間が15分くらいということでしたし、既に児童の皆さんはそれぞれに光太郎について詳しく調べてレポートも完成しているので、今さら光太郎は何年何月に生まれ、こんな業績を残し……といった話をしても仕方がないと思い、パワーポイントの短いスライドショーを作り、クイズ形式で進めさせていただきました。題して「知ってトクする 光太郎クイズ」(笑)。

光太郎の偉人らしからぬ意外な一面、子供にも親しみを持てそうなエピソードなどを問題にし、最後は同校の校訓でもある「正直親切」――元々は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外太田村の山口小学校に校訓として贈ったものですが――にからめてまとめました。児童の皆さん、なかなかに食いついてくれました(笑)。

続いて、坂本さんにバトンタッチ。坂本さんは、以前に智恵子の母校、二本松市立油井小学校さんでも披露なさった自作の紙芝居を使われました。

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その後、児童の皆さんから、光太郎に関する質問を受け付ける時間。すると、小学生と侮るなかれ、鋭い質問が出ました。例えば、光太郎木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)の「解釈」。

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こちらは光太郎が「作品」としてきちんと制作した木彫のうち、ほぼ最後のもの。このころから智恵子の心の病が顕在化し、その看病に追われたり、危なくて彫刻刀を出しておけなかったりといった理由から、木彫の制作が途絶します。そこで、「文学的」解釈として、この一対の文鳥は、光太郎智恵子の「肖像」でもあるのでは、という説が唱えられています。児童の皆さん、何かの資料でそういう話を読まれたのかも知れませんし、逆にそういう予備知識なしの直感的な感想かも知れませんが中々鋭い意見が出て、たじたじとさせられました。

「片方が片方をにらんでいるように見える」とか「片方が片方をうらやんでいる、またはねたんでいるように見える」だそうで、どうでしょうか、と。なるほど、そういわれてみると、そうも見えます。

光太郎は、この時期の彫刻では「物語性」を可能な限り排除し、純粋な造形美のみを表現する方向で取り組んでいました。学生時代に手がけた塑像などでは、いわくありげなポーズや謎めいた題名で、「物語性」を前面に押し出していましたが、それではいけない、と方向転換しています。

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しかし、心のどこかでは、この白文鳥一対は自分たち夫婦、という意識はぬぐえなかったのではのではないでしょうか。だから、児童の皆さんが感じたように、「片方が片方をにらんでいるように」とか「片方が片方をねたんでいるように」見えてしまうのかもしれません。

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ただ、この「白文鳥」、二体をどう配置するかによって、見え方がかなり異なってきます。昨今は、小さい雌を左、大きな雄を右に、上記のように配置することが多いのですが、それが正しいのかどうか、何とも言えません。

光太郎生前唯一の彫刻個展、昭和27年(1952)の中央公論社画廊での「高村光太郎小品展」図録ではこんな感じ。左右が逆ですね。こう配置すると、2羽がしっかりと寄り添っているように見えませんか。

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それから光太郎が歿した翌年(昭和32年=1957)の「高村光太郎遺作展」図録では、こうなっています。

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この配置だと、大きい方の雄は、たしかにあらぬ方を向いているように見えますね。これが無意識のうちに表された光太郎自身の智恵子へのスタンスという見方、あながちこじつけともいえないかもしれません。児童の皆さん、そこまで理論的に考えているわけではなさそうでしたが、逆に感覚的にそう捉えていたのでしょう。そういう見方も有りだよ、という話はしておきました。

来週卒業していく6年生の皆さんですが、光太郎智恵子への関心、これで終わってしまうことなく、今後とも持ち続けていってほしいと思いますし、彼等から学んだなにがしかを、今後の人生行かして行ってほしいものです。


つづいて昨夜、錦糸町のすみだトリフォニーホールさんで開催された演奏会「第29回 21世紀日本歌曲の潮流」を拝聴して参りました。

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以前から光太郎詩に曲をつけた作品を発表なさっている、名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「樹下の二人」が演奏されました。

この曲は、昨年、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」において、メゾソプラノの星由佳子さん、ピアノで倉本洋子さんによる演奏で初演されましたが、今回は以前から野村氏の「連作歌曲 智恵子抄」を演奏されている、バリトンの森山孝光さん、ピアノで森山康子さんご夫妻による演奏でした。

女声と男声の違いもありましたし、それからおそらくキーも変えてあったようで、またかなり違った印象でした。現代音楽というと、他の作曲家の方の作品でそういうものがありましたが、ひねった和音構成や変拍子などを多用し、めまぐるしく転調させたり、あえて無調にしたりするなど、先鋭的な作品が多い印象ですが、野村氏のそれはメロディーラインの美しさを前面に出す、いわば直球勝負。素人の当方には、そちらの方が心地よく感じられました。もっとも、いつも安心して聴いていられる森山ご夫妻の力量に負う部分も多いのですが。

野村氏、体調を崩されているとのことで、昨夜は会場にはいらっしゃらず、森山ご夫妻もお二人の出番の終了後にすぐお帰りになったとのことで(岐阜にご在住です)、終演後にお会いできなかったのが残念でしたが、野村氏、何とか連翹忌には復調して参加したいとおっしゃっていましたので、そうなることを願っています。


【折々のことば・光太郎】

強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出てゐるものがあるが、さういふ厭味がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思ふままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。

散文「黄山谷について」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「黄山谷」は中国北宋時代の書家・黄庭堅。光太郎が最も愛した書家の一人です。書に限らず、詩歌や彫刻でもそうですが、光太郎の芸術評は同時に自らが求めるそのものの在り方を端的に示しています。まさに光太郎の書も、このようなものでした。

また、昨夜聴いた野村氏作曲の「樹下の二人」にも通じるところがあるように思われました。

東京メトロさん主催のイベント情報です。

沿線の街の魅力を発信する散策型スタンプラリー「新発見!駅から始まるさんぽ道2nd Season」を実施!このスタンプラリーは、昨年度から実施し、多くのお客様にご好評いただいた「新発見!駅から始まるさんぽ道」の第2弾として実施され、毎月、期間内に3か所のスタンプポイントをめぐりスタンプを集めると達成したコース数に応じて素敵なプレゼントに応募ができます。 今月は、千代田線「西日暮里」駅周辺の見どころポイントをご用意! 初めて訪れる駅や街はもちろん、馴染みの街の新たな魅力を発見できるかも!

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今月は、東京メトロ千代田線西日暮里駅周辺だそうで、スタンプポイントにはなっていませんが、同駅近くの荒川区立第一日暮里小学校さんの正門前に立つ、光太郎文学碑がコースに入っています。

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以前にもご紹介しましたが、この碑は、昭和60年(1985)の建立。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋近くにあった太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が、同校尋常小学校の課程に通っていたことに由来します。

現在でも同校は学校便りのタイトルに「正直親切」を使って下さるなど、「卒業生」光太郎の顕彰にも取り組んで下さっています。

考えてみますと、23区内にある光太郎の文学碑といえるものは、これと、それから品川のゼームス坂病院跡にある「レモン哀歌」詩碑の二つだけ(個人の方が個人の敷地に建てた、というようなものがあるかもしれませんが)。

さて、東京メトロさんのスタンプラリー。月ごとにコースが定められ、獲得したポイントに応じて賞品が当たる仕組みになっています。1コース達成でレジャーシートが500名様、これはともかく、3ヶ月で3コース達成だと、50名様に東京メトロ沿線ホテルランチお食事券5,000円分。これは当たると大きいですね(笑)。詳しくは上記リンクから。


この機会にぜひ日暮里の光太郎碑、ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の本質たる造形性は人間そのものの本能の慾求から発してゐる事を思へば、如何なる時代の変化はあつても、人間が人間としてのこる限り、彫刻のこの本質本流が消滅し得るものとは考へられない。

散文「彫刻の方向」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

そうした根源的な芸術に関わる者としての矜恃、使命感が感じ取れる一文です。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

昨日は都内2ヶ所を廻っておりました。

まずは品川区大井町の、ジオラマ作家・石井彰英氏の工房。昨年、いにしえの大井町のジオラマを作られ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院も組み込んで下さった関係で、花巻高村光太郎記念館さんにご紹介、来年の同館企画展示で展示するために光太郎が暮らしていた当時の花巻町・郊外太田村などのジオラマをお願いすることになりました。9月には氏を現地にご案内、早速、制作にかかっていただいていました。

7月に一度お邪魔し、2度目の訪問となりましたが、進捗状況を見て欲しいというのと、お手伝いなさっているスタッフさんや、ジオラマ制作の模様を取材なさっているケーブルテレビ品川さんに当方をご紹介下さるとのことで、お伺いしました。

畳一畳ほどの大きとなり、パーツとしての建造物類はほぼ完成。光太郎がよく利用していた花巻電鉄も走っていました。

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あとは、ここに山や川などを作り、樹木を配し、田んぼやリンゴ畑などを作っていただく形です。

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さらにジオラマ本体だけでなく、拡大して撮影した動画を収めるDVDを作られるとのことで、そのナレーションや音楽を担当される方にもお引き合わせいただきました。

当方も今後も色々関わることになっており、この件につきましては、また追ってレポートいたします。


その後、東急線をのりつぎ、世田谷区用賀へ。過日ご紹介しました、上用賀アートホールさんで開催の「真理パフェFourth」という公演を拝見して参りました。

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邦楽・日本舞踊系の大川真理さんという方を中心とした催しで、ご本人の他、ご家族やお仲間、お弟子さんなどがご出演。ジャンル的にも幅広いものでした。その幅広さゆえに、「てんこ盛りのパフェ状態」という意味で「パフェ」と名付けているそうです。

ちなみに大川さん、当方もお世話になっております一色采子さんと同じ芸能事務所のご所属でしたので、ちょっと驚きました。

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002日本舞踊、邦楽演奏、朗読、落語、そうかと思うと和楽器と西洋楽器(ピアノ・弦)とのコラボ、さらに合唱など、本当にてんこ盛りでした(笑)。

なぜこれを聴きに行ったかと言いますと、「智恵子抄」の朗読が入っていたためで、石川弘子さんという方が、「あどけない話」、「人に」、「千鳥と遊ぶ智恵子」の三篇を朗読されました。当方、石川さんのブログでこの催しを知り、行ってみようと思った次第です。

3篇だけで、あまり長い時間ではありませんでしたが、しみじみとしたいい朗読でした。最後の「千鳥と遊ぶ智恵子」では、潮騒の効果音が流れ、目を閉じると智恵子の療養していた九十九里浜の風景が浮かびました。

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主宰の大川さんはじめ、出演者の皆さんには日本女子大さんの関係者が多かったこともあって、「智恵子抄」が演目に入っていたようです。同校の卒業生である智恵子に関わる「智恵子抄」は同校の関係者にはなじみ深いもの、とパンフレットに記載がありました。そういわれてみれば、「智恵子抄」にオリジナルの曲をつけて歌われているモンデンモモさんも同校附属高から芸大さんに進まれたのでした。

プログラムの最後は、同校附属中高卒業生の皆さんを中心とした演奏。

邦楽の「越後獅子」に、ピアノと三味線の伴奏で合唱をつけてのアレンジ。面白い試みですね。

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ヘンデルの「メサイア」。大川さんは鼓を打ちながら歌われていました。

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客席では、やはり関係者の方でしょう、立って歌われている皆さんも多数いらっしゃいました。愛校心というか、ともに青春を過ごした思い出というか、そういう絆の深さを感じました。

ちなみにうちの娘。もう大学を出て働いていますが、大学受験の際には日本女子大さんにも合格しました。ただ、結局は別の大学に進み、智恵子の後輩にはなりませんでした。当方としては、ちょっと残念でした(笑)。

終演後、石川さんには、例によって連翹忌の「営業」をかけておきました。このような形でも輪を広げて来ており、ぜひとも加わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

囲炉裏の上で餅を焼いているこの小屋が、 日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、 あの船の沈まなかつた経験を 私はもう一度はつきりと度思ひ出す。

詩「船沈まず」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号に掲載された詩です。遠く明治39年(1906)、欧米留学のため横浜を出航して太平洋を渡った経験を下敷きにしています。暴風雨の連続で、乗っていたカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号が45度傾くくらいだったそうです。

下って平成30年も、「日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな」気がしてなりません。それでも沈まないことを祈ります。

『週刊朝日』さんに、「人生の晩餐」という連載があります。「著名人がその人生において最も記憶に残る食を紹介する連載」だそうで、週ごとに異なる著名人の方が担当されています。

現在販売中の今週号は、当会会友・渡辺えりさん。連翹忌に触れて下さっています。ありがたや。

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紹介されているのは、連翹忌会場として使わせていただいている、日比谷松本楼さんのカレーとショートケーキ。「このカレーライスとショートケーキは、彼(光太郎)と妻の智恵子がデートの時に好んで食べたそう」。うーん、二人がこちらで「氷菓(アイスクリームまたはかき氷)」を食べたというのは、詩「涙」(大正元年=1912)に書かれていますが、カレーとケーキは出てきません……。まあ、よしとしましょう。

それから、いつものように光太郎と交流があったお父様・渡辺正治氏のエピソードがご紹介されています。「毎年「もう二度と戦争を起こしてはならない」という父の願いを感じながら、しみじみと味わっています」。なるほど、という感じです。

ぜひ皆様も、連翹忌にご参加いただき、他の料理ともども、光太郎智恵子を偲びつつ召し上がって下さい。

ちなみに当方は司会進行のため、ほとんど料理には手がつけられません。それに気づいて下さる方が、こっそり司会者ブースへお皿に取り分けた料理を届けて下さいますが、それとて急いでかき込む、という感じです。今年はケーキも届きましたが、二口で食べました(笑)。

『週刊朝日』さんもぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

現実そのものは押し流れる渦巻だ。

詩「夢に神農となる」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)11月の作、翌年7月の雑誌『大熊座』に発表されました。

昭和12年というと、7月には盧溝橋事件、この詩の書かれた11月には日独伊三国防共協定の締結などがあり、「押し流れる渦巻」のように、戦時体制へと突き進んでいく時期でした。光太郎もどんどん大政翼賛の方向へ進んでいきます。

昨日は、都内3ヶ所を廻っておりました。神田の学士会館で開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」が昨日18時からでしたので、それが始まる前に、同じ都内で懸案事項の調査を、と考えました。

まず向かったのが、杉並区立郷土博物館さん。

ちなみに京王線の永福町駅から歩きましたが、同駅コンコースに、光太郎を敬愛していた佐藤忠良のブロンズがあって、「おお」、と思いました。佐藤のアトリエが近くにあったということでした。

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遠目で一瞬目に入っただけで、佐藤の彫刻と分かります。これは同じく光太郎を敬愛していた舟越保武のそれにしてもそうです。個性の発露なのでしょう。

さて、郷土博物館さん。古民家の長屋門を正門に転用しています。


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こちらに最近、思想家の江渡狄嶺関連の資料がご遺族から寄贈され、その中に光太郎から江渡の子息に送られた書簡(『高村光太郎全集』等未収録)が含まれているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

江渡は光太郎より3歳年長、青森五戸の出身で、トルストイやクロポトキンの思想に影響を受け、東京帝国大学を中退し、まず世田谷に「百姓愛道場」、続いて高円寺に「三蔦苑」という農場を開いて、「農」に軸足を置いた生活に入ります。そして品川平塚村や成田三里塚で同様の生活に入った水野葉舟の縁で、光太郎と知り合い、交流を深めました。

大正10年(1921)には、江渡の長男をはじめ、幼くして亡くなった子供達の納骨堂を兼ねた集会所「可愛御堂」が三蔦苑内に建てられましたが、その設計は光太郎が担当しました。

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大正9年(1920)の『東京朝日新聞』の記事です。

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こちらが可愛御堂。昭和34年(1959)まで現存していたそうです。

また、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、駒込林町のアトリエを失った光太郎、しばらく近くにあった妹の婚家に身を寄せていましたが、5月3日に三蔦苑を訪れ、リヤカーを借りています。それを使って延々茨城取手まで荷物を運び、そこから花巻の宮沢賢治の実家に疎開しました。前年に江渡は亡くなっていましたが、江渡の妻・ミキが対応してくれたようで、光太郎は礼にと、空襲前に運び出していたブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)を贈っています。これはミキが東京国立博物館に寄贈、現在も時折展示されているものです。

江渡夫妻に関し、光太郎は大正15年(1926)、雑誌『婦人の国』に発表した「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」というエッセイで、詳しく述べています。長くなるので全文は紹介しませんが、「しみじみと噛みしめるやうな古淡な味いを持つた人達」、「このお二人は、二人の見つめてゐるものが常に同じでそして変らない」、「まことに美しい、しつかりした結ばれです。ただ逢つてみるだけで自分を豊富にされるやうな気のする人たちです。」等々、手放しで賛美しています。

昨日、郷土博物館さんで拝見した書簡は、昭和20年(1945)1月3日付、江渡の次男・復にあてた封書で、前年暮れに江渡が急逝し、そのお悔やみを述べており、飾らない真摯な言葉で、心打たれます。「すぎなみ学倶楽部」さんという団体のサイトに、書面の画像が載っています。

他の光太郎書簡も同館に寄贈されているかと思いましたが、これ一通でした(江渡本人に送った書簡は既に『高村光太郎全集』に収録されています)。ただ、昨日は上記サイトに記述がなかった封筒も拝見させていただけました。光太郎の住所氏名電話番号が印刷されていました。よく見るとその脇に空押しで「三越」の二字。三越百貨店でのオーダーメイドのようです。三越さんではそんなこともやっていったのですね。

かつてあった江渡狄嶺研究会という組織、それからミキが書き残したものなどに、光太郎に関する記述がけっこうあるようで、光太郎と江渡夫妻に関しては、今後の研究課題としておきます。


三蔦苑跡も、館からさほど遠くはないようなのですが、昨日の東京は豪雨でして、そちらはまたのちの機会にと思い、次なる目的地、台東区立中央図書館さんを目指しました。

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まず、このブログで過日ご紹介した、企画展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見。

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光太郎の父・光雲が深く関わった内国勧業博覧会に関し、明治初期の錦絵や、関連書籍をまとめて置いて下さってあり、興味深く拝見しました。

それから、同じフロアで吉原遊郭関連の資料もまとめられているという情報を得ていましたので、そちらを調べるのも目的でした。

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光太郎は欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)、吉原河内楼の娼妓・若太夫と懇ろになり、彼女を「モナ・リザ」と呼び、「失はれたるモナ・リザ」「地上のモナ・リザ」などの詩を書きました。それを読んだ作家の木村荘太(光太郎とともにヒユウザン会を立ち上げた画家・木村荘八の兄)が若太夫にちょっかいを出し、三角関係、決闘騒ぎなどとなります。結局、若太夫は木村を取りますが、年季が明けた後、郷里の名古屋に帰り、木村ともそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳しく書かれています。

この若太夫、そして河内楼について、調べました。特に、光太郎が「モナ・リザ」と呼んだ彼女の写真等を見つけたいと思っているのですが、なかなか見つかりません。

『新吉原細見』という、遊郭全体の在籍女性のリストが発行されており、そこに写真が載っている娼妓もいます。こちらは明治34年(1901)、光太郎が通う10年前のものです。

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巻頭のグラビア的なページに、何人かの写真がピックアップされて載っています。左は河内楼の「小町」。

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右は当方が以前から持っている明治24年(1891)発行の石版画で、やはり河内楼の「しら露」。上記細見にも「白露」の名がありますが、同一人物か、先代か、はっきりしません。

こんな感じで若太夫を探していますが、結局、明治43年(1910)前後の細見が所蔵されておらず、昨日も見つけられませんでした。一番近いものでも上記の同34年のものでした。

その代わりゲットできた、絵図の画像、地図、河内楼の写真など。

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下記はこれも当方が以前から持っている河内楼の古絵葉書。宛名面の様式から、明治40年(1907)~大正6年(1917)のものと判定できます。破風の形が上記写真とも一致しています。

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この若太夫、河内楼についても、継続的に調べていこうと思っております。


その後、神保町の学士会館で、公開講座「高村光太郎の短歌」を拝聴しましたが、そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

耕す者の手を耕す者にかへせ。 太陽を売らんとする者よ滅べ。

詩「不許士商入山門」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

江渡や水野葉舟ら、「農」に軸足を置いた友人知己を限りなく敬愛していた光太郎。農民の手から鋤や鍬を取り上げ、代わりに銃器を持たせる徴兵制への抗議とも取れます。

ほどなく、智恵子の心の病の顕在化と、その死に伴い、その空虚感を埋めるがごとく、翼賛側に転向していくのですが……。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの土曜版。不定期に掲載される芥川賞作家の又吉直樹さんによる文学散歩的なコーナー「又吉直樹のいつか見る風景」。ちらりと光太郎の名を出して下さいました。

又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)

004 日本橋の中央に全国への道路元標というものがある。道路でよく目にする「東京 500キロ」「東京 27キロ」と距離を示す標識の「0キロ地点」が日本橋だということだ。クイズとして、「あの標識はどこまでの距離?」と誰かが出題してくれないかと密(ひそ)かに期待しているのだが、まだその機会には恵まれていない。鮮やかに「日本橋!」と答える準備はできている。きっと、出題するまでもなくよく知られたことなのだろう。だが、その日本橋の下から舟に乗り遊覧できることはあまり知られていないのではないか。
 先日、そこから舟に乗った。「日本橋川」の上は高速道路が走るため、空はよく見えない。出発してすぐに鎧(よろい)橋がある。明治末、「パンの会」という新しい芸術の精神を持った若者(木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎など)が集まったカフェ「メゾン鴻の巣」が近くにあった。
 沿岸の建物のほとんどは川に背を向けていて、非常階段で喫煙している人の脱力した表情が印象に残った。かつては江戸城まで物資を運搬する水路だったが、現在は日常の裏側なのかもしれない。ところが、「隅田川」に出ると一気に視界がひらけて爽快だった。
(略)
 東京都心の川を、小型の船(舟)でめぐるクルーズが、いま人気だ。神田川の支流、日本橋川にかかる日本橋の船着き場からは、土日ともなると、多くの乗り合い便が発着している。
 今回は、船をチャーターし、NPO法人水都東京を創る会(suito.or.jp)のガイドで、江戸から近代にかけ、流域で花開いた文学活動の残り香を訪ねる旅、と決め込んだ。江戸橋、鎧橋と下り、隅田川へ出て、江戸入りした徳川家康が、日本橋川とともに造成した「塩の道」の小名木川へ。河口の万年橋の近くには、現在も芭蕉記念館が。扇橋閘門の先で折り返し、もと来た川を戻り、佃島を望みながら亀島川から再び日本橋川へ。約90分の旅だった。


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長いので省略しましたが、日本橋から扇橋までの船旅のレポートになっています。

日本橋から下流に向かうと、すぐ江戸橋、続いて鎧橋です。レポートにあるとおり、鎧橋際には、西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」がかつてあって、北原白秋木下杢太郎らが始めた芸術運動「パンの会」の会場として使われていました。明治42年(1909)、欧米留学から帰った光太郎もたちまちその渦に巻き込まれ、気焔を上げています。
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明治43年(1910)11月20日、日本橋の三州屋で行われた大会では、劇作家・詩人の 長田秀雄の入営壮行会を兼ねたものでしたが、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」 の貼り紙――幟(のぼり)という説もあり――に、光太郎が黒枠を描き込んだため、「萬朝報」に取り上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と糾弾されました。翌月に大逆事件の大審院第一回公判を控えていた時期であり、当局も過敏でした。

さらに同日、実際にはやりませんでしたが、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって、作家の木村荘太(画家・荘八の兄)と決闘騒ぎになりかけたりもしています。

このあたりは、木村の書いた小説『魔の002宴』(昭和25年=1950)に詳述されています。

さて、又吉さんのクルーズ。船をチャーターしてのものだったそうですが、いくつもの会社がクルーズ船を運行しています。チャーター便、その場で直接申し込む乗り合い便、一人でもOKというものもあります。

これまでもテレビの旅番組的なもので取り上げられており、レポーターの皆さん、一様に川から東京の街並みを観る新鮮さに驚きの声を上げていました。

機会を見つけて利用してみたいものです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

星が一つ西の空に光り出して 天が今宵こそ木犀色に匂ひ 往来にさらさら風が流れて 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる さういふ秋がやつて来たんだ

詩「秋が来たんだ」より 昭和
4年(1929) 光太郎47歳

関東は昨日梅雨入りだというのに、季節外れですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を探していますので、こういうことも起こります。

どちらかというと、光太郎は「述志」の詩人と捉えられがちで、力強く自己の内面を表出した作品が多いのは確かです。

しかし、それにとどまらず、こうした何気ない詩句の中に、非常に美しい自然の描写などがあり、これもまた一つの光太郎詩の魅力です。

このブログ、このところ、東日本大震災ネタで来ましたが、3.11当日、当方、都内に出ておりました。

文京区立森鷗外記念館コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」の展示関連講演会 「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」を拝聴のためです。

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昼過ぎに千駄木に到着、鷗外記念館さんのすぐ近くにある、巴屋さんというお蕎麦屋さんで昼食を摂りました。こちらはかつて、光太郎の実家によく出前を届けていたというお店です。

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天麩羅蕎麦1,100円也をいただきました。

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いざ、森鷗外記念館へ。かつての鷗外邸、観潮楼の跡地で、近所に住んでいた光太郎も、歌会に参加したり、鷗外に呼びつけられたりで何度か訪れています。

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講演会は2階講座室での開催。定員50名の募集でしたが、ほぼ満席でした。

講師は与謝野夫妻のご研究の第一人者、逸見久美先生。演題は「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」ということでした。

文久2年(1962)生まれの鷗外と、明治6年(1873)生まれの与謝野鉄幹、そして同11年(1878)生まれの晶子。まずは鉄幹が、鷗外共々尊敬していた落合直文の紹介で、鷗外の知遇を得ます。鷗外も鉄幹の才を認め、その著書の序文を執筆してやったり、新詩社に関わったり、大正期の『明星』復刊の際にも力を貸したりしました。また、光太郎も参加した観潮楼歌会は、相反する歌人達の融和を図るというのも目的だったそうです。

009鉄幹は、鷗外を敬愛し続け、その逝去に際しては葬儀委員長を務め、歿後には『鷗外全集』の刊行に尽力しました。

そのあたり、非常にわかりやすいお話で、光太郎も登場し、興味深く拝聴しました。乱暴なたとえをすれば、後の光太郎と草野心平の関係のようなつながりが、鷗外と鉄幹にあったといえるのでは、と思いました。

その他、逸見先生のお父様で、『週刊朝日』の編集長だった翁久允の話題も出ました。ちなみに、久允あての光太郎書簡も遺っており、以前に情報をご提供いただいています。で、久允は晩年の竹久夢二を援助をし、幼い逸見先生を描いた夢二の絵も残っているとのこと(プロジェクタで拝見しました)。昨年には風間書房さんから『夢二と久允』というご著書が刊行されていました。こちらは存じませんでした。早速購入いたします。皆さんもぜひどうぞ。

下は講演会終了後、逸見先生を囲んで。当方は写っていません。
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以前にもご参加いただきましたが、4月2日の連翹忌にご参加下さるとのことで、ありがたいかぎりです。逸見先生のお話をお聴きしたい、という方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おとなしさうで、いたづらさうで、 役に立ちさうで、遊びたさうで、 あらゆる可能性がしまつてある君のからだは 海にこぎ出すボオトのやうだ。

詩「少年を見る」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

子供に恵まれなかった光太郎智恵子夫妻でしたが、光太郎はこのように、少年や少女に対する温かい眼差しをモチーフとした詩も、けっこう書いています。

昨日に引き続き、光太郎周辺人物に関する展示情報です。

コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」

会 期 : 2017年2月2(木) ~ 2017年 4月2日(日)
場 所 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
休館日 : 2月27・28日(月・火)、3月28日(火)
料 金 : 一般300円(20名以上の団体:240円)
         ※中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

  文豪・森鴎外は、大正十一年七月九日午前七時、自宅観潮楼でその生涯を終えました。
 死の間際まで職務に励み、また著作のための調査に努め、自らの不調を自覚しながらも診療を拒み続けました。鴎外は死に直面しながら、どのような心持ちで最期の日々を過ごし、どのような言葉を遺したのでしょうか。当館には、鴎外の終焉に関する資料が多数遺されています。これらの資料を一挙展示し、鴎外逝去までの日々に迫ります。
 鴎外逝去から十余日後、鴎外の葬儀委員長を務めた与謝野寛のもとに、『鴎外全集』刊行の企画が舞い込みました。寛は、鴎外と親交の深かった平野万里や永井荷風らを中心とした編集会を結成し、『鴎外全集』刊行に着手します。鴎外顕彰の第一歩とも言える『鴎外全集』刊行の経緯を、与謝野寛の書簡を中心に辿ります。
 鴎外が、死してもなお人々の記憶に残り、現代まで顕彰され続けるのは、鴎外を親しみ敬ってきた先人たちの尽力にほかなりません。鴎外終焉の地であり、鴎外の業績を顕彰する文京区立森鴎外記念館で、生から死へ、死から再生へと向かう鴎外の姿を追います。

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関連行事

ギャラリートーク  展示室2にて当館学芸員が展示解説を行います。
平成29年2月15日、3月8日、22日 いずれも水曜日14時~(30分程度) 申込不要(展示観覧券が必要です)

展示関連講演会  「与謝野夫妻の崇敬の師 森鴎外」 講師:逸見久美氏(元聖徳大学教授)
 日時:平成29年3月11日(土)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館2階講座室
 定員:50名(事前申込制)
 料金:無料
 申込締切:平成29年2月24日(金)必着


展示も興味深いのですが、当方、関連行事の講演の方に興味をひかれております。

講師の逸見久美先生は、与謝野夫妻のご研究の第一人者。当方、二度、ご講演を拝聴いたしました。
どちらも素晴らしいご講演でした。

また、個性派女優の渡辺えりさんご同様、お父様が光太郎と交流がおありで、そのため連翹忌にもご参加下さっています。

さらに、一昨年には、NHK Eテレさんで放映された生涯教育の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の「第2回 愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子」にご出演。

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同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」でした。そこで少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきましたが、NHKさんに仲介して下さったのが逸見先生でした。

そうした恩義もありますし、それぞれ光太郎の師である与謝野夫妻と鷗外に関わるご講演ということで、参上いたすべく考えております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いのる言葉を知らず ただわれは空を仰いでいのる 空は水色 秋は喨喨と空に鳴る
詩「秋の祈」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

季節外れですみません(笑)。このコーナー、『高村光太郎全集』を第1巻からほぼ掲載順に、「これは」と思うフレーズを書き出していますので、こういう現象が起こります。しかし、「早春」もまた喨々と空に鳴っているような気もします。

詩「秋の祈」は、光太郎第一詩集『道程』のために書き下ろされたと推定されます。この後、光太郎はしばらく詩作の筆を置きます。評論や随筆などの散文は書き続けますが、一番金になったということで、ロダン関係などの翻訳が目立ちます。しかし、ただ金のためではなく、翻訳を通し、自らの芸術論を固めていったと思われます。

一昨日、昨日と、ATV青森テレビさんの撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

予定では暮れも押し詰まった12月29日(木)、16:55から、同局で「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」という30分番組が放映されることとなり、旧知の同局アナウンサー、川口浩一氏がレポーター役でご出演、当方に協力要請があった次第です。

十和田湖周辺が国立公園指定80周年というわけで、同じく15周年を記念して制作された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を特集する番組です。これまでに十和田湖、花巻でのロケが終了、そして東京で、というわけです。

ゆかりの場所の全てをまわったわけではありませんが、さながら都内光太郎文学散歩的な2日間でした。

一昨日、上京して来られる青森テレビさんと上野駅で待ち合わせ。予算の関係で、クルーはディレクター氏と川口氏のお二人だけです。ディレクター氏おん自らカメラを回すとのこと。それでも青森の局が東京まで取材に来るというのは異例のことだそうです。

上野で昼食を摂りました。どうせですので、光太郎の父・光雲が制作主任を務めた西郷隆盛像近くのお店に入りました。

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スカイツリーとのツーショット。

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上野公園内、紅葉と、それから画像ではわかりにくいのですが、桜も咲いていました。

JR、東京メトロ千代田線と乗り継いで、光太郎が永らく住んだ文京区千駄木に向かいました。

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団子坂を上って右に曲がり、旧駒込林町、光太郎のアトリエ跡地へ。

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現在は一般の民家が建っています。

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すぐ近くの光太郎実家。
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こちらは現在も高村家です。光太郎が幼い頃からあったという椎の木も健在。

団子坂方面に戻ります。天保年間創業のそば屋・巴屋さん。よく光太郎実家に出前を届けたそうです。

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青鞜社跡地、それから現在は記念館となっている森鷗外旧宅跡地。
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団子坂を下りると、明治8年(1875)創業の「菊見せんべい」さん。

光太郎も買いに来たという話がありますし、少年期、ここの看板娘さんが気になって気になってしょうがなかったそうで、美術学校への行き帰り、顔が赤くなって困るので、わざわざ遠回りしたそうです。光太郎、ウブでした(笑)。

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そして、やはり千駄木の、当会顧問・北川太一先生宅に。こちらで北川先生と当方のインタビューを収録しました。

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北川先生には、インタビューというより、事前に「こういうお話を……」と伝えておき、カメラは回しっぱなしで自由に語っていただきました。おん年91歳ですが、語り出したら止まらないもので(笑)。結局この日も、1時間以上、光太郎について熱く語って下さいました。やはり、生前の光太郎本人をご存じの方のお話は違います。

この日はここまで。


翌日(昨日)は、朝、中野駅で待ち合わせ。光太郎終焉の地にして、「乙女の像」が制作された中西家アトリエへ。

昭和23年(1948)、新制作派所属の水彩画家・中西利雄が建てたアトリエですが、中西自身が早逝してしまい、昭和27年(1952)から光太郎が借り受けました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチも借りていました。ノグチの妻は、一昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんでした。

そしてここは、光太郎一周忌の昭和32年(1957)、草野心平らの呼びかけにより、第一回連翹忌が開かれた場所。いわば当会発祥の地です。

まずは旧桃園川だった緑道(現在は暗渠)から撮影。

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中に入れていただき、中西画伯の子息・利一郎氏に取材。氏は「乙女の像」制作中の光太郎を間近にご覧になっていた方です。

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中西家に遺る、光太郎ゆかりの品々も撮影させていただきました。

左・中西夫人と光太郎。右・花巻郊外太田村から中西夫人に宛てた葉書。「これからお世話になります」的な。

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左・中西夫人に託した買い物メモ。右・利一郎氏ら、お子さんたちへのお年玉の熨斗袋。といっても、原稿用紙を折りたたんで作られています。こういう生活臭のある物、いいですね。

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昼になったところで辞去。昨年も中西家にお邪魔してお話を伺いましたが、今回、その際には出なかったお話も聞け、実に有意義でした。

この他にも、光太郎が学んだ日暮里尋常小学校(現・第一日暮里小学校)や東京美術学校(現・東京芸大)、智恵子が学んだ日本女子大学校(現・日本女子大)、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡(南品川)、駒込染井霊園の高村家墓所などなど、ゆかりの地をあげればきりがありませんが、さすがにそこまで廻る余裕はありませんでした。

番組は先述の通り、12/29のオンエアです。また近くなりましたら詳細をお伝えします。


【折々の歌と句・光太郎】

うづだかき泥をひねもすこねしかばかひな太ももふとりて張りけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

「泥」は彫刻用の粘土です。駒込林町のアトリエで、彫刻制作に脂の乗っていた時期の短歌です。

光太郎が永らく住んだ東京都文京区からイベント情報です。

文(ふみ)の京(みやこ)ゆかりの文化人顕彰事業 史跡めぐり 「千駄木ゆかりの文人を訪ねて」

文京ふるさと歴史館友の会「文京まち案内」ボランティア・ガイドの解説により、没後60周年を迎えた高村光太郎のアトリエ跡をはじめ高村光雲・豊周旧居跡など千駄木周辺にある文化人ゆかりの地を訪ねます。森鴎外記念館では展示についての説明を聞いたのち、館内を自由に見学できます。

期 日 : 平成28年12月3日(土)  
時 間 : 午後1時~4時(雨天決行)
コース : 森鴎外記念館(集合場所) 団子坂、講談社発祥の地、須藤公園、
      高村光太郎アトリエ跡青鞜社跡、夏目漱石旧居跡、藪下通り、
      森鴎外記念館(自由見学)ほか 約2km
対 象 : 高校生以上
定 員 : 50人(超えた場合は抽選)
料 金 : 40円(傷害保険料)
申 込 : 往復はがき(1枚につき2人まで)に「12/3史跡めぐり」・全員の住所・
      氏名(ふりがな)・年齢・電話番号と返信用にも宛名を明記し、
      文京ふるさと歴史館〒113-0033東京都文京区本郷4-9-29 03-3818-7221)へ 
締 切 : 平成28年11月24日(木)必着

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ゆかりの文人を多く抱える文京区さんならではの取り組みですね。

うっかり紹介が遅れ、申し込み〆切が過ぎてしまいましたが、まだ定員に届いていない可能性もあります。「区民」に限る的な条件はないようです。


【折々の歌と句・光太郎】

かくてわれ狂はむものか旅やかたあられふる朝雁みだれなく
明治34年(1901) 光太郎19歳

関東は昨日の雪から一転、快晴です。しかし、ベランダの手すりなど、水滴が凍り付いていました。

気付くのが遅れ、もう始まっています。

切手の博物館開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」

期  日 : 2016年11月3日(木・祝)~11月6日(日) 
会  場 : 切手の博物館 東京都豊島区目白1-4-23
時  間 : 10:30~17:00
料  金 : 大人:200円、小中学生:100円   障がい者の方は無料

著名人たちの直筆の手紙や、切手原画が大集合。名優や大作家、歴史の偉人たちと郵便にまつわる貴重な展示です。

<著名人の切手原画> 著名人の切手原画を展示予定です。所蔵先、郵政博物館。
 野口英世、夏目漱石、福沢諭吉、正岡子規、岡倉天心、宮沢賢治ほか

著名人の手紙>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 映画・・・高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治
 画家・作家・・・棟方志功、岸田劉生、高村光太郎、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎

<風景印の中の有名人>展示内容 ※展示内容は変更になる場合があります。
 石川啄木、福沢諭吉、野口英世、徳川光圀、小野小町、宮本武蔵ほか

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というわけで、光太郎の書簡も展示されているようです。誰に宛てたいつのものかなど、詳細は不明ですが、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性もあります。

4日間だけの開催、もったいないような気がしますが……。

たまたま11/6は、隣接する文京区、文京シビックセンターさんの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を見に行く予定でしたので、こちらにも廻ってみます。

レポートはのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

金あらば金をかへしてあなにやしこんな仕事は止さましものを
大正15年(1926) 光太郎44歳

このところ続けてご紹介してきた「腹が減る」シリーズの亜流ですね。「~ば~まし」は反実仮想。「あなにやし」は「ああ、なんと すばらしいことよ」。

「充分な金さえあれば、もらった金を叩き返し、こんな仕事はやめて、すっきりするものを……」といったところでしょうか。

この頃、俗物と蔑むような成金からの肖像彫刻の依頼があったりし、そのあたりに関わりそうです。

10月も後半に入りましたので、少しずつ現在把握している11月のイベント等を紹介していきます。

まずは光太郎智恵子が長く住んだ文京区から。 

平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人

期  日 : 2016年11月6日(日)~11月14日(月) 無休
会  場 : 文京シビックセンター1階 アートサロン  文京区春日1‐16‐21
時  間 : 午前10時~午後6時(最終日は午後5時まで)
料  金 : 無料

 詩人、童話作家として著名な宮沢賢治と彫刻家、詩人として名を馳せた高村光太郎。ともに文京区にゆかりのある二人が直接会ったのは、駒込林町(現:千駄木)の光太郎のアトリエ前でのことでした。この立ち話程度の出会い以外に二人が会うことはなく、親しく交流するようなこともありませんでした。しかし、二人をつなぐ結びつきは賢治の晩年から死後に強まり、お互いにとって重要な存在になっていきます。賢治作品を読んだ光太郎は賢治を「真の詩人」と激賞し、自身の詩作にも影響を受けます。一方、ほとんど無名のまま世を去った賢治が広く世に知られるのに大きな役割を果たしたのが光太郎でした。
 本展は、平成28年に賢治の生誕120周年、光太郎の没後60周年を迎えるのを記念し、文京区が誇る二人の生涯や創作活動、文京区との関わりを辿りながら、二人がどのように関わりあい、どんな影響を与え合ったのかを紐解いていきます。


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関連行事

公開講座 「宮沢賢治と高村光太郎――千駄木での出会いとその後の詩的交流」

 展示作品の制作背景や作者の人柄など、作品を見るだけではわからない情報を、関係者の方に作品の前で語っていただくギャラリートークを開催します。

講師:中里まき子 氏(岩手大学人文社会科学部准教授)
日時:平成28年11月6日(日曜日)午後2時から午後4時(予定)
会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
対象:文京区内在住・在勤・在学者
定員:100名
費用:無料


文京区は江戸の昔からのお屋敷町もあったことからゆかりの文人も多く、しかも夏目漱石、森鷗外、樋口一葉ら、いわば光太郎より「格上」の人々が含まれているため、光太郎はある意味、影が薄いイメージです(笑)。したがって、区として光太郎の顕彰を積極的に、というレベルには至っていません。

が、時折、こうした形で取り上げて下さることがあり、有り難いところです。まあ、今年は生誕120年の賢治ブームですので、賢治と交流のあった数少ない文士の光太郎もセットで、というところでしょうか。グルコサミンサプリメントに、今なら何とアミノ酸ナントカもおつけします、的な(笑)。

ただ、開催期間があまり長くないのが残念です。貴重な機会ではありますので、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

堂のかげふと知る才のわづらひや雨の夕鐘唐招提寺
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日に引き続き、東京美術学校での奈良京都修学旅行での作です。奈良の唐招提寺は、鑑真和上坐像をはじめ、あまたの仏像が国宝に指定されています。それらを観て圧倒される若き光太郎の姿が浮かびます。

こちらも少し前、今年5月刊行の書籍です。光太郎、父・光雲の、いわばホームグラウンドであった浅草に関するものです。 
2016年5月27日 勉誠出版 定価2,800円+税
金井景子・楜沢健・能地克宜・津久井隆・上田学・広岡祐 著

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数々の低迷と隆盛を経た浅草はどのように描かれてきたのか。
浅草を舞台とした小説や映画、演芸、浅草にゆかりのある人物を中心に、明治から現代までの浅草、あるいは東京の文化が形成される軌跡を辿る。
昔のものが消えても、苦境を乗り越え、新たなものが参入し、それが人を呼び寄せていく。
様々な文芸作品と100枚を超える写真から、〈かつての浅草〉と〈現在の浅草〉を結びつける!


目次
 はじめに

 巻頭インタビュー
 作家戌井昭人氏に聞く 浅草という体験
 「十和田」の冨永照子さんに聞く 「浅草」をつなぐおかみさんの声

 浅草文芸選
 外国人の見た幕末・明治の浅草
 ロバート・フォーチュン『幕末江戸探訪記 江戸と北京』ピエール・ロチ『秋の日本』
 明治四十一年の江戸情調  木下杢太郎『淺草觀世音』『淺草公園』
 隠蔽する十二階/暴露する瓢簞池  室生犀星「幻影の都市」
 九月、浅草の公園で  江馬修「奇蹟」
 凌雲閣から見えない浅草  江戸川乱歩「押絵と旅する男」
 「感情の乞食」が浅草で拾ったものは何か  川端康成『浅草紅団』
 現在を語ることの難しさ  堀辰雄「水族館」
 あの機械は、機械の悲しさにたとえ宮様のお通りでも、十銭入れなきゃ廻らないんだ
   貴司山治「地下鉄」
 靴と転業をめぐる「マジな芝居」は書かれたか  高見順『東橋新誌』
 ぼっちゃん、おじょうちゃんへの浅草教育  幸田文「このよがくもん」
 行き場のないフラヌールの邂逅  水木洋子・今井正『にっぽんのお婆あちゃん』
 浅草の美、その映像的表現  加藤泰・鈴木則文『緋牡丹博徒 お竜参上』
 ハダカと浅草の遠近法  井上ひさし「入歯の谷に灯ともす頃」
 浅草の「見世物」から浅草という「見世物」へ  寺山修司「浅草放浪記」
 墨堤からながめる浅草  沢村貞子『私の浅草』
 吾妻橋コレクション  半村良『小説 浅草案内』
 芸人によって重ねられた都市の年輪  ビートたけし『浅草キッド』
 焼跡と復興と、戦災孤児のゆくえ  木内昇『笑い三年、泣き三月。』

 コラム
 奥山の伝統をつないだ風狂の人
 浅草一丁目一番地の愉楽―神谷のバアと朔太郎と
 劇場・陋巷・探偵趣味
 震災と浅草―復興と明治の終焉
 パロディと幻想―エンコの六・江戸川乱歩・浅草紅団
 演歌の〈誕生〉―神長瞭月と浅草の映画館街
 吾妻橋西詰のモダニズム―永井荷風『断腸亭日乗』の浅草風景
 モダン浅草の残像をたどる
 浅草にマリアがいた―北原怜子と「蟻の街」
 浅草みやげ
 路上の叡智―添田啞蟬坊・知道『浅草底流記』
 映画のなかの〈写された/作られた〉浅草
 地上げと原っぱ―八〇年代浅草の、とある風景
 〈見世物〉としての演芸―小沢昭一の叙述から
 浅草への陸路―雷門から入る啄木/雷門から入らない犀星
 浅草の銭湯・温泉
 浅草の祭り

 浅草散歩
 ①浅草をちょっと知っているつもりの先生と初めて浅草を訪れる学生の半日
 ②歌舞伎女子、新春の浅草にお芝居と歴史を訪ねる
 ③落語家・金原亭馬治さんと歩く浅草

 浅草の石碑を歩く
 浅草寺新奥山―記念碑・句碑でたどる浅草
 明治二五年の正岡子規を想う
 川柳発祥の地碑―川柳こそ浅草の文学
 鳥獣供養碑―震災の傷跡
 驚きの発見

 人名・書名・作品名索引


光雲・光太郎父子をはじめ、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎、夏目漱石、萩原朔太郎、室生犀星、森鷗外、与謝野晶子ら、関連人物が続々登場、いにしえの少し怪しい浅草が生き生きと描き出されています。

光雲に関しては、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、光太郎に関しては詩「米久の晩餐」が取り上げられています。ただ、残念なことに、光雲と光太郎を混同している記述もあり、目を疑いました。個人の方のブログなどでは時々あるのですが、公刊された書籍ではめったになく、なんだかなあ、という感じでした。

何はともあれ、この書を片手に浅草の街歩きというのもいいかと存じます。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

茄子胡瓜きりぎりすほど食慾にけだし喰へどもわが痩せにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

身長180センチ以上あった光太郎ですが、横幅は確かにあまりなかったようです。差別的な意図はありませんが、やはり「あんこ型」の愛の詩人、というのは想像しにくいところがあります(笑)。

ところで当方、暑いのでアイスやらアイスコーヒーやらで、少々夏太り気味です(汗)。暑かったり、ひっきりなしに台風が来たりで、愛犬との散歩も春秋より距離が短めですし……。

今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。 

天鐘(8月2日)

 1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。


当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。

その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。

ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。

光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。

昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。

下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。

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同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。

   報告   
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 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。


画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。

しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。

乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。

さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

先週、NHKさんの首都圏版ローカルニュースをたまたま見ていて、気になるニュースに出会いました。 

老舗料亭が文化人ゆかりの調度品競売 収益は桜再生に

文豪、川端康成などの文化人が通ったことでも知られる東京・千代田区の老舗の料亭が近くに移転縮小するのに伴い、調度品の数々をオークションで販売して、その収益を地元の桜並木の再生事業に役立てることになりました。
千代田区紀尾井町にある「福田家」は昭和14年の開業以来、ノーベル文学賞を受賞した川端康成や物理学賞の湯川秀樹などの文化人のほか、歴代の総理大臣も通ったことで知られる料亭です。
今回、近くに移転し、規模を縮小することから由緒ある調度品およそ300点をインターネットのオークションで販売することになりました。
このうち、川端康成から譲り受けた角皿はかつて、かっぽう旅館だった料亭に本人が宿泊した際に気に入られていた先代のおかみが渡されたものだということです。
また、芸術家で美食家としても知られる北大路魯山人から譲り受けた湯飲みもあります。
このほか、店で使われてきた鉄瓶や高さ2メートル50センチもある振り子時計など、いずれも歴史の重みを感じさせる品々です。
収益の一部は古くなって傷んだ地元の桜並木を再生する区の事業に寄付されますが、先々代の経営者も桜への愛着が深く、桜の名所として知られる真田濠に植えた桜の苗木100本を寄贈した経緯もあるということです。
オークションはすでに始まっていて、ことし7月31日まで行われる予定です。料亭を経営する福田貴之さんは「祖父が寄贈した桜も年を重ねたので、寄付金で整備してもらい、多くの観光客に楽しんでもらえたら」と話していました。


紀尾井町の福田家さん。一昨年のこのブログでご紹介しました。昭和27年(1952)の10月に、光太郎と、元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよによる座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」が行われ、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。昭和27年(1952)10月といえば、光太郎が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手花巻郊外太田村から再上京したばかりです。

その際に、この年5月に亡くなった福田家さんの先代女将、福田マチが、太田村在住時の光太郎に大量の食料を贈っていたことが判明しました。判明、というと変ですが、贈り主が福田家の女将だったと判明したということです。

以前にも引用しましたが、もう一度、『主婦之友』の記事から。

「この世は美しいよ。やつぱりいゝことはするもんだなあ」
 と感激性のH記者。老詩人高村光太郎先生を囲む座談会から先生を送つて帰社するなりひどく感心した様子で語り出した――
 座談会は、千代田紀尾井町の福田家といふ旅館で開いたが、座に着いた高村先生
「僕の山の家へね、食糧不足のころ、二度も沢山の食物を送つてくれた人があるんです。紀尾井町の福田さん……この家ぢやないかな」
 と感慨深さう。
 女中さんに聞いてみると、やつぱり先生の推察どほり、贈主は、この五月に亡くなつた先代主人福田マチさんだつた。
 福田さんは隠れた篤行で、これまでもしばしば話題になつた人、新聞か雑誌で高村先生の御生活を読んだことから、慰問品を送つたものらしい。
「お礼も云はず失礼したが……」
 高村先生は滅多に書かれない筆をとつて、福田家さんのために「美ならざるなし」と色紙に認め、心からほつとした面持。
 偶然選んだ会場ながら、思はぬ美しい因縁話で、かくはH記者を感心させた次第だつた。


一度目は、昭和25年(1950)9月でした。この年の光太郎日記は大半が失われていますが、郵便等の授受を記録した「通信事項」というノートが残されており、そこに記述がありました。

福田マチさんといふ人より書留小包(抹茶、茶筌、牛肥菓子一折、放出ものスープ2罐、焼きのり一罐、つけもの一瓶)

前日には封書が届いた旨の記述もあります。

福田マチさんといふ人よりテカミ(よみうりを見たといふ事)

おそらく、『読売新聞』あたりに光太郎の山小屋生活を報じる記事が出、それを読んだ女将が食料を贈ったということなのでしょう。

008光太郎、小包を受け取った日に、すぐに礼状を返信しています。

また、もう一度、同程度の食料が届いたようですが、こちらは翌年以降のようで、昭和25年(1950)の「通信事項」に記述がありません。「通信事項」は日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)の分のみ、『高村光太郎全集』第13巻に掲載されています。

のちに福田家さんがマチの顕彰のために私家版刊行した冊子に、光太郎から贈られた色紙の写真が掲載されています。


さて、その福田家さんが、調度品類約300点をオークションに出品とのこと。

調べてみましたところ、Yahooさんのオークション「ヤフオク!」に、【紀尾井町福田家】ということで、さまざまなものが出品されています。

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報道では「およそ300点」とありますが、300点、一気に出品というわけではなく、小出しにしているようです。そこで、「ことし7月31日まで行われる予定」ということなのでしょう。もしかすると、昭和27年(1952)に光太郎がこちらを訪れた際に使用した椅子や食器なども含まれているかも知れません。

「収益を地元の桜並木の再生事業に役立てる」というのが素晴らしいですね。調べてみたところ、この桜並木は、マチの13回忌を記念して、昭和39年(1964)に献木されたそうです。

川端康成から贈られた皿なども出品されたようで、もしかすると、今後、完全に光太郎がらみの品も出て来るかも知れません。注意していたいと思います。

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【折々の歌と句・光太郎】

石像に雨ふる日なり衣がへ       明治42年(1909) 光太郎27歳

5月ももうすぐ終わり、6月の声を聴くことになります。となると、衣替えですね。

ただ、昨今は「クールビズ」とかで、5月にはノータイ、上着無しという職場も多いようですし、中高生の制服も、昔のように杓子定規でなく、5月末から6月はじめは夏服でも冬服でも、という柔軟な対応が為されているようです。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎004氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・髙村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などはほとんど残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。

光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。

氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会さんの主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。

東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

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会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

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さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

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藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

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こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。

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素晴らしい!

こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。

ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。

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比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。

旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉淵学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。

さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

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そして、近くの東京国立博物館さんへ。

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先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。

約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。

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やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。

ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。

こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。

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考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。

というわけで、有意義な上野散策でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。

椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、

駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

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こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。

ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。

東京の大田区、品川区の地域情報誌で『月刊おとなりさん』という雑誌が刊行されています。そちらの今月号(3月号)で、智恵子が特集されていました。題して「特集 智恵子愛と芸術の生涯」。ただし、今月号ではありますが、最新号は4月号がもう出ています。定価は257円。お買い得です。

このところ、このブログで紹介すべきネタがたくさんあり、1日1ネタとしても半月先まで書くことが決まっています。「俺が教えたあのネタがまだ書かれていないけどどうなってるんだ?」という方がいらっしゃるような気がしますが、順次ご紹介しますのでご寛恕の程。この雑誌も少し前に入手していたのですが、若干紹介が遅れました。

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なぜ大田区・品川区の地域情報誌で智恵子の特集なのかというと、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院が品川にあったからです。

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現在はマンションが建ち並ぶ一角となっていますが、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」を刻んだ碑が建っています。

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そんなこんなも含め、智恵子の生涯や故郷・二本松のレポートなどで、14ページ。オールカラーで美しくまとまっています。目新しい内容が書かれているわけではありませんが、一般向けにはこれで十分だろうという感じです。

先ほども書きましたが、このところ、このブログで紹介すべきネタが、あとからあとからたくさん出て、嬉しい悲鳴です。先月のNHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア」が火をつけたかな、と感じていますが、どうなのでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

昭和55年(1980)の今日、アトリアム銀座・ラ・ポーラ主催の総合企画展「光太郎と智恵子―その愛」の一環として、ブリヂストン美術館政策の映画「高村光太郎」(昭和28年=1953)の上映と、女優・五大路子さんの光太郎詩朗読が行われました。

「総合企画展」ということで、1週間の期間中、造形作品、詩稿、資料の展示の他、歌曲コンサート、彫刻家の故・高田博厚氏と北川太一先生のトークショーなどが行われました。

先週土曜日、東京国立博物館黒田記念館を後にして、谷中、根津を経由して徒歩で本郷に向かいました。このエリアには当方の好きなレトロな建物がよく残っており、大好きな街の一つです。
 
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さて、日展の新会館前を過ぎ、現在の谷中6丁目。総持院という小さなお寺があります。このあたりの一角で、少年時代の光太郎とその一家が暮らしていました。明治23年(1890)~同25年(1892)のことです。ただし、光太郎の住居があった場所そのものは道路になってしまっているそうです。
 
明治22年(1889)に、光雲は東京美術学校に奉職することになって、翌年、仲御徒町から谷中に転居、このあたりから通勤していました。光太郎は日暮里小学校(現・第一日暮里小学校)に転校、尋常小学校の課程を終え、高等小学校の課程は下谷小学校に通いました。
 
この谷中での約3年間に、光太郎一家にはさまざま001な出来事がありました。弟の豊周と孟彦(藤岡家に養子)が生まれたのもこの時期です。光雲は帝室技芸員を拝命、楠公銅像の木型制作主任となり、さらにシカゴ万博に出品された重要文化財「老猿」もここで作られました。
 
しかし、光太郎の姉のさくが肺炎で歿したのも、ここ谷中で、光雲は目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた娘の死に落胆、つらい思い出の残る谷中を引き払って、千駄木に移ります。
 
さて、光太郎に「谷中の家」という散文があります。昭和14年(1939)、雑誌『新風土』に掲載されました。一部、抜粋します。
 
 家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄りの法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。
 私の少年時代の二三年はここで過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ち やん、隣のお梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣のお梅ちやんなどとまま事をした り、石置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつこいくさごつこをやつた。
 
そんなこんなに思いを馳せながら、谷中を通り過ぎ、根津へ。
 
谷中の光太郎旧居周辺は最初から通るつもりでしたが、根津では人の流れに乗って、当初行く予定ではなかった根津神社に参拝しました。このあたりも光太郎がよく歩いた一角ではあります。
 
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その後、本郷に行き、北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。
 
来年もお招きいただけると思いますので、やはりこのエリアで、光太郎智恵子光雲ゆかりの地などを訪ねようと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月13日

明治41年(1908)の今日、日本画家・橋本雅邦が歿しました。
 
狩野派の流れを汲む雅邦は、光雲同様、岡倉天心に見出され、初期の東京美術学校絵画科で教鞭を執りました。
 
天心がバッシングされた美術学校事件で、天心と共に辞職、日本美術院を立ち上げる明治31年(1898)まで美術学校に在職、光雲と同僚であった他、彫刻科でも臨画の授業を担当し、光太郎も教わりました。
 
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明治27年(1894)、美校の第2回卒業記念写真から採りました。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。

先週、妻が買い物に行きたいというので、日本橋のCOREDO室町さん、COREDO日本橋さんに連れて行きました。
 
ついで、と言っては何ですが、東京駅丸の内口にある東京ステーションギャラリーさんにも寄りました。現在、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」が開催されています。 
 
このブログで繰り返し書いてきましたが、今年は大正3年(1914)から数えて、光太郎智恵子結婚披露100周年、「道程」100周年です。そして東京駅の開業も同じ大正3年(1914)で100周年ということで、いろいろと記念イベント等がありました。限定Suica発売での大混乱のニュースは記憶に新しいところですね。
 
駅舎も6年にわたる改修工事が行われ、ほぼ開業当時の姿が復元されたということです。
 
で、ステーションギャラリーさんでは、この企画展です。東京駅に関わる美術作品の展示や、文学作品の紹介があるというので、また、妻が意外と鉄道好きなので、寄ってみました。
 
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展示のうち、ジオラマなどは撮影可でした。
 
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美術系では、石井鶴三(版画)、松本竣介(油絵)など、光太郎と交流のあった作家の作品が並んでいました。クロニクル的なコーナーでは、開業当時の駅付近の名所、ということで光雲作の楠公銅像の写真が載った冊子が、そのページが開かれて展示されていました。
 
また、これはちょっと驚いたのですが、つい先日のこのブログでご紹介した昭和27年(1952)12月14日の『週刊朝日』が展示されていたこと。
 
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石川滋彦の描いた東京駅丸の内口風景が表紙に使われていたためです。「この中に光太郎の文章が載っているんだよなぁ」と思いつつ、見ました。しかし、キャプションが「12月14日」ではなく「2月14日」となっていたのには閉口しました。帰りがけにアンケートボックスがあったので指摘してきましたが、その後、訂正されたでしょうか。
 
東京駅の駅舎は、関東大震災や太平洋戦争など、100年の間に何度か危機を迎えたそうです。しかし、そのたび保存の動きが起こり、今に至っています。そして今回の改修では、さらに100年後を見据えての改修がなされたとのこと。すばらしいですね。
 
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こちらはステーションギャラリーさん内部の階段です。当時の煉瓦が残っており、重要文化財です。
 
100年後、当方はもうこの世にいませんが、「東京駅開業200年」と大きく取り上げられているのではないかと想像します。もっとも、100年後にも鉄道というものがあるのかどうか、なんともわかりかねますが。一方の光太郎智恵子。100年後にも「光太郎智恵子結婚200周年」、「『道程』200周年」と、取り上げられていてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月29日
 
昭和33年(1958)の今日、画家・石井柏亭が歿しました。
 
石井は光太郎より一つ年長。病気のため中退しましたが、光太郎と同じ東京美術学校に通っていました。また、与謝野夫妻の新詩社や、「パンの会」で光太郎と親しく交わりました。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる、光太郎の有名な評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)は、その国や地域に固有の色調(地方色)を重視すべしという石井の論に反駁する、という意味合いもあって書かれました。しかし、仲が悪かったというわけではありませんでした。
 
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上記は明治37年(1904)、上州赤城山でのショット。左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、伊上凡骨、光太郎、石井柏亭、平野万里です。
 
ちなみに柏亭の弟は彫刻家の鶴三。やはり光太郎と親炙しました。上記ステーションギャラリーの企画展に鶴三作の版画も展示されています。

一昨日、浅草はアミューズミュージアムさんで、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」を聴いて参りました。
 
出演者の中村雅子様塙野ひろ子様須賀雅子様のブログにレポートがありますので、リンクさせていただきます。
 
浅草といえば、光雲・光太郎親子のホームグラウンドです。特に光雲は浅草の生まれです。そこで、朗読会が始まる前、少しだけ二人の足跡をたどってみました。
 
まず、浅草寺観音堂前の手水舎。光雲作の「沙竭羅龍王像」。
 
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明治36年(1906)の建立です。ただし、はじめは観音堂裏手にあった池に噴水があり、その噴水塔の上に鎮座ましましていたもので、のちに移転されています。
 
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こちらは当時の絵葉書。一見カラーですが、「手彩色」といって、色は手で塗ったものです。
 
像の迫真の表情、それから東韻光による天井画の龍も実に迫力があります。
 
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続いて観音堂の前を左折、奥山方面へ。奥山門を出ると「浅草花やしきさんがあります。
 
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光太郎、ここには美術学校時代によく通っていました。
 
動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。(「モデルいろいろ」 昭和30年=1955)
 
そんな無理が通った背景には、光太郎の祖父・中島兼吉がこの辺りの香具師(やし)の組、花又組の親分だったことも無関係ではないでしょう。
 
花やしきの前を過ぎ、少し行ったアーケード街を北上すると、老舗の牛鍋屋「米久さんがあります。
 
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光太郎は大正10年(1921)、この店を舞台に「米久の晩餐」という長大な詩を書きました。
 
    米久の晩餐
 
八月の夜は今米久(よねきう)にもうもうと煮え立つ。
 
鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり坐り込んだ生きものの海。
バツトの黄塵と人間くさい流電とのうづまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六官の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。
 

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き払つて
遠い海のオゾンを皆(みんな)の團扇(うちは)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら、酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁(とうりやう)、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎよく)にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……
 

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。
 

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌溂の力を心に育(はぐく)みながら静かに座を起つた。
 

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 
ここで昼食、と考えていましたが、まだ開店前でした。
 
この界隈にはその他にも光太郎光雲ゆかりの場所がまだまだあります。ただ、花やしきさんや米久さんのように、今も続いているところはそう多くはないのですが。また時間を見つけて、古地図片手に足跡をたどってみようと思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月26日

平成12年(2000)の今日、俳優の山村聰が歿しました。
 
山村さんといえば、昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」で光太郎役を演じられました。その時の智恵子役は原節子さんでした。
 
以前にも書きましたが、山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。
 
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画像は映画「智恵子抄」のパンフレットから。
 
山村さんご自身の言葉も載っています。
 
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いわゆる「オマージュ」。
 
光太郎・智恵子の世界も、さまざまな表現者の方が、それぞれの世界で表現してくださっています。ありがたいことです。
 
昨日は東京・千駄木のカフェギャラリー幻さんに行って参りました。こちらでは一昨日から「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」が開催されています。
 
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カフェギャラリー幻さんは、千駄木二丁目、不忍通りから谷中方面に一本入った路地にある貸しギャラリー兼カフェで、「文化系喫茶店」と標榜しています。その語感といい、たたずまいといい、いわゆる谷根千の雰囲気に非常にマッチしていました。

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ちなみに不忍通りを反対側の白山方面に入っていくと、高村光太郎記念会事務局兼・北川太一先生のご自宅ですので、この界隈はよく行くのですが、こういうスペースがあるとは存じませんでした。
 
路地裏ですのでそうと知らなければまったくわからないような所ですが、それだけに表通りの喧噪から遮断された一種のエアポケットのような空間でした。
 
中に入ると、適度の広さのスペースに、出品作が並んでいました。
 
胡子 × 夢野久作 『ドグラ・マグラ』006
     胡子 / Coco(写真)
さつかわゆん × 江戸川乱歩 『人間椅子』
    さつかわゆん / Satsukawa Yun(絵画)
皇流那 × 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』
   皇流那 / Sumeragi Runa(絵画)
高橋まや × 森鴎外 『舞姫』
   高橋まや / Takahashi Maya(絵画)
田島綾 × 内田百閒 『冥途』
   田島綾 / Tajima Aya(写真)
東マユミ × 夏目漱石 『虞美人草』
   東マユミ / Higashi Mayumi(銅版画)
連使 × 幸田露伴 『ねじくり博士』
   連使 / Renshi(立体造形)
 
そして光太郎・智恵子がらみで、
 
emi ogura × 高村光太郎 『智恵子抄』
   emi ogura / エミ オグラ(絵画・写真)
虚狐風雅 × 谷根千の文人たち
   虚狐風雅 / Kogitune Fooga(絵画)
 
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いい感じでした。
 
その後、こちらのオーナーで、イラストレーターもされているという小林義和氏とお話をさせていただき、御好意で4月2日の連翹忌の案内を置かせていただけることになりました。ありがたいことです。
 
会期は3/9(日)まで。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月2日

昭和53年(1978)の今日、日本橋高島屋において「花巻山居七年 高村光太郎展」が開幕しました。

1/4のこのブログでご紹介しました「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」が開催されます。
展示:2月28日(金)~3月9日(日)
文学さんぽツアー:2日(日)、8日(土)
営 業 15:00~22:00
休廊日 4日(火)・5日(水)
観覧料 無料
作 家 emi ogura 虚狐風雅 胡子 さつかわゆん 皇流那 高橋まや 田島綾
    東マユミ 連使
企 画 カフェギャラリー幻    笠原小百合(WEB文芸誌「窓辺」編集長)
 

谷根千ゆかりの文芸作品へのトリビュート美術展

カフェギャラリー幻のある谷中・根津・千駄木(略して谷根千)界隈は、夏目漱石・森鴎外・江戸川乱歩・川端康成など、多くの文人の旧居・旧跡がある「文豪に愛された町」です。そこで、谷根千にゆかりある文人・文芸作品をモチーフとした美術展を行います。

東京国際文芸フェス正式参加

本展は「東京国際文芸フェスティバル2014」のサテライト企画です。東京が本と文芸に染まるこの10日間、ぜひあなたも本とアートと地域について考えてみませんか?
 
以下の皆さんの作品で、光太郎が取り上げられるようです。 
 
emi ogura × 高村光太郎 『智恵子抄』 emi ogura / エミ オグラ(絵画・写真)
 
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虚狐風雅 × 谷根千の文人たち  虚狐風雅 / Kogitune Fooga(絵画)
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他の出品は以下の通り。
 
胡子 × 夢野久作 『ドグラ・マグラ』     胡子 / Coco(写真)
さつかわゆん × 江戸川乱歩 『人間椅子』    さつかわゆん / Satsukawa Yun(絵画)
皇流那 × 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』    皇流那 / Sumeragi Runa(絵画)
高橋まや × 森鴎外 『舞姫』    高橋まや / Takahashi Maya(絵画)
田島綾 × 内田百閒 『冥途』    田島綾 / Tajima Aya(写真)
東マユミ × 夏目漱石 『虞美人草』    東マユミ / Higashi Mayumi(銅版画)
連使 × 幸田露伴 『ねじくり博士』    連使 / Renshi(立体造形)
 
なかなか面白そうです。時間を見つけて行ってみるつもりでおります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月15日

昭和14年(1939)の今日、雑誌『月明』第二巻第二号に、山崎斌の「追憶」が掲載されました。
 
山崎は染色工芸家。油絵制作を断念した後の智恵子と交流がありました。
 
「追憶」には光太郎短歌
 
 ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
 
が引用されました。
 
これは、前年秋の智恵子の死に際し、山崎が送った
 
 袖のところ一すぢ青きしまを織りて
 あてなりし人今はなしはや
 
への返歌です。

一昨日、本郷で開かれた北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。そちらが午後1時からだったので、午前中は会場にほど近い谷根千地区を歩きました。東京の中でも当方の大好きなエリアです。ただ、正確に言うと千駄木には足を踏み入れませんでした。
 
スタートは鶯谷の台東区立書道博物館さん
 
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昭和11年(1936)の開館という老舗博物館で、元々は洋画家の中村不折が旧宅跡地に建てたものを、後に台東区が寄贈を受けて運営しています。
 
中村は慶応2年(1866)、江戸の生まれ。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。
 
ちなみに書道博物館の向かいは、子規の旧宅・子規庵です。
 
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中村はその後、島崎藤村『若菜集』『一葉舟』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を振るいます。
 
前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)に同会に通い始めた智恵子の指導にも当たりました。
 
その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。
 
中村は中国滞在を通して書にも強い関心を抱き、彼の地の書をたくさん集めた他、自身でも書に取り組みました。書道博物館はそうした中村のコレクション、中村自身の作品などを主な収蔵品としています。
 
現在、企画展「没後70年 中村不折のすべて―書道博物館収蔵品のなかから―」が開催中です(3/23まで)。
 
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中村の書画、装幀や挿画を手がけた書籍、子規や漱石、鷗外、伊藤左千夫らからの書簡や揮毫、ロダンのデッサン、不折が手がけた鷗外や守衛の墓標や新宿中村屋のロゴ(守衛の関係でしょう)の写真などが並んでいました。光太郎智恵子関連もあればいいな、と思っていましたがそちらはありませんでした。
 
面白いな、と思ったのは中庭にある小さな蔵。つい一昨年、道路拡張工事のおりに近くで偶然発見され、明治の写真から不折が建てさせたものと判明し、修復して移設されたそうです。
 
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こういうこともあるのですね。
 
その後、書道博物館を後にし、言問通り沿いに谷中、根津を歩きました。
 
途中に台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」がありました。
 
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明治43年(1910)に建てられた005商家建築で、入場無料です。
 
外国の方を含め(写真を撮ってあげました)、けっこう観覧者がいらっしゃいました。
 
店内には当時のものと思われるレトロな看板やポスターも。着流しにハンチングを被った光太郎が貧乏徳利を提げて今にも出てきそうです。
 
ただ、当方の住む千葉県香取市佐原地区にはこの手の古い商家建築が多く、しかも現役で営業しています。何軒か有る酒屋さんもまさに似たような感じで、店内にはこうした看板やポスターが無造作に貼られています。
 
それで思い至ったのですが、自分の住む街と似ているのでこのエリアに親近感を抱くのだと思います。
 
今週また、上野の東京国立博物館で始まる「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出されされた美、伝えゆくわざ―」を観に行きますので、近くを歩いてみようと思っています。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月13日

大正7年(1918)の今日、『読売新聞』に雑纂「白樺美術館について」が掲載されました。
 
この当時、「白樺美術展」を開催していた同派は美術館の建設を構想しており、光太郎も賛同していました。しかし諸般の事情で実現には至りませんでした。

昨日は斯界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長であらせられる北川太一先生を囲んでの新年会にお招きいただきまして、参加させていただきました。
 
主催は北川先生が都立向丘高校に勤務されていた頃の教え子の皆さんである「北斗会」さん。何人かの方は連翹忌にもご参加下さっていますし、一昨年、昨年と、8月に宮城・女川で開催されている「女川光太郎祭」にも足を運ばれています。
 
会場は東大前のホテルフォーレスト本郷さん。そちらのレストランを借り切って、30名ほどの参加でした。
 
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今年は北川先生から年賀状が来ず、お加減がよろしくないのでは? と心配しておりましたが、昨日、宴席の名札を兼ねた形で直接いただきました。
 
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「美し国 迅く甦れ うまの年」。「美(うま)し」は万葉の時代から使われている語で、満足すべき状態、十分で申しぶんない、といった意味ですね。今年の干支の「午(うま)」と「うまし」をかけてらして、ウマいと思いました。
 
北斗会の皆さんは、教え子とは言う条、終戦直後、新制高校になってすぐの頃に高校生だった80代の方もいらっしゃり、70代の方がご挨拶の中で「私ごとき若輩者が……」とおっしゃっていました。ある意味凄い世界です。
 
北川先生の奥様、ご子息、また、向丘高に勤務されていた方々もご参加されました。その中のお一人、北川先生の御同僚だった高原二郎氏は、『有島武郎全集』の編者。同時期に有島研究、光太郎研究それぞれの泰斗が机を並べられていたという、これもまたある意味凄い世界です。
 
ちなみに当方の学生時代の恩師も有島研究者ですので、もしやと思ってお訊きしてみたところ、ツーカーの仲だそうで、世間は狭いな、とも思いました。
 
世間は狭い、といえば、昨日、一昨日のこのブログにご登場いただいた高村光太郎研究会主宰の野末明氏も向丘高勤務経験がおありだということで、会に参加されていました。そうとはつゆ知らず、『高村光太郎研究』の原稿を郵送してしまいました(笑)。
 
こちらの新年会は午後1時からでしたので、午前中は会場にほど近い谷根千エリアを歩きました。明日のブログにてレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月12日

昭和10年(1935)の今日、雑誌『上州詩人』第17号にアンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」、書簡が掲載されました。
 
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10年ほど前に群馬県立土屋文明記念文学館様のご協力により見つけました。光太郎、こうした地方の同人誌的なものに作品を発表する機会が多く、なかなかその全貌がつかめません。
 
書簡はこの前年『ボオドレエル詩抄』を刊行した同人の松井好夫に宛てたものです。
 
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